2019年11月20日水曜日

偏愛メモ『茶の本』

第一章 人情の碗
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P21 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある(tw)。

第三章 道教と禅道
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P41 まず第一に記憶すべきは、道教はその正統の継承者禅道と同じく、南方シナ精神の個人的傾向を表していて、儒教という姿で現れている北方シナの社会的思想とは対照的に相違があるということである(tw,tw)。

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P45 道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。もののつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。

われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「」という得意の隠喩で説明している。

物の真に肝要なところはただ虚にのみ存在すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのもにはない。

P46 水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことができる空所にあって、その形状や製品のいかんには存在しない。はすべてのものを含有するから万能である。においてのみ運動が可能となる。

おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。

道教徒のこういう考え方は、剣道相撲の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわちによって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。

芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成させる機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけて人が実際にその作品の一部となるように思われる。は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている(tw,tw)。

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第四章 茶室
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P63「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いているいることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現れた結果である。

儒教の根深い両元主義も、北方仏教の三尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために不断の努力をしたことが認められるであろう。

わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。

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