2020年2月13日木曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第一二章 バテレン追放令前後

第一二章 バテレン追放令前後 P201-227

P200(略)
P201 島津が豊後へ攻め込む前、コエリュと宗麟が前後して、秀吉を大阪城に訪うた。まずコエリュの場合から述べよう。準管区長の当然なすべき畿内訪問は、戦乱などのためのびのびになっていたが、八五年になっていよいよ準備にかかると、一〇月になって薩摩から使者が到着し、「その年内にはある理由があって」出発しないように、もし聞きいれねば禍あるべしと警告してきた。

準管区長が秀吉に豊後救援を求めるのではないかと疑ったのだと、フロイスは書いている。

コエリュは年の明けるのを待って、一五八六年三月六日、長崎を出発した。途中、瀬戸内の上関で感動的な出来事があった。八〇歳ばかりの老女二人がロザリオを手にして船中にのコエリュを訪ねてきたのである。なんと彼女らは三五年前にザビエルから洗礼を授けられたキリシタンだった。以来、彼女らは孤立しながら信仰を守りぬいてきたのである。

コエリュは四月二四日、堺に安着した。五月四日の大阪城訪問は、翌年の宣教師追放令の前奏曲として重大な意義を有する。秀吉との会談が不調だったわけではない。秀吉は最大限の歓待ぶりを示し、雰囲気も和気藹々だった。

会見はどう考えてみても大成功だったのである。ただあとから考えてみれば、不気味な暗礁がちらりとその影をのぞかせていた。

軍師官兵衛34大友宗麟


・秀吉の胸に刺さったフロイスの傲慢な発言 P202-203
P202 秀吉はこの会見において、朝鮮・中国を征服するつもりだと語り、二隻の大型ナウと航海士の提供をコエリュに求めたとフロイスは記録している。しかしこの会見については、オルガンティーノの一五八九年三月一〇日付の書簡があって、それによると、ポルトガル船はコエリュの方から提供を申し出たのだという。

フロイスがさっとコエリュの脇に坐を占めて通訳に当たったので、オルガンティーノは出る幕がなかった。フロイスは秀吉に対して、殿下がシナ征服のため下(九州)に渡るのならば、ここにいる準管区長に助力を依頼なさるがよい、彼は下のほぼ全域を指揮下に置いているし、大型帆船をポルトガル人の操縦のもとに提供することができると語った。

オルガンティーノと高山右近はフロイスの発言に危険を感じて、彼の言葉を遮ろうとしたが、フロイスは準管区長の権威をかさに着て、オルガンティーノの口を封じた。彼と右近の憂慮は杞憂ではなかった。秀吉の右筆安威シモン了佐はあとで使いをよこし、関白殿の面前であのような傲慢な発言は、すべてのものに不快感を与えたと、一行に注意して来た。

問題はフロイスの発言が、イエズス会が九州の諸大名に対し、相当の支配力をもっているらしいと、秀吉に疑わせた点にある。そういえば、バテレンは今回三〇名を越える伴を連れてきていた。秀吉はこのとき直ちに不快感を表したわけではなく、このあとコエリュに、布教に関する特許状を与えたのでも明らかなように、宣教師に対する好遇に変わりはなかった。

この特許状によって、備前・備後・美作の太守宇喜多秀家の本拠岡山に教会が建てられ、毛利氏の領内の教会再建も認められたのだから、コエリュの行く手は順風満帆に見えた。だが、秀吉の胸には棘が刺さっていた。その痛みはいつかは疼き始めるだろう。

宣教師たちは初め秀吉を評価していなかった。フロイスは「気品に欠ける」と評し、一五八四年一月の書簡P203では、秀吉が追放したり苦しめたりした大身たちはみな復讐の機をうかがっているので、彼はさほど長くは生きぬだろうと噂されていると書いている。

それが『八五年度日本年鑑』になると、何事においても信長をはるかに凌ぎ、キリシタンの教えに敬意を示している、といったふうに変わった。コエリュの大阪城訪問後は、フロイスの筆によるイエズス会庇護者、秀吉のイメージはふくらむ一方だった。

1586天正14年5月4日、コエリュ大阪城(回想) 軍師官兵衛35 黄金の日日36




・島津討伐と九州のキリシタン領国安堵 P203-204
大友宗麟が「一万クルザードはするであろう贈物」(フロイス)を携えて大阪城を訪うたのは、おなじ年の五月二三日、コエリュに遅れること一九日だった。秀吉は動輪を歓待し、出兵して九州に秩序をもたらすことを約した。

島津氏は大阪表で逐一情報を収集し、ハ代からから長崎へ使いを送り、禁じたにもかかわらずコエリュが秀吉を訪問し、しかも薩摩に対し戦いを始めるよう説いたこと、宗麟と大阪で会って薩摩対策を協議したこと、長崎入稿の定期船と薩摩の取り引きに協力しなかったこと等々を詰問した。

コエリュの留守中、下地方の上長を務めていたベルショール・デ・モーラは、急遽修道士を八代に送って弁明させたが、さんざん罵られて追い返されてしまった。

先に述べた通り、秀吉は一五八六年の秋、大友氏救援のために、仙谷秀久、長曾我部元親ら四国勢を豊後に送りこむ一方、黒田孝高に毛利・吉川・小早川の兵を監して豊前を攻略させた。豊前平定が順調に進んだのに対して、仙谷・長曾我部勢は一五八七年一月、戸次川の戦いで薩摩に惨敗し、四国へ逃げ帰った。

秀吉は一五八七年一月軍令を発して、二五万にのぼる征討軍を編制して逐次九州に投入し、退却する薩軍を追って薩州川内に至り、六月一三日島津義久を引見して、島津の降伏を受けいれた。 島津氏を降したのち、秀吉は豊後一国を大友義統に安堵し、宗麟には日向一国を与えた。有馬氏、大村氏も

P204それぞれ所領を安堵された。だが宗麟は秀吉の好意を謝しながら、日向領有を辞退した。宗麟にはもはや現世に求めるところがなかったのだろう。

長らく父に逆らって入信を拒んでいた長男の義統が、黒田孝高の粘り強い説得によって、この年四月に受洗するに至ったのは、彼の最後のよろこびであったろう。

彼は六月一一日に死んだ。一方、大村純忠も六月二三日に死んだ。死に当たって、キリシタン教団を守るために戦ってきたが荷が重かった。日本のキリシタンの模範となることなどとてもできなかったと述懐した。

秀吉がハ代に着陣すると、コエリュは早速ポルトガル商人を連れて伺候した。五月二八日のことである。随伴したフロイスは、大阪城のときを上廻る歓待ぶりだったと記している。秀吉は日本全国を平定したあと、二、三〇万の軍勢でシナを征服する予定だが、ポルトガル人はこれを喜ぶかどうかと尋ね、答えを聞くと満悦した様子を示した。

さらに彼はポルトガル船が堺に来航するよう求めた。コエリュは水深の許す限り、意に添うように努めると約した。八代城に監禁されていた人々の助命をコエリュが乞うと、秀吉は即座に許した。ご機嫌は上々で、コエリュが信任されぶりに自信を深めたのは当然だったのである。

・一夜で急変した秀吉の態度P204-208
秀吉が筑前箱崎へ凱旋したのち、突如として「バテレン追放令」を布告した一件は、歴史上往々に見られる謎のひとつに数えられる。彼がイエズス会の宣教行為に対して、危険を感知したことが謎なのではない。

異教の侵入に対して敵意を示した為政者は、イエズス会の開教以来数々存在したし、神社仏閣の破壊などの過激な行為を伴う宣教のありかたからすれば、為政者たちがそのような反応を示さない方がむしろ不思議なのである。

謎というのは、ぎりぎりまでパードレたちに好意を示して来た秀吉が、一夜にして彼らに対して激昂し、追放を言い渡した急変ぶりである。むろん、いろいろな解釈が行われてきたが、謎は依然として解けない。

とにかP205く、事実経過を述べよう。コエリュは八代で秀吉に会ってのち、いったん長崎へ帰り、七月八日(邦暦六月三日)ごろ、フスタ船で博多湾頭の姪浜へ着いた。

フスタ船というのは、細長で底が浅く、帆と櫓の両方で航行する二~三〇〇トンの快速軍船で、かねて長崎警備のために配備されていたものである。コエリュは八代で秀吉から「博多でまた会おう」といわれていたし、具申したい若干の用件もあった。

秀吉は一週間のちの七月一二日に博多に到着し、箱崎に本陣を構えた。キリシタン武将から通告を受けて、七月一九日、コエリュがフスタ船で姪浜から博多に赴くと、秀吉は博多の地割りを行うために海上に出ていて、フスタ船を認めるや、船を寄せて乗り移ってきた。

彼は上機嫌で、コエリュたちとうちとけて談笑し、接待を受け、船中をくまなく巡察して、大砲を打たせた。ポルトガル語について質問し、日本語でジャパンと書かせ、何度も発音してみせて、「予はバテレンの弟子じゃ」と冗談を言った。

フスタ船が博多の浜辺に着くと、一〇〇〇人ばかりの町民が贈り物を用意して待ち構えていた。秀吉は銀子一枚を取っただけであとは町民へ返し、食糧品はコエリュに与えるべくフスタ船に積み込ませた。コエリュがこのときとばかり、「自分たちはこの町に教会を持っていた。再建のためにもとの土地を与えられたい」と言上すると、秀吉は「好みの場所をとるがよい」と、いとも簡単に願いを聞きいれた。

翌七月二〇日には、コエリュらが秀吉の宿舎を訪問した。あい変らぬ歓待ぶりで、席上、長崎の深堀純賢が海賊行為を働いているという話が出ると、秀吉は即座に純賢を捕らえ、領地を没収するように指令した。

長崎におけるイエズス会の長年の仇敵は、かくして秀吉の手で除かれたのである。この前後、秀吉麾下の部将たちはコエリュらを取り巻き、大いにキリシタン宗旨に関心を示した。もちろん、御大将のお気に入りと思えばこそそうしたのである。コエリュたちが前途に輝かしい希望を抱いたのは当然だった。この会見ののち、

P206 彼らは期待と感謝の念にみちて退出したとフロイスは書いている。

しかし、ひとり高山右近は、不気味な地鳴りが近づいてくるのを感じとっていた。二日のちの七月二二日、彼はフスタ船にコエリュたちを訪ねて、「間もなく悪魔による大いなる妨害と反撃が始まるように思えてならぬゆえ、そうした事態に対して十分な備えが必要である」と警告した。

コエリュが何か格別手がかりになるようなことを知っているのかと尋ねると、「いや別に特別な情報に接しているわけではない」と右近は答えた。だが彼は、秀吉のイエズス会への感情が、この一、二日で悪化したしたことを敏感に感じとっていたのだ。言いはしなかったが、何かを知っていたに違いない。でなければ、人騒がせなことをわざわざ言いに来るわけがない。

七月二四日には、平戸に入港しているポルトガル船のカピタン・モール、ドミンゴス・モンテイロが、五〇〇クルザードの贈物を携えて秀吉を訪問した。この船は前年平戸に入港したのだが、取り引きがうまくゆかず越年していたところ、ポルトガル船を見たいので、博多へ廻航せよという秀吉の命を受けて、それが困難であると言い訳しにやって来たのだ。

モンテイロが博多には浅瀬や暗礁が多く、無理に乗り入れると船を失う危険があることを説明すると、秀吉は納得した様子で、あとは機嫌よくモンテイロに立派な太刀を授けた。

この件について岡本良知が「博多は古くより開港場として内外の船が輻輳した処であるから、大きくても六、七〇〇トンを超えないポルトガル定期船の入れぬわけがないのである。されば何等か他の理由を以て博多入港を好まなかった船長の口実とみなすべきだろう」と述べているのは、注意すべきである。

そもそもモンテイロはのナウは、事情は明らかではないが、イエズス会の指示に従わずにあえて平戸へ入港し、宣教師たちの憤激を買っていた。これを当時長崎が薩軍の占領下にあったためと推測する見方もあるが、それならイエズス会側が憤るわけがなく、また前記したように、この時期長崎はすでに大村氏によって回復されていた。

このあと夜にいたるまで、秀吉の心中あるいは周辺で何が起こったのか、一切は謎である。とにかく彼は、P207夜に入って高山右近のもとに使者を送り、棄教するように迫った。右近がそれだけはできぬと返答すると、彼は即座に右近から領地を剥奪し、追放に処することを宣告した。

夜も深更になると、フスタ船でぐっすり寝こんでいたコエリュは、関白からの死者がやって来たと叩き起こされた。使者は小西行長と安威シモンである。シモンはこのときすでに棄教していたらしい。コエリュは夜半、行長の宿舎に連れこまれ、気の毒そうな顔つきの二人から、秀吉の詰問三カ条伝えられた。

第一、汝らは何故、仏僧のように寺院で法を説くのではなく、地方から地方をめぐって熱烈に煽動するのか。以後は仏僧を見習え。もし不服なら、全員マカオへ帰還せよ。

第二に、汝らは何故、有用な道具である牛や馬を食べるのか。シナから渡来する商人も含めて、汝らが牛馬を食せずにおれぬのならば、今後渡航は無用である。

第三に、ポルトガル人が日本人を奴隷として購入し、海外へ連行するのは許されぬ行為である。連行された日本人を連れ戻すよう取り計らえ。

コエリは答えた。なるほど我々は地方へ出歩くが、それ以外布教の方法がないからで、布教に当たって強制的な手段をとったことはない。肉食については、司祭たちはすでに日本食になじんでいる。商人にはよく言い聞かせよう。しかし、日本人が肉を売りに来る以上、徹底は保証しがたい。奴隷の売買は厳禁すべきだ。だが肝心なのは、貿易港の「殿たち」がそれを禁止することだ。

日本ではこの世紀、戦争に伴って住民が捕獲され、奴隷として売られるのは通例であった。これは日本だけのことではなく、西洋でも同様のことが行われた。従って、ポルトガル商人は日本の慣行に従って日本人奴隷を購入したのであって、売る日本人がいるから買うポルトガル人がいるのだというのは、コエリュの言う通りだろう。

フロイスはこの年、薩軍が多数の豊後の住民を捕らえて肥後で売りとばし、それがさらに高来(島原半島北部、有馬領)で二足三文で転売されたと伝えている。高来でというのは、むろん買い手がポルトガル人だったことを示している。

だが、コエリュの言い分は盗っ人猛々しのたとえ通りでもあった。ポルトガル国王はP208度々日本における奴隷取り引きを禁じる勅令を出した。しかもイエズス会員は、この勅令の実行を促す立場にあるにもかかわらず、しばしばその取り引きに立ち会ったのである。

翌朝、秀吉は早起きして、居並ぶ諸将のの前でキリスト教と司祭を罵倒し、司祭たちを追放せねばならぬ理由を説き、使者をコエリュのもとに派遣して、彼らが寺社を破壊する理由を問い糾した。コエリュはわれわれがそれを指示したことはない。信者が自発的にやったのだと答えた。明白な嘘である。するとまた使者がやって来て、二〇日以内に日本を退去すべしという決定的な通告を伝えた。

前日秀吉に謁見したカピタン・モール、モンテイロには文書が交付された。今日松浦家文書に残る五ヵ条の禁制文(二一○頁)が、おそらくその文書である。

・イエズス会に対する「双価的」感情 P208-212
P208(略)彼のバテレンたちへの態度の急変が、モンテイロのポルトガル船廻航の拒否をきっかけとしていることは明らかである。(略)
P210(略)
P211 つまり問題なのは、領主が単にいったん預かっているにすぎない領民を、強制的にキリシタン化して寺社破壊を行わせることだというのだ。なぜ問題なのかというと、それは信長、秀吉に対抗した一向宗の所為とおなじだからだという。信長は一向宗の教義を嫌ったのではなく、各地の領主層が本願寺の坊主たちの指導に従って、教団国家を形成するのを、全国統一の妨げとみなした。

秀吉も、イエズス会が諸侯を指導して教会国家を形成しようとするのを、全国統一を妨害する一揆と考えたのである。この文書には宣教師の追放は一言も触れられていない。調子はすこぶる冷静である。まだ右近の拒否にあう前だからだ。

神国云々よりも、領主層がイエズス会の指導に従うことが問題なので、秀吉はようやくその危険に気づいた。秀吉のイエズス会に対する態度は双価的だった。彼は宣教師を通じてポルトガルの海軍力を利用したかった。そのため、得意の篭絡的態度でコエリュに接した。しかしその一方、イエズス会指導下のキリシタン大名の実態を知って、愕然たる思いがあった。

領民をキリシタン化して侍者を破壊するのは、まさに大友・大村・有馬の所業ではなかったか。これを放置しては支配の根幹が揺らぐ。双価的感情はちょっとした事件で均衡を失う。それが一五八七年七月二四日の夜に起こったのである。

P212 秀吉は領主層の入信には許可が必要とした。ジュスト右近を追放すると同時に、彼はキリシタン諸将に棄教を迫ったらしい。松田毅一は、このときはほとんどすべてのキリシタン諸将が、表面上棄教を誓ったと推測している。たしかに、入信したばかりの大友義統が秀吉から棄教を命じられて、即座に応じたということはあった。

小西行長も後述するように相当動揺したらしい。だが、有馬晴信や大村喜前にしろ、秀吉から直接棄教を迫られた形跡はない。また、黒田孝高もコエリュの『一五八八年度年報』によれば、「関白殿からキリシタンのことをとやかく言われ」ることはなかった。

つまり、棄教を迫るといっても、秀吉には手心があったので、たとえば孝高に迫って拒まれた場合、体面上追放せざるをえず、有能な幕僚を失う結果となることを計算して、あえて彼には手を触れなかったものと思われる。

突然のバテレン追放令 1587天正15年7月24日 ①軍師官兵衛35 ②③黄金の日日36

・下地方の教勢拡大、大打撃の畿内・豊後 P212-216
(略)
P214(略)
P215 追放令が出されたあと、都や大阪の教会堂と修院は閉鎖はされはしたものの、建物自体が破却されたわけではなかった。また、長崎も収公されはしても、乗りこんだ役人の司祭たちへの態度は穏やかで、教会堂を汚すこともなく、ただ閉鎖されるだけで満足した。

秀吉の心境が和らいだと思われる情報も届いた。彼は小西立佐(行長の父)がキリシタンだと承知しながら、依然として側近で重用していた。あるとき彼は立佐に「バテレンたちはもう立ち去ったか」と尋ねた。立佐が船がまだ出帆しないのでとどまっているだろうと答えると「ロレンソも行くのか」とさらに訊く。

立佐が彼の心を計りかねつつ、老齢なので日本に残留するだろうと言うと、秀吉は静かに「そうであろう」と肯いた。彼はこの雄弁で善良な日本人修道士に愛情を抱いていたのだ。またある日、彼は身辺に侍する者たちに、「右近はどうしたか」と尋ねた。消息が知れない以上、どこか無人島にでも行ったのだろうと答えると。

「予はそれほどにしろとは言っていない。どこかで生きていたらいいのだ」という言葉が返ってきた。

司祭たちはこういった秀吉の言動を、一時的な怒りが鎮まってきた兆候と受けとった。
(略)
・九州全域に拡がったキリシタン大名領 P216-218
(略)
P217 バテレン追放はそれ自体が不徹底であったばかりでなく、キリシタンの全面的抑圧を意味するものではなかった。
(略)
・秀吉・ヴァリニャーノの聚楽第会見 P218-220
秀吉の「迫害」によって、西九州の一隅に匿れ棲まねばならなかった在日イエズス会士が、渇えるものが水を求めるように待望したのは、少年使節を伴ったヴァリニャーノの再来日だった。ヴァリニャーノは帰国途上の少年使節(もはや少年ではなかったが)を伴い、一五八八年七月マカオに着いた。

このときすでに彼はインド管区長の地位を後進に譲り、再び巡察師の任に就いていたばかりでなく、秀吉に対するインド副王の使節の資格も帯びていた。彼はマカオで、秀吉が前年バテレン追放令を出したことを初めて知った。

彼には少年使節を連れ帰るばかりではなく、追放令を緩和するという重要な任務がつけ加わったわけである。彼がマカオに着いたとき、その年の定航船(ナウ)はすでに出帆していたし、翌八九年のそれは前述したように前年の秀吉による生糸先買に対する反発から長崎を避けてメキシコへ向かったので、ヴァリニャーノ一行は、一五九○年度のナウの出帆までマカオに滞在せねばならなかった。

彼らがエンリケ・ダ・コスタのナウに乗って長崎に着いたのは、一五九○年九月のことである。

有馬晴信、大村喜前を始め使節の縁者たちは長崎まで彼らに会いに来た。しかし、彼らは互いに相手を見分けることができなかった。P219伊東マンショの母、町上殿ははるばる日向から駆けつけながら、わが子がわからなかった。無理もない。八年半の歳月が経っていたのだ。

ヴァリニャーノはこの年の一二月初めに都へ向けて出発した。黒田好高らから、秀吉が巡察師一行が追放令を緩和するためにやって来たのではないかと疑っているから、同行の司祭を少なくし、俗人のポルトガル人を多くするようにとの忠告を受けていたので、一行は一二名の俗人を含めて二七名になった。

つまり、あくまでインド副王の使節だという点を強調したのである。だが、一行は瀬戸内の室港で二ヵ月半滞在せねばならなかった。彼らに好意的で秀吉にとりなしてくれるはずの浅野長政が、東北地方の反乱鎮圧の任に当たって帰京できなかったからである。

この年は北条氏征伐が行われ、秀吉は九月に都へ凱旋していた。室滞在には収穫もあった。折から日本の正月で、秀吉に伺候するために上京する諸侯が通りすがりに、巡察師に会いに来たのだ。中でも毛利輝元とは親交を樹立することができた。

黒田孝高の長子長政が説教を聴聞して、信仰を深めたのも喜ばしかった。彼は父親からすすめられて入信していたが、教義はろくにわかっていなかったのである。対馬の宗義智も会いに来た。彼はこの直後、都でひそかに受洗することになる。

だが、ヴァリニャーノにとって最大の喜びは、大友義統(秀吉にあやかって吉統と改名していた)の回心であったろう。彼は追放令が出ると恐怖して、領内でキリシタン弾圧を行っていたが、このたび過去の所業を悔悟し、伊東マンショを頼って詫びを入れた。

一方、都の秀吉の疑心は募るばかりだった。副王使節とは偽りで、司祭たちへの宥恕を乞いに来るのだと思いこんだのである。孝高はすでに小田原在陣のとき、ヴァリニャーノの来日について秀吉に取りなして、「汝はまだバテレンのことを言うのか。そのバテレンびいきで、大国をもらいそこねたのに、まだ懲りぬのか」と不興を買い、このたびは表に立つことができなかった。

そこで彼は、のちの五奉行の一人の増田長盛に働きかけた。増田の進言で秀吉はやっと巡察師と会う気になった。ただし、司祭追放の件で来るのなら絶対に会わぬ、

P220副王使節として伺候するのなら会うというのだ。やっと室を離れたヴァリニャーノは、大阪で高山右近と会った。右近はこのとき前田利家に預けられていて、はるばる加賀から会いに来たのである。

このとき彼は「デウスから受けた最大の恩寵のひとつは、関白の政庁と交わらなくてよくなったことだ」と語ったという。心境の透徹見るべきだろう。

ヴァリニャーノ一行は一五九一年三月三日、折から完成した豪華な聚楽第で秀吉と会見した。入京に当たって、その美々しく堂々たる行列は、都人の目を驚かしたと伝えられる。数々の贈物の中でも、アラビア馬は注目の的だったろう。

日本の馬は、幕末来日した外国人がポニーと呼んだほど小柄だったからだ。秀吉は一行を歓待した。ヴァリニャーノが司祭追放の件に触れなかったからである。彼は伊東マンショが気に入って、自分に随身せぬかと誘った。マンショは断るのにひと苦労した。四人の欧州帰りの公子が演奏する音楽にも大いに興味を示した。

・ロドリゲス・ツズの活躍 P220-222
(略) P221 ヴァリニャーノ一行は三月末に都を発ち長崎へ帰った。追放令については一言も触れなかったから、事態はもとのままであったが、秀吉の心が著しく和らいだのは大きな収穫だった。しかし彼の身辺には、バテレンに対して悪意のある情報を絶えず注ぎこむ者がいたので、彼はふたたび、インド副王の遺使というのはイエズス会が作りあげた芝居ではないかという疑いにとらわれた。

そこで、副王の書簡に対する彼の返信は、宣教師がふたたびこの地に来て布教しようとするならば、ことごとく首をはねるなど、敵意に満ちた文言を連ねたものになった。都のオルガンティーノは、このことを知るや、直ちにヴァリニャーノに通知した。そんな国書をインド副王のものとに持って帰るわけにはいかない。

彼はオルガンティーノに、全力を尽くして返簡の内容を改めるべく努力せよと指令した。

オルガンティーノは京都所司代の前田玄以に働きかけた。玄以は秀吉に対して、「殿下がインド副王使節をニセモノとお疑いなら、真相を知るのは容易でありましょう。先日通訳を務めた修道士が在京しておりますから、呼び出して尋問なさるがよろしい」と説き、かくしてロドリゲス・ツズの出番となったのである。

ロドリゲスはヴァリニャーノが正真正銘の副王使節であることを、巧みに説いてついに秀吉を満足させた。秀吉は「インドでは誰もがキリシタンなのか」と問い、ロドリゲスが「信仰は自由で、なりたい者だけがなる」と答えると、非常に満足した様子で、「日本でもそうあるべきだ。

予はバテレンの門弟の諸侯が家臣を無理やりにキリシタンにしたので、バテレン追放に踏み切ったのだ」と言い、さらに小声で「下賤のものがキリシタンになP222るのは一向差支えない」とつけ加えた。(略)玄以は機を見て秀吉に、インド副王との親善をお望みなら、国書の内容を変える必要がありましょうと説いた。

秀吉は素直に肯き、副王宛の書簡はかなり穏当な文面に改められた。さらに秀吉は玄以の進言に従って、人質として一〇人の司祭が長崎に残留することを認めた。新たな迫害が始まりそうな一時の雲行きからすると、思いもかけぬ大成果である。

これは長崎港での一事件によって、マカオとの貿易を維持するためには司祭の存在が必要であることに、秀吉が気づいたためでもあるかもしれない。

この年の八月、定航船が長崎へ入ると、秀吉は鍋島直茂らを遣わして、舶載された金を買占めさせようとしたが、そのような独占行為をポルトガル商人は拒否し、結局イエズス会の仲介によって問題は解決したのである。

鍋島らは二〇〇〇の兵を伴い、初めは長崎教会を踏みつぶしかねぬ勢いだったが、交渉のまずさを秀吉に叱責され、教会に対する態度も漸次軟化するに至った。

P222(略)
・天草学林の印刷所 P222-224
(略)
・イエズス会の「武力反抗計画」P224-227(tw,tw)
ここで、いわゆる「宣教師の軍事計画」なるものに触れておかねばならない。コエリュが一五八五年に、フィリピン・イエズス会宛てに、二、三隻の軍船をフィリピン総督が日本に派遣するよう求めたことは先に述べた(参照)。

その彼が秀吉のバテレン追放に当たって、同様の軍事的対応をを計画したのは、極めて自然のなりゆきといってよかろう。

P225 一五八九年二月、彼は有馬領にフロイスなど六名の司祭を招集して協議会を開き、当時マカオにいたヴァリニャーノのもとに使者を派遣して、彼が来日する際二〇〇名の軍隊を伴うべく要請すること、さらに彼から、スペイン国王・インド副王・フィリピン総督に軍事援助を要請してもらうことの二点を議決した。

コエリュを含め七名の司祭中、反対はオルガンティーノ一人で、使者にはモーラが選ばれた。マカオでモーラに会ってこの計画を知ったヴァリニャーノは驚愕して、ただちに会総長宛書簡(六月一二日付)で、この計画の危険性を報告し、モーラにもフィリピン渡航を禁止した。

だが、ヴァリニャーノが来日後明らかにしえたところによると(一五九○年一○月一四日付、会総長宛書簡)、コエリュの策動はこれにとどまるものではなかったのである。コエリュはバテレン追放令が出るや、有馬晴信らキリシタン領主に、結束して秀吉に敵対するよう働きかけ、資金と武器の供与を約束し、実際に銃器、弾薬を買い入れた。

この計画が晴信・行長の反対で潰れたので、長崎を要塞化する方針に変更し、ヴァリニャーノが連れてくる兵士とともに要塞に立て籠る考えだったのである。コエリュはモーラをマカオへ派遣するだけでなく、直接フィリピン総督に派兵を要請していた。

ヴァリニャーノが再来日したとき、コエリュはすでにその二ヵ月前に死亡していた。ヴァリニャーノは彼が集積した武器弾薬を処分し、武力反抗の形跡を消し去るように努めた。このような策動があったことが秀吉の知るところになれば、日本イエズス会は即座に破滅の日をを迎えるであろうから、ヴァリニャーノは前期書簡で、追放令の発布を誘発する上で、コエリュに責任があったと、縷々述べ立てている。

すなわち、大阪城で秀吉と会見したとき、
秀吉が九州に派兵するなら、自分が九州のキリシタン領主を糾合して助力せしめようとか、

大陸征服の志があるなら大船二隻を提供しようとか、軽率な言辞を吐いて秀吉に猜疑心を生じせしめたこと、
(参照)
さらに
博多へ大提督のようにフスタ船で乗りこんで、秀吉に見せびらかし、

フスタ船を秀吉に献上して彼の疑心をとり除くべきだという、高山右近らの忠告に従わなかったこと、
(参照)
この二点が追放令を自ら招き寄せることになったというのだ。

この点でコエリュ批判は、一切を死んだ人間のせいにするもののような感じがせぬこともないが、ヴァリニャーノなりの事情調査の結果だったろうし、オルガンティーノもまた同様の見解を示していることが注目される。

P226 ヴァリニャーノは自分が第一次巡察を終え四人の少年使節を連れて離日したとき(一五八二年二月)に示した方針に、コエリュが違反したというのだが、この点については、一定の軍事的介入はヴァリニャーノ自身が行ったことであり、長崎の要塞化も彼の指示によるもので、コエリュはただそれに従ったにすぎないとする見解がある。

その見解によると、ヴァリニャーノは当時の宣教師一般の例に洩れず、軍事征服による宣教を原則的に肯定していて、ただ日本の場合、それが適切でないとしただけであるという。

なるほど、それはそうだろう。一五九九年に至って、彼は「この国を征服するだけの武力を持ちたいと神に祈る」と語ったというし、オルガンティーノも追放令の翌年、秀吉の迫害は国王フェリペ二世が日本に宣戦するに十分な理由を与えると書いている。

しかし、そのことと、日本のその時々の状況において、軍事的対応をどのように採るかというのは、まったく別問題で、ヴァリニャーノが前提として軍事的征服を否定していなかったということが、コエリュの対応を彼が批判したことと何ら矛盾するものではない。

また、彼が第一次巡察時、大村氏有馬氏に援助を行ったのは、やむを得ざる緊急措置であったし、長崎の要塞化を指示したのも、深堀氏の度々の襲撃に備える最低限の防衛措置であった。それはけっして、キリシタン大名の武力を用いて日本の政局に介入する軍事計画ではなかった。

彼は一五八一年に著した『日本イエズス会士礼法指針』において、キリシタン領主に対する軍事援助に対して一定の枠を設けた。すなわち、相手がキリシタン領主であろうと武器を与えてはならぬとする。しかし、これは原則であって、P227キリスト教の興廃が関わるときは、援助せねばならぬこともある。

だが、これには慎重であるべきで、キリシタン領主と敵対する領主をイエズス会の敵と呼んではならない。以上は曖昧な文言のようにも思えるが、よく読むと真意は明らかである。すなわち、キリシタン領主を援助せねばならぬ場合があることを認めた上で、敵側の異教徒領主を、教会の敵と宣言してはならぬというのだ。なぜなら、そのような行為は宗旨に反するからだと言っているのも重要である。

ヴァリニャーノは一五七九年に来日してすぐ、必要に迫られて有馬氏を援助したが(第八章参照)、八一年には、大名側の対立に介入するのは教会の破滅につながる危険な行為だという認識に達していた。

コエリュが彼の指針に違反したのは明白である。

彼は大村純忠がやむなく龍造寺に屈服したとき、抗戦を説いていてやまず、ついに純忠と感情の疎隔をきたした。長崎に武器を集積したのも、ヴァリニャーノの指示に従ったものなどと到底いえない。ヴァリニャーノは深堀氏の襲撃など不安定な軍事状況に対応して、教会領たる長崎を防衛しようとしただけである。

ところがコエリュは、天下たる秀吉に対する武力反抗の拠点として、新たに武器弾薬を買い入れ、長崎を要塞化しようとしたのだ。どうしてこれが、ヴァリニャーノの指示に従っただけといえようか。ヴァリニャーノが、彼の方針に従ったにすぎないコエリュに一切の責任を転嫁し、自身の責任を免れたという見解は、コエリュの計画を知った時の彼の危機感を無視するものだ。

秀吉に対する武力反抗計画はコエリュひとりのものではなく、フロイス以下五司祭もそれを支持した。だが、事態を収拾するためには、コエリュひとりに責任をしぼるしかなかったのだ。コエリュの策動は『イエズス年解報』でもフロイスの『日本史』でも真相の語られない秘められた事実であり、イエズス会の活動の性格について、重要な一面を語るものである。

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