第一章 開戦 P13-99
1.5(上海周辺図) (市街図) (年表) (P40-)
P40 ここで盧溝橋事件から上海での開戦、いわゆる第二次上海事変勃発までの流れについて概観しておきたい(tw,相参,相参)。盧溝橋のあと、日本国内では事態拡大派と不拡大派との間での対立があった。(略)特に内地三個師団の動員を決める七月二十七日の閣議決定までの期間は、日本政府の方針は毎日のように揺れ動いた。中でも七月十一日の混乱は甚だしい。
正午前より五相会議(総理、陸軍、海軍、大蔵、外務の各大臣による会議)が開催され、午後、内地から華北への派兵を決する閣議決定がなされた。そして午後七時前に華北出兵に関する政府声明が出されてしまう。
しかしこの日、現地では朝から停戦に向けたぎりぎりの交渉が行われており、東京で華北派兵の政府声明が出されたちょうどその頃、中国側による遺憾の意の表示、責任者の処分、中国軍の盧溝橋城郭内からの撤兵、抗日団体への取り締まりの強化を旨とする協定が調印された。
この協定調印の電報を現地から受けた参謀本部は急遽派兵見合わせを決める。ところが、午後十時には再び五相会議が開かれ杉山陸相が「華北の情勢は楽観しがたい」と力説し、結局、内地からの派兵は見合わせるものの、満州・朝鮮からの動員は行うとの結論が出される。
その二日後の十三日。東京では不拡大派の努力によって、事態不拡大、現地での事態解決、十一日に調印された停戦協定の実行、内地部隊動員の保留を旨とした"北支事変処理方針"が決定される。ところが同日現地では、前日着任したばかりの新任の北支那駐屯軍香月清司司令官(中将)が、
P41不拡大のための努力を重ねていた同軍の橋本参謀長らの意向に反し、中国軍の北平(北京)からの撤退など、過大な対中要求案を作成し中央に具申する。
迷走は続く。
十一日に現地で調印された協定では、謝罪を行う者や処分される者が特定されておらず、協定の履行期限も付されていなかった。陸相は十七日の五相会議においてこれらの明確化を発議、五相会議は、冀察政務委員会(河北省および察哈爾省を統治する地方政権)委員長兼第二十九軍司令官の宗哲元による陳謝、馮治安(盧溝橋を守備していた第二十九軍第三十七師の師長)の罷免等について、十九日を期限として履行を求めると決定した。
その期限の十九日、内地師団動員をなんとしても阻止せんとする不拡大派リーダーの石原参謀本部第一部長は、拡大派の杉山陸相、梅津次官らに対し、このままでは全面戦争となるのは必至なので、思い切って華北の軍隊を満州域内まで退き、あわせて近衛文麿首相が南京に行き蒋介石と直接交渉すべきだ、と膝を詰めた。しかし陸相は「首相にその気迫はあるまい」とあしらってしまう。
結局翌二十日、内地師団の動員が閣議決定される。これで勝負あったかと思われたが、綱引きの形勢はまたもや逆転する。二十一日、現地視察から戻った柴山軍務課長らが「協定は履行されつつあり出兵は不要」と報告、二十二日には北支那駐屯軍の橋本参謀長が「現有兵力で足りる」と打電し、さらに、馮治安の部隊の一部が撤退を始めたとの情報が入る。その結果、内地師団動員は再度見合わせられるこちとなった。
この間の中国側の状況を見ておくと、宋哲元ら現地軍の首脳部は事態の収拾に奔走したが、蒋介石は徹底抗戦の意思をほぼ固めていた。蒋介石は、華北に向けて中央軍を北上させ、同時に日本軍に対して妥協的な宋哲元に抗戦を強く指示する。
そして、七月十六日から江西省九江南部の景勝地、廬山において汪兆銘と連名主催の廬山座談会を開催、会議二日目の十七日、四十五分に及ぶ大演説を行い、「最後の関頭」に至ったP42ならば徹底的に抗戦する、と宣言した。
ただ、この時蒋介石はあわせて、絶望に陥る一瞬前まで外交による事変の解決をはかる、とも述べているのだが、中国各紙に全文が記載されたこの演説は中国民衆を大いに刺激し、抗日世論をさらに燃え上がらせることとなった。
「最後の関頭」演説を受け、北平周辺を守備する宋哲元麾下の第二十九軍は爆発寸前の緊張状態となる。二十五日には北平郊外の廊坊で事件が発生した。第二十九軍と軍用通信機の修理のために派遣された日本軍との間で起こった銃撃戦である。
この戦いは追撃砲も使われる激しいもので、日本軍機による爆撃も行われた。二十六日には、北平居留邦人保護のために広安門を通って北平市内の兵営に向かおうとした日本軍と城壁上の第二十九軍との間で銃撃戦が行われた。
こうした現地での緊張の高まりを受け、二十七日、日本では三度目の内地師団動員の閣議決定がなされてしまうのである。二十九日夜には通州で日本人虐殺事件が発生した。ここに日中間の情勢は戻りようのないポイントまで達したかに見えたが、七月末に天皇の和平を促す言葉もあって、八月に入っても最後の外交努力が続けられた。
八月上旬、外務省石射東亜局長の発案を元にした停戦交渉案と国交調整案が陸海外三省大臣による了承を得た。両案は、七月十一日に現地で調印された協定のように盧溝橋事件の謝罪や責任者処罰といったものを要求するものではなく、満州国承認または黙認を求めはするものの、満州事変以降に日本軍の圧力のもとで設定された非武装地帯の調整や地方政権(冀察政務委員会・冀東防共自治委員会)の解消などの譲歩を行うというものである。
両案の中国側への提案は、中国畑の長い元外交官の在華紡績同業会理事長船津辰一郎から、船津の友人で国民政府外交部亜州司長の高宗武に示すという方法がとられることとなった。いわゆる船津工作である。八月九日午前、船津・高宗武会談が行われ、午後には川越茂中華大使と高宗武との会談が行われた。
両案において日本は大きな譲歩を行っており、これP43をもとにさらに数日でも交渉が続けられれば日中間の停戦が実現した可能性が高い。南京戦もまだ行われていないこの段階で停戦が成っていれば、その後の現代に至るまでの日本、中国の歴史は大きく異なるものになっていたに違いない。
ところが同日、日本海軍の大山中尉が上海虹橋空港そばで殺害される事件が発生してしまう。これが決定的な引き金となって上海での全面的衝突が勃発する(tw,tw,第二次上海事変(淞滬会戦)1937.8.13相互参照)。
(略)靄若(相互参照)を助けた白人男性のオフィスは歩いて数分のところにあった。(略)広い庭を抜ける間に男性は、ここはイギリス総領事館であり、自分の名は「エドマンド・ホール=パッチ」だと言った。(略)
靄若はソファの長椅子に座った。エドマンドのセクレタリーであると自ら紹介したミセス・フレイザーが傷の手当てを始めた。雨が降り続いている。雨粒が無数の木の葉にあたる音が開け放たれた窓から入ってくる。高さも強さも一定した単調な雨音が心を鎮めてくれた。
治療の間にエドモンドは、盧溝橋事件から今日に至P44るまでの間に中日間で何があったか教えてくれた。
エドマンドの説明には靄若の知らない内容が多かった。知っていたとしても、新聞で読んだ日本を強く非難する記事とは異なっていることも少なくなかった。
「ずいぶん詳しくわかっているのですね」
「それがぼくたち外交官の仕事だからね」
「でも私が新聞で読んで知っている内容とは少し違うところもあるみたい」
「中国の出す情報と日本の情報、それから自分たちで集めている情報を総合しているんだよ。中国の出す情報は当然中国寄りだし、日本のは日本寄り過ぎるから、どちらかの情報だけでは本当のことはわからない」(略)
「しかしそうしていろいろな方面から情報を集めても、なんでもかんでもわかるというものでもないのだよ。マルコポーロ・ブリッジ(盧溝橋)で起こった事件も真相はよくわからない。(略)」
(略)(盧溝橋事件、①近衛文麿・蒋介石直接交渉案②宮崎龍介密使計画の記述の有無)
→①無②有『娘が語る白蓮』第六章 戦時下の密使 P98
→①有②有『夢顔さんによろしく(上)』P208
→①有②無『日中戦争はドイツが仕組んだ』2.2 不拡大か一撃か P64
→①有②無『上海エイレーネー』P40
→①無②無『日本近現代史入門』5.2 盧溝橋事件(日中戦争)P264
→①無②無『重光・東郷とその時代』第六章 盧溝橋事件 P200
→①有②無『近衛文麿 野望と挫折』P84(参照、tw)
1.8 P66-73
P66 日本軍は、八月二十三日に黄浦江が揚子江に流れ込む呉淞に第三師団を、呉淞より揚子江を約十五キロ遡った地点に第十一師団を強行上陸させた。この時日本では、敵前に上陸しさえすれば、まともな戦闘もなく中国軍は撤退するだろうという考えが支配的だった。いわゆる"対支一撃論"である。
ところが予想に反し、中国軍の抵抗は頑強だった。日本は、ここ数年でのナショナリズムの大いなる高揚を見誤っていたのである。中国軍兵士の士気は極めて旺盛で、ドイツの指揮のもとに構築されたトーチカに立て籠もり、日本軍が肉迫しても一歩も退かずに執拗に抵抗した。(略)
一方で日本軍の士気はかなり低調だった。日本軍には戦闘の大義名分が脆弱であり、この点が侵略者から国士と家族を護るという強いナショナリズムに支えられた中国軍との大きな差であった。戦う理由があいまいでは、とうてい死の恐怖を忘れて勇敢に戦うことなどできない。戦闘が長引くにつれ、日本軍の中には、軽傷を負って戦場を離脱しようとばかり考える兵士も増えていった。致命傷とならないように注意しながら自らを銃で撃つものもいたという。
中国軍は士気が高いうえに内陸より続々と援軍が送られてくる。一方で日本軍は士気、兵員数で劣るのみならず、この戦線に当初投入された戦車、大口径砲等が貧弱で、近接戦用の軽機関銃、手榴弾の性能も中国軍の方が優れていた。(略)
一撃を加えるだけでいいという日本軍の目論見は外れ、揚子江岸での両軍の激しい攻防は長期に渡って続P67くことになる。
(略)
第二章 新人 P100-149
(略)
P112八月二十三日に揚子江岸に上陸した松井石根大将を司令官とする上海派遣軍、すなわち第三師団と第十一師団は、中国軍の高い士気に拒まれ続け、九月に入っても戦線は揚子江からわずか十数キロほどのところで停滞してしまっていた。
戦局打開のため日本軍は第九、第十三、第百一師団等を増強し十九万の大兵力となる(相互参照)。海軍航空部隊は、九月上旬に上海市北東部の江湾地区に急造した公大飛行場に進出し、九月下旬までには上海上空の制空権をほぼ確保する。
しかし地上での膠着状態は続いた。戦線は動かずとも日々激しい戦闘が繰り返され、消耗が嵩んでいった。開戦時、日本軍の各中隊の人数は二百名程度だったが、前線では、それが二十名程度にまで減少してしまっている部隊もあった。壊滅的と言ってもいい打撃である。
P113十月後半に至って、ようやく戦況が動き始める。士気は相変わらず低くとも、日本軍が圧倒的な海軍力と空軍力にものをいわせ中国軍を圧し始めたのである。
十月二十六日、日本軍は激戦の末に大場鎮を陥落。これにより上海虹口を北からせめていた中国軍は背後から日本軍に襲われる形となり、上海西方への撤退を開始した。翌日には日本軍は一気に南下して蘇州河にまで達する。
この時、殿軍として蘇州河沿いの倉庫に立て籠もった中国軍との間で激しい戦闘が行われた(tw)。いわゆる“四行倉庫の戦い”(市街地図)である。この戦いは租界に隣接する地で行われたため国際的にも注目されたが、それも十一月一日に中国軍の撤退によって幕を閉じた(tw,tw)。
膨らませ過ぎた風船が突如破裂するように、高い士気でよく支えてきた中国軍も、いったん崩れ始めるともろかった。中国軍を背後から挟み撃ちにするため、第六、第十八、第百十四師団で構成される第十軍が十一月五日に杭州湾から上陸を始め、翌六日に日本軍は<日軍百万上陸杭州北岸>と書かれたアドバルーンを上海の上空に掲げた。
むろん百万というのは実際の数を十倍以上にした誇張だったが、中国軍は大きく動揺し南京方面へ総退却を開始、上海全域は陥落した。この三カ月にわたる上海周辺での戦闘で日本軍の戦死者数は一万に達した。
これは日露戦争時の旅順攻略戦以来の損害である。中国軍の戦死者数は日本軍のそれをはるかに上回ったとみられる。
激しい戦闘の一方で、和平に向けての努力も続けられていた。ヒューゲッセン大使襲撃の件が落ち着いた頃、イギリスのクレーギー駐日大使が広田弘毅外相より日本の中国に対する要求内容を聴取し、その聴取内容を、入院したヒューゲッセン大使の代理のハウ大使が、エドマンドとフレイザー少佐を伴い南京に赴き、蒋介石ら国民政府に伝えた。
蒋介石側は基本的に合意する意思を示した。
ところがこの頃、日本国内では対英感情がかなり悪化していた。日本の中国進出は中国に大きな権益を有するイギリスの利益をおびやかすことになるのは必至であることこからイギリスは常に日本の行動を抑制する
P114 態度をとったが、そのことがイギリスは中国寄りであるという世論につながった。マスコミも積極的に反英感情を煽った。反英世論は激昂し、結局広田外相も、イギリスによる和平仲介の続行を停止せざるを得なくなってしまう。
十一月になり、ドイツの仲介による和平交渉が開始された。広田外相よりディルクセン駐日ドイツ大使に対して和平案が示され、トラウトマン中華ドイツ大使がそれを国民政府側に伝えた。
いわゆる“トラウトマン和平交渉”である。
(略)
P116 夕方に虹口で日本人と会う約束があり、アジトを出た靄若は黄包車に乗って虞洽卿路(現西蔵中路)を北に向かった(市街地図)。
戦火を逃れ租界に避難してきた人の数は開戦直後に比べ一層増えている。上海の人口は難民流入によって倍に膨れたと言われるほどだ。多くの難民が路上で自分の居座る場所を確保し生活を営んでいる。虞洽卿路も、道路の両側はそこで暮らす人々で溢れている。
黄包車は、顔も服も真っ黒に汚れうずくまる人や横たわる人を避けながら進んだ。おそらくそのうちの何人かは餓死している。
路上生活者たちの炊き出しの煙があちらこちらから立ち昇っている。耐え難いのは糞尿の臭いだ。公設のトイレがあるわけでもないので人々は所構わず排泄をする。外難に近い道路はどこもアンモニアと硫黄の臭いに占拠されてしまっている。
道路沿いの商店はその多くが営業を再開しているが、物流の混乱により品揃えはかなり悪い。
以前と全く変わらないか、むしろ以前にも増して繫栄しているのが享楽の世界だ。他の商売では売るものが不足しているが、この業界で売るもの、すなわち小姐(若い女性)たちは、従来の何倍にも増えている。そのうえ買い手側は戦時景気で潤っており、加えて、明日はどうなるかわからないという恐怖心が財布のひもを緩くしている。
大世界や南京路のあたりには、未だ太陽が高いというのに、真っ赤な口紅を引き、色鮮やかな旗袍に身を包み、ポーチを小脇に抱えた何十人もの小姐が立っている。
彼女たちは互いに一定の距離を開けて立ち、相手の年齢などには一切かまわずに、服が極端に汚れてさえいなければ、目の前を通り過ぎようとする全ての男に「去吧(チーパ、行きましょうよ)」、「去不去(チープチー、行かないの)?」と声をかけている。
靄若は蘇州河にかかる裏白渡橋(現四川路橋)のたもとで黄包車を降りた。徒歩で橋を渡っていく。橋の中央には銃剣を持った日本軍の歩哨が立っており、その横を小さく頭を下げて通り過ぎた。
開戦以降に虹口に足を踏み込むのはこれが始めてだった。目的地は裏白渡橋を渡ってすぐのところだが、
P117約束の時間にはまだ間があるので、そのまま北四川路を北に向かって歩いてみることにした。
人通りが少なく、以前の活気を全く失ってしまってた北四川路を進んでいくと、次第に戦火の傷痕が現れてきた。建物の壁には無数の銃弾の跡があり、塀や屋根が破壊された家屋がいくつも見られた。
ところどころに花が供えられている。その全ての場所で誰かが死んでいたということなのだろう。路地を少し入った所に倒れている人影が見えた。恐る恐る路地に入って見てみると、うつ伏せに倒れている日本の軍服姿の死体だった。
靄若は思わず声を上げそうになるのをこらえた。
ハエがたかっている。
上海での戦争で倒れたのであれば上海陥落後すぐに片付けられているだろうから最近のものなのだろう。潜んでいた便衣兵(平服に偽装した中国兵)に襲われたのだろうか。
さらにいくと街の破壊が一層ひどくなってきた。爆撃によって広い範囲にわたって焼け、なにもかもがなくなってしまっている場所がいくつもある。
同じ上海の中で、わずか幅七十メートルばかりの蘇州河を隔てただけの虹口はまるで違う世界だった。蘇州河の南側の租界にも数発の爆弾が落とされたが、被害に遭った場所は限られているし、既にかなりの程度が復旧している。
しかし虹口はまさに戦場の跡だった。
靄若は、この上海で戦争が行われ、多くのものが破壊され、数えきれない人命が失われたのだということを、改めて感じた。
(略)
P122 (略)
P123一九三七年十二月三日。 日本陸軍は五千もの兵士を動員し上海市内で上海戦勝の示威行進を行った(相互参照)。
ルートはジェスフィールド公園から東へ向かい共同租界を横断し、その後北上して虹口へ向かうというものである(市街地図)。
この行進は上海在留邦人には熱狂で迎えられたが、中国人のみならず租界の欧米人にも全く歓迎されるものではなかった。アメリカは外務省に対して行進の中止を申し入れ、フランスはフランス租界内への立ち入りを拒否した。
日本海軍ですら、欧米諸国への配慮からか、行進への参加を辞退している。南京路ではほぼ全ての商店が扉が閉められ、窓のカーテンも下ろされた。なんとも閑散とした雰囲気の中での行進だった。
行進が南京路を進んでいた時、その中に手榴弾が投げ込まれ、兵隊数名が負傷するという事件が起きた。その場で射殺された犯人はCC系の人間だった。
上海での戦争は終わったが、この頃からこうしたテロが頻発するようになる。日本陸軍の示威行進とそこで起きた手榴弾投げ込み事件は、
上海が戦争の街からテロの街へ、つまり、空爆と砲撃の危険が拳銃と小型爆弾によるそれに変わったことを象徴的に表す出来事だった。
(略) P124/ 126/ 128 (略)
第三章 追跡 P150-195
3.3 P162-169P162 エドマンドとはシロズで会うことになった。そこで松本重治を紹介してくれるという。
シロズは、上海の不動産王、エリス・ヴィクターサッスーンが所有するナイトクラブである。サッスーンは上海で最も有名なナイトクラブ、パラマウントで従業員に無礼な態度をとられ、その時の怒りを動機としてシロズを造ったと言われている。正式な開業は一九三七年五月と新しく、ニューヨークのシロズ・ナイトクラブを模したという内外装は、パラマウントに対抗しただけあってパラマウントよりはるかに華やかだ。
建物の正面の広大な広場や噴水、電気式の冷暖房施設や煙除去装置、照度調整の可能な照明などの先進的装置がシロズの大きな自慢である。その店内はスウィング・ジャズの音で満ちていた。一月にニューヨークのカーネギー・ホールで初のジャズ・コンサートを開催したベニー・グッドマン楽団は、その頃から上海でも大いに流行っている。その楽曲をダンス・フロア奥に居並ぶビックバンドが軽快に演奏している。(略)
P163 「こちらがミスター松本だよ」既に他の席で飲んでいたのだろう、手にウィスキーのグラスを持った松本は、日本人らしく頭を下げてからソファに腰をかけた。靄若と松本の会話は、最初の挨拶は日本語だったが、エドマンドに配慮して英語で進んでいる。
靄若は、あらかじめ調べておいた松本の過去の業績を称え、それから、昨年夏の南京行で泥まみれになったエドマンドの姿がおかしかったことを話した。松本は、ぜひ見てみたかった、と笑った。(略)「ところで松本さん。この戦争は今後どうなっていくのでしょうか。お考えをお聞かせいただけませんか」
P164 「このままでは深みにはまる一方だね。参謀本部は不拡大の方針だったのに、中支那派遣軍と北支那方面軍が勝手に徐州の攻略を始めてしまった。徐州の戦いが終わっても軍はそこで留まらないだろう。そのあとすぐにも漢口攻略作戦が始まると思う」
「蒋委員長は漢口から落ちても重慶に逃げて、重慶もダメならさらに奥地に逃げるでしょうね」魏希尊の受け売りである。「そうだね。そうなる可能性が高いし、それは日本側が最も恐れるところでもある。日本の国力がもたないし、もたもたしていたらアメリカやイギリスが出てくる。そうすれば日本は大変なことになるよ。だから一刻も早く日本と中国の和平を実現しなくてはならない」
松本の話が中日間の和平に及んだところで、靄若はすかさず本題を切り出した。「最近はどんな和平工作の動きがあるのですか」しかし松本は「いやぁ、どうだろう」と言葉を濁した。「ドイツのトラウトマン大使の件が失敗したことは知っていますけれども」
「ああ、それなら僕も聞いたことがある」トラウトマン和平交渉については当然知っているだろう。それを「聞いたことがある」ととぼけた松本に、靄若は少しいらついた。「イギリス大使の和平工作や南市難民キャンプ設置に尽力されたようなかたですから、なにか和平に向けた新しいことを始めておられるのではないかと思っているのですが」
エドマンドが助け舟を出した。「アイリーンは、お父さんは中国人、お母さんが日本人で、それがためにこれまでずいぶんと苦労しているんだよ。だから彼女の今の最大の関心ごとは日本と中国の和平のことなのだよ。シゲ。なにか知っているることがあったら話してくれてあげないか」
「まあ和平に向けた努力はなされてはいるけど、まだ君らに話すほどには具体化していないんだよ。それに事前に洩れたら困る事情もあるんだ」「洩れたら困る事情ってなんだ?事前に洩れたら日本軍がつぶしにかかるということか」
「まあ、それもあるがむしろ中国側で問題となる」P165「どういうことだい}「とにかく、これ以上は勘弁してもらえないか」「なんだよ、シゲ。水臭いじゃないか」靄若はどうすれば松本が口を割るかを考えていた。既にある程度のことはわかっていると臭わせれば松本の口も少し軽くなるかもしれない。しかし逆に、不審に思われて、席を立たれてしまうかもしれない。
「私の家には時々日本のかたがいらっしゃるのですが、そのうちのどなたかが、松本さんが中心になって和平の話が進められていると言っていましたよ」松本の表情がわずかに強張った。「誰がそう言っていたんだい」「すいません。誰だったか覚えていなくて」「家に時々来るって、どんな人が来るのかな」
「私の前の上司でNHKから軍に出向している浅田和也さんとか、母の幼馴染でブロードキャスティング・レギュレーション・オフィスの責任者の坂本良明さんとか。軍の総務班の花岡辰兵さんや早川高茂さんなんかもよくいらっしゃいます」
「君は花岡君や早川君と知り合いなのかい」「はい。お二人は私に会いに来るというより父に会いに来るんです。父は検察官の仕事をしています」花岡と早川は靄若と知り合って以降、しばしば万宣坊の趙家を訪れている。
父、趙斧も彼らの和平を希求する姿勢を認め彼らの出入りを許している。彼らは、靄若の不在時でも、上海で起こった過去の刑事事件のことなどを訊きに趙斧を訪ねてくることがある。松本は合点がいったというふうに頷いた。
「あの二人は軍に属してはいるけれど、確か内閣から派遣された嘱託だったね。和平を目指して働いているようだから、なにか噂を聞きつけ、それを君に話したということかな」靄若はもう少し踏み込んでみることにした。
「松本さんは高宗武ディレクターとよく会っておられるということも耳にしました。和平工作について話し合っておられるのではないですか?」「おいおい、あの連中はそんなことまで言っているのかい」松本は呆れたように顎を二、三度振った。
エドマンドが靄若に訊いた。P166「その高というのは誰なんだい」「外交部のアジア担当部局の前責任者です」「シゲ。つまりその男が蒋介石の許可を得ずに和平の話を勝手に進めようとしているんだろう。中国側に洩れると困る事情というのは、そういうことだな」「まあ、そういうようなことだが...」
「もう話してしまえよ、むろん僕は他言しないし、靄若も和平を切望しているのだから君の側の人間だと思っていいよ」「やれやれ」松本は首筋を掻いた。
「日本軍の中では戦争を積極的に進めようとする一派とソ連の脅威に備えるために一刻も早く戦争を終結させなくてはならないと考える一派が対立してるからね。倭肺の話が早い段階で洩れると積極派につぶされる恐れがある。それに君の察するとおり、この件は中国側では蒋介石が主導しているわけではなく、まだ高ディレクターや外交部の一部で進められている段階なんだ。だから情報がへたに洩れると中国側のカウンターパートに大きな迷惑をかけることになる。僕も関わる和平に向けた動きがあることは否定しないが、そんな事情で詳しいことは話せないんだよ」
「蒋介石主導ではなく進めているということは、中国側の和平の当事者として蒋介石以外の人物を立てるということかい。まさか日本お得意のパペット・ガバメント(傀儡政府)を樹立して、それを和平の当事者としようとしているんじゃないだろうな。それはよくないぞ。君らはパペット・ガバメントを作るのがよっぽど好きなようだが、それでは話は解決しないことはもうわかっているだろう」
一九三七年十二月には北平(北京)に王克敏を首班とする"中華民国臨時政府"が、一九三八年三月には南京に梁鴻志を首班とする"中華民国維新政府"が成立した。前者は北支那方面軍、後者は中支那派遣軍が中心となってそれぞれ樹立した傀儡政府である。
「もちろんパペット・ガバメントをつくることは愚行であることはわかっている。パペット・ガバメントをつくろうとしているわけではないことだけは明言していいがね」「じゃあどうするつもりなんだ。ある程度話をまとめてしまってから蒋介石を説得するつもりなのか?」
P167 「そうなるかもしれないが、どうだろう。蔣介石がこのまま戦争に固執するのなら、蒋介石には降りてもらわなくてはならなくなるかもしれない」「つまりそれはクーデターを日本が演出して、蒋介石を降ろして他の誰かと交代させるということか」
「まったくそのあたりは決まっていないよ。ただ、その可能性は否定できない」エドマンドは両掌を上に向けた。「本来、中国で誰が政権を担うかを決めるのは君ら日本ではないのだがね。どうも日本は芝居の脚本家気取りのような気がする。すべてが自分の書いたシナリオどおりになると思っている」(略)
「どうも日本人は、国と国との関係において、相手がどう動くか全て自分で決められると考えているように思えるよ。上海戦で中国の抵抗が日本の予想を遥かに超えて強く、大変な苦労をしたことで学ぶことを期待したんだがね。しかし日本は変わらなかった。
南京さえ落とせば中国は降伏すると決めつけて南京に攻め込み、南京で思い通りにならなかったのに、やはり反省することなく、今度は漢口さえ落とせば敵は屈服すると考えている。そして今、蒋介石を降ろして日本側のお気に入りの誰かを立てれば、日本の考える条件で停戦が実現して、満州国を認めさせ占領地域に軍隊をそのまま残すことができると考えている」
「なかなか耳が痛い」松本は首をすくめた。(略)
P168 「全くの私案だが、日本と中国と満州の間の連携を深めていく必要があると思っている。まずは経済面での交流を進めて、次に人の交流を深める。三つの国を、別れようにも別れられないくらい深い仲にしてしまおうってことだ。
ゆくゆくは日本や中国の上に連邦政府をつくってもいいと考えている。台湾と朝鮮も同列にして五ヵ国連邦とするのもいいかもしれない」靄若はそうなればすばらしいと思った。戦争がなくなり、日本と中国のはざまで苦しむ必要もなくなるだろう。しかしエドマンドは苦いものを嚙みつぶしたような顔で首を振った。
「ダメだ。それはダメだ。ヨーロッパやアメリカからは、中国と満州を日本が独占しようとしているとしかみえない。経済面での交流を進めるというのは関税や合弁企業の設立などで日本だけが優遇されるようにするということだろう。アメリカもイギリスも絶対に認めないよ。
それにだ、シゲ。そもそもの三国連合はうまくいかないぞ。いま言ったろう。相手のことを考えないのが日本の悪い癖だって。日本にとっては中国はモノをもっと売ることができるようになり、中国の資源を独占的に使うことができるようになってメリットは盛りだくさんだ。
でも、中国にとってのメリットはなんだい。日本のマーケットは小さすぎるし、日本にある資源は海くらいのものだが中国人は魚に興味はない。国防を日本に任せれば軍事費を節約できるが、他の民族、それも南京であのような暴挙を行った国に銃を預け、自らはなにも防御を持たないなどということは恐ろしくて到底できない。三国連合は無理だよ。我々の孫の代に至っても無理だ」
よっぽど確信しているのか、エドマンドは一気に言った。「そう責めないでくれよ。あくまでも私案だよ。僕だって、そんなことが簡単にできるとは思っていないよ」二人の話が一段落ついたところで靄若は話を戻そうとした。
(略)
3.5 P178-186
P178 開戦当初、日本国内では戦争拡大派と不拡大派との間で激しい綱引きが繰り広げられていたが、日中間の全面戦争となってからも、積極・強硬派と消極・和平派との間での対立が続いている。トラウトマン和平交渉においては、上海戦終結、南京陥落という流れの中で積極・強硬論が勢いづき和平条件が加重されていき、一九三七年十二月二十一日に条件を大幅に吊り上げた第二次和平案が閣議決定された。
翌一月十一日には日露戦争以降初めての御前会議が招集され、第二次和平案とほぼ同条件が盛り込まれた"支那事変処理根本方針"が決定される。
第二次和平案に対する中国側の回答は遅延し、一月十六日、近衛文麿首相はトラウトマン和平交渉の打ち切りを決め、<国民政府ヲ対手トセズ(相参1,相参2)>声明を行なうのだが、その前日の一月十五日の政府大本営連絡会議においては、交渉打ち切りを主張する杉山陸相、米内光政海相(大将)、広田外相らと、中国側の回答を待つべきとする参謀本部の多田駿次長(中将)とが激しく対立した。
陸軍内の意見が割れているのだから、ここで近衛首相が多田次長の側に立てば違う結果となり、その後の歴史は別の道を歩んだように思われるが、南京戦の勝利に酔う世論の後押しもあって、首相は杉山陸相らに同調し、結局交渉打ち切りという結論となった。
その後、南京陥落によっても中国側の抵抗が一向に衰えない状況をみて、一時的に消極・和平論が優勢になっていく。二月十六日に開かれた御前会議では、積極展開を主張する陸軍現地派遣軍や海軍の意見が却下され、当面は新たな作戦を行わないとする参謀本部の構想が承認された。
一方で現地派遣軍は消極方針に納得せず、諸々の理由をつけては勝手に戦線を拡大し、大本営に対してさらなる積極攻勢の承認を強く要請し続けた。参謀本部にもその勢いを抑えることは難しく、結局消極方針を決めた御前会議から二ヵ月も経っていない四月七日、大本営署名で北支那方面軍と中支那派遣軍に対して徐州攻略が下命された。
徐州は天陳と南京の浦口とを結ぶP179いわゆる津浦線と、西安など内陸部と東シナ海に臨む連雲港を結ぶ線が交差する交通の要衝である。(上海周辺地図)北支那方面軍が北から、中支那派遣軍が南から攻め、挟み撃ちにし、約五十万の中国軍が守る徐州を確保し、南北に分断している占領地域をつなげることが作戦の主眼だった。徐州完全占領の発表は五月十九日で、その後日本軍は、徐州を脱出した中国軍主力に対する追撃戦に移った。
この追撃戦が行われていた頃、日本国内では近衛内閣の改造が行われた。その眼目は外相と陸相の更迭である。外務大臣は、戦争終結へ有効な手を打てない広田弘毅から宇垣一成に代わった。広田はトラウトマン和平交渉打ち切りを主導した責任を負わされて内閣を追われたのである。
一方で宇垣は、<国民政府ヲ対手トセズ>方針の撤回や和平交渉の再開、陸相更迭を条件に入閣に応じたと言われる。陸相は杉山元から板垣征四郎(中将)に交代。杉山は積極・強硬派の中心人物であり、一方で板垣征四郎は、開戦時の不拡大派のリーダーであった石原莞爾や多田参謀次長らと同一路線にあるとみられていた。
優柔不断と評されることが多い近衛だが、この時ばかりは内閣改造に大鉈を振るい、成功したのだった。近衛は、半年前に積極派・強硬派に乗じたことを悔やみ、戦争不拡大と早期和平実現の方向へと舵を切ろうとしたのである。
この内閣改造の直後、徐州陥落後の追撃戦が黄河の堤防破壊による洪水(1938.6、血战长空29(23分過ぎ参照))のために打ち切られ、徐州攻略戦が終結する。その後しばらく日中間の戦闘は小康状態に入る。こうした状況の中で消極・和平論が再び力を盛り返し、いったんは後退した和平に向けた動きが活発になっていく。
参照→『日中戦争4』P382-(黄河氾濫)
六月下旬、国民政府の首相格である孔祥煕行政院長の秘書、喬輔三が中村豊一駐香港日本総領事に秘かに面会を求め、日本の和平に対する姿勢、中でも、蒋介石下野を求めるのかどうかという点を打診してきた。これは近衛内閣改造に呼応した動きであろう。
外務省は、蒋介石下野を和平条件から落とすことについては強硬な国内世論もあって難しいとしつつも、これを和平への奇貨とみて、喬輔三との交渉を進めるようP180中村総領事に訓令した。その後喬輔三と中村総領事との間の会談が数度にわたって行われ、宇垣-孔祥煕の直接会談を企図するところまで進展する。
しかしこのいわゆる"宇垣和平工作"は、最終的には九月末に宇垣が外相を辞任することで実質的に終了する(相互参照)。
おなじく六月、陸軍、海軍、外務の三省合意による和平工作が開始された。<国民政府ヲ対手トセズ>声明に沿って、孫文のもとで一九一二年に成立した中華民国の初代総理も務めた元老唐紹儀、旧軍閥の大御所呉佩孚らを指導者として擁立した新政府を立ち上げ、その新政府との間で和平を行ない戦争を終結させるという謀略である。責任者には三省を代表して陸軍の土肥原賢二中将が就いた。
影佐禎昭、松本重治らの和平工作も再び動き始めた。それまでは一部の関係者間で私案がぶつけ合わされていただけと言ってもいいが、和平実現に向けての新たな段階に入っていく。
(略)
第四章 和平 P196-233
4.1 P196-203P196 一九三八年六月の徐州会戦終結以降の一時的小康状態は、日本軍の 侵攻再開によって破られた。日本軍は九月下旬には漢口に迫る。十月十七日、蒋介石が漢口を脱出し、十月二十六日、漢口は陥落した。同時に広東攻略も行われた。日本軍は十月十二日、香港の東側のバイアス湾(大亜湾)に上陸し、十月二十一日に広州を占領。広東攻略はごく短期間で終結した。
日本軍による占領地域拡大の一方で、水面下では和平に向けた動きが引き続き活発に行われている。日中戦争は宣戦布告もなく始まりそのまま長期にわたって続くが、その一方では和平に向けた活動が積極的に行われ、それも同時に複数の工作が進行するという、特異と言っていい紛争だった。
官民合わせて各方面の人々を和平に奔走させた原動力は、日本側について言えば、このままでは国がもたない、破滅に至ってしまう、という切迫した危機感である。陸軍もこの危機感を抱いていた。中国はすぐに屈服するであろうという開戦当初の目論見が大きく外れ、局地戦で何度勝っても中国は降伏する気配を見せず、このまま戦争を続ければ日本のほうが先に疲弊してしまうということは、戦争を推進している陸軍自身が最もよくわかっていた。陸軍は、右手で銃を撃ちながらも、同時に左手では積極的に和平国策を画策した。
それらの工作のうち、一九三八年夏の時点で陸軍が最も期待し、かつ 最も大がかりだったのは土肥原賢二中将によるものである。
土肥原は陸軍大学校卒業後、ほぼ一貫して対中国工作を担い、"工作"というよりも"謀略"と言ったほうが相応しいことを数多く手がけてきた。満州国設立に際して清朝最後の皇帝溥儀が隠棲先の天津から脱出したのも、河北省東部に傀儡の自治政府"冀東防共自治委員会"が樹立されたのも土肥原の謀略と言われている。
一九三八年六月、陸軍省、海軍省、外務省の三省で土肥原を中心とする和平工作が立ち上げが合意され、七月、土肥原は上海に就き、いわゆる土肥原機関を設立した。土肥原が目指したのは、一月の近衛文麿首相による<国民政府ヲ対手トセズ>声明、すなわち蒋介石を外交交渉の相手としないとした宣言に沿って、元老唐紹儀、旧軍閥呉佩孚らを指導者として中国に新たに全中国レベルの政府を樹立して、日本主導で設立された北平の"臨時政府"や南京の"維新政府"等を、その新政府の下の地方自治政府と位置付け吸収することである。
しかしこの工作は順調には進まなかった。
唐紹儀擁立は早くも九月三十日に潰える。唐紹儀が私邸で軍統、すなわち軍事委員会調査統計局の工作員によりナタで頭蓋を叩き割られるという極めて残虐な方法で殺害されてしまったのである。土肥原は事件のわずか数日前に説得のために唐紹儀を訪問しており、それがために唐紹儀は漢奸と疑われ殺害されたと考えられるだけに土肥原の受けたショックは大きかった。
呉佩孚の擁立も順調に進まず、結局土肥原機関は、設立から半年ほどで、なんの成果も出せずに終焉を迎えることになる。
影佐禎昭、松本重治らにより進められていた和平工作は、七月に高宗武が日本に赴き板垣征四郎陸軍大臣、多田駿参謀次長らと会談し、八月末には病を得て動けなくなった高宗武に代わって梅思平と松本が香港で数度会談し和平条件を検討した。
梅思平を高宗武の代理に指名し香港に派遣したのは、蒋介石の側近であり、後の汪兆銘政権の中心人物となる周仏海である。
これらの過程の中で、日本側が領土や賠償を要求しないこと、治外法権を返上することなどを和平条件に盛り込むという方針が固められていった。中国側の和平の条件の当事者を誰にするのかという点につP198いては、松本と高宗武が秘かに話し合いを始めた一九三八年春の時点ではまだはっきりとはしていなかったが、その後徐州が陥落し、蒋介石が徹底抗戦の姿勢をより強めたこともあって、蒋介石に代わって国民党ナンバーツーで戦争早期終結を唱え続けている汪兆銘を中心に据えることが目指されることとなった。
一九三八年十月には、陸軍の小野寺信中佐が上海に着任し、いわゆる小野寺機関が設立を立ち上げた。小野寺はロシア畑の人間で、バルト三国の公使館付武官を勤めたのち、六月より参謀本部ロシア課に勤務していた。
ソ連および共産主義の南下に対する防衛は日本にとって極めて重要な課題で、中でもロシア課では危機意識が強く、ロシア課は、中国との戦いは本来対ソ連・対共産主義のために温存すべき国力の浪費以外のなにものでもないと考えていた。しかし参謀本部の支那課中心で進められてきた和平工作は遅々として進まない。まだなんら成果を得られないうちに開戦より一年以上が経ってしまっており、ロシア課の危機意識は大きくなる一方であった。
ロシア課は、一刻も早い中国との戦争終結を目指し、自らも中国関連情報を収集・分析する機関を持つことが必要と考えた。そこで、欧州駐在により国際情勢に対する感覚も磨いていた小野寺を上海に送り込んだのである。
小野寺が上海着任にあたって受けた訓令には日中和平実現を目指せとは書かれてはいなかったが、彼は上海赴任直後から翌一九三九年七月にかけて和平に向けた積極的な活動を行う。小野寺は約五十年ののちに自分の一生を振り返り、妻に向かって「あれほど心血を注いで張り切って働いたことはなかった」と語っている。小野寺が上海で活動する期間はわずか九か月だが、それほどに熱くて長い日々となるのである。
(略)
第五章 小龍 P234-353
P238 最初のティ・グラウンドに立ってから今に至るまで、ずっとこの男に弄ばれている気分である。とはいえ、なんら損をさせられているわけではない。「それで君は、上海ではなにをしているんだい」
「東亜同文書院大学に赴任してきたところです。学生の世話役です」
「それで、その世話役がどうしてゴルフがそうもうまいんだ。明らかに並の腕ではないが」
男はすぐには答えず、ビールを口に含み、ゆっくりと喉を潤してから言った。
「プリンストンのゴルフ部にいました」
「プリンストン…」エドマンドは男の広い肩を左から右へと改めて見た。「プリンストンのゴルフ部のキャプテンに日本人が就任したという話は聞いたことはあるが。まさか、それが君か」
「おそらくそうかと」
「いやまて。そのキャプテンというのは確か…」エドマンドはわずかに声を震わせた。「プリンス・コノエ。前日本国総理大臣の子息…」
男は立ちあがってエドマンドに手を伸ばし握手を求めた。そして太い首の上に載った丸みを帯びた顔に満面の笑みを浮かべて言った。
「アイム・タカアキ・コノエ」
(略)
P247近衛隆明来滬(“滬”は上海の別称)は多くの上海在留日本人の知るところとなった。
この年、すなわち一九三九年一月に創刊されたばかりの上海在留邦人向け新聞“大陸新報”が二月二十五日朝刊の七面で隆明の上海入りを報じたのである。
(略)
靄若も大陸新報の記事を読んだ。(これはぜひ会ってみなくちゃ)
前首相の息子とあれば情報ソースとして重要だということもあるが、それ以上に公家、近衛家というものがどういうものであるか見てみたかったし、アメリカ帰りというのもきらびやかな響きがあった。
そしてなにより年齢が自分とほぼ同じなのが魅力だった。靄若の日本人の交流相手は年上が多く、隆明のように若い日本人男性とぜひ話をしてみたかったのである。
(略)
P248靄若
(随時更新)
→『魔都上海に生きた女間諜』P75-(参照)