第二章 ゆらぐ中華の世界 洋務運動と日清戦争
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日清戦争と下関条約
日本の戦争準備と光緒帝の親政
P102日本と清朝が朝鮮の指導権をめぐって綱引きを続けていた一八八〇年代、世界情勢は大きく変化していた。重工業の発展と金融資本の集中などを背景に、ドイツやアメリカなどの新興資本主義国が台頭してイギリスの優位が崩れ、列強が植民地の独占支配と分割をめざして抗争する帝国主義時代へと入ったのである。
アフガニスタンをめぐるロシアとイギリスの対立は東アジアに波及し、一八八五年にイギリスは対馬海峡の巨文島を占領してロシアの朝鮮進出を牽制した。一八九一年にはロシアがフランス資本の援助を得てシベリア鉄道の建設を開始すると、日本はロシアの東方政策に大きな脅威を感じた。この年日本訪問中だったロシア皇太子ニコラス(のちのニコライ二世)が、警備中の巡査に斬られて負傷する大津事件も発生した。
P 103 さて二度にわたる事変の結果、日本は清と一戦交えなければ朝鮮を確保することは難しいと痛感した。だが当時の日本の軍事力、とくに海軍力は清仏戦争の教訓から戦力の強化に努め、定遠などの鋼鉄艦を擁していた北洋艦隊に太刀打ちできなかった。
このため軍部は「清国征討策案」を作成し、陸軍はドイツ式の編成からなる七個師団を整備した。海軍も三二センチ砲を備えた松島級の三砲艦と、実用化されたばかりの速射砲を装備した高速巡洋艦二隻を竣工させ、これで北洋艦隊と互角に戦えると考えた。
こうした軍拡競争の費用は女子労働に支えられた生糸などの軽工業で捻出された。彼女たちの労働条件は『女工哀史』で描かれた以上に悲惨で、兵士に比べて半額程度の粗末な食費をまかなう給料しか与えられなかった。
このため安い朝鮮米の大量移入は当時の日本経済にとって至上命題だった。一八八九年に日本の買い占めによって朝鮮の穀物価格が暴騰すると、李朝政府が穀物の移動を禁じた防穀令事件が発生した。
一八八五年に福沢諭吉は有名な『脱亜論』を発表し、中国や朝鮮を「固陋」すなわち古い考えや習慣を改めようとしない国々だと位置づけたうえで、アジアと決別して「西洋の文明国と進退を共」にすべきことを訴えた。一八八六年には長崎に寄港した北洋艦隊の水兵が日本人と殴り合う事件が起こり、日清両国の国民感情は悪化した。
さらに一八九四年三月に日本に亡命していた金玉均(tw、相互参照)が上海で暗殺され、その遺体が朝鮮に送られて「大逆不道」の罪で晒しものになると、亡命時代の冷遇ぶりが嘘のように日本の国内世論は沸騰した。
P104このころ清朝では光緒帝が一八八九年から親政を開始し、西太后は北京の西北にある頤和園へ移って「引退」した。だが彼女は権力を手放さず、光緒帝はしばしば西太后を訪ねてその意見を聞かねばならなかった。また光緒帝の皇后となったのは西太后の弟の娘で、光緒帝は彼女をつうじて西太后に監視されていた。これに不満な光緒帝の周囲には彼の教師であった翁同龢など、中央政府の権限強化をめざす「清流派」と呼ばれる保守的か改革派が集まった。
彼ら清流派の最大のライバルは洋務派の巨頭で、西太后の信任が厚い李鴻章だった。このため光緒帝を中心とする「帝党」は西太后、李鴻章と盛んに権力闘争を演じた。しかし朝廷内の抗争は政権の腐敗を生み、賄賂の横行が目立つようになった。なかでも有名だったのは一ハ九四年秋に還暦の祝典を控えた西太后が、頤和園を修築するために海軍部門の経費二〇〇〇万両を流用したというスキャンダルだった(tw)。
蒼穹の昴07 08:17~海軍費が頤和園の補修工事費に流用(相互参照)甲午農民戦争と日本・中国
さて一八九四年二月に朝鮮の全羅道にある古阜郡で、東学の中堅リーダーだった全琫準が地方官の圧政に抗して蜂起した。東学は没落した両班の崔済愚が創始した民間宗教で、キリスト教と体制派儒教を批判しながら、伝統宗教の融合と再生によって朝鮮固有の学問を興すことをめざした。また崔済愚は呪文を唱えれば「天人合一」すなわちすべての人間
P105 が天と一体となって平等社会を実現できると説き、仙薬によって病気を治すシャーマニズムを行った。その結果東学は体制に不満をいだく下層民のあいだに急速に広まった。
李朝はこの東学を異端として弾圧し、一八六四年に崔済愚を処刑した。だが二代目教祖の崔時亭は教団の組織化を進め、一八九二年には崔済愚の罪名を取り消し、迫害の中止を求める第二次教祖伸冤運動を展開した。一ハ九三年三月に東学はソウルの各国公使館に抗議のスローガンを張り、四月に忠清道の報恩などで大規模な集会を試みたが、政府軍によって弾圧を受けた。
全琫準の反乱軍は「倭夷(日本)を駆逐せよ」「権貴(閔氏一派)をことごとく滅ぼせ」をスローガンにかかげ、一万人以上の勢力に拡大した。そして李朝の政府軍を打ち破り、五月末に全羅道の道庁所在地である全州を占領した。この甲午農民戦争の発生に動揺した閔氏政権は、六月一日に閣僚たちの反対をしりぞけて袁世凱に清軍の出動を要請した。
この報告を受けた李鴻章は准軍二一〇〇名の出動を命じ、六月七日に天津条約に基づいて日本へ派兵を通告した。だがすでに情報を得ていた外務大臣の陸奥宗光らは、清朝側の予想をはるかに超える七〇〇〇名の兵力を朝鮮へ送り、一〇日に先鋒隊の四七〇名は清軍よりも早くソウルへ入城した。
突然の日本軍出現に驚いた李朝政府は農民軍との和議を図り、一一日に腐敗官吏の処罰や執綱所の設置、奴婢の解放、両班と一般人との差別を廃止をうたった全州和約が成立した。
出兵理由を亡くした日清両国は現地交渉を行い、六月一五日に両軍が同時に撤兵で同意が成立した。だが陸奥宗光はこれを破棄し、代わって両国共同で朝鮮の内政改革を行うよう申し入れた。清朝側がこれを拒否すると、二三日に陸奥は日本単独で改革を行うと通告し、大鳥圭介公使に「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」という指令を出した。
これを受けた大鳥圭介公使は李朝に内政改革案を提示しながら、清との宗属関係を解消するように迫った。閔氏政権がこれを拒むと、七月に日本軍は閔氏一派を追放し、開化派の金弘集による親日政権を成立させた。
日清戦争の勃発と李鴻章
さて李鴻章は自らの政治的財産である北洋艦隊を守るため、日本との軍事衝突を極力避けようとしていた。彼は現状では装備の老朽化した北洋艦隊に勝ち目はないと述べたうえで、光緒帝に「決して一旦の功を焦って日本側の悪巧みに陥ることのないようお願いいたします」と訴えた。だが帝党の人々は李鴻章の現実主義外交を軟弱と批判し、光緒帝も主戦論に傾いた。李鴻章はやむなく列強の干渉に望みをかけた。
当時の日本は列強の介入に弱い立場にあり、とくに不平等条約の改正交渉相手だったイギリスの出方をうかがっていた。はたしてイギリスは東アジアの現状維持を望み、紛争がロシアの南下を誘発することを恐れて調停に乗りだした。しかし七月九日に清朝は日本
P107 の撤兵が先決だと主張してイギリスの調停案を拒絶した。一六日には日英通商航海条約の調印が済み、日本もイギリスの介入を恐れる必要がなくなった。さらに李鴻章が期待をよせたロシアは極東兵力の不足と外交上の孤立を恐れたため干渉を見送った。
いっぽう日本国内では首相の伊藤博文と明治天皇が和平派であった。とくに明治天皇は開戦後に「今度の戦争は大臣の戦争であってわしの戦争ではない」と述べ、伊勢神宮と孝明天皇陵に対する報告の勅使派遣を拒否したという。つまり日清開戦への道は天皇個人の意思を乗りこえて進められたのである。
七月二五日に日本海軍は豊島沖で奇襲攻撃をかけ、清兵一○○○名を乗せたイギリス船籍の高陞号を撃沈した。日本はイギリス船を沈めたことで国際法違反の非難を浴びるのではと肝を冷やしたが、増援を絶たれた清の朝鮮駐屯軍も動揺し、成歓で日本軍に大敗した。
八月一日に双方が宣戦布告するを行うと、清軍は平壌に兵力を集結させた。だが指揮官同士の意見があわず、抗戦派の総兵左宝貴が戦死すると、九月一六日に全軍が総崩れとなって撤退した。さらに一七日には北洋艦隊が日本の連合艦隊に捕捉され、いわゆる黄海の海戦が勃発した。結果は致遠など三隻を失った北洋艦隊の敗北に終わった。
一〇月に入ると日本軍は清国領内への進撃を開始し、一一月には遼東半島の旅順を占領した。このとき日本軍は多数の市民を殺害し、『ニューヨーク・ワールド』『タイムズ』はその残虐行為を非難した(相互参照)。朝鮮でも一〇月に甲午農民戦争の第二次蜂起が発生したが、
P108日本軍は李朝政府軍とこれを鎮圧し、全琫準は捕らえられて殺された。
一ハ九五年一月に日本軍は北洋艦隊の集結していた山東半島の威海衛を攻撃し、二月に水師提督の丁汝昌が自決して北洋艦隊は降伏した。度重なる敗戦に戦意を失った清朝は、アメリカを通じて和平交渉を申し入れた。
日本では軍部を中心に戦争継続を主張する声があり、三月に全権大臣の李鴻章が下関に到着した後も休戦交渉はもつれた。だが李鴻章が狙撃されて負傷する事件が起こり、列強の非難を恐れた日本は三週間の休戦に応じたが、この間も交渉を有利に運ぶために澎湖列島を占領した。
P109 (日清戦争図)
下関条約と台湾民主国
一八九五年四月一七日に李鴻章と日本の全権である伊藤博文、陸奥宗光の間で結ばれた下関条約は次のような内容であった。
- 清は朝鮮が「完全無欠なる独立自主の国であることを認める。
- 遼東半島および台湾、澎湖列島の日本への割譲。
- 賠償金二億両の支払い(のち遼東半島の返還とひきかえに三〇〇〇万両を追加)。
- 重慶、蘇州、杭州などの開港と開港場での日本人による企業経営権の承認。
はたして下関条約が締結された直後の四月二三日、ロシアはフランス、ドイツを誘って三国干渉を行い、日本に遼東半島を返還させた。この時日本国内では「臥薪嘗胆」が合い言葉となり、日露戦争の伏線となったことは有名である。
一方下関条約の内容が明らかになると、割譲の対象となった台湾では抵抗運動がまき起った。五月二五日に台湾随一のエリートだった邱逢甲らは、「わが台湾同胞は誓って倭に服せず、戦って死を選ぶ」と唱えて台湾民主国の独立を宣言し、台湾巡撫の唐景崧と清仏戦争の英雄だった劉永福をそれぞれ総統と大将軍に任命した。
六月四日に日本軍が上陸を開始すると、唐景崧は厦門へ逃亡し、台北や基隆など北部の拠点は占領された。だが南部ではその後も激しい抵抗が続き、一一月に初代台湾総督の樺山資紀が台湾全土の平定を報告するまでに、女性や先住民を含む一万四〇〇〇人以上の台湾人が殺害された。
P111 日清戦争は清朝の完敗に終わった。それは長い間東アジアの世界秩序だった朝貢体制を崩壊させると共に、一九世紀後半の中国が試みてきた洋務運動の挫折を意味した。とくに同じ東アジアの一員で、「同文の小国」である日本に負けたことは人々に大きなショックを与えた。
ある主戦派の官僚は「この恥辱はしばらくは耐えられるとしても、朝廷は安閑とせず対応を考えるべきである。それには自強を図る以外にない」と述べ、中央政府を中心とした政治改革の必要性を強く訴えた。
むろん洋務運動の中で次第に明らかになった地方台頭の動きは、伝統中国の硬直した専制支配を揺り動かす上で必要な過程であった。それは運動を中央のコントロールがきかない近代化事業にし、改革のスピードや統一性に不都合をもたらしたが、その後の中国が多様な可能性を模索する種を蒔いた。
むしろ幕藩体制からの脱却と集権化が課題だった日本とは、スタートラインが違っていたと言えるだろう。
また洋務運動に一貫して見られた儒教文化に対する揺ぎない自信は、古典文明を生み出した中国社会ならではの異文化受容のあり方を示していた。日清戦争後に「日本モデル」が声高に宣伝された事実は、二度のアヘン戦争によっても揺るがなかった「中華」の自信が、この戦争に敗北した衝撃によってようやく変化したことを示している。
そもそも洋務運動にとって最大の皮肉とは、内乱平定や国防のために生み出された准軍や北洋艦隊が、朝貢体制を維持するという名目のもと、朝鮮侵略をめぐる日本との競争に動員されたことにあった。それは想定外の戦闘を強いられた北洋軍の惨敗に終わったが、
P112勝利した日本も帝国主義勢力同士の絶え間ない戦争の連鎖に巻き込まれた。
はじめ日清戦争を支持していたキリスト教徒の内村鑑三は、一八九七年に記した短文「猛省」のなかで「台湾をもぎ取ることと、戦争の本来の目的である朝鮮の独立と何の関係があるのか。(日清戦争は)義戦として始まったが、欲戦として終わったのだ」と述べている。
東アジア世界における生き残りをかけて戦われた日清戦争には、初めから「勝利」の椅子など準備されていなかったのである。
第三章 ナショナリズムの誕生 戊戌の変法と義和団
列強の中国分割と変法派の登場P 113 政治都市・北京
北京という街の特色は、良くも悪くも政治都市だという点である。初めて北京を訪れた時、どこか街の空気がピリピリとした印象を受けたのは筆者一人ではないだろう。また市内のあちこちに「国家」の看板を掲げた役所が数多く見られるのもこの街の特徴で、「どちらを向いても国ばかり、北京はどこにあるのだろう」という想いにかられる。
無論北京にはこの町をこよなく愛する「老北京」と呼ばれる下町っ子がおり、最近はめっきり減ってしまった。昔ながらの街角である胡同に代表される落ち着いた庶民生活がある。だが北京の人と話す時に、何か重要な秘密でもあるかのように耳元でささやかれることがあり、やはりここは権力闘争、すなわち権謀術数を競いあう危険な政治ゲームから逃れられない街なのだと痛感させられる。
前章までに見た太平天国と洋務運動、そして日清戦争の敗北に終わった一連の「辺境の危機」は、いずれも中華帝国の周縁部で発生した新しい時代への胎動だった。それらは、
P114帝国の衰えによる求心力の低下と、新たな中国を生みだそうとする創造的なエネルギーとが混然一体となっていた。これに対して本章で私たちが見る二つの事件は、いずれも皇帝のお膝元だった北京が舞台となっている。実際のところ戊戌の変法は南方出身の知識人が中心となった運動であり、義和団は社会の最下層の人々によって担われた。
その点これらの事件は周縁世界による中華再生の試みの一つに数えられるが、運動が首都である北京で展開されたという事実は、中華帝国の危機が進行し、変革の必要性が高まったことを物語っている。これらの運動がどのように展開し、いかなる結果に終わったかは、そのまま清朝の命運を決定づけることになる。
列強の中国分割
日清戦争における清朝の敗北は、それまで軍事的な敗北を重ねながらも、なお「眠れる獅子」として恐れられていた中国に対するヨーロッパ列強の警戒心を取り払った。清朝が日本に対する巨額の賠償金を工面するために、外国の銀行から三億七〇〇万両を借りて、その担保として国内の関税や塩税などを充てると、列強による中国利権の獲得と勢力圏分割の競争が始まった。
その第一は借款を通じての鉄道敷設権と沿線における鉱山採掘権の獲得であった。三国干渉で慎重に貸しを作ったロシアとドイツ、フランスは、それぞれ東北地方を横断する東清鉄道、山東半島をつらぬく山東鉄道、雲南とヴェトナムを結ぶ滇越線を敷設する権利を得た。
P115 また、イギリスは香港と広州を結ぶ広九線、上海と軟禁を結ぶ滬寧線の敷設権を得た。中国の鉄道建設が人々の強い反対にあって進まなかった事実はすでに述べたが、今日私たちも利用する鉄道路線のいくつかは列強の敷設権獲得がきっかけとなって建設されたのである。
次に行われたのは租借地の名目による軍事、経済的拠点の設置と排他的な勢力圏の画定だった。一八九八年にドイツが、後述する山東での宣教師殺害事件をきっかけに膠州湾を租借すると、ロシアは三国干渉で日本に放棄させた旅順、大連を借り受けた。またフランスが仏領インドシナ(ヴェトナム)と隣接する広州湾を租借して勢力下に収めると、これらの動きに対抗してイギリスは山東半島の威海衛を確保し、九龍半島の北にあたる新界地区を九九年の期限付きで租借した。
この結果すでに南京条約で割譲された香港島、北京条約でイギリス領となった九龍地区と併せて、現在の香港が形作られた。一九九七年に香港は中国へ返還され、特別行政区となったが、この年は新界地区の租借から数えてちょうど九九年目にあたっていたのである。
(列強の中国分割図(山川出版社『世界歴史体系 中国史5』をもとに作成))
P117 さらに第三の方法として進められたのは、在華企業への積極的な投資であった。その鍵となったのは日本が下関条約で清朝に承認させた開港場における企業経営権でで、最恵国待遇によって同じ権利を得た列強は、一九〇二年までの八年間で日清戦争前の三○倍にあたる五億二〇〇〇万ドルの投資を行った。
だが当時の日本にこの条項を活用する力はなく、台湾の対岸にあたる福建省の利権を日本以外の国には与えないことを清朝に約束させるにとどまった。また中国侵略に後れをとったアメリカは、一八九九年に国務長官ジョン・ヘイが門戸開放宣言を行い、機会均等を唱えて中国市場への参入を試みた。
『天演論』の衝撃と変法派の登場
こうして列強諸国の勢力圏がいくつも設定された中国は分割の危機に陥った。この頃作られた「時局図」という一枚の絵があるが、そこではワシやクマ、太陽など様々な動物、怪物に見立てた列強によって食い物にされた中国の地図が描かれており、「言わずして喩る」と記されている。この現実に若い知識人たちは中国の未来に危機感を抱き、改革の方途を模索するようになった。とくに影響力を持ったのが厳復と康有為の二人である。
(「時局図」)
厳復は福建省閩侯県の出身で、福州の船政学堂から一八七七年に初のイギリス留学生としてヨーロッパへ渡り、帰国後は李鴻章に見込まれて幕僚となった。日清戦争によって北洋艦隊が壊滅すると、一八九七年に彼は天津でイギリスの『タイムス』を手本とした新聞である『国聞報』を創刊し、改革の必要性を説いた。
P119 だが厳復が後世に名を残すことになったのは、その翻訳事業によってだった。一八九八年に彼が刊行した『天演論』はトーマス・ヘンリー・ハクスレーの著作『進化と倫理』を要約、編集したもので、ダーウィンの進化論を紹介していた。
すなわち「物競(生存競争)」と「天択(自然淘汰)」による「天演(自然の進化)」説を紹介したものであるが、そのポイントは私たちになじみの深いサルからヒトへの進化ではなく、マンモスの滅亡に象徴される適者生存の法則だった。そしてこれを読んだ人々は「亡国滅種」つまり列強がしのぎを削る世界で、中国という国や民族が淘汰され、滅亡するのではないかと受けとめたのである。
こうした危機意識の高まりの中から登場したのが康有為であった。彼は広東南海県(現在の南海市)の人で、香港や上海でヨーロッパの学問に触れ、改革の必要性を痛感していた。清仏戦争後まもない一八八八年に康有為は光緒帝に初めての上書を行い、「既成の法を変えること」を訴えたが、この提案は受理されなかった。帰郷した康有為は万木草堂という塾を開き、弟子の梁啓超らと改革のための理論作りにとりくんだ。
(康有為の写真)
P120康有為がまず注目したのは洋務派の系譜につらなる公羊学派で、一八九一年に『新学偽経考』を著した。ここで「新学」とは当時の儒教で主流だった古文学派のことで、彼は紀元一世紀に「新」を建国した王莽のブレインだった劉歆が、古文学の経典を偽造したと記した。
つまり康有為は現在の儒教の主流学派はニセ物であり、これを捨てて孔子本来の教えに戻るべきだと主張したのである。この著作が大きな反響を呼んで清朝政府から発禁処分を受けると、一八九八年に彼は『孔子改制考を公刊した。
この本で康有為は孔子を「改制」すなわち政治改革をめざした人物と位置づけ、時代の変化にあわせて改革を行う点にこそ、孔子の聖人たる所以があると指摘した。
また太平天国が『天朝田畝制度』で理想とした「大同」ユートピアを社会進化論的に読みかえ、
P121 中国は「衰乱」の時代から「升平」の安定的統治、さらには「太平」の世へと移行するのだと説いた。それは太古の世界が理想的で、時代が降ると共に堕落すると考えられていた中国の歴史観を根底からくつがえすものであり、火山の大噴火にも似た衝撃を知識人に与えたのである。
強学会と譚嗣同の『仁学』
下関条約の調印から間もない一八九五年五月に、康有為は科挙受験のために北京に集まっていた一〇〇〇名を超えるエリートと、停戦に抗議して改革を求める上書を行った。
これを公車上書(公車は上書を皇帝へとりつぐ役所で、のちに省クラスの科挙合格者である挙人をさすようになった)と呼び、今度も受け取りを拒否されたが、康有為の名は広く知れ渡った。
この試験で進士に合格して工部主事となった康有為は、洋務運動期の知識人のように大官のブレインとなって近代化を進めるのではなく、みずからも一つの政治勢力を作ろうと考えた。
その結果一八九五年八月に生まれたのが強学会で、改革に理解を示していた洋務派官僚の張之洞を会長に迎え、イギリス人宣教師ティモシー・リチャードが顧問となった。また改革派と目される若手官僚に参加を呼びかけ、のちに中華民国大総統となる袁世凱も会員に名前を連ねた。
P122この強学会は強学書局という出版機関を持ち、梁啓超が啓蒙雑誌である『中外紀聞』を編集して外国事情の紹介に努めた。また広東、湖南など各地に分会が設けられ、上海発行の『強学報』は孔子を国民統合の象徴にしようとする康有為の考えに基づき、清朝の元号に代えて孔子紀年(孔子が死んだ年を元年とする紀年法)を用いた。
この雑誌は不遜という理由で発禁処分になったが、代わって一八九六年に上海で創刊された『時務報』は、当時としては記録的な発行部数である「一万三〇〇〇部を数えた。
一八九八年四月に康有為は各地の政治勢力を束ねる組織として北京に保国会を設けた。だが洋務運動が地方中心の運動であったのと同じく、変法運動の拠点となったのは南方諸省、わけても湘軍発祥の地で、日清戦争後に巡撫の陳宝箴ら改革派の官僚が集まった湖南だった。
この湖南変法派のうち瀏陽県出身の思想家で、梁啓超を時務学堂という新設の学校へ招くように働きかけた譚嗣同の存在は注目に値する。
譚嗣同はその著『仁学』において、万物が「以太(エーテル)」によって構成されているというユニークな世界観を提示した。また彼はモンゴルや満州を「残忍野蛮な性情にまかせて中国を盗み取った」と非難し、「むかし北方は中華文明の集まるところ、学術文芸の中心地といわれたのに、いまの華北五省はなんというありさまか」とあるように、中国文明の発祥地である北方が異民族支配によって衰えてしまったと指摘した。
そして「いまや中華の民は奮起すべき時である」と述べ、専制国家の強大な権限を権限を抑えて「民を勇気づける」ことが重要だと説いた。
P123 ちなみに彼は湘軍の略奪行為が太平軍よりも激しかったと告発し、郷土の英雄であった曽国藩に食ってかかるなど、かなりアウトロー的な知識人だったことがわかる。
清朝を排撃したこの文章は当時の中国では発表できず、譚嗣同の死後に梁啓超の手によって日本で公表された。またすべての変法派がこうした考えを持っていたわけではなく、事実康有為は皇帝権力の強化による「上からの改革」をめざした。だがある保守派官僚が保国会の目的は中国を保つことであり、「大清」を保つことではないと批判したように、変法派の主張は清朝の支配体制を揺るがしかねない可能性を含んでいたのである。
変法運動と戊戌政変
日本モデルの提起公車上書の後も上書をくりかえした康有為は、一八九八年一月ついに総理衙門で自説を述べる機会を与えられた。この時彼が改革のモデルとして高く評価したのが日本の明治維新で、光緒帝に上程された『日本変政考』は「わが国が弱亡に甘んじ、改制を望まぬならいざ知らず、保全を望むなら変法せざるをえない。
変法するにしても、過ちを犯すのが心配だというのなら、日本がわが先駆としてある。その守旧の政俗はわが国と同じだったのだから、更新の法は日本をおいて別の道はない」とあるように、日清戦争の相手で会った日本に学ぶべきことを力説している。
P124また康有為は具体的な政策として、(1)維新の実行を宣言し、基本方針を定める(明治維新における五箇条の御誓文に相当)、(2)制度局を設け、参議を任命して改革の中心機関とする(王政復古の大号令、三職設置に相当)、(3)待詔所を設けて、人材を登用する(集議院に相当)ことを求めた。
そして彼は「変法は日本を手本とすれば、すべては足りる」とまで述べたが、康有為がここまで明治維新にいれ込んだ背景には、変法派の同志で中国きっての日本通だった黄遵憲の存在があった。
黄遵憲は広東嘉応州出身の客家で、一八七七年に最初の駐日公使であった何如璋の随員(参事官)として日本に赴任した。はじめ彼は明治維新に対して懐疑的だったが、隅田川の花見で桜の美しさに驚き、すっかり日本のファンとなってしまった。
また彼は観察を深めるにつれ、「西洋式に改めて、古きを改めて新しきを取り入れれば、高く抜きんでて自立できると信じるようになった」とあるように、日本が取り入れたヨーロッパの諸制度は中国が独立を保持していくうえで不可欠なものだと考えるようになった。
そして一八八七年に大著『日本国志』を完成し、日本の政治制度、経済政策や社会、文化を詳しく紹介して中国への適用を訴えた。
P125 (「日本国志」写真)
はじめ黄遵憲の提言は人々の注目をほとんど集めなかったが、日清戦争後に帰国した彼は上海で『時務報』の創刊に関わり、湖南按察使となって変法運動に尽力した。梁啓超はこの本がもっと早く活用されていれば、清軍が無惨な敗北を喫することはなかっただろうと嘆いたという。
康有為自身も早くから日本に注目していたが、日本モデルの改革案は多くがこの『日本国志』を情報源としていたのである。
戊戌変法の開始
列強の中国分割が進む中で、「亡国の君主とはなりたくない」と考えた青年皇帝の光緒帝は、ロシアのピョートル大帝や明治天皇にならい、皇帝みずからの権限によって改革を進めるように説いた康有為の上書に強く心を動かされた。
すでに述べたように当時の清朝では引退した西太后がなお実権を握っており、名ばかりの「親政」に不満だった光緒帝とその側近は、西太后一派と権力闘争の火花を散らしていた。
(光緒帝写真)
六月一一日に光緒帝は「国是を定める詔」を出し、変法の実施を交付した。その五日
P127 後に光緒帝は康有為を接見し、改革の進め方について意見を求めた。その結果康有為は総理衙門の章京(大臣補佐)に任命され、矢つぎ早に改革案を皇帝の命令である上諭の形で打ち出した。
制度局の設置、科挙における八股文の廃止と西学の試験科目への導入、京師大学堂(のちの北京大学)の設置、譚嗣同ら若手官僚の中央政府への抜擢、行政改革と冗員の削減などがそれで、一〇〇日余りの間に出された指示は二〇〇以上に及んだ。
これらの改革案はまず日本の経験について語り、それを中国の現状と結びつけて新政策を提起するスタイルを取った。たとえば「一八七一年に岩倉具視らがヨーロッパ諸国を歴訪したのにならって宗室・王公に外国視察を命じたり、伊藤博文らが官報局を設けたのに学んで上海の『時務報』を官報に改め、これを北京で発行させたなどである。
またその内容は従来の変法派の議論と比べると穏健なもので、誼会の開設についても康有為は時期尚早だとして見送った。
だが保守派の官僚はこれらの措置に猛反発し、もともと変法に同情的だった張之洞などの地方大官も性急な変化についていけなかった。また西太后は変法の開始直後に光緒帝の「帝師」であった翁同龢を解任し、保守派の栄禄を直隷総督として変法派を牽制した。
これら両派のせめぎ合いの中で、多くの地方官は処罰を恐れて事態を静観し、改革は一向に進展しなかった。当初変法を歓迎したイギリス公使のマクドナルドは「改革の上諭を発布することと、順守させることは同じではないことを皇帝は学びつつある」と本国へ報告している。
P128改革のゆきづまりにいらだった光緒帝は、九月七日に変法派の批判の的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免した。すると西太后は栄禄に命じて軍隊を天津などに集結させ、変法派に対する武力弾圧の準備にとりかかった。
光緒帝の密詔によって事態が緊迫したことを知った康有為らは、西太后らを幽閉して権力奪取を図るクーデターを計画したが、彼らはそれを実行する軍事力を持っていなかった。そこで九月一八日に譚嗣同はただ一人危険をかえりみず、勉学会の会員で新建陸軍の訓練に取り組んでいた袁世凱を訪ねて、栄禄の殺害と頤和園の包囲に協力するように申し入れた。
この時譚嗣同は袁世凱の返答次第では、彼と刺し違えることも覚悟していた。譚嗣同は幕末日本の志士を「任侠」と呼んで共感をよせ、改革のために「死に甘んじる」ことも必要だと考えていたのである。
譚嗣同のただならぬ気配を察した袁世凱は、その場は協力を約束した。だがもともと李鴻章の子分であった彼は、その夜栄禄の許に走って変法派のクーデター計画を通報した。
伊藤博文の中国行きと戊戌政変(相互参照)
これら北京の宮廷を舞台とする変法派と保守派の暗闘は、一九八九年の天安門事件前後における中国共産党内の改革派(趙紫陽)と保守派(鄧小平、李鵬ら)の権力闘争を彷彿とさせる。
天安門事件の時はソ連大統領ゴルバチョフの訪中が重要なターニングポイントとなったが、
P129 この時も変法派、保守派の対立が頂点に達した九月中旬に伊藤博文が中国を訪問した。当時伊藤博文は元勲内閣が倒れた直後で、在野の一政治家という身分であったが、ロシアが清朝と結んで中国北東部で勢力を拡大するのを牽制する目的を持っての訪中だった。
明治維新の功労者というべき伊藤博文の訪中に、苦境に立っていた変法派は大きな期待をよせた。伊藤が夫人に宛てた手紙によると、天津に到着した彼は大歓迎を受け、中国のために協力してほしいと口々に訴えられたという。
事実当時の中国では伊藤を顧問として招聘し、改革を担当させるべきだという意見もあった。
だが伊藤は運動を支援することが日本の利益になるかどうか、冷静に事態を見極めようとした。九月一四日に北京に到着した彼は保守派が優勢なことを察知し、「(総理衙門の諸大臣は)必ずしも変法に賛成しているわけではないようです。また近頃若手(変法派の人々をさす)を登用して、経験のある人(李鴻章のこと)を退けようとしておられるようですが、これも極めて唐突に過ぎます」と述べて変法派との距離を置いた。
保守派による武力鎮圧の可能性が高まった九月一ハ日、康有為はわざわざ日本公使館へ伊藤博文を訪ね、変法を支持するように西太后を説得してほしいと頼んだ。だが伊藤の反応は冷淡で、紋切り型の説教に康有為は「公爵はわが国をひどく蔑んでおられる」と失望を隠せなかった。
また九月二〇日に伊藤博文は光緒帝に拝謁した(tw,相互参照)。光緒帝は伊藤を親王並に手厚くもてなし、明治維新における彼の功績を高く評価したうえで、「朕に忌憚のない意見を聞かせていただきたい」と改革への協力を求めた。
P130だが伊藤は「皇上だけが鋭意変法を進めている。皇太后の聖意がどのようなものかはわからぬが、思うに皇太后と皇上の御意向が一致して初めて変法を成しとげることができるだろう」とあるように、この運動が成功する可能性は少ないとの判断をくだした。
はたして二一日、保守派による戊戌政変が発生し、西太后は光緒帝を中南海の瀛台に幽閉して、再び自ら政治を行うことになった。また変法派の人々に対する捜索が行われ、康有為はイギリスの援助を受けて香港へ脱出し、日本へ亡命した。
日本公使館に駆け込んだ梁啓超は伊藤の指示によって日本の軍艦に乗せられ、清軍の追撃を振り切って日本へ送られた(相互参照)。この時梁啓超は譚嗣同にも亡命を勧めたが、譚嗣同は「世界の変法は流血によってなったが、中国ではまだ誰も犠牲になった者がいない。この国が振るわないのはそのためだ。私がその第一号になろう」といって拒否したという。結局譚嗣同は捕らえられて処刑され、改革の成果は京師大学堂を除いて全て白紙に戻ってしまった。
変法運動は中国がはじめて経験した、外国モデルによるトータルな社会変革の試みだった。それは南方出身の知識人たちによって担われ、辺境で発生していた新たな社会へのうねりを帝国の首都に持ちこんだ。むろん運動は大衆的基盤を欠き、巨大な官僚機構を動かせないままコップの中の嵐で終わってしまった。
また皇帝個人の権威に頼るかたちで進められた運動は、改革の内容をひ弱にしたばかりか、宮廷内の権力闘争に巻きこまれるという結果を生んだ・さらに列強が康有為、梁啓超の亡命を援助したり、黄遵憲ら変法派官僚
P131 の処罰を軽減しようと清朝に圧力をかけたために、西太后と列強の関係が悪化し、彼女を対外強硬論へと向かわせることになった。
一方変法運動は中国におけるナショナリズム運動の草分けであったが、このとき「国を保つ」とは何を意味するのかについて多くの問いを投げかけた。なぜなら康有為らがめざしたのは勤王運動であり、清朝の存続を前提とした改良運動だったが、改革を妨害した勢力も西太后に代表される清朝の統治システムだったからである。
さらに変法派の中には、譚嗣同のように清朝を異民族王朝ととらえ、その存続が至上命題とは考えない者もいた。この「中国」か「大清』かという問題は、次に見る義和団でも大きな焦点となる。
なお変法派の人々は日本の明治維新を改革のモデルにすえ、それまで多くの中国人にとって「東方の小国」に過ぎなかった日本を「同文同種」の国と呼んで親近感をよせた。その感情は変法運動の挫折後も残り、日本に対する留学熱を生みだすことになる。
だが伊藤博文の行動に代表されるように、日本は彼ら親日派のアプローチに応えることができなかった。巌復の「亡国滅種」論は中国の知識人に強烈なインパクトを与えたが、その実当時の「弱肉強食」的な国際情勢に振り回されていたのは日本だったのかもしれない。
反キリスト教事件と義和団の登場
宗教的な時代 戊戌政変からわずか二年後の一九〇〇年夏、北京は熱狂的なナショナリズムのうねりに包まれた。その主役となったのは社会の周縁部にいた下層民衆であり、外国につらなるあらゆる事物とりわけキリスト教に対して激しい攻撃と破壊を加えた。この義和団運動に対して列強諸国は「文明に対する罪悪」という非難を加え、中国国内でも迷信に彩られた盲目的な排外運動だとする見方が多かった。また康有為は「義和団は后党」すなわち西太后にあやつられて外国勢力に敵対した運動だと断じている。
中華人民共和国の成立後にこうした見方は一変し、少なくとも公式には義和団は中国革命へ連なる反帝国主義闘争であるという評価を与えられた。だがこの運動がめざした目的や起源、さらには「鉄砲の弾に当たっても死なない」という異様な宗教性(刀槍不入信仰)をどうみるかは、現在も最終的な結論は出ていない。
ここで忘れてならないのは、一九世紀の中国が宗教的な時代であったという点だろう。先に私たちが見た厳復の『天演論』が伝えた進化論も、近代科学の成果としてよりは、国と民族の滅亡を予言する一種の終末思想として受けとめられたがゆえに、人々の心を捉えたのである。
以下では現代に生きる我々の価値基準から義和団を切りさばくのではなく、できる限り当時の情況に即して運動の全容を見ていこう。
キリスト教の中国布教と仇教事件
一九世紀の中国におけるキリスト教の布教活動は、第二次アヘン戦争時の天津条約で
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第四章「民の国」の試練---袁世凱政権と日本
中華民国の成立と臨時約法一発の凶弾がもたらしたもの
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袁世凱の臨時大総統就任と臨時約法
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袁世凱の開発独裁と地方ナショナリズム
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第二革命と袁世凱政権
孫文の訪日と日本の辛亥革命への対応
P211 ところで宋教仁が暗殺されたとき、孫文は中国にいなかった。彼は一九一三年二月から国賓として日本を訪問中で、事件前日の三月一九日には旧友である宮崎滔天の実家を訪ねている。
臨時大総統を辞めた孫文は産業育成のかなめとして鉄道建設の大計画をたて、今回の訪日も建設費の借款交渉がひとつの目的だった。日本到着後の孫文は多くの政府要人と会見したが、最も意気投合したのは日英同盟締結の立役者である桂太郎であった。
アジア初の共和国を創った孫文と藩閥政治家の桂太郎という組み合わせは、私たちの眼にはミスマッチと映る。だが両者の会談は二度、一五時間以上におよんだ。そして今後日本は侵略せず、両国が提携してアジアの平和を実現すること、日本はドイツと同盟関係を結び、中国と共同歩調をとりながらイギリスに対抗するという驚くべき内容が話し合われた。さらにこの年一〇月に桂太郎が死去すると、孫文は「もはや日本には、共に天下を語るに足る政治家はいなくなった」と惜しんだという。
実のところ桂太郎は二月の大正政変(第一次護憲運動)で首相の座を追われており、彼の発言は政府の立場を代表するものではなかった。むしろ辛亥革命が勃発すると、はじめ日本政府は清朝を維持しながら立憲君主制を成立させることに力を注いだ。
やがて南北の勢力が拮抗すると、日本は革命軍にも武器援助を行ったが、南京の臨時政府を承認することには二の足を踏んだ。その結果袁世凱を支持するイギリスが対中国交渉のイニシアチブを握ると、
P212日本は一九一二年七月に第三次日露協約を結んで内モンゴル(内蒙古)の権益をロシアと分け合った。
日本は政府として辛亥革命に対する明確な方針を打ち出せなかったが、民間人のあいだには革命を支援し、これに参加する動きもあった。その代表は高知出身の萱野長知で、梅谷庄吉から七万円の資金を託されて中国に渡り、漢陽で黄興の率いる革命軍に参加した。
また頭山満は革命支援団体として有隣会を組織し、二・二六事件の黒幕として処刑される国家主義者の北一輝も宋教仁と南京攻防戦に参加した。孫文らは彼らについて「日本政府は革命に反対するけれども、民間は同情している」と評価している。
むろん日本の民間人がみな革命に同情的であったわけではなかった。中国大陸での日本の権益拡大をはかる大陸浪人の川島浪速は、清朝滅亡にあたって粛親王を旅順へ脱出させた。そして満州族の故郷である中国北東部と内モンゴルを中国から独立させ、日本の実力下に置こうと画策した。
この第一次満蒙独立運動は計画が漏れて中止となったが、一九一六年にも再燃した。
なお川島浪速は粛親王の一四女を自分の養女としたが、彼女がのちに日本の特務として一九三二年の上海事変で暗躍し、映画『ラストエンペラー』にも登場する「東洋のマタハリ」こと川島芳子である。
当時はロシアが内モンゴル(現在のモンゴル国)を中国から独立させようと図り、イギリスもチベットをうかがっていた。川島は日本がヨーロッパ列強に
P213 対抗して満蒙に勢力を拡大することが、「東亜の保全」につながると主張して侵略行為を正当化したのである。
善後大借款と第二革命
さて宋教仁暗殺の知らせを受けた孫文は、急ぎ帰国の途についた。一九一三年三月二五日に孫文が上海へ到着すると、国民党の幹部会議が開かれて対応を協議した。この時袁世凱に対する武力討伐を主張する声もあったが、当面は国民党が優位に立つ議会で袁世凱を追求することになった。
はたし四月に議会が開幕すると、袁世凱と国民党は激しくぶつかった。その焦点となったのはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本の五ヵ国銀行団から借り受けた総額ニ五〇〇万ポンドの善後大借款であり、その担保として塩税の収入を外国の支配下に置くことになっていた。
国民党はこの借款が列強の侵略を招き、袁世凱個人の権力強化に使われる危険があると考えて反対した。だが袁世凱は議会の承認を経ないまま契約に調印してしまい、議員たちは袁世凱の法律違反を激しく責めた。
いっぽう袁世凱も黙っていなかった。彼は借款で豊かになった財源を活かして、議員たちに国民党を脱退するよう買収工作を進めた。その相場は一人につき一万元を超え、賄賂を受けとらない議員には脅迫と妨害が待っていた。
街の本屋には政府の役人が書いた孫文を中傷する書物が並べられ、重苦しい雰囲気のなかで多くの議員が動揺した。
P214つづく六月に袁世凱は広東都督の胡漢民、江西都督の李烈鈞など三人の革命派都督を解任して国民党を挑発した。このとき黄興はなお法律に基づいて袁世凱を糾弾すべきだと唱えたが、孫文は武装蜂起を主張して譲らなかった。
七月一二日に孫文の指令を受けた李烈鈞は、袁世凱討伐の軍司令部を設置して江西の独立を宣言した。つづいて江蘇や安徽、広東などの南方七省が独立し、誼会も袁世凱の決別を宣言した。いわゆる第二革命の勃発である。
だが袁世凱との武力対決は、強大な軍事力を擁した彼の思うつぼであった。袁世凱は孫文らを国家の統一を破壊し、地方の治安を乱す「乱党」「暴徒」と非難して弾圧に乗りだした。また今回は孫文の期待に反して、武昌蜂起の時のような連鎖反応は起きなかった。
人々は空転する議会と横行する賄賂に失望していたのである。蜂起軍はわずか二ヵ月であっけなく敗北し、孫文、黄興らは台湾経由で日本へ亡命した。
袁世凱政権とその特質
こうして反対勢力を叩きつぶした袁世凱は、みずからの政治スタイルによって中央集権的な体制作りに着手した。まず彼がめざしたのは正式な大総統に就任することであり、一九一三年一〇月に袁世凱の動員した圧力団体が包囲する中で、議会は彼を正式大総統に「選出」した。
すると一一月に袁世凱は国民党の解散を命じ、残っていた国民党系議員の
P215 資格を剝奪して議会を機能停止に追いこんだ。また一九一四年一月には議会を解散し、中国史上初の民主的議会は一年ももたずにその幕を閉じてしまった。
次に袁世凱がとりくんだのは、辛亥革命の大きな成果である臨時約法を葬り去ることだった。一九一四年三月に憲法改正の会議が設けられ、五月には大総統の権限を大幅に拡大した中華民国約法(新約法)が公布された。
そこでは内閣に代わって国務卿が置かれ、袁世凱と同郷の進士で、彼と義兄弟の契りを交わしたブレインの徐世昌が就任した。また議会として立法院が置かれることになっていたが、結局は招集されなかった。代わりに大総統の諮問機関である参政院が事実上の立法機関となり、袁世凱の意向に従って大総統の任期を終身制へ改めた。
さらに袁世凱は自立性を強めた地方の権限を縮小し、中央集権を徹底させようと図った。はじめ彼は各省を廃止して、いくつかの小さな行政単位に分割しようとしたが実現しなかった。
代わって派遣されたのが文官の巡按使で、将軍と改称した各省都督の権限を軍事面に限定する目的を持っていた。また将軍たちに中央への出向を定期的に命じ、その兵力を国軍として位置づけたり、地方財政に対する中央の干渉を強化した。だがこれらの措置によって地方の軍人勢力を完全に掌握することはできなかった。
こうして形作られた袁世凱政権下の中国は、よく言えば伝統と近代が交錯する時代だった。これを象徴するのは第二革命を鎮圧した張勲で、彼は中華民国の武官だったが、清朝に対する忠誠の証として部下が弁髪を切ることを許さず、弁髪将軍と呼ばれていた。
P216また袁世凱の内政は緊縮財政策をとったために派手な成果はないが、初等教育の普及に熱心に取り組んでおり、彼をまったくの反動政治家と切り捨てることはできない。
むろん袁世凱は自らの信じる強力な国家を実現するために手段を選ばなかった。暗殺や賄賂、脅迫が横行し、一九一三年七月に戒厳令を敷いてからは、穏健派の地方エリートに対しても時に弾圧を加えた。
だが彼の一番の誤りは革命によって湧き起こった、中華世界を再生させようとする社会のエネルギーに冷水を浴びせたことだろう。議会政治の実現をめざす宋教仁らの行動が多分に性急であったみせよ、袁世凱はそのカオス的な情況に「亡国」の恐怖しか読みとることができなかったのである。
P217
中華革命党と孫文
i一九一三年八月に孫文が日本へ亡命すると、はじめ日本政府は半年前の歓迎ぶりが嘘のように冷淡な態度を見せた。首相の山本権兵衛は袁世凱やイギリスとの関係悪化を恐れ、孫文にアメリカへ行くように勧告した。
だが孫文は再起を図る場所は日本をおいて外はないと考え、頭山満、犬養毅らに協力を求めた。彼らはいま孫文を日本の手中に収めておけば、
P218日本の対中国政策にとって有利だと述べて山本を説得し、なんとか彼から上陸許可をとりつけた。これ以後孫文は二年九ヵ月にわたり日本で革命活動を展開することになった。
一九一四年六月に孫文は東京で中華革命党を結成した。彼は第二革命の失敗について、自分の主張した袁世凱との武力対決が誤りだったとは認めなかった。むしろ宋教仁の推しすすめた国民党の議会政治が、立身出世を求める多くの猟官分子を党内に導き入れ、革命精神を失わせた結果であると考えた。
このため孫文は中華革命党の党員に「一身の生命、自由、権利を犠牲にし、孫先生に従って革命を再興する」こと、言いかえれば彼に対する絶対服従を求めた。孫文は自分に忠誠を誓う精鋭集団を組織することによって、革命を絶対化しようと図ったのである。
こうした孫文の独裁的な方針に古くからの同志たちは反発した。とくに黄興は孫文が中国同盟会以前の武装蜂起路線に立ち戻ったことを「常軌を逸した行動」と批判し、これからは党派を超えた広汎な人々を結集すべきだと訴えた。
一九一四年に黄興は袁世凱反対の世論を形成するために欧事研究会を組織し、東京と上海で雑誌『甲寅』を発行した。このメンバーには後に中国共産党の創設者となる陳独秀と李大釗が含まれており、翌一五年に陳独秀は有名な『青年雑誌』(第二号からは『新青年』)を創刊して新文化運動の口火を切ることになる。
だが、「会党(秘密結社)中毒」と言われるほど自分の革命方式にこだわる孫文はこの批判
P219 を受けいれなかった。むしろ彼は黄興の弱腰が第二革命の失敗を招いたと非難し、怒った黄興は一九一四年に孫文と袂を分かってアメリカへ去った。李烈鈞も孫文に絶対服従するのは屈辱だと述べて中華革命党に加わらず、革命運動は完全に分裂した。
独裁への誘惑という中国専制王朝の忌むべき遺産は、いまや袁世凱のみならず革命派の組織をも蝕み始めた。
このとき孤立した孫文が心を許したのは、広東出身の実業家である宋嘉澍の次女、宋慶齢だった。もともと宋嘉澍は孫文の熱心な支持者の一人で、長女の宋靄齢は孫文の秘書をしていた。
一九一四年秋にアメリカ留学帰りの宋慶齢が姉を頼って来日すると、孫文はピアノを弾きながら歌う彼女の姿に一目惚れしてしまった。周囲はニ七も歳が違う二人の結婚に反対したが、本人たちの意志は固く、事実結婚後の二人はおしどり夫婦となった。
P220一九一五年一〇月に東京の梅屋庄吉宅で孫文と宋慶齢の結婚式が行われた。日本側は宮崎滔天、犬養毅、頭山満などが出席したが、中国側は孫文の側近だった 陳其美だけで、ほかの同志たちの姿はなかった。その後宋慶齢が孫文夫人として中国の危機を救うため大活躍するとは、当時は誰も予想しなかったことだろう。
第一次世界大戦とニ十一ヵ条要求
第一次世界大戦と日本の青島占領
P221
一九一四年六月二八日、今度は世界が一発の凶弾に驚愕した。「ヨーロッパの火薬庫」と言われたバルカン半島の都市サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されたのである。
犯人はロシアが支援するセルビア王国の青年で、七月にオーストリアはセルビアに宣戦布告をした。だがこの戦争はオーストリアにドイツ、イタリアを加えた同盟国と、ロシア、イギリス、フランスを中心とする連合国の衝突へと発展した。
第一次世界大戦の勃発である。
大戦勃発の知らせが日本へ届くと、元老の井上馨はこの戦争を「大正新時代の天佑」すなわち天が与えたチャンスだと受けとめた。また彼は首相の大隈重信に対して、日本が連合国と団結しながらアジアにおける日本の利権を確立するよう求めた。
政府も外相の加藤高明が中心となって参戦の意志を固め、八月に「日英同盟の誼み」を口実としてドイツに宣戦布告をした。政略目標は山東にあるドイツの拠点だった青島である。
ところでイギリスは日本に極東のドイツ艦隊を攻撃することを要請したが、日本の野心を警戒して参戦までは望まなかった。また袁世凱政権は大戦が中国に波及するのを恐れ、中立宣言を出して中国領内での戦闘行為を禁止していた。
だが日本は中国領内で戦われた日露戦争の例を持ちだし、ドイツ租界以外の山東東部も交戦地域(中立除外地)として認めるように迫った。中国政府がこれを承認すると、九月に上陸した日本軍二万九〇〇〇名は約束の地域をはるかに越えて西進し、省都済南にいたる山東鉄道全域(地図)を占領した。
烈火士官学校(tw)P223 一一月に青島を陥落させた日本軍は、約七〇〇〇名の守備隊を残留させて山東の占領を続けた。日本のドイツに対する最後通牒には「租借地全部を支那国に返還する」ことがうたわれていたが、南満州鉄道を除けば中国本土で初めて手に入れた鉄道利権を手放すことはできなかった。
02 25:18~ドイツと日本が戦争をはじめた(1914.8)
11 31:44~ドイツが降伏(1914.11.7参照)、青島と濰県が日本の占領下に
02 11
中国では日本に対する反感が高まったが、日本政府に孫文の革命運動を弾圧するように求めていた袁世凱は動かなかった。孫文の利用価値を説いて彼の日本滞在を実現した犬養毅らの努力は、皮肉な形で実を結んだのである。
ニ十一ヵ条要求と中国(参照)
さて加藤高明外相の指示をうけた中国公使の日置益は、一九一五年一月一八日に正規の外交ルートを無視して、直接袁世凱に対して五項目からなる秘密の要求書を提出した。これが史上悪名の高いニ十一ヵ条要求であるが、その内容は次のようなものだった。
第一号
山東における旧ドイツ権益を日本が引き継ぎ、主要都市を解放すること第二号
南満洲と東部内蒙古における日本の権益を拡大すること。とくに旅順、大連および南満洲鉄道の租借期限を九九ヵ年延長し、これらの地域で日本人の自由な居住と商業活動、不動産の取得権、鉱山の採掘権を認めること第三号
湖北、湖南にまたがる鉄鋼コンビナートである漢冶萍公司を将来日中合弁とすること。またその資産とくに大冶鉄山の採掘権を保全し、鉄鉱石を日本の八幡製鉄所へ確実に供給できるようにすることP225
第四号
中国の領土を保全し、沿岸の港湾や島嶼を譲渡、貸与しないこと第五号
いわゆる希望条項で、(1)中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問を雇うこと。(2)必要な地方の警察を日中合同とするか、または警察に多くの日本人を雇うこと。(3)兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場を作ること。(4)武昌、南昌、杭州などの華中の諸都市と、華南の潮州をむすぶ鉄道の敷設権を日本に与えること。(5)福建の鉄道、鉱山、港湾について日本の優先権を認めること。(6)日本人の布教権を認めることなどこれらは中国における利権の拡大をめざした第一~第四号と、中国政府を日本の監督下に置き、保護国にすることをねらった第五号に大別される。この第五号が当時の国際ルールに照らしても理不尽な内容だったことは、加藤高明がこれを列強にひた隠しにして交渉を進めようとしたこと、要求(demand)ではなく希望条項(request)とすることで、万一暴露された場合の言い訳にしようと図ったことからもうかがわれる。
当時の日本政府は日中間の提携を重視するか、欧米との協調を重視するかの違いはあれ、中国は日本に頼らなければ何もできないという認識に立って外交政策を進めていた。
加藤自身駐日中国大使に対して、「貴国ははたして日本の力を借りずに、ドイツから(膠州湾を)還付されることができると信じているのか」と述べたという。
ジャーナリズムも戦後首相となって中国との交流を促進した石橋湛山が、「小日本主義」を唱える『東洋経済新報』で自由主義、平和主義の観点から明確な反対論を展開したのを除くと、おしなべて政府の方針に追従した。
P226また二〇世紀初めの中国は利権回収運動(tw)に代表されるナショナリズムの高揚があり、それが辛亥革命を成功に導く重要なファクターとなった。だがこの変化に対する日本人の理解は不足しており、中国には国家や公の観念がなく、中国人は自分の利益しか考えない、だから日本が中国を保全してやることがアジアの平和につながるという、ステレオタイプ化されたアジア主義から抜け出せなかった。
二十一ヵ条要求はこれら硬直した中国観の一つの産物であったが、それは日本に親近感をよせ、日本モデルの改革を志してきた中国知識人を、日本との決別へ踏み切らせてしまった。
さてこの法外な要求に怒った中国政府は、一九一五年二月からの交渉でねばり強い抵抗を見せた。正式な会議は二五回、それ以外の折衝も二十数回をかぞえ、外務部総長の陸徴祥らはこのあいだに第五号の内容を全世界に伝え、反対論が盛り上がるのを待った。
はじめ列強は模様眺めをしていたが、四月中旬からアメリカが第五号に固執する日本のやり方に反発を強め、イギリスもそれに同調した。中国も第五号については拒否の姿勢をつらぬき、五月四日についに交渉は決裂した。
五月七日に日本は中国に対して最後通牒を発し、五月九日午後六時までに第五号を除くすべての要求を受入れなければ軍事行動に出ると通告した。このとき中国に山東、南満洲にそれぞれ増派された一個師団を含めて六万名の日本軍がおり、在留邦人に引き揚げ
P227 を命じるなど臨戦態勢にあった。いっぽう大戦勃発以来列強の援助を得られなかった袁世凱には、自力で日本と戦争するだけの力はなかった。英米両国の強力な干渉を期待できないと知った袁世凱は最後通牒の受諾を決め、六月に条約が批准された。
反日ナショナリズムの高揚
これらの過程で袁世凱は、国内外で高まった反日ナショナリズムによってかなりのダメージを受けた。日本の山東侵攻が始まると、東南アジアかの華僑が日本製品ののボイコット運動を開始し、やがて袁世凱の禁令にもかかわらず全国に波及した。
一九一五年に入ると日本の中国人留学生が抗議を意味する集団帰国(tw)に踏みきり、国内でも日本との戦争に備えて武器の購入資金を集める愛国貯金運動が広がった。
烈火士官学校さらに二十一ヵ条要求が認められると、五月七日と九日の両日は国恥記念日となり、「民族的屈辱」を忘れないためのデモや集会が行われた。そこに外圧を受けないための強力な国家を作りをうたい、独裁的な権力をにぎりながら、侵略に抗しきれなかった袁世凱に対する失望と批判が込められていた。
16 01:55~林憲偉(日本留学生)07:27~二十一か条の要求(1915.1)
17 二十一か条の要求に反対する学生運動に巻き込まれた顧燕幀謝襄
18 25:55~頼みの綱は英米だけ悪党を追い出すのに別の悪党に泣きついている(tw)27:47~織田顯榮と承瑞貝勒
19 32:16~二十一ヵ条要求反対デモのために南京に向かう学生
29 05:43~ビラの内容「二十一かカ条と日本の青島占領、帝政復活と軍閥独裁に反対」
31 03:03~顧宗堂不平等条約に調印
16 17 18 19
29 31
このナショナリズムの高揚に後押しされるように、袁世凱の政治的ライバルたちが彼の権力を脅かし始めた。その皮切りは進歩党の梁啓超、彼の教え子で第三革命の立役者となる元雲南省都督の蔡鰐で、参政院で日本の山東占領について袁世凱を追求した。
これに続いたのが第二革命で海外へ亡命した黄興、李烈鈞らの旧国民党勢力で、独裁反対を唱えながらも、救国のための行動は惜しまないとの声明を発表した。
P228さらに袁世凱にとってショックだったのは、もともと自分の部下で、北洋軍内の二大派閥を代表する武将だった江蘇省将軍の馮国璋(直隷派)と陸軍部総長の段祺瑞(安徽派)が、あいついで袁世凱に断固たる行動を求めたことだった。
なかでも段祺瑞は最後通牒を拒否するように迫り、袁世凱は「たしかに受諾は屈辱だが、第五号ぬきの受諾は中国を滅亡させるものではない」と反論して言い合いになったという。
だがこれらライバルたちの圧力は、かえって袁世凱をさらなる権威獲得の道へと突き進ませることになった。
一方袁世凱の最大の政敵であった孫文は、侵略の当事国である日本にいたことが災いして大きな打撃を受けた。二十一ヵ条要求が出された当初、孫文はそれが重大な利権の喪失であり、とくに第五号は中国を一九一〇年の日韓併合によって日本の植民地となった朝鮮と同じ境遇に追いこむものだと考えた。
だが孫文はこの問題をきっかけに袁世凱打倒の世論を喚起しようと図り、二十一ヵ条要求はじつは袁世凱が提起したもので、日本の支持を取りつけることで皇帝の地位をねらっているのだと非難した。
ところが日本亡命後の孫文は革命に対する支援を得るために、板垣退助、渋沢栄一などの政財界の重鎮や軍関係者と接触を重ねていた。そして二十一ヵ条要求の交渉が続いていた一九一五年三月に、孫文は外務省に対して日本の民間人との間に調印した中日盟約を秘かに提示した。
この中日盟約は一一ヵ条からなり、共同作戦のために中国軍が日本軍と同じ武器、弾薬 P229 を用いること、中国軍や中国政府に主として日本人を採用することなど、二十一ヵ条要求とよく似た内容がうたわれていた。孫文は中華革命党の結成にあたって三民主義から民族主義を削除してしまっており、外国の支援に頼る国際派の革命スタイルは、いきおい日本の帝国主義的野心に対する過小評価をもたらしたのである。
この中日盟約は革命派の窮状を日本側に暴露する結果となり、孫文の意に反して二十一ヵ条要求の交渉過程において日本側に格好の取引材料を与えてしまった。売国奴呼ばわりされた袁世凱も反撃に転じ、宋靄齢の夫でのちに南京国民政府の幹部となる孔祥熙は孫文を日本の手先だとののしった。だがこうした泥仕合は革命の父としての孫文の威信をゆるがす以外に、いかなる結果も生まなかったのである。
袁世凱の帝政復活と日本
袁世凱の野望と不安
袁世凱には昼寝が終わるとお茶を飲む習慣があった。ある日ボーイの少年は、お茶を袁世凱がお気に入りのヒスイのコップに入れて部屋に運んだが、うっかりコップを落として割ってしまった。
幸い主人は眠ったままだった。少年は年上の召し使いのところへ行き、自分が叱られないで済むにはどうしたら良いかを相談した。袁世凱が目をさますと、陶器のコップが置かれているのに気づいた。彼は少年を呼び、
P230ヒスイのコップはどうしたと尋ねた。「割っただと?」袁世凱はムッとして問いつめた。「はい閣下。私は大変奇妙なものを見たのです」と少年は召し使いに教えられた通りに答えた。「何だそれは?」といぶかる袁世凱。「先ほど私がお茶をもってまいりますと、ベッドの上にいたのは閣下ではなく、五つの爪をもつ金色の龍だったのであります」。
「くだらん!」と袁世凱は叫んだ。だが彼の怒りはすでに止んでいた。袁世凱は引き出しを開け、一〇〇ドル紙幣をとりだして、少年の手に握らせた。そして「さっき見たことは、誰にもしゃべるなよ」と言い聞かせた。
これは袁世凱の権力基盤である北洋軍で、まことしやかに語られていた話である。いうまでもなく「五つの爪をもつ金色の龍」とは皇帝のことで、この物語は袁世凱が皇帝になりたがっていることを揶揄するものだった。
だが袁世凱即位の噂がたったのはこれが初めてではなかった。清朝の滅亡以来彼の側近や革命派、清朝の貴族からこの種の話はくり返し生まれた。袁世凱が二十一ヵ条要求を受諾したのは、日本から帝政支持を取りつけるためだったと孫文が非難したことは先ほど見た通りである。
袁世凱の帝制復活については、もともと彼がそうした野望を持っていたとか、独裁者となった驕りから思いついたと言われることが多い。だがそれらは孫文や国民党、あるいは中国共産党の「正しさ」を強調するために、袁世凱を「国を盗んだ大泥棒」に仕立て上げようとする政治主義的な見方に過ぎない。
むしろ歴史の真実は別のところにある。袁世凱が皇帝になろうと考えた本当の理由とは、みずからが理想とする強い中国を実現できない、
P231 焦りと独裁権力が脅かされることへの不安にあった。
袁世凱が皇帝となることを明確に意識し始めたのは、一九一四年の後半だったという。この年一二月に彼は北京の天壇(現在の天壇公園)で、天を祀る儀礼を行った。この儀礼は歴代皇帝だけに与えられた特権であり、彼がその後継者であることを象徴的に示すものだった。
もっとも袁世凱はあくまで中華民国の代表として儀礼に臨んだのであり、礼服の色も皇帝をあらわす黄色ではなく、紫色だった。
このころ北洋軍は、河南一帯で「富者を打って貧者を助ける」をスローガンにかかげ、革命派と結んで抵抗した白朗反乱軍の鎮圧に手間取るなど弱体化のきざしを見せていた。
また北洋軍内のナンバーツーに成長した段祺瑞は袁世凱の命令に服さず、人事をめぐって両者は衝突した。そこで袁世凱はみずから指揮する精鋭部隊の「模範団」を編成して、北洋軍のテコ入れに乗りだした。
また彼は陸軍部のほかに新たな総司令部を設け、段祺瑞の勢力を抑え込もうと図った。
P232だがこれらの措置も日本の侵略を抑えることはできず、袁世凱は日清戦争の敗北によって失脚に追い込まれた李鴻章の二の舞になることを恐れた。また制度の改編も北洋軍内に走った亀裂を埋めることはできず、一九一五年六月にもう一人の実力者である馮国璋は梁啓超を伴って上京し、袁世凱に帝制の意図について問いただした。
このとき袁世凱は皇帝となる意志を否定したが、部下やライバルの批判的な行動は彼を不安に陥れた。独裁に対する反発におびえ、洪秀全と対等な立場に立つことで権威を確立しようと図った太平天国東王の楊秀清と同じように、袁世凱はゆるぎなき最高権力者⁼皇帝となることでこれらの不安をうち消そうとしたのである。
グッドナウと牽制運動
P233 こうして皇帝への道を歩み始めた袁世凱に、強力な援護射撃を与えたのはアメリカの行政学者F・J・グッドナウだった。
烈火士官学校(tw)一九一三年に総統府の法律顧問として中国に招聘されたグッドナウは、民衆の政治意識が低い中国に共和制はなじまないと主張した。彼によると、中国における最高権力者の交代は必ず大きな政治的混乱を生み、国の独立が脅かされる危険がある。
35 16:44~警醒歌(参照)
36 27:47~沈聴白「大総統の顧問グッドナウが君主制の復活を訴えている。帝政復活の陳情団が続々と北京へ、順遠からも発った、革命党には脅威だ」
35 36
むしろ立憲君主制によって権力世襲のルールを定めれば、動乱を未然に防ぐことができる。そもそも専制君主の伝統が根強い中国では、徹底した外国の支配と指導がない限り近代化はおぼつかない。したがって中国には「帝制が共和制よりも適合的」だというのである。
グッドナウの帝制擁護論はある意味で根の深いアジア軽蔑に基づき、列強の植民地支配を正当化するものだった。だが孫文死後の国民党と共産党の争いや人民共和国内の激しい権力闘争の歴史を知る我々は、これを人種差別の暴論だと素直に笑えない部分がある。
また当時の中国では古き良き時代の象徴として皇帝の存在をなつかしむ声もあり、外国人とりわけ共和制の本場であるアメリカ人が唱えたこの説は、科学的な根拠があるかのように受け取られた。
もはや皇帝が復活しても人々は魅了されないというユニークな反対論を展開した梁啓超は、「私は自分の眼が青く、ヒゲが赤くないのが残念だ」と述べてグッドナウの影響力の大きさを認めている。
つづく一九一五年八月、袁世凱の意を受けた楊度らは帝制推進の母体として籌安会を組織し、
P234袁世凱を皇帝にするためのキャンペーンを開始した。楊度は革命派から立憲派に転じた人物で、籌安会のメンバーには元革命派のアナーキストで北京大学教授のとなる劉師培、中国に進化論を紹介した厳復など政権内の非主流派が多かった。
彼らの主張は共和制の国がみな成功しているわけではなく、いまの中国に必要なのは「英明な」啓蒙君主であり、袁世凱こそはその適役だというものだった。
九月に袁世凱の部下のなかで一番の財産家だった梁士詒は、国体の変更を求める全国請願連合会を組織し、参政院も国民会議を召集することを決めた。すると翌月に金でかり集められた請願者が北京に集まり、国民会議は満票で袁世凱を皇帝に推戴した。
一二月一二日に袁世凱は一度辞退した後につつしんで「天命」を受け、新王朝の国名を中華民国とは一字違いの「中華帝国」にすること、元号を洪いなる憲政を意味する「洪憲」にすることを発表した。
日本の動向と坂西利八郎
ところで袁世凱の帝制運動に大きな影響を与えたのは日本の動向だった。当時日本では外相の加藤高明が二十一ヵ条要求での稚拙な外交の責任をとって辞任し、九月に首相の大隈重信は日本の権益を損なわない限り、中国の帝制問題に介入しないとの声明を発表した。
袁世凱はこれを帝制支持のサインと受けとめ、彼が皇帝になって強い中国を演出することが日本の野心を抑える早道だと確信した。二十一ヵ条要求での屈辱は袁世凱にとって
P235 トラウマになっていたのである。
しかし孫文に日中の提携を約束した桂太郎の発言が日本政府の意思を代表していなかったように、この大隈重信の声明も政府の統一見解に基づくものではなかった。
一〇月に石井菊次郎が外相に就任すると、一転して日本は帝制が中国国内に混乱を招く恐れがあると主張し、連合国であるイギリス、ロシア、フランスを誘って帝制の実施を延期するように申し入れた。
ハシゴをはずされた格好となった袁世凱は、一一月に帝制実施の年内延期を回答した。また彼は中国が連合国の一員として参戦することで、英、露、仏三国の帝制支持を取りつけようと図った。
この中国参戦問題がイギリスから日本に提案されると、日本は中国が講和会議に出席すれば、二十一ヵ条要求で獲得した利権が脅かされると考えてこれを拒否した。そして一二月に袁世凱の即位が決まると、日本公使の日置益は各国公使ととともに再び抗議を行い、帝制反対の立場を明確にしたのである。
このころ袁世凱の腹心に坂西利八郎という日本人がいた。彼は和歌山の士族出身で、陸軍士官学校を卒業後中国へ派遣され、一九〇四年に直隷総督だった袁世凱の軍事顧問となった。
情報将校の坂西は弁髪をつけ、班志超という中国名を持っていた。また彼は中国語に堪能で、袁世凱と通訳なしで直接話すことができた。軍の近代化を図る袁世凱も坂西のアドバイスに厚い信頼をよせたという。
むろん坂西利八郎は日本の軍人であり、彼の活動はあくまで日本の国益を優先した上でのものだった。
P236これをよく示すのは二十一ヵ条要求の交渉で彼が主張した「支那併吞論」で、列強が自国の戦争に追われている今のうちに中国併合を実現せよと訴えた。坂西がこうした極論を唱えた背景には、陸軍と外務省の意見がかみ合わず、最終段階で第五号を撤回したことへの反発があったと言われる。
なお袁世凱の法律顧問として有名な陸軍大学校教授の有賀長雄も坂西が推薦したという。
帝制運動が始まったとき、坂西利八郎は袁世凱に即位を思いとどまるよう忠告した。彼はもともと日本が親米的な袁世凱を嫌っており、日本の世論が帝制の復活は容認しても、袁世凱が皇帝になることは認めないことをよく知っていた。
また長い北京滞在の経験から袁世凱の長男である袁克定に皇太子となるだけの資質はなく、楊度、梁士詒らも首相の座をうかがう二流の人物に過ぎないと見ていた。
坂西利八郎は「袁自身のためにも、子孫のためにもならず、袁氏の滅亡を早めるだけだ」と言って袁世凱やその側近を必死に説得したが、彼らは耳を貸さなかった。また袁世凱の没落が決定的になった一九一六年四月、坂西は袁世凱に一度下野させて、再起を図らせようとした。
それは坂西の精一杯の好意であり、主君の過ちを諫めることが忠臣の道と考える武士道の現れだったのかもしれない。だがこうした行動ゆえに坂西は日本人から帝制支持派とみなされ、「袁世凱のスパイ」というレッテルを貼られたのである。
第三革命と軍閥混戦の幕開け
第三革命と袁世凱の死
P237 さて袁世凱の周囲で皇帝即位に反対したのは、ひとり坂西利八郎だけではなかった。袁世凱の教師だった張騫、義兄弟でブレインだった国務卿の徐世昌はいずれも帝制復活に賛成せず、前者は政府を去り、後者は病気を理由に「引退」した。
また袁世凱と衝突した段祺瑞はサポタージュに訴え、馮国璋は上海に脱出した梁啓超と連絡をとりながら帝制反対をくりかえし声明した。
帝制反対派のなかでめざましい活躍をしたのは蔡鰐だった。彼は第二革命後に北京政府に入り、将来を嘱望されたホープであった。だが袁世凱の政治に失望した彼は、一九一五年一一月にひそかに北京を脱出し、かつて都督として多くの部下を育てた雲南に入った。
そして一二月に蔡鰐は彼と同じく日本の士官学校で学んだ雲南省将軍の唐継尭、第二革命時の江西省都督だった李烈鈞と雲南護国軍を組織し、袁世凱に反旗をひるがえした。第三革命の勃発である。
雲南の独立を宣言した彼らは袁世凱を「国賊」と呼んでその打倒をめざし、国会の召集や地方政府の権限拡大を訴えた。蔡鰐は三〇〇〇名の兵を率いて四川に入り、保路運動で活躍した哥老会の支援を受けながら二万を超える北洋軍と互角に戦った。
はじめ躊躇していた各地の将軍もこの結果に勇気づけられ、一九一六年三月に辺境の反乱軍あがり広西省将軍である
P238陸栄廷が独立を宣言すると、貴州、広東、浙江が前後して独立した。また馮国璋も張勲など数名の将軍と共に帝制の取り消しを要求した。
孤立した袁世凱は三月三日、ついに中華帝国の廃止を宣言した。一二月の即位宣言からわずか八三日の天下だった。彼は政権の延命を図ったが、事態はもはや袁世凱が大総統の職に留まることを許さなかった。
五月に独立した西南諸省の将軍たちは臨時政府である軍務院を組織し、袁世凱が廃止した臨時約法の規定にもとづいて副総裁の黎元洪を大総統にするように求めた。それはあたかも五年前に黎元洪が担ぎ出された武昌蜂起の再演のようだった。ふたたび南からの風が吹いたのである。
一九一六年六月六日に袁世凱は失意のなかで病死した。享年は五六。帝制廃止に追いこまれた時、彼は失神したように「おしまいだ!全部おしまいだ!昨晩李鴻章が亡くなる時と同じように巨星が落ちるのを見たが、今度はわしの番だ」と叫んだという。
それは社会の激動期に君臨したストロングマンの死であったが、彼の権力を支えた北洋軍の死までは意味しなかった。その遺産は激しい跡目争いと共に受けつがれることになる。
ところでこの第三革命で孫文はほとんど影響力を行使できなかった。一九一六年四月に孫文はのちに首相となる陸軍参謀本部次長の田中義一と接触して、軍部の支援をとりつけた。
そして中華革命党の東北司令官だった居正は日本軍の占領下にあった青島を拠点に蜂起したが、省都済南を占領することはできなかった。ちなみに蔡鰐らの護国軍も日本から支援を受けており、
P239 東北から袁世凱を挟撃するてはずになっていた。日本は袁世凱に未来はないと見かぎり、中国における日本の優先権を確保するうえでの障碍と考えて、その打倒に執念を燃やしたのである。
段祺瑞政権と西原借款
さて袁世凱の死後、副総統の黎元洪が大総統に就任した。彼は臨時約法を復活させ、議会を招集するなど、中国を袁世凱独裁以前の状態に戻そうとした。野心の少ない黎元洪はバランサーとしては敵役だったが、彼には軍事的能力が足りず、それをカバーするだけの才覚もなかった。
代わって権力を握ったのは北洋軍の力を背景に国務総理となった段祺瑞(安徽派)であり、これに対抗したのが副総裁の馮国璋(直隷派)だった。さらに西南には第三革命の立役者となった諸将軍ががおり、東北には袁世凱失脚の過程で新たに台頭してきた張作霖(奉天派)がいた。
このため北京政府内の権力抗争は段祺瑞を中心に、彼と対立する黎元洪、馮国璋あるいは各地の将軍たちという構図をとることになった。
さて袁世凱を破滅に追いこんだ日本の首相大隈重信は、一九一六年一〇月に元老との対立がきっかけで退陣を余儀なくされた。次に首相を拝命したのは朝鮮総督の寺内正毅だった。寺内内閣は日本国内では超然内閣として知られ、シベリア出兵や米騒動で有名だが、彼がとりくんだ重要課題の一つに中国政策の転換があった。
二十一ヵ条要求以来日中関係は悪化し、とくに大隈内閣がとった袁世凱排斥策は、
P240大陸浪人である川島浪速が一九一六年春に軍部とむすび、ふたたび東北三省と内モンゴル東部の独立を図った第二次満蒙独立運動を黙認するなどの行き過ぎがあった。寺内正毅はこうした大隈の中国政策を議会で批判し、「誠意」と「親善」を柱とする「王道主義」を中国政策の基本方針にかかげた。
また彼は経済的援助によって日本の中国権益を確保しようと図ったが、その担い手となったのが西原亀三である。
西原亀三は対ロシア強硬論を唱える対露同志会に加わり、朝鮮で実業家として成功すると朝鮮総督だった寺内正毅の信任をえた。また彼は朝鮮銀行総裁であった勝田主計と親しく、勝田が寺内内閣の蔵相になると、西原はその個人秘書となった。
そして「朝鮮組」とよばれた西原、勝田、寺内の三人が中国政策のパートナーとして選んだのが、国務総理の段祺瑞であった。
西原亀三は朝鮮での経験にもとづき、鉄道と銀行を支配することで日本貨幣の通用範囲を広げ、中国経済に対する日本の影響力を拡大するプランを立てた。そして彼は北洋軍内に多くの人脈を持つ坂西利八郎の協力を得て、一九一七年一月に段祺瑞との間に五○○万円の交通銀行借款を結んだ。
中国政策の方針として「不偏公平」をあげていた寺内正毅は、はじめ内政干渉につながる特定の政治勢力への肩入れには消極的だった。だが西原は北洋派を援助することで「帝国百年の計」を立てよと寺内を説得したのである。
この結果一九一七年七月に寺内正毅は、「段内閣に相当の友好的援助を与え、時局の平定を期す」という段祺瑞支援の方針を閣議で決定した。そして彼は一九一八年に米騒動に(tw)
P241 よって辞任するまでに、第一次世界大戦の好景気によって蓄積された一億四五○○万円の外資を、ほとんど担保も取らずに借款として段祺瑞につぎこんだ。これがいわゆる西原借款で、実際には段祺瑞に対する政治借款にほかならなかった。
またこれらの資金はほとんどが段祺瑞の軍備強化に用いられ、彼の没落後は回収できずに焦げついた。
「段援政策」とよばれる日本の段祺瑞に対する偏った援助は、中国の政局に大きな波紋を投げかけた。その焦点となったのは中国の参戦問題であった。一九一七年四月にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、アメリカは中国に対しも参戦を働きかけた。
すると西原亀三は段祺瑞に対する影響力を奪われないために、義和団賠償金支払いの延期や関税引き上げなどの条件を提示して熱心に参戦を勧めた。段祺瑞も連合国の支援によって自分の性権を強化できると考え、参戦を受けいれようとした。
だが大総統の黎元洪や議会、段祺瑞のライバルである他の将軍たちは、段祺瑞の権力強化につながる中国の参戦に反対した。当時上海にいた孫文も、段祺瑞の参戦は私利私欲のためだと非難した。
一九一七年三月に段祺瑞はドイツとの国交断絶を宣言し、議会に対して中国参戦を承認するように迫った。五月に黎元洪が段祺瑞を罷免すると、天津に逃れた段祺瑞は配下の督軍に独立を宣言させ、黎元洪を窮地に追いこんだ。
やむなく黎元洪は弁髪将軍の張勲を北京に呼んで事態を打開しようと図ったが、この決断がとんでもない結果を生みだした。清朝の復辟すなわちラストエンペラーの復活である。
清朝復辟事件と護法戦争
P242さて退位後の宣統帝溥儀は、民国政府の優待をうけて紫禁城に住んでいた。毎日彼は中南海に住む袁世凱が食事のたびに軍楽隊に演奏させる音楽を聞き、玉座をすべり落ちた皇帝の悲哀を味わったという。
袁世凱の帝政計画が起こったのは、溥儀が九歳のときだった。はじめ宮中では清朝への大政奉還が行われると期待をよせたが、袁世凱の意図が明らかになると、新皇帝に殺されるのではないかという恐怖が広がった。やがて第三革命で袁世凱が死ぬと、溥儀周辺の人々はみな「身のほど知らず」の死を喜んだ。
溥儀によると、彼を復位させようとする復辟の動きは、満洲国の成立まで「一日もやんだことがなかった」という。一九一七年六月のある朝のこと、側近たちは「今日のお勉強はお休みでございます」と言った。張勲が訪ねてきたのである。
張勲は「陛下が復位あそばされてこそ、万民は救われるのでございます」と述べて溥儀に復辟を促した。だが溥儀は張勲の粗雑な物言いに失望し、白髪のまじった弁髪を見つめていた。
北京に入城した張勲は議会を解散し、黎元洪に迫って大総統を辞職させた。また七月に共和制の廃止と清朝の復活を宣言し、紫禁城の中は「棺桶から逃げ出してきたような」清朝の遺臣たちであふれた。
我々には時代錯誤の狂気としか映らない張勲の清朝復辟だが、このころ朝廷では第三革命に加わった広西省将軍の陸栄廷も復辟派と見なしていた。また復辟を図る会議には袁世凱のブレインだった徐世昌が参加し、段祺瑞、馮国璋も部下を派遣してきたという。
さらに日本の一部勢力も清朝復活を支持しており、様々な勢力が清王室を政治的に利用しようとうかがっていた。
P243 だが彼らが清朝の復活に理解を示したのは、あくまで自分たちが政治的なイニシアチブを握った上でのことであった。
はたして段祺瑞は張勲の独断的な行動に反発し、ただちに民国復興の討伐軍を組織した。一二日後に張勲はあっけなく敗れ、オランダ公使館に逃げ込んだ。そして安徽派で固められた第二次段祺瑞内閣が誕生し、直隷派の馮国璋が代理大総統となったが、議会はもはや復活されなかった。
反対勢力がなくなった段祺瑞は八月に中国の参戦を決定し、日本の支援を受けながら武力による全国統一をめざした。
一方孫文は一九一七年七月に上海から広州へ向かい、ここで一三○名余の国会議員と臨時約法の精神を守り、議会の復活をめざす臨時政府作りに取りくんだ。段祺瑞の武力統一に危機感を強めた雲南の唐継尭、広西の陸栄廷らもこの動きに加わり、九月に広東軍政府が成立した。
孫文は彼らの武力を頼りに段祺瑞に対する護法戦争(護法とは臨時約法を守るとの意)を挑んだが、段祺瑞に比べると軍事的に弱体な将軍たちの足並みは揃わず、戦果はあがらなかった。
また南の革命政府、北の段祺瑞政府以外にも各地に大小の軍事勢力が割拠して、中国はいわゆる軍閥混戦の時代へ突入した。深まるばかりの「民の国」の混迷を、いったい誰が救えるのだろうか。
第六章 若者たちの季節---五・四運動(相互参照)とマルクス主義
『新青年』と北京大学天安門事件と五・四運動
P243
北京大学の改革と蔡元培
P245/ 247
国語制定と女性解放をめぐる議論
P249/ 251
魯迅と文学革命
魯迅の日本時代と役人生活
P253
文学革命と『狂人日記』
P255/ 257
『阿Q正伝』と中国社会
P259
パリ講和会議と五・四運動
二つの講和会議
P261/ 263
五・四運動の開始
P265/ 267
運動の拡大と条約調印拒否
P269
日本留学生の動きと吉野作造
P271
マルクス主義の受容と中国共産党の成立
中国におけるマルクス主義の受容
P273/ 275
コミンテルンと中国の共産主義運動(tw)
P277/ 279
中国共産党の結成と第一回全国代表大会
P281/ 283
P285
第七章 革命いまだ成らず---第一回国共合作と北伐
ワシントン体制と孫文の革命方策孫文の『大アジア主義』の講演
一九二四年一一月、神戸に中華民国の父である孫文の姿があった。このとき孫文は五八歳、国民会議の開催を目指して広州から北上する途中に日本へ立ち寄ったのである。すでに孫文の身体は膵臓ガンに冒されており、これが日本を第二の故郷と呼んだ彼にとって最後の訪日となった。
一一月二八日に神戸高等女学校の講壇に立った孫文は、つめかけた三〇〇〇人の聴衆に一時間半にわたり熱弁をふるった。いわゆる「大アジア主義」講演である。ここで孫文はヨーロッパの侵略によって衰退を続けたアジアが、日本による不平等条約の撤廃をきっかけに復興へと向かったこと、アジアの諸民族は日露戦争の勝利に勇気づけられ、独立運動を起こしたことを指摘した。
またヨーロッパの文化は科学と武力によって相手を屈服させる覇道の文化だが、アジアには仁義と道徳によって相手を感化させる王道の文化があり、それは覇道の文化よりも優れていると主張した。
P286 さらに孫文は今こそアジア諸国は王道の文化を基礎にして、抑圧された民族の解放をめざす大アジア主義に結集しなければならないと訴えた。そして日本はヨーロッパ文化を導入しながらも、アジアの文化を本質にもっていると述べたうえで、日本が「西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の牙城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている」と結んでいる。
この孫文の講演は人々に深い感銘を与え、拍手がしばし鳴りやまなかったという。その後覇道の文化に追従し、みずから破局へと突き進んだ日本の歴史を知る私たちにとっても、彼の訴えは長い歳月をこえて鋭い問いを投げかけている。
だがこの講演が今なお人々を引きつける最大の理由は、一度は時代に取り残されたかに見えた老革命家が、その死を前にして最後の輝きを放ち、歴史の歩むべき道を指し示そうとした迫力にあった。
国民党と共産党が手を結んだ第一次国共合作およびそれを基礎にして進められた国民革命こそは、孫文にとって長年来の悲願であった北伐---本書の観点に従えば南からの嵐---の実現に他ならなかった。
それでは国共合作はどのようにして成り、国民革命はどう進められたのか。以下では北伐が展開する一九ニ七年までの歴史を見ていくことにしたい。
ワシントン体制と軍閥混戦
一九ニ一年一一月から翌年二月にかけて、第一次世界大戦後の極東と太平洋地域における P287 国際秩序をの構築をめざしてワシントン会議が開かれた。日本にとってこの会議はまず五大国の軍縮会議であり、主力艦の保有率をアメリカ、イギリスが各五、日本が三、フランスとイタリアが各一・六七と取り決めた。また太平洋の島嶼に対する領土権かの相互尊重をうたった四ヵ国条約がアメリカ、イギリス、フランス、日本のあいだで成立すると、長く日本外交の基本となってきた日英同盟が破棄された。
北京政府はこのワシントン会議を、戦勝国でありながら相手にされなかったヴェルサイユ条約にかわり、不平等条約を破棄する足がかりをつかむチャンスと位置付けた。会議が開幕するとヤング・チャイナの中国代表である顧維鈞らは、関税自主権の回復を主張してまずは関税率の引き上げを求めた。またアメリカが長く主張してきた門戸開放の原則に反するとして、二十一ヵ条要求を破棄するように訴えた。
一九二二年二月に五大国とベルギー、オランダ、ポルトガル、中国によって結ばれた九ヵ国条約は、中国の主権と領土の保全を尊重し、商工業における各国の機会均等を順守すべきことをうたっていた。これによって第一次大戦中の一九一七年に日本とアメリカのあいだで結ばれた、日本の中国における特殊利益を認めた石井・ランシング協定は破棄された。だが当初中国側がめざしていた関税自主権回復の見込みは立たず、関税率の引き上げも日本の抵抗にあった。また山東問題については多国間交渉に持ちこもうとする中国側の意向が通らず、日中二国間の協議に委ねられることになった。
この日中交渉の結果、膠州湾の旧ドイツ租借地は中国へ返還され、すべての外国人に開放されることになった。
P288 また山東鉄道は一五年借款によって中国が買収すること、鉱山については日中合弁にすることで決着した。さらに二十一ヵ条問題で焦点となったのは、第二号で決められた旅順、大連に関する「租借期限の九九年間延長」を認めるかどうかだった。
中国ではロシアとの間に結んだ本来の租借期限である一九二三年二月に向けて旅大回収運動が展開され、北京政府も条約撤廃のための交渉を求めたが、日本政府がこれを拒否したため回収は実現しなかった。
さてワシントン会議後の中国で特徴的な一つの現象は、日本の段援政策に見られた特定の政治勢力へのバックアップが列強各国によって行われ、いわゆる軍閥混戦を引きおこしたことだった。
五・四運動によって求心力の衰えた安徽派の段祺瑞に代わり、台頭したのはイギリス、アメリカをバックに持つ直隷派の曹錕と呉佩孚だった。一九ニ〇年七月に彼らは日本の支援を受けた奉天派の張作霖と結んで安直戦争を起こし、安徽派を北京政府から追放した。だが今度は直隷派と奉天派がヘゲモニー争いを展開し、一九二二年四月に第一次奉直戦争が勃発した。この時は敗北した張作霖が東北三省に退き、北京政府は直隷派によって握られることになった。
当時は中国各地で内戦が勃発したが、これらの軍事勢力は社会から軍費を徴収することで利潤の獲得をめざす一種の企業であり、武力増強によってライバルに対して優位にたつ努力は重ねたが、決戦によって自らの資産を消耗することは望まなかった。また将校は多くが士官学校を卒業した新しいタイプのエリートであり、兵士はみな故郷に養うべき両親
P289 をかかえ、毎月家へ仕送りをしている貧農出身の傭兵だった。
たとえばある青年は農業と駕籠かきをやっていたが、「食べるものがあり、着る服があり、使う金がもてる」からと軍隊に入った。彼の考えでは兵隊はそれほど危険な職業ではなく、ちょっと突撃すれば三ヵ月分の給料が出る。戦場ではお互い傷つかぬように空にむかって銃を撃ったり、武器を捨てて逃亡することも少なくない。逃亡した兵は多くの場合匪賊となるか、別の軍隊に投じてふたたび兵士になるという。
こうした私兵集団は国家防衛を任務とする近代的軍隊から見ればルーズであり、日本人の「中国軍は弱体だから、一撃を加えればすぐに敗走する」という偏見を増長させることになった。
また中国共産党はこれらの軍事勢力を「土皇帝」として地域に君臨し、帝国主義の代理戦争を行う半封建、反植民地的な軍閥と非難した。だがそれまで「まともな人間は兵隊にならない」と考えられてきた中国社会にあって、軍人という職業はようやく市民権を得たのである。
それは社会全体に軍事優先の風潮を刻みこみながら、国民政府ひいては中華人民共和国へとうけつがれることになる。
陳炯明の聯省自治とマーリング
ところで五・四運動が勃発した一九一九年、孫文は上海で亡命生活を送っていた。以前の通説ではこのとき団結する民衆のエネルギーにショックを受けた孫文は、中華革命党などの秘密結社を中心とする革命プログラムと決別し、人民に基礎を置く革命政党の樹立を図ったとされてきた。
P290 だがそれは中国共産党こそが孫文の正統なる後継者だと主張する意図がこめられた解釈であり、実際のところ孫文はすぐに五・四運動に関心をもったわけではなかった。むしろ当時の彼にとって切実だったのは、広西派の陸栄廷らに奪われた広東軍政府のリーダーシップを取り戻すことであった。
一九二〇年一〇月に福建南部に拠点を構えていた陳炯明(広東海豊県人)は、「広東人が広東を治める」をスローガンに広州へ進撃し、陸栄廷らを追放し孫文を迎え入れた。この陳炯明は「社会主義将軍」のあだ名を持つ異色の開明派軍人で、一九二二年一月に香港で発生した反イギリスの海員ストライキを全面的に支援した。
また広東省長となった陳炯明は中国共産党を成立させた陳独秀を招聘すると共に、まず広東で地方自治制度を確立し、やがてこれを全国に広げて連邦制国家の樹立をめざす聯省自治運動を展開した。
しかし孫文はこうした地方自治の動きに理解を示そうとはしなかった。彼にとって重要なのはあくまで北伐による全国制覇であり、中央集権的な統一国家の実現だったのである。一九二一年一二月に陳炯明は自治の要となる広東省憲法草案を発表したが、孫文はこれを無視して広東軍政府に北伐の実施を強要した。すると怒った陳炯明は一九二二年六月に総督府を攻撃して反旗をひるがえし、広東を追放された孫文は再び上海へ逃れた。このとき孫文の若い妻である宋慶齢は流産してしまったという。
この陳炯明の造反劇は孫文の命をうけた各地の軍人による広州攻撃によって半年ほどで終わり、一九二三年三月には孫文も広東軍政府の陸海軍大元帥に返り咲いた。だがかつて
PP291 「失敗の英雄」と皮肉られた孫文にとっても、同郷人で長く革命の同志だった陳炯明の離反は精神的にずいぶんこたえた。またワシントン会議で広東政府が中国の正式な政府として認められず、代表を送れなかったことも老革命家・孫文の孤立感を強めた。
こうして時代から忘れられつつあった孫文に救いの手を差しのべたのは、カラハン宣言で中国人を驚喜させたソ連であり、コミンテルンの代表マーリングだった。彼と孫文の歴史的会議が行われたのは、中国共産党の第一回全国代表会議に参加したマーリングが南方視察にでかけた一九二一年一二月、桂林のことである。
それまで孫文はマルクス主義に対しては懐疑的だった。孫文の民主主義においては資本家と労働者の対立は未然に調整すべきものとされ、階級闘争(あるいは大衆運動)が歴史を動かす原動力だという考えに彼は同意しなかったのである。
だがマーリングからレーニンが実行した漸進的な新経済政策(ネップ)について聞かされた孫文は、自分の実業計画と共通する部分が多いことを知って「非常に興奮」した。またマーリングがワシントン体制は中国とソ連に圧力を加えるものであり、両国は協力しなければならないと説得すると、孫文は大きく心を動かされたという。
第一次国共合作と蒋介石
第一次国共合作の成立
さてマーリングが孫文にソ連との提携を勧めたのは、植民地の民族運動を支援するというコミンテルンの方針に基づいていた。陳炯明による香港の海員ストライキ支援を目撃して感動した彼は、孫文が新たに結成した中国国民党(辛亥革命直後の国民党とは区別される)を民族ブルジョワジーの代表として大きな期待をよせたのである。だが一九二二年四月にマーリングが国共合作を提起すると、陳独秀を初めとする共産党幹部はこれに激しく反発した。
もともと陳独秀らは同じ進歩的知識人として国民党の人々と交友関係を持っており、孫文のともすれば専制的な態度や、列強に対して妥協的な側面をよく知っていた。またこのとき共産党は労働運動への働きかけを始めており、北伐による武力統一をめざす国民党と連携する余地はないと考えた。
さらに彼らは双方が対等な立場でなく、共産党員が国民党に加入する形で行われる国共合作は、共産党の存在意義を失わせるのではないかと恐れた。だがコミンテルンの承認を得て中国に戻ったマーリングは、八月に杭州の西湖で共産党中央の会議を開いて反対意見を封じ込めた。陳独秀らも共産主義運動の総本山であるコミンテルンの決定には従わざるを得なかった。
一九二二年八月に上海に到着した孫文は、マーリングおよび李大釗、陳独秀らと会見した。このとき陳炯明の造反に大きなダメージを受けていた孫文は、軍事援助を約束するソ連政府の申し出を起死回生のチャンスとして受入れた。
また李大釗は率先して個人の身分で国民党に入党し、陳独秀も国民党の党内改革を援助した。そして一九二三年年一月に
P293 孫文はソ連政府代表のヨッフェとのあいだに孫・ヨッフェ共同宣言を発表し、ソ連の援助によって中国の統一と独立を達成する方針を明確に打ち出したのである。
こうして共産党とソ連政府、コミンテルンの側では国共合作に向けての準備が進められ、一九二三年一〇月には国民党の顧問としてボロジンが広東に派遣された。だが国民党にとってソ連との提携は孫文が独断で決めたものであり、党内には強い拒否反応があった。
とくに問題となったのはボロジンの要求した「耕地は農民が所有する」という宣言で、土地の再配分をふくんだ急進的な政策は国民党の支持基盤を掘り崩すものだと危険視する声があいついだ。結局孫文はボロジンと協議のうえ、農民協会の成立と小作料のニ五パーセント引き下げを認めて国共合作を推進した。だが孫文の息子で若手グループのリーダーだった孫科は、共産党の活動取り締まりを求めた。孫文の強引な手法は国民党内部に深い亀裂を生み、彼の死と共に矛盾が噴きだすことになる。
一九二四年一月、広州で中国国民党第一回全国大会が開かれた。この会議で国民党は帝国主義と軍閥の支配に反対し、下層民衆の生活改善をめざす新しい三民主義をその理念に掲げた。
また活動目標を臨時約法や旧国会の復活から国民政府の樹立へ改め、「連ソ、容共」方針のもとに国民革命を遂行することがうたわれた。この会議の成果としてまず重要なのは国民党の改組であり、新設の中央執行委員会には李大釗ら三名の共産党員が選ばれた。
このとき共産党員が党籍を残したまま国民党に加入することに反対する動議が出されたが、孫文の死後まもなく暗殺される国民党幹部の廖仲愷は国共合作の必要性を懸命に訴えて説得したという。
P294 ところで国民党の改組は国共合作をスタートさせ、国民党を近代的な政党へ脱皮させたが、ロシア革命で鍛え上げられたボリシェヴィズムの組織論を受容したという点でも後の中国史に大きな影響を与えた。
その最大の特徴は政治と軍事の一体化であり、強い革命的信念をもつ人々が厳格な中央集権的組織を作り上げ、明確なプログラムのもとで権力奪取を図ることが可能となった。そして広東の地方政権に過ぎなかった国民党が全国政権へと発展したばかりか、誕生まもない共産党も急速に勢力を伸ばしたのである。
このようにボリシェヴィズムの受容は辛亥革命以来の混沌とした状況を切り開く役割を果たしたが、また二つの若い政党に大きな問題点を持ち込んだ。それは権力維持の手段として採用された、一党独裁の政治体制であり、中央集権的な組織がもたらす官僚主義的性格と革命的信念ゆえの排他性であった。
いま後の歴史を先取りして言えば、これらの弊害は日本の侵略や米ソの対立という要因によって強化され、国民党と共産党の双方に抑圧的な体質を深く刻みこむことになる。いわば両党はボリシェヴィズムの生んだ双生児だったのであり、彼らが二度の国共合作にもかかわらず、権力奪取をめぐって血みどろの内戦を展開したのは歴史の宿命だったと言えよう。
P295
黄埔軍官学校と蒋介石
さて中国国民党にとってボリシェヴィズムの受容が生んだもう一つの成果が、ソ連赤軍を模範とする党直属の軍隊であった。国民革命の実現という思想教育をほどこされた下士官によって統率されたこの軍隊は、高い戦闘意欲と党への忠誠心を併せ持つという点で、それまでの軍事勢力とはまったく異なる存在でった。
そしてこの下士官の教育機関として設けられたのが黄埔軍官学校であり、その校長として大きな役割李を果たした人物が「中国のナポレオン」を自任した蒋介石である。
(蒋介石肖像写真)P296 蒋介石は浙江奉化県出身で、毛沢東よりも六歳年上であった。彼もまた救国の情熱に燃えた青年活動家だったが、その特徴は軍事のスペシャリストとしての道を歩んだことにあった。
一九〇七年に日本へ留学した蒋介石は、陸軍士官学校の予備校として清朝が東京に設立した振武学堂を卒業し、一年間にわたり新潟県にある日本陸軍の砲兵連隊で士官候補生をつとめた。
日本で中国同盟会に加入した蒋介石は、辛亥革命が勃発するとただちに帰国し、上海などで軍事作戦に参加した。また孫文が中華革命党を結成すると、彼はそのメンバーとなって広東軍政府の樹立に貢献した。
これまで蒋介石については、一九一〇年代に彼が上海の証券取引所で株の売買に関わったことから、腐敗した政治家と非難する向きもあった。むろんそれは彼を反共主義者として断罪すための政治主義的な見方である。
だが蒋介石は上海の秘密結社である青幇のリーダーだった杜月笙らと交遊関係を結ぶなど、清濁あわせ吞むタイプの人物だったことは間違いない。
辛亥革命後の政局が混迷する中、蒋介石は二度にわたり欧米への留学を希望したが、彼の能力を評価していた孫文は「革命陣営にとっての損失となる」との理由でこれを許さなかった。その後陳炯明軍との戦闘で苦戦を強いられた蒋介石は、強力な軍隊を作るための軍事研究をすることの必要性を痛感した。
そして一九二三年に孫文がソ連顧問団を派遣すると、蒋介石はみずから志願してその代表となったのである。
P297 このとき蒋介石はスターリン派の人々や中国共産党の派遣した留学生のあいだで、孫文に対する評価が低い事実をっ知ってショックを受けた。彼自身もコミンテルンの委員会で行った三民主義に関する講演を嘲笑され、共産党に対する不信感を抱いたという。
だがソ連赤軍を視察した蒋介石は、その強さの秘密が軍事的な指揮に専念する部隊長と政治思想教育を担当する党代表の明確な職権区分になると見ぬいた。そして一九ニ四年に候補軍官学校の校長となった蒋介石は軍事教育に責任を持ち、国共合作に最も熱心だった国民党代表の廖仲愷と協力しながら将校の育成に努めたのである。
こうして黄埔軍官学校は国民党の軍事優先路線と共産党の民衆運動路線を両立させながら、国共合作の実験場として重要な役割を果たした。その政治部主任となった周恩来を初めとして、多くの共産党員が政治教育で実力を発揮した。
また学校の基本構想はソ連方式であるが、日常生活の規律や様式の点では多くを日本陸軍から学んでおり、蒋介石らによる日本留学の経験が活かされている。蒋介石は革命への献身と統制の取れた組織力こそが革命成功の必須条件だと訴える一方で、敵前逃亡を図った将兵は銃殺とする革命連座法を制定するなど厳格な規律を作り上げた。
ところで黄埔軍官学校の校長に就任したことは、蒋介石にとってかけがいのない政治的財産となった。科挙時代の中国では自分合格した試験の監督官を生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があり、卒業した若手将校たちにとって蒋介石は特別な存在となったのである。
また蒋介石も儒学者でありながら湘軍の首領となった曽国藩を尊敬するなど、中国の伝統文化に対して肯定的な考え方を持っていた。彼はしばしば学生への講話の中で軍隊を一つの大家庭に例え、みずからその家長として振る舞ったという。
また興味深いのは蒋介石が二〇人近い同士や部下と義兄弟の契りをかわし、パーソナルな人間関係を築きながら台頭した事実である。たとえば陸栄廷の敗北後に新しく広西派として台頭した李宗仁は、ある日のこと蒋介石から義兄弟になろうと誘われた。上官から「封建的な代物」を持ち出されて当惑する李宗仁に、蒋介石は「遠慮しなくていい。われわれの革命は旧中国の伝統と決して衝突しないんだ」と言ったという。
中国の義兄弟といえば劉備玄徳と関羽、張飛の三人による桃園結義が思い浮かぶが、秘密結社の首領とも交際があった蒋介石は中国社会でこうした伝統的慣行がもつ重みをよく知っていた。つまり彼はソ連赤軍の構成原理に伝統的な「情」の要素を加えることで、ともすれば硬直しかちな組織に柔軟さを吹き込んだのであり、それはボリシェヴィズムという一つの異文化に対する中国的な受容の過程に他ならなかったのである。
これら中国的伝統にのっとった蒋介石の政治資本として、もう一つ指摘しなければならないのが宋家の三姉妹の三女、宋美齢との結婚であろう。一九ニ七年九月に北伐の途上にあった蒋介石は一ヵ月余りにわたって日本を訪問し、神戸に滞在していた彼女の母親に結婚を申し出た。当時蒋介石は三九歳、宋美齢は彼よりも一四歳も年下だったが、長女の宋靄齢が二人の結婚を勧めたと言われている。
P299
(宋家の三姉妹、写真)この二人の結婚を周囲の反対を押し切って結ばれた孫文・宋慶齢夫妻と比べると、華やかなラブロマンスは見当たらない。だがこの結婚がもたらした政治的効果は絶大だった。蒋介石は孫文の義理の弟となったのである。この事実は彼が中華民国指導者としての正統性を獲得するうえで、何よりも重要な役割を果たしたと言えよう。
孫文の北上とその死
ここで北京の政局に目をむけると、一九ニ四年九月に第二次奉直戦争が勃発した。日本の援助を受けて実力を蓄えた奉天派の張作霖は、安徽派や孫文の広東政府と三角同盟を結んで直隷派に再挑戦したのである。奉直両軍は東北三省と華北の境界にあたる山海関で衝突し、はじめ直隷軍が優勢だったが、一〇月には直隷派の 武将でクリスチャン・ゼネラルと呼ばれた馮玉祥の寝返りによって戦局は一変した。直隷派の曹錕は北京で監禁され、呉佩孚は敗走した。
ところでこの馮玉祥の寝返りには日本の軍部が関与していた。当時の日本政府は協調外交で知られる外相の幣原喜重郎が内政不干渉を唱えていた。だが張作霖の軍事顧問だった日本軍人はひそかに彼を説得し、馮玉祥に大金を贈って買収させたという。
あるいはかつて袁世凱の顧問だった坂西利八郎が曹錕によるアメリカへの支援要請を知り、奉天の特務機関長となる土肥原賢二、日本の陸軍士官学校に留学した元中国同盟会会員の黄郛を通じて馮玉祥に決起するように働きかけたともいわれている。
またこの戦争は紫禁城に住んでいた宣統帝溥儀に災難をもたらした。馮玉祥軍が北京に進駐すると、清皇室の優待条件は廃止されることになった。武装した将兵が宮城接収のために派遣され、皇室の人々に対して三時間以内に退去せよと迫った。
このとき溥儀は満一八歳、紫禁城での生活に不満を感じていた彼は、司令官の「溥儀さん、あなたは平民になりたいですか」という無遠慮な問いかけに、「私は皇帝をやめて自由になりたい」と答えた。
P301 まわりにいた兵士たちはいっせいに拍手したという。
だが突然の命令で紫禁城を追い出された溥儀が、安全な落ちつき先を探すのは容易ではなかった。はじめ彼は父親である載灃の屋敷に身をよせたが、まもなく清末の神戸総領事で、のちに満洲国の国務総理大臣になとなる鄭孝胥の仲介によって北京の日本公使館へ移った。一九二五年二月に溥儀は天津の日本租界へ入り、七年にわたる滞在期間中に日本との関係を深めていくことになる。なお溥儀を天津に出迎えたのは、日本の天津総領事で戦後首相となる吉田茂であった。
さて直隷派との戦争に勝利した張作霖と馮玉祥は、段祺瑞を空白となった北京政府の執政に充てた。また馮玉祥は張作霖らの動きを牽制するべく孫文に北上を促し、孫文も一九ニ四年一一月に北上宣言を出して広州を出発した。この北上宣言は国民革命の目的が独立自由の国家を建設することにあり、単に直隷派だけでなく、軍閥およびその背後にある帝国主義を打倒することにあると明言していた。また国民諸階層の各団体から選出された代表によって国民会議を開催し、不平等条約の撤廃をめざすと主張した。
だが孫文の北上は上海でイギリスの妨害を受け、日本経由を余儀なくされた。その途中神戸で「大アジア主義」講演を行い、聴衆を感動させたのは先に述べた通りである(前述)。彼が天津に到着したのは一二月四日で、当初はただちに北京に向かう予定だったが、膵臓ガンの影響で胃痛を訴えたために一二月末まで延期された。北京に到着した孫文は協和病院へ入院して手術を受けたが、病状はもはや手遅れだった。
宋家の三姉妹 01:00:57~孫文死へ一九ニ五年三月一二日午前九時三○分、孫文は北京で宋慶齢に見守られながら静かに息をひきとった。彼の悲願だった中国の武力統一は果たされず、北上にあたって開催を訴えた国民会議も実現できないままの死であった。それは
「国民革命に尽力すること四〇年、現在革命なおいまだ成らず。わが同志はその貫徹を求めてひきつづき努力せよ」という遺言が示すように、革命家としては挫折の生涯であった。また本書がくりかえし指摘したように、孫文もプライドの高さゆえの専制的な態度など多くの欠点を抱えた生身の人間であり、決して聖人君子ではなかったと言えるだろう。
だが孫文死去のニュースを接した魯迅は、その死を喜ぶ保守派の政治家たちを強烈に皮肉った追悼文を記している。
「戦士(孫文をさす)が戦死した時に、ハエどもがまず発見したのは彼の欠点と傷であった。くらいつき、ブンブンとうなりながら得意になり、死んだ戦士よりももっと英雄のつもりでいる。だが欠点だらけの戦士でも畢竟は戦士であり、ハエはどんなに完全であろうとしょせんはハエに過ぎない」と。
よしんばどんな欠点をかかえ、結果がどれほど不完全であろうとも、孫文は間違いなく中国の歴史を前へつき動かした。孫文がめざした革命の構想は一敗地にまみれたが、彼を抜きにした中国近代史が成り立たないのも事実だからだ。
しかも孫文は死を前にして敵地北京に入り、その病状が報道されることによって、それまで華北の人々になじみのなかった国民革命の理想を広く宣伝する役割を果たした。つまり孫文は死して中国を変える「南からの風」となったのであり、その後継者たちは彼が最後の力をふりしぼって展開した
P303 「たった一人の北伐」をバネに、彼の遺志を実現することになったのである。
『花なきバラ』と北伐開始
魯迅と三・一八事件
このころ魯迅は人生の大きな転機を迎えていた。『阿Q正伝』発表後の一九二三年に、魯迅はそれまで同居していた弟の周作人一家と決別し、翌年に北京市内の西三条胡同(現在の北京魯迅博物館)へ引っ越した。二人の関係が悪化した原因の一つは、大家族の長として皆の生計を支えてきた魯迅と、周作人の日本人妻である羽太信子の対立にあった。信子は日本人としての生活を捨て切れず、それが多大な出費となって給料の遅配に苦しむ一家の生計を圧迫してしまったという。
一九ニ五年三月に北京女子師範大学で非常勤講師を務めていた魯迅は、一人の女学生から手紙を受けとった。差出人は許広平といい、魯迅のクラスに熱心に参加している学生のリーダーだった。当時の女師大では保守的な校長が学生運動を抑圧し、孫文は妻を仲間と共有する「共産公妻(当時左傾化した国民党に加えられていた中傷の一つ)」を実行する男だから、彼の葬式に参加してはならないと命令するありさまだった。学生たちは校長の更迭運動を起こしたが、当局側の反撃によって窮地に立っていた許公平は、教師である魯迅に苦悩する胸のうちを訴えたのである。
この手紙に対して魯迅は長い励ましの返事を書き、二人の文通が始まった。その後許公平はが退学処分となり、八月に北京政府が女師大の廃校を決定すると、魯迅は学生を支持する声明を発表し、校務維持会を設立してキャンパスを追い出された学生と女師大の業務を継続した。政府は魯迅を教育部から解任したが、彼は圧力に屈しなかった。魯迅の家には学生たちが頻繁に訪ねるようになり、警察に追われた彼らを匿うこともあったという。
(魯迅と許公平、写真)P305 この五月には上海にある日本の紡績工場で、争議中の中国人労働者が射殺された。この事件をきっかけに大規模な反帝国主義のストライキである五・三〇運動が発生するなど、国内外の保守派に対する反対の声が高まりつつあった。
女師大事件での魯迅の徹底抗戦ぶりは、許広平ら才気あふれる教え子への共感だけでなく、こうした中国の政治情勢が深く関わっていたのである。結局政府側が敗北して女師大は復活し、魯迅も復職した。だが翌年には学生たちに新たな悲劇が待ちかまえていた。三・一八事件である。
このころ北京では奉天派の張作霖が段祺瑞、馮玉祥と連合政権を形成していたが、一九二五年一一月に奉天派の武将である郭松齢が反乱を起こした。また馮玉祥はみずから国民軍と名のって革命派との連携を図り、一九ニ六年三月には張作霖軍をうち破った。だが張作霖を通じて東北三省での権益を守ろうとする日本は、郭松齢の作戦活動を妨害して彼を敗死へと追いこんだ。
また大沾沖に二隻の軍艦を派遣して国民軍に砲撃を加え、イギリス、アメリカなど八ヵ国と共に天津一帯における軍事行動の停止と四八時間以内の兵力撤退などを求めるなど、露骨な内政干渉を行った。
これに憤った北京の学生、市民は三月一八日に天安門前広場で抗議集会を開き、北京政府に決然とした態度を求める請願を行うことに決めた。その日の朝、許広平は魯迅から頼まれていた原稿の清書を届け、集会に出かけるところを呼びとめられた。「どうしてそんなに急ぐんだね。ぼくにまだ写してもらいたいものがあるんだ」。仕事に集中して取りくむ魯迅の気性をよく知っていた許広平は、抗議集会への参加をとりやめて魯迅の家で清書の仕事を続けた。魯迅も奥の書斎で作品『花なきバラの二』を書いていた。
P306 すると一〇時半ごろ、とつぜん慌ただしく人がかけこんできた。請願のデモ隊が国務院前で軍隊の発砲を受け、多くの死傷者が出たというのである。驚いた許広平が急ぎ大学へ戻ると、同じ魯迅の教え子でリーダーだった劉和珍らが無惨な遺体となって戻ってきた。聞けば軍隊は太刀や棍棒で負傷した学生たちに襲いかかり、当局の発表でも死者は四七名、負傷者は百五十余名にのぼった。デモ隊を率いていたのは李大釗で、彼自身も頭に傷を受けながら参加者の後退を指揮したという。
この知らせを聞いた魯迅は、『花なきバラの二』の内容を途中から改めてこう書いた。「今、聞けば北京市内で、すでに大殺戮が行われたという。私がこんなつまらぬ文章を書いているまさにその時に、多くの青年が身体に銃弾を浴び、刃を受けていたのだ。ああ、人と人との魂は、通い合わぬものだ」と。
このとき魯迅が怒りを向けたのは、請願に行った学生たちに「暴徒」のレッテルを貼り、虐殺を正当化しようとした北京政府であった。また彼は政府に迎合して「事件の責任はデモ指導者にある」と李大釗や学生リーダーを非難した保守派の知識人も許せなかった。彼は「墨で書かれたデタラメは、けっして血で書かれた事実を隠しおおせない。血債は必ず同じもので支払われねばならない」と憤激をこめて書いている。
だが緊迫する情勢は魯迅が部外者でいることを許さなかった。事件が革命運動へ発展することを恐れた北京政府は、李大釗ら五人の指導者の逮捕令状を出し、魯迅ら五〇名の進
P307 歩的知識人もブラックリストに名前が載せられた。危険を感じた魯迅は日本人医師が経営する病院に避難し、四月に張作霖が北京へ入城すると、さらにドイツ、フランス系の病院に潜伏した。五月に魯迅は一度家に戻ったが、もはや北京は安心して住める場所ではなかった。彼は家族を北京に残したまま許広平らと南へと向かったのである。
蒋介石の台頭と中山艦事件
さて一九ニ五年七月に広州で国民政府を成立させた中国国民党では、カリスマ的な指導者だった孫文の後継者をめぐって争いが発生していた。実力者の一人だった廖仲愷は八月に広東の軍事勢力を抑えようとして暗殺され、孫文の側近だった胡漢民は廖仲愷暗殺の嫌疑を受けてソ連に送られた。国民政府の主席には汪兆銘が選ばれたが、彼には有力なバックボーンがなかった。そこで台頭したのが一〇月に陳炯明との戦闘に勝利し、広東における支配権の確立貢献した蒋介石である。
以前の通説では蒋介石は初めから中国共産党に反対したとされ、中華人民共和国の研究は彼を「新しい右派」と評してきた。蒋介石本人も共産党との内戦に敗れ、台湾へ移った後に出版した著作で、早くから「反共抗ソ」の立場を取っていたと主張している。だがそれらは後の時代が自分たちの必要に応じて生みだしたフィクションであり、歴史の真実は別のところにある。実際の蒋介石は自身の権力拡大を図りながらも北伐実行を最重要課題にかかげ、それに必要な限りで国共合作を維持しようと図った人物だった。
P308 当時の国民党にとって、三民主義の観点からマルクス主義をどう位置づけるかは、国共合作のイニシアティブをにぎるための重要問題であった。孫文は「民生主義は共産主義を包括する」と述べたが、その曖昧さは彼の死後に論争をまきおこした。最初にこの問題を取り上げたのは理論家の載季陶で、階級闘争を否定する孫文の考えに基づいて国民党の原則を確認しようとした。だがこれに勢いづいた反共産党の人々は、一九ニ五年一一月に孫文の遺体が安置されている北京西山の碧雲寺に集まり、共産党員の国民党籍取り消しやボロジンの解雇など一〇項目の決議を行った。この反共産党グループを西山会議派と呼ぶ。
こうして表面化した国民党と共産党の対立は、国共合作の実験場であった黄埔軍官学校に持ち込まれた。一九ニ五年二月に共産党系の軍人が青年軍人連合を結成すると、国民党系の軍人はこれに対抗して四月に孫文主義学会を創設し、一二月には西山会議を支持するデモを行おうと試みた。また廖仲愷の死によって蒋介石とソ連の軍事顧問団を結びつけるパイプが失われると、顧問団団長のキサンカは蒋介石が提案した北伐の即時実施を時期尚早として反対した。さらに廖仲愷の死後に党代表となった汪兆銘はソ連寄りの姿勢を見せ、孤立した蒋介石は軍内のリーダーシップを脅かされたと受けとめた。
一九ニ六年三月二〇日、国民革命軍の主力艦である中山艦が蒋介石の許可なく黄埔へ到着し、さらに広州への回航を求めた。この不審な行動に危機感を強めた蒋介石は広州に戒厳令を敷き、中山艦を拘束して共産党員五十数名を逮捕した。また蒋介石はソ連軍事顧問団の住居を包囲すると共に、広州と香港で共産党が指導していたストライキ勢力の武装解除
P309 を行った。いわゆる中山艦事件の発生である。
この事件は初め中山艦の動きを共産党の反乱だと思いこんだ蒋介石の突発的な行動として処理された。だが国共合作の崩壊後は共産党が蒋介石をソ連へ拉致しようと企んでいたとか、共産党の抑圧を図った蒋介石の計画的犯行だとする説が唱えられた。結局この事件は今なお中国近代史上の大きな謎であるが、真相のいかんにかかわらず、それが生みだした結果として確実なことが二つある。その一つは国民政府主席の汪兆銘に代わって蒋介石が浮上したことであり、もう一つは蒋介石による派閥形成と並行する形で国共合作の継続を妨げる勢力が排除されたことである。
まず第一の点を見ると、蒋介石が汪兆銘の許可を待たずに軍隊を出動させたのは、彼の権威を否定する行動であった。汪兆銘は激怒したが、蒋介石は汪兆銘とキサンカが彼を攻撃しようとしたというデマを流し、かえって汪兆銘を休養へと追いこんだ。ソ連も蒋介石との衝突を避けるために汪兆銘を見限り、病気となった彼はフランスへ出国した。汪兆銘の追い落としに成功した蒋介石は同じ浙江出身で、気心の知れた張静江を中央委員会主席にすえ、国民党における第一人者の地位を手中に収めた。
つぎに第二の点であるが、蒋介石は国民党、共産党の区別なく国共合作を脅かす諸勢力に弾圧策をもってのぞんだ。まずターゲットとなったのは孫科を中心とする国民党広州市党部の反共産党グループであり、その中心人物である呉鉄城は監禁処分を受けた。また五月に会員間の乱闘事件が発生した青年軍人連合会と孫文主義学会は、解放のうえで蒋介石を会長とする黄埔同学会に接収された。
P310 いっぽう一九二六年五月に蒋介石は国民党の会議で、共産党は国民党内にいるすべての党員名簿を国民党に提出すること、二重党籍を持つ者は幹部職にしないことをうたった「国共境協定事項」を提出した。はじめボロジンは反対したが、蒋介石と妥協せざるを得なかった。その結果宣伝部長代理の職にあった毛沢東が辞任を申請するなど、多くの共産党員が要職を離れた。このとき蒋介石は指揮権を統一するための措置だと説明したが、彼らに代わって登用されたのは組織部秘書の陳果夫(蒋介石が若いころ師事した陳其美の甥)など、多くが蒋介石派を形成する人々であった。
こうして党内に権力基盤を確立した蒋介石は、西北の馮玉祥や広西の李宗仁、本人はじめ部下の多くが仏教徒という湖南の唐生智と連絡を取りながら軍事行動の準備を進めた。また将兵の士気を鼓舞するために「列強を打倒し、軍閥を除いて国民革命を成功させよう」という『国民革命家』も作られた。一九二六年五月に先遣隊が湖南へ向けて進発すると、七月一日には国民革命総司令となって強大な権限をにぎった蒋介石が「北伐宣言」を行った。孫文の見果てぬ夢がついに動き出したのである。
北伐の展開と湖南農民運動
魯迅の広州行きと北伐軍の勝利
P311 一九二六年八月に北京を脱出した魯迅は上海に着くと、許広平と別れて厦門へ向かった。女師大時代の同僚だった林語堂の招きに応じて、厦門大学の文学部教授として赴任したのである。彼はここで古典文学の研究につとめながら、許広平との往復書簡をしたためて師弟間の恋愛関係をはぐくんだ。またこれらの書簡からは国民革命に対する熱い思いまなざしを窺うことができる。
たとえば一〇月一〇日の双十節(中華民国の建国記念日)の手紙で、魯迅は厦門の華やかな祝賀ムードを北京の「死んだような」静寂ぶりと比較しながら賞賛している。また一〇月十五日の手紙では、厦門の新聞が北伐軍による武昌、九江の占領を報じたことを記したうえで、「割り引かなければならないにしても、情勢が非常に良いことは本当です」と述べている。辛亥革命の挫折後はめったに政治動向に反応を示さなかった魯迅であるが、北伐の戦局には並々ならぬ関心を寄せていたのである。
実際のところ北伐軍は破竹の勢いで進撃を続けていた。広東と湖南の省境にそびえる嶺南山脈を越えた先遣隊は、李宗仁、唐生智の部隊と合流して西路軍(約一〇万)を形成し、民衆の支持を受けながら七月に長沙を占領した。ついで湖北へ入った西路軍は、かつての太平天国軍を彷彿させる勢いで武漢へ向かい、兵力、装備の面でははるかに優勢な呉佩孚軍(二五万)を圧倒した。呉佩孚は逃亡する司令官を殺してさらし首としたが、軍の崩壊を防ぐことはできなかった。一〇月には武昌の守備隊が降伏し、その後も北伐軍の追撃によって呉佩孚軍の主力はほぼ壊滅した。
P312 江西では蒋介石みずから指揮する中路軍が直隷派の孫伝芳軍と対決した。はじめ戦況は一進一退を続けたが、一一月にようやく省都南昌を占領した。このとき蒋介石は馬を下り、民衆に帽子を振りながら歩いて入城するパフォーマンスを見せた。一方福建方面に進撃した東路軍は、さしたる抵抗も受けずに北上して一九ニ七年二月には浙江の杭州を占領した。さらに東路、中路の両軍は三月に孫伝芳の根拠地である南京を陥落させ、一年もたたずに中国の南半分を制圧したのである。
P313
(北伐と各地の軍事勢力、図)このころ魯迅と許広平との関係も新たな展開を迎えていた。一九二六年一一月に郭沫若を初めとする共産党の広東支部が中心となって、魯迅を中山大学の文学科主任に招聘したのである。許広平のいる広東行きを決心した魯迅は、一九二七年一月の手紙でおよそ次のように記した。「これまで私は人を愛する資格がないのだと思い、誰かを愛そうとはしなかった。だがいまや私を信じる。私はそこまで自分を貶める必要はないのだと。私は愛することができるのだ!」。
それまでの魯迅は自分をあえて旧時代の人間と位置づけることで、『狂人日記』の「子供を救え」という叫びのように若い世代に希望を託そうとしていた。だが国民革命の進展は深い寂寞と共に眠っていた魯迅の魂を呼びおこし、彼に「現在」との積極的な関わりを恢復させたのである。三月に広州に到着した魯迅は「革命戦士」として歓迎を受け、講演の依頼があいついだ。許広平も中山大学の助手となり、広東語の通訳を兼ねて魯迅らと共同生活をするようになった。
だがやがて魯迅は「革命の策源地」といわれた広州にキナ臭さを感じるようになった。彼はここがうわさとは異なる「商人と軍人が支配する」街であることに驚き、許広平も共産党員との関係には注意するようにと校長から忠告を受けたという。北伐が成果をあげるにつれて、革命の行方をめぐる国民党内部および国民党と共産党の暗躍は激しさを増していた。この魯迅の直感はまもなく最も不幸な形で現実となる。
P315 北伐下の政治抗争と毛沢東の湖南農民運動視察
さて北伐の開始後に、国民政府の重要な政治課題となったのは汪兆銘の復帰問題であった。まず蒋介石の発言権が増すことを快く思わない国民党の人々は、広東出身の汪兆銘を復帰させることで浙江派を形成しつつある蒋介石にクギをさそうと考えた。また共産党の中には陳独秀のように、北伐は民衆を無視するものだとして反対し、「中間派」の蒋介石に対して厳しい態度で臨むべきだという意見もあった。だがこのとき共産党およびソ連の方針は統一されておらず、コミンテルン代表のヴォイチンスキーは蒋介石と強調する立場を取っていた。
いっぽう汪兆銘を休養に追いこんだ蒋介石にとって、汪の復活はたしかに都合が悪かった。そこで蒋介石は汪兆銘に帰国を呼びかける一方で、復帰後も実験のあるポストを与えないという戦略に出た。結果はしたたかな蒋介石の勝利であった。
次に焦点となったのは北伐の展開に伴う国民政府の移転問題だった。蒋介石の独裁に反対する人々は武漢に集まり、ここに国民政府を移して党権力の強化を図ろうと試みた。すると蒋介石は前線司令部のある南昌にもう一つの政府を設けた。それはある意味で「党直属の軍隊」であるはずの国民革命軍が、党組織と対等な権限を要求したことを意味していた。驚いた反蒋介石派の人々は国民革命軍総司令の権限を縮小しようと試みたが、すでに財政的基盤を握っていた蒋介石はこれらの統制を拒否したのである。
P316 こうして蒋介石の独裁体制は着々と築かれていったが、それは必ずしも彼一人が生み出したものではなかったことに注意しなければならない。なぜなら孫文の北伐プランそれ自体が軍事優先の考え方や、地方自治をめぐる陳炯明との対立に見られた専制的な統一国家構想を含んでいたからである。いわば蒋介石が孫文の遺志を実現しようとした結果、孫文が残したマイナスの遺産までも継承してしまったと言えるだろう。
また共産党の動向を見ると、武昌へ到着したボロジンは西路軍の唐生智を味方につけて蒋介石への対決姿勢を明確にした。だが蒋介石は部下をソ連に派遣し、スターリンらに蒋介石との協調路線を維持させるように働きかけた。さらに蒋介石は自分の支配基盤を固めるべく、江西の国民党組織を支えていた共産党員を排除した。つまり共産党は蒋介石によって意見の不一致を巧みに突かれ、有効な対策を取ることができなかったのである。
さて国民党政府の宣伝部長代理の職を辞した毛沢東は、国共合作によって成立した農民運動講習所の所長を担当していた。当時中国共産党の主たる関心は都市の労働運動にあった。だが湖南湘潭県の農村出身であった彼は、農村人口が圧倒的多数を占める中国の現実を踏まえ、国民革命はまず農民革命でなければならず、農民が抱える問題を解決してその支持を得なければ国民革命は成功しないと主張した。また思春期に新興地主だった父親と対立することで新文化運動に傾倒した毛沢東は、農村に君臨する封建勢力を打倒しない限り軍閥や帝国主義の支配をうち崩すことはできないと考えた。
P317
(青年時代の毛沢東、写真)北伐が始まると、国民革命軍の占領地域では毛沢東の教え子たちが農村に入って活動を展開した。とくに湖南では二○○人あまりの活動家が各地で農民協会を設立し、二○○万人をこえる会員を獲得した。彼らは孫文が国共合作時に認めた小作料引き下げを実現すると共に、祖先祭祀や神々の祭り、族長や夫の権威に代表される伝統的な社会秩序をひっくり返そうとした。また有力者が組織していた団錬などの自警団を農民の武装組織に改め、一部では農民協会のメンバーが県政に参与するようになった。こうした情況を視察に出かけた毛沢東が著したルポルタージュが『湖南農民運動視察報告』である。
P318 この報告で毛沢東は農民運動がハメをはずし、さして土地を持たない者を「土豪」としたり、長袖の上着を着ているだけで「劣紳(劣った紳士)」と呼ぶなどの拡大解釈が行われていると認めた。また農民協会が「土豪劣紳」のレッテルを貼られた人々に三角帽子をかぶせて引き回したり、勝手に処刑してしまう風潮が広がり、国民党ばかりか共産党内にもこれらの行動を「行きすぎ」と批判する声があったと記している。
だがこの批判に対して毛沢東は、およそ次のような反論を加えている。「革命とは客を招いてご馳走することではないし、筆先で絵をかいたり刺繡をすることでもない。そんな上品でご立派な、おしとやかなものではない。革命とは暴力である。一つの階級が他の階級をひっくり返す激烈な行動なのだ」「いま農民が立ちあがって土豪劣紳の一人ふたりを銃殺し、反革命弾圧のささやかなテロリズムを作り出しているからといって、これをけしからんという理由がどこにあろうか」と。
今日の観点から、この毛沢東の見解を非難することはたやすい。彼は報告のなかで土豪劣紳の粛清は湖南の軍人唐生智も支持していると述べたが、実のところ真っ先に殺されたのは唐生智の支配に従わなかった人々だった。また農民協会の独断による逮捕や処刑は共産党もコントロールできないほどにエスカレートし、省クラスの役人が銃殺される事件さえ発生した。国民革命軍が進駐する大都市と異なり、農村部では革命の到来を実感することは難しかった。また太平天国の『天朝田畝制度』に見られた平均主義的なユートピアは、下層農民の心を深くとらえていた。このため毛沢東は小作料の不払いによる「財産の没収」という、過激な革命プログラムを実行に移すことで農民の支持を取りつけようとした。だがそれは勢いづいた農民たちによる報復のための暴力を生みだしたのである。
P319 こうした毛沢東の行動を蒋介石のそれとを比較してみると、一つの共通点があることに気づく。つまり軍隊に依拠するか、大衆運動を重視するかの違いはあれ、二人が問題解決のカギは武力にあると考えていた点である。しかもこの武力志向は二人だけの特徴ではなかった。載季陶も『日本論』で明治維新以来の日本の歴史を総括し、武力と戦争による膨大な犠牲なくして民族の平等と国家の独立は達成できないと主張していた。
これらの事実は彼らが時代の申し子であることを示すと共に、義和団運動にもあらわれた中国社会の荒ぶるエネルギーが、国民革命の勝利を底辺で支えていたことを物語る。そしてこの地鳴りのような胎動は、帝国主義打倒のナショナリズムと共に噴きだして激しい連鎖反応を引き起こした。南京事件と四・一二クーデターである。
四・一二クーデターと次国共合作の崩壊
南京事件の発生と蒋介石
一九ニ七年三月ニ四日に北伐軍が南京を占領すると、領事館に避難していた日本人居留民のあいだに安堵感が広がった。当時北伐軍に対する評判は極めて高く、孫伝芳軍のような略奪は行わないと考えられたからである。ところが朝になると北伐軍兵士が敵軍の捜索と称して領事館内になだれこみ、発砲して威嚇しながら一部の市民と略奪を始めた。すると同じく領事館が略奪を受けたイギリス、アメリカの軍艦は、南京市内を砲撃して二○○○名の死傷者を出した。いわゆる南京事件である。
P320 これと同じような事件は各地で発生した。一九ニ七年一月に湖北の漢口では、イギリス租界で中国人が殺害された事件がをきっかけに大規模な反イギリス運動が起こり、成立したばかりの武漢国民政府は漢口に続いて九江の租界も回収してしまった。また南京事件を引きおこしたのは北伐軍内にいた共産党員であったことが判明し、蒋介石はこの事実に大きなショックを受けた。だが国民革命はもともと帝国主義の打倒をスローガンにかかげていた。北伐軍の華々しい勝利は人々のナショナリズムに火をつけ、それが領事館や外国人住宅、キリスト教会の襲撃となって現れたのである。
このとき日本は英米の報復攻撃に同調しなかった。外相の幣原喜重郎は東北三省を除く中国全土を統治する能力があるのは、北京政府よりも蒋介石だという認識を持っていた。このため日本政府は暴行兵士の処罰や被害者への賠償を要求したが、また蒋介石に共産党の勢力を極力圧迫し、各国の利害が集中する上海での治安維持に当たることを求めたのである。だが日本の軍部は政府の姿勢を軟弱外交と批判し、上海の日本人団体も武漢政府に強硬な抗議をせよと主張した。その結果首相の若槻礼次郎は辞任に追いこまれ、代わって強硬外交の田中義一内閣が登場することになる。
またアメリカはこの事件を蒋介石にソ連と手を切らせるチャンスだと考えた。国務長官のジョンストンは蒋介石に財政援助を与えて共産党の蜂起を弾圧させると共に、彼と張作霖の停戦を促して、南北同時に共産党を取りしまらせ「新対中国計画」を発表した。
P321 これに対して蒋介石は国共合作をあくまで堅持するとの声明を発表したが、同時に共産党に対して「国民革命の偉業」を破壊してはならないと警告した。共産党やソ連との決別を求める列強の圧力は、蒋介石にとって無視できないものだったのである。
共産党の上海蜂起と四・一二クーデター
国民革命軍が北上を続けるなか、上海では共産党がこの地を支配していた孫伝芳系の軍隊に対する武装蜂起を試みた。とくに一九ニ七年三月に東路軍の白崇禧(新広西派)の率いる部隊が上海に迫ると、ニ一日に共産党は秘密結社青幇の首領である杜月笙の協力を得て、八〇万人が参加するゼネストを決行した。また労働者の武装組織である糾察隊が警察や守備隊に対する攻撃を行い、翌日には上海に自治政府を成立させた。
三月ニ六日に蒋介石が上海に入ると、資本家の団体である上海総商会は彼に早期の安定回復を求めた。とくに積極的だったのは浙江財閥を代表する宋家一族の長女である宋靄齢で、蒋介石個人に財政援助を申し出ると共に、労働運動によって上海の租界が回収され、貿易に支障をきたすことがないように訴えた。事実共産党系の労働組合である上海総工会は労働者による上海の自治を主張し、独断で蒋介石に反対する運動を展開し始めた。また大規模なストライキと租界突入の計画も立てられたという。
P322 これに対して三月二八日から国民党の中央監察委員会が開かれ、共産党の「行きすぎ」を非難した。この委員会の議長をつとめたのは、ヨーロッパ滞在後に北京大学学長を辞職し、国民党の元老となった蔡元培であった。クロポトキンの相互扶助的なアナーキズムに共鳴していた彼は、非暴力の立場からマルクス主義の階級闘争論に反対していた。そして蔡元培は共産党が国民革命を破壊しているという批判に同調し、みずからも報告を行って共産党員の拘束と監視の必要性を認めたのである。
こうした内外の圧力や要請を背景に、ついに蒋介石は共産党との決別を決意した。彼は白崇禧に命じて戒厳令を実施させると共に、杜月笙と接触して青幇の共産党に対する支援をうち切らせたまた四月九日には共産党の影響が強い部隊を南京へ移動させると共に、自分は上海を離れて共産党弾圧の汚れ役を白崇禧と杜月笙に押しつけた。
いっぽうの共産党緊迫する情勢を読みきれないでいた。その主な理由は四月一日にフランスにいた汪兆銘がウラジヴォストーク経由で上海に到着し、蒋介石と協議のうえで陳独秀と共同宣言を出し、国共合作の継続を確認したことにあった。だが四月六日に汪兆銘は武漢に向けて出発してしまい、共産党の弾圧を防ぎ止める役割を果たさなかった。むしろ六日には張作霖が北京でソ連大使館と共産党支部を捜索し、李大釗を逮捕するなど、共産党をとりまく情勢は悪化していた。
一九ニ七年四月一二日の早朝、白崇禧は糾察隊の武装解除に踏みきった。すでに前日夜に上海総工会のリーダーは杜月笙に暗殺されており、まず青幇に糾察隊を襲撃させ、続いて国民革命軍が出動して、仲裁の名目で武装解除するという戦略だった。だが青幇と国民
P323 革命軍が共同で糾察隊を攻撃したケースもあり、銃撃戦の結果一二〇人の労働者が殺され、小銃や機関銃など三○○○挺以上が押収された。
翌一三日に上海総工会はゼネストを呼びかけ、午後からは押収された武器の返還を求めるデモ行進を行った。だが宝山路で国民革命軍と衝突し、軍の発砲によって多くの死傷者が出た。これを目撃した上海の知識人は、蔡元培らに対して抗議の手紙を送り、これを新聞に公表した。だが四月一五日に監視委員会は「反党分子(共産党員のこと)の排除」をうたった白崇禧の決定を支持した。北京でこれを知った周作人(魯迅の弟)は、今回の粛清が行われた責任の七割は蔡元培らにあると述べている。
事件の発生を知ったコミンテルンは、四月一四日に蒋介石を非難する宣言を発表した。また一八日には汪兆銘の武漢国民政府が蒋介石の党籍を剝奪して、彼の逮捕命令を出したが、武漢政府には蒋介石と軍事衝突をするだけの実力はなかった。いっぽう蒋介石側は同じ一八日に胡漢民を主席とする南京国民政府を樹立し、双方が北伐を続行しながらにらみ合うことになった。また共産党は上海の体制を立て直す努力を続けていたが、四月二五日以後に始まった共産党員狩りで大打撃を受けたのである。
(殺害される共産党員、写真)国共合作の崩壊と魯迅
さて上海で発生したクーデターの影響は、四月一五日には広州にも及んだ。この日の朝早くに許広平の実家から使いの者がやって来て、中山大学にビラがいっぱい貼ってある、
P325 魯迅にも害の及びそうなものもあると告げ、「早く魯迅さんを逃がしなさい」と言った。驚いた許広平が外の様子を見ると、道には多くの兵隊がおり、移動の待機中のようだった。市内には戒厳令が敷かれ、共産党の機関や労働組合の事務所などが襲われて多くの死者が出た。また中山大学でも四〇名余りが逮捕された。
この日の午後に中山大学では各学科主任の緊急会議が開かれ、魯迅は雨の中を出かけていった。会議が始まると魯迅は逮捕され学生の救出を提案したが、副学長はこの大学は「党(国民党)」の大学であるから、党の決定には従わなければならないと発言した。怒った魯迅はテーブルを叩いて立ち上がり、「逮捕された学生は何の罪を犯したと言うのか」と問いつめたが、誰一人として声をあげる者はいなかった。晩になってようやく帰宅した魯迅は憤りのあまり夕食も食べなかったという。
その後も共産党に対する弾圧はつづき、四月一八日には中山大学の共産党員で、魯迅と親しくしていた畢磊も逮捕された。魯迅は「私の推測では、彼はもうこの世にいないに違いない。この見たところ非常に痩せて精悍な湖南の青年は」と記している。六月になって中山大学は「共産分子」として数十名の学生、職員を除籍および罷免とした。魯迅もみずから辞表を提出し、九月に許広平と上海へ向かうことになる。
このとき武漢の国民政府でも大きな変化が発生していた。もともと武漢政府は豊かな東南の沿海地域をおさえた南京国民政府と比べた場合、財政的にきわめて弱体だった。資金に苦しんだ武漢政府は労働運動を抑制し、生産を回復させることで税収増加を図ったが、
P326 共産党は労働者を統率できずに効果はあがらなかった。むしろ各地で呉佩孚につながる人々の財産を没収することで、税収を確保するありさまだった。
だが武漢政府の内部に深刻な亀裂をもたらしたのは、兵糧の確保をめぐる軍と農民協会の衝突だった。一九ニ七年五月に発生した馬日事変がそれで、唐生智軍の部隊が湖南の長沙で農民協会を襲撃し、農民自衛軍などの武装解除を行ったのである。
以前の研究では、この事変は国民政府の分裂に動揺した将校たちが、反共産党陣営へ走った結果だとされてきた。だが実際には農民協会が米の流通を禁止したために軍用米が不足し、農民たちが米を確保しようとする兵員を殺したり、買い付けた米を奪い取ったことが原因だった。さらに「土豪劣紳」への攻撃が行われる中で、国民革命軍に参加している軍人の財産が没収されたり、その家族が迫害を受けることがあったという。
なおこのときの報告は軍人家族を迫害したのは秘密結社である哥老会のメンバーで、分別をもたない彼らが農民協会を牛耳った結果だと述べている。確かに勇名を馳せた賀龍や彭徳懐など、中国共産党の指導者には秘密結社の出身者がいた。その後毛沢東が江西の井崗山に革命根拠地を建設する過程で、彼らは重要な役割を果たすことになる。だが当時の共産党には、日頃抑圧されていた彼らが革命参加と共に爆発させる負のエネルギーをコントロールする力量はなかった。
こうして武漢国民政府は事実上の自己崩壊におちいった。新しいコミンテルン代表となったロイは、六月にコミンテルンの訓令を受けとって陳独秀らに実行を迫った。それは P327 共産党が武漢政府にとどまりつつ、土地革命や労働者、農民の武装化を行えという中国の実情をまったく無視した内容で、ボロジンも不可能だと考えた。すると七月にコミンテルンは新たに、国民党内にとどまるが、武漢政府からは退出せよとの指令を出した。やむなく共産党は武漢国民政府からの退出宣言を出し、共産党員たちは次々と辞表を提出した。すでに国共合作の継続に疲れ果てていた汪兆銘らにとって、共産党の退出は渡りに船だったというべきかもしれない。
一九ニ七年八月一日、武漢を退いた共産党は一部の国民革命軍を糾合し、国民党革命委員会の名もとに江西南昌で蜂起した。この南昌蜂起は中国共産党が独自に計画したもので、勝算を度外視してでも国民革命の気概を示そうとする無茶な作戦だった。果たして結果は共産党軍の大敗に終わり、これをきっかけに武漢国民政府は共産党の弾圧に踏みきった。そして九月に彼らは蒋介石の南京国民政府と合流することになる。
こうして第一次国共合作は三年半あまりで崩壊した。志なかばにして倒れた孫文の遺志をついで発動された国民革命は、またも途中で挫折をこうむった。むろん共産党との決別をギリギリまで留保した蒋介石の選択は、国内外の幅広い勢力を味方につけることになり、その後展開された北伐が迅速に完成することを可能にした。だが引きのばされた決定は革命情勢を不透明なものに変え、多くの人々に無用な犠牲を強いることになった。
P328 のちに魯迅は四・一二クーデターについて次のように言っている。「国民党は有望な青年をワナに落としこんだ。初めのうち共産党は機関車で国民党は列車だ。革命は共産党が国民党を引っぱることによって成功するのだと言った。だから青年たちは誰も感激して共産党に入った。すると今度は突然、共産党なるがゆえに彼らを片っ端からつかまえて殺した。この点は軍閥の方がまだいい。彼らは最初から共産党を容れず、最後までその主義を守った。だが国民党のやり方はまるでペテンだ。その殺し方がまたひどかった。ぼくはそれ以来、人をだまして虐殺の材料にするような国民党はどうしてもイヤだ」と。
この批判に対して、当事者の蒋介石はそれなりの言い分があるだろう。また魯迅も人の子、その見方には彼自身の立場がもたらす一定の制約があることを免れない。だが中国近現代史にとって最大の悲劇は、魯迅のいう「ペテン」がこれ一度では済まなかったという事実である。一九五七年に毛沢東みずから知識人に共産党の批判を求めておきながら、党批判が噴出すると一転して反右派闘争を発動したのはそのほんの一例に過ぎない。
おびただしい血を流しながら彷徨う革命、その終着駅はいったいどこにあるのだろうか。
P329
第八章 内憂と外患のなかで---南京国民政府と満州事変
北伐の再開と山東出兵張作霖爆殺事件と日本
一九ニ八年六月四日早朝、北京政府の陸海軍大元帥だった張作霖は奉天(現在の瀋陽)へ向かう特別列車の中にいた。彼は蒋介石が率いる国民革命軍の北京進撃を阻止できず、日本の首相だった田中義一の勧めもあって、東北三省に退いて再起を図ることにしたのである。蒋介石も北伐の目的は北京占領にあり、華北と東北の境である山海関を越えて追撃はしないとのメッセージを送っていた。
五時ニ三分頃に列車は奉天に近い皇姑屯駅を過ぎ、南満州鉄道との立体交差にさしかかった。張作霖の乗った客車がガードの下を通り過ぎようとしたその瞬間、大音響と共に爆発が起こり、橋げたが崩れ落ちて押しつぶされた客車は炎上した。救出された張作霖はすでに虫の息で、約一五時間後に死亡した。いわゆる満洲某重大事件、張作霖爆殺事件の勃発である。
(張作霖爆殺事件現場、張作霖、写真)P331 今日ではこの爆弾テロが、関東軍参謀の河本大作大佐らによる犯行だったことは常識となっている。現場には中国人二人の遺体が残されており、国民党の工作員を装っていたが、一目でアヘン中毒患者とわかるカモフラージュだった。また橋げたにこびりついた火薬は日本軍だけが使用している強力なもので、爆破スイッチにつながる電線は関東軍の鉄道監視所に引きこまれていた。奉天の総領事だった林久治郎はたまたま居合わせた国会議員たちに「ひどいことだぞ、陸軍の連中がやった。これは容易ならんことになる」と興奮して話したという。
はじめ河本大作は張作霖爆殺後にさらなる行動を計画していたが、中国側が張作霖の死を伏せて公表せず、そのあいだに息子の張学良による体制作りを進めたために不発に終わった。日本軍人の関与を知った田中義一は国内外の信頼を回復すべく調査を進め、一度は事件の真相を昭和天皇に報告した。だが軍部の圧力に屈した田中は、一九二九年六月には一転して日本は事件と無関係という声明を発表したいと上奏し、天皇の逆鱗に触れて辞職に追いこまれることになる。
日中関係史から見た場合、この張作霖爆殺事件は満州事変の前哨戦となった。また国民革命の歴史に即して言えば、それは張学良の易幟つまり国民政府への合流を生みだすことになった。それではこの事件はなぜ引きおこされ、両国の歴史にいかなる影響を与えたのか。以下では南京国民政府と蒋介石の動きから見ることにしたい。
蒋介石の下野と日本訪問
中華人民共和国の成立を起点として、中国共産党が勝利した要因を探るかつての革命史観では、一九ニ七年四月に成立した南京国民政府は反共クーデターの産物であり、まともに評価される対象ではなかった。だが近年は中国国民党がなぜ敗北したのか、国民党政権が中国における近代国家の形成や国際社会での地位の向上にどんな役割を果たしたのかを解明するために、南京国民政府がスポットライトを浴びている。
成立当初の南京国民政府は二つの政治課題に直面していた。その一つは張作霖らの北京政府、汪兆銘の率いる武漢国民政府に続く第三の政府として登場したために、政権の正統性をアピールする必要性があったことである。このため四月一八日の成立式典で主席の胡漢民らは、南京への遷都が孫文の「遺志」であることをしきりに強調した。またその宣言は共産党員の「破壊活動」が国民革命の足を引っぱり、国共合作を崩壊させたと非難することで、上海のブルジョワジーなど国民党の急進化に不安を覚えた新興勢力を政権の支持基盤にすることをめざしていた。
もう一つの課題は蒋介石の処遇であった。蒋介石が国民革命軍を育成し、北伐を指揮した功績は誰も否定できなかったが、当時の国民党内には軍人である彼が独裁権力を握り、シビリアンコントロールが利かなくなることへの反発が強かった。とくに中山艦事件で蒋介石によって休養に追いこまれた汪兆銘にとって、南京政府へ合流するうえで蒋介石の P333 下野は譲れない条件だった。南京側も国民党の再統一を促すためにこれに同調し、八月には四・一二クーデターの実行部隊だった新広西派の白崇禧が、徐州の戦いで敗走した蒋介石に総司令の職を離れるように勧めた。
この結果蒋介石はみずから辞職を宣言し、九月には武漢、南京の両政府および反共産党を唱えていた北京会議派が合流して国民党の統一が実現した。もっとも蒋介石の辞職期間はわずか三ヵ月で終わり、かえって復活した蒋介石の存在感を高める結果になった。この充電期間中に彼は宋美齢との結婚について宋家の許可を得るために日本を訪問し、日本の政府要人と会談した。その中でもっとも重要なのが田中義一との会談である。
一九ニ七年四月に首相となり、外務大臣を兼任した田中義一の外交政策は、幣原協調外交との対比で強硬外交と呼ばれる。この年六月に開かれた東方会議の後に、彼が満蒙(すなわち東北三省および東部蒙古の熱河特別区)の征服を企図して天皇に提出されたとされる田中メモランダムが有名である。現在この上奏文は偽物と考えられており、実のところ彼の対中国政策は満蒙の権益を英米列強と強調しながら、張作霖を支柱として守るという従来の枠組みを出るものではなかった。
しかし田中義一は北伐軍が山東一帯に迫ると、五月に居留民の保護を目的として第一次山東出兵を行うなど軍事力の使用をためらわなかった。また東方会議では関東軍を中心に満州を中国本土から切り離し、張作霖を排除して自治を宣言させるプランが話し合われた。さらに会議では国民党を支持して共産党を鎮圧させるという方針が確認された。蒋介石・田中会談はこうした田中外交の方針が前提となって実現したのである。
P334 一九ニ七年一一月五日に蒋介石は田中義一の自宅を訪ねた。すでに述べたように蒋介石は日本留学の経験を持ち、一九二六年に大正天皇が逝去すると部下を日本領事館に弔問に行かせるなど日本との友好関係に気を配っていた。また彼は日本の発展ぶりを賞賛し、田中に対して日中両国が「真の平等」を基礎として共存をめざし、経済を中心に提携を図るべきだと訴えた。さらに彼は日本が国民革命軍の北伐に干渉を加えず、これを助力してほしいと述べたうえで、「閣下の意見をはっきりご教示いただきたい」と求めた。
蒋介石の日記によると、このとき田中義一は「閣下は北伐の目標を南京に置き、長江以南の統一を宗旨とすべきだと思う。なぜ北伐を急ごうとするのか」と問いかけた。彼は華北に戦火が及べば、日本の満蒙権益が侵されるのではと恐れたのである。およそ蒋介石が「中国革命のめざすところは全国統一にある。太平天国と同じ失敗をくりかえすわけにはいかない。北伐はすみやかに完成させなければならないし、中国が統一できなければ日本の利益にもならない」と答えると、田中はサッと顔色を変えたという。
結局蒋介石と田中義一の会談はすれ違いに終わった。蒋介石は田中について「いささかの誠意もない」と日記に書き記し、北伐の再開後は日本がこれを阻止するに違いないと考えた。それは田中の意図はともあれ、翌年の第二次山東出兵で現実のものとなる。
また会談で蒋介石は日本の張作霖支持について言及し、それが近年中国人の反日感情が
P335 高まった原因であると抗議した。田中義一は満洲軍参謀時代にスパイとして捕らえられた張作霖の命を助け、彼が台頭するきっかけを作った人物だったのである。だが田中は日本が張作霖にいかなる援助も与えていないと述べたうえで、自分は張作霖が「非常に嫌い」であり、張の参謀で親日派の楊宇霆を支持していると断言した。それがどこまで本音だったかは不明だが、この田中の発言は最悪の形で実現してしまうのである。
済南事件と佐々木到一
さて蒋介石を辞任に追いこんだ汪兆銘であったが、彼の天下は長く続かなかった。一九ニ七年一二月に汪兆銘は部下が起こした内紛の責任を問われ、再び出国に追い込まれたのである。この結果蒋介石は国民革命軍総司令に復帰し、翌年には国民政府主席となって国民党のリーダーとしての地歩を固めることになる。
総司令に復帰した蒋介石がまず行ったのは北伐の再開であった。一九ニ八年四月に始まった第二次北伐は総兵力が約七〇万、蒋介石と李宗仁(新広西派)、馮玉祥(国民軍、西北派)、閻錫山(山西派)が各軍団を率いた。徐州を出発した蒋介石は順調に北上し、五月二日には山東の省都である済南に入城した。
さてこの北伐軍の総司令部には一人の日本人が随行していた。彼の名は佐々木到一といい、本書が見た柴五郎や坂西利八郎に連なる中国専門の情報将校であった。この佐々木は「ケンカ到一」と言われるほど反骨精神が旺盛で、軍部内で冷遇された時期もあった。
P336 彼には段祺瑞や張作霖など日本が重視していた北京政府要人の軍事顧問となるチャンスはなく、巡ってきたのは誰も望まない広東駐在武官のポストだった。
だが広東で孫文と出会った佐々木到一は、すっかり「個人的野心のない」孫文の姿に魅せられてしまった。また彼は中国国民党に対しても「人格の高潔な」人々の集団と期待をよせ、彼らがめざす国民革命の理想に共鳴した。このように佐々木が国民党に入れこんだ背景には、抗争をくりかえす北京政府の軍事勢力および彼らにつきまとう日本軍人への反発と嫌悪感があった。そして彼は国民革命軍の士気の高さ、軍規の厳正さに注目し、たとえ北伐が少々日本の権益を脅かそうとも、植民地状態から自立をめざす中国の革命を支持することが長い目で見れば日本の利益につながると主張したのである。
だが軍の上層部は佐々木到一の進言に耳を傾けようとはしなかった。北伐が再開されると、政府はただちに第二次山東出兵に踏みきり、日本軍の先遣隊は北伐軍よりも早く済南に到着した。北伐軍が済南に入ると、佐々木は蒋介石の要請によって日本軍との連絡役をつとめたが、日本側が異様に殺気立っていることに気がついた。そして五月三日に彼の予感は的中した。日本側の主張によれば小さなイザコザから日中両軍が「衝突」し、翌日までに日本側の死者ニ三名、中国側は一〇〇〇以上が死亡したのである。
この知らせを聞いた蒋介石は日本が北伐阻止の行動に出たと受けとめ、佐々木到一に停戦のための調停を依頼した。だが日本の現地軍は謝罪を求めて最後通牒を発し、五月八日
P337 には居留民保護の範囲を大幅に逸脱した攻撃を行い、国民政府の官吏や一般市民など三九○○名を殺害した。佐々木到一も北伐軍陣地を移動中に隠し持っていた日章旗が見つかって拘束され、蒋介石に救出されるまで興奮した中国兵からリンチと威嚇を受けた。このとき取り囲んだ兵士たちは口々に「日本帝国主義を打倒せよ」「殺せ、殺せ!」と叫び、さすがの佐々木も一度は死を覚悟したという。
こうした中で蒋介石は北伐の完成をあくまで優先し、進路を変えて日本軍との全面衝突を回避した。五月一八日に蒋介石は河南の鄭州で馮玉祥、白崇禧らと作戦会議を開いて準備を進め、六月一日に北京へ向けて総攻撃を開始した。もはや防御できないと見た張作霖は二日に東北への撤退を宣言し、三日に北京を出発した。翌日未明に彼が爆殺されたのは本章の冒頭で見た通りである(前述)。六月一一日に司令長官を命じられた閻錫山は北京へ入城し、南京国民政府は北京を北平に改称すると発表した。
いっぽう救出された佐々木到一はいったん帰国後に再び南京に赴いた。だが彼自身「済南事件によって私の夢は完全に敗れた。広東時代の私は若かったのだ」と語ったように、かつての国民革命への共感は失われていた。佐々木は国民革命軍がすでに「堕落」し、これまでの軍事勢力と同じ封建的な私兵集団に「退化」したと見なした。また国民党の革命教育こそが兵士の排外主義を生み出したのであり、中国の自立をめざす革命は結局のところ中国人を「傲慢」にしたと考えた。そして佐々木は「暴戻なる支那を膺懲(打って懲らしめること)せよ」と叫ぶ日本国内の強硬論に呼応するように、満蒙権益を確保するためには武力行使もやむを得ないと主張したのである。
P338 この佐々木到一の中国観には彼が軍人である以前に、異文化としての充分な認識を欠いたまま中国社会のある部分を理想化し、その夢が破れた時に中国そのものに拒絶反応を示してしまう、近代日本の知識人に共通する問題点があったと言えるだろう。その後佐々木は満洲国の軍政部顧問となり、民族協和の夢を実現すべく満洲国軍の建設にとりくんだ。だが彼はこの国を植民地としか見ない日本人の態度に失望して満洲を去った。日中戦争が勃発すると佐々木は南京攻略戦に参加し、かつて惚れ込んだ孫文の陵墓(中山陵)の前で、敗残兵掃蕩の名のもとに大虐殺を指揮することになる。彼は「孫文の霊はさぞかし口惜し涙をふるっていることだろうと思う」と記している。
北伐の完成と南京国民政府
張学良の登場と南北統一
さて佐々木到一は張作霖爆殺について、河本大作にこのアイデアを授けたのは自分だと述べている。彼は扱いづらい張作霖を殺し、張学良に跡を継がせたうえで、彼の腕をねじ上げて一気に満洲問題を解決せよと勧めたという。むろん張作霖の排除それ自体は東方会議でも提案されており、殺害という手段を除いては佐々木のオリジナルとは言えない。だが近年の研究では、河本大作が必ずしも東北三省の軍事占領を意図しておらず、彼は張学良
P339 あるいは田中・蒋介石会談で名前のあがった楊宇霆の擁立をねらったとみており、その意味では佐々木の話もつじつまが合うことになる。
ここで序章で言及した西安事変の中心人物、張学良について見ておこう。彼は一九〇一年生まれ、ラストエンペラーの宣統帝溥儀よりも五つ年上にあたる。NHKのインタビューで張学良は、清朝と革命派、ロシアと日本の間でしたたかに勢力を伸ばした父親の過去については触れていない。彼は子供の頃にYMCAを通じてキリスト教と触れ、医者になりたいと考えたが、父親に無理矢理軍人にされてしまったという。
(張学良、写真)P340 青年時代の張学良に大きな影響を与えたのは、彼の教官をしていた郭松齢であった。郭松齢は革命派の出身で、東北三省の改革を行うために張作霖の部下となった人物だった。一九ニ五年一一月に郭松齢は張作霖の打倒をめざしてクーデターを起こしたが、敗北し捕らえられて惨殺された。このとき弾圧部隊を指揮していた張学良は郭松齢からの手紙を受け取り、父親に「孝」をつくすために国家への「忠」を忘れるな、民衆に愛される「新世界の偉人」となれと忠告された。
だが張学良の直面した現実は厳しかった。一九ニ八年四月に彼は河南で北伐を再開した国民革命軍に敗北し、戦乱の中を逃げまどう難民の姿にショックを受けた。また彼は同じ中国人でありながら殺しあう内戦の愚かさを痛感し、東北軍を北方革命軍に改編して、北伐に合流すべきではないかと悩んだ。後にリットン調査団に語ったところによれば、張学良は内戦の停止を訴えて父親としばしば衝突したという。
六月四日の張作霖爆殺事件は、張学良にとっても青天の霹靂であった。六月一八日にひそかに奉天へ戻った張学良は父親の死を公表すると共に、東北三省の保安総司令に就任して関東軍につけこむ隙を与えなかった。また七月一日には北京に入った蒋介石へ電報を打ち、南京国民政府に合流することで中国の統一に寄与したいという意志を表明した。つまり日本による張作霖の殺害は奉天派内部の世代交代を加速させ、かえって国民革命の影響が東北三省に及ぶという結果をもたらしたのである。
P341 こうした張学良の方針に日本は猛反発した。田中義一は張作霖と親しかった元中国大使の林権助を送り込み、張学良に国民政府への合流を思い止まるように説得させた。だが張学良は中国の統一と日本との友好関係は抵触しないと言って譲らなかった。会談の席上、林らは「どうしても南北の統一を実現するつもりなら、それは日本の権益を無視するに等しい。事実上わが国に楯突くものとなることを覚悟されたい」と厳しい口調で警告した。すると張学良はおよそ「私は中国人です。ですから私の考えはおのずと中国本位です。日本政府が脅しをもって中国統一の実現に反対するのは、すこぶる不可解なことです」と答えて反論したという。
一九ニ八年一二月二九日、東北全土に南京国民政府の旗である青天白日旗が一斉にひるがえった。それは革命と共に吹きつけた南からの風が、中国の北の果てまで届いた瞬間だった。それまで分裂状態にあった中国は少なくとも形の上では統一を回復したのである。むろんこの統一は必ずしも内実を伴ったものではなく、南京国民政府はその後も内外からの厳しい試練にさらされた。だが孫文の遺志をついで始まった北伐は、ようやく一つの成果を生んだのである。
(旧南京総統府大門楼、写真)関税自主権の回復と日本
さて国民革命のもう一つの目的は、中国を列強の支配から中国人の手に取りもどすことにあった。
P343 すでに見たように北伐の過程で人々のナショナリズムは高揚し、漢口と九江の租界接収や南京事件に見られる実力行使となって現れた。だが南京国民政府は安定した政権を築くために諸外国の承認を得る必要があった。この承認問題とタイアップして進められたのが関税自主権の回復である。
これらの課題にとりくんだのはかつて広東軍政府の代表としてヴェルサイユ講和会議に出席した、ヤング・チャイナの新外交部長である王正廷だった。彼は就任後間もない一九ニ八年六月に声明を発表し、北京占領によって北伐が一段落した今こそアヘン戦争以来の不平等条約を撤廃して、平等および相互の主権尊重の原則に基づいて新条約を締結しなければならないと宣言した。
この声明に真っ先に反応したのはアメリカであった。七月にまず中米関税条約が結ばれ、アメリカは世界に先がけて中国の関税自主権を認めた。それは従来北京政府を正式な政府としてきたアメリカの方向転換を示すものであり、一一月には南京国民政府を承認した。イギリスを初めとする主要各国もこれにならい、一九ニ八年末までに南京国民政府は中国を代表する政府として国際社会に認められたのである。
アメリカが対中国外交を積極的に展開した背景には、中国がソ連の影響力を排除し、「民主的」な資本主義国家に育てたいという国際戦略上の意図があった。このためアメリカは一九ニ七年三月の南京事件に関する解決協定でも、謝罪と損害賠償にとどめることで燃えあがる中国人のナショナリズムを刺激しないように配慮した。
P344 いっぽう中国共産党と決別したはずの南京国民政府は、はじめソ連に対する態度を決めかねていた。その主な原因は孫文がソ連へ宛てた遺書にあり、中ソ両国が世界の被圧迫民族の独立運動に勝利するに違いなこと、そのためには国民党がソ連と「一致協力」することを希望すると記していた。孫文の遺志を実現することを政権の正統性の根拠として掲げた南京国民政府は、この遺言を簡単には無視できなかったのである。
この点で蒋介石はアメリカの反共政策にうってつけの人物だった。彼はコミンテルンや中国共産党から個人独裁の新軍閥と非難され、しばしばムッソリーニと比較される程だった。また彼はソ連政府が中国を平等、対等な民族とは見ておらず、「紅色の帝国主義」になったと述べるなどソ連に対して強い不信感を持っていた。こうした蒋介石に注目し、アメリカに彼を支援することを要請したのは、上海の経済界をリードする宋氏一族とロシア革命を避けて中国へ移住したユダヤ人資本家であった。つまりアメリカの南京国民政府承認は蒋介石が反共の砦となることを条件に実現したのであり、第二次世界大戦後の世界を規定した冷戦構造は、中国では早くも一九二〇年代後半に始まっていたのである。
このようにアメリカを筆頭とする列強諸国が柔軟な外交姿勢を取ったのとは対照的に、日本の南京国民政府に対する承認は一九二九年六月と大幅に遅れた。関税自主権を認めた中日関税協定が結ばれたのはさらに一九三〇年五月までずれ込み、そのあいだは最恵国待遇があるために、実質的に中国が他の諸国と結んだ新協定も機能しなかった。
こうした日本の外交姿勢は、国民革命の展開や中国ナショナリズムの高揚という現実を
P345 認識せず、強圧的な態度で権益の確保をゴリ押しするものだった。これに二度にわたる山東出兵や張作霖の爆殺事件が加わり、中国国内の親日派が活動できなくなる程の影響を与えた。それまで主として英米に向けられていた中国のナショナリズム運動は、一気に日本をターゲットとし始めたのである。それは田中強硬外交の敗北であった。
ところで中国の関税自主権回復が比較的順調に進んだもう一つの要因は、南京国民政府が新協定の締結を急ぎ、関税率などの問題について柔軟に対応したことが挙げられる。実は南京政府の財政事情は大規模な軍事行動のために逼迫しており、関税率の大幅引き上げを見送ってでも当面必要な税収入を確保しなければならなかった。この南京国民政府の台所事情は、統一完成後の政情に暗雲をもたらした。「裁軍」と呼ばれた軍備縮小問題をめぐる蒋介石と他の実力者たちの対立がそれである。
中原大戦と広州国民政府
北伐が完成した当時の国民革命軍は、実に二〇〇万人以上に膨張していた。その多くは北伐に合流した各地の軍事勢力が抱える兵力であり、毎年必要な軍事費は約六億六〇〇〇万元にのぼった。だが南京国民政府はこれだけの出費を支える財源を持っていなかった。宋家一族の一人で財務部長となった宋子文(宋慶齢の弟、宋美齢の兄)は、中央政府の財政はもっぱら江蘇、浙江、安徽の三省に依存しており、実質的な歳入は約三億元に過ぎないと警告していた。
P346 北伐を完成させた蒋介石はさっそく軍縮に取りくんだ。一九二九年一月に蒋介石は軍機構再編のための会議を開き、全国の陸軍を六五個師団、約八〇万人まで削減すること、毎年の軍事費を歳入の四〇パーセントに抑えることを決めた。また彼は自らが率いる第一集団軍を中心に国軍を編制し、軍政の統一を唱えて各地の実力者から軍権を取り上げようとした。むろん彼らはこれを手放そうとはせず、蒋介石とのあいだに再び内戦が勃発した。
最初にターゲットになったのは北伐の進展と共に軍を武漢から北京へと展開し、補給線の延びきった新広西派(李宗仁、白崇禧)だった。一九二九年三月に蒋介石はまず武漢を攻撃し、北京の白崇禧軍に所属する元湖南軍の将兵には「広西派を打倒して故郷へ帰ろう」と誘って寝返らせた。分断された広西軍はあっけなく敗退し、六月に李宗仁と白崇禧は下野して香港に逃れた。これを蒋桂戦争と呼ぶ。
次に蒋介石と対決したのは西北派の馮玉祥だった。一九二九年五月と一〇月に発生した蒋馮戦争は、いずれも閻錫山の蒋介石支持によって馮玉祥の敗北に終わった。最後に残った閻錫山は一九三〇年四月に反蒋介石の連合軍を形成し、李宗仁と馮玉祥がその副総司令となって中原大戦が勃発した。五月に始まった戦闘は熾烈を極め、動員された一〇〇万の兵力のうち死傷者は三〇万人に及んだ。馮玉祥軍はピーク時で毎日砲弾二万発を発射したが、これだけの激戦は日中戦争でも見られなかったという。
はじめ戦局は蒋介石に不利だったが、この戦争で決着をつけたのはもう一つの軍事勢力である張学良の動向だった。九月に彼が蒋介石擁護の声明を発して北京、天津へ進駐する
P347 と、反蒋介石軍は総崩れとなった。馮玉祥と閻錫山は軍の指導権を放棄して引退し、彼らの部隊は蒋介石と張学良に接収されて軍縮は一応実現したのである。
いっぽう内戦の再発とは裏腹に、北伐が一区切りついた一九ニ八年一〇月に南京国民政府は軍政期と訓政期の開始を宣言した。軍政、訓政とは孫文の革命プログラムにあった時期区分で、軍政とは国内の武力統一を進める時期をさし、訓政とは憲政(立憲政治)に到達するまでの間、政府が政治的に未熟な民衆に代わって全権を掌握し、民衆を先導、教育する時期をいう。そして蒋介石が訓政に見合う支配体制を確立すべく、一九二九年三月に開いたのが国民党の第三回全国代表大会である。
この大会にむけて蒋介石がまず課題としたのが国民党組織の再編であった。国共合作期の国民党は毛沢東を農民運動講習所の所長に任命したように、大衆運動に基礎を置く側面を持っていた。だがいまや国共が分裂し、訓政期に入ったことで、大衆を運動の主体よりも教育の対象として位置づけ、党のイニシアティブを強化する必要が生まれた。この役割を担ったのが蒋介石の腹心で浙江派の陳果夫(組織部長代理)であり、彼の弟で国民革命軍総司令部の秘書長に招かれた陳立夫だった。
この陳兄弟が取りくんだ党組織の再編はまず共産党の影響力を排除することであり、彼らが上海で結成した秘密組織の中央倶楽部(Central Club、いわゆるCC団)は蒋介石の特務機関として恐れられた。次に彼らがめざしたのは党中央のリーダーシップを強化することであり、第三回全国代表大会の八割は中央によって指名された。結局大会
P348 代表の派閥構成は胡漢民派が八〇、蒋介石派が七〇、汪兆銘派が三五で、蔣介石派は最大派閥となることはできなかった。だが陳果夫らは自分の息のかかった人物を各機関の指導者にすえることで、国民党内における勢力拡大に努めたのである。
こうした蒋介石の試みは党内外の諸勢力による批判と反発を浴びた。その先頭に立ったのは武漢国民政府の系譜をひく汪兆銘派の人々で、党中央の独裁傾向や腐敗現象を「堕落した革命」と非難した。彼らはまた第三回全国代表大会を否認して国民党の改組を要求し、一九三〇年九月には閻錫山を中心とする新しい国民政府を北京に建てて反蒋介石派の大同団結を図った。だがこの新政府は閻錫山の軍事的敗北と共に崩壊した。
次に蒋介石と対立したのは胡漢民だった。中原大戦の大勢が決した一九三〇年一〇月、蔣介石は国民会議の開催と訓政期の基本法制定を提案した。立法院議長として蒋介石の独断専行を苦々しく思っていた胡漢民は、蒋介石が総統制を導入して全権を掌握しようと図っていると考えて反対した。すると蒋介石は胡漢民を軟禁のうえ免職処分にして、一党独裁の中央集権体制を明確にうたった訓政時期約法を強引に成立させてしまった。こうした武断的なやり方に怒った胡漢民派の人々は、一九三一年五月に汪兆銘や孫科、李宗仁、白崇禧などの実力者と広州に結集して広州国民政府を樹立した。そして彼らは蒋介石の即時引退を求めて軍事行動を起こしたのである。
P349
(胡漢民、写真)いっぽう国民党の体質そのものに鋭い問いを投げかけたのは、文学革命の旗手でリベラリストの胡適だった。彼は「党をもって国を治する」をスローガンにかかげた国民党の訓政体制を、言論の自由を圧殺する独裁政治だと批判した。また政府の権限や国民の権利を明確に定めた法律がなく、国家権力あるいは党指導者が法的な拘束を受けない現実を改善するように求めた。 だがデモクラシーの立場から出されたこれらの問題提起に対して、国民党は胡適に「反革命」のレッテルを貼ることで拒絶した。この党批判を一切受けつけない南京国民政府の「党国(政党国家)」体制は、そのまま中華人民共和国へと受けつがれた。それは二〇世紀中国の最大の不幸だったと言えよう。
毛沢東の辺境革命と包囲討伐戦
大いなる田舎者・毛沢東
ここで私たちは視点を変え、中国近現代史のもう一つの主人公に目を向けることにしよう。国共合作の崩壊後、南昌蜂起に失敗した中国共産党である。一九ニ七年八月に陳独秀が総書記を解任された後、新指導部は秋の収穫期に湖南、江西など四省で蜂起する方針を決定した。だがこの秋収蜂起は農民協会の壊滅に動揺した農民の協力を得られず、ことごとく失敗に終わった。
九月に長沙攻撃の準備をしていた毛沢東は自警団に一度は身柄を拘束され、かろうじて脱出するなど情勢は緊迫していた。はたして蜂起した労農革命軍は仲間の裏切りもあって大敗し、五○○○人いた兵力は一五○○人に激減した。このとき毛沢東はあくまで都市攻撃にこだわる党中央の指令を無視して、国民政府軍の防御が手薄な江西、湖南省境の山岳地帯に入ることを決めた。「逼られて梁山に上る」---『水滸伝』の英雄たちが梁山泊に身を投じたように、毛沢東も統治権力の及ばない辺境に根拠地を建設しようと試みたのである。
ところで毛沢東という男は不思議なカリスマだった。蜂起軍が江西永新県の三湾まで落ちのびたとき、兵力はさらに減って一〇〇〇人に満たなかった。脱走する兵士が相次ぎ、残っている者も「おまえ、逃げるか?」「おまえはどこへ行くつもりなんだ?」と囁きあうなど、すっかり意気消沈していた。
P351 このとき毛沢東はうつむく兵士たちを集めて言った。「みんな、敵が不意打ちをかけて来ようが、どうってことはない。誰でもおっかあの腹から生まれたんだ。敵も二本足だし、我々も二本足だ。賀龍同志は包丁二本からたたき上げ、いまや一軍の長になった。我々には二個大隊の兵士と七〇〇丁の銃があるのに、何もできない筈がないじゃないか!」これを聞いた兵士たちはたった一人で匪賊となり、共産党軍を率いるまでになった賀龍の活躍を思い出して、すっかり元気を取りもどした。また毛沢東は「いま我々は小さな石ころで、蒋介石は大きな水ガメだ。だがいつか石ころは水ガメをたたき割ってみせる」といったわかりやすい喩えで兵士たちを励ましたという。
天下を取ってからの毛沢東は、紅衛兵の熱狂的な毛沢東崇拝に見られるごとく、自分に絶対的な忠誠を求めた。だが人々が魅入られたようにこれに応えた背景には、彼自身に相手の「魂に触れる」ようなパワーがあったことも事実である。この毛沢東の魅力を生んだ最大の秘密とは、「土に生まれ、土に育った」農村知識人ぶり、平たく言えば田舎者だったことに求められる。
毛沢東は当時の知識人としてはむしろ例外的に、海外留学経験をもっていなかった。共産党のリーダーについて見ると、毛沢東のよき同志となる朱徳はドイツへ、周恩来と鄧小平はフランスに留学した。また国民党の蒋介石、汪兆銘は日本などで学び、留学時の体験は彼らがめざす社会改革のモデルや外交姿勢に大きな影響を与えた。これに対して毛沢東は一九四九年にソ連を訪問したのを除けば一貫して中国にとどまった。また彼は中国の政治家としては珍しい読書家で、古典の造詣が深かった。
P325 この土着の文化伝統に対する毛沢東の強いこだわりは、彼の言葉に中国の大地に根ざした重みと、地の底から湧きあがってくる活力をもたらした。中国の実情を無視したコミンテルンの指令や、マルクス主義の公式を振りかざす党中央の姿勢に悩まされた当時の中国共産党があって、中国人なら誰でも知っている故事を注意深く選び、自信をもって語る毛沢東の力強さは人々に安心感を与えたのである。それは人々の主体性を重んじつつも、強い宗教性を帯びた革命理論としての毛沢東思想を生み出すことになる。
井崗山革命根拠地の建設と梁漱溟
一九ニ七年一〇月、三湾を出発した労農革命軍は井崗山をめざした。この山は江西と湖南の境界にあり、標高は一八〇〇メートルほど、あたりは天然の要害で、太平天国で活躍した漢族の下層移民である客家の人々が住んでいた。洪秀全らは広西の紫刑山に入って上帝会を創設したが、いまや毛沢東も同じく山奥に根拠地を作り始めた。
だが井崗山には「山の大王」と呼ばれる先客がいた。共産党に入党したこともある袁文才らが率いる数百人の匪賊(哥老会員)で、地元の人々に支持されていた。このとき軍内には彼らを始末するように主張する者もいたが、毛沢東は「富者から奪って貧者を救う」ことをスローガンにかかげた秘密結社は革命軍への改造が可能だと考えた。そして毛沢東は
353 彼らがいちばん欲しがっていた銃を贈り、何度となく腹を割って話し合った結果、袁文才らはすっかり毛沢東に傾倒して革命軍に加わった。
すでに見たように国民革命期の共産党は上海の青幇首領である杜月笙の支援を受けたことがあり、農民協会にも多くの秘密結社員が加わっていた。だが当時の共産党は彼らが爆発させる負のエネルギーをコントロールできず、また彼らの心をつかめずに四・一二クーデターでの裏切りにつながった(前述)。毛沢東は秋収蜂起の失敗から軍事力の強化に力を注ぐ一方で、彼らアウトローも含めた中国社会の底辺と向かい合うことの必要性を痛感したのである。だがこうした毛沢東の意見は党の上層部には認められず、毛沢東が井崗山を去ると袁文才らは粛清されることになる。
次に毛沢東が取りくんだのは革命軍にふさわしい軍規の確立だった。もともと彼は軍隊が軍事行動だけではなく、大衆工作を行うべきだと考えていた。だが中国では「まともな人間は兵隊にならない」という社会通念があり、まず兵士が厳格な規律を身につけて民衆の信頼を獲得しなければならなかった。一九ニ八年一月に毛沢東は井崗山のふもとにある遂川県で兵士たちに宣伝活動を行わせた。このとき彼が提起したのが三大紀律、六項注意である。
まず三大紀律とは、(1)行動は必ず指揮に従うこと、(2)土豪から取りあげた金は公のものとすること、(3)農民からはサツマイモ一本(のちに針一本、糸一筋となる)取らないことをいう。軍令の徹底は部隊の命運を決するカギであり、没収財産の公有はめぼしい財産を持たない共産党軍にとって死活問題だった。また井崗山の生活は貧しく、民衆も飢えていたために、たとえイモ一本でも貴重だった。
P354 つづく六項注意は都市住民を意識した内容で、話し言葉は穏やかに、売り買いは公平に、借りたものは返す、壊したものは弁償する、寝るときに使った戸板は必ず元に戻し、敷きわらは束ねておくなどの内容を盛りこんだ。のちには捕虜のポケットを探らないといった内容が加えられ、整理のうえで八項注意として人民解放軍の軍規となった。
むろん革命集団が軍規を制定したのはこれが初めてではなく、太平天国の東王だった楊秀清は「右足を民家に入れた者は、左足を切る」といった厳罰主義で会衆を統率した。また蒋介石は敵前逃亡を図った部隊は責任者を銃殺するという革命連座法を作り、革命のために喜んで死ねる将兵を育成しようとした。
だが毛沢東は恐怖によって人々を従わせるようリは、具体的な指示を与えることで兵士の積極性を引き出そうとした。彼はまた上官が部下を殴ることを禁じ、兵士が会議で発言することを認めた。人々をやる気にさせる術を心得ていた教師出身の毛沢東は、革命教育のリーダーとしては彼らよりも一枚上手だったと言えよう。
さて毛沢東が革命根拠地の存在意義を示すために実行したのが土地革命であった。すでに国民革命期に毛沢東は湖南の農民運動を経験し、貧しい農民の耕地獲得に対する要求がいかに切実であるかを認識していた。また農民たちの願いをかなえなければ、革命軍は彼らの協力を得ることはできなかった。そこで一九ニ八年三月から毛沢東は周辺の各地に幹部を派遣し、
P355 農民たちを動員して「苦しみを訴える会」や闘争集会を開いた。また主として地主の所有地を没収し、家族数に応じて農民たちに分け与えた。
この土地革命の経験は中華人民共和国へと受けつがれたが、じつは当時農村問題の解決をめざしたのは毛沢東一人ではなかった。弱冠ニ四歳で北京大学に招かれ、儒教を根本とする中国文化の再構成を説いた梁漱溟がその例で、一九ニ八年から農本主義にもとづく郷村建設運動をおし進めた。彼は社会主義に一定の理解を示したものの、毛沢東のように中国に階級矛盾が存在するとは考えなかった。むしろ都市知識人が農村に赴いて「田舎の人(郷間人)」となり、全人格的な社会教育を行えば、中国固有の文化伝統に基づく農村の復興が可能だと唱えた。さらに彼は暴力革命に反対の立場をとり、「共産党は殺人放火を行い、その害は匪賊と大した違いがない」と述べている。
P356(梁漱溟、写真)のちのことになるが、一九三八年一月に梁漱溟は延安にいた毛沢東を訪ね、中国の未来について語り合った。このとき梁漱溟はユーモアを交えながら、抗日戦争の勝利をきっぱりと断言する毛沢東に大きな魅力を感じたという。だが階級闘争の是非をめぐって二人の意見は分かれた。毛沢東はいま中国に必要なのは徹底した革命であり、梁漱溟のような改良主義によって中国社会を変えることはできないと主張した。これに対して梁漱溟は毛沢東が階級問題を重視するあまり、中国社会がもつ固有な特質を見落としていると反論した。梁漱溟は毛沢東が国民教育との戦いに生き残るためにあみ出した、辺境の革命根拠地に基盤をすえた武力闘争の道を受け入れることはできなかったのである。
P357 包囲討伐戦と中華ソビエト共和国
さて南昌蜂起に参加した朱徳の率いる残余部隊は、一九ニ八年四月に井崗山に入って毛沢東と合流した。兵力を六○○○名に伸ばした労農革命軍は紅軍第四軍と改称し、リーダーの名前をとって朱毛紅軍と呼ばれた。この年の暮れには彭徳懐が率いる紅軍第五軍も合流し、一九二九年一月から紅四軍は江西南部、福建西部へ勢力を拡大した。また各地で共産党の根拠地建設が進められ、鄧小平は広西西部の少数民族地区に右江根拠地を設けた。
蒋介石がこれら共産党の動きに注目したのは一九三〇年七月だった。農村根拠地の拡大に自信を深めた共産党中央は、国民政府が中原大戦に追われている隙をついて、ふたたび南昌、長沙などの大都市に対する攻撃を命じたのである。このとき毛沢東の第一集団軍は長沙を攻め、電流の流れる鉄条網に牛の群れを突っ込ませるなどの奇策を用いた。だが根拠地を遠く離れての戦いでは民衆の支持を得られず、結果はまたも紅軍の敗北に終わった。毛沢東は独断で攻撃を中止して江西省南部に戻り、ここで兵力の補完をしながら国民政府軍を迎え撃つ準備を進めた。
一九三〇年一〇月に南京へ戻った蒋介石は、今後の政策課題の一つとして「共匪(共産党の匪賊)の粛清」を挙げた。だがはじめ彼は紅軍の実力を甘く見ており、一二月からの第一次包囲討伐戦では地方軍を中心に四万余りの兵力を投入したに過ぎなかった。これに対して三、四万の兵を率いる毛沢東は、敵を陣内深くおびき寄せ、分断したうえで殲滅する作戦に出た。わずか一週間の戦闘で国民政府軍は一万五○○○人の死者を出し、師団長は捕らえられて敗走した。
P358 政府軍敗北の報に驚いた蒋介石は、一九三一年二月に第二次の包囲討伐戦を発動した。蒋介石の日本留学時代からの盟友で、軍政部長だった何応欽を総司令にすえ、一一万人の兵力を動員した。いっぽう毛沢東は「敵が進めば我は退き、敵が退けば我は追う」という柔軟な遊撃戦術を展開し、国民政府軍のうち戦力の劣る舞台に手中放火を浴びせた。五月までに政府軍は三万人の死者を出して敗退し、作戦は失敗したのである。
たび重なる敗北に蒋介石は、紅軍が「内憂」すなわち国内最大の強敵であると認識を改めた。そして六月に彼みずから総司令となり、一三万人の兵力に空軍も動員して大規模な掃蕩作戦を実行した。当時毛沢東らは二度の戦闘で国民政府軍が惨敗を喫した後だけに、これだけ早く第三次作戦が行われるとは予想していなかった。はたして準備不足の紅軍は苦戦し、一時は根拠地のほとんどを失って包囲されてしまった。
だが八月にわずかな隙をついて包囲網を突破した紅軍は、数回の戦闘で国民政府軍に大きなダメージを与えた。蒋介石は地形を熟知し、民衆を利用することに秀でた紅軍に対して、兵力を集中して彼らの行動の自由を奪い、徐々に殲滅する他はないと考えた。だがちょうどその時を同じくして広州国民政府が蒋介石打倒をめざす軍事行動を起こし、蒋介石は兵力を割いてその北上を阻止しなければならなかった。さらに九月一九日に前線を視察するため南昌へ到着した蒋介石に、前日に発生した驚くべきニュースが届いた。
P359 「外患」すなわち日本による満洲事変の勃発である。
翌日蒋介石は慌ただしく南京へ戻り、紅軍に対する掃蕩作戦は事実上中止となった。重圧から解放された革命根拠地はかえって拡大し、一九三一年一一月のロシア革命記念日には瑞金を首都とする中華ソビエト共和国が成立した。この新政権は自らを「労働者と農民による民主独裁の国家」と規定し、毛沢東を政府主席として憲法大綱や土地法などを制定した。だがこれによって共産党中央の革命根拠地に対するコントロールも強化された。彼らは中国社会の現実をふまえた毛沢東の「農村が都市を包囲する」という革命戦略に対して、「狭い経験」に基づく「農民のたちおくれた思想」だと批判したのである。
満州事変とラストエンペラー
柳条湖事件と日本
一九三一年九月一八日の夜一〇時二〇分頃、奉天の北にある柳条湖で南満洲鉄道が爆破された。柳条湖は張作霖が爆破された地点から六キロほどしか離れていない。爆破を実行したのは奉天に駐屯する関東軍独立守備歩兵大隊の将校たちで、大きな爆発音がしたものの実際の被害は少なく(上下線あわせて一メートル、枕木二本ほどが破損)、直後に奉天行の列車が通過できるほどだった。
P360 ところが一〇時四〇分頃、奉天総領事館にいた森島守人領事のところに、特務機関から「柳条湖で中国軍が満鉄を爆破し、関東軍はすでに出勤中」との電話が入った。驚いた森島領事が特務機関に駆けつけてみると、外出中のはずだった関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐が作戦の指揮をとっていた。板垣が独断で出兵命令を出したことを知った森島は、外交交渉によって事態を解決するように求めたが、板垣は「すでに統帥権(天皇の陸海軍に対する指揮権)の発動をみたのに、総領事館は干渉するつもりか」と荒々しく詰めよった。なかには軍刀をぬいて「この国賊め、止めるとは何事だ」とどなりつける将校もいたという。
関東軍は柳条湖付近に駐屯していた張学良軍を攻撃し、その陣地を占領した。報告を受けた関東軍司令官の本庄繫は武装解除程度の処置が適当と考えたが、参謀たちは奉天付近の中国軍を撃退すべきだと主張した。その結果奉天に兵力を集中して攻撃を加えると共に、事件とは関係のない南満洲鉄道の要地でも軍事行動を起こすこと、朝鮮にいる日本軍部隊に増援を要請することが決まった。この作戦案を立てたのが、満州事変の首謀者として名高い石原莞爾中佐である。
石原莞爾は関東軍の作戦主任参謀で、日蓮宗への信仰とヨーロッパの戦史研究に基づいた予言的な世界認識である「世界最終戦論」を生みだした。それは間もなく日本とアメリカのあいだで世界のリーダーの座をかけた最終戦争が勃発するというもので、石原は日本
P361 が満蒙を領有し、この地を開発して戦争に備えなければならないと唱えた。この彼の構想は関東軍の参謀たちに影響を与え、日本国内でも満蒙問題を武力で解決すべきだと考える中堅将校が少なくなかった。
はじめ石原莞爾らは九月下旬に中国軍を装った日本人に総領事館などを襲撃させ、これを口実に軍事行動を起こすプランを立てていた。だが奉天総領事館の林久治郎がこれを察知し、外務大臣の幣原喜重郎に報告して調査が行われることになっていた。そこで板垣征四郎は予定日をくり上げ、少人数でできる鉄道路線の爆破に計画を変更したという。
さて事件発生のニュースが東京に届くと、第二次内閣を組織していた若槻礼次郎は九月一九日午前一〇時から閣議を開いた。このとき若槻首相は陸軍大臣の南次郎に対して、関東軍の行動は本当に自衛のための措置なのかと尋ねた。南は「もとより然り」と答えたが、続いて行われた幣原外相の報告は、明らかに今回の事件が軍部の謀略であることを示唆するものだった。結局閣議は不拡大の方針を固め、南陸相は増援部隊の派遣について提案することができなかった。
当時日本の植民地だった朝鮮から外国である東北三省へ軍を派遣するには、天皇の出兵許可である奉勅命令の伝宣が必要だった。閣議が派兵に必要な支出を承認しない限り奉勅命令は出ないため、陸軍三長官の会議でも速やかに関東軍の配置を「旧態に復す」べきだとの意見が出された。陸軍中央はこの方針に激しく反発し、関東軍はこの事件が張作霖爆殺事件の二の舞になるのではと焦っていた。
P362 ところが九月二一日に事態は一変した。関東軍から要請を受けた朝鮮の日本軍部隊が、奉勅命令を待たずに国境を越えて奉天へ向かったのである。じつはこの天皇対大権の干犯にあたる重大事件も板垣征四郎らの策謀であった。彼らは不拡大方針を守ろうとする本庄繁を無理に説得して、居留民の保護を名目に吉林へ派兵した。これによって東北南部の関東軍兵力が弱体化し、見るに見かねた朝鮮駐屯軍が越境してくるだろうと読んだのだった。はたして朝鮮軍司令官の林銑十郎は独断で部隊に奉天への移動を命じた。軍の論理がひとり歩きを始めた瞬間だった。
朝鮮軍越境のニュースが届いたとき、東京では閣議の最中だった。このとき柳条湖事件を機に満蒙問題の解決を図ることでは全閣僚が一致したが、朝鮮軍の派遣に同意したのは南と若槻の二人だけで、残りは海軍大臣以下全員が反対した。だが陸軍が内閣を打倒してでも増援軍派遣を認めさせようと強硬な姿勢を見せると、翌二二日の閣議では誰一人として反対意見を述べようとしなかった。閣僚たちはただ「出てしまったものは仕方がない」と朝鮮軍が出動した事実を認め、その経費を支出することで同意した。また今回の事件を「事変」として扱うことが決定され、日中両国は宣戦布告なしの戦争状態に入った。
P363
(燃える中国軍兵舎、写真)この満洲事変はいわゆる十五年戦争の始まりとなったばかりか、日本のファシズム化が
P364 進むきっかけとなった。若槻内閣の腰の引けた態度は、内閣が軍事行動の是非を問わずに、ただこれを承認すればよいとする先例を作ったからである。この政府の不拡大方針や外交努力を無視した軍主導の考え方は、事変という実態を糊塗する表現と共に盧溝橋事件(北支事変あるいは支那事変)でもくり返された。そしてブレーキを失った日本は暴走する軍部と奈落の底へ落ちていくことになる。
戦火の拡大と南京国民政府
もともと計画を練っていたこともあり、政府のお墨付きを得た関東軍の行動は早かった。奉天を占領した関東軍は市内に戒厳令を敷き、特務機関長の土肥原賢二が市長に就任した。また南満洲鉄道の終着駅である長春を抑え、ニ一日には吉林を無血占領した。ただしソ連の利権がからむ東支鉄道の重要都市ハルビンは、軍中央の説得によって出兵が見送られた。
このように関東軍の作戦が順調に進んだ一番の理由は、張学良の率いる東北軍が不抵抗、撤退の方針を取ったことにあった。当時張学良は病気療養のため北平におり、一八日夜は在外公館の関係者を招待して観劇中だった。事件発生の第一報を受けた彼はただちに病院内のオフィスに戻り、奉天の部下たちに指示を与えた。それは九月六日に張学良自身が出した、日本がいかに事を構えようとも「隠忍自重」に努め、抵抗することによって紛争を起こしてはならないという密命を再確認したものだった。
P365 すでに一九三一年七月に長春付近へ入植した朝鮮人移民をめぐるトラブルから、中国人と日本警察の武力衝突、朝鮮での反華僑暴動へと発展した万宝山事件が起こり、中国側の反日感情が高まっていた。また六月には大興安嶺で情報収集をしていた参謀本部員の中村震太郎大尉が、中国軍に逮捕されスパイとして殺害された。この中村大尉事件は八月に外交問題へ発展し、中国国内では近く日本が強硬手段に訴える可能性があると噂されていた。
だが当時の南京国民政府には、日本の軍事行動に抵抗するだけの力はなった。蒋介石は共産党に対する包囲討伐戦に追われており、広州国民政府の軍事行動にも対処しなければならなかった。またこの夏には長江中、下流域で大水害が発生し、被災者はニ三〇〇万人に達していた。そして何よりも蒋介石は国民政府軍と近代的な装備、編制を持つ関東軍との戦力差をよく知っていた。八月に蒋介石は電報で張学良に自重を求め、「決して一時の憤激にかられて、国家民族を顧みないことにならぬよう」と指示したと言われる。
晩年の張学良はおよそ次のように述べている。「九・一ハ事変(満洲事変のこと)で私は判断を間違った。のちに人々は私を不抵抗と罵ったが、私はこれには納得できない。ただ私は一地方長官として日本の意図を見誤ったというなら、それは認めざるをえない。あのとき私は日本がこんなことをする筈がない、れは日本にとっても利益にならないと考えた。もし日本が本気だとわかっていれば、私は命をかけて戦っていただろう」と。
この発言からは「不抵抗」将軍というあだ名をつけられた張学良の屈辱感がつたわってくる。
P366 だが彼が見誤ったという「日本の意図」は、日本自身にとっても自明のものではなかった。もともと石原莞爾らは東北三省の軍事占領後、日本がこれを直接統治する満蒙領有論を主張していたが、陸軍中央はこの計画に難色を示した。やむなく事変勃発から四日後の九月二二日、関東軍は独立国家の樹立へと目標を変更したが、これも表向きには「親日政権の樹立」へとトーンダウンせざるを得なかった。
またこのとき日本政府は不拡大方針をとっており、重原喜重郎は事態収拾のための外交交渉を試みていた。九月一九日に中国公使の重光葵は上海で宋子文と会見した。この時宋子文は日本政府の軍部に対する統制力に疑問を抱きながらも、日中両国の代表からなる委員会をつくる解決策を提案した。このプランは関東軍の戦線拡大によって実現しなかったが、日本の曖昧な態度は中国側の判断を難しくさせたのである。
日本の真意がつかめない南京国民政府は、パリ不戦条約(一九ニ八年)で侵略戦争の廃止をうたった国際社会へ訴えた。九月ニ一日に理事国となったばかりの中国代表は正式に国際連盟に提訴し、日本軍の撤兵を監視するオブザーバーの派遣を要求した。
だがこのとき各国は世界恐慌への対応に追われており、インドの独立運動に手を焼いていたイギリスは中国まで顧みる余裕はなかった。またアメリカは日本政府と軍部の対立を知ったうえで、当面は幣原喜重郎の努力に期待して介入を控えた。さらに列強には南京事件や漢口などの租界接収で湧きあがった中国のナショナリズムに対する不信感があった。国際連盟の常任理事国でもある「文明国」の日本と、果てしない政治的混乱が続く中国の
P367 主張を同列には論じられないというのが当時の国際社会ではなお常識だった。
ところが一〇月に入ると国際世論は変化した。関東軍が幣原の外交努力を挫折させるために新たな手を打ったからである。まず一〇月四日に関東軍司令部は張学良との交渉を拒否すると共に、彼の東北帰還を認めないとする声明を発表した。また八日には奉天撤退後の張学良軍が司令部を置いていた錦州を爆撃(相互参照)して市民を殺傷した。
このニュースに驚いたアメリカは、南満洲鉄道から遠く離れた無防備都市を警告ぬきで爆撃したのは、戦時においても許せない行為だと激しく抗議した。幣原喜重郎は今回の爆撃は日本政府の意図を反映しておらず、現地軍の「孤立」した軍事行動であると苦しい釈明を行った。だが日本政府に対する国際社会の信頼は失墜し、各国からパリ不戦条約を順守せよとの警告が寄せられた。そして二四日の国際連盟理事会では、一一月一六日までに日本に撤兵を完了することを求める決議案が出された。この案は日本の反対によって否決されたが、幣原協調外交は破綻して日本は孤立を深めたのである。
ラストエンペラーの再登場
一九三一年一二月、日本と中国で二人の政治家が辞職に追いこまれた。その一人は日本の首相である若槻礼次郎で、不拡大方針が踏みにじられたばかりか、金解禁政策も失敗して財界の支持を失っていた。また一〇月には陸軍の急進派将校によるクーデター未遂事件(一〇月事件)が起こり、内務大臣の安達謙蔵は関東軍を抑えるべく政友会との協力内閣運動を進めて閣内不一致に陥ったのである。
P368 そして辞職したもう一人の政治家とは南京国民政府の主席である蒋介石だった。満洲事変が勃発すると、東北三省から大量の避難民が北平、天津などへ流れこんだ。その中には多くの学生がおり、彼らは日本軍の横暴を訴えて各地で大きな反響を呼んだ。
北平では学生が政府に対日宣戦布告を要求し、日本製品のボイコットを唱えた。上海では学生抗日救国会が組織され、南京へ代表を送って不抵抗方針の廃止を求める請願運動を行った。九月二八日に南京で四○○○人の学生デモが行われると、蒋介石は学生代表を接見して慰撫に努めた。だが納得しない一部の学生は外交部を包囲し、不抵抗方針の元凶と見なされた外交部長の王正廷を殴りつけて重傷を負わせてしまった。
このように状況が騒然とする中で、九月末から南京、広州の両国民政府は和平の実現に向かって動き出した。まず一〇月に胡漢民が軟禁状態を解かれ、南京政府は除名処分を受けていた汪兆銘、馮玉祥、閻錫山、李宗仁など三〇〇名以上の人々が国民党へ復党することを認めた。一〇月ニ七日に上海で和平統一会議が開催され、つづく一一月には南京側の国民党第四期一中全会が開かれて、蒋介石はおよそ「一切の罪は私個人が作ったものであり、いまは一切を犠牲にして党と国家に貢献し、罪をつぐないたい」との声明を発表した。
これに対して広州国民政府の四全大会は汪兆銘派(上海)、胡漢民派(広州)の分裂開催となったが、いずれも蒋介石の下野を主張して譲らなかった。この結果一二月一五日に
P369 蒋介石は辞表を提出し。孫科を行政院長とする臨時政府が成立した。だがこの孫科政権は翌年一月の錦州陥落に対応できず、三たび蒋介石が政権の座に返り咲いた。この新政権は日本がひきおこした上海事変に対処することになる。
ここでさらに一人の主役に舞台に上がってもらうことにしよう。一九ニ五年二月に天津の日本租界へ移ったラストエンペラー溥儀である。行在所は紫禁城に比べれば質素だったが、やかましい規則や内務府の干渉がない分だけ彼は気に入っていた。はじめ溥儀は外国に行くことを望んだが、結局彼はここで七年間を過ごした。
むろん紫禁城の生活がそうであったように、天津時代も溥儀の周辺には彼を利用しようとする多くの政治勢力が出入りした。日本に爆殺された張作霖はその一人で、「陛下はよろしかったら、私の奉天に来てお住みください」と誘ったが、それは決して本気ではなかった。また帝政ロシアの将軍で、ソ連赤軍に追われて満蒙国境地帯で活動したセミョーノフは、様々な口実をつけて溥儀から数え切れない程の資金を奪っていった。
だが時間が経つにつれて、溥儀は日本に期待を寄せるようになった。そのきっかけは天津総領事だった吉田茂が、彼を日本人小学校の参観に招いたことだった。沿道に整列した小学生が紙の旗を持ってバンザイを叫ぶと、溥儀は感激のあまり目に涙があふれた。その後も日本軍司令部が派遣する将校たちの話に耳を傾けた溥儀は、いつしか日本が宣統帝の復位を望んでいると固く信じるようになった。
一九ニ八年に張学良が易幟を断行すると、溥儀たちは希望を失ってふさぎ込んだ。だが南京国民政府が果てしない内戦を始めると、彼はチャンスが訪れるのをひたすら待った。
P370 そして一九三一年七月、ついに待ち望んだ知らせが届いた。日本留学から帰った弟の溥傑が、満洲国成立後に溥儀の御用係となる吉岡安直から次のようなメッセージを託されたのである。「現在張学良は言語道断のふるまいをしており、満洲では近い将来に何か事件が発生するかもしれません。どうか宣統帝にはくれぐれもご自愛のほどを。希望がない訳ではありません」と。
はたして満洲事変が勃発すると、関東軍は溥儀に対して東北へ来るようにさかんに勧めた。だが日本領事館は溥儀に軍の誘いに乗らないように警告し、側近の中にも慎重論を唱えるものが多かった。すると一一月に関東軍は土肥原賢二を天津に派遣し、二日夜に溥儀と面会した。この席で溥儀は新国家構想について「その国は共和制ですか、帝政ですか。復辟であれば私は行きますが、そうでなければ行きません」と核心的な質問を浴びせた。土肥原は「もちろん帝政です」と答えた。
こうした言質をとったものの、溥儀の周囲はなお慎重だった。するとしびれを切らした土肥原はニセの中国人便衣隊(平服を着た兵士のこと)を使って天津で暴動を起こし、治安悪化を理由に溥儀が天津から離れるように仕向けた。溥儀は車のトランクに隠れて行在所を脱出し、大沽で日本の輸送船淡路丸に乗りこんだ。中国側の警戒線を突破した船は遼寧省営口(相互参照)へと向かった。
この旅のあいだ溥儀は、東北の民衆が歓喜して彼を迎える姿を想像していた。だが船が
P371 港に着くと、日本人以外は誰一人として姿を見せていなかった。日本側は溥儀の東北入りが秘密であったと説明し、溥儀自身も何の疑問も感じなかった。だが新国家建設に向けて熱狂する日本人と溥儀の姿を見すえる中国人の目は冷ややかだったのである。
【流転するラストエンペラー】
大清帝国最後の皇帝である宣統帝溥儀。清朝末期の最高権力者西太后の恣意によって、わずか二歳にして皇帝の地位についたが、辛亥革命によって退位。その後関東軍の誘いに乗って満洲に渡ると、操り人形そのままに満洲国皇帝に祭り上げられ、日本の敗北とともに亡命・抑留生活を送った。その波乱に満ちた流転の生涯は、酷薄な現代史に翻弄された一人の貴人の数奇な運命を示して余すところがない。(紫禁城時代、写真)
第九章 抗日の長城を築かん---満洲国と長征・西安事件
満洲国の成立とその現実上海事件の勃発と魯迅
P373 一九三二年二月に魯迅とその家族は、時おり砲声がひびく上海の内山書店で不安な避難生活を送っていた。一九二七年九月に広東を離れた彼は上海の共同租界に入り、許広平とのあいだに子供の周海嬰が生まれた。
内山書店の「老板(主人)」は内山完造といい、岡山出身のクリスチャンだった。彼は製薬会社の上海出張員として中国にわたり、一九一七年に北四川路でキリスト教関連の書物をあつかう本屋を開業した。
これが後に日中の文化人が集うサロンとなった内山書店であり、魯迅はその常連客だったのである。
P375
(上海内山書店、写真)真面目な変わり者同士だった魯迅と内山完造は妙にウマが合った。一九三〇年に南京国民政府との対決姿勢を強めた魯迅が、左翼作家連盟の結成大会に出席すると逮捕状が出た。このとき内山は魯迅を自分の家に避難させ、新しいアパートを手配した。
翌年に若手の進歩的作家たちが逮捕されると、魯迅は再び内山の援助によって日本人旅館に身を隠した。魯迅が弾圧に屈することなく政府批判の論陣を張り続けたのは、発禁処分を受けた彼の著作を代理販売した内山完造の支援があればこそのことだった。
P376 一九三二年一月一八日の夕方、日蓮宗の日本人僧侶五人が租界に接する中国人工場の前を托鉢のために歩いていた。すると突然数十名の中国人に襲われ、逃げ遅れた一人が殺された。これに対して日本青年同志会のメンバーは報復のために中国人工場を焼き打ちし、中国人警官一人を殺害した。また二〇日に日本人居留民は陸海軍の派遣と抗日運動の撲滅を唱えて、日本海軍の陸戦隊本部までデモ行進をした。
この事件を仕組んだのは公使館付きの情報将校である田中隆吉少佐で、国際都市である上海に世界の注目を集め、そのスキに満洲国の建国を進めることが目的だった。一月ニ七日に上海総領事の村井倉松は翌日午後六時までの期限付きで、中国側にすべての抗日団体を解散させることを要求した。上海の情勢はにわかに緊迫し、市内は避難しようとする民衆でパニック状態に陥った。
一月二八日の午後三時に上海市政府は日本の要求を全面的に受け入れると回答した。戦争は回避されたかに見えたが、その夜一一時二〇分頃、陸戦隊本部では白タスキをかけた部隊長が戦士を集め、装甲車を先頭に「市内警備」のために出動した。彼らが向かったのは第三次包囲討伐戦の中断後に江西戦線から引き抜かれた、戦闘能力の高い第十九路軍(軍長蔡廷鍇)の警備区域だった。陸戦隊は厳戒態勢を取る十九路軍に対してほとんど無警戒で突入し、はたして両軍のあいだにははげしい戦闘が勃発した。
内山完造が魯迅のために手配したアパートは陸戦隊本部の真向かいにあった。一月ニ八日
P377 夜に魯迅が書斎で執筆していると突然電気が消え、司令部の中庭からトラック部隊が走り出すのが見えた。程なく銃声が聞こえ、許広平が物干し場に上がってみると、赤い火線がヒューッと頭をかすめ、戦争が始まったかことがわかった。彼女が慌てて下りると、魯迅の書斎にも弾丸がつきぬけた穴ができていた。
三〇日の明け方、とつぜん大勢の日本兵が魯迅の家の門をたたいた。彼らは家の中に踏みこんだが、魯迅以外は女子供ばかりなのを見て出ていった。しばらくすると内山完造の使いが来て、「さっきアパートから陸戦隊本部に発砲した者があった。ここの住人はみな外国人で、中国人は魯迅さんだけだから、今度何かあったら庇いきれない。すぐに一家をあげて書店に移ってほしい」という伝言をつたえた。魯迅と末の弟である周健人一家は、取る物とりあえず内山書店の二階へ避難したのである。
こうして始まった潜伏生活について、許広平はおおよそ次のように記している。「私たちは階上の小部屋にとじこもり、子供が大声をあげたり、泣き叫んだりしないように気をつかいながらジリジリと日を送った。耳元にひびく銃声、通りに積み上げた砂嚢の傍らを哨戒する衛兵の靴音は手にとるように聞こえた。私たちは自分の国土で、侵略者の息もつまりそうな圧迫をなめつくして来た。誰もが黙して語らなかったが、そうした名状しがたい想いが時に奔流のように心を襲い、全くやりきれなくなるのだった」。
ここからは魯迅たちが戦場の片隅で息をひそめながら、不安や憤り、焦燥感にさいなまされていたことが生々しく伝わってくる。むろん我々日本人も太平洋戦争で空襲の恐怖におびえた経験を持っている。だが侵略戦争によって国土を蹂躙された人々が抱えた心の傷は、まったく次元の異なるものだったことがわかる。
P378 この第一次上海事変で日本軍は第十九路軍の前に大苦戦となり、三個師団と混成旅団を増派しても決着はつかなかった。三月三日の停戦までに日中両軍の戦死者は四八○○名を数え、市民の死傷者および行方不明者は、二万人にのぼった。この日ジュネーブでは国際連盟の総会が予定されており、停戦は日本への制裁を回避するための措置だった。たますでに二日前の三月一日には、「五族協和」の「王道楽土」をうたった満洲国が建国を宣言していた。関東軍の謀略は成功したのである。
満洲国の成立と善意の悪政
魯迅一家が上海で不安な毎日を送っていた一九三二年二月、溥儀は旅順で関東軍参謀の板垣征四郎と会っていた。溥儀は東北三省に新しく建設される国名が大清でなく満洲国であること、彼がその皇帝ではなく、執政となることに反発した。彼は「もし皇帝になれないのだったら、生きていて何の意味があるのか」と考えたが、まもなく板垣の脅しに震えあがった。
当時日本では新国家の元首として宣統帝を担ぎ出すことに、時代錯誤と異論を唱える者が少なくなかった。また東北三省を南京国民政府の支配から分離独立させるには、
P379 中華民国よりも優れた政治制度を採用しなければ国際社会に通用しないと考えられた。このため関東軍はまず溥儀を執政として建国し、数年後に民衆の推戴を経て皇帝に即位するというプランを示したのである。
一九三一年三月八日の午後三時、執政の地位をやむなく了承した溥儀は清朝発祥の地であり、新京と改称された満洲国の首都長春に到着した。列車が着くと軍楽隊が演奏を開始し、日の丸に混じって清朝時代の黄龍旗を持った旧臣たちが出迎えた。つづく九日には溥儀の執政就任式が挙行された。だが吉林総領事の石射猪太郎によると、式典は専門学校の卒業式程度の質素なもので、初めて会った溥儀の「顔面に露呈された凶相」に驚かされたという。
さて満洲国の建国宣言は、日本軍の援助によって奉天軍閥(張学良)の過酷な統治から解放された今こそ、満蒙三○○○万民衆のために中国との関係を断ち切って王道楽土を建設すると述べていた。だがこの国の性格をよく示すのは、溥儀が関東軍司令官の本庄繁中将とのあいだに結んだ秘密協定であった。この協定は次のような内容からなっていた。
(略、秘密協定四項目)P380 この密約によって関東軍は満洲国の全域にわたって行動する自由を獲得し、満洲国は関東軍の基地国家となった。また関東軍司令官が人事権をにぎったことで、外交ルートに頼ることなく満洲国の内政をコントロールできるようになった。溥儀の自伝によると、この密約は国務総理となる鄭孝胥が「独断専行」で決めてしまい、溥儀は怒ったものの「既成事実を追認」せざるを得なかったと述べている。だが実際には溥儀は板垣に言われるままにこの協定に署名しており、彼はみずからの手で満洲国を傀儡国家の地位へつき落としてしまったことになる。
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(満洲国執政となった溥儀、写真)はじめ溥儀は執政就任を皇帝のざにつながる第一歩と考え、政務に熱心にいそしんだ。だがやがて彼は「執政の職権は紙に書かれたもので、私の手にはない」ことを発見した。溥儀ばかりではない。閣僚たちはお茶を飲み、新聞を読み、世間話をする以外の仕事を与えられず、実権はすべて次長である日本人に握られていた。
また満洲国は五族協和をスローガンにかかげ、満人(漢族と満洲族つまり中国人)、朝鮮人、モンゴル人、日本人、ロシア人などの「各民族がまったく平等」であるとうたっていた。だがそれは少数民族である日本人(人口比では約一パーセント)を保護するためのスローガンであり、実際には民族間の平等など夢物語だった。
これを示す良い例は満洲国官吏の給与格差をめぐる会議であった。満人官吏の給与は日本人の六割程度に抑えられており、閣僚たちはこれが「日満親善」の理想に反すると批判した。すると総務長官の駒井徳三らは、日本人は能力も生活水準も高いから、俸給も高くなければならない。日本人は米を食べなければならず、満人のようにコーリャンを食べて暮らすわけにはいかない。そもそも日本人はわざわざ故国を離れ、満人のために王道楽土を建設しているのだ。もし親善というなら、日本人に感激して俸給を余分に取ってくださいというのが当然ではないかと反論した。
このとき閣僚の一人が「日本はどこに王道楽土を建設するつもりなのでしょうか。満洲にではないのですか。満人がいなくても建設できますか」と言葉を返した。すると駒井は血相を変えて怒り出し、「君らは満洲の歴史を知っとるのか!満洲は日本人が血とひきかえに取ったものだ。ロシア人の手から奪い返したものなんだ。これは軍の決定だ!」とどなりつけた。会議場は静まりかえり、もはや誰も口を開かなかったという。
結局のところ満洲国の日本人は「善意の悪政」すなわち主観的には善意に燃えながら、他者と共生する多民族社会へのまなざしを欠いていたために、独善的な価値観を押しつけることしかできなかった。給与や食事の格差は言うにおよばず、電車の車両すら満人との
P383 間には厳然たる区別があった。多くの日本人は他民族への差別意識を無自覚にかかえたまま、内地の延長である日本人社会に閉じこもって異文化との接触を拒否していた。
こうした実態について植民地学者の矢内原忠雄は、すでに満洲国の理想主義は「日陰者」となり、帝国主義の法則が貫徹していると観察した。だがその法則とは「反日分子はその場で殺してよい」とする暴力的支配と不可分の関係にあり、耕地の強制買収に抵抗する満人農民に対する容赦ない弾圧が行われた(土龍山事件)。これら武力を背景とした強圧政策の代価は、一九四五年の日本敗戦後に東北全土に取り残された日本人開拓へそのまま降りかかってくるのである。
リットン報告書と熱河侵攻
このころ日本では首相の犬養毅が苦悩していた。犬養は若槻礼次郎のような不拡大方針は取らなかったが、東北三省における独立国家の形成が中国問題について結ばれた九ヵ国条約(一九二二年)に抵触することを恐れた。また孫文と親しかった彼は中国の東北に対する主権を認めたうえで、親日政権を樹立する方向で南京国民政府と交渉しようと試みた。だが犬養が満洲国の承認を渋ると、海軍の青年将校たちは首相官邸を襲撃して彼を射殺した。「話せばわかる」「問答無用」のやりとりで有名な五・一五事件である。
次に関東軍の野望の前にたちはだかったのはリットン調査団であった。一九三一年一二月に国際連盟は満洲事変に関する調査団の派遣を決議し、翌年一月にイギリスのリットンを初めとするメンバー五人がジュネーブに集まった。これに参与員として日本側から吉田伊三郎(トルコ大使)、中国側から顧維鈞(張学良顧問)らが加わった。彼らは二月末に横浜へ着いて日本の要人と会談し、三月一四日には事変による戦闘の傷跡も生々しい上海に入って活動を開始した。
このリットンらの調査をめぐって焦点となったのは、中国の現状をめぐる日中間の言い分の違いであった。日本は中国が統一国家ではなく、崩壊の道をたどりつつあり、近代国家としての資格を欠いていると主張した。すると調査団が北平に到着した一九三二年四月に、張学良は一行を中南海に招いて演説を行った。
このとき張学良は「東北は中国の一部にあらず」とする日本の主張を斥けたうえで、一見混乱した中国は今まさに近代化の途上にあり、日本はこの事実から目をそむけていると指摘した。むしろ日中衝突の真の原因は、日本が中国における社会の進歩、政治的統一への歩みを疎ましく思った結果であり、中国人みずからの手で経済建設を進めてきた東北三省を日本は武力で奪い取ったのだ。しかし満洲国を正当化しようとする日本の「嘘やデマ」は正義と真理には対抗できない。日本は国際連盟理事会の決議を無視して侵略、挑発の方針を取ってきたが、平和を愛する中華民族とその発展の権利を否定することは決してできないと訴えた。この演説にリットンは心を動かされたという。
旗色が悪いと見た日本は、四月からの東北三省での調査にさまざまな妨害を加えた。
P385 調査団の参与員だった顧維鈞は、満洲国によって入国を拒否された。また調査団がチチハル付近の嫩江橋で日本に抵抗した馬占山(元黒龍省の主席代理)と連絡を取ろうとすると、関東軍は二個師団を派遣して馬占山を攻撃し、七月に「戦死」と発表した(それは誤報だった)。さらに犬養の後継首相となった斉藤実内閣は九月に日満議定書を結び、満洲国を承認してその既成事実化を図った。
一九三二年一〇月二日、完成したリットン報告書が世界に公表された。この報告書は中国側の排外宣伝や無法状態が日本との緊張をひきおこしたと述べるなど、必ずしも中国に好意的な内容ばかりではなかった。だが柳条湖事件での関東軍の行動については、これを「合法的な自衛措置と認めることはできない」と断定した。また満洲国についても「純真かつ自発的な独立運動」によるものではなく、日本軍が宣戦布告もなしに東北各地を占領し、これを中国本土から切り離した結果であると結論づけた。
そして報告書は単なる原状回復が問題の解決にならないと指摘したうえで、満洲国にかえて東北三省に中国主権下の自治政府を設け、列強の共同管理下に置くこと、自治政府内に多くの外国人顧問を任命し、その中心は日本人とすること、さらに東北全土の非武装化を図り、日中両軍はこの地から退去すべきことを提案した。
こうしたリットン報告書の内容について、日本政府は「まやかしの国際管理」だと激しく反発した。また中国政府は列強による東北三省の共同管理案には難色を示したものの、この地の非武装化については考慮するとの反応を見せた。
P386 一九三二年一二月に国際連盟の臨時総会が開かれると、多くの国はリットン報告書の採択と満洲国の否認を求めた。イギリスなどの大国は日本擁護の姿勢を見せたが、この空気は一九三三年二月に関東軍が熱河省に侵攻したことで一変した。二月ニ四日に国連総会は報告書の内容に基づく勧告案を、賛成四二、反対一(棄権一)で採択した。このとき日本代表だった松岡洋右が、「日本は協力の限界に達した」と言い残して退場したエピソードは有名である。三月に日本政府は国際連盟に脱退を通告し、国際的孤立の中ドイツ、イタリアとの提携を深めることになる。
関東軍が熱河作戦を始めると張学良は徹底抗戦を主張したが、熱河省主席の湯玉麟らは逃亡して中国軍は敗退した。三月に関東軍は「満蒙」の全域を掌握し、張学良はその責任をとって陸海軍副司令を辞任した。さらに万里の長城を越えて華北に侵入した関東軍は激戦のすえ、五月に塘沽停戦協定を結んで進撃を停止した。このとき満洲国と隣接する広大な地域が非武装地帯として設定されたが、中国軍の撤退ラインからかつて帝国の首都だった北平は目と鼻の先だったのである。 安内攘外と長征の開始
安内攘外策と第五次包囲討伐戦
こうした日本の侵略は中国全土に大きな衝撃を与えた。多くの新聞・雑誌は憤激して P387 「倭寇」の撃滅をとなえ、政府首脳の一人である汪兆銘は張学良の不抵抗を非難して政府を去った。だが蒋介石は彼我の軍事的力量を冷静に分析していた。彼は「一面抵抗、一面交渉」策すなわち上海や長城付近では日本軍に抵抗しながらも、犬養毅との和平交渉や国際連盟の仲裁にも期待を寄せ、できるかぎりの忍耐、譲歩をして時間をかせぐことを考えた。
このとき蒋介石が提起した基本方針が「安内攘外」であった。これはまず国内の反対勢力を平定してこそ、はじめて外国の侵略に対抗することができるとする考えで、日本に対する抵抗よりも「赤匪」すなわち共産党の撲滅を優先させるものだった。当時中国で大きな論争を巻きおこしたこの政策を打ちだしたのは、実は蒋介石が初めてではなかった。太平天国を致命的な「心腹の害」と呼び、これの弾圧を第二次アヘン戦争でのイギリス、フランスとの戦いよりも重視した清朝首脳部の考えを、蒋介石は再演しようと試みていた。
たとえば蒋介石は孫文の三民主義を「中国古来の思想的伝統を受けつぐもの」と評価したうえで、マルクス主義を掲げる共産党は「中国の倫理に反する」異教徒だと非難した。それは太平天国のキリスト教的性格を排撃し、儒教的正統を守るために湘軍に結集せよと呼びかけた曾国藩の言説をふまえた主張だった。また小作料の軽減や連帯責任制などの政策を行うことで農民たちを共産党から引き離し、軍事的には守勢をとりながら包囲網を狭めていく「政治七分、軍事三分」の新戦略も、中国の歴代王朝が反乱鎮圧のための常套手段として用いた保甲制や堅壁清野策を焼き直したものだった。
P388 いっぽう江西ソビエトでは毛沢東が臨時政府主席の地位にあったものの、実権は王明、秦邦憲らのソ連留学生グループに奪われていた。一九三三年初めに上海から移転してきた共産党中央は、コミンテルンの軍事顧問であるオットー・ブラウンの指導のもとで正規軍による積極進攻を主張した。また革命根拠地が展開してきた遊撃戦術を「右よりの機会主義」と批判して毛沢東派の幹部を排除した。
つぎに彼らはコミンテルンの「中間勢力主要打撃論」に基づいてソビエト地区で土地点検運動を展開し、地主および富農に対する徹底した土地没収を行った。だがこの運動はエスカレートして人々を恐怖におとしいれ、中農までもソビエト地区から逃亡して生産停滞による食糧不足を招いた。さらに一九三三年一一月に上海事変で日本軍に抵抗した十九路軍の蔡廷鍇らが、蒋介石の安内攘外策に反対して福建人民政府を組織するという事件が起きた。だが党中央はこの中間勢力を「最も危険な敵」とみなして積極的に連携しようとせず、勢力拡大のチャンスを逃してしまった。
一九三二年六月からの第四次包囲討伐戦が日本軍の熱河侵攻によって挫折すると、蒋介石はドイツ国防軍の父といわれたハンス・フォン・ゼークト大将(相互参照)を軍事顧問に迎え、
P389 かつての常勝軍と同じく新式装備による軍の近代化に取り組んだ。一九三三年一〇月に蒋介石は五〇万の兵力を動員して第五次包囲討伐戦を開始した。
この戦いで国民政府軍は軍用道路を整備して厳密な経済封鎖を行い、堅固な陣地を構築して一歩づつ包囲網を圧縮するという戦略に出た。これに対して共産党中央は「敵にソビエトの一寸の土地も踏みにじらせない」という正面作戦で応じたが、二○○機の飛行機やコンクリートで固められたトーチカ群の前に紅軍部隊はもろくも敗退した。一九三四年三月にソビエトの玄関口である広昌県が二万四○○○人の死傷者を出して陥落すると、もはや共産党に根拠地を維持する力は残っていなかった。
のちに毛沢東は「私が井崗山などの根拠地に好色政権をうち立て、遊撃戦術を展開することを提起すると、一部の洋式パンを食ってきた連中(ソ連留学生のこと)はこれを信頼せず、山の中からマルクス主義は生れないと言った。一九三二年の秋から私は仕事がなくなり、あちこちで集めたマルクス、レーニンなどの書籍を一日中読みふけった。のちに私が書いた『実践論』『矛盾論』はこの二年間の読書によって生まれたのだ」と述べている。彼は不遇をかこった江西ソビエト時代を充電期間に変え、これまでの体験を総括して思索を深める貴重な機会を得たのである。
起死回生をかけた長征
一九三四年一〇月に紅軍第一方面軍の主力である八万六○○○名は、江西ソビエトの首都瑞金を出て広東、湖南、広西の山岳地帯へ向かった。のちに中国共産党の神話として語りつがれることになる、二万五○○○里(一万ニ五○○キロ)におよぶ生き残りをかけた戦い--長征の始まりである。
この長征には
391/ 393
遵義会議と周恩来
P395
高まる抗日のうねり
蒋介石の抗戦準備と独裁体制
P397
中国民権保障同盟と魯迅
P399
日本の華北分離工作と一二・九学生運動
P401
義勇軍行進曲と八・一宣言
P403/ 405
西安事件と張学良
苦悩する東北軍総帥
P407
事実をもって答えん
P409/ 411
監禁された蒋介石
P413
実現した蒋介石・周恩来会談
P415/ 417/ 419
第一〇章 辺境の街と人々---香港・台湾そして上海
異文化の窓口としての香港と上海時代の活力をしめす辺境
P419/ 421/ 423/ 425/ 427
近代文明の洗礼と東亜同文書院
P429/ 431/ 433
台湾と日本型近代のゆくえ
台湾総督府と後藤新平
P435/ 437/ 439
「台湾青年」と議会設置要請運動
P441
霧社事件と「サヨンの鐘」
P443/ 445
大革命時代の上海と香港
五・三○運動と省港スト
P447/ 449
台湾共産党と朝鮮人の独立運動
P451/ 453
エピローグ・魯迅の遺言と日本人たち
魯迅の死と内山完造
P455
鹿地亘と日本人反戦同盟
P457/ 459/ 461
二十一世紀の中国と日本
P463 こうして見ると辺境の街に生きた人々個性的な姿には、一つの共通点があったことがわかる。彼らはみずからの手で運命を切り開き、権力や体制の圧迫に屈しない気骨ある人々だった。また彼らは弱者への共感を忘れない勇気を持っていた。
生前の魯迅は内山完造に「道というものは初めからあるのではなく、みな人が歩くことによってできるものだ」と言ったという。この言葉は本章の登場人物にたちに当てはまるだけでなく、辺境からの革命をめざした洪秀全や孫文、中国の大地に深く根を下ろした毛沢東
P464といった人物にこそふさわしい。あるいは本書の内容を踏まえて言うなら、出口の見えない混乱のなかで革命の方途を求め続けた近代中国の歩みを示すことばだと言えるだろう。
一九四五年八月十五日、日本でポツダム宣言の受諾を告げる玉音放送が流れたとき、蒋介石も重慶でラジオのマイクにむかっていた。抗日戦争の勝利を宣言した彼は「汝の敵を愛せよ」というキリストの言葉に無限の感慨を覚えると述べたうえで、およそ次のように語っている(tw)。
われわれは報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。もし暴行をもって敵国の暴行にこたえるなら、憎しみは憎しみを生み、永遠に終わることはない。第二次世界大戦での日本の犠牲者は三一〇万人と言われている。これに対して日中戦争での中国の犠牲者は一五〇〇万人とも、二〇〇〇万人を超えるともいうが、正確な数は現在もわからない。
しかも蒋介石がこのメッセージを発したとき、日本の国家元首はみずからを最大の「犠牲者」にすることで、国体の護持を図っていた。たとえ蒋介石の発言がどれほど政治的思惑に彩られたものであったにせよ、「報復するな」という言葉が口をついて出た中国社会の懐の深さには脱帽せざるをえない。
(略)学術文庫版あとがき
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