P369副大統領時代や、一九六〇年代のペプシコーラなど多国籍企業の代表者時代に、ニクソン(相互参照)は日本の高官と気楽なつきあいを楽しんだ。彼はしばしば東京を訪れた。そして自民党指導者とは十分協力してゆくことができると確信した。
『フォーリン・アフェアーズ』の一九六七年十月号に掲載された「ヴェトナム後のアジア」と題する論文で彼は、アジアにおけるアメリカの同盟国が「中国の野望」から自らを守るためのいっそうの努力が重要であると強調した。
さらに一九五四年に東京を訪問したときに述べた意見を繰り返し、再軍備に対する日本の憲法上の制約を嘆き、日本政府に大国らしく振る舞うよう求めたが、そこには核兵器の所持も含まれていた。
キッシンジャーは、沖縄についてはニクソンと同意見だったが、日本をアメリカの安全保障にとって欠くべからざる存在とは思っていなかった(tw)。彼にとっては日本の外交官はなじみにくい相手であり、
P370「概念的な思考が不得手」で、長期的な見方に欠け、「合意による意思決定」を行う(tw)、「けちなソニーのセールスマン」であった。周恩来のような中国指導者はキッシンジャーを魅了したが、日本の高官たちは「退屈で、鈍感で、まともに対応するに値しない」(tw)ように思われた。
ロジャー・モリスのいう、対外経済政策に関するキッシンジャーの「偏狭な」見解は、ニクソンの場合も同様だった。両人とも国力を経済的な数字よりも、軍事的な数字によって測った。
この方法によれば、日本は大国の地位には値しない。彼らは貿易問題や通貨問題を二次的な地位に格下げしたり、まったく無視したりすることによって、新たに持ち上がってきた問題の解決をますます困難にしたのである。
P372ニクソン・ドクトリン
一九六九年一月、国家安全保障会議は対日関係の見直しを開始した。沖縄に関して会議は、沖縄での暴力事件は日本との安全保障関係を乱し、太平洋を防衛する上においてアメリカの立場を危険におとしいれると断じた。
日本国民全般の政治的意見は、琉球列島の復帰と、残存するアメリカ軍基地を日本の監督下に置くことを要求していた。一九六九年三月、佐藤首相は国会で、核抜きの沖縄返還をアメリカの新政権とのもっとも重要な交渉事項とすると明言した。
ワシントンでは沖縄返還に真剣に反対していたのは統合参謀本部だけだった。彼らは「沖縄基地を」単に現在のインドシナ作戦のためだけでなく、「われわれの太平洋における全戦略的地位のためにも、計り知れない価値を有していると考え」ていた。
だが、その統合参謀本部も琉球列島の返還が必要であることは認めた。一方、彼らは何としてもニクソンと日本側に自分たちの要求を認めさせようとした。それらの要求の中には、ヴェトナムでの作戦行動のための沖縄基地の使用、緊急事態に際し核兵器を沖縄に持ち込む権利、安全保障条約の下において日本が台湾と韓国の安全保障に関与することを日本が認めることが含まれていた。
ニクソンとキッシンジャーは統合参謀本部の要求に留意はしたものの、彼らが懸念していたのは、沖縄についてアメリカ政府が迅速な行動をとらなければ、日本は安全保障条約を一九七〇年以降は延長しないかもしれないということであった。
キッシンジャーは、日本の意向に沿った条件による返還計画の作成を命じた。国家安全保障会議事務局のモートン・ホールパリンやロジャー・モリスによれば、ニクソンもキッシンジャーも、リンドン・ジョンソンが締結した核不拡散条約を嫌っていて、イスラエルや日本のような国が独自で核兵器を開発することは避けられないと思っていた。
P382そしてさらに「核兵器に対する日本国民の特別な感情」を認めながらも、緊急時に沖縄に核兵器を持ち込むことを要求する権利を留保した。佐藤の補佐役で、キッシンジャーに対する佐藤の裏のルート役である若泉敬(相互参照)は後に、緊急時に核兵器を持ち込むことを認める文書に佐藤が署名したことを認めている(tw)。
国務省の日本問題専門家で、当時東京への使節団の団長代理を務めていた前国家安全保障会議事務局員のリチャード・スナイダーによれば、ニクソンは沖縄からアメリカの核兵器を撤去するという彼の意向と、日本が「核武装」に踏みきれば、アメリカはそれを「理解する」という佐藤に対する大まかなヒントの言葉とを結びつけて述べた。
ニクソンの考えは、キッシンジャーが前年の春に部下に述べた意見と同じである。会談に出席していた国務省の通訳は、このニクソンの言葉は非常に問題だと思ったので、ニクソンの発言を上司に知らせた。
スナイダーは後にシーモア・ハーシュに、ニクソンとキッシンジャーは、日本に沖縄の核兵器をアメリカ製のものから日本製のものに変えるよう促し、「自分たちは抜け目なくやっていると思っていた」のだと語っている。
一九六七年に日本の非核三原則(日本は核兵器を製造しない、所有しない、領土内に持ち込ませない--が、「国際的な核の脅威」に対抗するためアメリカの核抑止力を頼みにする)を定めた佐藤にすれば、ニクソンの言葉は彼を「困惑させた」(tw)。
「混乱を除く」ため、アメリカの外交官たちは日本側に「あなたたちは、ニクソンとキッシンジャーの発言を誤解している」と述べて、ニクソンたちの作戦を「やんわりと妨害した」。
佐藤にはニクソンの意図はおそらくわかっていた。首脳会談の直後佐藤は、核拡散防止条約に署名し、日本は核兵器の開発をしないことを約束したからである。首脳間の真の「誤解」は繊維問題に関して生じた。
P383予定どおり佐藤はナショナル・プレスクラブで演説し、日本は韓国と台湾の防衛のために沖縄基地を利用したいというアメリカの要求があれば「即座にかつ積極的に」応じることにすると誓った。
そして「太平洋の新時代」、人種的にも歴史的にも背景のまったく異なる「太平洋をはさむ二つの偉大な国民」が「協力して世界の新秩序建設に当たるという偉大な歴史的実験が今まさに開始されようとしている時代」について語った。
これはアジアの同盟諸国が地域の安全保障についてよりいっそうの責任を担ってほしいというニクソンの要求と合致した。日本の指導者が太平洋の「新秩序」について云々する場合はいつも、たいていのアジア人は身をすくめる。だがこのことを認識しているアメリカ人はほとんどいなかった。
中国は「アメリカの帝国主義者」と「日本の反動主義者」が「新しい戦争計画」の準備を開始したと非難した。
P384佐藤はニクソンの沖縄返還の「寛大な」決定に「深い感謝」の意を表明した。ニクソンはこの合意を「アメリカと日本のあいだの、太平洋での相互関係のみならず世界の中でのわれわれの関係における…新しい時代」の到来を告げるものだと評した。
彼は閣僚たちに、わざわざ、彼の前任者たちは沖縄協定を達成することができなかった。それは彼らが「国民や世界の指導者の信頼を得ていなかったからである」、これは「自由主義者に考えさせるところ」があるだろう、と語った。
一九六九年十二月、日本国土の外国占領はついに終わったと宣言した佐藤は、沖縄協定を利用して衆議院の解散、総選挙に打って出て勝利を得、自民党と自民党寄りの無所属議員を合わせて、四八六議席のうち三〇三議席を獲得した。
ニクソンも一九七〇年二月の対外政策報告で、沖縄問題の解決は「私の大統領としての決断の中でのもっとも重要なものの一つ」であると自賛した。連邦議会の議員たちの議論の中でニクソンは、日本ついに世界の問題の中に巻き込まれるのを避けようとする態度を捨てた、「五年後には彼らに規制を加える必要がなくなっていたとしても、私は驚かない」と述べた。
繊維問題の陥穽
明らかな成功にもかかわらず、一九七〇年の最初の二、三か月の間に日本に対するニクソンの態度はますます厳しくなっていった。彼の不機嫌は、佐藤が繊維についての合意を実行しようとしないことに対する不満のせいであった。
キッシンジャーと「ヨシダ」は、日本が五年間合成繊維製品の輸出を制限することについて合意し、佐藤もこれを容認した。一九六九年十二月の衆議院選挙のあと、アメリカと日本の繊維代表はジュネーヴでアメリカ商務省の指針に沿った協定を「取り決める」ことになっていた。
P385これによって佐藤は、沖縄を取り戻すために繊維産業を売り渡したという非難をかわすことができる。佐藤は、ワシントンの首脳会談の公式記録には繊維のことには触れないよう主張した。
だが「ヨシダ」はキッシンジャーに、佐藤は「了解事項を尊重する」と保証した。U・アレクシス・ジョンソンはワシントンで、アメリカの繊維代表はジュネーヴで、それぞれ商務省方式を超える輸出
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中国への接近
P393一九五〇年から一九六〇年代の初めにかけて日本の駐米大使だった朝海浩一郎がしばしば口にしていたことだが、彼の頭に繰り返し浮かんでくることがあった。それは、朝目が覚めたら、アメリカが通告なしに突然中国を承認したというニュースが飛びこんできたというのである。
アメリカの要人たちに幻想だと退けられたこのような事態は、外交関係者のあいだでは「朝海の悪夢」として知られていたが、一九七一年七月一五日の出来事のため、朝海は予言者のように思われるようになった。
国務次官U・アレクシス・ジョンソンのいうように、「国務省軽視と日本人侮辱が一緒になったキッシンジャーの秘密癖は、中国問題をめぐる日米関係を徹底的に破壊した」のである。
中国との対話開始に寄せるニクソンとキッシンジャーの関心は、冷戦の深刻な変化を反映したものである。二人は就任したとき、ソ連は核についてアメリカとすでに肩を並べるところまで来ているか、まもなくそうなるだろうと思った。優位を回復するための高くつく、そしておそらく無駄な努力の代わりに彼らは、
P394広く「緊張緩和」と呼ばれる経済的政治的刺激策--戦略兵器の交渉による制限、貿易と技術移転の増大、ソ連の有する正当な世界的権益の承認など--によってソ連の態度を和らげようとした。
アメリカ政府がソ連政府とのより強力的な関係を求めるにしたがって、同盟国の政治方針や経済政策がアメリカの利益としばしば衝突した。そしてNATOや太平洋同盟内部の緊張と駐ソ圏の崩壊とが同時に起こり、一九六九年三月、モスクワと北京とのあいだの長いあいだの論争が一連の国境紛争に発展した。
この分裂はアメリカにとっては、アメリカ政府が中華人民共和国に対して一定の影響力を持つことができれば、対立する共産国どうしを張り合わせて漁夫の利を占めることのできるよい機会であった。
中ソの国境紛争のあとニクソンとキッシンジャーは、中国との関係改善はソ連の行動を抑え、対立する二つの共産国に対し、アメリカとの協力に向かうか、それとも孤立の危険を冒すかの選択を迫るであろうと考えた。
就任のわずか二、三か月後にニクソンはキッシンジャーに、ソ連をつつく方法として「この構想--中国との関係改善--の実現」を説いた。一九六九年九月にニクソンは「ソ連に中国に対して今までとは違った態度をとらせるためには、グロムイコがアメリカにいるときが非常に好都合だろう」とキッシンジャーに語った。
アメリカを真ん中において、「二つの共産国は、それぞれわれわれとよりよい関係を結ぼうとした」と後にキッシンジャーは述べている。
キッシンジャーによれば、この三角外交によって得られたモスクワと北京に対する影響力は、また(北ヴェトナムに対するソ連や中国の圧力によって)ヴェトナム戦争の終結を早め、日本に対するアメリカ政府の影響力を強めて、アジアにおけるアメリカの軍事力の秩序だった削減を容易にするだろう、というわけである。
P395中国の勢力拡大に対する懸念がアメリカのヴェトナム戦争介入を促したのと同様、ソ連の圧力に対する中国の抵抗を支援したいという思いが、ヴェトナム戦争の解決を早めようというアメリカ政府の決意を強めることになった。
実際は、ニクソンがアジアでの介入縮小という自らの「ドクトリン」を実施にうつし始めたのは、ヴェトナムでの「勝利」の後ではなく、その前であった。
キッシンジャーによれば、「対中接近策によって…われわれの国家政策は将来に対する展望を取り戻すことができた」し、それによって「インドシナは本来の大きさ--大陸の端の小さな半島」に戻った、というのである。
それに中国との接触開始「劇」は「東南アジアからの撤退に必然的に伴うアメリカ国民の痛みを和らげてくれる」はずであった。
意外な対応関係だが、文化大革命のために体力の弱っていた中国は、ソ連と中国の挑戦に対処するためにアメリカの援助を求めた。
一九六八年八月のソヴィエトの侵入によるチェコスロヴァキア共産党の改革運動の粉砕、一九六九年の中ソの国教衝突と、問題の国境地域に対するソ連兵力の増強、これらの事件をうけ、中国の指導者にとって心配だったのはかつての同盟国による攻撃だった。
その上日本の富の増大とその自信に満ちた態度--一九六九年の佐藤の韓国、台湾、ヴェトナムの安全保障に対する関心の表明によって痛感させられた--はさらに再軍備した拡張主義的な日本の亡霊を甦らせていた。
朝鮮戦争以来、アジアにおけるアメリカ軍の存在の第一の目的は、中国の封じ込めであった。一方インドシナからの地上軍の漸次撤退、沖縄返還と極東地域の安全保障役への日本の充当、ニクソン・ドクトリン、ソ連との緊張緩和の追求は、いずれもアジア・太平洋地域におけるアメリカの安全保障の役割の縮小を予告するものであった。
だがアメリカの力の後退はソ連の脅威の増大と一致していたから、
P396先にヴェトナムでのアメリカの勝利を恐れていた中国の戦略家は、今度はアメリカの敗北の影響のことで頭を痛めていた。アメリカの後退によって、中国はソ連と日本のあいだに置き去りにされるだろう、というのである。
ニクソンとキッシンジャーが望んだように、中国を守るという毛沢東の決意は、毛の資本主義に対する軽蔑の情、ハノイとの連帯感、アメリカに対する不信、台湾奪回熱を上回った。
一九六九年から七〇年の間にアメリカ政府は中国との関係を改善したいというサインを出し、ニクソンとキッシンジャーは、ワルシャワでのアメリカ大使と中国大使とのあいだの定期協議の機会を利用して話し合いの促進をはかった(tw)。
一九七〇年九月、ニクソンは『タイム』の記者に、中国訪問に関心をもっていると語り、それに応え、毛沢東は十二月にアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーに、「旅行者としてであれ、大統領としてであれ」ニクソンと「話し合いえたら喜ばしい」と述べた。
この会見記は『ライフ』に掲載された。そしてキッシンジャーはパキスタンとルーマニアの役人を介して中国との秘密の連絡ルート(国務省を除外しての)を開設した。
ほぼ二年に及んだ秘密のやり取りのあと一九七一年六月二日に、周恩来は大統領の訪中準備のためキッシンジャーに中国を訪問するよう求めた。キッシンジャーによれば、これは「第二次世界大戦終結以来、アメリカ大統領のもとに届いたもっとも重要な伝言」であった。
ニクソンは側近に「世界の勢力均衡の根本的変化のために、両国が関係を持つことがそれぞれの利益に適うことになった」と述べた。
一つの国境ではソ連に、もう一つの国境ではソ連の後押しを受けたインドに直面し、北東には「その工業基盤のゆえに速やかな軍事力の発展」が可能な日本を控えた中国は、アメリカに庇護を求めた。
毛沢東と周恩来は依然「アメリカが太平洋から出ていく」ことを要求していたが、彼らは本当は「それを望んではいない」とニクソンは思っていた。
P397ニクソンによれば、アメリカの軍事力がアジアから後退すれば、日本は「ソ連と肩を組むか、再軍備する」だろうが、それはいずれも中国から見れば、好ましくない選択肢である。
ニクソンは、毛も周もちょっと説明すれば、「日本を抑えたいという中国の希望をもっともよく適えてくれるの」は、アメリカが今後も日本、韓国、東南アジアに軍事力を保持することだということに同意すると信じていた。
キシンジャーはパキスタン訪問中の七月九日、胃の不調を装って姿を消し、パキスタン航空で北京に飛んだ。彼と周恩来は二日半、のべ一七時間にわたって話し合った。
双方それぞれの特有のポーズ、哲学者ぶった話し方、軽い当意即妙な応答の中で、キッシンジャーは周恩来に、中国を動かすことができるとキッシンジャー自らが信じているただ一つのこと--「戦略的な安心、つまり敵対的な包囲という彼らの悪夢を和らげてくれるもの」--の提供を申し出た。
アメリカの厚情の証拠として彼は、中国国境に展開しているソヴィエト軍から傍受した通信文と、衛星写真とを提供した。周はキッシンジャーのいう「中国共産党の祈禱文」--アメリカの台湾放棄、南ヴェトナムからの撤退、「軍国主義的日本」援助の停止‐-を唱えた。
だが、昼食のとき周恩来はキッシンジャーに、このような小さな障害のために関係改善や大統領の訪中を遅らせる必要はないと確信した。
キッシンジャーがニクソンあての訪中招待状を携えて中国から帰国した日、ニクソンはH・R・ハルデマンに、政治では「何でもみな逆転する」、中国は以前の同盟国「ソ連に対する懸念」から「われわれと協定した」、自分は一九五〇年から台湾と「蒋のために戦い」、「つねに韓国援助の路線をとり、南ヴェトナムなどを援助してきた」が、毛沢東や周恩来と同じような、「反対の方向に…すすんでいく人間」なったとは「皮肉」なことだ、と語った。
P398中国との和解は「世界のバランスを変え、古いつながりを粉砕する」だろうとニクソンは述べた。そして「日本に対する圧力」はあるいは日本を「ソ連との連携」に向かわせるかもしれない、一方ソ連は「日本とインドに近づく」ことによって、アジアの勢力バランスを修正しようとするだろうと予言した(ソ連外相アンドレイ・グロムイコはニクソンの訪中発表のあとすぐ日本に飛んだが、北方領土の返還について話し合うことさえも拒否したため、和解はならなかった)。
ニクソンは「太平洋の同盟諸国に、われわれは政策を変更したり」、古い友だちを「陰で」売り渡したりする「つもりはないことを納得させる」にはかなり努力がいることを認めた。
だが、ニクソンにいわせれば、「一〇年前はアジアの自由国を中国と争わせることは正し」かったが、今やアメリカとしては「中国を外すよりも中国と一緒の方がより効果的な役割を果た」せるのだということを、太平洋の同盟諸国は理解するようにしなければならない、というのである。
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