2022年9月25日日曜日

偏愛メモ 「最後の授業」について

みんなのレビュー:消えた「最後の授業」 言葉・国家・教育(1992.7.1)/府川 源一郎 - 紙の本:honto本の通販ストア(参照
さて、この物語は普仏戦争の結果、フランスが破れ、それまでフランスの領土であったアルザス・ロレーヌ地方がプロシアに割譲されたときの話である。

問題点はこの地方の言語状況にある。アルザス地方ではドイツ語系方言が話されていた。フランス語が「自分の言葉」であるのなら、「自分の言葉を話す事もできないのか!」と言うアメル先生の言葉はおかしなものである(最後の授業全文参照)。

つまり、アメル先生はアルザス人にとっての他人の言葉(フランス語)を国語として彼らに強制する加害者にほかならない。

これを指摘したのは田中克彦の「ことばと国家」であった(参照)。アメル先生がどれほど善意の持ち主であり、自由フランスを愛する文化人であったとしても、言語的には加害者でありうるということになる。

この指摘により、1986年度版の国語教科書から「最後の授業」は消えてしまったのである。

終章で著者は、『「最後の授業」を初めて読んだ子供たちは、たいがいひどく感動する』と書いている。 一般読者も同じであり、母国語を守ろうとする真摯な熱情への感動は普遍だ。

著者は読むことは、自らの問題意識をもとに作品を解体し、切り拓いていく営みであり、常に外側の世界と繋がっていかなければならないとする。教室は常に現代文化の最前線なのであるとし、「最後の授業」を新たな教材として「読む」可能性に期待をかけると結んでいる。

教諭時代に授業中一人の生徒が「アメル先生はなぜアルザスばんざいと書かなかったのだろう」と疑問を投げたという。その答えを探し続けてきた著者の二十年間の労作である。 生徒の素朴な疑問こそが真理をみつめる眼(まなこ)だったといえよう。

『反=日本語論』(1977、文庫1986)

 Ⅲ文学と革命 P207-225/「最後の授業」P213-219

P213フランス語であれ日本語であれ、一つの国語が、その国民によって正しく語られ、正しく綴られるにこしたことあるまい。だが一国の文化は、無前提的に正確な言葉遣いを人びとの間に広めたりはしない。

自然の状態にある言語は乱れているのが当然であり、言葉をめぐって正確さが語られるとき、そこにはきまって政治的・経済的・社会的な葛藤が、無言のうちに話題とされているのだ。

今日の国際的状況のもとで国語を愛するといった姿勢を標榜することは、汎地球的な規模において、非在郷信仰に似た一つの抽象にすぎない。

ときには、国語として課せられた言葉への憎悪が、文化的土壌の豊饒化に貢献している事実を見落としてはならない。アイルランド人ジェームズ・ジョイスにとっての英語は、二律背反的な愛憎の対象であったろうし、

P214アンチル諸島出身のフランツ・ファノンにとってのフランス語や、あるいは在日朝鮮人作家tちにとっての日本語もとうぜんそうしたものであるはずだろう。

高史明の『生きることの意味』(ちくま少年図書館)やD・ラミスの「イデオロギーとしての英会話」(『展望』一九七五年二月号)などは、一国語の正確な習得を強制し、また強制された者たちのこの現象への素直なアプローチとして、手頃な証言をかたちづくっているといえる。

だが、当面の問題は、国語の政治性といった命題を、権力とか支配階級とかの語彙を駆使して一般論として弁じたて、心ならずも加害者の側に身を置いてしまったものの罪の意識を、被害者たちへの程よい共感によって心理的に解消することにあるのではない。

その時代的な変容をたえず吟味し分析し、修正しながら自国語を最も美しい言葉の一つに仕立てあげているといわれるフランス人たちの、その言葉への自負と愛情と信頼といったものが、考えられているほど古くからの伝統ではなく、またそうした姿勢が、今日ある神話を形成しているとしたら、

その神話は当然政治的な捏造物であり、さらには神話に安住しきったことで、フランスの文化が何を失ったか、あるいはまた何を知らずにいるのかを、フローベールが生きた時代に即して語ってみようと思うのだ。

フランス人がいかに自国語を愛するかの象徴的な挿話として、しばしば引き合いに出される神話的な小説がある。アルフォンス・ドーデの短編で『月曜物語』におさめられた「最後の授業」がそれだ。

普仏戦争でプロシャ領土に併合されたあるアルザスの寒村の小学校での、文字通りの最後の授業の光景を、子供の目を通して語ったものである。いかにも第二次世界大戦前の日本知識人が感激しそうな話で、

P215この短編を読んだためにフランス語を学びはじめた人もいると聞くが、それがいかに神話的であるかは、言語社会学を専攻しておられる鈴木孝夫氏までが、「母国語を奪われそうになる人々の悲しみと、死んでもそれを奪われまいと決意する、自分たちの言語への愛着を見事に描き出している」として「最後の授業」に言及されている(『閉ざされた言語・日本語の世界』新潮社)点からみても明らかだろう。

だが、ドーデの短編が神話的であればあるほど、そこに惹き起こされる感動が偽物であり、言語社会学的な無知に由来しているという事実を見逃してはならない。

というのは、この短編の背景となっている時代のアルザスで、フランス語はいささかも愛すべき国語ではなかったことが、言語社会学的に証明しうるからである。

人は、文学にそう単純に感激してしまってはならないし、とりわけ虚構にすぎない作品の一部に基づいて論議を展開するような場合は、ことのほか現実的な視線を注がねばならないのだ。

第二帝政期末期(tw)から普仏戦争、そしてパリ=コミューヌにかけてのアルザス地方が、いかなる言語=文化的状況を生きつつあり、またその状況が、フランスのいかなる言語=文化政策の反映であったかを無視して、最後の授業にのぞむ国語教師の思いつめた表情や、圧し殺したため息や、絶句ぶりに心を動かされたりする精神は、歴史的現実を無視した抽象思考を弄ぶことしかできまい。

そこで、問題の「最後の授業」の背後にある歴史的現実にたち戻るならば、アルザス人にとってのフランス語が、高史明氏にとっての日本語、フランツ・ファノンにとってのフランス語のように、政策的に強制された他人の言葉でしかなかったことがすぐに思い起こされるはずだ。

P216なるほど、カール・マルクスの手になるという国際労働者協会総務委員会の普仏戦争をめぐるいわゆる第二宣言は、重要な要塞都市ストラスブールを首都に持つアルザスは、いわば「物的保証」としてドイツの「ヨリ狡猾な愛国者たち」によって要求された「軽蔑すべき口実」にすぎぬといっている。

だが、この地方で伝統的に話され、現在も日常的に流通しているのは、一般にアルザス語と呼ばれるドイツ語系の方言であり、世界的な少数民族擁護の運動と相呼応しつつ言語学者が口にしはじめたいわゆる地方語langues regionalesの一つである。

パリを中心とした極端な中央集権制で政治的・文化的な統一を維持して来たフランスも、高度成長の経済政策が必然化する地域開発の母胎として漸く地方分権的な行政が検討され始め、その一環として、一九七一年いらい、初等=中等教育の過程で七つの地方語の授業が実施されている。

それは、バスク語、ブルトン語、カタロニア語、コルシカ語、フラマン語、アルザス語、オクシタニア語の七語であるが、それらは、いずれもフランス大革命以前のフランスで現実に話されていた生きた言葉である。

十九世紀以後のフランス語の歩みは、この地方語への一貫した抑圧の歴史だということができる。一九七四年に国民公会に提出されたブロワの司教アベ・グレゴワールの報告によると、革命成就直後の時点で少なくみつもっても六百万人のフランス人がフランス語を全く理解しなかったという。

総人口が二千万そこそこの時代だから、ほぼ三人に一人は地方語を話していたとみることができる。さらに、ほぼ六百万人のフランス人は長い会話に耐えられず、正確なフランス語を操りうるのは三百万人、正確な綴りで字を書けたものはさらに少ないとアベ・グレゴワールは記している。

革命後の新政府にとって緊急の問題が言語統一政策であったのには当然だろう。

P217唯一の自由の言葉としてのフランス語の全国への普及が方言の駆逐とともに進行せねばならない。それには公立の教育施設の充実をはかる必要がある。わけても、教師養成のための師範学校の組織確立が重要である。

かくして、革命暦三年の霧月二日の政令により、一七九五年に、名高いエコール・ノルマルが設立され、知的選良の生産に専心することになるだろう。フランス語による初等教育が全国的な規模で開始されたのは、これを契機としてであるにすぎない。

そして、こうした統一政策に最も激しくさからったのが、辺境に位置して亡命者たちを多くかかえこんだブルターニュ地方、アルザス地方だったのである。

人びとはあいかわらず地方語を話しつづけ、行政文書や通達などは地方語に翻訳されぬ限り理解されることはなかったという。

戸籍法の制定、徴兵制の施行、就職上の必要といった条件がフランス語の普及にいささか貢献したとはいえ、その統一の歩みはきわめて緩慢であり、第一帝政下(tw)の統計局長グレゴワール・モンブレは、一八〇七年に、その効果が殆どんどあがっていない事実を認めねばならなかったほどだ。

言語統一政策が教育行政の面で改めて強化されるのは、普仏戦争に先立つ第二帝政期である。大革命後のそれが国家的統一の維持の第一条件であったのと比較して、十九世紀中葉におけるこうした風潮の再興は、ナポレオン三世の領土的野心や植民地拡大の夢を反映している。

教師は、いかなる地方であれ、教育の場での地方語の使用が厳禁される。この政策に激しく抵抗するアルザス人たちは、二言語使用の権利獲得のために持続的な運動を組織し、特別処置としてアルザス語の授業を何とか維持するが、

P218それも、一日に三十五分という短い時間に還元され、その授業も、フランス語で行われねばならなくなる。殆どの生徒は地方語の方を遥かによく理解するのだから、効率という点からはいかにも不条理な授業形態というべきだろう。

だが、アルザス地方の首府ストラスブールの学区長は、その配下の視学官に次のような手紙を送付する。「もしこの点を疎かにする教師がいたら、是非ともその名前を報告しなければならない」。(『フランス語』誌Langue Francaise第二十五号のMarc Hugの論文(La Situation en Alsace)による)

この手紙の日付が一八五九年七月十二日である点に注目しよう。独仏休戦協定の成立が十二年後の七一年なのだから、フランス万歳と黒板に書き残して沈黙する「最後の授業」の先生は、作者ドーデの意図がどんなものであれ、ストラスブールの学区長に名前を知られたくない教師の一人だったということになる。

いずれにせよ、彼は、アルザス人にとっての他人の他人の言葉を、国語として彼らに強制する加害者にほかならないのだ。だから、言語社会学的な見地から「最後の授業」を引用された鈴木氏は、氏自身がしばしば指摘される文化的な誤読に陥っておられるというほかはない。

「最後の授業」から読みとるべきは、フランス語という「自分たちの言語への愛着」などではいささかもないのだ。そんなものはどのみち一つの政治的な虚構にすぎない。

しかもその虚構の神話化に積極的に貢献してしまうのが、しばしば言葉の知を弄ぶ教師とか文学者といったたぐいの人間だという点こそを、アルフォンス・ドーデの短編から読みとらねばならない。

今日の日本語論の多くがどこか胡散臭いのは、その裏に、「最後の授業」の教師に似た善意の加害者が透けてみえるからではなかろうか。

P219実際「最後の授業」という短編がある種のフランス人にとってはきわめて不愉快な作品だという事実を発見して仰天したという体験談を、斎藤一郎氏が雑誌『ふらんす』(一九七五年一月号)に紹介している

パリで親交を結んだあるフランス人の夫妻から、フランス文学を学びはじめた動機などを聞かれ、氏は「最後の授業」に接した時の感激を語りはじめる。

すると、妙に気づまりな沈黙が相手夫婦の顔をこわばらせる。二人はブルターニュ出身のブルトン人だったのだ。彼らは、アルザス人と同様に、フランス語によって自分の言葉を奪われた人だったのである。

だから、フランス語は美しいとか、フランス人は母国語をこよなく愛するといったたぐいの言葉を、そう簡単に口にしてはならないというのが、斎藤氏の結論である。そういえば、パリの大学の日本語科の学生の一人に、日本における朝鮮人問題を研究したいという金髪の青年がいた。

彼は、胸をそらせていったものだ。「だって、ぼくは、ブルトン人ですから」。その研究に目鼻がついたら、本当に自分の言葉であるブルトン語を改めて学ぶつもりだと。彼は、ブルターニュの海を思わせる深く蒼い瞳を輝かせていた。

『ことばと国家』

(P049-051)

P49つまり、ことばは、そのことばで育った異国である故郷への思いをこめている。英語には、こういうばあいを示すことのできるnative countryといううまいことばがある。

漢字では、生まれそだった土地のことを故郷と書くから、きわめて多数のユダヤ人にとって、祖国と故国とはちがうのである。 

 人とことばのつながり

私たちが遠いイスラエルのことを考えているのは、すべて自分自身のみぢかな問題を考えるのにも役立つからであるが、このように祖国と故国が一致しない日本生まれの在日朝鮮人のことも、おのずと心にうかんでくる。

今日では、日本で生まれ育った二世、三世が、在日朝鮮人総数六四万人のうち七六%以上を占めるに至ったという。この数は急上昇して、近いうちには一〇〇 %にも達するであろう。

この人たちにとってこそ、朝鮮語は母語ではなくして、まさに母国語と呼ぶのにふさわしい。その母国語を母語にするためには、母と家庭は、子供の誕生とともに、たえず朝鮮語で話しかけ、また話させなければならない。

P50母国語を母語にすることは、いったん育ってしまった成人にとっては不可能にちかい。母語の特徴は、文法も辞書も用いずに、また教室などという外圧装置を用いることなく、ひとりでに身についたという点にあるからだ。

にもかかわらず、母語的なものへいくらかでも近づけようという意識的な努力は、異国にあっても、祖国に帰った日本ことを思い、ヘブライ語の学習にはげむユダヤ人(もし本当にそういうユダヤ人がいるとして)の姿に似ている。

なにしろイスラエル国家は、捨ててきた異国である故国の母語に執着する、言語的忠誠心の乏しい、ふらちな国民を少しでも減らすために、ヘブライ語のできない者は法令によって公職から排除しているからである。

しかし、大多数の日本人のばあいには故国と祖国が一致するように、母語も国語も一致し重なりあう。そのときは、それらをかけあわせた母国語という表現に矛盾は起きないのである。

しかしそれは、たまたまそうなっているにすぎないのであって、どのような状況でも通用し得るだけの一般性を欠いている。区別されるべき大切な概念を混同した、この一般性のない表現は、したがって、科学の用語としてはきわめてふさわしくない。

にもかかわらず母国語は、次のような、全く安心して使うことができないような文脈でも安易に用いられることがある。

たとえば、小学校の国語の教科書によく登場して有名になった「最後の授業」という短編について、
…ドーデの短編は、母国語を奪われそうになる人々の悲しみと、死んでもそれを奪われまいと決意する、自分たちの言語への愛着を見事に描き出しているのである」(鈴木孝夫「閉ざされた言語・日本語の世界」傍点は田中)
と述べた例がそれである。

P51ドーデのこの短編は、日本では「国語愛」を説くための伝統的な教材に仕立てあげられているが、その歴史的背景を考えてみると、これほど問題を含む作品はない。

この短編の舞台アルザスの、土地の本来のことばはドイツ語、あるいはそれに近いことばである。

独仏両国のあいだでたびたび帰属がが変わるその複雑な事情については第五章にゆずるとして、永年の言語弾圧にもかかわらず、いまなお七〇%のドイツ語(あるいはアルザス語)を母語とする住民において「母国語」としてのフランス語を「死んでも奪われまいと決意する」のは、どう考えても奇妙な、つじつまのあわない話である。

その決意ができるのは「フランスばんざい!」と黒板に書いたアメル先生だけのはずである、しかし、注意しなければならないのは、アメル先生は決して「母国語」などということばを使ってはおらず、単に「自分のことば」と言っているし、翻訳された日本語でもそうなっているのである。

それを「母国語」としたのは、またもや日本の一般読者向けの煽情的な思い入れである。

以上のことを考えに入れたうえで、一つのことをはっきりさせておきたい。ある言葉への愛情は、じゃならずしもフランスとか日本とか、朝鮮とかの国家への愛を伴う必要必要はないということだ。

ゲンダーヌさんの話が美しく感動的なのは、その母語にとっての母語はなくとも、母語そのものと、それを話す人たちへの、ひとりだちした強い孤独な愛を見るからである。

P52同様にイスラエルに帰ったユダヤ人が、その国家の国民であるか否かにかかわらず、故郷で身につけた母語に示す断ちがたい執着の気持ちも、国家をさしおいた、人のことばとの根源的なつながりをあらわにしていて感動的なのである。

啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」とよんだ、そのなつかしいことばは国家のことばではなかった。国家の標準からはじきだされているだけに、そのなまりはいとおしく、なつかしさはいっそう深いものであったのであろう。

そのことは、方言の話し手にとっては説明ぬきですぐにわかることである。

(P114-122)