2017年4月12日水曜日

「綻びゆくアメリカ」抜き書き

おいたち、チェス、SF、指輪物語、リバタリアン、アイン・ランド(tw) P190-194)
P189
私の望みは何らかの形で世界に影響を与えることでした。(相互参照)
ピーターティールが死について知ったのは三歳のときだった(相互参照)。一九七一年、クリーヴランドのアパートで家族と暮らしていた彼は、自分の座っている敷物に目をとめた。ピーターは父親に訊ねた。「これは、どこからきたの」

「牛だよ」。父親は言った。

ふたりはピーターの母語であるドイツ語で話していた---ティール家はドイツ出身で、ピーターはフランクフルトで生まれた。

「牛はどうなったの」

「死んだんだよ」

「どういうこと?」

「つまり、牛はもう生きていないんだ。すべての生き物は死ぬ。すべての人間もね。いつか私も死ぬ。いつかお前も」

P190 この話をしているとき、父は悲しそうに見えた。ピーターも悲しくなった。この日はひどく不安な一日となり、ピーターは二度とその不安を遠ざけることができなくなった。シリコンバレーの億万長者となってからも、死について思うとどうにも心がかき乱された。

(略)

P192

P194それから、J・R・R・トールキンと出会い、『指輪物語』三部作を少なくとも十回は立て続けに読み、ほとんど暗記した---ファンタジーの質の高さと、機械論的な力や集団的な力ではなく、個人を重視する世界観、権力の堕落といったテーマに心を奪われた。

(略)

トールキン、SF、チェス、数学、コンピューター…70年代から80年代にかけて、それもサンフランシスコのベイエリアのような土地に暮らす優秀な少年たちのあいだでは、これらの要素は互いに影響し合い、ある世界観と結びついた。つまり、個人の自由を尊重するリバタリアニズムだ。

その背後にあるのは抽象的論理に対する敬意だった。ピーターは十代にしてリバタリアンとなった。はじめはレーガン政権時代の保守主義によって感化され、やがて、純正なリバタリアンへと成長した。

彼は二十代はじめになるまでアイン・ランドを読んだことがなかったが、「肩をすくめるアトラス」(相互参照)や「水源」(tw)を読むと、主人公は胡散臭いほど高潔で、悪役はひたすら邪悪で、その世界観はトールキンに比べるとあまりにも二元論的でなおかつ悲観的だった。

 (略、「肩をすくめるアトラス」のあらすじが書かれている)

ピーターは時がたつにつれ、ますますアイン・ランドに感心するようになった。

彼は高校では酒やドラッグとは無縁だった。サンマテオ高校ではオールAをそろえ、1985年に卒業生総代に選ばれた。ハーバードをはじめ出願したすべての大学から入学を許可されたが(省略)スタンフォード大学への進学を決めた(tw)。

ティールは哲学の授業でリード・ホフマンと出会う。P196-214)(tw,tw,tw)

P196ティールは二年生のとき受講した「精神と物質と意味」という哲学の授業で、きわめて左翼的な立場をとる優秀な学生リード・ホフマンに出会った。

(省略、二人はよく議論した)

ホフマンは、財産とは社会構造の所産であり、社会がなければ財産は存在しえないと主張し、ティールはマーガレットサッチャーの言葉を引用した。「社会などというものは存在しない。あるのは個々の男と女である」。ホフマンはティールの親友となり、ふたりは社会に出てからも長年にわたって学部生のころと同じように議論に興じることになる。

(省略)

80年代後半のスタンフォードでは必修科目---「西洋文化」と呼ばれていた---をめぐり、60年代の大学紛争にも匹敵する激しい論争が巻き起こっていた。

マイノリティとリベラルな学生たちは、スタンフォードの一年次の文科系必修科目は「死んだ白人男性」ばかりをとりあげる偏った内容であり、他の文化を知る機会を奪っていると主張した。

それに対して保守派の学生たちは、西洋文明に否定的な学生たちがカリキュラムを利用して、スタンフォードに左翼的政策を吹き込もうとしていると疑った。(略)

P197二年生の終わりの1987年6月、ティールはある友人と「スタンフォード・レビュー」(相互参照)という保守的な学生新聞を創刊し、戦いのリングに飛び込んだ。資金と知的アドバイスについては、新保守主義(ネオコン)の父と呼ばれるアーヴィング・クリストルが1987年に保守派の学生の活動を支援するため立ち上げた全米規模の組織を頼りにした。

ティールが直接記事を書くことはめったになかったが、どの号にも編集者である彼の思想が反映されていた。---つまり、急進派のイデオロギーに対する格調の高い冷静な攻撃と、学生と教授陣および管理当局が主張する政治的妥当性(ポリティカル・コレクトネス)に対する嘲笑が基調となっていたのである。

P198 この闘争は舞台がスタンフォード大学であったことと、数十年にわたる文化戦争の最新の動きであったことから全米に波及した。一九八七年の初頭には、大統領選への二度目の出馬を準備していたジェシー・ジャクソンがスタンフォードを訪れ、学生を率いて「西洋文化はもうたくさんだ!」と叫びながらデモ行進を行った。

一年後、ティールの『スタンフォード・レビュー』はレーガン政権の教育長官ウィリアム・ベネットを招いて学内で講演会を開き、西洋以外の文化や、白人や男性以外の作家の著作について学ぶ講座の新設など、スタンフォード大学が進めようとする必須科目の見直しについて意見を仰いだ。

「偉大な大学がおとしめられた」とベネットは述べた。「その元凶は現代の大学が対峙しなければならなくなった勢力、つまり、無知、不合理、脅迫である」

卒業を目前に控えた一九八九年、ティールは編集長として指揮を執った最後の号に、つぎの言葉を残している。
「これまで編集者として非常に多くのことを学んできたが、人々に耳を傾けてもらうにはどうすべきか、いまだにわからない・・・聴く耳をもってもらえたかどうか、いまでもわからずじまいだ。私たちはこれからも、急進派に傾倒する陣営(あなたは本紙を読んでいるくらいだから、おそらくこの部類にはい入らないだろう)に対抗して、あらゆる場面でみなさんを率いてゆくつもりである」
彼はこれといってしたいことが思い浮かばなかったので、スタンフォードのロースクールに進学した。文化戦争はおよそ四十年にも及んだ。ティールの友人デイヴィッド・サックスが新たな編集者に就任すると、『レビュー』紙は表現の自主規制や同性愛者の権利、性といった問題に論点を移した

P199(一九九二年のある号では、レイプに関する問題と、「不当な圧力」の定義に「侮辱」や「脅迫を伴わない言葉による圧力」を含めて拡大解釈する大学の姿勢について全紙面が費やされた)。

一九九二年、ティールの友人でロースクールの同級生でもあったキース・ラボイスは、学内の言論の自由の限界について検証するため、講師の自宅の前でこう叫んだ。
「このホモ野郎!エイズになって死んじまえ!」
この挑発は激しい怒りを買い、ラボイスは結局、スタンフォードから追いだされた。それからまもなくして、ティールとサックスは、学内におけるポリティカル・コレクトネスと多文化主義の危険を明らかにする本を書いた。

ティールが重厚で分析的な視点から問題を提起し、サックスがジャーナリスト的な視点で取材を行った。一九九五年に『多様性の虚像(The Diversity Myth)』というタイトルで出版し、著名な保守主義者たちから賛辞を得た。

その中でラボイスの一件について触れ、個人が集団による迫害に勇気をもって立ち向かった例として擁護している。「彼の行動は、もっとも根本的なタブーのひとつに真っ向から挑むものだった」とティールとサックスは書いている。

「その目的は、同性愛行為とエイズの相関関係が示唆する重要な点を指摘することだった。つまり、多文化主義が愛好する特定のライフスタイルが深刻な病気の感染リスクを高めており、ゆえに、あらゆるライフスタイルが等しく望ましいとは言えないことを指摘したのである」

サックスやほかの友人は、ティールが同性愛を敵視する背景に、深い個人的な意味があることを知らなかった。彼が同性愛者であることを知らなかったのだ。だれひとりとして知らなかった。

彼は三十代半ばになる二○○三年まで決して明かそうとはせず、そのころになってはじめて、ごく親しい友人にだけ、自分のアイデンティティを明かせば仕事の妨げになっていただろうと説明した。

P200 いずれにしても、彼は同性愛者であることが自分自身の人間性の中核をなしているとは考えていなかった。彼の斜に構えた性格は同性愛者であることが影響しているかもしれないが、そうとも言い切れない。

「私にアウトサイダー的な傾向があるのは、子供のころに成績がよく、内向的だったことに関係しているかもしれない」と彼は言う---つまり、同性愛者だからというわけではないようだ。「あるいは、そもそもアウトサイダーですらないのかもしれません」。彼はもっとも親しい人とも、この話題については話したがらなかった。

『多様性の虚像』はティールとしては、ややくやしい思いをする結果になった。というのも、そこで論じた問題は結局のところ一時的に注目されただけで、論争の緊急性は数年ですっかり薄れてしまったからだ。

また、ティールも年を重ねるにつれてアイデンティティをもっと広くとらえるようになり、多様性の問題そのものがそれほど力を入れて議論すべきものだったのか疑問をいだくようになった。

本が出版された時点ですでにスタンフォードは大きな文化的転換期にあり、激しい論争の火種だった人文科学系の科目の存在感は薄れ、カリキュラム戦争に沸いた時代は滑稽とは言わないまでも、ひと昔前のユニークな出来事となった。

ティールは昔からいわゆる論客になりたいという野心を抱いていたが、学問の専門化が進む時代にそんな職業が成り立つのかどうか確信はなかった。彼は資本主義の精神に人生を捧げることを願ったが、それはつまり、主本主義を知的活動によって擁護することなのか、金持ちになることなのか、あるいはその両方なのかわからなかった。かといって、ただ財をなすだけなら(それも少額ではない--彼はとてつもない大金を稼ぎたいと思っていた)、

P201たんなる金持ちのひとりで終わってしまう。サックスの見立ては、どちらが先かはさておき、ティールが保守派の論客ウィリアム・F・バックリーの後継者となり、なおかつ億万長者になることは確実だった。

ティールはロースクール終了間際に『レビュー』に最後の論説を寄せ、多額の報酬が約束された職業に対してリベラル派が嫌悪感を露わにし、彼らが「公益法」---「どう考えても公共的とは言えず、興味深くもなければ法律的でもない」---をを重要視する傾向をあざわらった。

彼はこう分析した。「強欲の代案としてのポリティカル・コレクトネスは、自己実現や幸福とは無縁であり、価値あることに取り組む人々への怒りと嫉妬にほからない」---価値あることとは、具体的には経営コンサルティングや投資銀行勤務、オプション取引、ゴルフ場開発などの不動産事業だ(彼はベンチャー企業の立ち上げにも言及している--一九九二年の時点では、スタンフォードではまだ一般的ではなかったが、やがてブームが到来する)。

ティールはこう締めくくった。
「強欲は嫉妬よりもはるかに望ましい。強欲は嫉妬に比べれば前向きであり(私は他人の所有物をとりあげようとする社会よりは、むしろ共有しない社会に住みたい)、正直である」
(P201-twtw)
ティールは七年間過ごしたスタンフォードに別れを告げ、連邦控訴裁判所の裁判官の補佐として働くためアトランタに旅立った(連邦最高裁判所の判事アントニン・スカリアとアンソニー・ケネディの面接を受けたが不採用となった---彼にとっては人生初の挫折であり、大きな心の傷となった)、

その後ニューヨークの一流法律事務所サリヴァン&クロムウェルに採用され、証券取引法を担当した。このときから、歯車が少しずつ狂い始めた。彼はのちにニューヨークでの日々を振り返り、「揺れ動く二十代の危機」と表現する。

P202 仕事は退屈だった。彼がマルクス主義なら、「疎外された労働」と表現したことだろう---八年後にパートナーに昇格し、その後の四十年間の暮らしを手に入れるために、自らの信念とは無関係の問題をめぐって週八十時間働く。

最大のライバルは同じ事務所で机を並べる同僚たちだ。少しも価値があるとは思えない事務所内の地位確保のために、一心不乱に競争する。そして、そして、それこそが深刻な問題だった。

ティールは競争ばかりの人生に疑問を感じ始めていたのだ。ロースクールではそれまでのように必死に勉強していたわけではなかったし、それまでのように優秀な成績を収めたわけでもなかった。そういったことに何の意味があるのかわからなくなったからだ。

高校時代には明確な目標があった---優秀な成績を収めるのは一流大学に進むためだ。だが、いまでは「だからあんたは高校の教師どまりなんだ」という短絡的な考え方はしなくなっていた。『レビュー』に寄せた最後の論説では、不安を隠してあえて人を見下したような強気な態度をとっていたのだ。

法律事務所は七か月で辞め、クレディ・スイス(tw)でデリバティブ(通貨オプション)のトレーダーとして働き始めた。数学的なおもしろさがあったのでウォール街の方が法律事務所よりは長続きしたが、大差はなかった。

ウォール街でもサリヴァン&クロムウェル(相互参照)と同じ問題に直面したからだ。ティールは社会構造によって定義される立場に意義を見いだせないまま、同僚と無我夢中で張り合っていた。

仕事そのものの経済的価値も疑問だった。金融革命はすでに頭打ちのように思えた。また、ゲームで極めて勝利をつかむことができるか不安もあった。彼は人をおだてたり、裏切ったりという政治的駆け引きができるタイプではなかった。さらに、法律の世界でも、金融の世界でも、

P203六〇年代半ばに働き始めて七〇年代に多額の報酬を得た上の世代は、若手が出世するすることが昔に比べてはるかに難しくなったという現実にまるで配慮していなかった。

彼の揺れ動く二十代の危機には哲学的な側面もあった。彼はスタンフォードでフランス人教授ルネ・ジラールの講義をとり、著書を読んで信奉者となった。ジラールは、人が同じものを求めて争うようになるという模倣的欲望論(模倣の理論)を説き、暴力の起源の説明を試みた。

保守的なカトリック教徒のジラールは、社会的対立を解決するためのいけにえとスケープゴートの役割を説明しており、この理論の聖性を扱う神話的な側面がティールの心に響き、両親が信奉する原理主義とは一線を画したキリスト教信仰の土台となった。

同時に、模倣の理論はティールの世界観を否定するものでもあった。なぜなら、集団の誘引力によって人間の行動を説明する点において、リバタリアニズムと矛盾するするからだ。

彼は競争心が旺盛なところもあるが、対立をひどく嫌った--陰口は決して言わず、他人との共同作業では内輪もめが起きないよう気を配り、それでいて親密になることを阻む冷静な態度をとった。

彼は暴力も憎悪していた。しかし、最終的には、自分にもジラール的な考えがあることを認めた。「人々はさまざまなモノを求めて激しく競争します」と彼は言う。「ところが、ひとたび手に入れると少しばかり失望する。

なぜなら、どうしてもほしいと思うのは、だれもがほしがっているという事実に突き動かされるからであって、必ずしも魅力のあるものではないからです。私は、だれよりもその罪を犯していたので、ジラールの理論を積極的に取り入れようとしたのです」(相互参照)

ジラールが指摘することを現代的な言葉で表現するなら「ステータス」と言い換えることができる。

P204ニューヨークではステータスをめぐる熾烈な争いがいたるところで繰り広げられている。どこまでも高くそびえる摩天楼では、だれもが他人の上に立っている--下を見ればどこまでも見下ろすことができ、上を見ればどこまでも見上げることができる(tw)。

何年も階段をのぼりながら、本当に自分は高みに近づいているのか、あるいは単なる目の錯覚にすぎないのか、絶えず疑問を抱かずにはいられない。

一九九四年の夏、ティールはルームメートの何人かの友人でニューヨーカーが集う高級避暑地ハンプトンズにタイムシェアの部屋を借りたが、それは悪夢のような週末になった。

あらゆるものが高くつき、サービスが悪く、休暇の最初から最後まで他人のいざこざが続いた--本当の価値を度外視して生み出されたものの典型的な例だ。ニューヨークはすべてが高すぎた--それがニューヨークの行き着いた姿だ。

弁護士は高級なスーツとネクタイを身につけ、銀行家は最高の食事と酒をたしなむことが義務になっていた。九六年、クレディ・スイスで働いていたティールは年棒一〇万ドルを稼ぎ、ルームメートは三〇万ドルを稼いでいた。

ルームメートはティールより三歳上の三十一歳だったが、その報酬を使い果たした。彼は父親に電話して泣きつくしかなかった。

ティールはそんな光景を目の当たりにし、ニューヨークに見切りをつけてシリコンバレーに戻ることにした。



バレーはティールが四年前に去ったときとは様変わりしていた。彼がいないあいだにインターネットが台頭していたのだ。七〇年代半ばから九〇年代初頭にかけて、シリコンバレーをはじめとするハイテク企業集散地では、パーソナルコンピューター関連のハードウェアとソフトウェアを手がける企業が数えきれないほど誕生した。

(略、一九九四年設立のモザイク社、シリコングラフィックス創業者ジム・クラークと一年前に世界初のグラフィカル・ウェブブラウザを開発したマーク・アンドリーセンの二人が立ち上げた企業。九五年モザイクは社名をネットスケープに改め株式公開。九六年ヤフー、九七年アマゾン、九八年イーベイ)

(P206-)

P206ティールがシリコンバレーに戻った一九九六年は、折りしもドットコムブームの到来の年だった。彼はメロンパークのアパートに入居し、友人や家族から一〇〇万ドルを集めてヘッジファンド「ティール・キャピタル・マネジメント」を設立した。

だが、別の構想もあたためていた。知り合いたちが起業に関わり始めているのを見て、ティールも事業を始めたいと考えていたのだ。彼はこう述べる。
「競争を伴わない建設的な人間関係を築きたかったのです。友達のふりをした敵ではなく、本当の友達と仕事がしたかった。シリコンバレーではそれができるような気がしました。なぜなら、先細りする資源を奪い合うような社会的構造ではありませんでしたから」
ニューヨークとは違い、シリコンバレーはゼロサムゲームの世界ではなかった。

(実現には二年以上かかった。一九九八年の夏、二十三歳のマックス・レフチンとコンフィニティ(信頼confidence+無限infinity)を起業。一九九九年七月ペイパル発表(相互参照))

P209ライバル社がそのアイデアを理解するのは時間の問題。契約者は幾何級数的に増加し、社員は週に百時間働き続けた。とりわけ警戒すべきは南アフリカからの移民イーロン・マスク(tw)が創設したXドットコムだった。

(P210-、コンフィニティとXドットコムとの戦いを乗りきるためのてんやわんや物語)

P213(二〇〇〇年)三月三十一日金曜日、ティールは一億ドルの資金調達ラウンドを完了し、四月四日火曜日、ナスダック指数は四〇〇〇ポイントを割り込み、その後一〇〇〇ポイントまで暴落した。ドットコムバブルがはじけた瞬間だった。

ペイパルは生き残った数少ない企業のひとつだった。バブル崩壊寸前にXドットコムと合併し、ティールはCEOを辞任したが、二〇〇〇年後半にマスクがCEOの地位を追われると復帰した。
2017.3.1トランプ政権で高まるピーター・ティールの影響力 | GQ JAPAN(参照)より
P214二〇〇二年二月、ペイパルは株式を公開し、同時多発テロ以降に上場した最初の企業となった(略)二〇〇二年には、オークションサイト、イーベイの顧客の半数以上が資金決済にペイパルを利用するようになった。

ペイパルはさらにサービスの改良を重ね、その十月、十五億ドルの買収価格でイーベイの傘下に入った。ティールはその日のうちに辞職し、投資額二四万ドルに対し五五○○万ドルを手にして別れを告げた。

やがてペイパル・マフィアと呼ばれるペイパル出身の企業家たちは、数多くの有名企業を立ち上げることになる。ユーチューブ、リンクトイン、テスラ・モーターズ、スペースX、イェルプ、ヤマー、スライド…。(略)

そして、ペイパルを去ってから一週間とたたないうちに、ヘッジファンド「クラリアム・キャピタル・マネジメント」を立ち上げた。(略)テクノロジー界の大物投資家として新たな一歩を踏み出した。



リンクトイン創業のいきさつ P324-326)(tw,tw,tw)

P328
P329ザッカーバーグと出会った二〇〇四年、ティールは共同創業者のひとりとしてパランティア・テクノロジーズを興した(社名は大好きな『指輪物語』に登場する水晶玉に似た石からとった)(tw,tw,tw,tw,tw,tw)。

ペイパルがロシアンマフィアによる詐欺と闘うため開発したソフトウェアを応用して、膨大な情報のなかから、かすかなパターンを見つけだす複雑なデータ解析ができるよう改良した。

目的は、政府機関がテロリストや詐欺集団をはじめとする犯罪組織を追跡する支援を行うことだ。元手の一部はCIAのベンチャーファンドから調達したが、アーリーステージのパランティアは、ティールが出資した三〇〇〇万ドルに大きく依存していた。

彼は会長に就任し、成長したフェイスブックがもっと広い場所に移転するためパロアルト中心部のユニバーシティ・アヴェニュー一五六番地の事務所を引き払うと、パランティアがそこに入居した---通りをはさんだ真向かいは創業時のペイパルがあった場所だ。

やがて、パランティア社の評価額は二五億ドルに達することになる。ティールは、世界有数のテクノロジー投資家としての道を歩み始めていた。

(略)

P330/ 332/ 334/ 336

ピーター・ティール3 P601-618

ほしかったのは空飛ぶ自動車だったのに、手に入れたのは百四十文字だった。
(P600-、)

P601ピーター・ティールは二〇〇九年一月を最後に世界経済フォーラムへの出席をやめた。スイスのダボスで開催されるこの会議は国際的なリーダーとして認知される絶好の舞台だったが、その年ばかりは世界を混乱に陥れた責任者のひとりだと烙印を押される場に思えた。

ティールはつぎの十年のあるべき投資戦略は「ステータス(地位)」の売りと「実質」の買いだと判断し、ダボス会議に見切りをつけたのだ。アメリカで従来の秩序が綻び始めているなら、ステータスはやっかいな問題でしかない。

混沌とした世界において、ステータスは物事の本質とは無関係の虚構にすぎない。だれもが追い求めるもののほとんどは投資に値しないのだから。

金融危機の混乱から立ち上がったティールは、過去と未来について独自の理論を構築した。それは一九七三年--ティールいわく「五〇年代以降の安定成長期が終わった年」--から説き起こされる。一九七三年はオイルショックの年であり、アメリカで平均賃金が頭打ちになった年でもある。

P602七〇年代は、世の中がよからぬ方向にさまよい始めた転換期だ。それまで盤石だったはずの体制が揺らぎ始めた。科学技術は停滞し、成長モデルが崩れ、政府がかつてのように機能しなくなり、中産階級の暮らしが疲弊し始めた。

八〇年代に入り、ティールが高校を卒業した八五年ごろは楽観的なムードが優勢となり、不可能はないように思われた。そして迎えた九〇年代--インターネットは世界を楽園に変え、巨万の富が生まれ、マウスパッドのある革新的な日常がやってきた。

二〇〇〇年代に突入してネットバブルが弾けたとき、その先には坂を転がり落ちる十年が待ち受けていた--第四十三代大統領ジョージ・W・ブッシュ政権時代には暴力と戦争がはびこり、ウォール街を例外として経済基盤が衰弱し、やがて世界を震撼させる二〇〇八年の出来事と深刻な不況につながった。

下降、上昇、上昇、下降--それがこの四十年に起きたことだ。つまり、四十年のときを経て、同じ場所に戻ってきたことになる。

何もかもがうまくいっていると思われた上昇の時代に、物事の本質を見通すのは至難の業だ。ネットバブル放課後も好景気を謳歌したシリコンバレーではなおさらそうだった--グーグルが株式公開を果たし、フェイスブックが登場し、ほかにも多くのソーシャルメディアが誕生した。

だが、バレーから東に五〇キロほど足をのばせば、人々の暮らしはかつてより苦しくなっていた。

(略)

(P604)

P604パロアルトの中心部にあるカフェ・ヴェネツィアは、二〇〇一年にティールとイーロン・マスクが、コーヒーを飲みながらペイパルの株式公開を決めた場所だ。(略)

そんな場所で、ティールはジーンズのポケットからiPhoneをとりだしてこう言い切った。

私には、これが技術革新だとは思えない

アポロ宇宙計画や超音速ジェット機と比べると、スマートフォンはささやかだ。一九七三年に至るまでの四十年のあいだに科学技術は飛躍的進歩を遂げ、アメリカ人の賃金は六倍に増えた。

ところがそれ以降、小道具に満足してきたアメリカ人は飛躍的進歩に対する憧れを忘れてしまった。

P605ティールの愛読書のなかに、彼が生まれた一九六七年に出版されたフランス人作家J・J・セルヴァン=シュレベールの『アメリカの挑戦』という作品がある。

セルヴァン=シュレベールは、アメリカがテクノロジーと教育という原動力によって、世界で抜きんでた国家としての地位を確立し、二〇〇〇年にはポスト工業化時代のユートピアが出現するだろうと予測した。

コミュニケーションは時間と空間を超え、収入の格差は是正され、コンピューターが人間を解放する。
「一週間に四日、一日七時間ほど働けば、それだけで生活できるようになるだろう。一年のうち三十九週間は働いて十三週間は余暇を楽しむ…こういったことのすべてがひと世代で実現するはずだ」
情報化時代は確かに到来したが、ユートピアは現れていない。自動車も鉄道も飛行機も、一九七三年と比べてたいして変化していない。原油や食料の価格高騰は、エネルギーと農業分野における技術革新が失敗したことを意味する。

コンピューターは中産階級の暮らしを支えるだけの雇用を創出せず、製造業や生産性にイノベーションをもたらすことも、各階層の生活水準を向上させることもなかった

ティールはインターネットについて「収支としてはプラスだが、さほど有益ではない」と評価を下した。

「アップルの斬新さは主にデザインの側面にある」。

ツイッターは今後十年で五百人を新たに雇用するするかもしれないが、「経済全体をみたとき、それがどれほどの意味をもつのだろう」。

ティールを億万長者にしたフェイスブックは「収支はプラス」と言えるが、それは中国当局の規制を受ける程度に目新しかったからにすぎない。

だが、ソーシャルメディアの興隆に関して言うべきことはそれだけだ。彼が投資したすべての企業を合わせても、雇用者数は一万五千人にも満たない。

目の眩むような変化にもかかわらず、それはイノベーションと呼ぶに値しないのです」

(P606-)