2023年12月16日土曜日

偏愛メモ 『「日米関係」とは何だったのか』第二章 朝鮮戦争と対日講和 1950-52年 P57~

P57アメリカ政府は、

吉田茂とダレス
P60日本では条約局が首相に、中国やソ連も含め戦時中のすべての敵対国と条約を締結し、非武装をつづけるよう勧告した。吉田は、これは趣旨においては興味をそそるが、非現実的だ、だと思った。

一九五一年一月、吉田は主権を回復し、政治的経済的制度をほとんど含まず、自衛の権利を認めた条約案で、アメリカと交渉に入ることを承認した。

P61吉田は、安全保障条約の方が講和条約そのものよりも問題が多いだろう、と予想していた。数年後に吉田首相の娘が語ったところによると、吉田はアメリカとの安全保障条約は、たとえ一時的には悪だと思っても必要悪だ、と思っていた。「当時としては、それしかしょうがなかったが、それはわれわれにとっては非常に不自然な地位である、ということを父はつねに意識していた」と彼女は述べている。

一九五〇年十月に吉田は、おそらく駆け引きの手としてであろうが、日本本土ではなく、小笠原諸島や琉球諸島に軍事基地を貸与するというかつての案をむし返した。吉田は、これは受け入れられないだろうとは思っていた。その点は譲る代わりに、再軍備を遅らせる、そのためにこの案を持ち出したのかもしれない(7)。



P66双方は、アメリカが極東のいかなる場所に対しても使用できるように「日本国内および周囲に陸海空の軍隊」を維持するよう日本側から「要請」する、ことに決定した。

マッカーサーの解任
P68講和条約締結に向けての動きは、一九五一年四月十一日にトルーマン大統領がマッカーサーを韓国と日本のアメリカ軍司令官の地位から解任した後もつづいた。トルーマンは前年の八月、マッカーサーが中国本土への攻撃を公然と要求したとき、彼の解任を考えた。

トルーマン政権の戦略に対するマッカーサーの批判は、一九五〇年十一月に中国軍が朝鮮半島に介入してきて以後ますます激しくなっていた。トルーマンと同様、統合参謀本部も、マッカーサーの指揮、判断、動機に対して次第に不信を抱くようになった。

一九五一年三月、戦線が膠着したときマッカーサーは、アメリカ側から中国に対して和平の動きに出ようとするのを妨害した。四月にはトルーマンと統合参謀本部は、マッカーサーは原子爆弾の使用を正当化するため、中国との戦争の拡大をはかろうとしているのではないか、と懸念した。

トルーマンらはかねてから、中国やソ連の戦争拡大の動きを封じる手段として原子爆弾を太平洋に移転しようと考えていたのであった。

P74トルーマンは国防総省に態度を和らげるよう求めたが、その説得も迫力がなく、軍部は頑強に抵抗した。国務次官補ディーン・ラスクは、双方が受け入れられる案文の作成を命じられ、三か月間国防総省の役人たちとやり合った。

一九五二年二月に彼は東京に草案を持参し、そこでさらに約一か月、日本側と交渉した。二月二十八日に調印されたこの協定は、占領終結後の数百の施設と基地についてアメリカに広範な選択権を与えていた。

日本側が現行の基地を貸すことをためらっても、アメリカの権利は自動的に延長されることになっていた。日本人に対する犯罪のかどで告発されているアメリカ人についての裁判権はアメリカが保持した。

P75ただし特別な場合には、この権利の行使は差し控えられることになっていた。在日アメリカ軍の地位に関する規定は、北大西洋条約機構(NATO)の国々の駐留アメリカ軍に関する規定に比べ、はるかに不平等であった。

危機に際しては、日本の自衛部隊を「合同指揮」下に置く、というアメリカ側の要求に対しては、日本側は最後まで頑として譲らなかった。そして単に「協議する」ということで同意した。

P84朝鮮戦争の間、日本の兵員はアメリカ軍を助けた。海上保安隊の掃海艇は朝鮮半島の沿岸に沿った港の掃海作業を助けた。アメリカ/国連軍司令部は、かつて朝鮮半島で海運や鉄道の仕事をしに専門に従事したことのある日本人を、ひそかに雇った。

マーフィー駐日大使は、彼らがいなければ、「連合軍は朝鮮半島にとどまることはできなかっただろう」と述べている。

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