序章 スペインのフィリピン占領 P17-46
(P16-)(P20-)
スペインの太平洋発見
P20 十五世紀末、イベリア半島の二つのカソリック教国ポルトガルとスペインは世界を二つに分割交渉を重ねていました。大航海時代は十五世紀初めから始まり、次々に発見される未知の島や大陸の領有をめぐって、この二つのカソリック教国が激しく争っていた時代でした。この争いはクリストファー・コロンブスによるカリブ海に浮かぶ島々(西インド諸島)の発見(一四九二年)で頂点に達していました。
両国の争いを仲裁したのはローマ教皇アレクサンデル六世でした。カソリック教を信奉する二つの国が争うことはローマ教皇にとって好ましいことではありません。世界を二つに分割し、それぞれにその分割地の領有を独占させることにしたのは一四九三年のことでした。
教皇が頭の中で描いた「大西洋中央部の地図」に南北に走る一本の線を引き、その線から東をポルトガルに、西をスペインに独占させる。つまり地球を東西に二分し、両国の抗争を未然に防ごうとしたのです(アレクサンデル六世の大勅書)。
しかしポルトガル王ジョアン二世はこの裁定に不満でした。スペイン出身の教皇がスペインに有利な線引きをしたと疑ったのです。ポルトガルの線引き見直し要求にスペインは譲歩し、アレクサンデル六世の引いた分界線をさらに西におよそ八百マイル(約千三百キロメートル)移すことで決着させています(一四九四年、トルデシリャス条約)。
P21 トルデシリャス条約で合意した分界線は西経四十六度半を南北に走っています。この条約によって、スペイン、ポルトガル両国はそれぞれの新領土拡大に専念することができるようになったのです。南北アメリカ大陸の探検は、一部西経四十六度半の分界線にかかる現在のブラジル東部を除きスペインの独壇場となります。
スペイン王室の支援を受けているコロンブスはポルトガルの脅威から解放され、当時の富の源泉であった香料を産出するモルッカ諸島(香料諸島)を探す旅を繰り返したのです。第四回目の航海(一五○二~一五○四年)でも、現在の中米地域の大西洋岸を巡り、モルッカにいたる海に繋がる海峡を探し続けました。しかし彼の求める海の隘路は見つかることはありませんでした。
(略、太平洋を初めて見たのは、バスコ・ヌニェス・バルボア、一五一三年九月二十九日、パナマ地峡の探検。二年後の一五一五年、ファン・ディアス・ソリス、ラプラタ川まで南下)
マゼランの仮説
P23 マゼランの名は世界一周航路を発見した探検家として誰もが知っています。彼は一四八〇年(推定)にポルトガルに生まれています。ポルトガル人の彼はもともとはマガリャンイス(Fernao de Magalhses)というポルトガル系の名を持っていました。
船乗りとしてポルトガル船に乗り組み、優秀な士官として、ポルトガルが勢力を拡大していたインド洋やマラッカ海峡付近で現地のイスラム勢力との戦いの経験を積みました。彼がリスボンに帰国したのは一五一二年のことでした。この翌年にはモロッコ方面の戦いに参加し、一生足を引きずることになる傷を負っています。
マガリャンイスはモロッコの戦いで身に覚えのない横領の疑いをかけられると、本国に戻り国王マヌエル一世に直接掛け合い、身の潔白を晴らそうと試みています。国王は、モロッコに戻り、そこで改めて審判を受けることを命じています。マガリャンイスはそも命に従い無罪を証明して帰ると、再び国王との会談に臨んでいます。
(略、マガリャンイスは、国王に三つの願いを申し出るが、すべて却下される)
P24 マガリャンイスはこの国王の冷淡な態度にもかかわらず、ポルトガルの官吏の立場をすぐには捨てませんでした。一年余りにわたってポルトガルに留まり、彼の知的好奇心を刺激してやまない南アメリカ東岸の地理を、ポルトガルが蓄積した多くの資料をもとに研究し続けたのです。その資料の中にはポルトガルが実施したブラジル探検の報告書も入っていました。
マガリャンイスは文献をあたるうちに、地理学者でありまた天文学者であるルイ・ファレイロの知遇を得ています。マガリャンイスはこれまでの資料とファレイロの考えを総合して二つの仮説を立てるのです。
一つは南アメリカ大陸はアフリカの喜望峰と同じように、南緯三十五度付近まで南下すれば大西洋と太平洋の二つの大洋は一つになっているはずであること。もう一つはポルトガル王の強欲がなさしめた大西洋分界線の八百マイルの西方移動(トルデシリャス条約)で、地球の反対側に存在するはずの分界線も必然的に西に移動し、その結果、ポルトガルの支配する香料諸島はスペインの独占が認められる範囲に入ったはずである、との推論でした。
一番目の仮説は航海の難しさにかかわるものでした。喜望峰は南緯三十四度付近に位置します。もし南アメリカ大陸南端がアフリカ大陸のようにこの程度の緯度のところにあり、そこで二つの大洋が連結されていれば、そこにいたる航海はそれほど困難なものではないはずです。仮にもう少し南下が必要でも、せいぜい南緯四十度あたりまで下がれば十分ではないかと予想したのです。
二番目の仮説はマガリャンイスがスペイン王室の支援を受けるのには欠かせない考え方でした。この仮説が正しければ、香料諸島を現行の条約に基づいて合法的にスペイン領土とすることができます。P25そうなればスペイン王室がどれほど潤うことになるでしょうか。西回りで香料諸島を探るマガリャンイスのプロジェクトを、スペイン王室が支援する強い動機になるはずでした。
マガリャンイスは狙いどおりスペイン王室の担ぎ出しに成功しています。マガリャンイスはその名前もスペイン風に改めています。ポルトガル人マガリャンイスがスペイン風のマゼラン(Ferdinand de Magellanes マゼランは英語での綴りによる慣用表記)に名を変えたのは、スペイン王室をパトロンとするための作戦でした。
カルロス一世はマゼランの説く「合理的な」仮説に納得したのです。「(マゼランは)スペインにやって来ると、わずか数か月でスペイン王室の支援を得ることに成功した。一五一七年の秋のことである。彼の指揮する艦隊が太平洋の海原に出航したのはそれから二年後のことであった」
そのときの模様は次のように描写されています。
「マゼランには五隻の帆船がカルロス一世から与えられていた。すべての船はしっかりと補修され、サンルーカルの港に集結していた。旗艦トリニダード号はマゼランが指揮する。他の四隻はサンアントニオ号、コンセプシオン号、ビクトリア号であった。
一五一九年九月二十日、艦隊は出帆した。この艦隊にはイタリア貴族で歴史家のアントニオ・ピガフェッタが乗り込んでいた。彼の記録(最初の世界周航報告書)のおかげで、後世の者はマゼランの最初の世界周航の旅がいかなるものであったかを手にとるように理解できるのである」
マゼラン海峡の発見
P26 マゼランの艦隊は大西洋を順調に横断し、南米大陸沿岸にいたり(十一月末)、さらに南下を続けました。現在のリオデジャネイロには十二月十三日に到達しています。一行が南緯三十五度付近まで進んだのは年も明けた一五二○年一月の初めでした。
マゼランの立てた仮説では、このあたりが大陸の果てのはずでした。マゼラン艦隊が予期したとおり、西に広がる海原を目にしたのは一月九日のことでした。南半球の夏にあたるこの時期に、目指したとおりの位置に南海(太平洋)に続くだろう海路がマゼランの眼前に広がっていたのです。
しかしそれは地球を創造した神のいたずらでした。現在の世界地図を広げアフリカ南端の喜望峰から指で西にたどっていくと、南米大陸にぶつかります。たどった指の先が示すのは現在のウルグアイとアルゼンチンの国境あたりです。二つの国はマゼランが南への水路と考えた海を隔ててて向かい合っています。
そこは世界でもユウスウノ大河ラプラタ川の河口部なのです。探検家ファン・ディアス・デ・ソリスが原住民との戦いで命を落とした地でした(一五一六年)。河口の広がりは百キロメートルに及んでいますから、マゼラン一行がその事実を知るのはまだ先のことでした。
ラプラタ河口で西方に舵を向けた艦隊が、徐々に海の水に塩辛さが薄まっていくのに気づくのは時間の問題でした。塩気の薄い海水は大きな川の存在の証拠でした。マゼラン一行はそれに気づくと、いったん引き返し南下を再開しています。
喜望峰の位置、南緯三十四度付近にはマゼランの望む水路はありませんでした。しかし南緯四十度近くまでのどこかに南海にいたる水路があるはずなのです。P27気を取り直したマゼランの艦隊が、南緯四十度付近のサンマチアス湾に入ったのは一五二○年二月二十四日のことでした。
しかしそこにも目指す海道はありませんでした。しかしサンフリアン湾の南緯はすでに四十九度にもなっていました。南緯四十九度の気候は北緯四十九度にある地方を想像することで察しがつきます。北緯四十九度は樺太のほぼ中央を走っているのです。
南半球ではこれから冬に向かいます。マゼランの航海は厳しさを増すことは間違いないのです。地球学者ルイ・ファレイロと自身の研究では、もう南海への水路は見つかっていなくてはならないはずでした。いらだちの中でマゼランは一つの重大な決意をしなくてはなりませんでした。
乗組員に割り当てる日々の食糧を制限したのです。予想を越える長い航海になってしまったいる以上避けがたい決定でした。船上では指揮官の命令は絶対です。乗組員の生命は指揮官の双肩にかかっています。その重責を果たすには、部下の絶対的服従が海の掟でした。しかし食べることが船員の唯一の楽しみです。
それを制限することは指揮官の最も恐れる船上の反逆を引き起こすきっかけになるのです。その危険性を承知の上で、日々細る食糧ストックを前にしたマゼランが下した決断でした。
四月二日に、危惧していたとおり、反逆が起きています。幸いなことにマゼランへの反攻は広がりをみせず、乗組員のほとんどがマゼランの側についてことで終息させることができました。厳しい処分で隊員の士気を引き締めたものの、そのまま南下を続けることは不可能でした。
減り続ける食糧をと迫りくる冬を前にしてマゼランは越冬を決意します。
サンフリアン湾岸での長い越冬を終え、食料の補給も済ませたマゼラン艦隊がサンフリアン湾を出P28帆したのは十月十八日のことでした。九月には冬の荒波でサンチアゴ号は破壊されてしまい四隻での出帆でした。マゼラン艦隊が、西に向かう迷路のような海の隘路を発見したのはその三日後のことでした。
隘路を西に舵を切ったマゼランは、両岸から険しい崖の迫るこの狭い水道が、あのラプラタ河口のような見知らぬ川の河口なのか、それとも奥深い入江なのか、それとも南海への通り道なのか、それを見極める自信はありませんでした。現在のドーソン島の北端でこの海は二手に分岐していました。
「南には陸地(ドーソン島)が広がっていた。(中略)マゼランは再会の場所を入念に打ち合わせた上で艦隊を二手に分けた。サンアントニオ号、コンセプシオン号を南西方面に向かわせ、旗艦トリニダード号とビクトリア号は南東方面を探ることにした」
南海に通じる海路らしい水道を発見したのは南西方面を探ったマゼランの本隊でした。北側に広がる岸辺に沿って進んでいくとその突端付近(現在のブルンズウィック半島の南端)で、今度は北西に走っている水路を発見したのです。突端手前付近で碇を下ろし、ボートで北西方面の探索に出た先遣隊が、三日後に吉報を持って帰ってきました。
「彼らは(ブルンズウィック半島の突端の)岬を発見したと報告した。そしてそこから十分に広い海が見えるというのだ。マゼランの頬から涙がつたって落ちた。彼は岬を「望みの岬(Cape of Desire)」と命名した。これが長い間彼が夢見た(南海への)路であった」
あとは南東方向の探索に向かった僚船二隻と合流し、「望みの岬」から北西に舵を切って南海を目指すだけでした。この時点ではこの水路が本当に南海に通じているのかまだわかりません。しかし船P29乗り特有の強い勘が働いていたのでしょう。彼らの記述は何か自信ありげです。
風向きや潮の流れ、そして十分な海水の辛さ。何もかもが大きな海原が近いことを彼らの五感に知らせていたのです。南西探索に出たコンセプシオン号とはすぐに合流できました。しかしサンアントニオ号とはついに合流できませんでした。
いつまでもサンアントニオ号を待ち続けるわけにはいきません。岸辺の目立つ要所要所に目印を立て、これからの航海スケジュールを書きつけておきました。再会を期しながら北西に舵を戻したマゼラン一行は、サンアントニオ号が命令に反し、さっさと本国に帰ってしまったことなど想像だにしていませんでした。
太平洋そしてフィリピン諸島の発見
三隻となったマゼラン艦隊が南海を見たのは一五二○年十一月二十八日のことでした。「南海に近づくにつれ、海面は暗くなり荒れも激しP30くなっていった。日も暮れかかっていた」
荒れた海原も、海峡の隘路をようやく抜けた喜びにひたる者にとっては、神が与えた荒っぽい祝福でした。ビガフェッタはこの日の感慨を「隘路を抜けると南海の海原がやさしく包んでくれるようだった」と満足げに伝えています。
後年マゼラン海峡と命名されたこの海の隘路を抜けるのに、マゼラン隊は三十八日を要しています。マゼランの立てた第一の仮説では、この海峡はもっと北にあるはずでした。しかし現実には、もう南極圏にほど近い南緯五十度を越えた地点にあったのです。それでもマゼランの信じた二つの大洋を連結する水路の存在は確かめることができました。
マゼランは南海を発見できたのは神の強い加護によるものだと信じていました。彼はこの大洋を「el Mar Pacifico(平和の海)」と名づけています。太平洋に出たマゼラン艦隊は最良の季節に恵まれました。南半球では暖かい夏の季節が始まっていました。現在のチリの西岸には北に向かうフンボルト海流が走っています。
艦隊はこの海流を利用して北上し、さらに赤道の南北をつねに西に向けて風を吹かせる貿易風をつかむと、帆をいっぱいに膨らませて香料諸島を目指しました。艦隊が北緯十三度、東経百四十四度にあるグアム島に到着したのは一五二一年三月六日のことでした。
この島で水や食料の補給を終えると三日後にはもう出帆しています。その七日後についにフィリピン諸島の一部であるサマール島を発見するのです。その西にあるセブ島にまでやって来たマゼランは、原住民をキリスト教にしようとしています。彼はこの島まで無事に運んでくれたのは神の加護でした。
土人にもその偉大さを教えなければならないのです。部下に土人たちの信じる異教のシンボルを、徹底的に破壊するよう命じました。
P31 しかしセブ島東海岸にある小島マクタン島の酋長はそれに抵抗します。一五ニ一年四月二十七日、この島の鎮圧に向かったマゼランはその戦いの中で命を落としたのです。マゼランは敬虔なカソリック教徒でした。彼は土人の信じる「低劣な異教」をそのままにしておくことはどうしてもできませんでした。
偉大な探検家マゼランは香料諸島を目前にして、強烈な信仰心を発露させながらその命を散らせたのです。
指揮官を失った艦隊の隊員の数はわずか百十人にまで減っていました。スペインの港を出たときの数は二百三十四人でしたからすでに半数以下になっていました。三隻の帆船を操るには少なすぎる数でした。残った隊員を二隻に分乗させることを決めると、コンセプシオン号は焼いてしまっています。
トリニダード号とビクトリア号が香料諸島ノティレド島にやって来たのは十一月六日のことでした。香料諸島には確かに香料が溢れていました。当時、貴金属よりも価値のあったクローブや丁子。それを満載した二隻は本国スペインを目指して帰路につきます(十二月二十六日)。
しかし二隻はまったく異なる方向に舵を切りました。トリニダード号は太平洋を東へ向かい、もう一度マゼラン海峡を抜け大西洋に入る航路を選択しています。ビクトリア号は逆に西に向かい、インド洋から喜望峰を抜けて大西洋を目指しています。
トリニダード号はまず北東に向かいました。しかし日本の北のはずれの海上で航海の続行を諦めています。悪天候のなかで、まったくの未知の航路をこれ以上進む気力を失ったのです。香料諸島に戻ったトリニダード号を待ち受けていたのはポルトガルの軍船でした。
香料諸島はポルトガルの支配する地域です。尽きることのない富を生む島に入り込む異国船はけっして見逃すことはできません。乗組員は捕らえられ収監されています。
P32 ビクトリア号がスペインの港にようやく帰還できたのは一五ニニ年九月六日のことでした。わずか十八名が乗船していただけでした。これが世にマゼラン艦隊の世界周航航路の発見といわれる事件です。わずか八十五トンのビクトリア号に積載された香料の利益だけで全艦隊のコストを賄えたといわれています。
失敗だったマゼランの航海
無事帰国したビクトリア号。満載された香料。スペイン王室は熱狂に包まれました。「香料取引業務およびモルッカ(香料)諸島に関する航海の管理運営を担う『商務院』がスペイン北西部のア・コルーニャに新設」されています。
スペイン王室は、名門貴族であり聖ヨハネ騎士修道士であるガルシア・ホフレ・デ・ロアイサを指揮官に命じ、ビクトリア号で帰還した十八名のうちの一人エルカーノを水先案内人に指名した新たな艦隊を組織しました。
艦隊は七隻のカルック船に、四百五十を超える隊員が乗船し、一五二五年七月二十四日、ア・コルーニャの港を出帆していきました。しかしマゼランの発見した太平洋へのルートはこの艦隊には荷が重すぎました。マゼラン海峡で次々に座礁し、あるいは僚船からはぐれ行方知れずとなり、目指す香料諸島に無事到着できたのは一隻だけだったのです(一五二六年九月)。
杳として行方の知れないロアイサ艦隊に、スペイン王カルロス一世は業を煮やしています。しかし探検を諦めはしませんでした。スペイン本土からの派遣をやめ、今度は、新大陸ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)の太平洋岸の港ジワタネホから艦隊を送り出したのです(一五ニ七年七月一日)。
P33 新大陸での造船技術を高め、メキシコ太平洋岸で造船を開始し、スペイン王にメキシコからの西方探検を勧めたのはメキシコ・アステカ文明を滅ぼし、着々とメキシコ征服を進めつつあったエルナン・コルテスでした。
コルテスが送った二隻の船は貿易風に乗り、やすやすとフィリピン諸島にたどり着いてます(一五ニ七年十二月)。香料諸島ティドレ島でロアイサ艦隊の生存者を救出すると、メキシコ太平洋岸へ戻るべく出帆しました(一五ニ八年六月十四日)。
丁子を満載し北東に向かったのはフロリダ号でした。しかしこの船も北緯三十五度付近まで北上したもののメキシコに戻る風をとらえることはできず、香料諸島に引き返さざるを得なかったのです。
マゼラン艦隊ビクトリア号の帰還で熱狂的に香料諸島への関心が高まったものの、それ以降に送り出す艦隊はいっこうに戻ってきません。スペイン王室はマゼランの航海は本当に成功だったのかとの疑念を抱くことになります。確かにマゼランは大西洋と太平洋は南の海で繋がっていることを証明してくれました。
しかしそこはあまりに遠い南の果てでした。温帯にある喜望峰を利用できるポルトガルに比べて、圧倒的に不利な南極圏に近いルートでした。スペイン本土からの直接の艦隊派遣を諦め、新領土メキシコ太平洋岸からの派遣も試しました。しかし出港した港に戻ってくる船は一つもなかったのです。
急速に西方探検の熱が冷めるスペイン王室に対して、香料諸島の東からスペインが進出してくることを恐れたポルトガル王ジョアン三世(マヌエル王の子)は早々に外交的決着をつけています。スペインとの間で太平洋側にある分界線をはっきりと決めたのです(サラゴサ条約、一五ニ九年)。
その分界線はスペイン王室が何としてでも確保したかった香料諸島のはるか東に引かれました。マゼランらの計算では香料諸島はスペインに与えられたテリトリーの内に存在するはずでした。しかしその計算は間違っていたのです。現実には香料諸島は計算された位置よりも西にあったのです。
スペインがこうした分界線の線引きに柔軟に応じたのは、スペイン王カルロス一世がジョアン三世の妹イサベルを后に迎えていたことも関係していました。しかし本当の理由は香料諸島から引き返す復路(東方航路)が見つからない以上、香料諸島には何の価値も見出せないことをスペイン王室は悟っていたからでした。
帰りの航路がなければそのまま西に向かい、マゼラン艦隊のビクトリア号がとったインド洋から喜望峰を経由して戻らざるを得ません。ポルトガルの支配地域を航海することはあまりに危険でした。
「マゼランの発見した航路はあまりに距離がありすぎ、そして時間がかかりすぎた。その上危険であった。最も重大な欠点はその航路が一方通行であったことだった」また「(マゼラン海峡を使わない)新領土メキシコ太平洋岸からの探検も太平洋は西から東への航路が不可能な一方通行の海」であるらしいことを示していたのです。
マゼランがスペイン王室を説得した仮説は、大西洋と太平洋が南の端で連結している、ということ以外は外れていたのです。世界史の教科書にはマゼラン艦隊の世界周航をあたかも成功であるかのように記述してあります。しかしスペインにとっては西太平洋に覇権を求めたプロジェクトは失敗に終わったのです。
帰り航路(大圏航路)の発見とガレオン貿易
P35 サラゴサ条約の締結でスペインの西太平洋を目指す熱は冷めてしまいました。香料諸島はポルトガルの支配地域であることが確定してしまったのでrす。しかし探検隊の好奇心の灯は決して消えることはありませんでした。西太平洋からメキシコ沿岸部に帰る航路は必ずあると信じていた男がいたのです。ロアイサ艦隊で、からくも生き残ったアンドレス・デ・ウルダネータです。
スペインに帰還(一五三七年)したウルダネータはカルロス一世に香料諸島の状況を説明し、北緯四十度付近には西から東に吹く風があり、それに乗れば簡単にメキシコ太平洋岸に戻ってくることができるはずであると説いたのです。彼を起用して西太平洋の覇権確立を目指したのは、カルロス一世から王位を継承(一五五六年)した息子のフェリペ二世でした。
フェリペ二世は、サラゴサ条約締結以来熱の冷めた西太平洋の探検を、改めてメキシコ副王ルイス・デ・ベラスコに命じたのです(一五五九年九月二十四日付書簡)。ウルダネータは水先案内を任せられています。当時、ウルダネータはメキシコシティにある聖アグスティン修道院に逗留していました。
メキシコ副王の死もあって艦隊編成作業は遅れましたが、フェリペ二世の指示から五年後(一五六四年十一月二十一日)、五隻の大型帆船(レガスピ艦隊)がメキシコ太平洋岸ナビダーの港を出帆していきました。
貿易風に乗った総勢三百八十人のレガスピ艦隊がフィリピン諸島に現れたのは年も明けた一五六五年二月の末のことでした。二月二十日にはサマール島に到着し、フィリピンのスペイン領有を宣言しています。さらにセブ島にいたると、東洋で初めてのスペイン植民都市の建設を開始したのです。
フィリピン諸島に植民基地を建設するという目的はあくまで二次的なものでした。艦隊の最も重要P36な使命はメキシコへの岐路を探すことでした。この航路が発見されなければフィリピンの植民地化は何の意味も持ちません。
サンペドロ号がセブ島を出帆したのは六月一日のことでした。乗船するウルダネータはこの時期こそが、彼の狙う日本列島の北東部の沖を目指すには最適な時期と考えたのです。最も有利な風と海流が利用できるはずでした。黒潮に乗ったサンペドロ号は狙いどおりに北東に進路をとり、これまでのどの船よりも北にやって来たのです。
「香料や真珠など東洋の物産を満載したサン・ペドロ号は(中略)太平洋に出て、黒潮に乗り北東に向け航行し、北緯三十九度三十分まで北上(中略)。その後二十七度十二分まで南下し、フィリピン諸島を出帆してから百二十日後の九月二十六日、艦隊はアルタ・カリフォルニア(現在のサンフランシスコ周辺)の沿岸を望見し、十月三日にヌエバ・エスパーニャのアカプルコ港に安着した」
サンペドロ号がその進路を東にとり始めた北緯三十九度三十分は、ちょうど日本の三陸沖にあたります。ウルダネータは自らの理論が正しかったことを証明できました。後に大圏航路と呼ばれるメキシコへの帰還ルートの発見で、フィリピン諸島の価値が一気に高まったのです。
ウルダネータは、季節風や海流の利用の重要性を知り尽くしていました。メキシコ太平洋岸(アカプルコ)とマニラを結ぶ貿易船は毎年二月の末頃にアカプルコから出帆させます。北緯十度から十三度付近で南西向きの貿易風をとらえれば、六十日から七十日でラドローネ諸島(現在のマリアナ諸島)に、そしてそこから十八日から二十日程度でフィリピンに到着するのです。それがウルダネータの考えた航海のやり方でした。
スペインにとってこの航路の発見は、マゼラン世界周航とは比較にならないほどの価値を持っていP37ました。ポルトガルの勢力圏であるインド洋や喜望峰を使わず、自らのテリトリーである太平洋だけを使って新大陸の港に戻るルートを作り上げたのです。
マニラに残った艦隊司令官レガスピはセブ島には港に適した入り江がないことに不満でした。部下のマーチン・デ・ゴイチが、ルソン島にそれに相応しい湾があることを発見したのは一五七〇年五月三日のことでした。現在のマニラです。
ここには十分な水深があり、海岸にはイスラム教徒が作り上げた小規模な交易の村トンドがあったのです。ゴイチはトンドの村を一気に焼き払い指揮官の来航を待ちました。指揮官レガスピはゴイチの仕事に満足でした。マニラ周辺にいた部族も帰順しています。マニラをフィリピン諸島の政庁と決めています(一五七一年六月二十四日)。当時のフィリピン諸島に住む人々の数はおよそ七十万人でした。
スペインはフィリピンをこうして支配することになったものの、この島々にはこれといって目ぼしい資源はありませんでした。サラゴサ条約で決まった分界線によれば、フィリピンは明らかにポルトガルに帰属する位置にありました。
貴金属よりも価値のある香料を産出する香料諸島と違い、何の資源も産業もないこれらの島に対するポルトガルの関心は薄いままでした。ですからスペインの領有宣言も気にならなかったのです。
価値のないと考えられていたフィリピンでしたが、スペインはすぐにこの島の特殊な価値に気づかされます。マニラの港ができあがると、そこに支那(明)からスペインとの交易を求める船が殺到したのです。彼らは生糸、絹製品あるいは陶器を満載してやって来ました。
一五七三年には早くも彼らが運んできた絹製品や二万二千三百個もの陶器を積んだガレオン船がアカプルコに向けて旅立っていきました。P38 明からやって来た商人が求めたのは銀でした。明は銀をベースにした貨幣経済でした。経済の発展には貨幣が必要になります。
またなにより明は辺境の防衛に軍を派遣し、その運用に大量の銀を必要としていたのです。紙幣を導入しようと試みたものの、辺境においてはペーパーマネーを受け取る者はどこにもいませんでした。銀を欲していた明は海外貿易の制限を緩和(一五六七年)させていたのです。
マニラのスペイン人にとって、銀を手配することはたわいもないことでした。新大陸にはあり余るほどの銀があったのです。メキシコではタクスコ(Taxco)やザカテカス(zacatecas)に銀鉱山を持ち、さらにボリビアのポトシ鉱山からも大量の銀が産出されていたのです。
明の貿易船は福建周辺から十二月の末頃にやって来ます。明から持ち込まれる製品は多岐にわたります。陶器や絹製品はもちろんのこと、真珠、紙製品、ビロード(velvet)や漆製品も持ち込まれています。運び込んだ商品の支払いは、三月にアカプルコからやって来るガレオン船に積まれた銀が当てられます。
また支那からの船はマニラでの造船や修理に欠かせない日本製の船釘などの金属製品も持ち込んでいます。フィリピンは支那と日本の製品を集荷するには都合のよい立地にありました。待っているだけで必要な商品が手に入ります。これを新大陸の銀で買いつければよいのです。これがスペインが築き上げたガレオン貿易でした。
スペインはこの貿易を年一回の航海に限っていました。わずか二隻のガレオン船だけが貿易を許可されたのです。年間十四トンの銀に換算できる金額の貿易しか許さなかったのです。支那の産品があまりに大量に輸入され、新大陸での販売価格が値崩れしないための工夫でした。それが、マニラに赴任した高官の収入に当てられる仕組みにもなっていたのです。
フィリピンの苦悩:脆弱な防衛力
P39 マニラはこうして新大陸の銀と支那の物産の交易で繁栄することになります。しかし商業的な繁栄とは裏腹に、マニラを預かる総督はつねにその軍事力の脆弱さを心配しなくてはなりませんでした。マニラは貿易港として賑わっているものの、スペイン人の人口がいっこうに増えないのです。
その結果、十分な軍事力の確保がままならず、現地人を雇ったプロとも言えない兵士の力に頼らざるを得ませんでした。マラリア、デング熱、赤痢などが蔓延する熱帯の島は、スペイン人には理想郷ではなかったのです。
フィリピン総督に軍事力の弱さを実感させたのは日本の豊臣秀吉でした。秀吉に朝鮮に出兵する愚を説き、フィリピン方面に軍を進めるべきことを主張した商人がいます。長崎の原田孫七郎でした。彼が秀吉の書簡を持ってマニラに現れたのです(一五九二年)。これは日本の明治期に展開される、日本は南に向かって勢力を拡張すべきであるとする南進論の萌芽ともいえる事件でした。
原田の持参した書簡にもかかわらず、結局秀吉は朝鮮に大軍を派遣しています。そのためマニラが日本軍に襲撃されることはありませんでした。しかし日本の侵攻を受けた朝鮮の模様は、マニラ総督に大きな衝撃を与えています。
秀吉の天下統一と朝鮮出兵以前は、フィリピン総督やカソリック修道士にとって日本は征服と布教の対象にすぎませんでした。布教を邪魔する者は武力で制圧すればよいと単純に考えていました。日本も野蛮で文化のない民族が暮らす、未開の地のはずでした。
しかし徐々に日本の軍事力の強大さを知ることになります。少数の兵力ではとても日本の征圧などできないP40ことを悟るのです。秀吉の朝鮮出兵は、その危惧が杞憂ではないことを、マニラの為政者にはっきりと知らしめる事件でした。
日本の軍事力の怖さをよく理解していたのが、一六〇八年にマニラ臨時総督となったドン・ロドリゴでした。「フィリピン臨時総督を務めたロドリゴは、日本の軍事力の強大さと強硬的日本外交を痛感していたと思われるが、日本を征服するどころか、逆にマニラが日本に征服されるのではないかとすら恐れていた」
「日本よりマニラに至る航海は、天候良好なれば十五日に過ぎず。皇帝(将軍)もし命令を下さば五万十万人を同市に派遣することを可能にして、之をなさば脆弱なる城壁内に在る五百のイスパニア人は多勢に抵抗すること能わざるべし」
そのロドリゴが帰国途中に岩和田の海岸で遭難し、助けられると、駿府にいる家康と対面することになります。それが一六〇九年のことだったのです。秀忠との会見を終え、駿府で家康と対峙したロドリゴは、マニラが軍事的に脆弱である不安を表に出すことは一切ありませんでした。彼は名門貴族の出身でした。メキシコ政界と深くかかわる家系を持つ外交のプロでした。
父方はメキシコ副王ルイス・デ・ベラスコの縁戚にあたり、母方の家系はコルテスに仕えた高官一族に繋がります。ロドリゴはこれまでの日本との親書の交換を通じて、家康がメキシコとの貿易を望んでいることをよくわかっていました。
家康が欲しがっている銀精錬の技術者とともに「大量の宣教師を送り込もうと」画策するのです。「カソリック教布教を尖兵として領土化をはかる」のがスペイン外交の王道です。軍事力を展開できないスペインにとって、民衆をそして願わくは支配者そのものP41をカソリックに改宗させ、スペイン王に恭順させる。ロドリゴは狡猾なプロの外交官として家康と渡り合ったのです。
ロドリゴはそれ以前に家康と会ったことはもちろんありませんでした。しかし、彼が臨時総督になるとすぐに日本との外交案件が持ち上がっていたのです。ですから対日本外交のカウンターパートとしての家康をよく知っていたのです。当時ロドリゴは、マニラに居住する支那人移民の反乱鎮圧に利用した日本人傭兵の狼藉行為の頻発に苦慮していました。しかし日本人に対して強い姿勢で臨むのは危険なことでした。
彼らを処罰することで、それが軍事侵攻の理由にされかねないと危惧していたのです。彼は日本人対策に当たって、まず家康の許しを事前に得ようとします。その書面が発せられたのは一六〇八年(慶長十三年)五月のことでした。御宿沖で難破するおよそ一年前のことでした。
「此時日本人の呂宋に居留する者年を逐ふて増加し、先に支那移民の叛乱マニラ市等に発するや、太守兵を指揮して二萬三千人を虐殺せしが、日本人は西班牙人を助けて之を撃ち、頗る功あり、然れども粗暴放恣にして政庁の政令を奉ぜず、政庁ややこれに苦しむ、(中略)新太守「ヴヴエロ」は其地在留の日本人を退去せしむるに決意し、慶長十三年特に使船を派し、書を以て先ず其由を家康に報ず」
家康はこの願いを聞き入れています。
この頃の日本には豊臣家の力はまだ残っていました。しかし家康の国内統一は実質的に終わっていました。ですから国家運営にかかわる外交・経済政策について、家康は早い段階から多くの構想を練っていました。経済政策について彼は貨幣の持つ力を知っていました。
貨幣となる貴金属の生産で得られる出目(セニョリッジ:名目価値と実質製造コストの差額)の魅力を熟知していました。貨幣をP42制することが本当の天下統一となることをわかっていたのです。
スペイン人が銀精錬の技術に長けていることは日本では知られていました。家康は、メキシコから精錬技術者を迎え、日本の貴金属鉱山の生産性をなんとしても向上させ、天下統一後に必要となる貨幣量を増やしたかったのです。ロドリゴも、家康の望みは過去に彼から届けられていたマニラ総督宛の書状で十分理解していました。
両者の思惑が合致すると、ロドリゴは家康のアドバイザー三浦按針が伊豆の伊東で完成させた西洋型帆船サン・ブエナ・ヴェンツーラ号(百二十トン)でアカプルコを目指して船出していきました(一六一○年八月)。メキシコ副王に家康の望みを伝えるのです。宣教師の受け入れとその保護を家康が約束している以上、本国は家康の要請を断るはずはないのです。
その後も家康の承諾を得た伊達政宗が、家臣支倉常長をメキシコ、スペインを経由してローマに派遣(一六一三年)しています。繰り返された両国の交渉で日墨間交易に幕が開くかと思われました。しかし外交にはっきりとしたビジョンを持っていた家康が亡くなり(一六一六年)、さらにカソリック教徒が叛乱を起こすと(島原の乱、一六三七年)、三代将軍家光は日本を閉ざしてしまっています。
家康とロドリゴが目論んだ日墨交流の構想が日の目を見ることはありませんでした。わずかに開かれた長崎出島での交易の窓は、スペインの宿敵プロテスタントの新興国オランダだけに開放されることになったのです。
日本の鎖国はマニラを預かる者にとっては、むしろ幸いだったかもしれません。当時世界的に見ても強力な軍事力を保持していた徳川の軍隊が、海外に向かって膨張し南進を始めていたら、千にも満たないスペイン兵士の守るマニラなどひとたまりもなかったのです。
アカプルコからマニラまでの距離は大圏航路でおよそ九千マイル(一万四千キロメートル)。マニラから攻撃されても、メキシコから救援など期待できるはずもありません。「マニラは日本の鎖国があったからこそ生きながらえることができた」と表現することが可能なのです。
ウルダネータの大圏航路の発見で本格化したアカプルコとマニラを結ぶガレオン船貿易。その成功で太平洋は「スペインの湖(Spanissh Lake)」と呼ばれることになります。しかし実態は太平洋の西端の島に小さな基地を築いただけなのです。
ガレオン船は一年に一度北太平洋を時計回りに、三角おにぎりのような形を描いて航海するに過ぎません。マニラは強力な軍事力の前ではひとたまりもない地(大洋)の果ての小さな砦でした。それでも二百五十年間にもわたってガレオン貿易で繁栄するのです。
当時の日本とスペイン(メキシコ)の関係を今に伝える史跡は、大多喜の町のメキシコ風タイルの歩道だけではありません。ドン・ロドリゴらが救出された御宿近くの岩和田の海岸にはメキシコ記念塔(日・西・墨三国交通の発祥の記念碑)が聳えています。
三浦按針がサン・ブエナ・ヴェンツーラ号を築造した伊豆・伊東の松川の河口には、三浦按針記念碑を見ることができます。宮城県石巻市月の浦には、常長を乗せたサン・ファン・バウティスタ号が復元されています。そうした史跡は鎖国前の徳川幕府(家康)が見せた堂々たる外交交渉の記念碑なのです(参照)。
8章 大戦前夜:ドイツ情報工作とタフト外交 P310-382
8.1 ドイツのデマゴギー:「日本のパナマ侵攻計画」P310-315
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世にとって、必ず戦うことになる国はイギリスでした。いつか来るその日に備えた外交の主眼は、ドイツの側についてくれる同盟国をいかに増やすかにありました。
それができない場合には、少なくともイギリスの側に立たない国を増やすことが重要でした。日本は日英同盟を鎹にしてイギリスの側に立っています。アメリカの立場はまだ微妙に感じられました。桂・タフト協定(相参1、相参2)ですでに日英同盟のサイレント・パートナーになっていることを知らないドイツにとって、アメリカは外交工作をしかけなければならない大国でした。
それにもかかわらず、ドイツの海外拡張政策は世界各地でアメリカの権益との衝突を招きました。サモア、ベネズエラでの衝突はその典型的な事例でした。アメリカのパナマ運河建設にも横槍を入れましたが、それも失敗します。アメリカとの良好な関係を築かなければならない時期に、アメリカと対立するという、ちぐはぐな外交を展開したのです。
一方、宿敵のイギリス長年にわたって保持してきたイギリスの海外利権を徐々に削ることでアメリカとの接近を図りました。アメリカのパナマ運河単独建設を禁じたクレイトン・ブルワー条約改定P311に応じたのもそうした方針に沿ったものでした。(略)
早くから世界の覇者として君臨した大国イギリスの外交には余裕があったのです。遅れてきた大国ドイツにはそうした外交ののりしろ部分はほとんどありませんでした。
ドイツはアルヘシラス会議で頼れる国はオーストリア・ハンガリー帝国しかないことを痛感させられました。そのオーストリア・ハンガリー帝国は、国内に民族問題を抱え安心できるパートナーではありません。
ドイツ、オーストリアと同盟を結んでいるイタリアは会議でフランスを支持し、またオーストリアとは領土問題を抱えていて、必ずしも信頼できるパートナーではありません。ドイツはこの危なっかしい二つの国だけが頼りでした。ヴィルヘルム二世はその不安をシャルルマーニュ・タワー米駐ベルリン大使に伝えています。(略)
イギリスに対抗するために、アメリカをイギリスから可能な限り離反させる。そのためにはイギリスの重要なパートナーとなった日本とアメリカとの間を引き裂くことで、米英の間に隙間風を吹かせられるはずだ。それがドイツの考えた作戦でした。
(略)
8.2 日米親善の取り組み その一 山本権平のニューヨーク訪問 P315-318
8.3 日米親善の取り組み その二 二つの博覧会 P318-323
8.4 日米親善の取り組み その三 巡洋艦「阿蘇」「宗谷」のシアトル博覧会訪問 P323-328
8.5 日米親善の取り組み その四 渋沢栄一の訪米 P328-331
8.6 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その一 ウィラード・ストレイト P331-334
8.7 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その二 日露戦争と朝鮮王朝 P334-339
8.8 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その三 ストレイトとハリマン P339-343
8.9 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その四 奉天総領事 P344-347
8.10 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その五 ストレイトと満州総督 P347-351
8.11 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その六 新民屯-法庫門鉄道 P352-355
8.12 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その七 唐詔儀の落胆 P355-358
8.13 チャイナハンズとタフト外交の失敗 その八 ハリマンの死と伊藤博文暗殺 P358-363
8.14 ドイツ外交の巻き返し その一 P364-368(関連)
(P364-)
P364 ハリマンと伊藤の死にドイツが安堵していたことは間違いありません。南満州鉄道がハリマンの構想の下で、東清鉄道、シベリア鉄道と一体運用され、かつシベリア鉄道の複線化が実現してしまえば輸送能力が格段に強化されます。そうなってしまってはドイツの安全保障上大きな脅威になるのです。万一ロシアとの間に紛争が起こった場合、ロシアの必要とする軍需物資は容易に極東から運び込まれることになってしまいます。二人の死でその可能性は消えたのです。
二人が亡くなった一九〇九年ドイツ外交にとって反転攻勢の年でした。事を構えることが確実な宿敵イギリスと日本の強固な関係に、風穴をあけるために米日関係を悪化させる。その狙いが実現できる可能性が大きく高まったのがこの年でした。この前年の「ルート・高平協定」の成立でその夢は絶たれたかに見えたものの、年が明けタフト外交が始まると、タフト政権は日本よりも支那を大事にする外交にシフトしました。
タフトが政権についた一九〇九年三月から、アメリカの動きが日本を刺激する方向に動き始めたことを、独駐ワシントン大使のヨハン・フォン・ベルンストルフは敏感に感じ取っていました。
「ベルンストルフは、ドイツとアメリカの友好関係の構築によりイギリスと対抗すべきという外交思想を信奉していた。ルーズベルトの後継者タフトはラテン・アメリカよりも東アジアを重視した。ベルンストルフは支那を巻き込んでの独米友好関係が構築できるチャンスが到来したと考えた」
「タフトの態度がドイツに友好的なものになってきていることは明白であり、政治的にも実に好ましいことである。このままでいけばアメリカと日本の対立は激化し、それはイギリスとの関係までも悪化P365させることになろう」
ベルンストルフの分析にヴィルヘルム二世も同調しています。「ドイツ、アメリカそして支那は今こそ立ちあがり、英露日三国の挑発的な協商関係を打破しなければならない」
一九〇九年にはドイツのこのような分析を後押しする出来事がアメリカ国内でも頻発していました。この年にはカリフォルニア州での反日本人運動が再び活性化しています。同州の農業従事者のうちで日本人移民の割合が四十一・九パーセントにまでなったのもこの年でした。
ホーマー・リーが日米開戦の不可避性を訴えた『無知の結城(邦訳『日米戦争』)』が出版され、「ウィリアム・ハースト系のメディアがこの主張に飛びつ」いて反日本人運動に都合よく利用したのもこの年です。
ドイツが小躍りするようなニュースが続いたのです。
アメリカの外交方針の変化のきっかけを作ったのが、愛娘アリスのお気に入りでもあったストレイトだったのは皮肉なことでした。ストレイトの考え方は明らかにドイツに知られていました。ドイツとしては、彼の日本を刺激する外交方針は大歓迎でした。
ドイツは支那に投資機会を探っているアメリカ金融グループに対しても融和的な態度を示しています。タフト政権の歓心を買おうとしたのです。アメリカ金融界を牛耳る投資会社にも、ドイツの態度を評価させるために日本嫌いのストレイトに花を持たせることにしたのです。
ハリマンと伊藤の死を受けて錦州-璦琿新線プロジェクトより、はるかにスケールの大きい、うまみのあるものでP366した。この支那南部の鉄道投資案件はすでにイギリス、フランス、ドイツの投資グループの間で、融資条件やその割合について折り合いがついていたプロジェクトでした。
タフト政権発足後、そこにアメリカの投資グループが強引に割り込んできたのです。そのグループの代表がストレイトでした。これまでのドイツがサモアやベネズエラで見せた外交姿勢であれば、アメリカの横暴に反発する可能性の高いものでした。しかしドイツはアメリカの要望を前向きに聞き入れます。
「(一九〇九年)七月五日から七日にロンドンで行われたアメリカ金融グループとの交渉結果が報告された。アメリカの要望である四分の一の参加は、『漢口-成都』鉄道の湖北部分のみならず、同鉄道の延長部分、四川省の省都、成都へも及んでいた」
これが、ストレイトがオーストリアに向かう前のロンドンで英仏独のグループと交渉した内容だったのです。遅れてやってきたアメリカのごり押しでした。ドイツの融和的態度に助けられて、この交渉が最終的にまとまったのは一九一一年五月二十日のことでした(湖口帝国政府鉄道・最終協定)。
セオドア・ルーズベルトは大統領職を去るとすぐさま念願のアフリカ・ツアーに旅立っていきました(一九〇九年四月二十一日から一九一○年三月十四日)。彼の耳に入ってくるタフトのアジア外交は我慢のならないものでした。あきれ返ったという表現が相応しいほどでした。
特に外交常識を無視した、満州を走る鉄道の中立化案に憤っています。ルーズベルトがあれほど気を遣った対日外交を台無しにしてしまうやり方は、とても許せるものではありませんでした。パナマ運河はいまだに完成していません。日本の海軍力には十分に配慮しなければならないことにはいささかも変化はないのです。
P367 ルーズベルトは、アフリカの旅を終えるとヨーロッパ各国からの招待を受けています。一民間人となったルーズベルトですが、アメリカ国内では絶大な人気を誇る前大統領を、各国が国賓待遇で迎えたのです。ドイツもルーズベルトを歓迎しています。英語を流暢にあやつるヴィルヘルム二世にとって、ルーズベルトを親ドイツに誘導するには絶好の機会でした。
ルーズベルトはベルリン大学で講演しています(一九一○年五月十二日)。そこでの彼のスピーチはヴィルヘルム二世を失望させるものでした。ルーズベルトは日本を褒め称えたのです。
「世界のそこかしこで西洋文明の影響が現れている。その好例が日本である。過去半世紀に見せた日本の変化と成長は、歴史的に見ても驚異的な現象であるといえる。日本は、強烈なまでにその伝統に誇りを持つ一方で、旧弊から自らを解き放った。その結果、世界をリードする文化国家の一員に変貌を遂げたのである」
ドイツの煽る黄禍論への真っ向からの挑戦でした。ヴィルヘルム二世も、米日離反政策がいかに難しいかを改めて悟ったに違いありません。ドイツの新聞がこのスピーチを取り上げることはほとんどありませんでした。ルーズベルトはおそらくこのスピーチがドイツでは無視されることは承知していたでしょう。しかし彼はこれが本国に伝わることはわかっていたはずです。タフト政権に対しての不満の表明になることを期待していたのです。
ベルリンにはウィラード・ストレイトがルーズベルトを待っていました。ストレイトは暗礁に乗り上げた錦州-璦琿新線案件を進捗させるための最後の賭けに出ていました。アメリカの不躾な外交に態度を硬化させたロシアへの直接交渉に向かう旅の途次でした。五月五日にはベリリンに入っていたストレイトは、タフト外交への憤懣をルーズベルトにぶつけた後がいないのです。
サンクトペテルブルクP368では首相、蔵相、外相、陸軍大臣など主だった首脳すべてと会談しています(六月二十日から二十五日)。ストレイトは、ロシアが錦州-璦琿新線を認めることはまずないと諦め、交渉を打ち切っています。
時代背景
→『赤い盾』2.4ジェームズ・ボンド『女王陛下の007』(参照)
8.15 ドイツ外交の巻き返し その二 P368-372
8.16 一九一二の大統領選挙 P372-376(関連)
(P372-)
P372 この年の夏に行われた共和党大会では、現職のタフトが候補に選出されています。大会には義父のルーズベルトも立候補していました。ルーズベルトはタフトの外交方針には腹を立てていましたし、何よりもルーズベルトが政府の要職に任命していた彼の友人を次々に交代させたことは我慢ならないことでした。
しかし彼は代表戦にタフトに敗れます。ルーズベルトはここで諦めませんでした。党主流派の工作でタフトが再選(6月16日)されたものの、ルーズベルトに対する国民の人気は絶大でした。ルーズベルトは、新党、進歩党(the Progressive Party)を結成し、同党のリーダーとして三度目の大統領職に挑戦を決めたのです(6月23日)。(略)
P375 戦いは共和党の分裂選挙で漁夫の利を得た民主党のウッドロウ・ウィルソン(ニュージャージー州知事)の圧勝でした。一般投票でウィルソンは42パーセント、ルーズベルト27パーセント、タフトは23パーセントに終わっています。(略)
9章 第一次世界大戦:アメリカの戦争準備と参戦(相互参照)、そしてドイツの対日外交の紆余曲折 P383-488
9.1 一九一二四月一日、エイプリルフールの与太記事 P383-3869.2 ウィルソンの日本人嫌いと対日戦争準備勧告 P387-390
9.3 パナマ運河開通 P390-304
9.4 アメリカン・システムの完成:中央銀行(FRB)の創設 その一 P394-398(相互参照)
(P394-)
P395 しかし、アメリカンシステムの三番目の狙いである「中央銀行の設立」についてだけはいっこうに進みませんでした。その理由は、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンに代表される歴代大統領の、銀行の紙幣発行システムに対する根深い不信でした。ジャクソンはフィラデルフィアの資本家が設立した中央銀行、第二合衆国銀行が連邦銀行として機能する権限を剥奪しています。1836年以来、アメリカには中央銀行は存在していなかったのです。(略)
P397 右記の金匠の仕組みに従えば、資金を必要としている会社に三億円を貸し出し最大株主になることが可能です。しかしよく考えてみるとその貸し出した三億円は、どこにも存在しなかった三億円なのです。この仕組みから得られる利益は、貸し出しと預け入れの金利差からの利益をはるかに上回る巨額なものです。 アメリカの政治家はこのからくりを知っていました。この悪辣な仕組みは「部分準備制度Fractional Reserve System」と呼ばれ、あたかもスマートな仕組みのようなイメージをまとっていますが、その実態は実に性悪なものです。ですから、(略)
銀行間に競争させることで、放漫になりがちな(融資額をできるだけ増やそうとする)銀行経営をチェックさせようとしたのです。(略)
取り付けの事態に備えて銀行家は、どれほどの割合(準備率)を支払用として金庫に用意していたのでしょう。きわめて保守的な(預金者から見れば安全な)銀行は五十パーセント近くを用意しています。たとえばハリマンの支配下にあったウェル・ファーゴ銀行(2010年、全米四位)と
P398 合併したネバダ銀行のオーナー、イサイアス・ヘルマン(Isaias W.Hellman)は保守的な銀行家の典型でした。つねに預金量の四十五パーセントを準備し、不足の事態に備えるほどの堅実経営でした。しかし多くの銀行では二十パーセント程度の準備率で経営していたのです。(平均では二十一・一パーセント)。制度的にその程度の準備率でよしとされていたのです。(略)
P398 前述のパニック・オブ・1907が起きたのは、こうした低い準備率での融資が行われていたことが原因でした。(略)
9.5 アメリカン・システムの完成:中央銀行(FRB)の創設 その二 P398-403
(P398-)
P398 パニック・オブ・1907は、モンタナの地方銀行の乱暴な経営が原因となった取り付け騒ぎでした。それではその取り付け騒ぎの危機を防いだJPモルガンなどの有力投資銀行が資金の融通に
P399 困った場合はどうなるでしょうか。ストレイトが仕掛けていたような支那鉄道投資案件などは大きな投資です。そうした投資はつねにリスクを内包します。彼らが、そうした場合に備えて最後の駆け込み寺として、資金提供できる金融機関(中央銀行)が欲しいと思うのは当然でした。彼らの問題意識の重要なポイントは以下のようなものでした。
一、銀行のわずかな準備金をすべて一つに集めてプールし、少なくとも一部の銀行が決済資金(略)
不足や取り付けを免れるようにするにはどうしたらよいか
二、不可避の損失負担を銀行がら納税者に転嫁するにはどうすればよいか
三、どうやって、そのような施策は市民を守るものであるとして議会を納得させるか
1910年十一月二十二日の夜、アメリカ金融界を牛耳る大物たちがニューヨークの対岸にある小さな鉄道駅に集まっていました。(略)
P400 七人が向かった先はジョージア州の狩猟の名所であるリゾート地ジキル島でした。(略)
この七人が第三合衆国銀行の設計図をジキル島で検討してから二年後の大統領選挙でウッドロー・ウィルソンが当選しています。P401 彼は中央銀行設立を目指す金融資本家グループが周到に用意した人物(弾)でした。(略)
ウィルソンはJ・P・モルガン系企業との強いコネクションがありました。だからこそJ・P・モルガンは、1912年の選挙にウィルソンを担ぎ出したのでした。その担ぎ出しを担当したのがJ・P・モルガン・ジュニアをファーストネームの「ジャック」と呼ぶほどの仲であったエドワード・マンデル・ハウスでした。(略)
第三合衆国銀行設立を可能にする法律の準備が整ったのは、ウィルソン政権の一年目が終わろうとする1913年の暮れのことでした。法案(Federal Reserve Acts)は連邦制度理事会(Federal Reserve Board:FRB)の創設をうたうものでした。数々の工夫がなされ、中央銀行はおろか銀行という名称さ絵使用しない周到さでした。どこにも第三合衆国銀行が創設されることをにおわせる文言はないのです。委員会のメンバーの選任も、上院の助言と同意によって大統領が任命するという仕組みで、国民のコントロールが利くかのような制度となっていました。(略)
名称にはFederal(連邦の)を使用し、政府機関であるかのような錯覚を与えています。委員の選出は運用でどうにでもなります。この委員会が全米各地に設立されることになる十二の連邦銀行を指導するのである。しかしその中心的役割を果たすニューヨーク連邦準備銀行もその他の連邦準備銀行も、株主名は公開されませんでした。すべてを主要な民間銀行が押さえていたのです。(略)
P402 第一次世界大戦の勃発直前に中央銀行システムを導入できたことで、アメリカは期待される戦争需要への対応準備が整いました。(略)
貸し付けをどれほど拡大してもFRBが最後の砦として守ってくれる仕組みができあがったのです。実際、FRB創設の結果、準備率は平均で十一・六パーセントに下げられ、一九一七年六月には、九・八パーセントまで下がりました。このことはFRBが生まれてわずか四年で銀行の貸し出し量が二倍になったということなのです。これこそがJ・P・モルガンをはじめとした金融資本家が意図していたことでした。
連邦政府主導のパナマ運河が開通し、第三中央銀行としてのFRBの活動が始まる一九一四年。まさにこの年にアメリカが、リンカーン政権以来の国是としてきたアメリカン・システムが完成したのです。強力な国家として、ヨーロッパ列強を凌駕するためのすべての準備ができました。
9.6 イギリスの参戦 その一 イギリス艦隊のドイツ表敬訪問 P403-409
P403 一九一四年五月、ウィルソン大統領が自らの分身と考えてもよいと公言するほどの満腔の信頼を寄せているアドバイザー、エドワード・マンデル・ハウスがヨーロッパの視察から戻っています。
ハウスはヨーロッパ中に「いけいけの軍国主義者」の声が満ちていると報告しています。憎しみと嫉妬が渦巻き、なかでも露仏のドイツへの猜疑心と警戒心がひどいと伝えています。確かにフランスは、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌの奪回を目論見、ドイツへの反攻の機会を狙っていました。
ロシアは、ドイツがトルコを囲い込み、ロシア黒海海軍を牽制していることが我慢なりませんでした。ヴィルヘルム二世は病める大国トルコとの提携を強めていました。トルコは、陸軍の再編と指揮をドイツ将校に任せるほどにドイツを信頼しています。
ドイツ陸軍はオットー・ザンデルス将軍をコンスタンチノープルに派遣(一九一三年十二月)、トルコ陸軍全軍の指導と、ボスポラス海峡の監視防衛を強化させています。ドイツはロシアの近代化が進むのを恐れていたのです。
ロシアからすれば、黒海と地中海連結の要、コンスタンチノープルをドイツ指揮下に置かれてはロシア黒海艦隊の動きは完全に止められてしまいます。ロシアにとってはドイツとトルコの接近はきわめて危険なものでした。
露仏のドイツに対する警戒心は、ハウスがワシントンに報告したとおり激しいものでした。しかし英独の関係については必ずしも悪いものではありませんでした。激しい建艦競争を繰り広げてきたテP404ィルピッツ提督も、一九一三年にはドイツ議会に対してイギリス海軍と同じ規模の艦隊を作り上げるのは難しい、対英比率十六対十に甘んじざるを得ないと述べるまでになっています。
ドイツにとっても陸海両軍の同時増強はさすがに荷が重かったのです。イギリスとドイツの融和ムードの象徴はイギリス第二艦隊のキール軍港訪問でした。(略)
9.7 イギリスの参戦 その二 オーストリア皇太子暗殺 P409-412
(略、事件の一部始終) P411 命に未練のない若者を大セルビア王国再建の先兵に仕立て上げたのはセルビアの秘密情報部長ドラグーチン・ディミトリーヴィッチ大佐でした。「黒い手(Black Hand)のリーダーです。
改革派のP412フェルディナンド皇太子にボスニアの安定を築かれたら困るのです。ロシア政府もこの組織とのコンタクトを持っていました。セルビアの首都ベオグラードのロシア大使ハルトウィグ(Hartwig)は、ディミトリーヴィッチ大佐と接触を繰り返していました。(略)
9.8 イギリスの参戦 その三 チャーチルの策謀 P412-415
イギリス蔵相ロイド・ジョージは、オーストリア皇太子暗殺事件(1914.6.28)がイギリスに及ぼす影響はないだろうと楽観視していました。オーストリアとセルビアの火花の出るような交渉が続いていた七月十七日、「あの事件は水平線にちょっとだけ湧いた小さな雲のようなものだ、国際関係に、雲ひとつなく晴れ上がった日などありはしない」と述べていました。続く二十三日には「英独関係は数年前とはまったく違い、良好である」と述べたのです。(略)
七月二十七日の閣議でもイギリスは参戦しない、という考えの閣僚がほとんどでした。「少なくとも四分の三のメンバーは、イギリスそのものが攻撃されない限り参戦はないという雰囲気(チャーチルの回想)」だったのです。(略)
ところがイギリスが参戦を決めたのは、このわずか三日後の八月四日のことです。この数日に何かがあったのです。紛争介入を主張する閣僚の筆頭格は外務大臣エドワード・グレイと海軍大臣ウィンストン・チャーチルでした。(略)
おそらくアフリカ大陸のドイツ植民地や、豊かな埋蔵資源が期待されるメソポタミア地方の油田開発利権を狙っていたのでしょう。トルコ石油会社(一九一四年三月設立)のドイツ利権(ドイツ国立銀行が二十五パーセント所有)などはその典型です。
彼らは巧妙なトリックを考え出しました。戦争には表向き消極的な態度を見せながら、「イギリスP415が攻撃され場合」以外には参戦しないという誰もが反対できない条件にもう一つ、新たな条件を潜り込ませることに成功したのです。それは「中立国ベルギーが侵略された場合」という条件でした。(略)
その根拠は、七十五年前に、フランス、プロシャ、イギリスとの間で結ばれた条約でした。そこにそれが規定されていたのです。しかし、その条約もイギリスの参戦を義務とはしない緩やかなものだったのです。(略)
9.9 イギリスの参戦 その四 参戦の詭弁 P415-419
9.10 参戦正当化のプロパガンダ:レイプ・オブ・ベルギー P419-423
9.11 戦線の膠着とアメリカ金融資本 P424-427
9.12 イギリスの二枚舌とアメリカの同調 P427-429
9.13 国務長官ロバート・ランシングの詭弁 P430-432
9.14 日本への秋波 ドイツからのアプローチ P432-437
9.15 日本への秋波 その二 ドイツ領南洋諸島争奪戦 P437-440
9.16 日本への秋波 その三 連合国の軍事支援要請 P440-443
9.17 日本への秋波 その四 地中海での日本駆逐艦の活躍 P444-445
9.18 アメリカ参戦の策謀 その一 影の国務長官エドワード・マンデル・ハウス P446-449
9.19 アメリカ参戦の策謀 その二 一九一六年大統領選挙 P449-454
9.20 アメリカ参戦の策謀 その三 ハウスのウィルソン洗脳工作とドイツの無制限潜水艦攻撃 P454-460
9.21 アメリカ参戦の策謀 その四 ツィンメルマン暗号 P459-463
9.22 アメリカ参戦の策謀 その五 メキシコ革命への介入(一) P463-470
9.23 アメリカ参戦の策謀 その六 メキシコ革命への介入(二) P470-477
9.23 アメリカ参戦の策謀 その七 タイミングの良かったロシア革命 P477-481
9.24 ウィルソン政権の対日宥和政策:「石井・ランシング協定」と日本の南洋諸島占領問題 P481-488