目次P 002/ 004/ 006
序章P 008/ 010/ 012/ 014
P11中国の力を借りてソ連を封じ込め、ヴェトナム戦争を終わらせたいという希望、それに加えて日本の貿易攻勢への対処策に確信をもてないことから、一九七二年にはニクソン大統領は中華人民共和国を訪問する。
そこでニクソンは、過去二〇年間における冷戦用語をいともすばやく逆転させ、日米安全保障条約協定は中国をソ連と日本の脅威から守る、と毛沢東に述べたのだった。
第一章 敵国から同盟国へ 1945-50年 P15~
変更された占領政策
P24一九四七年にトルーマン政権がようやく注意を日本に向けはじめたとき、環境は大きく変化していた。ソ連との関係悪化と、西ヨーロッパ、ドイツ、日本の経済復興の失敗はアメリカの政策立案者の肝を冷やした。
海軍長官ジェイムズ・フォレスタルは国務次官ディーン・G・アチソン、陸軍長官ロバート・パターソン、農務長官クリントン・アンダーソン、前駐ソ大使アヴェレル・ハリマン、元大統領ハーバート・フーヴァーを集めて、「ソ連との競争にわれわれが勝つ」ためにはどうすればよいのかを論じあった。
ソ連を封じ込めるためには、「日本やドイツや他の旧枢軸国を…仕事に復帰」させる必要があると、フォレスタルは強調した。ヨーロッパの復興と安全のためにはドイツ産業の復活が必要だということで全員が一致した。
ドイツについていわれていることは、すべて「日本に対しても同様に当てはまる」と、フォレスタルは強調した。
このグループは、文民的権威に対するマッカーサーの軽蔑とその政治的野心は日本経済を「破壊」し、「完全な経済の崩壊」の危険を招いている、と断じた。東京には誰か本国の命令に従う者を置く必要がある。
トルーマンが「マッカーサー将軍の支配を打ち破る」ために「超大型外交官」を東京に送ることに同意しなければ、事態は悪化するだろう、とアチソンは述べた。
だが、トルーマンは介入をためらった。彼は先日ジェイムズ・F・バーンズの代わりにジョージ・C・マーシャルを国務長官に任命した。陸軍長官と海軍長官は予算について真っ向から対立したままで、マッカーサーを刺激することを拒否した。
一方、西ヨーロッパと日本の経済の衰退は加速度を増し、アメリカの安全保障にとってソ連の軍事力よりも大きな脅威となっていた。
P25東南アジア植民地の喪失と反乱、戦時中の憎悪と物質的破壊の名残、そしてヨーロッパの分割、これらすべてが復興を妨げていた。ヨーロッパや日本は、その衰弱した状態では、戦時中めざましい経済発成長を遂げた巨大なアメリカとは世界貿易の舞台ではとうてい太刀打ちできないだけに、苦しみはいっそう大きなものになった。
貿易の不均衡、すなわち、アメリカの食糧、原料、製品に対する世界の要求と、それを購入するのには不十分な外貨、この二つのあいだのいわゆるドル・ギャップは、世界貿易を麻痺させようとしていた。
生産と輸出所得が回復できなければ、ヨーロッパと日本はまもなくドルと原料が底をついてしまうだろう。社会的混乱と共産勢力という二つの脅威に直面したアメリカの重要な仲間は、ソ連と強調しようとするかもしれない。
こうした見通しから、ディーン・アチソン、ジェイムズ・フォレスタル、ジョージ・F・ケナン、陸軍次官のウィリアム・H・ドレイパー(相参1、相参2、相参3)らは、アメリカ政府はヨーロッパと日本の産業復興を促進しなければならないと確信した。
アメリカは資本と原料を供給することによって、これら地域の安定にとってきわめて重要な、ひいてはアメリカにとっても必要な生産と輸出を活気づけることができるだろう。
彼らは、最初アメリカが援助すれば、あとはヨーロッパと日本は、その乏しいドルを使って発展途上国から原料を買い、製品を発展途上国に売ることができるだろうと期待した。そして地域市場の成長は規模の利益を生み、発展途上国の安定を促進し、共産主義の影響を世界的に鈍らせるだろうと考えた。
国務長官ジョージ・C・マーシャルはアチソンとケナンに、以上の線に沿って計画を発展させるように奨めた。アチソンやケナン、それに一九四七年の終わりごろ新国防総省の長官に任命されたジェイムズ・フォレスタルや他の軍民の専門家も加わり、封じ込め計画がまとめられた。
封じ込め政策は
P26当初、ヨーロッパと日本の工業力をソ連に支配されないようにするため、ヨーロッパと日本の復興が中心となった。ソ連はこの政策に対応し、結局は西側に有利な方向に態度を変えるだろう、と計画立案者はたちは考えた。
マッカーサーはこの政策の変更に対し、原則的には反対ではなかったが、GHQに干渉してくることに対しては非常に腹を立てた。日本には特別な復興計画が必要だということを示唆する言葉は、いずれもマッカーサーのやることでは不十分だ、ということを意味した。
しかも新復興計画によれば、彼が大統領選のために東京を発つつもりでいた一九四八年の初めよりも占領が延長されることになっていた。彼は日本の非武装化民主主義を達成することで、基本的な占領目的は完了したと主張していた。
経済問題はアメリカ軍が撤退したあとで解決されるだろう。彼は中立日本に対するソ連の脅威なるものを否定した。そして講和条約のなかに「ただ一か条」、国連の保護を規定すれば、日本の安全は保障される、と主張した。
トルーマン大統領が一九四七年三月十二日に議会に送った教書は、それまでとはまったく調子を異にしたものだった。それは内戦下の保守政権への支援をイギリスが打ち切ったために起こったギリシャの危機に関するものだった。
トルーマン・ドクトリンとして知られるようになったこの教書のなかでトルーマンは、ソ連とその手先はギリシャやトルコのみならず、いたるところの自由主義政権を脅かしていると非難した。彼は広範な援助計画の第一歩としてギリシャとトルコを支援するよう議会に要請した。
トルーマンの訴えを知ったマッカーサーは、三月十七日の記者会見でアメリカ政府の政策を激しく非難した。彼は、自分が主導した「精神革命」は日本を内部外部の脅威から隔離し、費用のかかる復興計画の必要性を除去した、と自慢した。
P27こうした主張は、占領の早期終結は経済の崩壊と、そしておそらく共産勢力の侵略をもたらすだろう、というワシントンのほとんどの政策立案者たちの考えとは対照的なものだった。
ディーン・アチソンは五月八日の演説のなかで、外交政策に対する新しい考え方を打ちだした。国外のドル・ギャップと厳しい経済状態は「ヨーロッパとアジアの最大の工場、ドイツと日本」が休止したままでいるという「冷厳な事実」から生じたものだ、とアチソンは断言した。
世界の安定は、「二つの大陸の基本的な復興に大きく依存している」、「二つの工場」の再建が必要である、アメリカ軍は二国の経済が回復するまでドイツと日本にとどまるであろ、というのであった。
一九四七年七月にマッカーサーは、本国政府と相談することなく彼独自の復興計画を発表した。一九四六年以来彼は「財閥」--日本の企業合同--の解体計画を拒否してきた。
今、アメリカ政府が日本の産業復興を優先的に取りあげることに決定したそのとき、彼は、財閥解体と産業の集中排除に関する法律を通過させるよう日本の議会に命じた。
ジョージ・ケナンは閣僚に、マッカーサーの無知と二心から日本を共産主義の影響下に晒そうとしていると警告した。大企業に対する「社会化」攻撃は、「経済的惨事、インフレーション…まさに共産主義者が望んでいるところの無政府に近い状態を引き起こすだろう」とケナンは予言した。
彼にいわせれば、「財閥」に対する攻撃はソ連のアジア浸透に対する重要な防壁を破壊しようとする「悪しき」計画であった。ウィリアム・H・ドレイパーは、GHQは日本を経済的「死体保管所」に変えた、と嘆いた。
陸軍長官ケネス・ロイヤルは、マッカーサーの計画は「共産主義とまではいかなくとも…社会主義」に似ている、と非難した。自由世界が生き残るためには、「われわれが破壊したばかりの二つの国」ドイツと日本の再建を優先することが必要だ、とジェイムズ・フォレスタルはトルーマンに伝えた。
P28マッカーサーの批判者たちが想像していたように、「財閥」解体に対するマッカーサーの支持は自身の政治的野心の反映であった。マッカーサーは何回かの中西部の大統領予備選挙で、支持者たちに自分の名前を書かせようとした。
最初の投票は父親の故郷で、彼自身が一時住んでいたウィスコンシンで行われた。土地っ子としての資格を高めるためその選挙運動は、反独占運動で知られるウィスコンシンの有力な政治的名門の子弟であるフィリップ・ラフォーレットに依存した。
「財閥」解体法案に関するr日本議会の手続きを延期せよという正式の要請をマッカーサーが無視していた間に、陸軍省は集中排除計画とマッカーサーの大統領選挙対策との結びつきを確認する知らせを東京から受け取った。
ある日本の情報提供者の報告によれば、日本の議会が反独占法案を通すことなく、そのまま休会にしようとしたとき、マッカーサーの副官が片山首相に、この法律は「大統領指名を期待している将軍を困らせることのないよう、議会を通過させ」なければならない、と告げたという。
マッカーサーは、自分はその法律を厳格に実施するつもりはないが、ただ「東京では反対の気配は少しでもあってはならない」と主張したともいう。もし日本側が彼に心配をかけるようなことになれば、「連合国軍最高司令官が大統領になったとき、日本の将来にとってためにならない」だろう、というのであった。
一九四七年の終わりには、ワシントンとGHQとのあいだで激しい論争が火を噴いた。陸軍省と国務省の役人たちは議会の議員とジャーナリストたちに占領軍の政策について歯に衣を着せない説明をした。
ジャーナリストたちはマッカーサーを「アメリカで許されるよりもはるかに左の」改革を推進し、社会主義という「凶器」を奉じている、と非難していた。
P29マッカーサーは、集中排除計画の標的としているのは五六家族だけであり、彼の改革は「革命の暴力の流血」を防ぐことになる、と反論した。
外交官や軍の計画立案者たちはマッカーサーを無視し、占領政策の全面的な変更を提案した。彼らはそれを婉曲に「強調点の転換」と称した。だが、トルーマンは次の大統領選挙について確信がなく、ドワイト・D・アイゼンハワーに頼んで自分の代わりに出てもらうことを考えていたほどで、予備選挙の前は積極的に行動することをためらった。
一九四八年四月六日には、選挙戦でちょっとしたマッカーサー・ブームが起こった。だが地方の問題で割れていたウィスコンシンの共和党は上院議員ジョーゼフ・マッカーシーのマッカーサー攻撃の長広舌に動かされた。
この「偉大な将軍」は「引退後の用意をしよう」としているのだ。彼はウィスコンシンの人間だと主張しているが、その最初の結婚も二度目の結婚も、それに離婚もウィスコンシンでは行われていない、妻もウィスコンシンに住んだことはなかった、とマッカーシーは述のべたてた。
この論法に動かされて、大部分の共和党員はミネソタ州のハロルド・スタッセンに投票した。マッカーサーの「郷土」の州でこのお粗末な成績は、彼の立候補運動に大打撃を与えた。次のネブラスカ州での敗北のあと、彼はこの二度目の共和党大統領指名戦を断念した。
彼はこのあとさらに三年間、東京で占領軍司令官の地位にあったが、本国政府にたてついても何ら処罰されることのなかったそのカリスマ性は失われた。
ケナンの政策立案スタッフは、その間、占領軍の改革の多くについて停止あるいは転換の道を考えていた。「根本的に変化した世界情勢」は、「非共産主義アジア」の安定の確保のために、日本が「内部的に安定し、
P30より「アメリカの指導に従順」で、「工業面で復活」することを必要としている。左翼の影響あるいはソ連の浸透を防ぐためにはアメリカは日本経済を「始動させ」、日本を防衛協定によって西側に結びつけるべきである、と政策立案スタッフは報告した。
ソ連の行動のせいで日本は中立的立場をとることができなくなった、代わりに「ヒロヒトの島」をソ連に対する「緩衝国」とするべきだ、と政策立案者たちは主張した。
ケナンたちはスターリンが日本を攻撃するとあまり思っていなかったが、ケナン自身は、日本が「重要な原料や市場をどこか他で」、とくに東南アジアでで手に入れることができない場合は、満洲、中国、朝鮮半島に対する共産主義者の支配は、「ソ連の政治的圧力のための梃子」になるだろう、と思った。日本にアメリカの同盟国としての立場を保持させ、その工業的基礎をソ連に利用させないようにするためには「日本経済のポンプに呼び水を差すため」の処置が必要であった。
ケナンと陸軍次官ウィリアム・H・ドレイパーは、それぞれ一九四八年三月の日本訪問の間、直接状況を観察した。ケナンを意識した横柄な長話のなかで、マッカーサーは自分の処置を擁護し、日本を地域的な封じ込め政策に結びつけるという構想を非難し、産業界の追放によって影響を受けたのは「すっかり活力を失ったニューヨークのクラブ会員」に似た「年配の無能な人間」だけだ、と主張した。
彼は反「財閥」計画は社会主義のようなものではない、といい、ワシントンに反抗するのは自由なのだ、と主張した。
マッカーサーの地政学的妙薬と、「太平洋岸の一〇億のこれら東洋の人びと」のあいだに「キリスト教の種をまく」ことについてのおしゃべりは、ケナンを不快にさせた。
マッカーサー将軍の司令部の「陰謀の程度」は「ロシアの女帝エカテリーナ二世の宮廷の末期あるいはローマのベリサリウスの政権末期にそっくり」だ、とケナンは僚友に書き送った。
P31マッカーサーの側近たちの発散する「虚弱な精神的資質」はスターリンのクレムリンの雰囲気そのままで、GHQの社会改造計画は日本を破滅させるか、アメリカ軍が去ったあと異国の教義として拒否され、そのあとは共産主義が隙間を埋めることになるだろう、とケナンは思った。
ケナンは短い日本での滞在期間中、占領計画の見直しを始めた。彼の見るところによれば、マッカーサーは日本の産業を不具にし、経済界の指導者を追放することによって災難の種をまいた。
企業合同の解体ではなく復活が、労働組合の促進ではなく締めつけが、左翼の政治勢力ではなく保守勢力への支援が緊要である。「日本社会の安定」あるいは復興に「悪影響を及ぼす」ようなものは許されるべきではない。
ケナンがこのような結論に達したその同じ時期に、陸軍次官ウィリアム・ドレイパーがケミカル・バンクの会長パーシー・H・ジョンストンを長とする経済使節団に付き添って日本にやってきた。
「財閥」の代表者との会談のあと、一行はGHQの「急進的な」経済政策に対する批判を発表し、記者たちに、賠償と「財閥」攻撃を縮小する一方、日本産業に実質的な援助を与えることに賛成だ、と述べた。
ドレイパーは日本側に、「拘禁期間は終わった」と語ったとのことである。
四月二十六日ドレイパーはジョンストン使節団の調査結果を発表した。それには賠償と産業に対する攻撃の停止、ならびに労働組合の抑制が勧告されていた。そして産業改革の代わりに、たとえ生活水準を切り下げてでも生産を促進し輸出を増大することが要求された。
新占領計画のためのこのような提言は正式に文書化され、一九四八年夏の間にケナンの政策立案スタッフから国家安全保障会議に提出され、十月にはトルーマン大統領によってNSC13/2として承認された(tw)。
それには経済復興が日本の「第一の目的」と宣言されていた。賠償は停止され、産業に対する制限の大部分が解除された。GHQと日本政府は輸出品を生産している企業に原料と信用を優先的に割り当てることになった。アメリカ議会は占領地域経済復興法(EROA)と綿花借款を通過させ、十分な量の資本と原料を供給した。
集中排除法を骨抜きにするため、陸軍は特別調査委員会を派遣した。委員会はすべての銀行を精査の対象から除き、すでに「財閥」に対して発せられた三二五の解体命令のうち少数を除いてすべて取り消しか緩和を勧告することにした。一九四九年には委員会は反独占計画は成功したと宣言し、終止符が打たれた。
一九四八年十一月の大統領選をうけてトルーマンは、彼の威信のすべてをかけていわゆる逆コースにふみこんでいった。十二月十日に彼はNSC13/2の主題、ジョンストン報告、関連する産業始動の要求を一つにまとめた経済指令を出した。そしてGHQの監督と計画の実行のため、デトロイトの銀行家ジョーゼフ・ドッジを特使に任命した。
一九四九年二月に東京に向けて出発する前にドッジは、マッカーサーのもっともて厳しい批判者のひとつである、ある私的な政治運動のグループと結びつきを深めた。前年に『ニューズウィーク』の外信部長ハリー・カーン、『ニューズウィーク』の東京通信員コンプトン・パッケナム、企業の顧問弁護士ジェイムズ・リー・カウフマン、前の国務省の日本問題担当者ユージン・ドーマンらによって設立されたアメリカ対日協議会(ACJ、相互参照)がそれである。
メンバーのなかには日本の産業界や政界の指導者--この中には多くの被追放者が含まれていた--との連携役を務めていた約二〇人のジャーナリスト、弁護士、引退した外交官、軍人が含まれていて、ウィリアム・ドレイパーやジョージ・ケナンもその一員だった。
P33ドッジは、GHQは「官僚的で無能で、専断的で、執念深く、ときには賄賂のきく」組織だと非難しているACJの報告書を、自分のスタッフに配布した。それはマッカーサーとそのスタッフを、冷戦でアメリカを支持している「当の個人や階級」を滅ぼし、その一方では共産主義者たちを好きなようにさせている、と非難していた。
「経済皇帝」と呼ばれたドッジは、「財閥」に新しい生命を吹きこみ、インフレを抑え、労働者の生活水準を切り下げ、労働組合の団体交渉権、争議権を制限し、日本を輸出工業国として回復させるための予算と産業政策を押しつけた。
マッカーサーは政治的後退のあと、労働組合の力を抑え、大企業を鼓舞しようという吉田の方針のみならず、ドッジの経済的主導権をも受け入れた。
一九四九年から一九五〇年の初めにかけドッジは、経済水準が戦前のほぼ三分の二となっていた日本のインフレ経済を軌道に乗せるため、新古典主義的経済世策の厳しい計画を堅持した。
彼が頭に描いたのは、主としてアジア市場向けの安価な消費物質の大量輸出国としての日本であった。金の無駄遣いと思われるものの削減のため、公共福祉予算の大幅な減額、企業借入の切り詰め、ニ五万人の官公労働者の解雇を命じた。
これらの処置により国内消費は減少し、銀行信用、外貨、原料は輸出製品の生産に従事している大企業に向けられた。
ドッジと、今や従順になったGHQは、一九四九年四月に日本政府に通商産業省を設置を奨めた。戦時中の軍需省をモデルとし、旧軍需省の古参官僚の多くによって固められた新省は、銀行と会社に「行政指導」を行った。
通産省は、国内信用、外貨、輸入原料、外国技術が、主として輸出市場向け
P34に生産し、製品をドルで売ることのできる政府お気に入りの会社に流れるようにした。日本政府が指導する輸出主導型の経済、後に「資本主義的開発国家」、あるいは少々意地悪く「日本株式会社」と呼ばれるようになったものは、アメリカの指示によって育成されたのである。
ドッジは産業の復興、輸出の促進、共産主義の封じ込めは相関連する目標だと考えていた。安定した日本は「共産主義と民主主義との世界的な衝突における重要な境界地域」としての役割を果たすだろう、と彼は主張した。
イデオロギー的には西側と結びつき、通商面ではアジアと結びついた日本は「全体主義の圧力」をそらし、共産主義の「汎アジア的動き」を迎え撃つだろう。そしてアメリカは日本を通じて「東洋のすべての国々との関係の上に巨大な影響」を及ぼすことができるだろう。
一九五〇年の初めにドッジは議会の委員会で、将来日本は「アメリカの跳躍台として、また極東に対するアメリカの援助物資の供給国として利用する」ことができるだろうと述べた。
共産勢力の封じ込め
(略、P36/38)
P40中華人民共和国に対するこのようなアメリカの柔軟姿勢は、日本に大きな影響を与えた。中国共産党の指導者は、アメリカの日本占領政策には反対していたが、日本との貿易の復活を熱心に望んでいた。
中国の産業構造は、とくに東北地方においては、日本の設備に依存していた。日本にとっては、満州の粘結炭、大豆、その他の一次産品は産業発展の主要要素であった。
日本の敗北と中国の内戦のため、貿易は途絶していたが、両国とも通商関係の回復を重視していた。アメリカのエコノミストたちは、日中間の貿易は往復で一九五〇年には五○○○万ドル、一九五三年には少なくともその五倍に達するだろう、と見ていた。
北京にとどまっていた数少ないアメリカの外交官との接触を避けていた共産政権の役人たちも、一九四九年の初めごろ日中貿易の再開についての総領事O・エドマンド・クラブにこう語っている。
日本との貿易によって中国は外貨を稼ぎ、新技術を手に入れ、ソ連に対する全面的な依存を回避することができる。
(略)
P41国務省の提唱した政策は、「東南アジアが日本の貿易にとっていっそう好ましい状態に発展するまでの息つぎの場」として日本に中国との限定された貿易を許すというものであった。
そして、東南アジアに対する開発援助は、「日本の将来の経済的独立に対する保証のみならず」、「極東地域の政治的独立」にとって必要な同地域の経済的安定に対する「保証をも提供する」という、アメリカの影響力を増進させるに当たっての「二重の目的」に役立つようにするべきだ、というのであった。
一九四九年三月、トルーマン大統領は、中国との全面的な通商禁止はアメリカ政府の希望とは反対に、アメリカの盟友を傷つけ、中国とソ連に近づけることになる、というアチソンの意見を反映した対中貿易政策を承認した。
P42規制された貿易は日本の復興を早めるうえで「非常な重要性」を持つだろう、というのである。アチソンは、日本の中国への依存は「アメリカの占領軍が引き揚げ、財政援助が打ち切られたあと、ゆくゆくは共産主義者に日本に対する強い影響力を与えることになる」ことを認めていた。
だが彼は「代わりの供給源の開発のためのあらゆる努力」が、とくに「日本の輸出品を必要としている南アジアのような地域で」行われている以上、このような「予測される危険」は受け入れるべきである、とトルーマンを説得した。
(略)
講和条約の行き詰まり
P44日本の外交的展望は、その経済的見通しと同様、依然不安定であった。国務・国防両省は講和条約の条項について行き詰まり、日本の占領は続いた。一九四九年の間に国務長官アチソンと多くの文民政策立案者たちはトルーマンに、アメリカの支配に飽きた日本国民のあいだには不安といらだちが高まり、そのために彼らは「容易に共産主義者のイデオロギーのえじき」になるおそれがある、と警告した。
これに対して統合参謀本部は、中国での「総崩れ」と「アジア大陸で展開されている無秩序状態」を考えると、アメリカは日本から撤退するわけにはいかない、と反論した。
アメリカの外交官の多くは、ソ連が日本を襲撃する可能性を否定した。そして中央集権化された警察力、一、二の海軍基地の米軍への貸与、経済援助の継続によって日本の安全を保障できる、と信じていた。
日本本土の基地を保持することには(沖縄やフィリピンの場合と同様)当初反対していたマッカーサーも、侵略を抑止するためにアメリカ軍が「鉄条網」として駐留することに賛成するようになった。
統合参謀本部は別の考えを持っていた。中国とソ連は日本に対して軍事的にほとんど脅威にならないが、 P45 統合参謀本部としては、日本における空海陸のアメリカ軍基地を「アジア大陸や隣接するソ連の島々に対して軍事力を投じる際の重要な終結地域」と考えていた。いかなる講和条約も自分たちの行動の自由を減じさせる以上、統合参謀本部としては占領を長引かせることを望んでいた。
一九四九年の末に国務省の作業班は講和条約の草案を配布した。日本の主権を四つの主要な島と特定の小さな島々に限ること、旧太平洋の委任統治の島々と琉球諸島をアメリカの信託統治に委ねること、占領終結後は代議政体を保持すること、以上が草案の主要な条項であった。
そして相互安全保障条約によって少数のアメリカ軍分遺隊を日本に無期限に駐留させることとし、五年後に日本は自由に再軍備できる、というのであった。
統合参謀本部はこの提案を時期尚早だと非難し、トルーマンに、日本が再軍備をし、日本の領土内にアメリカが永久的基地を設置することを認めるまでは行動に出ないように勧めた。共産主義者のアジアへの進出は、「日本におけるわれわれの支配的地位の継続をアメリカの安全保障にとってもっとも重要なもの」としている、と彼らは主張した。国防長官ルイス・ジョンソンは統合参謀本部に同調して次のように言明した。
日本に近接するアジア大陸地域での不安定な政治的軍事的状態と予測のつかない軍事行動…台湾と東南アジアにおけるきわめて不安定な政治的軍事的状況…そして日本がそれに基づいて降伏した休戦条項に一致する講和条約では現在のところソ連に日本を終極的に利用させないようにすることも、また日本を西側陣営の方に向かせることもできないという事実…から考え、講和条約の締結は延期することが必要である。P46トルーマンが国務省と国防総省とのあいだの論争を積極的に解決しようとはしなかったため、対日政策は宙に浮いたままになった。一九五〇年の初めごろアチソンは、統合参謀本部と国防長官ジョンソンに譲歩し、日本の限定された再軍備と武器製造の再開を認めようとした。
マッカーサーと同じくアチソンも、日本政府は講和条約発効後、小規模のアメリカ軍が期間を限定せずに駐留することを認めるだろう、と思っていた。彼は占領終結と同時に、日本、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを含む「太平洋集団安全保障」を締結することも提案した。
アチソンはトルーマンに、行動を遅らせば、その間に「ソ連を注意を中国と東南アジアに集中し」、傀儡政権を作って日本を脅しにかかるだろう、と警告した。だがアチソンの警告もトルーマンを動かさなかった。
一九五〇年の六月中、国防総省の役人たちは日本の大半が占領の終結を望んでいるということを認めようともしなかった。彼らは四月に「講和条約を宣伝しているのは国務省だけだ」とアチソンに語った。
「戦争の場合にソ連に対する攻撃行動」を封じるような日本におけるいかなる変化も起こさないようにするため、軍の計画立案者たちは、日本政府に大幅な自治を許す一方、占領軍を元の場所に残すという計画を推し進めた。
一九五〇年二月に中国とソ連は、何よりも「日本、あるいは直接間接に日本と一体になって侵略行動に出る他のいかなる国の侵略的行動」にも対抗することを誓約した友好条約を締結した。
モスクワと北京が本当に日本の軍国主義復活を恐れている、信じているものは、アメリカ政府のなかにはあまりいなかった。彼らは、この共産主義者の条約は日本を威嚇し、アメリカ軍を日本から追い出そうとするものだと解釈した。
中ソ同盟は条約は、中ソ間の早期の決裂を予言していた人たちの立場を弱めた。
P47そして日本占領の延長を正当化するのに利用された。
同じ二月にウィスコンシン州選出の共和党上院議員ジョーゼフ・マッカーシーが、中国の「喪失」とアジアの共産主義に対する宥和政策に責任があるとして国務省内の破壊分子なるものに公然と最初の攻撃を浴びせた。
アチソンはわきを固めるために、友人であり、しばしば保守派の攻撃目標となった極東問題担当の国務次官補W・ウォールトン・バターワースをスウェーデン大使に戻した。
そして議会と軍部に受けのよい国務次官ディーン・ラスクをアジア問題に関する主たる相談相手とした。彼はさらに議会の批判をなだめるため、共和党の外交政策のスポークスマン、ジョン・フォレスター・ダレスを日本問題に関する相談相手とした。
ラスクとダレスは、台湾に対して、アチソンよりもより強力な支援を主張した。アチソンが彼らを指名したのは、一つには日本問題について国防総省に妥協させるためであった。ダレスは占領を早期に終わらせる必要があることに同意した。
彼は安全保障問題を相互防衛条約と太平洋協定によって解決することに賛成した。そして、日本政府が進んで西側と提携するようにし向けなければ、軍がいかに多くの軍事基地を手に入れようとも、日本は役に立たない同盟国となるだろう、と主張した。
日本の復興と冷戦への協力に対するアメリカの関心を利用して講和条約締結にもっていこうという日本側の動きもあった。ダレスに指名は、こうした動きに即応するものだった。
吉田茂は多くの日本人と同様、主権の早期回復を切望していた。だが、アメリカの政策立案者たちのあいだの官僚的な内部抗争が決定を遅らせていた。講和会議へのソ連の参加、再軍備、あるいは日本に永久的な基地を設けるかどうか、などの未解決の問題がとくに議論を呼んでいた。
アメリカの計画立案者の多くが日本を反共産主義の西側陣営につなぎとめておきたいと強く望んでいたのに対して、
P48日本人の多くは、冷戦においては少なくとも名目上中立を維持し、経済の復興に専念することを強く望んでいた。そのためには、日本としては大規模な再軍備は避け、中国とソ連も含めた講和条約の締結を達成し、日本の領土内のアメリカ軍基地の存在を認めないか、あるいは最小限にとどめることが必要だった。
吉田は熱烈な反共主義者だったが、こうした意見の持ち主だった。統合参謀本部を激怒させたが、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍も同じ考えだった。
だが一九五〇年四月に吉田は。トルーマン政権、アメリカ議会、アメリカ軍部が事態を自分とは異なった見方をしていることを知った。吉田首相と同僚の保守政治家たちは共産主義者の外部からの侵略を心配していなかったが、パトロンのアメリカを疎遠にし、アメリカだけが提供することができる経済的支援を失うことを恐れていた。
一年前に中国共産党の指導者毛沢東は、行動の自由をある程度保持しながら、ソ連の支援を求めようとして、中国は冷たい戦争においてはソ連「一辺倒」である、と言明した。
吉田もアメリカ一辺倒によって占領終結を早め、復興を促進したい、と思った。だが冷静に考えてみると、日本はパトロンにあまりよりかからないほうがよさそうであった。
一九四七年に日本の指導者たちは、講和条約締結と引き替えに沖縄と小笠原諸島でアメリカに基地を貸与するという考えを持ち出した。だが統合参謀本部は日本本土内に軍事施設を要求したし、国務省の計画立案者たちはその時点では占領終結はあまりに早すぎると思っていた。
一九五〇年四月に吉田は行き詰まりを打開しようとした。彼はアメリカの外交官クロイス・ヒューストンに、日本の一般国民は「中立路線」を支持しているが、自分としては、アメリカの保護--たとえそれが本土に基地を提供することを意味しようとも--の価値を十分認識している、と語った(47)。
P49そして、右翼も左翼もアメリカに屈服したといって私を非難するだろうが、アメリカはもともと卑しい生まれなのだ、その弱いアメリカが結局は大英帝国を服従させたように、「たとえ日本がアメリカの植民地になるとしても、結局は日本の方が強くなるだろう」と皮肉まじりに「冗談めかして」語った。
彼は、占領を終わらせるについて「アメリカが必要だと思うどのような取決め」も受け入れる、と言明した。
マッカーサーは吉田に、安全保障問題についてアメリカ政府当局と直接交渉することを禁じたので、吉田としてはGHQを迂回しなければならなかった。彼は三人の使節(側近の白洲次郎、大蔵大臣池田勇人、池田の補佐の宮沢喜一)を、名目はジョーゼフ・ドッジと経済問題について話し合うということにして、ワシントンに派遣した。
それは一九四一年以降ワシントンを訪れた日本の使節のなかでもっとも重要なものだったが、円とドルの交換を制限する占領規則のため、旅行費用として十分なドルを集めることができなかった。
同情したGHQの職員が、一行をワシントンのホテルの割引ルーム(ダブルで一晩七ドル)にとまる資格のある「教育使節団」に指定してくれた。池田は次のような吉田の提案を持っていった。
日本政府はできるだけ早くアメリカと講和条約を締結したいという希望をここに正式に表明する。そのような講和条約が締結される場合には、日本政府は、日本とアジア地域の安全を保持するためにアメリカ軍を日本に駐留させることが必要であると考える。P50池田は、国内に外国軍の基地を認めれば、日本はソ連と中国の怒りを招くだろう、と思った。そしてアメリカ政府がソ連や中国との摩擦を避けるため、台湾、韓国、インドシナの各地域の「切り捨て」を考えているといううわさに、吉田と池田は神経をとがらせた。これらの地域は日本の外郭安全保障地域として、是非とも防衛しなければならない、と彼らは主張した。
アメリカの方からそのような要求をすることが困難であれば、日本政府自身から提議する用意がある。(相参)
アメリカの決意の断固たる表明は多くの問題を解決するだろう、と思われた。日本国内では経済の悪化が一九四九年の国会選挙で共産党を押し上げた。一九五〇年の初めにはソ連と中国が、ヴェトナムでフランス軍と戦っているホー・チ・ミンの反政府集団を正式に承認した(相参)。
韓国政権は敵対的な北の共産政権と、李承晩大統領の独裁的な支配に反対する韓国の議員の一派の挑戦に直面していた。中国における共産主義者の勝利はこのような動きを強め、日本の保守派に、アメリカは、アジアでもヨーロッパにおけると同様、その行動に「一線を引く」のではないかと思わせるようになった。
池田から、ソ連は日本に「アメリカよりも先に寛大な講和条約」を提示して日本の気を引くかもしれないといわれて、アメリカ側が不安にかられた。もしソ連が「樺太と千島列島(一九四五年に占領された)の返還」を申し出て、一方でアメリカは沖縄の支配を放棄を拒絶するならば、日本の世論は左に大きく傾くかもしれない。池田はアメリカ側に、ソ連の先を越して寛大な講和条約を早急に提示するようさかんに勧めた。
日本人は「しっかりした地盤を必死に求めて」おり、「アメリカがアジアで、とくに日本に関して、いつ、どこで、何を守ろうとしているのか」を知りたがっているというのである。
吉田は、日本が再軍備の負担を背負ったり、アメリカを疎遠にしたりすることなしに国際社会に静かに復帰することを願っていた。日本としては基地を提供する代わりに、保護と世界最大の市場への参入を確保したい。
P51アメリカの外交官は、吉田が冷戦でどちら側につくかを選ばれなければならないことを「公式に」認めたのだと評価した。そして吉田が求めているのは、日本の協力に対する公正な代価だけなのだ、と思った。
52/ 54/ 56
第二章 朝鮮戦争と対日講和 1950-52年 P57~(参照)
第三章 日米経済協力 1950-53年 P85~
第四章 占領の残映下で 1952-55年 P109~(参照)
第五章 中国と日本 1952-60年 P135~
第六章 東南アジア・ドミノと日米貿易 1953-60年 P169~
第七章 日米の政治的関係 1954-58年 P199~
第八章 安全保障条約をめぐって 1957-60年 P223~(参照)
第九章 日米安保の危機 1960年 P251~
第十章 ケネディ・ライシャワー路線 1961-63年 P287~
第十一章 アメリカ、日本、そしてヴェトナム戦争 1964-68年 P323~
第十二章 ニクソン・ショックと日米関係の変容 1969-74 P367~(参照)
終章 変えられた国 冷戦から新世界秩序へ P429~