2023年12月20日水曜日

偏愛メモ 『「日米関係」とは何だったのか』第八章 安全保障条約をめぐって 1957-60年 P223~

P223一九五七年、ハリウッドは、朝鮮戦争のとき日本に駐留していたアメリカ軍兵士をあつかったジェームズ・ミッチェナーのベストセラー小説の映画化『サヨナラ』を公開した。主役のマーロン・ブランドが空軍のパイロット、ロイド・グルーヴァーを演じたこの物語は、日本の女性とアメリカの軍人とのあいだの愛の救いの力が中心となっている。

主人公の一人、ジョー・ケリーは、冷淡な上官から日本国外に転属させるぞと脅されて、新妻と一緒に自殺する。グルーヴァーの場合は、従順な「黄金色の肌」の愛人が、彼を日本文化の一端に触れさせ、粗野で頑固な人種的偏見の持ち主から人種融和の戦死に変えた。

占領時代、アメリカ軍当局はアメリカ軍兵士を、日本の女性と結婚させないようにしようとしたが、とにかく約六○○○人が日本女性と結婚した。アメリカ軍兵士のアジア人の妻と子供をアメリカに入国させるために、アメリカ議会は特別立法、すなわち一九四五年の戦争花嫁法を制定した。

アメリカの兵士と日本人女性のあいだの触れ合いを、ミッチェナーはしばしば「和解」の動きとして描いているが、日本人にとっては、多くの場合それは恥と憤慨の種であった。あるアメリカ軍兵士の一人の日本人女性に対する扱いがもとで起こった紛争はその有名な例である。

ジラード事件(tw)
P224一九五七年一月三十日、アメリカ陸軍の三等特技兵ウィリアム・S・ジラードが群馬県のアメリカ軍の演習場で薬莢拾いをしていた一人の日本人女性を射殺した。

日本人とアメリカ人の目撃者が事件の「事実」を確認した。ジラードはキャンプ・ウィヤーでの小部隊の射撃訓練に参加していたが、約二〇人ばかりの日本人が薬莢拾いがアメリカ軍の後について薬莢を集めていた。

小休止のあいだ、ジラードともう一人の兵士が機関銃の番を命じられた。機関銃の番をしているとき、ジラードは薬莢集めをしている人たちの方に薬莢をいくつかほうり投げ、そのなかの二人--一人は男性、一人は女性--に拾いに来るよう手招きした。

二人が近づいていくと、ジラードは換声をあげて走りより、グレネードランチャーに弾を込めて二度発射し、逃げようとした女性の背中を撃って殺したのである。

社会党の政治家や日本の新聞は、この殺人は、事実上の占領軍の典型的な傲慢な行為--極端な言い方だが--だ、と非難した。アメリカ議会の議員たち、中西部の新聞、非常に口やかましい一般大衆は、ジラードを頭に血ののぼった忘恩の徒の犠牲者だ、とした。

アイゼンハワー大統領は、正義の原則を背き、日本政府に迎合するものだ、と非難された。論議が頂点に達したとき、たまたま日本の岸首相のワシントン訪問の時期と重なり、ダレスは、「反日感情の波」が、一九四五年以後に見られたどのようなものとも違って、一般国民の抗議の声に発展するのではないか、と心配した。

下院議長サム・レイバーンはアイゼンハワーに、岸の訪米を取り止めてもらうよう要求した。一九五七年六月二十七日、

P225下院外交委員会は、オハイオ州選出の共和党議員フランク・T・バウが、海外に駐留しているアメリカ軍兵士に対する裁判管轄権を日本やその他の国々に与えないようにするため、「軍の地位」に関するすべての協定(後述)をくつがえす旨の法案を提出した、と発表した。

アイゼンハワーの強硬な反対にもかかわらず、共和党の下院の指導者ジョーゼフ・W・マーティンと上院の指導者エヴァレット・ダークセンは、法案は議会を通るだろう、と述べ、アイゼンハワーに「議論は激烈になっている。議会は大統領の拒否権を押し切るかもしれない」と告げた。

アイゼンハワー大統領が裁判管轄権の問題について思案をめぐらしていたとき、駐日大使ダグラス・マッカーサー二世が、ジラードを日本の官憲に引き渡さなければ、日本のみならず「自由アジア全体」との「重大な関係」が危険にさらされるだろう、と伝えてきた。

アイゼンハワーは、バう議員提出の法案が成立したり、ジラードの引き渡しを拒否したりすれば、日本や他の国々はアメリカ軍の引き揚げを要求してるだろう、と考えた。

政治的なポーズとしか思えないバう議員らの行動に腹を立てたアイゼンハワーはある友人に、「一人の女性の背中を一〇~一五ヤード離れたところから撃った男を国民的な英雄にしたてあげようとしているように見えるこの動き」は、まさしくアメリカにとっての日本の価値に対するとんでもない誤解から来ている、と不満を述べた。

結局ジラード事件は後述のように、執行猶予付きの刑の宣告というアメリカ側の面子を立てた形で解決され、事態は平静に戻る。だが、この事件はアイゼンハワーに、日本の安全保障条約の再検討を強く促すこととなる。

中国貿易の制限と並んで、安全保障条約と数十万のアメリカ軍の存在は、一九五〇年代後半の日米間におけるもっとも議論を呼んだ問題である。一九五三年一月のアイゼンハワーの大統領就任時には、約二一万人のアメリカ軍兵士とその家族が日本に駐留していた。日本経済が回復してからも、これら

P226アメリカ人の生活水準と、彼らを受け入れている日本人の生活水準とのあいだの大きな隔たりは、ねたみと憤りを生んだ。一九四五年以後、約二万五○○○人の日本人女性が結婚しているが、このことは、軍事基地周辺にはびこる売春と並んで、日本人の神経を逆なでした。

基地に雇われている一般労務者や家事使用人の賃金をめぐるいざこざ、軍用飛行場拡張のための農地の収用に対する怒り、沖縄や他の小さな島々の引きつづく占領、交通違反から暴行、殺人におよぶ勤務外でのアメリカ軍兵士の犯罪、これらもジラード事件に対する日本人の感情をいっそう激しいものにした。

在日米軍をめぐる問題
一九五三年から実施に移されたアメリカ軍の地位に関する協定(前述相互参照)によって、勤務外での犯罪のかどで告発されたアメリカ軍兵士に対する裁判権は、日本の裁判所に与えられることになっている。

だが実際は、たいていの場合、裁判権は依然アメリカ軍当局にあった。アイゼンハワーによれば、「アメリカ軍の地位に関する協定の発効以後、アメリカ人が日本の法廷の裁判に服さなければならない事件は一万四○○○件あったが、そのうち一万三六四二件--九七パーセント--は、日本側が自主的に裁判権を放棄した」。

日本の法廷で裁かれた残りの三五八件にしても、刑の宣告は、アメリカの軍事法廷で同じような事件について下された刑罰より概して軽かった。アメリカ軍兵士に与えられた特別な法的地位は日本人の不平等感を強め、多くの怒りを生み、そしてそれらは安全保障条約に結びつけられたのである。

かつてヨーロッパ戦域の司令官だったドワイト・アイゼンハワーは、軍の駐留にともなうこれらの問題を多くのアメリカ人よりもより明確に理解していた。

P227一方「ニュールック」として知られる、アイゼンハワー政権が開発中の防衛戦略は、地上軍や通常兵力よりも空軍力や核兵器に重点をおいており、また侵略抑止策としての大量核報復攻撃が採用されたこともあって、日本に駐留している二〇万のアメリカ軍は戦略的時代錯誤となった。

これらの要因がアイゼンハワーに地上軍を漸減させ、一九五六年末には日本の駐留は半減する。

日本政府は、一九五五年八月、重光外相の名のもと安全保障条約改定のための最初の本格的な行動に出た。先に見たように、重光は、ソ連とアメリカとのあいだでより自主的な進路を取ろうとする彼の試みの一環として、ダレスに一九五一年の安全保障条約の修正を迫るが、ダレスは、日本はアメリカに条約の修正を求める前に、再軍備を早め、自国の防衛にいっそう深くかかわるべきである、と主張した。二年後に今度は岸信介首相が修正要求を持ち出した(相互参照)。

ジラード事件の前でも、多くの日本人は一九五一年の合意事項に対して不満を口にしていた。朝鮮戦争の間に起草され、占領を終わらせるために支払う代償として仕方なく受け入れられたこの条約は、両当事国のあいだの力の不均衡を反映していた。

日本に駐留するアメリカ軍は日本の国内問題に干渉する権限を与えられているが、日本を防衛する義務は負ってはいない。条約には期限もなければ、協議や改定に関する規定も含まれていない。

日本国内に核兵器を持ち込むことについて、日本には何の発言権もなかったし、アメリカが他の国々に干渉するために日本にある基地や軍隊を使用することは完全に自由である。

一九五七年、岸首相は、事業化の関心を喚起するため、そして中国とのより緊密な結びつきを求める野党の要求をそらすため、東南アジアを歴訪した。一方、日本社会党の代表団は北京を訪問した。

P228北京では毛沢東が、安全保障条約を日本国家の主権に対する侵害だと非難し、その廃棄を求める一方、日本政府との不侵略条約の締結を提案した。日本人の多くは内心、毛の意見に賛同した。

日本国内の空気を見てアメリカの国家安全保障会議は一九五七年初めに、「アメリカの重要な目的--太平洋での確固たる同盟--は達成されていない」と断じ、次のように論じた。

日本の「離れよう」とする傾向は、一部は、日本経済の再建と国民的誇りの回復にしたがって、アメリカに対する日本の経済的外交的依存度が低下してきたとこに起因しているが、それはまた「日本の指導者がアメリカの日本に対する扱い方に不満を抱いているという、微妙な、だが明白な徴候からしてもわかるように、日米の相互関係が発展してこなかった」ことの反映もある。

日本人は「自分らが現在のアメリカの防衛措置なしでもやっていけるほど軍事的にも工業的にもまだ強力でない」ことを認識してはいるが、安全保障条約の条項にいらだち、「アメリカとの関係をより対等な方向へ修正しようと真剣に考え」始めた、と。

要するに国家安全保障会議の調査は、アメリカ政府が安全保障条約を改定しなければ、「日本に関するアメリカの根本的利益」は危険にさらされるだろう、と警告したのである。

日米双方で安全保障条約の再検討が行われるにつれて生じてきた多くの緊張は、新駐日大使ダグラス・マッカーサー二世と岸とのあいだにつちかわれた緊密な関係によって和らげられた。

マッカーサーは、一九五七年二月に東京に到着したときに感じた安全保障条約に対する多くの人びとの怒りの気持ちを思い起こし、日本人は政治的意見のいかんを問わず、すべて「他の同盟国と同じように、対等に扱ってもらいたいと強く願っている」と述べた。

彼はさらに、「現在実施されている条約が、一方の当事国から自国の利益に沿わないばかりか、かえって利益に反すると思われるようになれば、もはやその条約はまったく価値がない。それを施行して相手方から協力を得られなければならないとしても、協力は得られないだろうから」と述べた。

P229初めて会ったときから、マッカーサーは岸に対して「取引できる」相手だ、という印象を持った。彼はアイゼンハワーが岸をワシントンに招待するよう取りはからい、岸はマッカーサーの信頼に応え、しばしば彼と内々で会った。

岸はマッカーサーに、「「アメリカに対して不信や愛憎相矛盾する気持ち」を口にする日本人がますます多くなってきている、と語った。岸によれば、このような日本人の態度は「安全保障条約のもとでの日本の従属的地位に対する憤懣」、沖縄を返還してもらいたいという希望、中国との「貿易禁止に対する不満」に起因している。

「多くの日本人」は、アメリカが「共産圏の国々を力で打ち倒すために戦争をしようとしている」信じていて、日本の国土にアメリカ軍の基地があるため、災難に巻き込まれないか、と心配している、と岸は説いた。

マッカーサーは岸の説明を聞き、アメリカと日本との関係は「転換点」に達している、この変化を求める声に応じなければ、アメリカの立場は「敵意に満ちたとげとげしい雰囲気の中で」徐々にむしばまれていく、と確信するようになる。

彼によれば、これらの不満は左翼の宣伝ではなく、「日本政府の最上層部で」議論されている問題なのである。彼はアイゼンハワーとダレスに、来るべき岸の訪問を「安全保障と経済の面での日米両国の関係を真の対等」なものとする機会にするように、と説いた。

前に進むことができなければ、日本では社会党が政権につくかもしれない。たとえ岸や保守政党が政権を維持しても、日本の世論は日本を「しだいに中立主義に」押しやるだろうというのである。

ダレスは最初、この警告に憤然とした。彼はマッカーサーに、自分としては岸の来訪中の「お互いの見解の交換」を期待してはいるが、安全保障条約の具体的な変更について議論するつもりはない、と言明した。彼が作った安全保障条約について「アメリカ国民は問題があるとまったlく思っていない」のだから、

P230アメリカ国民は条約の再交渉を理解もしなければ、認めもしないだろう。ダレスはマッカーサーに、岸に早急な変更は期待しないように、といってくれといい、岸とは「あまり頻繁に会わないように」と忠告した。

安全保障条約について話し合いを始めることに消極的なダレスの態度に加え、ジラード事件をめぐる緊張のため、首脳会談について具体的な計画の作成が難しくなってきた。
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CIAの資金提供
岸に賭けているとか、投資しているとかいう、マッカーサー、ダレス、アイゼンハワーの度々の発言には、美辞麗句以上のものがあった。岸の訪米以後、岸やその弟の大蔵大臣佐藤栄作とアメリカの高官とのあいだに、自民党の資金に関して話し合いが行われるようになる。

たとえば、一九五八年七月に、佐藤はアメリカ大使館一等書記官スタン・カーペンターとひそかに会って、運動資金を懇請した。

P238 佐藤は、共産党と社会党が中国やソ連から「相当な」額の金を手に入れていると訴えて、マッカーサーの言葉を借りれば、「われわれから金をせびろう」とした(tw,tw,伊藤貫)。

佐藤がカーペンターに語ったところによれば、自民党は選挙運動資金調達のため「日本の産業界、金融界のトップ・リーダー」の「秘密組織」を作ったが、自民党が参議院選挙に直面しているというのに、この資金源は運悪く、一時的に資金を切らせてしまった。

金の不足を申立て、左翼の勝利について警鐘を鳴らしながら、佐藤は、「この共産主義に対する不断の戦いで保守勢力を援助するために資金を提供するというのは、アメリカとしてはできない相談なのか」(相互参照)と尋ねた。秘密を守るため、支払いは一人の日本人の仲介人に扱わせるという。

カーペンターとマッカーサーはこの懇請を拒絶したが、この要請は二人にとって別に思いがけないことではなかった。マッカーサーによれば、前の年にも佐藤は何回もアメリカの高官たちと秘密の融資について議論し合った。

マッカーサーも、佐藤と同様、一九五八年から五九年の間に予想される一連の国会選挙について懸念を抱いていた。彼の報告によれば、組織労働者と社会党は依然保守政党支配を脅かしている。

アメリカ政府内における人気にもかかわらず、岸は政治運動家としては光彩に欠けている。それでマッカーサーはダレスに、自民党と岸の派閥に梃入れするため、次のような措置をとることを要求した。

日本のより自由な漁業権を韓国に認めさせること、ヴェトナムとインドネシアに日本との賠償協定を締結させるようにすること、日本の輸出品の受け入れを促す演説をすること、東南アジアの開発に対する資金援助、戦争犯罪人の釈放の促進、小笠原諸島住民の一部でも送還することを許すことなどである。

表には出ていなかったが、マッカーサーは秘密の運動資金の提供についても働きかけを行っていた。

P239一九五七年末から五八年初めにかけて、マッカーサー、ダレス、アイゼンハワーは、何度もいわれてきた、岸への梃入れのための努力をいくつか行った。彼らは次年度の日本の軍事支出の削減を認め、沖縄に対する軍事的支配を徐々に緩和していくことを約束する。これら二つは日本人の感情に強く訴える問題であった。

アイゼンハワーはまたCIAが日本で秘密行動を開始することを認めた。一九五五年から五八年にかけて日本での多くの工作の管理に当たったCIAの局員、アルフレッド・C・ウルマーによれば、自民党に「われわれは資金を提供した(tw,tw,伊藤貫)」。

CIAは「情報を自民党に依存し」、自民党内に同盟者をつくるため秘密の金を使った。情報担当国務次官補ロジャー・ヒルズマンによれば、一九六○年代の初期までに政党と政治家個人に対する毎年二○○万ドルから一○○○万ドルの資金供給が「定着して慣例」となり、日米双務関係の正規の一部分となっていた。

CIAによる資金は、一九五八年五月の衆議院選挙運動をはじめ、さまざまな方面に使われた。国務省と情報分析家は、社会党が大きく食い込み、岸の「親米」派は自民党内の競争相手と比べてあまり伸びないのではないか、と心配した。

運動資金は、選び抜かれた一群の自民党指導者を通じて、とくにアメリカに友好的だと思われる候補者に渡された。一方、反社会党活動に利用する政治情報を得るために追加資金が使われ、比較的穏健と思われる一部の社会党候補者に対しても、党内での彼らの立場の改善をはかるために資金が提供された。

あるCIAの関係者が述べているように、社会党内に「役に立つ者」を確保することは、「日本人の反対活動を妨害する」ことと同様、「われわれのなしうるもっとも重要なこと」であった。

この資金は、日米間の財政的結びつきの大きさに比べれば、ささやかなものではあるが、一九五八年の衆議院選挙と一九五九年の参議院選挙で岸の梃入れに役に立つことになる。

P240 自民党と社会党の政治家に対する資金提供は、少なくとも一〇年間つづいた。

新安全保障条約
(略)
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