第一章 ピーター・ティール(相互参照,tw,tw,tw,tw,tw,tw)
P 13 ピーター・ティールとは誰か世界最大のオンライン決済サービス・ペイパルの共同創業者、フェイスブックを創業から支える外部投資家、シリコンバレーで大きな影響力を持つペイパル・マフィアを束ねるドン、ドナルドトランプの熱烈な支持者、そして新反動主義に霊感を与えた異端的リバタリアン…等々。
いくつもの顔を併せ持つ男、ピーター・ティール(Peter Thiel)。しばしば矛盾した面すら見せるティールの解きほぐしがたさ、とっつきにくさは、そのまま新反動主義(Neoreaction:NRx)なる不透明な思想動向の解きほぐしがたさに直結しているように思える。
意外なことに、ティールは学部生時代、哲学を専攻していた。彼はスタンフォード大学でルネ・ジラール(Rene Girard)の講義に出席し、ジラールの著書『世の初めから隠されていること』を読みふけった。
同書は彼の思想にも大なり小なり影響を与えている。また、同時期に大学内で巻き起こった人文系カリキュラムを巡る学内抗争においては、ティールはみずから学内新聞を発行して積極的に論陣を張っていった。
この頃のティールは、現在のイメージとは異なり、論客や言論人、もっといえば思想家的な傾向を持っていた。ティールの思想形成を辿っていくことで、その後のティールの幅広い活動の根底に横たわる一貫した「思想」の過程を取り出してみること。言ってみれば、ピーターティールを思想家として扱ってみること。
P14そして、その作業を通じて新反動主義のエッセンスを少しでも抽出しようと試みること。これが本章のさしあたりの目標である。
ピーター・ティールは1967年10月11日、西ドイツのフランクフルトでドイツ人として生を受けた。ティールの父は科学エンジニアで、各地の鉱山会社で工程管理の仕事をしていた。そのため、一家は引っ越しを繰り返す生活を送っていた。
ティールが一歳のときに一家はアメリカへ移住。そして6歳のとき、父親がウラン鉱山で働くことになり、一家はアフリカ・ナミビアのスワコプムントへ移住する。1973年、折りしも第一次オイルショックがアメリカを直撃していた時期にあたる。
かつてはドイツ領だったこの小さな湾岸都市で、ティールはチェス盤とフランスのコミックと世界地図とともに暮らした。スワコプムントの学校の厳しい規則は彼を苦しめ、幼いながらも抑圧に対する反発心を目覚めさせた。
自由を何よりも求める彼のリバタリアン的傾向は、この頃すでに胚胎していたのかもしれない。
ティールが9歳のときに一家はアメリカに戻り、10歳の1977年にカリフォルニアのフォスターシティ(地図)に住まいを移す。
フォスターシティはサンフランシスコ湾の海辺に建設された計画都市で、当時はまだサンノゼからサンフランシスコにかけてのびる半島が「シリコンバレー」と呼ばれることもほとんどなかった。
しかし、すでにアップル、ヒューレットパッカード、インテルなどの企業がこのエリアに本拠地を置き、爆発的な成長を遂
P15 げようとしていた。1977年といえば、アップルがパーソナルコンピュータ、アップルⅡを発表した年だ。コンピューターを個人が所有する、そんな時代が本格的に到来しようとしていた。
ティールはこの揺籃の地で、70年代の終わりから80年代にかけてを多感な十代として過ごした。チェス、数学、SF小説、コンピューターゲームに興じた。チェスの才能はめざましく、13歳未満の部門で全米7位に入った。
フィクションではトールキンの『指輪物語』と当時劇場公開がスタートした『スター・ウォーズ』シリーズが大のお気に入りだった。
1985年、地元の高校を優秀な成績で卒業下ティールは、フォスターシティからほど近いスタンフォード大学へ進学することを決める。スタンフォード大学は当時、シリコンバレーという注目を集めるエリアの中心的な存在だった。
のちにティールは当時を振り返りこう語る。「1985年を振り返ると、とにかく楽観的でした」。彼の中にはこれといった明確な進路や目標が存在しなかった。「私が方向性を決めずにいたのは、何でもできるという自信があったからです。
(中略)将来についてあまり具体的になる必要はないと思ったのは、80年代の楽観主義の表れです。私の望みは何らかの形で世界に影響を与えることでした」(ジョージパッカード『綻びゆくアメリカ 歴史の転換点に生きる人々の物語』)。
ルネ・ジラールへの師事
「何らかの形で世界に影響を与える」ためのツールとしてティールが選び取ったのは、意外なことに哲学だった。彼はスタンフォード大学の哲学科で、フランスの哲学者ルネ・ジラールと出会い、そこから決定的な影響を受けている(tw)。
のちにティールは、ジラールの著書『世の初めから隠されていること』を生涯の一冊に挙げ、自身の思想形成の土台を成していることを公言している。
ルネ・ジラールは、ある社会や共同体において「暴力」がどのように機能しているかを、人類学や宗教学の見地から解きほぐしたことで知られる。ジラールによれば、法体系を持たない未開の社会では、共同体内でひとたび暴力が発生すれば、それは復讐の連鎖となって共同体を最終的に絶滅に追いやる。
この「相互敵暴力」の伝染を防ぐために共同体がとる解決策が供犠というシステムである。共同体の全員が満場一致で成員の一人を身代わりとして、すなわち贖罪の生贄として共同体から追放する。
この共同体の内部から暴力を浄化する供犠という儀式を通じて、共同体に安定と秩序がもたらされる。この暴力を追放する暴力は「創造的暴力」を覆い隠しているという。
たとえば、ジラールは『福音書』におけるキリストの磔刑を、そのような秩序創設の根源に隠された暴力の物語として読み替える。つまるところ、ジラールによれば、どんな社会も共同体も国家も暴力によって成り立っているのだ。
P17 それでは、私たちが何らかの集団生活を営んでいる限り、この「創造的暴力」という名の原罪から逃れるすべはないのだろうか?もちろん、ある、とジラールは言う。それは「信仰」だ。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ、5の44)。信仰に基づく暴力の無条件的な放棄だけが、人類を真に平和と高みへと導いていくだろう…。
このような敬虔なクリスチャンとしてのジラールの教えが、保守的な福音派の家庭で育ったティールにどのような感情をもたらしたのかは定かでない。しかし、ティールを含む、明確な信仰を持たない現代のシリコンバレーの若者たちにとっては、ジラールの思想は一種の出口の見えないディストピアとして響いたかもしれない。
『世の初めから隠されていること』では、模倣(ミメーシス)の観点から暴力のメカニズムが考察されている。人間は、他者の欲望を模倣する生き物である。というのも、欲望とは、畢竟するに他者の欲望だからだ。
たとえば、あなたが何か高価な宝石を欲望するとき、それは宝石そのものが美しいから欲するのではなく、皆がその宝石を欲しがっているから欲するのだ。こうした欲望の模倣と連鎖は、不可避的に苛烈な競争と暴力の連鎖を生み出す。ジラールに従えば、人間の欲望とは、究極的には死へと向かう欲望なのだ。
すべてのものが死へと集束していきます。フロイトの思想のように、またフロイトと同じようにそこに本能のようなものを認めうると信じている動物行動学者の思想のように、そうした集束の傾向に注目している思想もまた、死へと集束していきます。あるいはまたおそらく、文中に出てくる「われわれ人類の上にのしかかっている脅威」とは、おそらく当時の核戦争の脅威を念頭に置いている。この、死の欲動を宇宙の法則であるエントロピーにまで敷衍させるジラールの暗いビジョンを、ティールは一種の天啓として受けとめた。
P18宇宙の進化全体を特徴的にあらわすあの有名なエントロピーへの傾向も例外ではないでしょう。
もしわれわれ人類の上にのしかかっている脅威が、ある本能から生まれたものであり、人類の歴史のありとあらゆる災難が、非情な科学の法則に特有な一様相にすぎないのだとすれば、われわれを運び去る動きに身をまかせるほかに道はないということになります。相手はわれわれの思いどおりにはならない運命なのですから。(ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』)
彼は、これまでの競争に明け暮れた生活を顧みた。学校では常にトップの成績を目指し、チェスでは相手を打ち負かすために寝食を忘れた。「人はさまざまなモノを求めて激しく競争します」と彼は言う。
「ところが、ひとたび手に入れると少しばかり失望する。なぜなら、どうしてもほしいと思うものは、だれもがほしがっているという事実に突き動かされるからであって、必ずしも魅力のあるものではないからです。私は、だれよりもその罪を犯していたので、ジラールの理論を積極的に取り入れようとしたのです」(『綻びゆくアメリカ』相互参照)。
ただし、ティールはジラールとは異なり、「信仰」に競争と暴力からの脱出の糸口を見出せなかった
P19 代わりに、暴力に基づく共同体からの解脱は、端的にその共同体から「脱出」することによってなされるとティールは考えた。
この考えは、ティールの現在まで貫かれる経営理念や起業家精神、そして特異なリバタリアニズムまで影響を与えている。
学内紛争にコミットする
またこの時期、ティールはスタンフォード大学における人文系カリキュラムを巡る学内紛争に積極的にコミットすることを通じて、そこでも自身の思想的土台を形成していた。
80年代後半のスタンフォードでは、「西洋文化」と呼ばれる必須科目を巡り学生内でも対立が激化し、さながら60年代の大学紛争が奇妙な形で再来したかのようだった。
マイノリティとリベラルな学生たちは、人文系カリキュラムがアリストテレスやシェイクスピアといった「死んだ白人男性」たちによって占められていることに憤った。
彼らは、白人的な西洋中心主義ではない、「文化的多様性」や「ジェンダー」の観点を取り入れたカリキュラムを導入すべきだと主張した。それに対して、ティールを含む保守派の学生たちは、リベラル学生がカリキュラムを利用してスタンフォードに左翼思想を吹き込もうとしていると激しく反発した。学生間の対立は激しくなり、ある学生グループはスタンフォード大学の学長室まで占拠した。
こうした事象は、当時のアメリカ国内のキャンパスで沸き起こっていた「ポリティカル・コレクトネス(tw)」を巡る抗争の一幕といえた。
P20ポリティカル・コレクトネスは、日本語では「政治的公正」、あるいは「政治的に正しい言葉遣い」などと訳され、その言葉の通り、政治的/社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や態度のことを指す。
近年ではドナルド・トランプが、このポリティカル・コレクトネスを痛烈に批判したことが記憶に新しいが、最初にこの言葉が広く論争の的になったのは、ティールがスタンフォード大学に在籍していた、まさに80年代後半から90年代初頭にかけての大学キャンパスにおいてであった。
なお、その際に大きな影響力を持った書物に哲学者アラン・ブルーム(Allan Bloom)の『アメリカン・マインドの終焉 文化と教育の危機』(1987)がある。ブルームは、ポリティカル・コレクトネスという言葉こそ用いていないものの、同書の中でアメリカの大学教育における近年の進歩的傾向を、伝統主義者に基づいたカリキュラムの多文化主義化は、西洋の偉大な精神をないがしろにすることであり、それは取りも直さず教育の堕落を意味していた。
さて、ティールは二年生の終わりの1987年6月、友人と共同で『スタンフォード・レビュー』(相互参照)という学生新聞を創刊、みずから論陣の前線に切り込んでいく。この学生新聞はスタンフォードの保守派の牙城をなし、資金面ではネオコンの父と呼ばれるアーヴィン・クリストルが1978年に保守派学生の活動を支援するために立ち上げた組織からの援助があった。ティールはこの新聞の編集長として、記事の方向性を基礎づけていった(tw)。
P21 すなわち、進歩派に対する攻撃と、リベラルな学生と教授陣、そして大学当局に蔓延する「ポリティカル・コレクトネス」に対するシニカルな嘲笑である。
キャンパスの文化戦争は全米に広まっていた。1987年初頭には民主党の大統領候補がスタンフォードを訪れ、学生を率いて「西洋文化はもうたくさんだ!」と叫びながらデモ行進を行った。
一方ティールの『スタンフォード・レビュー』は、レーガン政権の教育長官ウィリアム・ベネットを招いて学内で講演会を開き、大学が推し進めようとする行き過ぎた進歩的改革ついて意見を仰いだ。
「偉大な大学がおとしめられました」とベネットは述べた。当時はレーガノミックスの時代であり、保守思想と新自由主義経済政策が影響を力を持っていた。ティールはもちろん一貫してレーガンを支持していた。
ティールが大学を卒業しロースクールに進学したのちも文化戦争は続いた。ティールの友人デイヴィッド・サックス(tw,tw,後述)(David Sacks)が『スタンフォード・レビュー』の新たな編集長に就任すると、同紙は「言論の自由」、ジェンダー、セクシュアリティといった論点に戦線を移していった。
もちろん、その際の主な攻撃対象もポリティカル・コレクトネスであった。一部の学生にとってポリティカル・コレクトネスとは、結局のところ言いたいことを言うことができる権利の制限、言い換えれば自由を圧殺を意味していた。
たとえば、ティールのとある友人は学内の言論の自由の限界を検証するために、同性愛者の講師の自宅の前で「このホモ野郎!エイズになって死んじまえ!」と叫んだ。この友人はスタンフォードから追放されたが、ティールらはこの事件を「魔女狩り」と主張した。
P22非西洋文化圏やジェンダーや人種的多様性を扱う講座が次々と新設されていくスタンフォードの風潮に警鐘を鳴らすため、1995年、ティールはサックスと共著『多様性の神話:キャンパスにおける多文化主義と政治的不寛容(The Diversity Myth: Multiculturalism and Political Intolerance on Campus )』(未邦訳)を出版する。
この書は、「大学の多文化主義化」という実験がいかに失敗したかを声高に主張する。彼らによれば、この実験によって、言論の自由は制限され、ポリティカル・コレクトネスという名の新しい不寛容、反西洋的でヒステリックなカリキュラム、学生生活の政治化、多様な人種とエスニシティの対極化がキャンパスに蔓延したという。
アメリカ文化の先端を行くスタンフォードで起きたこの実験の失敗は、将来の多文化社会に対する警鐘であると同書は結論付ける。
『多様性の神話』とスタンフォードにおける文化戦争は、さながら昨今のアイデンティ・ポリティクスを巡るリベラル対オルタナ右翼の抗争を先取りするかのようで、その意味ではまさしく予言的な書であり、示唆に富んでいる。
なお、同書はティールがトランプ支持を明らかにした近年になって、ふたたびメディアによって取り上げられるようになった。たとえば、リベラル系メディアの『ガーディアン』は、2016年10月21日付けの記事において、『多様性の神話』に言及しながら、ティールの女性蔑視やアンチ・フェミニズム的傾向を批判的に取り上げている。
同書では、1991年にスタンフォード大学で起こったデートレイプ事件---17歳の新入生が酔っぱ払って学生寮でレイプされた事件について扱っている。著者らは、男女とも泥酔していた状況で、
P23 どちらも責任を問えるのに、常に男側が犯罪者になるのは不当であると主張する。
また、年同書では人種差別問題に対しても、人種差別は多くが幻想にすぎないと吐き捨てている。過剰なポリティカル・コレクトネスと人種的意識は、より人種間の緊張を高めるだけだという。
パラドキシカルに思えるのは、レイシズムに過剰に焦点を合わせることは、辛辣さの源泉にしかならないということです。たとえば、多文化主義者が白人に対して「制度的レイシズム」や「無意識的レイシズム」などと言って、取るに足らない無形のレイシズムをあげつらう現象などです。現在、ティールは『多様性の神話』内の主張の一部を撤回し謝罪している。メディアはティールのトランプ支持と20年前に書かれた著書との間に連続性を見出そうとしているが、その意味ではティールの思想は20年前から一貫していると言うことができるかもしれない。
結果として、レイシズムへの配慮は、かつては人種間の分断を終わらせる希望であったのに、現在では論争と抗争の主要な原因となっています。(ピーター・ティール+デイヴィッド・サックス(前述)『多様性の神話』)
言い換えれば、80年代から90年代にかけて巻き起こったスタンフォードにおける文化戦争は、現在に至るまでティールにとって決定的な意味を持っているといえる。
主権ある個人、そしてペイパル創業へ(相互参照)
P24ロースクールを卒業したティールは、ニューヨークの法律事務所で働きはじめる。のちに「揺れ動く二十代の危機」と総括することになるこの時期を通して、ティールは競争ばかりの人生にますます疑問を募らせていった。
週80時間の労働、昇進を巡る同僚との熾烈を極めた競争。そこにはまさしくルネ・ジラールの哲学を体現しているような世界だった。1996年、法律事務所を早々に辞めたティールは、ふたたびシリコンバレーに戻ってきた。
ティールがニューヨークから戻ってきた年、折りしもシリコンバレーにはドットコムバブルが到来しようとしていた。当時、ビル・クリントン政権の副大統領アル・ゴアがぶち上げた情報スーパーハイウェイ構想のもと、世界中を結ぶインターネットこそが来るべき情報化時代を牽引していく、といった空気が醸成されていた。
たとえば、1994年にウェブブラウザ「モザイク」をベースに「ネットスケープ・ナビゲータ」を開発したネットスケープは、第一次ブラウザ戦争の先鞭をつけた。続く96年にヤフー、97年にアマゾン、98年にイーベイが株式を公開した。
今やシリコンバレーに拠点を置くインターネット関連のIT企業に世界中の注目が集まりはじめていた。このような状況の中、ティールは1998年にペイパルを創業する。以前から電子決済市場に目をつけていたティールは、ウクライナ出身のプログラマー、マックス・レフチン
P25 とともに、携帯デジタル端末の暗号化ソフトウェアの会社を立ち上げた。レフチンが開発した暗号化ソフトウェアは、安全な電子決済を可能とするものだった。携帯デジタル端末を電子ウォレットとして使うことで、ユーザーはクレジットカードまたは銀行口座に紐付けられた一定の金額を端末間で転送することができるようになる。まさに革命的なサービスだ。
事業を開始したペイパルは、すぐさま主要フィールドを携帯端末からインターネット上に移す。当時すでに普及していた電子メールを利用することで、だれでも簡単に送金を行うことが可能になった。2000年3月の時点で、ペイパルのユーザー数は100万人を突破していた。
それにしても、どうしてティールは電子決済サービスに目をつけたのだろうか。その背景を考えると、ティールが折に触れて生涯の愛読書の一冊に挙げているとある書物の存在が浮上してくる。その書物とは、金融評論家ジェームズ・デビッドソン(James Davidson)と貴族ウィリアム・リース⁼モッグ(Wiliam Rees-Mogg)による共著『主権ある個人:情報化時代への変遷を支配する(The Sovereign Individual:Mastering the Transition to the Information Age)』(未邦訳)である。
1997年に初版が発行されたこの書物は、90年代におけるティールの思想形成に決定的な影響を与えていると思われるので、少し詳しく見ていきたい。まず、この書物が出版された1997年といえば、世界を世紀末の空気が漂っていた時期に当たることに留意したい。
P26西暦2000年が近づいている今、世紀の終わりに西洋文明が大きな変動に見舞われるのではないか。そうした「予感」がこの書物の通奏低音を構成している。『主権ある個人』の冒頭のパラグラフには、発明家ダニー・ヒリスによる以下のような文章が引かれる。
何か巨大なことが起こりつつあるようだ。増加しつづける人口、大気中の二酸化炭素濃度の上昇、地表を覆うネット、メガバイト換算のドル。それらすべてが世紀の向こう側の一点へ向けて、漸近線を描きながら上昇していく。---シンギュラリティの到来。私たちが知っているすべてのことの終わり。私たちが知らないすべてのことの始まり。(『主権ある個人』)つづく第一章の冒頭において、著者は2000年の到来が何らかのカタストロフィを引き起こすという想像力に西洋は取り憑かれてきたと述べ、世界は2000年で終わると推測したアイザック・ニュートン、1999年に第三のアンチクリストが現れると予言したノストラダムス、1997年に水瓶座の時代への精神的移行と新たな人類の到来を幻視したカール・グスタフ・ユングなどの例を挙げている。
また、2000年になるのと同時にコンピューターが誤作動を起こし、世界中の経済が麻痺するのではないか、といったいわゆ
P27 る2000年問題がマスメディアで盛んに騒がれていたのもこの頃に当たる。
日本に目を向けてみると、五島勉の『ノストラダムスの大予言』に端はを発するノストラダムス・ブームがあり、オウム真理教は地下鉄サリン事件を起こし、他方で『新世紀エヴァンゲリオン』といった世紀末の空気を湛えた特異なサブカルチャーが社会現象を巻き起こしていた。『主権ある個人』は、このような時期にアメリカで出版された。
同書の主張を一言で要約すれば、「国民国家は時代遅れなのでやがて崩壊するだろう」ということに尽きるだろう。この予言的なリバタリアン的終末論とでもいうべき趣の本は、先に述べたようなインターネットの勃興期に書かれたという点でも重要だ。
この時期は、国家とは別の共同体のあり方を可能にするオルタナティブな空間として、しばしばサイバースペースに対するユートピア的期待が向けられていた。奇しくも、ジョン・ペリー・バーロウ(John Perry Barlow)が「サイバースペース独立宣言」を起草したのは、本書が刊行される一年前の1996年である。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。我々が作りつつある世界はでは、誰もがどこでも自分の信ずることを表現することが出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。(ジョン・ペリー・バーロウ「サイバースペース独立宣言」)P28政府によるインターネット規制の法案「通信品位法」に反対するために起草されたこの宣言文は、国家政府からのサイバースペースの独立を訴える苛烈なアジテーションに満ちている。
だが、『主権ある個人』の主張は、ある意味よりラディカルである。というのも、同書の予言によれば、サイバースペースの拡大によって、国家システムそれ自体が遠からず崩壊するであろうとされているからだ。
そこにおいて鍵となるのは暗号化技術と電子マネーの登場だ。グローバル化した電子商取引によって、中央銀行は通貨発行益を失い、政府は個人間の取引に介入したり、収入に課税したりすることができなくなる。
言い換えれば、政府は個人から税金という名の「みかじめ料」を取ることができなくなり、代わりに貨幣の流れを個人がコントロールできるようになる。この帰結として、税収を絶たれた政府のシステムは不可避的に機能しなくなっていく。民主主義は崩壊し、福祉制度の解体とともに富の不平等は加速し、暴力やテロが都市を覆う。
こうしたポスト・アポカリプス的な状況。さながら『マッドマックス』、あるいは『バトル・ロワイアル』のような世界の只中に現れるのが、新たな階級としてのSovereign Individual、すなわち「主権ある個人」である。
P29 彼らは、一言でいえばニーチェ(tw)の「超人」の起業家版であり、国家の制約から解き放たれた彼らは独力で富と権力を築き上げポスト終末の世界をサヴァイヴしていく。同書の中で、「主権ある個人」はしばしばギリシャ神話におけるオリンポスの神々に喩えられている。
近代的な国民国家の秩序が崩壊していくさまを予言的な筆致とディストピアSF的な幻視力で描いてみせた本書は、まさに世紀末特有のダークなビジョンで満ちている。だが、実はこうした「西洋の没落」的なテーマはさほど珍しくなく、欧米においては常に一定の需要のあるテーマとして盛んに書かれてきた(それこそ前述の『アメリカン・マインドの終焉』も広義の「没落」テーマ本といえるだろう)。
ドイツの哲学者シュペングラーの『西洋の没落』は、まさにそうした「西洋の没落」人気に先鞭をつけた書物として特筆に値する。1918年、第一次世界大戦が終結した年に第一巻が刊行された『西洋の没落』は、当時の時代精神とリンクしていたこともあり、はからずもベストセラーになった。
第一次世界大戦という世界史と西洋近代が最初に直面した「大量死」は、「西洋文明」あるいは「近代」それ自体の優位性を揺るがしかねない、ヨーロッパにとってトラウマ的な出来事であり、いみじくも当時の教皇ベネディクト十五世が大戦のさなかに評した「文明ヨーロッパの自殺」だった。
『西洋の没落』は、この「文明ヨーロッパの自殺」を解明してくれる書として読まれたのだ。『西洋の没落』は、それまでの歴史観に代わる新しい歴史観の提示と、西洋の未来についての予言からなる。
P30ゲーテとニーチェから霊感を受けたシュペングラーは、歴史を直線的でなく円環的なものとして捉える。それまでの西洋の歴史観では、歴史は「古代-中世--近代」といった単線的なモデルに従って弛まず発展していくものとされた。
このような進歩史観は退けられ、代わりにニーチェの「永劫回帰」的な円環モデル、すなわち「春(誕生)--夏(発展)--秋(成熟)--冬(死)」というサイクルからなる運命的歴史観が提示される。
その上で、シュペングラーは未来の予言として、「西洋の没落」は避けられない宿命であると結論付ける。彼によれば、現在のヨーロッパはローマ時代の反復を生きているという。土地に根差した「民族」の代わりに、世界都市に生きる「民衆」が台頭し、議会主義および民主主義は資本に支配されている。
今後到来するであろうカエサル主義の時代においては、少数のカエサルたちが世界戦争を引き起こし、最終的に一人の勝者が世界帝国を打ち立てる。従来の国家は消滅し、少数の世界都市だけが生き残る---。
このシュペングラーによる暗い未来のビジョンは、ナチスにも影響を与えたとされるが、だが同時に先ほど見てきた『主権ある個人』が提示する未来像とも驚くほど似通っている。
同書の著者らもまた、シュペングラーと同じく単線的な進歩史観に抗って、循環的なアンチ・タイムライン史観を提示している。彼らは、西洋文明が繰り返し世紀の終わりに大変革を経験してきたというシンクロニシティに着目する。
たとえば、今から約500年前、
P31 15世紀の最後の10年間にヨーロッパで鉄砲革命が起こり、コロンブスがアメリカに向けて出航している。さらにその5世紀前、10世紀の終わりに中世が始まっている。その5世紀前の終わりにはガリアの最後の軍隊が分裂してローマ帝国が滅びた。そして、20世紀前の最後の10年に、キリストが生まれている。
こうした世紀単位のサイクルを提示してみせた上で、しかし現在われわれの目の前に迫っている世紀末は、それまでのどの世紀の変わり目とも比べ物にならない大変動を引き起こすだろうと断言する。
『主権ある個人』は、シュペングラーの『西洋の没落』をリバタリアン好みにアレンジしたものだと言える。国民国家は影響力を弱め、代わりに小さな企業型都市国家が統治権を握る。
---封建主義2.0の到来。福祉のシステムが機能しなくなった弱肉強食の世界では、テクノロジーを手中に収め政府の支配から独立した主権ある個人が、イノベーティブなアイデアと国境なきサイバースペースを武器にのし上がっていく。
本書は黙示録的であるが、同時にどこか楽観的でもあり、読みようによっては起業家向けの自己啓発書としても読める。近年インターネットで生まれた「終末楽天主義者(Apocaloptimist)」なるスラングがあるが、その意味では本書はまさしく終末楽天主義的であるといえる。
ニーチェ主義とティール
P32同書にニーチェの名前は一度も出てこないが、しかしリバタリアニズムとニーチェの奇妙な親近性を考えてみることは有益に思える。たとえば、森村進編著『リバタリアニズム読本』所収の「ニーチェとリバタリアニズム」というテキストでは、ニーチェをリバタリアニズムの先駆者として再解釈するという大胆な読みが行われている。
この章の執筆者・橋本務によれば、世俗社会における国家や教会といった、人々を「畜群」へと訓育していく大組織をニーチェは痛烈に批判しているが、この精神は、国家を否定して自由を重んじるリバタリアンとも通ずるところがあるという。
またニーチェは、平等主義を信奉する心理の根底にはルサンチマンがあると指摘している。「毒ぐもタランチュラ」という寓意を用いてニーチェが指摘するところによれば、隠れた復讐心を持つタランチュラは、権力にありつくことができないという嫉妬心から、「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」と企てる。
このニーチェの平等主義に対する批判は、どこかティールのポリティカル・コレクトネスに対する批判と似通ったところがある。彼はロースクール卒業間際に『スタンフォード・レビュー』に寄せた最後の論説の中で、経済的平等を重んじるリベラルを嘲笑し、代わりに資本家を擁護する。
「強欲の代案としてのポリティカル・コレクトネスは、自己実現や幸福とは無縁であり、価値のあることに取り組む人々への怒りと嫉妬にほかならない」。ティールにおいては、強欲は嫉妬よりもはるかに望ましく前向きなものとして肯定される。これはティール流の「超人」思想なのであろうか。
ニーチェは、ルサンチマンに基づく低劣な道徳を退け、いかなる道徳にも規定されない、
P33 孤独の中で創造的な精神を陶冶する「超人」の到来を歓待する。
「超人」とはすなわち、国家に対抗する力量をもった崇高な精神的存在である。(中略)言い換えれば超人は、規律訓練や徳育によって自らの欲望を抑制するのではなく、欲望を無際限に肯定し、そして祝福しなければならない。リバタリアン流「超人」においては、「創造力としての自由」とはさしずめイノベーティブなアイディアと起業家精神であろうか。ともあれ、こういった超人のビジョンは、封建主義2.0の時代に到来するであろう主権ある個人を思わせるに充分すぎるだろう。
従来、肉欲と支配欲と我欲の三つは、「各人が抑制すべき悪しき欲求であるとみなされてきたが、ニーチェはこれらの欲求が、趙人の理想において肯定しうることを示している。趙人は、我欲をもって、巨大な組織(国家)に抵抗する意志を示す存在である。
ニーチェは超人のもつ「創造力としての自由」を擁護するために、人間を凡庸なものへとおとしめる国家装置を批判したのであった。(橋本務「ニーチェとリバタリアニズム」)
もちろん、ニーチェの「超人」は市場競争を賛美したわけではない。だが、それはティールも同様だった。ティールをその他の一般的なリバタリアンから分け隔てる特異性はここにある。
P34先にも述べたように、ティールは「競争」を忌避していた。これはともすれば、他のシリコンバレーのリバタリアンからみれば異端と受け取られかねない。一般的に知られるように、リバタリアニズムは個人の自由を何よりも重んじる。
よって、政治的立場としては、国家の役割や福祉を最大限に抑える最小国家論を、経済的立場としては政府の介入を否定し市場競争を推進する市場原理主義的立場をそれぞれ取る。
もちろん、ティールも経済的自由を否定するわけではない。しかし、ルネ・ジラールの教えに対して忠実なティールは、競争と暴力が支配するフィールドには可能性が残されていないと見なしていた。
代わりにティールが重視するのは、フロンティアの開拓と「独占」である(tw,tw)。まだ誰も開拓していない未知の領域を独力で切り拓き、野心と才能によって新天地を支配すること。そのためにはまず、今いるこの束縛と不毛の地から「脱出」しなければならない。
ティールがスタンフォード大学で行った講義をまとめた著書『ゼロ・トゥ・ワン』の中で、競争とはイデオロギーに過ぎないと断じられている。たとえば、アメリカの教育システムは競争への強迫観念を反映したものであり、成績による評価システムを通して生徒にステータス信仰を植え付けている。
アメリカ人は競争を崇拝し、競争のおかげで社会主義国と違って自分たちは配給の列に並ばずにすむのだと思っている。でも実際には、資本主義と競争は対極にある。資本主義は資本の蓄積を前提に成り立つのに、よって、ティールは将来の起業家たちに、クリエイティブな独占企業を目指すようアドバイスする。こうした起業観は、彼自身が主張するようにある意味で創造論的である。
P35 完全競争下ではすべての収益が消滅する。だから起業家ならこう肝に銘じるべきだ。永続的な価値を創造してそれを取り込むためには、差別化のないコモディティ・ビジネスを行ってはならない。(ピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワン』)
ティールは、起業に際しては進化論ではなくインテリジェント・デザイン的な思考法が重要であると説く。ゼロからワンへの跳躍、言い換えれば無から有を生み出すためには神にも似た視点に立たなければならないのだ。
この点については、ティールは明確に反ダーウィン主義者といえる。
また、ティールは別の箇所で、経済学の数式は19世紀の物理学の理論をそのまま模倣したものに過ぎないとしながら、完全競争が成立した均衡状態をエントロピー理論における熱的死の状態に喩えている。
つまり、そのような死の空間においては創造的なものは何も生まれないというわけだ。この考えには、ジラールが『世の初めから隠されていること』で示した、欲望の連鎖がエントロピーのように「死」へと傾斜していくビジョンが反響しているように見える。
暗号通貨とサイファーパンク
P36 話しがだいぶ逸れたが、ティールがなぜペイパルという電子決済システムを立ち上げたのか、ともあれ、これで見えてきたことと思う。
『主権ある個人』では、来るべきサイバーススペースが国家を無用のものとし、国境なき電子マネーが個人に力を与えるというビジョンが描かれていた。ティールは、ペイパルを創業することで、このビジョンの現実化に貢献しようとしたのではないか。
ティールが、同書の中で描かれた主権ある個人を自身と重ね合わせていたであろうことは想像に難くない。
ここで、ティールとは別の形で『主権ある個人』におけるリバタリアン的予言の現実化に貢献した人物として、サトシ・ナカモト(Satoshi Nakamoto)の名前を挙げておきたい(tw)。
サトシ・ナカモトは、ブロックチェーン、そしてその上で作動する暗号通貨(cryptocurrency)と呼ばれる技術を発明した正体不明の人物だ。暗号通貨の最大の特徴は貨幣を中央で管理する者---たとえば中央銀行---が存在しない点にある。
その代わり、ブロックチェーンと呼ばれる各取引の台帳記録のすべてのユーザーが共同管理することで、記録の改ざんや二重取引きなどの不正を防ぐことが可能となっている。
ビットコインに代表される暗号通貨、それは国家などの中央集権的な権力に抗う分散ネットワークを介して当事者間の直接取引を可能とする。その意味では、ティールのペイパルとも響き合う要素を持っている。
他方で、ネットのプラットフォーム上に散らばる自分の個人データを
P37 一元的に自身のブロックチェーン上で管理するという、いわゆる自己主権型アイデンティティ(Self-Soverreign Identity)という考え方も近年活発化を見せている。
暗号通貨の誕生の背る。景には、サーファーパンクと呼ばれる対抗カルチャーの存在がある。サイファーパンク=cypherpunkとは、cyberpink(サイバーパンク)とcypher(暗号)をかけ合わせた合成語で、その名の通り暗号化技術を武器に国家権力との闘争を続けるアナーキスト集団である。
市民のプライバシーと権利を守るための武器としての暗号技術は、アメリカのハッカー文化においては常に一定の存在感を保っている。たとえば、2013年にエドワード・スノーデンのリークによって、アメリカ国防省下のNSA(アメリカ国家安全保障局)による一般市民まで含めた世界規模の盗聴の実態が明らかになり、改めて市民のプライバシーの問題が問われたことは記憶に新しい。
サイファーパンクの起源は90年代初頭、著名なハッカーたちが集まっていたメーリングリストであり、暗号通貨の誕生は2008年にサトシ・ナカモトがこのメーリングリストに投稿したメッセージがきっかけとされている。
サトシ・ナカモト含め、サイファーパンクのメンバーは度合いの差はあれど過激なリバタリアンたちによって占められている。ビットコインは現在ではもっぱら投機の対象というイメージを持たれがちだが、誕生初期の頃はそれこそ反体制的な領域で用いらることが多かった。
たとえば、ビットコインがそのプレゼンスを上げるきっかけとなったのは、当時ダークウェブに存在していたブラックマーケット「シルクロード」だ(tw)。
P38 ダークウェブとは、専用のソフトウェアを使わないとアクセスできないインターネット上の特定の領域---サーバーの所在地が秘匿化されたウェブサイトが数多く存在する---を指して呼ばれる。
そこでは、国家や法執行機関の監視を逃れる形で取引を行う必要から、必然的にビットコインが重宝されていた。
ダークウェブを成り立たせているのは、Torネットワークと呼ばれる、暗号化技術によって通信元を秘匿化する技術だ。このサイファーパンクのメンバーもプロジェクトに関与しているTorネットワークは、2010年代初頭の頃は「アラブの春」と、それに続くウォール街のオキュパイ運動にも貢献したとされる。
インターネットが検閲されたり制限されている地域において、ジャーナリストたちが安全かつ自由に情報を発信することができるからだ。
しかし、結果的に「アラブの春」は中東に平和をもたらさず、代わりに誕生したのはイスラム国だった。オキュパイ運動もたいした成果を残さなかった。「アラブの春」でもてはやされたSNSは、革命ではなくヘイトスピーチをもたらし、2017年にはドナルド・トランプ大統領を誕生させた。
同様にTorネットワークも、とりわけ2011年の「シルクロード」誕生以降は、アナーキーな脱法空間、すなわちダークウェブとしての存在感を高めていく。そこで決定的な役割を果たしたのが、ビットコインに象徴される暗号通貨だった。
P39 なお、サイファーパンク運動の主導者の一人ティモシー・メイ(Timothy May)は、1992年に「暗号無政府主義者宣言(The Crypho Anarchist Manifesto)」という短い文章を書いている。
「亡霊が徘徊している。暗号無政府主義という亡霊が」という、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』のオマージュから始まるこのテキストでは、サイバースペースにおけるドラッグマーケットや暗殺マーケット、さらに政府による規制やコントロールに縛られない経済圏の登場が予言されている。
言い換えれば、現在のダークウェブのあり方が1992年の時点でほぼ正確に予言されている。民主主義に対する苛烈な批判者であるメイは、ニーチェ(tw)哲学を信奉し、暗号化技術は超人(相互参照)を可能にすると信じていた。彼は自分の飼い猫にニーチェという名前をついていた。
ダークウェブという空間は、ある意味で『主権ある個人』が幻視してみせた国家なき後のポスト・アポカリプス的世界にもっとも近いかもしれない。ダークウェブで力を得るのは、国家でも大企業でもなく、プログラミング・コードと暗号化技術で武装した個人だ。
たとえば、「シルクロード」の運営者ドレッド・パイレート・ロバーツ(Dread Pirate Roberts:DPR)は、ユーザーからカリスマ的な人気を得ており、まさに主権ある個人として振る舞っていた。
また、DPRは「シルクロード」のフォーラム上で定期的に読書会を開いていたが、そこで主に読まれていたのは右派リバタリアニズムの書だった。その中の一冊ウォルター・ブロック(Walter Block)『不道徳な経済学 擁護できないものを擁護する』(参照)は、貨幣偽造者、投機家、ダフ屋、麻薬の売人、中毒者など、法的に禁止されている
P40多種多様な活動をリバタリアニズムの観点から擁護した本だ。「シルクロード」はあらゆる違法薬物を扱っていたが、それとてリバタリアンからすれば充分に正当化されうるのだった。
ダークウェブ、そこは犯罪、違法薬物、児童ポルノが渦巻き、麻薬の売人、ハッカー、詐欺師が暗躍する。弱肉強食の法則が支配する無政府的空間だ。そこはあるいは、「主権ある個人」のダークな予言をサイバースペース上において現実化した空間と言えるかもしれない…。
とはいえ、リバタリアンの予言と異なり、ペイパルも暗号通貨も、今のところ国民国家を消滅させるまでには至っていないことは現在までに至る歴史が証明している。しかし、ブロックチェーン技術を応用することで、既存の国家という枠組みを超越しようという動きはすでにある。
たとえば、ブロックチェーン上に国家を作るプロジェクト「ビットネーション(Bitnation)」は、そのような試みのひとつとしてある。「ビットネーション」では、国民はブロックチェーン上に記録されたIDと紐づけされる。
このことにより、国家という概念は地理的な制約から解放される。つまり、地球上のどこに住んでいようと、IDと紐付けされている限り「ビットネーション」の国民と名乗ることができる。
似たような試みとしては、エストニアのe-Residencyプログラムがすでにあり、エストニ国民に限らず誰もがエストニアのデジタルIDを取得することで、オンラインでの会社
P41 設立や銀行口座の開設といったサービスを受け取ることができる。
「ビットネーション」では、国籍を持たない難民に対してIDを発行する取り組みも行っている。土地登記、婚姻届、出生届、パスポートなどのID、戸籍登録、財産権の記録などの行政サービスをブッロクチェーンが代替する。
今後、スマートコントラクトを利用した投票機能や民事契約のシステムが実装されれば、「ビットネーション」はいよいよ既存の近代的国民国家像に取って代わる、中枢の存在しないフラットな自律分散型国家を形成するようになるかもしれない。
ブロックチェーン上に国家を作ることができる。これは言い換えれば、誰もが暗号通貨を作ることができるように、いわば誰もが国家を作ることができ、ということである。
あり得る未来では、人々はもはや地理的な制約に縛られず、各人が選択したそれぞれのブロックチェーン国家に所属して生活を営むことになるだろう。そうなったとき、既存の国民国家は、果たして現在のような影響力を維持することができるのだろうか…。
「イグジット」のプログラム(tw)
だが他方で、ティールはあくまでサイバースペースを副次的なものと捉えはじめていた。
2009年4月、ティールはリバタリアン系のオンラインフォーラム『Cato Unbound』に「リバタリアンの教育(The Education of a Libertarian)」というエッセイを寄稿しているが、そこで自身の過去20年間の活動を振り返っている箇所がある。
P42ティールは、90年代にはペイパルを創業し、デジタルな貨幣流通のあり方を生み出し、00年代にはフェイスブックへとの投資を通じて、国民国家に縛られないオルタナティブなコミュニティ空間の創出に貢献した。
ティールの過去20年間の活動は、インターネットいうフロンティアとともにあったといえる。だが一方で、インターネットには限界もあるという。というのも、サイバースペースはあくまでバーチャルな領域であり、往々にして現実よりも想像に偏りがちだからだ。
「私の望みは何らかの形で世界に影響を与えることでした(相互参照)」と言うように、ティールの目線は常に現実世界に向いていた。
また、現実主義者ティールは、フロンティアとしての宇宙空間も考察しているが、そこでの評価も芳しいものではない。ロケット工学は1960年代以降飛躍的な進歩を遂げていない。
現実問題として、そこには技術的な制約が深く根を下ろしている。何らかの技術的特異点は訪れでもしない限り、宇宙空間の開拓にはまだまだ時間を要するであろう、というのがティールの見通しだ。
そこでティールは、サイバースペースと宇宙との間に存在する第三のフロンティアとして海上にそれを見出している。「seasteading(海上入植)」計画への関心がそれだ(下参照,tw)。
「seasteading」計画とは、国家の影響が及ばない海上に自治的な都市国家を建造しようという計画で、ここにはティールが愛読するアイン・ランド(tw)の『肩をすくめるアトラス』(tw,相互参照,tw)からの影響を認めることができる。
1)2016.11.06 19:00~ロックフェラーセンターの壁画(tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw)【UG# 151】トランプ支持者の心理と『肩をすくめるアトラス』youtubeP43 1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』は、リバタリアンにとってのバイブルとも言える小説だが、その中に、崩壊しゆくアメリカに見切りをつけた一部のリバタリアンたちがコロラド山中に「ゴールド峡谷」と呼ばれる新世界を作り上げるくだりが出てくる。
2)2019.06.01 大麻について(tw)06:27~統治コストを下げる、ニックランド、ピーターティール(tw)【5金スペシャル映画特集Part2】トランプとオピオイドと炭坑と今youtube
3)2020.11.29 廣松渉、小室直樹(tw)04:14~主意主義、主知主義(tw)11:15~新井紀子(tw)28:10~思想的に保守主義、経済学的にネオリベ、加速主義、新反動主義、ピーター・ティール(tw,tw)40:24ベーシックインカム(BI)論(相参)46:53~鉄の檻(ヴェーバー)、アメリカケツなめ外交から脱却時期(tw)【思想をRethinkせよ】宮台真司と波頭亮が、日本の未来を見つめ直す。youtube
4)2022.11.17 2:50:30~二つの選択肢①新反動主義②共同体自治主義(ミュニシパリズム)(tw)○ The News ● 自民と統一教会、経済敗戦、神なき時代 「クズ」にならずに、私たちはどう再生できるか【宮台真司・望月衣塑子・尾形聡彦】 youtube
1) 2) 3) 4)
小説タイトル内の「アトラス」とは、ギリシャ神話に登場する天球を支える巨人の神のことである。つまりアトラスであるところのリバタリアンたちが、政府の徴税と圧迫に耐えかねて一斉にストライキを起こしたら、言い換えればアトラスが肩をすくめたら世界はどうなるのか?という一種の思考実験の結果がこの小説というわけだ。
破滅へ突き進むアメリカと、それに見切りをつけて独立の道を歩むリバタリアン、そして彼らになぞらえられるギリシャ神話の神々。こうしたモチーフを拾っていくと、明らかに『主権ある個人』と共通するところが多いことに気づくだろう。
ティールはこのような書物たちから影響を受け、そして実際にこれらのビジョンを現実化しようとしていたのだ。
煎じ詰めれば、ティールにとってもっとも重要なのは脱出、すなわち「イグジット(Exit)」のプログラムを練り上げ、それを実行に移すことだ。それはルネ・ジラールとの出会いから現在まで一貫していると言える。
国家からの「イグジット」、政治からの「イグジット」、競争からの「イグジット」…等々。
ティールにとっての主権ある個人とは、荒廃した弱肉強食の世界から超越⁼イグジットした、それらを統べる支配者のことだ。競争のフィールドから超越し、新世界の空白地帯に王国を築き上げること。
競争を避け、独占をめざせ、
P44というティールの起業論とはすなわちそういうものなのだ(ティールが現在のシリコンバレーに対してアンビヴァレントな違和感を表明し、一定の距離を置いているのも、そこにもはやフロンティアの余地がないと感じとっているからなのだろう)。それこそがティール流の「超人」なのだ。
その意味で、ティールの思想的先祖の一人は、「戦争」という競争の究極段階から離脱し、ジャングルの奥地で原住民を率いてみずからの王国を築き上げた。あの『地獄の黙示録』のカーツ大佐かもしれない。
「ホラー」に抗う
カーツ大佐がジャングルの奥地で小さく呟いた「The Horror」という言葉を正確に聴き取ること。ホラー、恐怖、しかし何に対しての?
ティールにとってのホラーとは、それはたとえば「死」に対するホラーであったかもしれない。この章の主要参照源のひとつでもあるジョージ・パッカー『綻びゆくアメリカ(相互参照)』における、ピーター・ティールの章の冒頭に置かれた印象的なエピソードをここで引いておきたい。
ピーター・ティールが死について知ったのは三歳のときだった。一九七一年、クリーヴランドのアパートで家族と暮らしていた彼は、自分の座っている敷物に目をとめた。ピーターは父親に訊ねた。P45「これは、どこからきたの」このトラウマ的原体験がティールという実存の根底を成している。死というエントロピーの法則に抗うこと、それはとりもなおさずティールにとって根源的な「ホラー」に抗うことを意味する。
「牛だよ」。父親は言った。
ふたりはピーターの母語であるドイツ語で話していた---ティール家はドイツ出身で、ピーターはフランクフルトで生まれた。
「牛はどうなったの」
「死んだんだよ」
「どういうこと?」
「つまり、牛はもう生きていないんだ。すべての生き物は死ぬ。すべての人間もね。いつか私も死ぬ。いつかお前も」(『綻びゆくアメリカ』)
すでに2006年、ティールは寿命延長研究を進めるメトセラ財団に350万ドル寄付している。メトセラ財団の会長兼主任研究員オーブリー・デ・グレイ(Aubrey de Gray)は、SENS(老化防止のための工学的戦略)と呼ばれる研究財団の責任者でもあり、「アンチ・エイジングではなく、ストップ・エイジングだ」と言った挑発的な発言を繰り返すことでも知られている。
不老不死の実現は、シンギュラリティ(技術的特異点)に対する畏れにも近い期待とも関わっている。
P46たとえば未来学者でAIに関する発言でも知られるレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)は、2045年にAIが人類を超越し、シンギュラリティが訪れると予言している。同様に、遺伝子工学とナノテクノロジーとロボティクスの飛躍的進化によって、人類はトランスヒューマン(tw)、すなわち不死の体を手に入れるだろうと述べている。
ティールはAIにも期待を抱いており、「フレンドリーなAI」の研究を進める非営利団体、機械知能研究所(MIRI)に繰り返し資金援助を行っている。MIRIの設立者でAIリサーチセンターのエリーザー・ユドコウスキー(Eliezer Yudkowsky)は、シンギュラリティ以降の世界において人間は、友好的な知性を備えたスーパーコンピュータに意識をアップロードすることで不死になると考えていた。
これらに共通して見られるのは、近い未来において歴史に決定的な「切断線」が訪れるという強迫観念にも近い予感だ。たとえば、近年見られるそうした「切断線」の議論のひとつに「人新世(Authropocene)」がある。
「人新世」を最初に称えたのは、オゾン層破壊の研究で1995年ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェン(Paul Crutzen)である。私たちは、最終氷期が終わった1万8千年前に始まった完新世という安定の時代を生きてきた。
だが今や、人口とエネルギー使用の増加、工業化が加速度的に進んだ20世紀半ばの「グレート・アクセラレーション」を経て、人間の活動が地球環境に不可逆的な影響を与える時代、すなわち「人新世」の時代に突入しているのだという。
P47 歴史学者のディペッシュ・チャクラバルティ(Dipesh Chakrabarty)は、人新世は大部分が人間の活動の帰結であるが、しかし今や私たちは人新世の影響を制御できない状況にあると主張する。
このような視点に立ったとき、人新世のプロセスの不可避的かつ破壊的な帰結としての「絶滅」というビジョンが見えてくる。実際に、人間による地球環境破壊がこのまま進めば、2100年までに全生物種の半分が絶滅するという予測もある。
もちろん、何も手を打たなければ人間も遠からず「絶滅」という運命から逃れることはできないだろう。
近い未来における「絶滅」という決定的な切断線。このダークなシンギュラリティのビジョンを共有するシリコンバレー界隈の億万長者は少なくない。ペイパル・マフィア(ペイパルの創業期に関わったメンバーを指す)の一人イーロンマスク(Elon Musk)は、スペースXの設立を通して民間の宇宙開発を推し進めているが、その目的のひとつは地球からのイグジットにほかならない。
マスクによれば、人類は地球とともに近いうちに絶滅する運命にある。これを避けるためには、人類は宇宙に脱出し多惑星種になる他ないという。その足がかりとして彼が目下の関心を寄せるのが火星移住計画だ。
マスクの見通しによると、2020年頃までに乗組員の選別と訓練、推進装置やシステムの開発が終わり、その後宇宙船と推進ロケットのテストを重ねて、2030年代前半頃を目処に人を火星に送るという。
啓蒙という欺瞞、そして9.11
西洋の没落、綻びゆくアメリカ、国民国家の解体、人新世、絶滅、そして死---。
これらに共通するのは、つまるところ「終末」の予感、あるいは「ホラー」である。
ティールはディストピアSFに親しんでいたが、それらが近いうちに現実のものとなることが予感されていた。国家、文明、人類、地球、すべてが緩やかに衰退と滅亡へと傾斜しいく…。
その意味で、2001年の9.11はティールだけでなくアメリカにとっても決定的な意味を持つ経験だった。2004年、スタンフォード大学でルネ・ジラールを囲んで開かれたシンポジウム「政治の黙示録(Politics and Apocalypse)」は、まさに9.11以降におけるアメリカ政治の再検討をテーマにしていた。
このシンポジウムは2007年に同名のタイトルで書籍化されているが、シンポジウムの発表者の中にピーター・ティールの名前を見つけることができる。「シュトラウス主義の時代(The Straussian Moment)」と題した発表においてティールは、9.11という経験は西洋近代の遺産である「啓蒙」というプログラムの完全な失効を決定づけるものであった、という見方を示した。
イスラムという西洋近代の「外部」からの出現者に対抗するためには、アメリカもまた西洋近代を基礎づける諸々の時代遅れの価値観を根底から解体しなければならない、という。
ここにはティールのもっとも率直な政治思想的表明がある。ティールは言う、17世紀後半以降、つまり啓蒙の時代以降、西洋はヒューマニズムという普遍的かつ偽善的な価値観のもと人間の根源的なあり方を隠してきた。
P49 その根源的なあり方とは、人間に潜在する暴力性と悪徳である(もちろんこれはジラールの教えでもある)。ティールからすれば、オサマ・ビンラディンとは、モダニズムが抑圧してきたものの文字通りの暴力的な回帰なのだった。
そして、この西洋の「外部」からの暴力の洪水⁼テロリズムが、我々を健忘症的な眠りから叩き起こすだろう、何かのあやまちから「啓蒙」と名付けられたこの深い眠りから…云々。
ここからティールは、近代的思考に取って代わるべきオルタナティブな思考として、カール・シュミットとレオ・シュトラウスを召喚するに至る。つまるところ、ここで要請されているのは、ある種の「例外状態」であり、またその「例外状態」において立ち現れる主権ある個人(!)に違いないのであるが、それはともかく。
ともあれティールは、「平等」と「デモクラシー」というドクトリンに束縛された西洋の衰退と滅亡は避けがたいと考えていた。そして、9.11の出来事はその観念を確信へと変えた。
他方で、現在ティールは来る西洋の崩壊からの「イグジット」としてニュージーランドに目をつけており、すでにニュージーランド国籍も取得している。この美しく、かつ資本家にとって魅力的な税制を敷いている地に注目しているのはティールだけではない。
彼と同じく「終末」の予感を感じ取った億万長者たちが、この地に広大な土地を買い、そこに巨大な核シェルターを建造して差し迫るアポカリプスに備えているという。
終末論者としてのピーター・ティール。彼の思想は、別の形でインターネットの仄暗い空間に誕生した一群の思想に受け継がれている。
---新反動主義。ティールの「自由と民主主義はもはや成立しない」というテーゼに霊感を受けたシリコンバレーの起業家カーティス・ヤーヴィン(tw,tw)、そしてそこにイギリスの異端的哲学者ニック・ランドが加わり、「暗黒啓蒙(The Dark Enlightment)」として体系化されたこの新たな反動の思想は、現在のオルタナ右翼にも影響を与えているとされる。
続く章では、この「暗黒啓蒙」と新反動主義に焦点を当てながら、彼らの思想に迫っていくことにしたい。
第二章 暗黒啓蒙(tw)
リバタリアニズムとは何か?P52 (略)リバタリアニズムは個人の自由を最大限に尊重する思想である。とはいえ、その自由は必ずしもリベラル左派的な自由を意味しない。あるいは、リベラル左派的な自由に限定されない、と言うべきか。
というのも、リベラル左派の信奉する自由とは、精神的自由や政治的自由のようないわゆる人格的自由であるからである。そのような人格的自由を説く一方で、リベラル左派は市場経済に関しては、経済活動への介入や財の平等的再分配を要求するのが一般的で、ここにリバタリアニズムとのもっとも大きな思想的差異がある。
リバタリアニズムとは、一言でいえば人格的自由だけでなく経済的自由の尊重をも説く思想なのだ。
もちろん、リバタリアニズムは主流保守派とも相容れない。なぜなら保守主義者は一般的に経済的自由は尊重するが、人格的自由に対しては比較的慎重だからである。さらにリバタリアニズムの対極に、経済的自由も人格的自由もともに尊重しない権威主義が位置する(その極端な例が全体主義である)。
これらの点から言えば、リバタリアニズムは左派/右派、どちらの座標軸とも相容れない。
P54
リバタリアニズム思想の根底には、「自己所有権」という概念がある。これは、自分の身体とそれが所有するものに対する絶対的な所有権で、すべての人間に生まれ持って与えられている不可侵の権利⁼自然権としてリバタリアニズムの基本理念であり続けている。
この点に関して、ロバート・ノージック(Robert Nozick)の『アナーキー・国家・ユートピア』という書物の与えた影響力はいくら強調してもしすぎることはない。本書が刊行された1970年代半ば、リバタリアニズムはアイン・ランド(tw,ARCJ 日本アイン・ランド協会)主義者や一部の市場原理主義者だけが信奉する思想と受け取られていた。
ところがノージックの登場によって、リバタリアニズムはひとつの洗練された政治思想としてみずからを提示し直すことに成功した。
そこで重要な役割を果たしたのが先の自己所有権という理念である。ノージックは本書において、絶対的な所有権---自分自身と世界の中の事物とに対する所有の権利---としての自己所有権を提起する。
この自己所有権は、あなたが他者の自己所有権を侵害するようなケースを除けば、誰一人としてあなたの人身(oerson)やあなたの所持物(possession)に介入してはならない、という形ですべての政治的諸価値の根幹を成す。
諸個人は権利を持っており、個人に対してどのような人や集団も、(個人の権利を侵害することなしには)行いえないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること---が仮にあるとすればそれ---は何かという問題を提起する。P56 ノージックにとっては、まず何よりも自己所有権が根底にあり、この自己所有権が最も尊重されにはどのような国家形態が適しているのか、という順序で論が展開されていく(けっして逆ではないないことに注意)。それに対するノージックの回答は、いわゆる最小国家である。
個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるのか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当化(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。(ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』)
国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。(同右)よって、以降のノージックの記述は、この最小国家の正当性と、それ以上の拡張国家の不当性を論証するために費やされることになる。
ノージックが弁護する自由尊重主義的最小国家は、古典的自由主義における、諸個人の人格的権利と所有権を保護するためだけに存在する「夜警国家」とも似ている。国家は、
P57自己所有権を侵害する諸々の暴力から市民を保護するために存在するべきなのであり、同時にそれが国家の唯一の正当化理由である。それ以上の広範な計画を引き受けるならば、国家は人々の自己所有権を侵害することは避けられない。
たとえば、福祉システムに代表される富を個人から個人へと強制的に移転させる財の再配分は、個人の自己所有面に対する侵害を含まざるを得ないという理由から退けられる。このように、ノージックは自由の権利を政治哲学のすべての領域の根幹に置く。
とはいえ、たとえばジョナサン・ウルフが批判するように、ノージックの「自己所有権」は見方によっては極端な形式的、もっと言えば無内容であるとも言える。ノージックはこの概念を、人間が生まれながらにして所与のものとして与えられている権利として叙述する。
だが、彼はこの概念を擁護するためのそれ以上の論拠や基礎づけを避けているように見える。自己所有権は自明の真理なのだから、それ以上の説明は要らないとでも言うように…。
たとえば、『正議論』のジョン・ロールズであれば、権利は先行する正義の構造との関係で相対的なものであり、何物であれ「絶対的に私のもの」はなく「そのルールによって私のもの」に過ぎないと言うだろう。
(略)
P 58/ 60/ 62/ 64/ 66/ 68/ 70/ 72/ 74/ 76/ 78/ 80/ 82/ 84/ 86
第四章 加速主義
加速主義とは何かP 141/ 143/ 145
左派加速主義とマーク・フィッシャー(相参)
P 147/ 149ベーシックインカム/ 151
右派加速主義、無条件的加速主義
P 153
トランスヒューマニズムと機械との合一
P 155/ 157
加速主義とロシア宇宙主義
P 159/ 161
ロコのバジリスクと『マトリクス』
P 163/ 165/ 167/ 169
ヴェイパーウェイヴと加速主義
P 171/ 173/ 175
ヴェイパーウェイヴと亡霊性
P 177/ 179/ 181
ノスタルジーと失われた未来
P 183
未来を取り戻せ
P 185/ 187
あとがき
P 189/ 191/ 193/ 195