第九章 ヴァリニャーノ入京 P162-174
(P162-)P162 アレッサンドロ・ヴァリニャーノはナポリ王国生まれのイタリア人、パドヴァ大学で法学を学び、一五六六年にイエズス会に入った。入会後も哲学・物理学を学ぶなど、当時第一級のエリートで、七三年に東インド管区の巡察師に任命された。
そのころインド派遣を希望する会員は引きも切らず、オルガンティーノのごときは志願して九年目に望みを達する有様だったが、ヴァリニャーノの場合、志願して数カ月後に巡察師に任じられた。東インドは日本も含むイエズス会最大の管区で、様々な問題を抱えていた。
イエズス会のヴァリニャーノにかけた期待を大きかったのである。このとき彼はまだ三四歳だった。ヴァリニャーノは一五七四年にインドのゴアに着き、約三年の間、混乱を極めた現地イエズス会の状態の改善につとめ、七七年ゴアを発って日本へ向かった。
マカオを経て肥前の口之津についたのは一五七九年七月である。ザビエルに遅れること三〇年だった。
彼が日本についたころのイエズス会の状況は、前年の大友宗麟の入信等、表面の教勢伸長にもかかわらず、内実は甚だ憂慮すべきものがあった。問題は布教長カブラルの日本人観と、それにもとづく会内の日本人の扱いかただった。
カブラルはもともと日本人に好意を持たなかった。はるか後年であるけれども、一五九六年にP163書かれた彼の書簡は彼の日本人観を率直に吐露している。「私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操、かつ欺瞞にみちた国民を見たことがない。(略)」。
信長KOZ44 MAGI01.1 MAGI01.2 MAGI01.3 MAGI01.4
こういう考えの上長によって指導されていたのだから、日本に着いたヴァリニャーノが見出したイエズス会の現状は、おなじ修道士でさえ、日本人は衣服から待遇まで差別され、ラテン語やポルトガル語の学習も許されず、会の実務を支える同宿も含めて、低級な国民と呼ばれる有様だった。
カブラルは「結局のところ、お前たちは日本人である」というのが口癖で、一方まるで従僕扱いされる日本人修道士・同宿は、司祭たちに愛情を抱かず、不満が鬱積した。カブラルの二度の畿内巡察に通訳として同行した日本人修道士ジョアン・デ・トルレスは、生後八日目にかのコスメ・デ・トルレスから受洗した人物だったにもかかわらず、ついにカブラルから離反するに至った。
日本イエズス会刷新の決意
ヴァリニャーノによれば、カブラルは日本の風習を悪しざまにいうのが常で、他の同僚もそれに見習って日P164本の風習を見下していた。カブラルは修院内で高い机で食事し、テーブルクロスやナフキンを用いたが、それが甚だ不潔なので日本人は嫌った。
彼は肉を常食としていた。修院内には豚や羊を飼い、牛を解体してその皮を吊るして乾燥させ、売却した。日本人はそれを嫌った。修院の台所が油の臭いで充満しているのも、訪れる日本人には不快に感じられた。「キリスト教徒の間には冷たい空気が支配し、教会を訪れる者は稀であり、・・・もっとも著名なキリスト教徒の殿達はカブラル師を嫌い、彼に逢おうとはしなくなった」。
宗麟だけはカブラルとつきあっていた。だがその彼でさえ、ヴァリニャーノに「キリスト教徒の間のあらゆる冷たい態度は、司祭たちが日本人を遇する方法を知らぬからである。自分の国ではそれでよかろうが、日本人を改宗させようというのなら、日本語を学び、日本の礼法に合うように生活せねばならぬ」と忠告した。
有馬晴信と大村純忠は教会側の態度の誤りや宣教師の日本人に対する無礼や気の利かなさを指摘し、「神社仏閣の破壊は、司祭たちが教理に反するというので不本意に行ったにすぎない。われらの国に住んでいる司祭たちが、日本の美しい習慣や高尚な態度を学ぶよう努力せぬのはまったく無知なことと思われる」と語った。
ヴァリニャーノはカブラルの日本人観にまったく反対だったわけではない。日本人のことを「彼らは見出しうる限り偽装的で不正直な人々である」という以上、彼もまたカブラルの指摘する日本人の一面を感じとっていたのだ。日本人は胸中の感情を敵に対してもあらわにせず、表面は親睦しながら折を見て冷然と殺すと彼はいう。
また、カブラルのいう下克上的傾向を認めていたことは、日本ほど運命の変転の激しいところはなく、強大な人物が一夜のうちに没落し、とるに足りぬ人物がとって替わるといっているのでも明らかだ。しかし、彼はまた日本人の美質も誤たず見抜いていた。
彼はいう。日本人はきわめて礼儀正しく、下層の民衆もその上品なことはまるで宮廷の使用人のようだ。有能で理解力がすぐれ、子供たちはヨーロッパの子供より早く欧語で読み書きできるようになる。名誉と面目を重んじ、下級の民衆に対しても礼節を尽くさねばならぬほどだ。また、P165 信じられぬほど忍耐強く、苦しみや不幸を耐え忍ぶ、優雅で礼儀正しい点と理解力の点では、彼らはわれらヨーロッパ人を凌ぐほどすぐれている。
しかし、日本人とその文化をどう評価しようと、それより肝心なのは、自分たち外国で暮らす以上はその国の風習に適応せざるを得ぬという事実だとヴァリニャーノは考えた。日本人の性質や風習に文句をいったってが仕方ない。
その国で布教を行うと決めた以上、それを同情的に理解し、自分たちがそれに適応するしか途はないのである。また、日本宣教は日本人の修道士や同宿の助けなしには絶対に不可能である。言語の点だけから見てもそのことは動かない。宣教が根づくためには日本人自身の司教の養成が欠かせない。
である以上、イエズス会が日本人を積極的に入会させるのは当然至極な措置である。以上二点は彼のかたい信念だった。
カブラルの抵抗に手を焼くヴァリニャーノ P165-167
ヴァリニャーノは日本渡来以前、カブラルの要請に応えて、ニ六名に及ぶ司祭・修道士を日本へ送りこんでいた。その際彼は、彼らが最良の教師のもとで日本語に習熟するように措置されたいとカブラルに伝えていた。
ところが、日本に着いてみて彼は、前記の司祭・修道士たちがまったく日本語教育を受けていないことを知った。そのことをなじると、カブラルは一笑していう。「貴師が日本語を学習によって容易に学び得ると思うのは、日本語を知らぬからである。
才能のある者でも日本語で告白を聴けるようになるには少なくとも六年、説教をしうるには一五年以上かかる。異教徒に対する本来の説教など全然考えられない」。ヴァリニャーノは第一歩からカブラルの抵抗にぶつかったのである。
しかし、日本人の修道士や同宿と話すのにも通訳がいるといった現状を放置しておいていいはずがない。日本で最初になさねばならぬのは、ヨーロッパ宣教師が日本語を学習する条件をととのえることだ。P166彼はこののち日本語文典と日葡辞典の作成につとめ、その成果はやがてロドリゲス・ツズの業績となって現れる(第一二章にて後述参照)。
だが、カブラルとの対立はもっと根本的な局面へ展開した。ヴァリニャーノが日本人を対等のメンバーとしてイエズス会に迎えいれようとしたのに対して、カブラルは強烈な抵抗を示したのである。そんなことをしたら、下剋上の習性をもつ日本人は勝手なことをやり出して、日本イエズス会は滅亡する。
日本人はあくまで下級メンバーとしてヨーロッパ人に奉仕せねばならぬというのだ。カブラルは日本人会員がラテン語など高度な学問を学ぶことにも反対だった。日本人に主導権を奪われるのをおそれたのである。
日本の風俗・習慣に適応するというヴァリニャーノの方針にも彼は理解を示さなかった。彼は日本の風習を劣ったものとして嘲笑するのを常としたという。ヴァリニャーノはカブラルの抵抗に手を焼いた。のちに手紙の中で「日本を指導する布教長がなんらの理解を示さず、私の案を決して容れようとしなかったことはもっとも私を苦しめた」と書いている。
ヴァリニャーノは当然都地方の巡察を行うことを考えていた。しかし、一五八〇年七月に長崎に入港した定航船が、インドのイエズス会の内部に動揺がひろがっているという情報をもたらした。ヴァリニャーノはインドへ帰還すべきかどうか同僚に諮問したところ、カブラルとコエリュはそりゃ帰るべきだという。
都地方を巡察するなど無用のことだともカブラルは主張する。自分が十分見廻ってきたといいたいのだろう。とにかく二人はヴァリニャーノをインドへ追い返したかったのである。しかし、ヴァリニャーノの決意は逆にこれで固まった。
インドへは帰らない。日本イエズス会刷新の方針は断固貫徹する。八月の末になるとカブラルが日本布教長を辞職すると言い出した。ヴァリニャーノの決意の前には、そんな形で反抗を示すしかなかったのだ。カブラルのその後をいえば、八三年に離日してマカオの上長となり、九二年にはゴアのインド管区長に昇りつめている。反ヴァリニャーノ派の面目として、重きをなし続けたわけだ。
P167 オルガンティーノの安土修道院 P167-170
ヴァリニャーノは九月、口之津をたって豊後に赴いた。一〇月、臼杵に司祭たちを集めて協議会を開き、同地に修練院を設けることをきめた。大友宗麟の船に乗って五畿内巡察に向かったのは、翌八十一年三月である。都では、オルガンティーノがヴァリニャーノ一行を待ちわびていた。
彼はカブラルたちがヴァリニャーノをインドへ追い返そうとしたとき、インドへ帰らずぜひ都に来てくれと申し送ったほどのヴァリニャーノ派である。彼はウルガン・バテレンの名で親しまれたのでわかるように、徹底した日本びいきで、日本の習慣に適応すべしとするヴァリニャーノの方針に大賛成だった。
彼の考えでは、「日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、喜んで理性に従うので、われら一同よりはるかに優っている」。だから、彼らと交際する方法さえ心得ていれば、宣教は困難ではない。
この、ヨーロッパ人より賢明という点を彼はしばしば繰り返しており、日本語を解し始めてからは、「かくも世界的に聡明で明敏な人々はないと考えるに至った」とさえいう。要するに、いくつかの欠点は気にならぬような日本びいきだったのだ。
オルガンティーノが都に赴任してすでに一〇年が経っていた。その間、教会が危機に陥ったことはないでもない。信長は大阪本願寺およびその背後にある毛利勢と戦って、戦況は必ずしも有利ではなかった。一五七七年二月、信長は紀州の雑賀衆を攻めたが、京都駐在のジョアン・フランシスコによれば、馬上で出陣する信長は「恐怖を感じさせるほど不機嫌な顔」をしていたという。
彼は一貫して宣教師に好意を示したものの、政略の前にはいつ何時でも好意を翻す用意があった。荒木村重が信長に叛いて本願寺側に寝返ったとき、村重の部将たる高山父子は高槻城に拠って信長に抗した。右近の妹と息子が村重に人質とされている以上、そうするしP168かなかったのだ。
(P168-)
高槻は堅固な城で陥すのがむずかしい。信長はオルガンティーノに右近の説得を命じた。だが、右近は応じない。信長は都の全宣教師を集めて、右近が開城に応じなければ、彼の面前で司祭らをことごとく十字架にかけるであろうと右近に伝えよと命じた。
こ 右近はそれを聞くとただちに開城を決意した。彼は城の中の者に、自分の子と妹の命とひき替えに司祭と信者の命を救うのがデウスへの奉仕となるのだと告げた。かくして高槻は開城したが、父ダリヨが部下を率いて村重のもとに走り、右近の子と妹の命は救われたのである。
「信長は以前からキリスト教を高く評価していたが、右の一件により評価をいっそう加えた」とフランシスコはいう。(略)高槻開城事件が起こったのは一五七九年、翌八〇年には本願寺光佐(顕如)が大阪から退去し、築城成った安土城が一般に公開された。オルガンティーノが安土城の一郭に土地を与えられたのはこの時である。
信長が琵琶湖畔に安土城を築いて本拠としたのは天正四(一五七六)年のことである。だが、狩野永徳の豪壮な襖絵で飾られた五層七階の天守閣を中心とする城郭が完成したのは天正七年に至ってで、そのひと月あと、信長は一般民衆に場内の参観を許した。
オルガンティーノが安土城の威容に接したのはこのときが初めてである。ともに参観したジョアン・フランシスコ司祭はその壮麗を次のように述べている。「城は七層あって、城内の部屋が余りにも多いので、信長も最近迷ったとのことだ。床は天井板のように清潔で磨かれており、扉と窓はことごとく塗って光沢を出しているので、鏡のように己の姿を映して見ることができる。
外部の壁はいとも白く、最上階のみはことごとく金色と青色で塗られ、日光を反射して驚くべき輝きを作り出している。瓦はきわめて巧みに造られているので、外から見る者には薔薇かなにかの花に金を塗ったもののように思われる」。
オルガンティーノは安土城下の山腹にひろがる武家屋敷地の一画に修道院を建てたいと思った。それが叶うなら、イエズス会の威信がいっそう高まることになるし、武将間に教えひろめるにも好都合である。信長は即座にオルガンティーノのねがいを許した。(略)茶室を設けたのは、ヴァリニャーノが日本人の社交手段として茶会が重要なのを悟ったからである。オルガンティーノはヴァリニャーノの新方針に双手を挙げて賛成だった。
P169 信長は工事の途中を見分け、地所が狭いといって、周辺の家屋をとり除かせるほど気を入れていた。修道院が完成すると、よく出来たとほめて、オルガンティーノに二〇〇クルザードを贈った。
これは些少な金額ではない。信長はあい変らずバテレンたちに好意的で、彼らの説くところに耳を傾けては「仏僧たちの言うことは皆偽りで、来世に関してはバテレンたちの言うことだけが真実と思われる」などとお愛想を言った。
しかし司祭たちは、信長が内心ではデウスと霊魂の存在に疑問を抱いているのを知っていた。彼は仏僧とおなじく宣教師も、心では信じていないことを、世道人心を導くために、さも信じたふりをして説いているのではないかと疑っていたのだ(→関連)。
(略)
P170 一五八一(天正九)年三月八日、ヴァリニャーノはルイス・フロイス、ロレンソ・メシアなどを伴って府内を発ち、五畿内巡察へ向かった。
(略)
P171 入京したヴァリニャーノは三月九日(洋暦)、本能寺に信長を訪ねた。彼はヴァリニャーノ一行を好遇し、四月一日に行われる馬揃えに一行を招待した。信長はヴァリニャーノが伴った黒人に大騒ぎで、腰から上の衣服を脱がせ、それでもなお自然の肌色と信じなかったという。
信長KOZ45 MAGI02 愛とは何か 軍師官兵衛25
四月一日(邦暦二月二八日)の馬揃えは、前年石山本願寺を降し、畿内を完全に平定した信長が、天下に威を示すべく企画した一大ページェントだった。麾下の部将たちが綺羅を飾って馬を揃える華やかな行事を、信長はヴァリニャーノにぜひ見せたかった。
馬揃えは内裏の東に設けた南北八丁の馬場で行われ、正親町天皇以下公卿たちも桟敷をしつらえて観覧した。信長はヴァリニャーノが贈ったビロードの椅子を、家来たちに肩の高さまで担がせ、自分の後を歩かせた。武者たちと交って馬を疾走させたあと、彼がわざわざ椅子に坐ってみせたのは、贈り主たちへの心遣いだったのか。キリシタンたちはよろこびに包まれた。
1)江04 馬揃え奉行に光秀
2)江04 馬揃え~神とは~諏訪法華寺(光秀への暴行は穏やか)~蘭奢待、天下布武の意味~光秀、秀吉の配下に
3)信長KOZ45 総見寺信長ご神体の意味
4)信長KOZ37 浅井朝倉滅亡73.11 堺の会合衆と茶会 カブラル・オルガンティーノ論争 74天正2新年 蘭奢待
P172馬揃えが終わると信長は安土城に帰還し、ヴァリニャーノ一行を招いて、自ら場内を案内した。ヴァリニャーノたちがその壮麗を賞賛すると、信長は喜色を浮かべた。
1)信長KOZ46 安土神学校 都教会ヴァリニャーノ布教方針 茶室 天皇拝謁不要 総見寺 侍女虐殺の噂 北庄城 フロイス信長国造りの方針、デウスについて
2)信長KOZ46 「フロイス信長国造りの方針、デウスについて」のみ抜粋
彼は以前フロイスにも語ったように、自分の評判がヨーロッパまで伝わってほしかったのだ。彼が帰国の際の土産にといってヴァリニャーノに一双の屏風を贈ったのも、ヨーロッパでの名声を求めてのことだった。
安土城と城下町を描いた屏風で、信長はこれは内裏から望みがあったのに断ったくらいの品なのだが、わざわざ遠くから訪ねてくれた巡察師への敬意を示すために贈るのだともったいをつけた。
ヴァリニャーノはこのあと、屏風を安土・都・堺・豊後の教会で展示し、人びとは群をなして見物したという。この屏風は後述する天正少年使節に託されて教皇グレゴリオ一三世に献じられ、ヴァティカンの地図画廊に陳列されたが、現存していない。
信長KOZ47
(略)
P172 宣教師たちの願いは何でも聞き届けるかに思われた信長だが、天皇に拝謁したいというフロイスの願いをかつてすげなく斥けたことがある。その時彼は不快気な表情で「予がいるところで、他人の寵を得る必要はない。予が天皇であり内裏である」と告げたという。
ヴァリニャーノも天皇に謁したいと思ったが、このフロイスの話を聞いて諦めざるをえなかった。フロイスによるとこの後、信長は自らを神に擬するようになったとのことだ。神はむろん天皇よりも上に座すものであろう。
信長KOZ46 天皇拝謁不要 信長KOZ45 総見寺信長ご神体の意味
(P174)
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