2023年12月26日火曜日

偏愛メモ 『「日米関係」とは何だったのか』第四章 占領の残映下で 1952-55年 P109~

P109一九五二年四月、占領は終わった。だがその後数年間、日本は従属国のままだった。沖縄やその他の島々に対する外国支配に加え、数百の基地に駐留する二〇万のアメリカ軍は、日本を完全独立からはほど遠いものにしうていた。

日本の外交、安全保障、貿易は、依然アメリカ政府が設定した優先順位の枠に拘束されていた。だが、従属しているからといって受け身である必要はなかった。吉田時代の長い黎明期のあいだにも、日本の政治経済の指導者たちは、しばしば日本の好ましい方向にアメリカが舵をとるようにしむけていた。

アメリカ政府が日本の再軍備、中国の隔離、東南アジアでの封じ込め政策を進めていたあいだも、日本は中国貿易の拡大、東南アジアへの商業的進出、軍事的援助の経済発展への利用に努めていた。

吉田とその後継者たちにとっては、輸出拡大の努力は、単に繁栄のための定式であるだけでなく、ナショナリズムや外交政策戦略のいわば代用策であった。

一九五二年以後の日本では、外務省も自衛隊も、大蔵省や通産省あるいは大企業ほどの重要な役割は果たしていなかった。日本のエコノミストたちによれば、冷戦の間、アメリカの巨額の防衛支出と自由貿易の促進は、「銀行と経済官僚」に「高度経済成長という第二の『総力戦』の戦場の背後で参謀の役を担わせ」た。

日本の指導者は、防衛調達と対米輸出の増大が、成長にとって必須のものだと考えた。自由党と改進党は路線が激しく対立し、社会党と共産党は、保守党を攻撃の対象にしただけでなく、互いに相手を非難していたが、日本は冷戦に直接関係することを避け、経済成長を促進しなければならないということについては、ほとんどの政党が暗黙のうちに同意見であった。

アメリカと日本の役人は、再軍備と対中、対東南アジア政策とが関連していることを認めていた。だが、アメリカは再軍備した日本がアジアでの封じ込め政策の一端を担うことを求めていたが、日本人の大部分は、防衛よりも経済成長の方を優先して考えていた。

日本政府の見方からすれば、共産主義の抑止と市場の確保には、中国との貿易と東南アジアの経済発展の促進が最善の道であった。

再軍備、中国、東南アジアの問題は、一九五〇年代を通じて、そしてそれ以後も日米両国の相互関係を支配した。同盟関係を維持するために、それぞれが重要な点で妥協した。

アメリカにとっては安定した日本に軍事基地を維持することや中国を隔離することの方が、日本に再軍備を強いることよりも重要であった。

一方、日本にとっては、軍事調達を確保することや、アメリカの消費者に受け入れてもらうことの方が、憲法の「非戦」規定を几帳面に守ることや、中国との外交関係を確立することよりも重要であった。

アメリカはくり返し日本の再軍備ののろさを批判した。一方日本は太平洋でのアメリカの核実験、中国貿易の制限、安全保障条約の不平等性について、これまたくり返し不満を述べた。

このくり返し行われる批判と不満のぶつけ合いは、いわば一種の儀式のようなものだったが、これをつづけることによってお互いがそれなりに得るところがあった。占領終了時に築かれた両国の関係は、きわめて耐久力が強かった。

憲法改正論議
P111占領終了後初めて行われた一九五二年十月の衆議院選挙では、当選者の四二パーセントがかつての被追放者--ほとんどが自由党と改進党の党員--であった。その多くは本来の指導者として、吉田茂よりも同じ追放解除者の鳩山一郎や重光葵に期待した。

左右両派の社会党と他の反対党は衆議院議員の約三分の一を保持した。吉田は依然政権を維持していたが、その指導力は弱まっていた。

一九五三年二月、社会党の代議士が占領時の改革を弱めようといういくつかの法案について質問し他のに対して、吉田がその代議士を「馬鹿野郎」とどなりつけた。この事件のあと、吉田首相の地位はいっそう弱まった。

そして反吉田の保守派が社会党と結んで衆議院で吉田首相不信任決議案を可決し、衆議院解散、総選挙という事態に追い込んだ。一九五三年四月の選挙の結果、反吉田の保守派が数を増やす一方、社会党は左右両派を合わせ、三分の一の議席を保持した。

自由党と改進党内の派閥争いの結果、吉田は一九五四年十二月まで政権の座を維持することができた。だが、衆議院を支配したのは、彼の反対者たちだった。

保守党、社会党双方の内部対立は、再軍備をめぐる議論に重要な影響を及ぼした。吉田は、憲法第九条は再軍備について慎重な行動計画を要求している、と主張した。

鳩山や重光のような保守派は憲法上の問題があることは認めていたが、その問題は、軍隊の創設を認めるように憲法を改正することによって解決すべきだと提案した。

彼らは、アメリカ軍と安全保障条約に依存することは日本を従属的立場におき、中国、東南アジア、ソ連に対して、より現実的に対処することができないようにしている、と訴えた。

憲法を改正することによって、日本は自分自身の防衛に責任を持ち、安全保障条約

P112の条項についてアメリカと再交渉を要求することができる。これらいわゆる改憲論者は、憲法改正を再軍備、ナショナリズム、より自主的な外交政策に結び付けた。

吉田と社会党は、憲法改正とその意味するものに対する事実上の反対派を形成していた。吉田は、憲法九条が限定された再軍備のために「掩護物」を提供してくれていることを高く評価していた。

安全保障条約は、いかにそれが日本の威信を損なうものであっても、安い価格で保護を提供してくれる。社会党は、限定された再軍備にも反対していた。そして憲法改正は軍国主義と国内の圧政を復活させるだろう、と考えていた。

吉田の自由党支持派と社会党は、暗黙のうちに一致して改憲論者の計画を頓挫させようとしていた。

このような対立は、アメリカの政策立案者を一つのジレンマに直面させることになった。吉田の再軍備引き延ばし戦術は、しばしばアメリカ政府の不満をつのらせた。だが吉田は、社会党や彼らの中立主義よりもはるかに好ましかった。

改憲論者の計画の中には、憲法改正や再軍備のように、ダレスや他のアイゼンハワー政権の有力メンバーに歓迎される面があった。だが同時に、改憲論者が自立的な軍隊や、ソ連や共産中国との正常な関係を要求していることについては、アメリカ側は警戒の念をもって見ていた。

その結果アイゼンハワー政権は、吉田に批判的な保守派に肩入れするするようなことはあえてしなかった。その代わり彼らは、アメリカとの同盟関係を守り、再軍備に賛成し、社会党にあくまでも反対する単一の保守政党の結成を促した。

相互防衛援助協定
一九五〇年代を通じて、アメリカの軍と外交の上層部は、共産圏に対して強力な軍事的挑戦を行う能力を持つ東アジアでの唯一の同盟国が、

P113冷戦の場でのプレイヤーではなく応援団長の地位に依然とどまっていることを残念がった。吉田の態度は、安全保障計画に関係するアメリカの役人たちの不満をつのらせた。

彼らは、約二〇万人のアメリカ軍が日本に釘づけになっていること、またアジアの他の地域における共産勢力の挑戦に対して使える軍隊が日本に欠けていることを不満に思っていた。

一九五一年にアメリカ議会は、朝鮮戦争の間に展開された数多くの軍事援助計画の調整をはかるため、相互防衛援助法(MSA)を成立させた。MSAは、自国の防衛を進んで強化しようとする同盟国に対して資金と武器を提供した。

だが吉田は、この誘いにとびつかなかった。彼は一九五二年一月に警察予備隊を一一万名に増員した。だが、これはアメリカ政府の要求した規模の三分の一であった。

この問題は、一九五二年九月に吉田の腹心、池田勇人がメキシコ市で米財務長官ジョン・W・スナイダーとジョーゼフ・ドッジの二人と会談したとき再び持ち上がった。

アメリカ側は、日本が自衛力を暫定的に一八万名に増やすとともに、最終的には三二万五〇〇〇名にすることに同意するならば、アメリカ議会はその費用として三億ドルを提供するつもりだ、と述べた。だが、吉田は依然アメリカ側の要求を無視したままであった。

そして大統領選挙と権力の移行にともなう処理の遅れのため、アメリカの圧力も弱まった。

政権の交替、それと朝鮮戦争を早く終わらせようというアイゼンハワーの決意は、日本に大きな影響を及ぼしたが、それは実質の面よりも、方式の面においてであった。中国や朝鮮半島と違って、日本問題はアメリカ国内で党派間の争いの種や一般国民の非難の種になることはなかった。トルーマン、アイゼンハワーの両人に仕えたダレスは、政策の継続性を象徴していた。

アイゼンハワーとそのスタッフたちは、市場の力(彼らのいう「援助ではなく、取り引き」)が同盟国

P114の経済成長を促進し、その安定に寄与してくれることを望んだ。彼らはまた、地域的な紛争にアメリカ軍を介入させる代わりに、大量核報復を脅しの手段として用いること--いわゆる「ニュールック」--によって防衛費の削減をはかろうとした。

だが、国防総省の計画立案者たちは、在日アメリカ軍の削減は日本の軍隊の増強によって埋め合わせるべきだ、と主張した。MSA計画は、この日本軍隊の増強をに日本政府に受け入れさせるための鼻薬だ、と考えられた。

ダレスは、MSA計画への日本の参加は講和、安全保障両条約の当然の帰結だ、と考えていた。一九五二年十二月、次期国務長官に擬せられていたダレスは、当時吉田の個人的な代理としてアメリカを訪れていた白洲次郎にそのことを話した。

白洲は、憲法の軍備禁止条項を信じている「日本国民を、まず再教育することなしに」軍隊を拡大することには、吉田は消極的であると述べた。そして、国民感情の無視は「政治的大変動」、「中立主義」に基づく社会党の躍進を招くおそれがある、と警告した。

ダレスはこの主張を退け、「自尊心」さえあれば、日本政府は「責任を負い、自由世界の防衛という共通の重責を担う」ことを納得できるはずだ、と主張した。

一九五三年五月、ダレスは日本政府と競技する前に、アメリカ議会の議員たちに、日本はMSA援助を受け入れ、一〇師団、三五万人の保安隊を作るだろう、と語った。

吉田がMSA計画を受け入れることに消極的なのは、少なくとも、朝鮮戦争がつづいているあいだは日本は、アメリカの軍事調達に頼ることができるし、日本自身の再軍備のことを気にかける必要はない、と彼が考えていたためであった。

日本の防衛産業はアメリカの納税者の負担で大きな利益を得ていたし、完全雇用を維持していた。日本の再軍備については、朝鮮半島に平和が訪れ、軍事注文が減少してきたときに初めて、産業界の同意が得られるであろう。

P115一九五三年、朝鮮半島の休戦交渉が進展を見せるにしたがい(七月に合意が成立した)、日本の産業界は軍事注文が急に途絶することをおそれた。

海運、漁業、繊維の各会社は伝統的な中国との交易の再開によって損失を埋め合わせたいと思っていたが、重工業業界は、化学工業業界はや金融業界とともに、雨立夏の防衛計画への参加が好ましい選択だと考えていた。

七月に経団連は、MSA資金による「適切に立案された」調達計画を支持した。経団連は、純粋な軍事生産の注文に加えて、先端技術の譲渡や産業界に対する全般的な経済援助を主張した。

経団連の防衛生産小委員会(委員長は前の三菱重工業社長の郷古潔)は吉田の戦列から離れ、海空の部隊に加えて、三〇万人の地上部隊増強計画を支持した。

岡崎外相は新しいアメリカ大使ジョン・アリソンにひそかに、産業界はMSAに賛成しているが、一般国民と吉田首相は、「アメリカの安全保障計画に組み込まれれば、日本の軍隊がアメリカの戦いに参加するために海外に送られることになる」のをおそれている、と語った。

アリソンは、MSAが意図しているのは、日本の防衛力を高め、「それによってアメリカ軍が撤退できるようにする」ための自発的な提携関係である、と答えた。吉田は、五月三十日のアメリカ上院議員エヴェレット・ダークセンの東京訪問のあと交渉に理解のある態度を示した。

イリノイ州選出の共和党議員エヴェレット・ダークセンは、MSAとアメリカの経済的「好意」とは密接に結びついていることを強調した。

アリソンとさらに協議を重ねた後、吉田首相と岡崎外相は、六月にMSAへの参加の意思を表明した。もっとも外相は参加について「軍事」面よりも「経済」面を強調した。

六月末に日米両政府は双方の立場を明らかにした覚書を交換した。援助の拡大はすべて第一に「日本国内の安全の防衛」と日本固有の個別的、集団的自衛権の達成について日本を助けるためのものである、と国務省は確信した。

P116経済的安定の促進は、日本の「自衛力の発展に関して考慮すべきもっとも重要な要素」であった。MSA協定においては、日本に対して「その保安隊を自衛以外の目的に使用する」ことは一切要求されなかった。

MSA計画への日本の参加に関する話し合いは七月の半ばに始まったが、すぐに難題に突き当たった。国防総省の代表は、「日本をアメリカの戦略部隊の前進拠点とし、アメリカ側が方針を決定し、日本側は二次的な役割にとどまる」ようにしたいという要望をちらつかせた。

アリソンにはそれが不満だった。また国防総省の計画の中には、一五○○人の軍事顧問団の派遣と、日本の防衛産業へのアメリカ人のコーディネーターの派遣が考えられていた。

これに対して、日本側が関心を持っていたのは、産業に対するMSA援助であり、軍事力の拡大について議論することには消極的だった。

ダレスは七月十日に、MSA援助によって日本は自衛力を早急に三倍に拡大し、三〇万人以上に増大させることができるだろう、という趣旨の声明を発表して、日本側をいきり立たせた。この声明は、吉田首相を激怒させた。

彼は国会で、四万人の増員が可能かどうか検討していると述べていたのである。アリソンはダレスに、一〇個師団というのは長期的な目標にすぎない、と言明するように、と説いた。だが、ダレスの説明はその点をぼかしたままだった。

ダレスが相互安全保障条約の討議のため、八月初旬に韓国を訪れるというニュースが伝わるとともに、MSAについての話し合いをめぐる緊張はいっそう高まった。吉田は、同世代の日本の要人たちと同様、韓国人を嫌っていて韓国大統領李承晩を軽蔑していた。

アリソンは、ダレスがソウルへの途中東京に立ち寄らなければ、吉田を怒らせ、交渉の進展を妨げるのではないか、と心配した。

ダレスは結局は東京訪問に同意したが、ワシントンを出発する前、記者たちに、韓国との防衛条約のみならず「日本、韓国、国民政府中国を防衛する相互安全保障条約」締結の可能性も探るつもりだ、と語った。

P117この言明が、吉田を怒らせ、国会を困惑させ、日本国民をおそれさせることは確実だった。アリソンは、これはMSAへの日本参加を頓挫させるかもしれないと、と思った。

混乱を鎮めるため、アイゼンハワー政権のスポークスマンは、日本を地域的軍事協定に参加させる意図はまったくない、と言明した。そしてさらに、アメリカは琉球列島の北端に位置する奄美群島を日本に返還する、と声明した。

ダレスと国務省の役人は、話し合いの際この群島を餌に日本側をおびき寄せようと思っていた。だがアイゼンハワーは、このような小さな島をちらつかせたあげく、「われわれの主要な目的である…長期にわたる日本の友情と忠誠を失う」危険をおかすことは「ばかげている」と思った。

そして「この島々の日本への返還は、もともと自分としては『絶対実行しなければならないこと』なのだ、と語気を強めて言明した」

この声明のおかげでダレスを迎える東京の空気は和らいだが、ワシントンに戻ってきたときダレスは記者たちに、「アジアの防衛に対する日本政府の消極的な態度につて不満」を述べ、わずかに残っていた日本に対する好意をすっかり捨ててしまった。

国防総省は、朝鮮戦争休戦後アメリカ軍四個師団を韓国から日本に移駐させるという計画--たとえ日本政府が在日アメリカ軍の削減を要求しても--を発表して、事態を悪化させた。

こうしたことからアリソンは、ダレスは日本をひどく誤解していて、強硬な話し合いによって再軍備を促進させることができると誤って信じこんでいる、と考えた。

十月にMSA問題に関する話し合いの第二ラウンドが始まったが、その直前、吉田とそのライバルである重光と鳩山とのあいだで、アメリカの援助を確保するための防衛計画について意見の一致を見た(彼らはまた、重要産業のストライキの制限、警察力の増強、軍人恩給の復活、反独占法規の緩和、左翼的な日教組(日本教職員組合)後からの削減に関する法律の制定を提案した)。

P118吉田と重光は、適度の規模の再軍備計画を支持し、「アメリカ軍の段階的削減」を促し、またそれと「歩調を合わせ」て、「保安隊」を「自衛隊」に変える立法措置を提案した。

アリソン大使と岡崎外相は、日本国民を激怒させたもう一つの問題--アメリカの軍人が日本国内で犯した犯罪について訴追を免除する事実上の治外法権--を解決した。

九月二十九日に彼らは、NATO諸国に駐留するアメリカ軍と同様、在日アメリカ軍も日本の裁判管轄権の下におくことを規定した改定議定書に署名した。だがアリソンは、「実際は、日本が…裁判権を行使するのは、きわめてまれにしかない」という内密の保証を得ていた。

吉田はMSA協定の最終交渉のため、三人の側近--前蔵相の池田勇人、宮沢喜一、愛知揆一--をワシントンに派遣した。彼らの経歴はいずれも国家の安全保障関係ではなく、財政関係であった。

彼らはできるだけ譲歩しないようにといわれていた。吉田が宮沢に語ったところによれば、日本は「当分は、いわゆる再軍備をうまくやってのけることはできないし、国民のあいだにも関心がない」。

再軍備は「暮らしが元どおりになれば、自然と」いつかできてくるだろう。吉田は、「利己的」と思われる危険を冒してでも、「そのときまで、日本の安全保障をアメリカの手に委ねる」方を選んだ。

彼は、「憲法が軍備を禁じているのは、天与の幸運」だと思っていた。「アメリカ側が不満に思っても、憲法が掩護物になってくれる。憲法を改正したいと思う政治家はとんまだ」。

日本代表はMSA協定の話し合いに多くの非軍事的問題を持ち出した。たとえば、中国との貿易制限の緩和、東南アジアとの関係改善の援助、経済援助の増加などである。

アメリカ側の首席代表、極東問題担当国務次官補ウォルター・ロバートソン--補佐役の話によれば、「きわめて愛想がよいが、毛沢東に対しては激しい敵意を燃やしているヴァージニアの銀行家」--は、これら日本側の要求のすべてに異議を唱えた。

P119アイゼンハワー大統領はMSA交渉で直接的な役割はほとんど果たしていなかったが、彼は「日本側が…重荷の一端を担い、自分自身の防衛組織を確立する」ことを望んでいた。

彼はアメリカが押しつけた日本の憲法に対する不満を口にしてはいた。だが「たとえ太平洋の他の友好国をこわがらせないために、太平洋地域で自由世界が必要とする海空の兵力をわれわれがいつも提供しなければならないとしても」、日本が「自国の防衛の責任を担う」べき時が来た、と確信していた。

十月五日に本格的な話し合いが始まったとき、池田は、「日本には防衛支出を増大できない特別な事情がある」と述べた。国務次官補ローバートソンと統合参謀本部議長アーサー・ラドフォード海軍大将は、池田の訴えを無視した。

彼らは、日本は中ソの軍事的脅威に直面している。適当な規模の海空の兵力と一緒に、約三二万五〇〇〇人、一〇個師団の陸軍を育成しなければならない、と主張した。アメリカ政府は兵器と、軍事用品の日本での調達資金を提供し、占領時から繰り越されてきた二〇億ドルの負債の返済延期を認める用意がある。

アメリカ側は日本側に提案の細目を手渡し、回答を待った。

池田は十月十三日の回答で、アメリカ側の要求をかわした。そして、日本国民のほとんどは、アメリカが大規模の再軍備を援助してくれるよりも、「赤色中国との貿易に対する制限を緩和してくれる」ことを切望している、と述べた。

日本国民は、産業発展を促進し、東南アジアでの貿易の機会を増大させるためにMSA援助を望んでいる。それが達成できれば、日本は陸上兵力を三年のあいだに一八万人に拡大し、そして徐々に適度の海空の兵力を育成していく。

P120アメリカ側はこの回答をまったく「不十分」だと思った。そして日本が一年以内に一八万人の目標を達成し、そのあと、二、三年以内に三五万人の兵力にすることを要求した。

日本がこれに同意すれば、アメリカは軍事調達を一億ドル増やし、五〇〇〇万ドルの農産物を供与し、綿花借款と、発電所建設のための国際復興開発銀行からの借入れを支援する用意があるというのだ。

話し合いのあいだ池田は、日本の憲法が純粋の防衛力以外の兵力の創設を禁じていることを説明した。軍事力が増強されても、国外への使用は許されない。ロバートソンに対する池田の説明によれば、「必要最小限の増強計画で事を進める以外に方法はない」。

十月三十日の結論の出ないままの最終会議のあと、日本政府は、討議は「相互の理解を深めた」有益な作業であった、と述べた。

「有益な」「非公式」の意見の交換を行い、防衛力強化のための日本の努力に関し「いっそうの協力のための基礎」を築いた、という声明を双方が発表した。そこにあげられた援助は、五〇〇〇万ドルの農産物の供与(日本国内で円で売り、収益は防衛生産の資金に使用される)、四〇〇〇万ドルの国際復興開発銀行からの借入れ、それと六〇〇〇万ドルの輸出入銀行からの信用供与であった。

東京に戻った池田はアリソンに、自分と吉田は、経済援助については最大限のものを提供し、兵力増強については最小限のものしか要求しないMSA協定の調印を望んでいる、と語った。

再軍備に対する反対の強さを知ったアリソンは内心、このような態度に同情を寄せた。そしてダレスやロバートソンが、日本側をまったくの「ぐず」だと思っているのは間違っていると思った。だが、日本に対するダレスたちのこのような考えは、一九五三年十一月の副大統領リチャード・ニクソンの東京訪問によっていっそう強まった。

P121ニクソンは、二か月間のアジア旅行の途中、日本に立ち寄った。一九四五年以来初めての「国賓」であり、日本にとって彼の訪問は名誉ではあったが、同時のその行動は日本側をいらだたせた(tw,tw)。

ニクソンの先発隊は、わざわざ小学生の集団をニクソンの車の通り道に沿って並ばせることにした。彼はまた、ニクソンが「普通の人びと」と握手しているのを写真に撮らせるようにした(写真)。だが、アリソンによれば、この「普通の人びと」のほんとんどにとってカメラの前で外国人が自分たちの手を握るのは、まったく気持ちのよくないことであった。

ニクソンは、日本に対するソ連圏の脅威について警告し、日本政府に再軍備を急ぐことを懇請した、吉田と天皇あてのアイゼンハワーの手紙を持参していた。ニクソンは日米協会で次のように述べた(tw)。
一九四六年には軍備縮小が正しかったのなら、一九五三年にはなぜそれが間違っているのか?もしそれが一九四六年には正しく、一九五三年に間違っているとしたら、なぜアメリカは間違いを犯したことを、一度たりとも認めようとしないのか?私は公的地位にある人間が当然、為すべきだと思われることを為すつもりである。私は、アメリカは一九四六年に間違いを犯したことを、この場で認めるつもりである。
占領時の改革の中心である憲法の規定を「間違い」だとするこの言葉は、吉田--彼は憲法第九条の陰に隠れていた--を当惑させ、保守党のライバルたちを元気づかせた。

吉田との議論の中でニクソンは、共産主義の浸透、中立主義の危険、対中貿易の制限の必要について警告した。日本人記者によると、ニクソンが何もかもひっくり返すので、吉田はニクソンと一緒にいると鼻血が出そうになる、ということであった。

P122さらに悪いことに、ニクソンは重光と会い、重光はすぐに二人の基本的な考えは同じだ、と言明した。

MSA交渉は一九五三年十二月、ロバートソンとラドフォードが東京を訪れたとき、再開され、一九五四年三月までつづいた。国防総省は依然、MSA援助は約一五〇〇人のアメリカ軍将校の監督を受け、アメリカの資金は再軍備に結びつけられるべきだ、と主張した。

急速な軍隊の増強に対する吉田の強硬な抵抗の結果、一九五四年三月に締結された協定は、前年十月の池田提案の線に沿ったものとなった。日本は適度の規模の空海軍の育成を約束したが、地上兵力は一八万人の線にとどめられた。

吉田首相は一応の経済援助を確保する一方、日本の軍事的義務を限定した。七月一日に発効した協定によって、日本政府は一億五〇〇〇万ドルの軍事施設の贈与、一億ドルの軍需注文、農産物の供与、日本の防衛産業に対する技術援助の約束を手に入れた。

MSA協定の前文には、日本は「自国の防衛に対する責任を今後いっそう担うようになる」だろう、というアメリカ政府の期待が強調されていた。だが一方では、防衛計画の立案に当たっては、「もっとも重要な要素として経済の安定を考慮に入れる」、また、日本は「その全般的な経済の状況と能力の許す範囲で貢献する」という日本側の要求が確認されていた。

岡崎外相は一九五四年三月八日の協定の調印に当たって、この協定の義務と責任の遂行は「両国のそのときの状況と、それぞれの利害」いかんにかかっている、と説明した。

日本の義務は、現行の安全保障条約によって「取り決められた約束を実行することによって完全に果たされる」「新しい、別個の軍事的義務はまったくない」、また「日本の保安隊の海外出動など」に関するいかなる問題も生じるることはない、と彼は言明した。

アメリカ大使館は、日本の新聞、知識人、左翼政党のMSA協定に対するほとんど口をそろえての批判にもかかわらず、「はるかに有力な勢力」--すなわち、官界、金融界、産業界--が、協定の迅速な国会承認を保証している、と報じた。

P123吉田の期待にもかかわらず、MSA協定は彼の政治的基盤を強化しなかった。一九五三年七月の朝鮮戦争の休戦のあと、軍事調達は減少し、一九五三年の貿易赤字(軍事調達を含まない)は一〇億ドルに増大した。

MSAに関しても、一九五四年のアメリカの日本での防衛支出は約六億ドルで、一九五一~一九五三年平均の七億五○○○万ドルよりはるかに少なかった。貿易赤字のため日本の保有外貨は大きく減り、吉田は緊縮予算の実行を余儀なくされた。

左右の反対派からの攻撃を受け、吉田とその側近たちは、先日(一九五四年五月)のディエンビエンフーでのヴェトミンの勝利を考え、日本としては、アメリカの援助が増大されない限り、共産圏に対してより柔軟な態度をとることになるかもしれない、とアメリカ政府に対して率直に警告した。

八月に池田はアリソンに、秋に吉田がワシントンを訪れたときには、吉田が「アメリカから本当に贈りものらしい贈りものを持って帰る」ことが「絶対必要」だ、吉田としては、彼が「慈悲深い誰かの手先」である限り、反対者から「誰かの手先」といわれようとも問題ではない、と述べた。

だが、池田のこの訴えやおどしもほとんど反響はなかった。ダレスは、吉田は官僚、大企業、保守党仲間のあいだで影響力を大きく失ったので、新しい援助を確約するわけにはいかない、と思っていた。

一九五四年九月に吉田は、財政危機のため、自衛隊の増強予算を一〇パーセント削減した。増強を約束しておいて間もないこの削減は、ジョン・アリソンを怒らせた。

彼は、日本は同盟国でもなければ、協力相手でもなく、「周囲の状況によってしばらくはアメリカに協力しているが、その間も、この関係から最少の費用でできる限りの利益をしぼり取ろうと目論んでいる国」だと非難する書信をワシントンに送った。

P124日本人は見かけは近代的だが、「善悪についての抽象的観念がない--彼らの行動の指針は普遍的、理想的ではなく、その場その場の御都合主義である」、と彼は冷笑した。

アメリカ軍の要人たちの不満はさらに大きかった。日本に所在する極東軍司令部の参謀長カーター・B・マグルーダー将軍は、日本は共産主義に抵抗するよりもソ連をなだめることの方に気を使っている、と非難した。

彼は、「日本国民の道徳的性格を弱めるだけであり」、再軍備を無制限に延期するものだ、と非難した。日本が再軍備の意思を奮い起こさない限り、援助をさらに増大することは「金の浪費」だ、と彼は思った。

マグルーダーは「より攻撃的な精神を…燃えたたせる」ための最後の処置を提案した。アメリカ政府は、「現在の日本政府の交替を積極的に求め」、日本に自分で自分の利益を守らせるため、あるいは「日本に浦東アジアの指導的地位を求め」るようにさせるための援助を削減する。

そして、より戦闘的な考え方を助長するため、アメリカが「日本帝国が穏健な日本政府のもとに再建されることに賛成している」ことを示す、というのである。

アリソンはうっぷんをぶちまけたあと、当面は日本の政治的安定と経済的復興を「われわれの計画の中で絶対的な緊急優先目標とする」と述べた。不幸にして日本は、自由世界あるいは共産主義に賛成するにせよ反対するにせよ、根本的な確信というものをまったく持ちあわせていない、そして日本政府は「日本の利益を促進する」ということであれば、どんな道でも進もうとする。

アリソンによればアメリカの課題は、「われわれが彼らを必要としているのと少なくとも同じ程度には、彼らはわれわれを必要としているのだ」ということを日本の指導者に納得させることである。東南アジアで一時的に後退したとしても、それは「勝つのはわれわれの側である」という基本的事実を変えるものではないことを、日本政府に認識させなければならない。

ビキニ環礁での水爆実験
P125(略、福竜丸事件の顛末)
P130吉田の辞任後間もない十二月二十九日、ダレスは、福竜丸事件の保証問題解決のため、二〇〇万ドル(MSA資金から支払われた)を支払うことを承認した。新首相鳩山一郎、新外相重光葵は、それを、彼らの指導権に対するアメリカ政府の支持を証拠づけるものと受け取った。

アイゼンハワーとダレスはこの問題解決を、日本国内の反核、反同盟感情の削減のための安上がりの方法だと歓迎した。

ビキニの核実験はまた、『ゴジラ』--数多くの日本のいわゆる怪獣映画の最初のもの--の背景となった。福竜丸事件の数か月後にいち早く製作され封切られたこの映画に登場するゴジラは、南太平洋の核実験によって卵からかえり、海底から上陸してきて日本中をあばれまわった。

映画を社会批評だと考えていた監督本多猪四郎と製作者田中友幸は、占領時には禁止され、占領終了後も積極的には認められなかったテーマである太平洋でのアメリカの核実験を取り上げるのに、怪獣という形式は格好の方法だ、と思った。

アメリカの若い世代は、竜が火を吐いて市中を破壊するのを見て驚きの声をあげたが、太平洋戦争を生き残った日本人のなかには、ゴジラの怒りを見て、東京、広島、長崎の破壊を思い出すものもいた。死の灰事件とゴジラ映画が反核運動に火をつけたことに、アメリカ政府は愕然とした。

吉田時代の終焉
福竜丸の乗組員久保山愛吉の死から三日後の一九五四年九月二十六日、政治的に傷ついた吉田は日本を発って、二か月にわたるヨーロッパ・北アメリカの旅に出た。十一月二日から十三日までのアメリカ滞在中、

P131彼はアイゼンハワーやダレスと会談し、いくつか演説を行った。「慈悲深い誰かの手先」としての利用価値を失った吉田は、丁重な扱いを受けたが、何の支援も受けることはなかった。

吉田は通産相の愛知揆一を頼みにして、アメリカ側との議論を進めた。愛知は軍事調達の追加、東南アジア貿易の拡大の援助、中国への輸出制限の緩和、日本のガット(GATT=関税貿易一般協定)加盟の支援を求めた。

吉田がラテンアメリカへの日本人移民の増加と戦争犯罪人の仮釈放について話したとき、アイゼンハワーとダレスからは優しい笑みがかえってきた。

アメリカが後援する新しい東南アジア条約機構(SEATO)とインドネシアへの軍事的介入についての疑念を愛知が表明したのに対して、アメリカ側は不快の色を示した。

東南アジアで「共産主義と戦う力があるかないかが問われるのは、軍事面の力だけではない。政治と経済の分野についても同じように問われることになる」と彼は断言した。

東南アジア地域の長期にわたる未開発、資本の不足、未解決の賠償問題は、日本の貿易拡大にとって共産勢力の侵略よりも大きな障害になっていた。

公の場で吉田は、中国の経済的進歩が「隣国を追い抜いた」ら、「その牽引力は非常に強くて、これには抵抗できないだろう。そして東南アジアは一戦もまじえずに共産勢力の手に落ちるだろう」と警告した。

「政治的な観点」からいえば、「東南アジアの大半が共産主義の勢力圏内に入れば、日本ひとりがそれに加わらないでおくことは不可能だろう」と吉田の補佐役たちは述べた。

吉田は最後の要請として、アメリカがアジアに対する経済援助を一〇倍にするよう求めた。彼と愛知は、四〇億ドルのアジア・マーシャル・プランは東南アジアの原料生産を高め、東南アジア地域がより多くの日本製品を買うことができるようになるだろう、

またその地域の繁栄は中国を封じ込めるのに役立つだろう、と断言した。

P132吉田と愛知はダレスに、アメリカの中国に対する経済封鎖政策の変更を迫ったが、徒労に終わった。日本側の作成した日本「共同声明」案では、アイゼンハワーと吉田が、自由世界の安全は、「日中間に障壁を設け、すべての関係を断つよりも、両国人民のあいだに適切に規制された交際を許すことによって、よりよく保持される」だろう、と述べることになっていた。

中国のまわりにできもしない真空地帯を維持しようとするよりも、日米両国政府は、「日中両国のあいだの理解を深めようとする避け難い力を、友好と貿易への道に」向けるようにしよう、というのである。

だが、ダレスはこの案にすぐ反対を唱え、東南アジアと日本に対する援助の拡大についても言質を与えようとはしなかった。

十一月十日に、アイゼンハワーと吉田の名前で口あたりのよい共同コミュニケが発表された。そこには、「アジアの自由な国々」との協力への希望が強調されていた。

そして日本の繁栄が「全自由世界」にとって重要である、と説かれていた。一方アメリカは、日本輸出の促進、より柔軟な条件の下における余剰食料の追加供給、地域開発の援助に助力するものとされた。

アイゼンハワーはビキニ事件に遺憾の意を表明したが、同時に日本でも「原子エネルギーの平和利用」を促進するよう要求した。

吉田がアメリカ政府の経済的政治的追加支援を得られなかったことは、彼の政治的生命に終止符を打った。そして十一月末には自由党内の支持を失った。彼の後を狙う三人の競争者--岸信介、鳩山一郎、重光葵--はいずれもかつての被追放者であった。

戦時中軍需大臣だった岸は、戦争犯罪に関する取り調べのため、三年間を巣鴨プリズン(東京拘置所)で過ごした。だが、アリソン大使は、釈放後アメリカのお気に入りとなった岸を支持した。

岸は主要な保守グループを単一の政党に統合する(一九五五年に達成された)ことを提唱した。そしてアメリカ大使館員に、「次の二五年間は、アメリカとの緊密な協力がおそらく日本にとって一番ためになることだ」と述べて、彼らの信頼を得た。

吉田は一九五四年十二月六日の国会で信任を得られず、翌日辞任した。保守連合は首相に岸ではなく、鳩山を選んで、アメリカ政府を落胆させた。鳩山のかつての再軍備に対する支持はアメリカ政府を喜ばせたが、ソ連や中国と緊密な関係を築きたいという彼の意向は厄介だった。

国務次官補代理ロバート・マーフィ(前駐日大使)は「アメリカ、日本、そして太平洋の将来」と題する演説のなかで、アメリカの懸念について述べた。彼のいうところによれば、太平洋において共産主義者の「主たる目的は三つ」ある、すなわち、中国の人的資源、日本の産業、東南アジアの物的資源の支配である。

最初の目的は達成できた。そして中国は今「日本を狙う最良の道として東南アジアを脅かしている」。

中国の封じ込め、日本のアメリカとの貿易の拡大、東南アジアの資源の保護が達成されなければ、「日本を中国に食われないようにする」ことはほとんど期待できないと思われる、と彼は警告した。この見通しは、一九五〇年代を通じて、さらにそれ以後も日米関係の推進力となった。

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