P190 ヴァリニャーノと少年使節が長崎を発った四ヵ月あと、宣教師たちの変わらぬ庇護者だった信長が本能寺の変で斃れた(天正一○年六月二日、一五八二年六月二一日)。
安土にいたオルガンティーノは凶変を聞くと、神学校の生徒ともども、琵琶湖中の沖ノ島に避難した。当時の日本人は騒乱の際には、武士から庶民にいたるまで掠奪に走るのを常としたから、宣教師たちは街中で暴徒に囲まれて衣服を剥がれた。
島に逃れてみると、乗って来たのは何と海賊船で、オルガンティーノは銀を出せと脅迫された。海賊といっても、彼らは湖畔集落の住人で、日頃琵琶湖水面の交通を支配し、通行料を徴発するのはむろんのこと、時に応じて掠奪も行っていたのだ。
オルガンティーノはかなりの銀を携えていたが、巧みにそれを隠匿し、やがて安土に残っていた日本人修道士がよこした船で、やっと虎口を脱することができた。この間、安土の修道院と神学校は柱と屋根を残して、すべてが掠奪され尽くした。
オルガンティーノ一行は何とか京都の教会へ到着した。都の教会は本能寺からわずか一区街を距てたところにあったので、在京のカリオン司祭たちは事変の当夜、間近に銃声を聞き火の上がるのを目撃した。双方は互いに無事を喜び合ったが、明智光秀には、宣教師たちに危害を加えるつもりは一切なかったのである。明智光秀が滅んで平穏が戻った。
P191 いまや教会の支柱ともいうべき高山右近は山崎の合戦に殊功を樹て、高槻の所領は安泰である。信長によって越前の柴田勝家のもとに追放されていた父ダリヨも、安土セミナリヨの生徒たちは都の教会手狭なので、高槻へ移って授業が再開された。
本能寺の変以降の畿内キリシタン武将の動向 P191-192
しかし、高山父子と並んで畿内キリシタンの柱だった三ヶ頼照・頼達父子は、誘われて明智に味方し、没落の悲運に見舞われた。父子は大和に逃れたが、その後父サンチョ頼照は大阪の教会に現われ、秀吉の宣教師追放令ののちまで長く教会に奉仕したという。
秀吉の覇権のもと、他の畿内のキリシタン武将の運命も変動を免れなかった。河内国岡谷の城主結城ジョアンは、一五八三年秀吉の命で他国に所替えとなり、翌年の小牧長久手の戦いで戦死した。ジョアンを補佐して城代をつとめた叔父ジョルジ弥平太は、このあと高山右近に仕え、一五八五年、右近が明石に移封されたのちは小西行長に属した。
河内国若江のシメアン池田丹後守教正も一五八三年美濃国へ移され、長久手の戦いでは池田勝入斎恒興に属して奮戦、包囲を突破して帰還し、秀吉から感状を得た。その後秀吉の養子秀次に勤仕し、信任されて尾張の清洲奉行を務めたといわれる。
このようにして畿内のキリシタン武将の所領は、わずか高山右近の高槻を残すのみとなった。信長の死の直前、高槻領の住民二万五〇〇〇のうち、一万八〇〇〇がキリシタンだった。『高山右近の生涯』の著者ヨハネス・ラウレスはこのことをもって、右近が領民に改宗を強制しなかったことの証拠とする。
住民の四分の一が異教徒であることを許され、仏僧たちがキリスト教の説教を聴くことを強制されることもなかった。信長に讒訴されるのをおそれたのだとラウレスはいう。だが秀吉の代に替り、彼の寵愛が確かだと信じられるに及んで、右近は仏僧に説教聴聞を強制し、改宗しない僧を追放すると宣言した。
一〇〇人に及ぶ僧侶が洗礼を受け、寺は教会に変わった。だが、この高槻の全領キリシタン化は、九年前の大村純忠のそれに較べればよほど温和な形で行われ、住民の間に不満をかもすこともなかったらしい。右近は常日頃の行いで領民の信頼をかちえており、領民の教化にも長い年月を費やしていたのだった。
秀吉が安土城を上廻る壮大な規模の大阪城を建設し始めると、右近は新しい城下町に教会堂を建てる必要をいち早く感じとった。秀吉は城下を繁栄させるために、麾下の部将に屋敷を設けるよう慫慂しており、パードレたちにも教会堂を建てるように命じる可能性が高い。
その際彼は、都の教会堂を移転させよなどと言い出しかねず、そんなことになればイエズス会にとって大いに不都合である。先手をとって、こちらから願い出るに如くはない。ここに幸い、結城ジョアンが建てた美しい岡山の教会堂がある。
岡山が異教徒の所領となった以上、それも早晩破壊されるだろう。それに先立って教会堂を大阪に移築すればよいではないか。その費用は自分が受けもとうと、オルガンティーノに申し出た。
一五八三年九月、オルガンティーノはロレンソ修道士を伴って大坂城を訪うた。秀吉の歓待ぶりは周囲のものを驚かしたほどで、両者を一番奥まった寝室に招き入れ、親しく語らったのち極上の地を与えようと約した。
そのあと秀吉はロレンソを伴って城外へ出て、目当ての土地へ赴いてただちに測量させ、一〇〇メートル四方のその土地の所有権をロレンソに与えた。
秀吉麾下の部将が続々と入信 P192-194
当時秀吉のスタッフに有力なキリシタンが含まれていたのは注目されるところだ。この日会見の部屋に同席を許されたのは、ジョーチン小西立佐とシモン安威了佐だけであった。小西立佐はアゴスティーニョ行長の父、秀吉の財務を担当し、この二年後には堺の代官となった。
一五六〇年代には入信していたとみられる。安威了佐は秀吉の右筆、すなわち秘書官で、入信はこの年であったらしい。フロイスは『一五八三年度日本年報』で、秀吉が寵愛する五人のキリシタン家臣を挙げているが、それはジュスト右近、シモン了佐、ジョーチン立佐、アゴスティーニョ行長、それにチュアンケなる老人で、これは信長の右筆だった武井夕庵に比定される。
また、秀吉の正室北政所の侍女にもジョーチン小西立佐の妻マグダレナ(参照、参照1、参照2)以下、モニカ、ルシア等のキリシタンがおり、特にマグダレナは北政所の信任が厚かった。北政所は熱心な仏教徒だったが、マグダレナなどの影響で次第にキリシタンに好意を持つようになった(参照)。
のちの話になるが、堺に建築中の教会堂のためにオルガンティーノが調達した五本の巨木を、石田三成の進言によって、大阪城の建材として秀吉が召し上げようとしたとき、彼女は「予の兄弟からも召し上げているのだぞ」と抗弁する秀吉に対して、「バテレンたちはあなたの家臣ではありませぬ」と諌言し、木材を返還させたという逸話が残っている。
岡山教会堂の大阪移築のために、右近は「まるで私事をすべて忘却したかのようであった」。移築が完了し、最初のミサがあげられたのは翌八四年の降誕祭である。
一五八四~八五年には秀吉麾下の部将の入信が続いた。これは主として高山右近の働きであったらしい。右近について宣教師の伝えるところは、むろん割り引いて受け止めねばならぬが、文武両面における名声は事実であったようだ。
彼は利休七哲の一人であり、武勲も卓越したものがあった。秀吉にもすこぶる気に入られていた。入信以来、右近は身を持すること固く、人格品行の面でも、同輩の武将たちの尊敬をかちえていたようだ。また、宣教師たちの認めるように、数理にくわしく、かつそれを説くのが巧みであった。
つまり、一流の説教師だったのである。根来攻めの際、彼は焼却されるべき運命にある美しい寺院を、司祭たちに給わるよう、秀吉に乞うた。秀吉は「汝も司祭だから、汝にやろう」と答えたといわれる。
P194 右近に説かれて入信したのは、馬廻衆組頭の牧村政治である。近江で二万五〇〇〇俵を給され、利休の高弟でもあった。一五八四年のことで、続いておなじく馬廻衆の毛利高政が入信した。翌八五年になると、右近と牧村に説かれて、利休七哲の一人蒲生氏郷が入信。信長の次女を夫人とする大物である(tw)。
近江日野を領していたが、伊勢半国一二万石を与えられた。おなじ年、行長・右近・氏郷に説かれて受洗した黒田官兵衛孝高(参照、tw)も、氏郷クラスの大物である。
播磨に一万石を領したが、秀吉の謀将として重要な地位を占めていた。彼は息子の長政も受洗させた。このような重要な武将が入信するに至ったのは、右近の働きかけが大きかったにしても、キリスト教のどこが魅力だったのだろうか。
貿易の利が得られる九州大名とは違って、彼らには入信による利は何もなかったのである。秀吉がキリシタンの部下を重用したといっても、入信すれば秀吉の寵がえられるわけでもない。彼らの入信の動機については、また改めて考えることにしたい。
傍若無人な神仏像破壊 P194-195
八四年には当時名声をはせていた医師の曲直瀬道三が司祭フィゲイレドにすすめられて改宗した。豊後にいたフィゲイレドは病気治療のため上京し、道三の診察を乞うたのだが、交情が深まるにつれて、道三を説いてついに入信せしめたのである。
道三はたんなる医師というより、当時最高の識者の一人と目されていたので、彼の入信は衆人の耳目を驚かせた。ただし彼は入信に当って、宣教師たちにすこぶる耳の痛い忠告を行っていた。彼は宣教師たちが日本の神々を悪魔と呼ぶのをやめるように忠告した。
バテレンたちは日本の神々が昔の王侯や王子であることを知っているに違いない。だとすれば、今日の国王・貴族へ敬意を示す以上、彼らの祖先を悪魔と呼ぶのは控えるべきではないか。神々が霊魂の救済に役立たぬのを説くのはよいが、異教徒を驚かせぬよう穏やかな言葉でいうべきだ。
道三の忠告は、キリスト教宣教師の上で重大な問題を提起したもので、P195日本イエズス会はこの際真剣に受けとめ反省すべきだった。しかし、彼らがそうした影響はまったくない。彼らはこのあとも依然として、日本の神仏を悪魔呼ばわりし続けたのだった。
彼らが九州のキリシタン大名の領内で、いかに傍若無人に寺社破却、神仏像破壊を行ったか、一例を示しておこう。一五八二年、ヴァリニャーノが少年使節を連れて長崎を発ったあとのことだったが、準管区長のの重責を託されたコエリュは、有馬領の加津佐の沖合にある小島に、領内から追放された仏僧が仏像を匿していると思いこんだ。
この島の岩窟はもともと信仰の対象で、仏像は以前から祀られていたのかも知れない。それとも仏像がこのときそれを隠匿したのか、いまとなっては確かめようのないことだ。コエリュはフロイス以下修道士や若者を率いてその島に渡り、岩殿と呼ばれる洞窟の中にあったおびただしい仏像を取り出し、大きくて取りだせぬものはその場で火をつけた。
残りの仏像は、教理を習っている少年たちを招集して口之津の司祭館へ運ばせた。彼らは仏像を曳きずり、唾をかけた。加津佐の住民たちは「男も女も子供も戸口に出て、その哀れな運命に同情を示していた」。
その後仏像は司祭館の炊事の薪となったと、フロイスは得々と書いている。驚くべきなのは、住民の悲しみを叙して平然たるフロイスの神経ではなかろうか。おのれのなすところを善かつ真理として信じ込む狂信の常というべきか。
コエリュらは自分たちが権力を握るキリシタン大名領ゆえに、このような振舞いを許された。だが、畿内においても、ジュスト右近は領内の仏閣破却に踏み切ったし、ヴァリニャーノの日本の習慣への適応方針に賛成だったオルガンティーノでさえ、神仏を悪魔扱いすることにおいて、コエリュに劣る者ではなかった。
都から三里離れた山に「悪魔に奉納された寺院」がある。「(私は)どうあってもこの寺院は破壊すべきであり、代わりに都から見て拝みうるほど大きな十字架を建立して、天使の長サン・ミゲルを祭るべきである」といつもキリシタンに説いている。
それをどうして知ったか、その寺院の仏僧たちは信長のもとに赴き、寺院を破却することがないようキリシタンに命じてほしいと請うたとのことだ。P196「われわれはかの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」。以上はオルガンティーノが一五七七年九月二一日付の手紙で述べたことである。
布教しようと思う国に出かけて、その国伝来の神を悪魔と呼ぶのがどんな行為であるか。それは当時日本の仏僧がヨーロッパへ布教して、公然とキリストを悪魔と呼んだらどんな騒ぎになったか、想像してみただけでわかる。
ヨーロッパの聖俗権力は必ずや彼らをひっ捕らえて火刑に処したであろう。
他国へはいりこんで、その国の寺院や神像を悪魔と呼んで破却しようというのは、その国の文明をよほど曖昧なものと見下げていなければできぬことだ。
宣教師たちにそれができたのは、ヨーロッパ文明とその基盤たるキリスト教を人類の普遍かつ最高の所産と、すでにして信じていたからにほかならない。ヨーロッパと日本とは産業や技術や軍事力において、さらに教育、道徳においても懸隔はなかった。
バテレンたちが信じたのは精神の優位である。かくて日欧のファースト・コンタクトは、この三〇〇年ののちのセカンド・コンタクトの構図を先取りする一面を示すことになった。秀吉はかつて信長の部将として一向宗と戦い、いまや根来・雑賀の仏教勢力を倒し、キリシタンにはむしろ好意的であった。宣教師たちは希望に燃えた。だが、行く手には暗雲がはらまれていた。
有馬・大村につかの間の安堵をもたらした龍造寺の敗退 P196-199
目を西九州へ移すと、ここでも重大な情勢の変化が起こっていた。龍造寺隆信が島原・沖田畷の戦いで戦死し、有馬・大村のキリシタン領は長年の脅威から救われたのである。
龍造寺氏の圧迫のもと、領国の三分の一を保つのみとなった有馬晴信は、ヴァリニャーノが日本を去った一五八二年の末、肥後の八代に渡って島津氏に救援を依頼した。島津は肥後国を舞台に龍造寺と戦っており、いまや頼るべき相手は彼しかいなかったのである。
P197 島津方は一五八四年三月、龍造寺隆信が大兵を催してまたもや有馬領を侵さんとするのを知って出兵を決定し、国主義久の弟家久に兵三〇〇〇を授けて、四月島原へ渡らしめた。
両軍が島原北方二キロの沖田畷で交戦したのは、一五八四年五月四日(天正一二年三月ニ四日)のことである。龍造寺軍は三万、あるいは六万と伝えられるが、六万はいくら何でも誇大だろう。フロイスは一万二〇〇〇と述べる。
大村氏も出兵を強いられ、三〇〇の兵を派して島原城を守った。対する島津・有馬連合軍は島津兵が三〇〇〇、有馬晴信の手兵は一〇〇〇にすぎなかった。フロイスの数字を採るにせよ、龍造寺勢は三倍の兵力を擁したことになる。
沖田畷は海と山に迫られた湿地で、中央を細い畦道と山沿いの三路から攻めかかった。龍造寺隆信は中央路の軍中を駕籠に乗って進んだ。肥満していて乗馬にたえられなかったのである。戦闘が始まっても、兵は畦道につかえて前に進まず、いたるところで敵味方がいりまじる混戦となった。
その混戦の中で、敵中深くはいりこんだ薩軍の川上左京亮がたまたま隆信と出合い、その首を挙げた。主将を討たれた龍造寺勢は色を失って潰走した。
捷報は夜中の三時になって、口之津のコエリュのもとに届き、キリシタンたちは歓喜に包まれて鐘を打ち鳴らした。「やがて夜が明け、その日は美しく晴れて、露の降りた野は青々として」信者たちを祝福するがごとくだったとフロイスは伝える。
だが、島津氏の救援によって危く難をのがれた有馬氏は、この後一転して島津氏の圧力に苦しまねばならなかった。沖田畷の戦勝後、島津氏は島原・三会の二城に兵を置いて睨みを利かせ、有馬領内で十字架を倒したり、教会堂に乱入したり、キリスト教に露な敵意を示した。
晴信にも棄教するよう圧力をかけたといわれる。『一五八七年度日本年報』は、晴信が島津氏へ従属したと述べている。
P198 準管区長コエリュは一五八五年三月三日付のフィリピン・イエズス会士宛の手紙で、フィリピン総督に、兵士・弾薬・大砲・糧食を積んだフラガータ船を、二、三隻日本へ派遣してくれるよう要請した。「それは、現在軍事力が不均衡でこれに劣るため抵抗できず、他の異教徒に大いに悩まされている何人かのキリスト教の領主を支援できるようにするためである」と彼はいう。
当時の九州の情況を考えれば、これは島津氏によって、有馬・大村両氏が圧迫されている有様を述べたものとみなすしかあるまい。すなわち、コエリュがマニラに派兵を要請せねばならぬほど、島津の西九州支配は強まっていたのだ。
島津のキリシタン嫌いには定評があり、フロイスによれば「下の地方(西肥前・天草)では全教会の滅亡を予期して戦々兢々としているキリシタンのいない土地とてはなくなった」。
晴信は龍造寺氏との戦いニ勝つや、戦前の約束を踏んで、長崎に隣接する浦上をイエズス会に寄進した。だが、長崎はやがて薩摩軍によって占領された。フロイスは八六年一〇月までの出来事として、薩摩勢が「長崎は定航船の利益がほしいといって占領し、そこで多数の接収を行な」ったとはっきり書いている。
長年大村領で宣教に従事したルセーナによれば、島津氏は大村領の西彼杵半島まで占領下に置いていた。
龍造寺氏の敗退によって、大村純忠はもとの地位に復帰し、人質にされていた長子の喜前も一五八五年には父のもとへ帰っていた。ルセーナハ純忠が、「薩摩の支配下にあり晴信の手中にまかされている外海と内海の領地を回復することに決めた」と書いている。
外海・内海とは西彼杵半島の西岸・東岸のことで、有馬氏はこのとき強制されて、島津氏の先兵の役割を担わされていたのである。純忠は薩摩・有馬の連合軍を駆逐して、内海・外海のみならず、長崎まで回復した。
一五八六年のことと推測されている。このことは他の内外文献には記録されていないが、長年大村で宣教に従事したルセーナが、ありもしなかったことを記述するはずがない。コエリュのマニラ宛書簡が薩摩の軍事的脅威のもとで書かれたのは、もはや明らかだろう。
浦上を治めた純忠は、改めてこれをイエズス会に寄進した。
目前に迫る島津の九州制覇 P199-200
島津氏はたんにキリシタン憎しの一念から、有馬・大村両氏を圧迫したのではない。彼らはすでに肥後・肥前を制し、残る豊後の大友氏の征服を日程にのぼらせていた。全九州制覇という目標からすれば、有馬・大村は当然島津に従属すべき存在だったのだ。
島津軍の侵入を目前にして、皮肉なことに豊後のキリシタンは最盛期に達していた。島津軍侵入直前の豊後在住イエズス会士は四五名にのぼり、従来祇園信仰によって結束し、入信者をほとんど出さなかった府内の町衆も、一五八四年には頭人一三名が受洗するに至った。
このように豊後教会が隆盛を迎えたのは宗麟の尽力がによるところが大きかった。彼は地方の家臣たちに働きかけて入信を促すなど、いまや俗人司祭といってよかった。『一五八一年度日本年報』は「往時二五〇〇にすぎなかったキリスト教徒は、いまや一万を超えた」と述べ、ゴメス司祭は一五八五年だけで一万二〇〇〇人が改宗したと伝えている。
しかし、軍事上の弱体化はに日に日に明らかとなった。従来筑前の立花城を守りぬき、フロイスからいまや豊後の国王のようなものと評された立花道雪(相互参照)は、隆信戦死後築後に転戦中に病死、筑前岩屋城を守り、道雪と並んで豊後の頽勢を回復したと、おなじくフロイスが伝える高橋紹運も、一五八六年島津軍に攻められて戦死した。
この両名将の死は気たる大友の亡国を予兆したものといわれる。
島津勢は一五八六年一〇月、侵入を開始した。義弘が肥後口から、家久が日向口から、大友氏の防衛態勢はほとんど崩壊していた。宗麟の二男親家は薩摩と内通し、そのことが露れて、現国王である兄の義統から所領を奪われ、宗麟のとりなしがなければ殺されるところだった。
また、代々年寄(家老)を務めた志賀家の当主道易も、義統の妾と密通して罪を得、ついに薩摩と通じて豊後の地図を献じたといわれる。その他、大野郡・直入郡の諸将の多くが叛き、薩軍を手引きした。
このとき岡城(現・大分県竹田市)を死守して名をあげたのが、道易の長子志賀親次である。彼は早くからキリスト教に心を寄せていたが、父道易、祖父道輝の反対をおし切って一五八五年受洗し、ドン・パウロの教名を得ていた。
宗麟は臼杵の丹生島城に籠った。城内には大勢の避難民が逃げこみ、悲惨な状況を呈した。守備兵はわずかで、もし薩軍が力攻すれば、宗麟と宣教師たちはこのとき殉教をまぬかれなかったはずである。だが、薩軍は三日間掠奪にあけくれたあと、一二月八日に囲みを解いて去った。
一五八七年一月義統は、秀吉が派遣した救援軍、仙谷秀久、長曾我部元親らの軍勢とともに、戸次川で薩軍と戦って大敗を喫し、豊前の妙見城に逃げた。彼が豊後にとどまって戦おうとしなかったことは、後に秀吉の不興を買う一因となった。
豊後を蹂躙しつくした薩軍も、秀吉勢の主力が豊後入りするに及んで兵を引いた。このとき、義統は黒田孝高に説かれて妙見城で受洗した。これまでけっしてキリシタンになろうとしなかった彼がこの期に及んで入信したのは、宗麟にとって何よりのよろこびであったろう。
軍師官兵衛34九州出陣 35九州平定、バテレン追放令
→『バテレンの世紀』第八章 豊後キリシタン王国の夢(参照)
→『バテレンの世紀』第一二章 バテレン追放令前後(参照)
→『バテレンの世紀』(参照)