2019年7月23日火曜日

偏愛メモ『白蓮と傳右衛門そして龍介』

はじめに


大正時代は、十五年間という短い期間の割には波乱に富んでいた。

ちょうどいまから一〇〇年前の大正三(一九一四)年に、日本は第一次世界大戦に参戦し、それにともなう軍需景気で成金が出現し、七年に戦争が終わると一転して戦後不況により労働運動が激しくなった。

一方で、民主主義が叫ばれ、婦人解放意識が高揚し、芸術、文学面では新しい分野が注目されるようになる。封建制と近代性が波打つようにぶつかり合っていた時代は、関東大震災(大正十二年)で首都圏が壊滅的となり、震災不況で昭和へとなだれ込んでいくが、わずか十五年のあいだに、一つのエポックが築かれたといっても過言ではない。

こうした起伏のあるはざまで起きたのが、柳原白蓮(本名燁子)にまつわる「白蓮事件」だった。

NHK連続テレビ小説『花子とアン』(朝ドラ)が、高視聴率を保ちつづけ、支持されたのは、主人公村岡花子の真摯な生き方への共鳴と、夫婦、家族愛にあるのはむろんのこと、花子を取りまく登場人物の多彩さにも理由がある。

つまりドラマの蓮子と、彼女より七つ年下の恋人宮本龍一、蓮子の夫嘉納伝助という三人の、大正という時代を一身に背負っていたかのようなキャラクターのストーリー性にも目が離せないからだ。

時代を背負っていたと言ったのは、一代で富を築きあげた筑豊の炭坑主、生まれながらの華族の妻、東京帝国大学卒の革新系活動家のそれぞれの生き様が、資本家対革新系青年、封建制対近代性とからみ合うようにして進行しているということである。

これは実際の「白蓮事件」も同じであり、そうした意味で、「事件」は時代の特殊性を色濃く映しだした出来事だったといえる。

(略)

第四幕 薄幸の佳人 P94-119(tw)

4.1 伊藤博文を振った柳橋の芸者おりょうが白蓮の母 P94-97
(P94)

P94 明治一八(一八八五)年一二月に日本の初代首相となった伊藤博文は、なかなかの艶福家で、視察で地方に行くと「どんな女性がお気に召すだろうか」と、地方官吏は頭を痛めたという。

その伊藤が、ご執心となった女がいた。東京浅草柳橋の芸者おりょう、白蓮の母となる女性である。色白の、あどけなさが残るまだ十六歳、伊藤は昨一五年ヨーロッパへ派遣(注1)され、この年つまり明治一六年八月に帰国したばかり、四二歳の男ざかりだ。

おりょうを見初めた男はもう一人いた。外務の高官で、公卿の柳原前光、三三歳。こちらは、やさ男でなかなかの美男子だ。やがて伯爵となる人である。おりょうには姉のえつがおり、えつも柳橋の芸者だった。後年、白蓮はこのえつに会って、母のおりょうにについてたずねている。(略)自伝『火の国の恋』で披瀝している。
私ども(えつとおりょうの姉妹)の父は新見豊前ノ守と申しまして幕末の旗本。その当時の外務大臣のような役柄で、日本で初めてアメリカに大勢の供をつれてゆき、当時の大統領に会いに参りました。(略)

その後、幕府が倒れ、維新となりまして、父が亡くなり、姉妹二人が母を抱えてどうしようもなく、二人は柳橋から芸者に出て母を養っておりました。妹(おりょう)は、伊藤博文と柳原(前光)様とにひかして(身請け)下さる話がありましたが、伊藤さんには女出入りがあまりにもはげしいので妹がいやと申し、柳原様のお世話になることになりました(以下略)。
おりょうは、一六歳ながら政界切っての要人である伊藤を、女好きを理由に振ったといっているのである(tw)。

「へど吐いた顔まで美しい」(同書)といわれたおりょうは、柳原に身請けされ、やがて柳原の別邸で女の子を産むが、わずか二〇歳になるかならずのうちに死んだ。

姉のえつは、「(私は)吉原遊郭の中で、吉田親分と言われた男が、母を大切に親孝行するからという条件で、吉田の女房となり、吉田は約束通り、母には贅沢三昧をさせてくれました」と白蓮に語っている。

白蓮の母おりょうとその姉えつの父、新見豊前守とは新見正興のことで、安政六(一八五九)年外国奉行となり、日米修好通商条約のための遺米使節正使に任命され、万延元(一ハ六〇)年正月、七〇余人をひきつれて米艦ポーハタン号でワシントンに行き、ブカナン大統領と批准書を交換した歴史上の人物である(twtw)。

新見の渡米したこの年は、偶然にも伊藤傳右衛門が生まれた年であった。

新見は、維新後上総(千葉県)人見村で田畑を耕しながら余生を送り、明治二年一〇月一八日に死去した。娘が三人いたが、長女は北海道に嫁ぎ、おりょうとえつが家にいた。

おりょうが伊藤博文を袖にしたのは、父の属していた幕府を滅ぼした長州人の伊藤を嫌ったからだと、当時ささやかれたという。

おりょうたちの母親は、徳川家大奥の御殿奉公をしていた。しかし、幕府崩壊で奉公も免ぜられ、大身の旗本たちも戦がなく困窮した。夫の新見が亡くなったのちは、娘を芸妓に出さなければならない状態だったのだ。

おりょうが出産したのは、柳原家にきてから二年後の明治一八年一〇月一五日、ちょうど鹿鳴館時代はなやかなころだった。きらびやかなこになるようにという願いでつけられた名が燁子。

柳原家は、藤原北家藤原冬嗣(注2)の兄真夏の末裔で、権大納言藤原俊光(注3)の四男が京都・柳原殿に住んだことから柳原を名乗ったという由緒ある家柄である。

江戸末期の当主、P97柳原光愛も権大納言で、その二男が燁子の父光前、光愛の二女愛子は宮中にのぼり、やがて大正天皇の母となる。系図からいうと、愛子は燁子の叔母にあたることになる。

前光は明治一七年(一八八四)華族令が公布されると、これまでの経歴などから伯爵となった。華族は叙爵内規で公、候、伯、子、男の五爵にランキングされ、前光はこの内規の最終案づくりに関与した。だが、伯爵といっても家系はかなり逼迫したという。

4.2 四人の母をもった幼少期 P97-99
燁子は生後七日目におりょうの手から離されて、柳原家に引きとられる。正妻が入籍を急いだのだ。前光には正妻初子とのあいだに実子義光と信子がおり、こうして腹ちがいの燁子は、同家の二女となった。入籍が急がれたのには、わけがあった。

宮中に召されていた燁子の叔母にあたる前光の妹愛子の侍女梅が、愛子の使いで柳原家に出入りしているうち前光に目をつけられて、邸内で同居することになった。妻妾同居である。

子が生まれない梅は燁子をひきとって養女にしようとしたが、前光の妻初子はそれをみとめず、早々に燁子を生母おりょうの手からひきとって、正式に柳原家の二女としてしまったという。

P98燁子は梅の養女とすれば、梅はずっと前光とつながりをもち、妻と対等の立場になっていく。柳原家に入籍してしまえば、おりょうと梅の二人を遠ざけられると考えたのだろう。生後七日の赤子をひきとったのはそうした理由だった。

初子は、宇和島伊達家の出で、実家には相当の資産があった。その資産で柳原家は維持しているようだったので、それだけに発言力も強かったのだろう。初子は赤子のうちから引きひきとった関係からか、実子である長女の信子よりは、二女の燁子をかわいがったという。

公卿の家では、里親制度がまだつづいていて、風習として五、六歳まで他人の家に預けた。「ケガレ、つまり不浄ということを非常に嫌うきびしい戒律みたいなものがあって、赤ん坊を育てていると、汚いものなど始終手にしたりするのをいとうからではないかと思います」と彼女は自伝でいう(花子とアン35clip)。

燁子を引きうけたのは「昔刑場のあった品川の鈴ヶ森近くの植物屋」で、増山という種屋だった。東海道沿いにあり、浜川が海にそそぐところで、夏にはホタルが飛ぶ当時はまだ田舎だった。

乳母(実質的な養母)はお国といい、幼い子がすでに二人いた。彼女は小学校に入るまでお国に育てられ、二五(一八九三)年麻布桜田の柳原本邸にもどり、二年間麻布南山小学校にかようことになる。

P99初子は、里親からもどってきた燁子を、やはり実子のようにあつかった。「なさぬ仲の本性」がしだいにはっきりしてきて、いじめられたこともあったが、「どうしてもこの母(初子)への思慕は消えない」と自伝はつづる。

燁子が一〇歳のときのニ七年春、彼女は、こんどは柳原家の分家にあたる子爵北小路随光(注4)家に養女に出された。したがって彼女は実母のおりょうのほか、お国、戸籍上の母初子、さらに北小路の義母と計四人の母親をもつことになった。

北小路家は、貧乏華族のくせに格式だけは高く、女中が二人いたが、彼女は父母と同じ部屋の居間で寝起きしたという。小石川の護国寺近辺の北小路家から麹町永田町の華族女学校(現女子学習院)に、毎日徒歩でニ里(八キロ)くらいの道を通学した。この年の秋、父の前光が死去した。

4.3 一六歳で子爵の息子と結婚、五歳の長男を残して実家に戻る P99-
北小路家には七つ年上の資武がいた。「学校を二度も落第した人」で、資武は燁子から「嫌われいるのを恨み」、ときどき「妾の子のくせに生意気言うな」とののしった。

彼女は彼と同じ屋根の下に住むのが苦痛で、家出をしようか死んでしまおうかと悩んでいるうちに、P100実家の母の初子から「資武と結婚しなさい」と兄の義光ともども説得され、「身も心も殺す覚悟」で三三(一九〇〇)年の夏、一六歳で結婚した--と自伝で書きとめている。

燁子がくる前に、前光の弟が北小路家の養子になり、跡を継ぐことになっていたのだが、随光が女中に生ませた資武ができたために、前光の弟の養子縁組は解消され、そのかわりに燁子が養女となり、資武と結婚することになったのだ。

結婚により華族女子学校は中退することになり、翌年四月に長男功光を出産したが、燁子はどうしても資武について行けず、三八年、ついに結婚は破れ、若妻は、五歳の功光を北小路家に残して実家の柳原家にもどる。

初子は、燁子の破婚で分家北小路家との間にヒビが入ったと怒った。分家との関係がおかしくなるよりも、伯爵家の体面がゆるさなかったのだろう(花子とアン30clip)。

燁子は、初子が隠居場所にしている麻布笄町の居宅一室に移された。移されたといえば聞こえがいいが、人目をさけての閉居状態の軟禁にひとしかった。

P101腹ちがいの姉の信子(初子の実子)とは仲がよかったが、信子を訪れることもできなかった。しかし、信子はしょっちゅうたずねてきて、文学書や雑誌を持参してくれたので、彼女は書物、雑誌をつうじて世間を知ることができた。

このころ『新潮』『手紙雑誌』『女子文壇』『婦人画報』など新しい雑誌が続々発刊されていた。彼女はそれらを友として読みあさった。信子は、のちに東宮侍従長になる入江為守(注5)の妻となる。

この時期は、ちょうど日露戦争が終わりかけていた時期だった。

「ラッパ節」の歌が流行する一方、厭戦歌といわれた「戦友」や、雑誌、書物でも反戦ものが多く、木下尚江の『火の柱』や小杉未醒の『陣中詩篇』、三七年に『明星』に発表された与謝野晶子の「君死にたまうこと勿れ(花子とアン35clip)」の詩などをめぐって論議が巻きおこり、戦勝後の条約締結の内容を不服とした民衆が三八(一九〇五)年九月、暴徒と化した事件(日比谷焼き討ち事件)なども、新聞や雑誌類で知ることができた。

しかし、二〇歳を少し過ぎた若い女には退屈する毎日である。

彼女はまもなく、屋敷をぬけだして、子どものころすごした品川の乳母のお国のもとに身をかくす。結局はつれもどされてしまうのだが、初子の禁足状態はまちがいと考えて、彼女が希望する学校への入学を承諾する。

その学校は東洋英和女子学校で、入学したのは四一年春、彼女は二四歳になっていた。ここで年下の、のちに翻訳家となる村岡花子と親交を深める。寮生活をして自由を満喫し、歌人佐佐木信綱(第一幕の注1参照)の団体、竹柏会に入る。のちの歌人白蓮の誕生である(花子とアン38clipfull)。

(略)

4.7 情熱的な男宮崎龍介との運命的な出会い P115-118
(P114-)

P115 そして彼女に真実の恋が芽生えた。宮崎龍介の出現である。宮崎は、社会運動家の宮崎滔天の子であるのは述べた。滔天は中国通で中国に知己が多く、孫文の日本滞在中の支持者として知られ。宮崎龍介は毎夏、上海の宮崎家の別宅で一夏すごしたという。

東京帝国大学で吉野作造教授に師事したのも、吉野が中国に関心をしめしていたからだといわれており、父の影響を強く受けていた息子だった。天皇を襲撃する計画が発覚したとされた大逆事件で嫌疑をかけられ、のちに中国問題にかかわった宮崎民蔵は滔天の兄であり、叔父である。

大正八年六月、吉野ら教授達の機関誌「解放」が創刊され、宮崎龍介は大学を卒業すると「解放」の編集者となる。一方、白蓮はこのころ、戯曲を書いていた。詩劇『指鬘外道』。七日のうちに一〇〇人を殺すと成仏するといわれた人が、最後に母親の命を奪う段階で仏に救われるという仏教説話を劇にしたものだ。

この原稿は、東京の出版社大鐙閣にもちこまれた。たまたま大鐙閣は「解放」の版元であり、歌人として知名度のある白蓮の本なので、序文を書いてもらうことになり、そのうちあわせをかねて、編集者として宮崎が白蓮のもとに出張に出かけることになった。もともと宮崎は熊本県の出身であり、そんなところも関係していたのだろう。彼は、九年(一九二○)夏、別府の別荘で白蓮と会う。

白蓮にとって、彼は、これまでに出会ったことのない情熱的な男だった。初婚の相手の資武はなよなよして頼りなかったし、いまの夫の傳右衛門は逆に荒々しく、経営以外のことはまったくわかっていない、九州帝国大学の教授は歌も詠み、紳士であこがれをいだかせるが、あこがれ以上のものではない。

しかし、書生っぽい宮崎龍介は、そのどの男たちともちがっていた。(略)P118恋心を意識しないままに、十六歳で北小路資武の妻となり、それが頓挫して男性とのつきあいを知らずして、元炭鉱労働者と結婚した。恋、恋、恋---恋を恋する彼女の心に、火がついた。(略)

それから以後、彼女のはげしい胸のうちを歌にほとばしらせ、こがれる気持ちをたたきつけるような手紙を、宮崎のもとにせっせと書き送った。ときには電報で、歌による恋心まで宮崎の机のもとにとどけたといわれている。

  関連→『娘が語る白蓮』(参照tw

第五幕 開幕ベルはスクープで P122-164

5.1 朝日新聞が社会面全部つぶし...白蓮事件 P122-126
(P122-)

5.2 絶縁状は白蓮が下書き? P126-134
(P126-)

P128 同日夕、大阪朝日はふたたびスクープした。絶縁状の公開である。これは、その朝の白蓮失踪の記事より読者をさらに刺激した。とうぜん赤松、宮崎はじめ何人かは、あらかじめ絶縁状を読んでいたと思われる。白蓮がすすんで書いたのではなく、新人会グループが書かせたことも否定できない。

原田は白蓮の絶縁状について「文章は赤松氏が白蓮さんの心になって書いたのだというが、真偽のほどは知らない」(前出、「文藝春秋臨時増刊号」)としているが、当時友愛会鉱山同盟理事だった赤松が添削して彼女の名で公表した疑いはぬぐい切れない。文章自体かなり客観的な表現があるので、原田証言は当たらずとも遠からずといってよい。

この点について、宮崎は「文藝春秋」昭和四ニ年六月号での手記『柳原白蓮との半生記』で「絶縁状は燁子と赤松君と私と相談の上書いた」と書いているからだ。すくなくとも、大スキP129ャンダルとなった白蓮事件は、後述するように、東京帝国大学新人会グループがバックアップ、新人会の関係者である早坂ら朝日がスクープしたのは事実だった。

このことを敷衍していくと、白蓮事件とは、赤松、宮崎ら社会運動家対資本家傳右衛門の構図となり、インテリ・グループ対元炭坑労働者・伊藤傳右衛門との図式にもなる。最初から傳右衛門は、白蓮を利用してターゲットにされていたとの見方もできる。

もう一度、第一幕の絶縁状に目をとおしていただきたい。この内容は、何かに似てはしないか、とだれしも思うであろう。そう、内容はノルウェーの劇作家、イプセンの戯曲『人形の家』、そして文面は、主人公のノラの言葉に。三人の子どもをもうけた妻ノラが、自立のために子どもまで捨てて家を出ていくという劇は一八七九(明治一二)年に初演され、独立した人格にめざめた近代女性を描いた社会派の作品として全世界で評価を得ていた。

「まる八年の間(略)あたしたちが初めて知り合ったその日から、真面目な事柄について真面目に話し合ったことはまだ一度もございません」「(この家にきて)ちっとも幸福ではありませんでした。幸福だと思っておりましたが、実はすこしもそうでなかったのです」「(あたしは)この家ではあなたの人形妻でした」とノラは主張する。

「人形のように生きるよりは」と家出したノラは、そのまま燁子におきかえてもよいくらいである。まるで、燁子(とおそらく赤松ら)は、自分(おそらく燁子)をノラに見立てて、離縁状を書いたとさえ思わせる。ただ一点「恋のため」ということばを除けば。

(P132-)

P131 実際の傳右衛門はどうだったのか。彼についての麻生太郎元総理の言葉がある。当時総務大臣だった麻生は『筑豊の石炭王 伊藤傳右衛門』(平成一七発刊)で「序」を著し、次のように書いている。
「伊藤傳右衛門翁については、とくに白蓮女史との対比で、真実の人間像とは余りにもかけ離れた虚説が世間一般に流布されているのが実情です。私の曽祖父麻生太吉は傳右衛門翁と親交があり『麻生太吉日記』にも最も頻繁に登場する人物のひとりであります。

明治期の経営者の志の高さについて、私はつねに畏敬の念を抱いているところですが、本書の公刊が誤れる傳右衛門像の正しい評価への橋渡しとなることを心から期待している次第です」。
白蓮は、華やかなヒロインと喧伝されていったのに対し、傳右衛門は成金の炭坑王で、金にものいわせて威勢を誇るという間違ったイメージがつよくなり、時代を経てもなかなか虚像が払拭できてこなかった、と麻生の「序」は述べているのである。志高い実業家だったと言っているのだ。



第七幕 巻き込まれた宮中 P204-237

7.3 右翼団体黒龍会の介入 P211-214

P212 この記事には黒龍会のボス、内田良平の談話も掲載されていて、その内容は「柳原燁子のごとき破倫の行為は、実にわが皇室典範のすべてを覆すもので、宮内省でも取調べなし、柳原(義光)伯も最初親族会議の結果、隠居して燁子を監視することと伝えられたが、その後右様のことなく、殊に燁子を離籍するがごときは(略)ますますうち捨て置けない(以下略)」と激越したものだった。

これはあきらかに右翼の皇室、個人への介入である。白蓮が宮中につながりのある身とはいえ、事件は市井の一事、家庭内の出来事であり、それを盾にして、貴族院議員や宮中の人事にまで手を突っ込んでこようというものであった。P213宮中は、牧野大臣が義光に語ったように、右翼の容喙はあらかじめ予期していたから、さまざまに対策をこらしていた。

牧野は、前年一二月の時点で「柳原義光は燁子を離籍(柳原家からの離脱、改姓)することにしたようだが、離籍はしばらく見合わせたらどうだろう。これは私の意見ではなく、警視総監の岡喜七郎が、先日、法律に違反しない範囲で幾分のことはできると話していたので、岡君と相談したらどうかね」と、東宮侍従長の入江為守にすすめていた。むろん離籍すれば右翼がさわぐのを見越してのことだ。

花子とアン 蓮子と伝助、痛快愛ほか場面集(相互参照)
51クラシック演奏会
52蓮子の兄の金の無心、高い芸者、竹久夢二(相互参照)
54短歌の会、歌集
57炭坑事故、初めて見せた伝助の優しさと妻の本分
63伝助の愛とは?→身分と顔w
51         52        54         57        63


87蓮子、はなを龍一に紹介しようとカフェで待ち合わせ。そこに、夫伝助と龍一が、…修羅場かと思いきや
90籠の鳥、自由になりた~い
93駆け落ち、カウントダウン。1921年大正10年夏
95駆け落ち決行、1921年大正10年10月20日
97伝助宛の絶縁状が龍一の革命仲間の手によって新聞に公開されてしまう
87         90        93         95        97


98伝助の意図に反して反論文が新聞に公開されてしまう
101伝助は蓮子の居場所を求めて花子の家を訪れる。居合わせた龍一を最初殺す勢いだったが、蓮子に子が出来ていることを知ると出産祝いにと小切手を龍一に渡して立ち去る。離婚届を蓮子に荷物とともに届ける
102花子の甲府の実家に身を寄せていた蓮子であったが、兄の葉山伯爵に連れ戻される
103 1922年大正11年夏、蓮子、男子出産。伝助、俺が愛した女に手を出すなと、伯爵らに釘を刺し、この件を落着する。伝助は人格者だ
106関東大震災1923年大正12年9月1日11時58分。蓮子、華族の籍を抜き平民となり自由の身となる
98         101        102        103       106


112 1926~27年の頃。伝助、蓮子再会、和解。花子、学友の投資や銀行融資(伝助の斡旋)で『王子と乞食』出版の目処が立つ
121 1932年昭和7年5月、花子は児童文学の翻訳に没頭、青凛社雑誌「家庭」創刊、記念祝賀パーティ。蓮子、「半生記」が映画化(相互参照tw)、中国服(相互参照)
126 0900「ごきげんよう、さようなら」に込められた意味(tw)
133 0219それぞれの役割(tw)1938年昭和13年夏(相互参照)、蓮子と宇田川満代、ブラックバーン校長帰国、吉太郎が花子に蓮子に距離を置けと告げる
134龍一、和平工作の件で、憲兵隊に逮捕される(tw,相互参照)。花子、蓮子に誤解される。
112        121        126        133        134


139 03:53~大日本婦人会(tw)、07:00~醍醐、シンガポールへ。龍一は再び和平工作に家を出る
146 原子爆弾投下、玉音放送、0850「Anne of Green Gables」翻訳完了、1000純平戦死
156宇田川満代が赤毛のアンを片手に花子を訪ねる。ありふれた日常を輝きに変える言葉がちりばめられたこの小説は、まさに非凡に通じる洗練された平凡であります
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