2022年6月17日金曜日

偏愛メモ 『億万長者はハリウッドを殺す(上)』第六章 億万長者の異常な愛情 P89-142(随時更新)

第六章 億万長者の異常な愛情 P89-142

P90エジソン最後の貪欲
十九世紀から二十世紀への橋渡しをした歴史的な大統領が、ウィリアム・マッキンレーだった。この時代は、ちょうど映画界でバイオグラフ・ガールと呼ばれるバイオグラフ映画社の女優が真っ盛り、エジソンが『ニューヨーク二十三番街で起こったこと』を制作したところ、この悩ましい女性たちを育て上げたのが、マッキンレー大統領である。

彼の弟が銀行家で、そこからバイオグラフ社へ強力な資金援助を来ない、彼女たちを思いっきり伸びやかに振る舞わせることができたのは、大統領の力あってのことだった。銀行は大統領の政策によって、ビジネスの向背を決することになる。

マッキンレーはホワイトハウスに入って三年目に、それまで自分の好みだった銀を捨て、金をすべての価値の基準にする法を実施した。

金の値段は絶えず猫の目のように変わるが、その価値は百年前と今とではほとんど変わらず、金一グラムで買える米の量は、ずっと十数キロである。

P91マッキンレー大統領が命令したのは、この金を基準に貨幣の価値を決める“金本位制”であった。本書ではこれまで「現在の○○億円に相当する」と書いてきたが、これはマッキンレーに倣った金本位制で、当時と今日の金価格を比べながら計算したものである。

しかしこの政策を公表する前に、

「金塊を買い集めておけ」と、弟に耳打ちすることはできる。モルガンとロックフェラーの鉱山師たちに、事前に知らせることもできる。

そのマッキンレーが一九〇一年九月に暗殺された。副大統領のセオドア・ルーズヴェルトが大統領に昇格した今では、政策が変更される危険性が強かった。J・P・モルガンは真っ青になって手を震わせていた。

時代を見ると、まだ映画館というものはひとつもなく、大ニューヨークでも、キャバレーが映画会社に店を貸し、そこでフィルムを回しながら人集めをしていた。そのような性質の仮設劇場だったから、スクリーンに映し出された作品のなかで、女たちは必ずと言ってよいほど期待もしないところで服を脱ぎはじめ、男好きのする体を見せてくれのだ。

なかでもバイオグラフ社の作品は、もっぱら肉付きのいい女を売り物にし、艶げな振舞いで春情を催すシーンに満ち溢れていた。悪名高くも、人気はすこぶる上々で、映画が手応えのある収益を記録しはじめた。

エジソンは今度こそ、映写機の特許をふりかざしてバイオグラフ・ガールを叩きつぶし、銀行家の手を借りずにこの産業の王者になろうと決意していた。

P92しかし実際には、“ロール・フィルム”の発明者はジョージ・イーストマンで、連続写真の高速度撮影を可能にしたカメラ“写真銃”の発明者はフランス人のエチエンヌ・ジュール・マレーだった。暗箱をのぞくと秘めやかなシーンが見られるピープ・ショウの機械“キネトスコープ”は、エジソンの助手ローリー・ディクソンの発明品で、これをスクリーンに映写したのはフランス人のリュミエール兄弟だ。エジソン名義のもうひとつの映写機“ヴィタスコープ”は、トマス・アーマットとC・フランシス・ジェンキンの発明を盗んだものではないか。一九〇二年、一九〇六年と立て続けに特許権の裁判を起こしたエジソンだったが、その度に法廷で発明王の化けの皮が剥されてゆき、敗北に次ぐ敗北を記録した。

モルガンとロックフェラーは、まだ映画産業を遊ばせていた。『大列車強盗』が一九〇三年に大当たりをとっても、それは重要な問題ではなかった。それよりはるかに深刻な事件が持ちあがっていた。

一九〇四年、勇敢なひとりの女性作家アイダ・ターベルが、ロックフェラーに挑戦をしかけてきた。アイダ・ターベルは『スタンダード石油の歴史』と題する本を世に問い、かの七つの頭を持つアナコンダがやってきた悪業の数々を、余すところなく暴露したのである。

この書物の結論そのものは、ここ二十年来さまざまに語り続けられてきたことで、アメリカ人の誰ひとり知らない者はなかった。しかしその内容が初めて厳密で、実名入りだったため、この一冊の書が投げかけた実証の波紋は大きく、ロックフェラー家は絶体絶命の断崖に立たされたのである。

P93この年の十一月におこなわれた大統領選挙では、ルーズヴェルト大統領と対立候補が、独占企業のトラストを許すかどうかで激しく人気を競い合い、「ロックフェラー断罪」をキャッチフレーズにしたルーズヴェルトが再選された。

新大統領は、次の年に早くもスタンダード石油について実態調査を命令し、あからさまな挑戦をはじめた。モルガンにとっても、他人事ではなかった。ルーズヴェルトがが喧嘩を売っていたのは、“大会社”すべてだったからだ。

いずれはUSスチールにも飛び火する日が目前である。ロックフェラーと奪い合ったモルガンの鉄道には、すでに違法の判決が出される有様だった。

ルーズヴェルト大統領は猛獣狩りが好きで、しばしばアフリカへ鉄砲を持ってグレート・ハンティングに出掛けたが、ライオンと呼ばれたジョン・ピアポント・モルガンがそのニュースを耳にして、

「ライオンがその本来の務めを果たすよう期待する」と叫んだのは、この時である。

疑心暗鬼のうちにも、J・P・モルガン商会の重役たち、ここでは互いにパートナーと呼び合っていたが、彼らはますます結束を固めてゆき、これまでより秘密主義を強めていった。

J・P・モルガンは、息子のジャックを急いでイギリスから呼び戻すとモルガン商会のトップに据え、新しい産業に手を伸ばす作戦をただちに実行に移した。彼らが目をつけたものこそ、この一九〇五年にアメリカで初めて誕生した映画館だったのである。

それとも知らず、ヴォードヴィルなどの劇場主たちは、少しづつ映画だけを売り物にする劇場へ転身してゆき、この年のうちに十軒ばかりが映画館として開業する道を選んだ。

P94これらの劇場は、映画ファンにとっては目新しい娯楽の殿堂だったが、ウォール街の抜け目ない観察力によれば、立派な映写機を備えつけ、フィルムの背後から強力な電灯の光をあて、それを大きなスクリーンに映し出す建物、つまりエジソン発電所やウェスティングハウスのナイアガラ発電所から送られてくる電気を大量に使ってくれる場所である。それで、別名“エレクトリック劇場”と呼ばれることになった。電気劇場だ。

モルガン商会は、この時を狙ってゼネラル・エレクトリック社(GE)に奇妙なペーパー・カンパニーを設立させた。その名も「エレクトリック債券株券会社」という奇妙なこの会社は、社名に語られている通りの紙きれを次から次へと印刷して外へ売りに出し、大金をかき集めてくる。

その金をGEやウェスティングハウス、あるいは発電所につぎ込んで、その仕事を増やしてゆくプロモーターである。しかしこんな有価証券が発行されると、これを買った株主に対してキチンと配当を支払わなければならないので、その配当分だけ電気料金を値上げすることになる。

紙きれが売れれば売れるだけ何の理由もなく不当に高い電気代を払い続けたのが、何も知らない普通の人たちだった。

この話には、莫大な配当金を受け取る株主が当のモルガンたちだった、という落ちまでついた。彼らは株価をつり上げては、その差額分で株をさらに買い占めてゆき、ちょうどネズミ講と同じように果てしない金儲けを続けたのである。

この資金のふくれ方がどれほど猛烈だったかは、わずか五年後にはエレクトリック劇場が一挙に一万軒に達したことからも想像されよう。おそるべき電気工事の普及率だった。

P95そうした事情も知らないエジソンは、映画産業がひどく好調に見えるためますます特許戦争に執念を燃やしてゆき、一九〇七年に一度だけ裁判で有利な判決を引き出すと、バイオグラフ社にさらに激しい攻撃をしかけ、痛烈な悪罵を投げつけた。

「その映写機は、わしが発明したものである」

バイオグラフたちもやり返したが、いつまでも偏執狂の攻撃が終わらないため、映画界はこの妄想家と闘うことに疲れ果てて見切りをつけ、大会社が共謀して独占体をつくろうというアイデアを持ちかけた。

今度はエジソン社、バイオグラフ社など十社が結託して「映画パテント」会社を設立し、ここで特許をすべて独占することを企んだのである。エジソンは、この独占体に参加しない会社を一切認めないという号令をかけ、すべての大映画会社を自分の支配下に置き、特許料をほとんどひとりで懐に入れるという契約を取り決めることに成功した。

一九〇八年のことである。もはやモルガンの首輪を外して、年間で百万ドル、今日のおよそ四十億円というベラボウな利益を手にする魔人エジソンとなった。

この映画トラストは横暴をきわめた。それは、あのロール・フィルムのジョージ・イーストマンがエジソンと組み、コダック社のフィルムをこのトラストのほかには販売しないという協定取り結び、フィルムを独占してしまったからだった。

映画館もまた、この“エジソン⁼イーストマン”トラストの映画のほかには上映できないほど、圧力を受けはじめた。言うことを聞かないと、エジソンの金でポケットをふくらませた警察官が襲いかかってきた。

P96淋しい小屋で電信技手をしていたトマス・アルヴァ・エジソンは、生涯で初めて王国を築きあげた。過去の苦い経験から銀行に金を預けることにはいささか不安を伴なったが、ともかく巨大な口座を開いたのである。

しかしこの好景気は、すでに経過が明白な通り、紙きれで作り出された架空のものだった。エジソンが特許裁判で勝った一九〇七年には、十月に恐慌が発生してマーカンタイル・ナショナル銀行が倒産してしまい、続いてニッカーポッカー信託も危機に陥り、社長が辞任して悲惨な自殺を遂げ、二十三日にはニューヨークのすべての銀行で取り付け騒ぎが起こる深刻な事態まで進展した。

このとき張本人のJ・P・モルガンと、ロックフェラー一派のジェームズ・スティルマン頭取らは、顔を寄せ合って密談し、経済的に頼りない会社を合併させながら危機を利用し、一層の独占をはかった。

テネシー石炭鉄鋼という大会社を、またしてもこの恐慌に乗じて、モルガンのUSスチールが吞み込んだ。注目しておくべきは、この機会に大蛇とライオンの和解が成立したことである。

映画界に目をやれば、ウェスティングハウスに破産事件が襲いかかり、エレクトリック劇場は数ばかり増えて誰も観客がいないという危機に直面していた。エジソンに莫大な特許料は払い込まれたが、それがエジソンの灯した最後の灯でもあった。

劇場から身を起こした本職の芸人たちは、トラスト成立の日からうるさい東部に見切りをつけると、広大な西部に目を転じてゆき、やがて歴史を書き替える作業を成しとげた。一九〇八年、ハリウッドを発見したのである(相互参照)。そして翌年に、面白い事件が起こった。

ある大手の映画会社は、すでに数百人の俳優を抱える大スタジオを運営していたが、

P97そのなかにフローレンス・ローレンスというなかなかの女優がいた。ライバルのバイオグラフ社は、このローレンス嬢を引き抜くという手段に出て、自社の“バイオグラフ・ガール”として売り出してしまったが、この女優引き抜き事件はそれで終わらなかった。

独立系の小さなスタジオを経営し、やがてハリウッド史にその名を知られるカール・レムルという男が現れると、あろうことか、このローレンス嬢を自分の会社に引き抜き、横取りしてしまったのである。一九〇九年のことである。

危機を感じとったバイオグラフ社は、翌年一月から銀行家の一行が西海岸のロサンゼルスに乗りこみ、そこに大撮影所を建設しはじめた。

そして大事件が発生した!二ヵ月後、中部ミズーリ州セントルイスの新聞に、

---バイオグラフ・ガールのフローレンス・ローレンス嬢、市電に轢かれて死亡---

という悲しい記事が出たのである。

この怪死の噂が全米を駆けめぐったとみる間に、その一週間後、映画専門紙に次の広告が打たれ、多くの人が絶句した。

---バイオグラフ・ガールのフローレンス・ローレンス嬢が市電に轢き殺されという新聞報道は、真っ赤な嘘である。彼女は健在であり、このようなバイオグラフ社の中傷によって抹殺されることがなきよう、フローレンス・ローレンス嬢が早速、『傷心の小径』なる次回作品の撮影に入っていることをここに発表する---

映画ファンはこのスキャンダラスなニュースに大喝采を送り、『傷心の小径』に登場する

P98ローレンス嬢の姿をひと目見んものと、劇場に押しかけた。大入り満員である。この二つのスキャンダル記事の両方とも自分で演出したのが、したたかなカール・レムルだったのである。

しかし彼は世間を一杯食わせながらも、自らローレンス嬢の異常な人気に目を丸くして驚き、ここに貴重な原理を発見した。

「映画には、ファンを吸い寄せる人気スターが必要だ。面白い事件にまつわる話題の人間こそ・・・」

映画界のスター第一号ローレンス嬢は、こうしてスキャンダルと共に誕生したのだった。

しかしこの事件は、エジソンやバイオグラフ社やイーストマン・コダック社の横暴な映画トラストに公然と反逆した一匹狼、カール・レムルという男がちょっとしたスキャンダルを創作した、という愉快なハリウッド伝説ではなかった。

これが、世界の歴史を動かす、まったく別の重大事件の前兆であった。ローレンス嬢を引き抜いたカール・レムルは、ドイツ系ユダヤ人だった・・・。

一方、ウォール街二十三番地のJ・P・モルガン商会には、“ユダヤ人をパートナーにしてはならない”という人種差別が、鉄の掟として守られ続けてきたのである。

ジョン・ピアポント・モルガンの家系の特徴は、次の通りである。

モルガン家の系譜
P99モルガン家の系譜図を調べてゆくと、何人かの目を引く人物が発見される。

トマス・ハント・モルガンは、ダーウィンの進化論を敷衍するための遺伝学と取り組み、ショウジョウ蠅を使った染色体の研究によって、遺伝のメカニズムを証明し、ノーベル賞を受賞した。

しかしその研究成果が彼に帰せられるべきかどうか、疑惑の念が持たれている。形質の連鎖と遺伝子の組み替えは彼以前に発見されており、染色体の成果も彼の弟子スタートヴァントによるものだった。

ルイス・ヘンリー・モルガンは、J・P・モルガンの父親と同世代に当たり、『人類の血縁と姻戚の諸体系』という書物を出した。その内容は、人間文化の進化論である。トマス・モルガンが科学的にダーウィンと取り組んだのに対して、ルイス・モルガンは婚姻制度からダーウィンの進化論を立証する作業に取り組み、アメリカで早くから名を成した。

P100コンウェイ・ロイド・モルガンは、アメリカに渡らずイギリスに残っていたモルガン家の系譜に入るが、J・P・モルガンと同じ世代に当たる。彼もまたダーウィンの進化論を立証する作業と取り組み、動物心理学から解析を試みながら、社会進化論者として世界的に名を成した。

これらの進化論は、当時アメリカ社会にあってひとつの役割を負っていた。この半世紀以上もあと、一九六八年に公開された『猿の惑星』という不思議な映画があった。この物語に登場する惑星では、今日の地球とはアベコベに、猿が人間を支配している。

そしてこの高等動物の猿が、下等な人間から進化したかどうかをめぐって激しい論争が闘わされ、物語を最後のショッキングな結末へと導いてゆく。このシナリオは、実際にJ・P・モルガンの時代にさまざまな形で生まれた“進化論”論争を背景に書かれた。

二人の“ビック・ジョン”が鉄道から鉄鋼へ進出していた時代、十九世紀末の大統領選挙では、ダーウィンを否定する候補と、肯定する候補(当選し、のちに暗殺されたマッキンレー)とがこの問題で争ったほどである。

今世紀の一九二〇年代に入っても、アメリカでは生物学の教師がダーウィンの進化論を学校で教えて大問題となった。この教師は、有名な“モンキー裁判”にかけられ、第一審では有罪にされたのである。

ダーウィンの進化論がこのように大きな問題になるには、明らかに理由があった。

モルガンやロックフェラーが強大になってゆく過程で、数知れない人たちが首をくくり、彼らのさし向けたギャングの前に有無を言わさず殺されていることを誰もが知りながら、

P101これは動物界における弱肉強食の原理だと、当のモルガンたちが主張したからだった。ダーウィンが説いた適者生存を、彼らは人間の醜悪な欲望まで拡大し、強い人間の行動はすべて自然の摂理だとまで言い切った。

それを権威づけるために編み出されたのが、社会進化論(ソーシャル・ダーウィニズム)という言葉だった。モルガン家の系譜にあるコンウェイ・ロイド・モルガンもそれを提唱したひとりだったのである。

社会進化論の正体は、強者のみ享楽を受けられるという恐怖の優生思想だった。さすがに生物学のトマス・モルガンは、少数の選民が人類を進歩させるとは考えなかったが、そこに彼の研究の出発点があったことは明らかにされている。

モルガンらは今日の通俗史家が書くような豪快な「トラスト王」といった存在ではなく、実際には人びとから列車大強盗、石油泥棒、銀行ギャングとののしられ、激しい攻撃にさらされていた。

アイダ・ターベルが『スタンダード石油の歴史』でロックフェラーを槍玉にあげれば、ルイス・ブランダイスは『他人の金』でモルガンの悪業を暴露していた。アプトン・シンクレアが『ジャングル』で彼らを攻撃しはじめたのもこの時代、一九〇六年である。

そうしたなかで、多くの企業家を前にしてロックフェラー二世が語った世紀の釈明の演説は、この優生思想の化身とも言えるものだった。

「美しいバラは、その周囲にある若いつぼみを犠牲にして初めて、かぐわしく美事な花となるのである」

スタンダード石油が全米の九十五パーセントの独占を果たした蔭に、大量の犠牲者が生まれたことは、まったく止むを得ない出来事だ、と応酬したのである。彼が引用したこの美しいバラ

P102(原語ではAmerican Beauty Rose)とは、首府ワシントンのシンボルに奉られる大輪のバラである。

そして彼らは、名士だけを人間として求めることになる。カーネギー家とロックフェラー家が求め合って、銀行合併劇のなかでアンドリュー・カーネギー・ロックフェラーが誕生したように。

これと同じような名士関係が、モルガン家の系譜図にもしばしば発見される。

フランシス・スコット・キイは、遺伝学者トマス・ハント・モルガンの母方の曽祖父にあたり、アメリカ国歌“星条旗よ永遠なれ←原文ママ星条旗(The Star-Spangled Banner)が正しい”の作詞者として名高い人物である。

サミュエル・ヴォーン・メリックは、トマス・ハント・モルガンの妻の祖父の兄弟にあたり、ペンシルヴァニア鉄道の初代社長である。このペンシルヴァニア鉄道の社長ジョージ・ロバーツの孫娘メリー・トッドハンター・クラークは、ジョン・D・ロックフェラーの孫息子ネルソン・オルドリッチ・ロックフェラーの妻でもある。

ジェームズ・ピアポントは、ジョン・ピアポント・モルガンの母方の曽祖父にあたり、アメリカの名門校エール大学の創立者である。

P103ジョン・イーガー・ハワードは、トマス・ハント・モルガンの母方の祖父にあたり、南北戦争の英雄である。

これらの女系の系譜は、モルガン家の名門願望を示している。それと重なるようにウォール街であまねく知られていたのは、J・P・モルガン商会がダグラス・フェアバンクス、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、ロック・ハドソン、のような長身の美男しか雇わない、という不思議な掟だった。

ジャック・レモンやダスティン・ホフマンは人間とみなされてないのだ。ジョン・ピアポント・モルガンの美女嗜好は、強烈なものだった。原子力エネルギー委員会の「人事部」に登場し、オッペンハイマー博士に対して厳しい人選をおこなったトマス・X・モルガンに象徴されるように、彼らは人間を選別する。

だが彼らの優生思想の原動力は、実はこのようなダーウィン理論ではなく、もう少し分かりやすいところに発見される。

ジョン・D・ロックフェラーが石油王を目指した時から心に誓い続けてきた言葉がある。それは“他人に利益を与えないこと。この鉄則を守れば、自分の利益は自然増える”という、泥棒ならば誰でも知っている原理だった。

要するに金である。これは、ディナーの食卓についた時、みな中央に置かれている皿の料理をまず口に入れ、それを片付けてから自分の皿の料理を食べはじめる、という流儀である。

モルガン家が手にしていた現金は、すでに人間が使いこなせる限界をとうに超えていたが、

P104モルガン商会の純益からまず五十パーセントを自分で取ったあと、残り半分を二十人近いパートナーで奪い合うシステムを貫徹してきた。ロックフェラーの立派な邸を見て、直ちにその者に与えるサラリーを減額した気質と一致する。

こうして美しいバラの大輪を求め、決して他人に鑑賞させまいとする欲望果てしないモルガン家とロックフェラー家に、映画界の一匹狼カール・レムルは弓を引き、矢を放ってしまった。その彼が、ユダヤ人だった。

ユダヤ人は、アメリカのなかでは清教徒でなく、貧しく飢えた移民の群れであり、J・P・モルガン商会がその二十三番地の扉にもたれかかることを許さない人種、われわれの利益をかすめ取る異教徒、忌まわしい異邦人、そして“貧民”と呼び捨てた人たちであった。

ユダヤ人の頭脳 カール・レムルは、海上に白波が立っているのを見咎めた。

「おい、あれは何だ。真っ直ぐにこっちへ向かってくるぞ。もっとスピードを上げろ」

レムルに引き抜かれたばかりのメアリー・ピックフォードも、長い捲き毛を風にたなびかせながら、

P105デッキから不安げに冷たい冬の海上を眺めやっていた。彼女のまだ幼い弟と妹も引き抜かれ、少女ピックフォードの夫も引き抜かれ、全員がキューバのロケ地を目ざして出発したところへ、異様な船の追跡を受けたのである。

そのモーター・ボートは韋駄天のように素晴らしい船脚で水面を滑走してくると、ついにレムルの目の前に姿を現わし、船を止めるように命令する口調で伝えてきた。

「誘拐罪で逮捕する!」

しかしレムルは落ち着き払っていた。ボートに乗っている者のなかに、見覚えのある顔、エジソン・トラストの回し者の姿が認められた。この連中が欲しいものは分かっていた。ピックフォードではないのだ。

船室に招き入れて小切手帳を持って来させると、気前よくそれにペンを走らせ、片目をつぶってみせた。

ボートは、もと来た方向へ帰って行った。

カール・レムルの戦いは、実は彼ひとりの力によるものではなかった。モルガンさえも意表をつかれただろう。ウォール街から一般の人たちに売り出されたエレクトリック証券が、意外なところに集中していることには誰も気づかなかった。

ヨーロッパから大量に流れ込んでいたもうひとつの金融勢力、ユダヤ人の移民が密かな金融シンジケートを構成しながら、巧妙にエレクトリック証券を買い集めていた。

なかでもドイツ系ユダヤ人グループの中心を成していた投資銀行「ゴールドマン・ザックス社」と「レーマン・ブラザーズ社」はいずれも十九世紀にロックフェラーの石油株などで財を成していたが、

P106いまや映画産業に目を向けていた。そしてこのシンジケートは電気株に手を伸ばしてゆき、そこからエジソン・トラストの目の届かない世界でエレクトリック劇場をひとつずつ手中におさめていた。

“エジソン⁼イーストマン”トラストが相変わらず重役室と特許権だけで王侯気分に浸っているあいだに、プロの芸人たちは、自分たちの出演したフィルムに硫酸をまいてすべてを駄目にしながら特許権をふりかざす人間の正体を見届けると、たちまちユダヤ・シンジケートが本物の芸を求めていることを見抜き、すぐれた腕と、興味深い脚本をそちらへ売り込むようになって行った。モルガン⁼ロックフェラー側の金融界は、これにどう立ち向かったのだろう。

一九〇六年に、ロックフェラーは世間の悪評をぬぐい去るため広報部を刷新し、これまでにない反撃法を検討させてきたが、四年後に慈善事業を思いつき、そのための財団の設立を申請していた。

1911年、最高裁判所がスタンダード石油のトラストに解体を命じてロックフェラーを危機に陥れる一方、USスチールのトラスト解体訴訟が起こされ、モルガンも社会的な窮地に立っていた。機を見るに敏なるイーストマンがエジソン・トラストから手を引き、ロール・フィルムを自由販売に切り換えた。このお陰でハリウッドに反トラストの映画人が集まりはじめ、みるみる発展をとげていった。

一九一二年---モルガンは銀行トラストについて疑惑を持たれ、調査を受けたのである。そのあいだに、エジソン・トラストから観客の五十パーセントをレムルたちハリウッド人が奪い返し、ビヴァリー・ヒルズに邸宅が並びはじめた。

一九一三年---モルガンはウェスティングハウスの支配権を奪われ、代わってロックフェラーの代理人メロン財閥が入り込んだが、この時、ドイツ系ユダヤ人グループの最大の金融機関クーン・レーブ社が、ウェスティングハウスのなかで大きな支配権を手にした。

一方、ロックフェラー財団が認められ、莫大な金による慈善事業がスタートした。この「ロックフェラー財団」の性格を正しく理解しておく必要がある。財団は慈善事業をおこなう。だがそれはプロジェクトのなかの一項目に過ぎなかった。

ロックフェラー家の財宝を縦横に駆使して全米を洗脳するため、数々の非情なプログラムを実行に移そうと、最高のブレーン組織として世に現れたのである。この財団のボスが、「理事長」の名で続々と指令を下してゆく。しかし今は・・・。

わずか六年の戦いで、ユダヤ・シンジケートのゲリラ攻撃は映画ファンのほとんどを手中に収めてしまい、ハリウッドとビヴァリー・ヒルズの頭上に栄光が輝くと共に、勢力は大陸を東から西へと移動し、エジソンの時代は幕引きにかかっていた。

“エジソン=イーストマン”トラストを打ち破ったのは独立系の小さな映画会社だったが、その小さなはずの独立会社が、のちにハリウッド全盛期に八大メジャーと呼ばれる大会社のうち

P108七つを占めたのである。映画産業の最後の向背を決するものは財力だけでなく、映画ファンの支持が得られるかどうかにあることを、この商業成績が示していた。判定は映画ファンが下すものなのだ。

この当時誕生した七つの映画会社とは、一九一二年にユニヴァーサルが設立され、翌年にフォックス、四年後にパラマウント、七年後にユナイテッド・アーティスツ、十一年後にワーナー・ブラザース、十二年後の一九ニ四年にコロンビアとMGM、である。これをジャック・モルガンの目から、次の事業と対比しておかなければならない。

P108(抜粋)
  1. ユニヴァーサル初代社長カール・レルムはドイツ系ユダヤ人
  2. フォックスの社長ウィリアム・フォックスはハンガリー系ユダヤ人
  3. パラマウント社長アドルフ・ズーカーはハンガリー系ユダヤ人
  4. ユナイテッド・アーティスツの設立者のひとりチャールズ・チャップリンはフランス系ユダヤ人
  5. ワーナー・ブラザーズを設立したワーナー四兄弟はポーランド系ユダヤ人
  6. コロンビア社長ハリー・コーンはドイツ系ユダヤ人
  7. MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の最初の頭文字メトロ映画の所有者マーカス・ロウはオーストリー系ユダヤ人、二番目の頭文字サミュエル・ゴールドウィンはポーランド系ユダヤ人、三番目の頭文字のルイス・B・メイヤーはロシア系ユダヤ人
P110(抜粋)
チャップリンが1914年にデビューしてから移籍した映画会社を「エッセネ映画社」というが、このエッセネとは、聖書を開くと登場するユダヤ人社会の主流サドカイ派とパリサイ派に対して、静かな禁欲生活を求めた"エッセネ派"に由来している。

どのような社会でも常に保守派と革新派が力を争い、それに対してまったく独自の思考を求める人たちが出現する。権威を嫌い、死海のほとりのクムランの洞窟で修道院生活を送ってた人びとである。

この宗派のなかからイエス・キリストが生まれたと考えられている。その名を冠した映画会社であるから、ある種の孤高の宗教心を持っていたとも考えられるが、実際にはエジソン・トラストに支配されていた。

一九一〇年代から二〇年代にかけて反旗を翻したユダヤ系のの映画人リストは、スコットランド系やアイルランド系のイギリス人がそれぞれ内部にさまざまな性格の人間をかかえていたように、ユダヤ教の宗派もまた非常に複雑で、ユダヤ人とひと言で呼ぶことは乱暴すぎた。

重要なことは、彼らのほとんどがユダヤ人貧民窟の出身者であったため、エジソン=イーストマン・トラストの貴族的独占にあくまで抵抗し、本物の芸人を集めたゲリラ戦術によって横暴な城を陥落させた点にあった。

しかし優性思想を持つ人間の目から見れば、この現象は明らかにこれまでの彼らの流儀に合わない出来事だった。そのような異教徒の自由を許したことは、一度たりともないのだ。 モルガンはこれを“ユダヤ人種”の問題として受け止めた。ロックフェラーは“ユダヤ金融機関”の問題と受け止めた。しかし両家の行動は、同じ旗のもとで一丸となって進められよう。

P111両家とも世間から痛烈に批判され、新聞社を買い占めながら、大々的な広報活動の反撃に入ったばかりだった。映画はそのなかで、これから新しい役割を果たすに違いなかった。それが今はユダヤ人の手に握られているのだ。

映画界は、自分の部屋に戻っていた。そこでの楽しみは、目もさめるような映画をつくることだ。

しかし彼らの背後では、すでに一九〇八年から別の力が動きはじめていた。カリフォルニアの太陽を求めて東部からやって来た映画人がハリウッドを発見した一九〇八年、そこに仮のスタジオを設営すると、まず撮影しはじめたのが、セオドア・ルーズヴェルト大統領の大好きなアフリカの猛獣狩りの映画だった。

この映画でルーズヴェルト役を演じたのが、ウェスタンで一世を風靡したトム・ミックスだった。トムは派手な曲乗りと早射ちで大いに受けたが、彼は実際にルーズヴェルトの部下だったので、猛獣狩り映画は実感のこもった作品に仕 上がり、大成功を収めた。

ルーズヴェルトがその勢いでトラストに襲いかかっていた頃でもあったため、モルガン・ライオンを仕止める図、と読み取る映画ファンもかなり居た。

「アフリカのライオンが本来の義務を果たすよう期待する」とモルガンがおぼえたのは、ルーズヴェルトが稀に見る誠実な人間で、のちにノーベル平和賞を受賞するほど勤勉な精神で立ち向かったからだ。

オリンピックの第一回功労賞も、セオドア・ルーズヴェルトの頭上に輝いた。

P112このルーズヴェルトの正体は、ユニオン・パシフィック鉄道でロックフェラーとパートナーとなったエドワード・ハリマンから五万ドル、ジョン・D・ロックフェラーから十二万五千ドル、ジョン・ピアポント・モルガンから十五万ドルを受け取り、さらに業界が一丸となって総計二百万ドル、今日の百億円という大金を得て大統領に就任した人物であった。

この噂が広まったとき、ルーズヴェルトは選挙参謀に「各社に金を返すように」と文書で指示を与えたが、文書と行動は別である。二百万ドルのうち一ドルも返却されず、逆に十万ドルの追加を請求する欲深さを示したのが、ルーズヴェルトだった。その前身は、ニューヨーク警視総監である。

ルーズヴェルトという大統領が二十世紀に二人登場するので、こちらを“ライオン・ルーズヴェルト”と呼び、のちに第二次世界大戦で登場して原爆を製造させるフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトを“アトミック・ルーズヴェルト”と呼び分けてみよう。

すでにライオン・ルーズヴェルトの前任者のマッキンレー大統領が、独占解体のための“シャーマン反トラスト法”を成立させていたが、このシャーマンとは国務長官ジョン・シャーマンのことだった。

ジョン・D・ロックフェラーの高校時代のからの親友マーク・ハンナの部下である。ロックフェラーが世間から激しい攻撃を受けているとき、ロックフェラーがわざわざ内閣に送りこんだ地元の仲間が、どうして彼に不利な法律を定めよう。

「マーク・ハンナの好き放題になるではないか」

当時のアメリカで、このようにシャーマンの就任に対して怒声が飛び交った、と大統領史に記録されている。P113彼の後任ウィリアム・デイも同じくマーク・ハンナの僚友で、オハイオ州出身である。アメリカ人は知っていたのだ。



このマッキンレーを継いだライオン・ルーズヴェルト大統領は、トラスト解体を司法長官に命じておきながら、彼が司法長官に任命した人物は、アンドリュー・カーネギーの弁護士フィランダー・ノックスであるから、USスティールが解体されるはずはなかった。

むしろ、この時代に財務長官を動かして、モルガン商会が「エレクトリック債券株券」を設立しながら百万の富を稼ぐのを支援し、ウォール街の制度には指一本触れようとしなかった。

ルーズヴェルトの猛獣狩り映画が製作された年に、歴史を動かすひとつの組織が誕生した。大統領が、司法省のなかに「捜査機関」を設立するよう命じたのである。

モルガン=ロックフェラーの独占財閥が、アプトン・シンクレアの告発書『ジャングル』をはじめとする世論の激しい攻撃にさらされ、エジソン=イーストマンの横暴に映画界が怒り、ユダヤ人の一匹狼がそちこちで動きはじめた時代だった。捜査の目的は何か。

ライオン・ルーズヴェルトは、その秋には主人のモルガンとロックフェラーから肩を叩かれ、「議会の反対を押し切って、捜査機関をつくってくれたのは御苦労だった」と言葉をかけられながら、“激しい選挙戦”という最後のステージを見事に演じつつホワイトハウスを去って行った。

新しく大統領に就任したのは、ロックフェラーの根城オハイオ州から呼び出されたウィリアム・ハワード・タフトだった。この内閣もまた、国務長官がカーネギーの弁護士、財務長官は甥がUSスチールの弁護士、戦争長官がモルガン鉄道の弁護士、商務長官がベル電話の重役…といった面々で埋められていた。

P114ホワイトハウスに入ってわずか一週間後の一九〇九年三月十二日に、タフト大統領は正式に「捜査局」を創設した。ライオン・ルーズヴェルトがまいた種をたちまち育てあげ、これに大きな司法権力を与えたのである。

タフトの父親は、オハイオ州でロックフェラーの違法なリベートを弁護し続けてきた高等裁判所の判事からスタートして、戦争長官にのしあがった人物だから素性は知れている。

これらの歴史から誕生した捜査局は、特異な目的を持っていた。他人の笑い声を耳にすると、そこに自分が加わっていないという理由だけで我慢ならない感情を抱く人間が、この世には存在するのである。

ロックフェラー二世が社長に就任して一九一三年から発足した慈善財団は、もはや金庫に詰めきれなくなって溢れ出した札束を拾いあげると、大金をバラマキはじめた。

この年から、大統領は史上稀に見る誠実なウッドロー・ウィルソンに代り、その三月三十一日にわがジョン・ピアポント・モルガンがこの世を去って行った。“ラドローの虐殺”が起こったのは、その翌年の出来事である。

慈善事業スタートと同時に、ロックフェラーの「コロラド燃料製鉄」では、一九一四年のラドロー工場、ついに労働者のテント村が会社側の手で焼き打ちされ、婦女子を虐殺する事件となったのである。

ロックフェラーの支配会社には、このような無数の暴力事件が発生していた。エジソンのメンロー・パークを抱え、P115ニューヨークに隣接するのがニュージャージー州である。

ここは、ニューヨーク市を包む地理から見ても、ニューヨーク州よりニューヨークらしく、ウォール街は目の前にあった。そのニュージャージー州の「スタンダード石油」で二年後の一九一六年、会社の守衛隊が労働者に銃弾を射ちまくり、数十人の死傷者を記録した。“ベイヨーンの虐殺”である。

、ロックフェラーはエジソンの映画トラストを見放して解散させながら、すでにもう一方の手で、別の映画会社を設立するのに秘かな資金提供を申し出ていた。

このふたつの虐殺事件はに挟まれた一九一五年には、ロックフェラーはエジソンの映画トラストを見放して解散させながら、すでにもう一方の手で、別の映画会社を設立するのに密かに資金提供を申し出ていた。

そこに西部劇の王者ウィリアム・S・ハート、チャンバラ王フェアバンクスに加えてマック・セネットというドタバタ喜劇役者を招いたが、セネットこそチャップリン、ロイド、キートンの三人を生み出した喜劇の父だった。

そしてもう一人の重要人物は、黒人を犬のように扱いながら民主主義を謳い上げ、各地で上映禁止の激しい抵抗を受けながら爆発的人気を得た映画『国民の創生』(tw)のD・W・グリフィス、当時アメリカ一の人気監督、である。

捜査局、続いて虐殺、さらに映画進出の意味は何か?

ロックフェラーにとって、これほど好都合の作品はなかった。グリフィスは白人のための民族主義者として殺人集団KKKを英雄として描きあげ、映画として見ればその劇的な演出は人を興奮させずにはおかなかった。

この作品のなかで、牧師が次のように訴えていた。

「南部の人たちよ。いまや行動する時が来たのだ。クー・クックス・クランはこの黒人を処刑し、死体を黒人知事の門前に置くであろう」

(P116-)

P116KKKの歴史は次のようなものだった。

KKKは一八七〇年に組織され、今世紀に入ってから一九一五年まで活動をやめていたが、『国民の創生』が公開されたこの年から、牧師ウィリアム・J・シモンズをリーダーとして再び大々的に活動をはじめた。

国民の創生』において恐ろしい言葉を語った牧師の名前をトマス・ディクソンと言うが、この映画の原作者である。黒人を処刑せよ、という言葉が、牧師の口から発せられたのだった。

そのディクソンの仕事仲間にハリー・M・ドハーティーという男がいた。その人物が、ロックフェラーの根城に住んで当時政界を腐敗させ、“オハイオ・ギャング”と呼ばれた一団の頭目であった。KKKとロックフェラーは密着していたのである。

アメリカの政界では、取り巻きの人間が大統領の出身地と深いつながりを持っている時、このような呼び方をする。タフト大統領とハーディング大統領のときには“オハイオ・ギャング”、トルーマン大統領では“ミズーリ・ギャング”、カーター大統領では“ジョージア・マフィア”が、それぞれホワイトハウスを乗っ取ったと言われる。

KKKの本拠地は南部で、ロックフェラー=モルガンの本拠地は北部である。しかしKKKは北部でも、白い三角頭巾をかぶり、烈しく活動していた。オハイオ州に隣接するミシガン州では特に力が強く、チャールズ・スペアーという首領のもとで殺人テロを繰り返し、北部一帯にタイマツの行進が見られた。

このKKKに出資した人間のなかに、自動車王ヘンリー・フォードとジョン・J・ラスコブの名があった。

P117フォードはウォール街と闘ったと言われるが、実は、噓だ。

フォード財団の理事長ジョン・J・マクロイがロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行総裁、あるいはヘンリー・フォード・JrがモルガンのGE重役、といった関係から明らかなように、フォード自動車は、ロックフェラーとモルガンの連合会社である。

このフォードの自動車工場は、本拠地ミシガン州デトロイトに置き、KKKの首領スペアーを雇っていたのである。自動車の町デトロイトの地理をわかりやすく言えば、五大湖のひとつエリー湖をはさんで、この町の対岸にオハイオ州クリーヴランドがたたずんでいた。

もうひとりの重要な支援者ジョン・J・ラスコブは、デュポンの副社長で、ゼネラル・モーターズの重役である。ウォール街ではジャック・モルガンの第一の友人でもあった彼は、北部の自動車も握っていた。

こうしてKKKは育てられたのである。

国民の創生』のグリフィス監督を中心に、豪華な映画人S・ハート・フェアバンクス、セネットらのメンバーを招いて新しい映画会社「トライアングル」を設立しようとしたのは、実はユダヤ金融機関「クーン・レーブ社」だったが、「スタンダード石油」はそこに仮面をつけて侵入することに成功していた。

スタンダード石油会社は当時どのような状態にあったのか。

世間の目から見れば、五年前に最高裁判所から「石油トラストを解散せよ」との命令を受け、大蛇の支配もそれまで、と信じられた。

P118ところがスタンダード石油が三十数社に分割されると同時に、ウォール街で売り出されたこれらの新会社の株券は、わずか三ヵ月間のうちに、百ドル分が百三十ドルに値上がりするというすさまじい人気を得てしまった。

皮肉にも、トラスト裁判の暴き出したスタンダード石油の王国ぶりが、人びとの投機心を大いに刺激したのである。“ベイヨーンの虐殺”を起こしたニュージャージー州の会社は、この新しい三十数社のなかで最大企業、今日の“エクソン”だった。

ロックフェラーはこうして世間から非難され、仕方なく言われた通りに行動してみたところ、スタンダード石油をいくつに細かく切り分けても、たとえそれが千の会社に別れても、株券をロックフェラーが握っている限りトラスト解体には何の意味もなかった。

むしろ黙っていても金庫の札束が三十パーセント増える不思議な現象を目撃した。そのうち彼が慈善事業に取り分けたのは、総額わずか五パーセントでもすむ額だった。

その金額は人びとが想像できないほど大きく、素晴らしい贈り物に感じられたが、彼にしてみれば“もともと不条理な原因で増えた部分を少しだけ削っても、決して他人に利益を与えたことにはならない”とおもわれたのである。

このスタンダード石油トラストの解体に関しては、歴史家の気づいていない実に奇怪な物語が発見される。この訴訟の検察官がフランク・B・ケロッグという人物だが、のちにクーリッジ政権の国務長官をつとめ、ノーベル平和賞まで受賞する。

ところが、彼が経営していた法律事務所の扉を開くと、パートナーが「USスチール」の顧問弁護士ジョージ・モルガンである。もうひとりのパートナーであるコーデニオ・セヴェランスは、「カーネギー国際平和基金」の管財人で、彼の妻はロックフェラーが買収した鉄道王ハリマン家のメアリー・フランセスである。

P119しかもこのような仲間に囲まれたノーベル賞受賞者のケロッグ検察官は、スタンダード石油訴訟ばかりか、当の「ハリマン鉄道」の不正調査委員会のメンバーとなっている。

不思議な法律事務所だが、このオフィスはモルガンが支配する「ファースト・ナショナル銀行」の建物のなかにあるのだ。人名辞典がさり気なく教えている。

ロックフェラー家は代々、世界一の慈善家であり、至るところに美しいバラの大輪を咲かせた。メトロポリタン美術館の分館として、一九三八年にはクロイスターズ美術館を建造している。

この美術館の名前「クロイスター」とは修道院のことで、建物自体が中世ヨーロッパの修道院の遺跡を集めて建てられ、まことに目を見張るばかりの壮大な芸術作品を生み出している。

モルガンと同じように敬虔なクリスチャンで知られるロックフェラーが、このように佳麗な芸術を愛したところに、多くの人は感動するだろう。

「シカゴ大学」の建設はほとんどロックフェラーの私財によって成し遂げられ、「コロンビア大学」のリンカーン・スクールも同じである。「ジョンズ・ホプキンズ大学」への寄付は莫大なものに及び、「カリフォルニア工科大学」への研究協力も知らぬ者がいない。

こうした慈善事業をおこなうロックフェラー財団(後述)の理事を調べてみると、たとえばクラーク・カーは「カリフォルニア大学」のの総長に就任し、ロバート・ゴーヒンが「プリンストン大学」の総長に就任するという具合で、これらの名門校が“ロックフェラーの揺りかご”として多くの学者を輩出してきたことが分る。

このうち「コロンビア大学」の敷地を持っていたロックフェラー二世が、壮大な科学センターとして「ロックフェラー・センター」をそこに建造している。

また、バレエ、芝居、オペラ、コンサートのための総合的な舞台芸術センターをつくろういう考えに対し、ロックフェラーは一千万ドルを超える建築費を寄付して、「リンカーン・センター」の完成に最大の貢献を成したという記録もある。

このセンターの会長にジョン・D・ロックフェラー三世の名が見られることでも、その貢献度が理解されよう。

このほかにも、「メモリアル病院」、「ロックフェラー医療研究所」、「ロックフェラー衛生委員会」をはじめとする医療への寄付は、数え切れない点数にのぼっている。

しかしこの素晴らしい贈り物の数々は、“ユダの接吻”と呼ばれ、アメリカ人に用心深く見られてきた。『ゲルニカ』で反骨精神を示したスペインの天才画家パブロ・ピカソは、ロックフェラー・センターの壁画を頼まれたとき、なぜその仕事を激しく拒絶したのか。

(P120-)

西部戦線異状なし
P121ロックフェラーが映画へ進出した以上に、モルガンは重大な作業を進めていた(tw)。

ロックフェラーのスタンダード石油がトラスト解体命令を受けたにもかかわらず、モルガンのUSスチールは「不条理な独占体とはみなされない」という判決理由によって何の制裁も受けず、こちらは自然に成長し続けていた。

その時代、一九一四年七月二十八日、第一次世界大戦が勃発したのである(相互参照(12))。幸いにもアメリカはまだ参戦を見合わせていたが、開戦から三年後の一九一七年四月六日には、それまで平和論を打ち出していたウィルソン大統領が、態度を一変してドイツに宣戦布告し、アメリカも戦争に巻き込まれていった(相参1,相参2,相参3)。

名作『西部戦線異状なし』は、この戦争をドイツ人の側にカメラを向けて描きあげ、何の理由もなく突然見知らぬ外国人を殺してゆく戦場での身の毛もよだつ悲劇のすべてを、ラストシーン--本日西部戦線異状なし--

P122作品は一九三〇年に製作され、アカデミー作品賞を受賞した見事な作品だった。この第一次世界大戦で最も重要な役割を果たしたのが、J・P・モルガン亡きあとを引き継いだ息子のジャック・モルガンである。

ドイツを攻撃するイギリス・フランスの連合国は、いまだ参戦しない友好国アメリカに武器の援助を求め、開戦して半年後の一九一五年一月にイギリス政府が、続いて五月にフランス政府が、その兵器買い付け代理人としてすべてをモルガン商会の手に委ねた。

ジャック・モルガンはウィルソン大統領の中立政策を烈しく非難し、アメリカも参戦せよと叫びながら、兵器産業を総動員してヨーロッパへ武器を続々と送りこんでいった。

モルガンが選んだ兵器メーカーこそ、南北戦争で見事にチャールストン攻略失敗を演じて戦争を長引かせ、自分が儲けながら、同時にモルガンの金投機に連携プレーを見せてくれたデュポンのほかにはなかった。

ただちにデュポンはモルガンの指示に応え、ダイナマイトをはじめとする無数の弾薬を製造するため、全米に工場を建ててゆき、そこで火薬類の大量生産に突入した。

やがてそれらの工場がスムースに製造をはじめると、ジャック・モルガンの声は一段と大きくなり、大統領の腰抜け政策を断崖に追いつめて行った。

ノーベル平和賞を受けたライオン・ルーズヴェルトが参戦を呼びかけ、その言葉に効き目があったが、一九一七年にアメリカが参戦すると、デュポンの工場は連合国のほとんどの弾薬を生み出す大兵器庫と変わった。

デュポンの生産量は、戦争がはじまる前に比べて、実に二十六倍である。同社は一九一七年、ここで手にした金を投じて、全米第二位の自動車会社ゼネラル・モーターズを買い取ってしまった。まだまだ今日ほどの自動車時代ではなかったが、デュポンが耳を揃えて支払った金額は現在の二千億円に達した。

P123この会社は、キャデラック、ビュイック、オールズモビル、ポンティアックの四大メーカーが合併し、九年前に全米一の自動車会社として発足したばかりだった。

このあとフォードに抜き返され、大衆車フォードと、モルガンの金ピカ自動車キャデラックの争いがはじまったとみるまに、両者ともモルガンの手中に落ちたのである。

モルガン商会もまた、イギリスとフランスの苦境を悪用してあらゆる連合国から膏血をしぼり続けた。

この背後で、映画界にひとつの変化が起こっていることに誰が気づいただろう。

それはアメリカが参戦した一九一七年四月のことだったが、ロサンゼルスのひとりの劇場主トマス・タリーという男が、全国の映画館の顔役を一堂に集めて「連盟」を発足させた。

その正式名を「ファースト・ナショナル興行者連盟」と言った。この音頭を取ったタリーは、かつて『大列車強盗』が誕生する時にエジソンと関係した電気劇場時代ののモルガン一派で、この連盟にモルガンのファースト・ナショナル銀行が資金を援助していることは、その命名から歴然としていた。

モルガンは戦争のどさくさにまぎれて、劇場を秘かに自分の手に取り戻しはじめたのである。

デュポンもまた、のちにMGMの創立メンバーのひとりとなるサミュエル・ゴールドウィンに資金を与えて、ゴールドウィン映画社を設立させ、劇場の買い取りを進めて行った。

さらにモルガンは、この戦争に利用できる男がもうひとり居ることを思いだした。すでにアメリカの軍隊は、大統領の命令より兵器調達長官モルガンの指示を仰いで組織をおこなう状態にあったため、海軍に設けられた顧問委員会で最高権力者の委員長を務めるべき男は、次の人物を措いてほかにないという結論が出された。 それは誰あろう、ユダヤ人狩りに熱意を燃やすトマス・アルヴァ・エジソンだったのである。なまくら包丁で切れ目を入れたビフテキのように、モルガンとエジソンはいつまでも切り離せず、まだつながっていたのだった。

こうしてエジソン研究所は、映画界から追放された見返りにモルガンから新しい職務を与えられ、軍艦用の電話、大砲の照準と発射装置、煙幕用発煙筒など次々と開発してゆき、デュポンと息を合わせて殺人兵器の発明に没頭して行った。

イギリス・フランスなどの連合国は、これらの武器を買い取るために大金を必要としたが、その金は次のようにして連合国の手に渡った。

一九一七年に結成されたファースト・ナショナル連盟は、ただちにチャップリンと契約を結んで製作費を前渡しすると、「いくら金を使って映画を作ってもよいが、この国家危急の時でもあるので、戦時公債を売る手伝いをしてくれ」と話を持ちかけ、喜劇王を利用することに成功した。

すべての劇場主を握ったファースト・ナショナル連盟に背くことは、映画界から抹殺されることを意味したのである。

勿論チャップリンだけでなく、ビックフォードとフェアバンクスなど多くの大スターが、この自由債券と呼ばれるものを売りまくるための広報活動に狩り出され、大金をかき集める宣伝マンとして想像もできないほど大きな効果をあげた。彼らはアメリカ人にとって神様のような存在だった。

P125こうして集められた金の行く先こそ、一切の戦争クレジット発行を委任されたモルガン商会である。

「モルガン商会と死の商人が戦争に期待するのは、まったく自然なことだ」と、ランディーン議員は議会で発言した。一九一七年四月六日、アメリカがドイツに宣戦布告したのは、この発言の翌日のことである。

第一次大戦の五年間を通じてモルガン商会が連合国に貸し付けた金は、総額で十億ドルに達し、連合国がモルガン商会を通じて買い取った兵器などの軍事物資は、総額で三十億ドルにのぼり、その金を支払うのにモルガン商会から借りた金を充当するというおそるべき二重の利益が許されていた。

この取引き額合計四十億ドルは、一九八五年末現在の十五兆円に相当するものである。

しkし戦時中は、多くの人がそれに気づかなかった。これらの工場がフル運転する裏では、「捜査局」が一九一七年に「戦時緊急局」と名前を変え、多くの人に襲いかかっていた。

戦争に反対する人間を、次から次へと血祭りにあげていったのである。この戦争でモルガン商会が得た途方もない利益が上院で問題になったのは、ようやく一九三六年のことだった。

モルガン商会の年間の純益は、戦時中に五億ドルに達しているが、この金額に戦争の五年間を掛け算すれば、USスチールをもうひとつ設立してから、さらにゼネラル・モーターズをふたつ支配できるだけの金塊を手に入れたことが分る。“死の商人”という言葉は、これらの金額の大きさを忘れさせ、問題を抽象的にしてしまう危険な用語かも知れない。

P126モルガン、デュポン、エジソン、そして狩り出された映画人の挑発によって拡大されたこの第一次大戦のため、理由もなく殺された人間の数は、八百五十三万人にのぼっていた。戦場に狩り出された人間は六千五百万人である。

これこそ、KKKを育てたデュポンの“目的と結果”であり、捜査局を強化したモルガンとロックフェラーの“目的と結果”だったのである。

KKKのようなテロ団を野放しにした大統領ウッドロー・ウィルソンは、ノーベル平和賞を受けている。しかしこのジキル博士は、顧問にモルガン商会の重役トマス・ラモントを抱え、大統領に就任するとただちに海兵隊をメキシコのヴェラクルスに送り込み、一帯の資源を占領した男だ。

このとき彼が用いた軍団のボスは、デュポン一族である。第一次大戦に反対する平和の名演説をふるい、最後に態度を豹変しながら、ヨーロッパへ兵士を送り込んでハイド氏の姿を現していた。

彼の内閣のなかで、本来ならKKKの暴力を取り締まらなければならないはずの司法長官ミッチェル・パルマーは、それを野放しにした。彼も「ストローズバーグ・ナショナル銀行」の重役、「スクラントン・トラスト銀行」の重役、「市民ガス」の重役、「インターナショナル・ボイラー社」の重役と、いずれもモルガン=ロックフェラー配下の肩書を勲章とする投機家だ。

しかしこれで問題が終わったわけではなかった。これが問題のはじまりだった。一九一八年十一月十一日にドイツが敗北の休戦条約に署名すると、次の年の一月五日という早い時期にナチス党が結成され、党員番号“007”のアドルフ・ヒットラーが出現していたのである(tw)。

(P126-)

・ファシストの戦術を活用せよ
P127第一次世界大戦が終わると、ジョン・フォスター・ダレスとアレン・ウェルシュ・ダレスの兄弟が動きはじめた。兄ジョンは、ロックフェラー財団(前述)の理事長だった。弟のアレンが上官エリス・ドレッセルとドイツへの旅に発ち、クルト・シュレーダー男爵と接触、密談を重ねた。

この男爵は、ドイツ屈指の「シュレーダー銀行」のオーナーで、当時は敗戦国ドイツにあって、国内の産業を支配する最も重要な人物だった。ダレスはなぜドイツに出発したのか。

歳月を逆に戻るが、ドイツが敗北する十ヵ月前、まだヨーロッパの大地が戦火に包まれている最中にダレスはオーストリーのウィーンを訪れ、敵国であるはずのドイツ人工業家と接触していた。この会合の場所として選ばれたのが、ドイツの鉄鋼王クルップの山荘だった。

大銀行家シュレーダーと鉄鋼王クルップが手を組めば、これはドイツ版のモルガン商会とUSスチールである。新たにヨーロッパのモルガン家が誕生するだろう。

P128いよいよ翌一九一九年一月五日にアントン・ドレクスラーによってナチス党が結成されると、その二週間後の十八日から、パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議がはじまり、敗れたドイツの戦後処理を国際的に討議した。

このパリの会議には、列国の政治家に伍して不思議な顔が見られた。ドイツの軍備制限、徴兵制の廃止、空軍と潜水艦の保有禁止などが取り決められてゆき、六月二十八日に有名な“ヴェルサイユ条約”として調印されたが、
アメリカ代表団のメンバーは、団長がウィルソン大統領、副団長が国務長官ロバート・ランシング、首席顧問で財政担当官ジョン・フォスター・ダレス、情報連絡担当官アレン・ウェルシュ・ダレス、経済総括顧問が「モルガン商会」の重役トマス・ラモント、
という驚くべきモルガン=ロックフェラー連合の人材で埋められていた。ダレス兄弟は肩書きを引き剥がせば、副団長ランシングの甥だった。

いま見たように、ヴェルサイユ条約が調印されたのは六月二十八日である。ところがアメリカでは、その十一日前に、今日の政治をすべて動かすと言われる重要な組織が連動しはじめていた。

政界通であれば知らぬ者がないと言われる「外交関係評議会(Council on Foreign Relations略してCFR)の発足である。“海外との関係について協議する”と称したこのグループは、やがて『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs--外交問題)という雑誌を創刊し、この集団のなかからキッシンジャー国務長官らを続々と誕生させることになるが、メンバーを追ってゆくと、会長にデヴィッド・ロックフェラーの名があるのはもとより、チェース・ナショナル銀行総裁ジョン・J・マクロイの名もある。

現在の大統領ジョージ・ブッシュ、カーター政権の国務長官サイラス・ヴァンス、財務長官マイケル・ブルメンソールらは、みなここから誕生した。

P129結成された時には『国際問題研究所』と呼ばれ、モルガン一派のゼネラル・モーターズ重役でダッジ系列のルイス・ダグラス、ドイツ賠償引受け人トマス・ラモントらが多数参加していることから明白なように、CFR(外交関係評議会)はホワイトハウスにとって代わる蔭のグループ“ダークハウス”として、大統領のうえに君臨してきたのだった。

ケネディー政権では、国務省の職員を上から八十二人数えると、六十三人、つまり四人にのうち三人が“ダークハウス”出身だった。CFRの最大のスポンサーは、ロックフェラー家である。

このCFR発足三年後に『フォーリン・アフェアーズ』が創刊され、そのときの編集長の任を務めたのが、ハーヴァード大学のアーチボルド・クーリッジ教授だった。モルガン商会の特権者名簿に名を列した、カルヴィン・クーリッジ大統領の親戚である。そしてこの創刊号に寄稿した人物こそ、いまヴェルサイユ会議の首席顧問を務めていたジョン・フォスター・ダレスだったのである。

したがって、ヴェルサイユ条約の調印と“ダークハウス”CFRの発足が、わずか十一日の差であったことは、偶然の一致ではない。なんらかの意図をもってアメリカが海外に向かう姿勢をここに示していた。

はたして彼らモルガン=ロックフェラー連合が標的として突進して行ったものは、何だったか。

この一九一九年、ニューヨーク市のロックフェラー・センター三十番地の三一一五号で、秘密の会合持たれていた。P130「特別経営者協議会」。このスペシャル・マネージャーによるシークレット・ミーティングを略して“SM秘密会”と呼んでおくが、この集団のメンバーは、“ダークハウス”が海外に向かおうとしているこの時に、それを損なう原因を発見し、アメリカの国内で絶滅してしまう作業をスローガンに掲げていた。

「平和的分子を根絶やしにするには、いかなる方法を選ぶべきか!」

SM秘密会に提出された覚え書きのなかに、次の発言が記録されていた。

「ファシストの戦術を採用することが、われわれにとって利益となるであろう」

これは、USスチール副社長アーサー・H・ヤングの口から漏れた言葉だった。彼は社内の人事を担当していた。

DM秘密会のメンバーは、このほかにモルガンの支配系列では、「アメリカ電話会社」の社長ウォーター・クリフォード、「デュポン商会」の社長ラモット・デュポン、「ゼネラル・モーターズ」の社長アルフレッド・スローン、「GE」の理事長オーウェン・ヤング、「USスチール」の副社長エドワード・ステッティニアス、「ウェスタン・エレクトリック」の社長エドガー・ブルームと、主だったところをすべて揃えていた。

ロックフェラー系列では、「ニュージャージー・スタンダード石油」の社長フランク・エイブラムス、「ベツレヘム・スチール」の社長ユージン・グレースおよび副社長ジョゼフ・ラーキン、「ウェスティングハウス」の社長フランク・マリック、「グッドイヤー・タイヤ」の会長E・J・トマスなど、こちらもほとんどの大御所が列席していた。

P131ホワイトハウスより豪華なシンジケートである。モルガンとロックフェラーの大連合であるため、両系列を明確に分けることはできない。「グッドイヤー・タイヤ」はオハイオ州のクリーヴランドを根城にしていたが、この会社の筆頭重役グレイソン・マーフィーは、ロックフェラーの「ベツレヘム・スチール」と、モルガンの「アナコンダ」でも重役を兼ね、やがてイタリーでムッソリーニから勲章を授与され、イタリー王冠勲章に輝く人物である。

こうして“ファシスト戦術”が採用されると、すでにホワイトハウスに送り込まれていた首輪つきの司法長官ミッチェル・パルマーが、「捜査局」をさらにひとまわり大きくした「総合情報部」に編成し直し、いよいよ行動開始!である。

彼は郵便物の中身を読んでしまうという検閲をスタートさせると、公称十二万五千通、実際にはその四倍近い四十五万通にのぼる“疑わしい手紙”を軍人に開封させて、調査を続けた。

その結果、身の毛もよだつような出来事が市民のあいだに起こりはじめた。何の理由もなく、貧しい移民というだけで牢獄にブチ込まれる人間があとを絶たなかった。

ちょうどこれに並行して、シカゴのギャングたちは野放しのままにされ、KKKもまたすさまじい勢いで全米に増え広がった。これこそ“ローリング・トウェンティーズ”の予兆だ。

無実のまま暴行を受け、手錠をかけられたまま市内を行進させられ、あるいは熱風のなかで蒸し焼きにされるなど、その残忍さは史上稀に見るものだった。牢獄につながれた人間はざっと一万人を数えた。

これが“一九一九年の赤狩り”と呼ばれる“平和狩り”だったが、この戦慄のなかで、映画『死刑台のメロディー』に描かれた世界的な悲劇“サッコ=ヴァンゼッティ事件”が発生したのである。

(P132-)

P132クリスマス・イヴに現金輸送車がギャング団に襲われると、翌年の四月十五日にも同じ手口の強奪が起こり、今度はふたりの死者を出すという殺人事件が、ニューヨークに隣接するマサチュセッツの州都ボストンで発生した。

(略、サッコ=ヴァンゼッティ事件(冤罪)について)

P134エジソンはモルガン、デュポンとの連携によって海軍研究所を直ちに開設し、これが第二次世界大戦までアメリカでただひとつの巨大兵器研究所として機能しはじめていた。

しかしヴェルサイユ条約の締結になぜモルガン商会の重役ラモントが名前を列したのか。(tw)

P135一九二〇年、早速にもモルガン商会は友人デュポンと密談を交わし、手に入れたばかりのゼネラル・モーターズを二者で山分けする取り引きを成立させてしまったが、ウォール街二十三番地のモルガン商会と、パーク・アヴェニュー二百三十番地二十三階のデュポンとは、なぜかうまく息が合うのだ。

彼らにとっていま重要な事業は、戦争でメチャメチャに破壊され、家族を失って泣き崩れているヨーロッパ全土を復興するため、金を急いで送ることだった。パリのヴェルサイユ宮殿に重役ラモントが席を連ねたのは、この年に、モルガン商会がフランスへ一億ドルを調達するためだったのである。

翌一九ニ一年一月二十九日には、ドイツの賠償金が決定された。この賠償のアメリカ総代理人ベーカー・ギルバートは、モルガン商会が設立した金融会社「バンカーズ・トラスト」の重役だった。

そしてこれから正確に半年後の七月二十九日、ドイツでは「ナチス党」の党首にアドルフ・ヒットラーが就任すると、時を同じくしてアメリカでは、重要な人物が「捜査局」のなかで次長に抜擢された。

アメリカの近代史は“正直者のジョン”の手で動かされたと言われ、ジョン・P・モルガン、ジョン・D・ロックフェラー、ジョン・ウェイン、ジョン・F・ケネディーと役者が揃っているが、ここで登場したのはジョン・エドガー・フーヴァーだった。

彼はすでにパルマー司法長官と組んで、手紙の開封に異常な欲望をかき立てられていたが、サッコ=ヴァンゼッティ事件でも重要な役割を果たしていた。

フーヴァーを昇進させた当時の大統領ハーディングは、ロックフェラーの牙城オハイオ州からホワイトハウスに送り込まれた人物で、P136彼のポーカー仲間は、「スタンダード石油ニュージャージー」の社長ウォルター・ティーグルである。

ハーディング大統領が、KKK礼賛映画『国民の創生』の原作者トマス・ディクソンの仕事仲間だという事実を付け加えておく必要があろう。このドハーティーは、ディクソンと共著で『ハーディングの悲劇の内幕』を出版している。

ファシストのハリー・M・ドハーティーが、旧友の大統領によって司法長官の椅子を与えられたのである。そしてジョン・エドガー・フーヴァーを次長に選び出し、後年だれもがおそれる鬼のFBI長官への道を与えていた。

この組閣は、次のようにしておこなわれた。

まず、ジャック・モルガンが雇っていたジョージ・ハーヴェイというブレーン(雑誌編集者)が、ロックフェラーと相談のうえで閣僚のメンバー・リストを創作した。

国務長官にはスタンダード石油の顧問弁護士、財務長官にはガルフ石油の重役、陸軍長官にはサッコ=ヴァンゼッティ事件事件で根回しをしたボストンの仲買人、司法長官には“オハイオ・ギャング”のリーダー、海軍長官と郵政長官と内務長官にはそれぞれスタンダード石油系列の人物、そしてウォール街を取り仕切る最も重要な商務長官にはアナコンダとフェルプス・ダッジと結ぶ金鉱採掘者、が選び出された。

さらに副大統領は、モルガン商会の特権者である。残る大統領は、このキャビネット・メンバーの指示通りに動く、“操り人形”であれば誰でも構わなかった。最後に彼らが合議のうえで、司法長官の旧友が一番大統領らしい美男の風貌を備えているという結論を出した。

P137郵政長官の部屋にハーディングを呼びつけると、「過去にやましいことはないか」と尋ねた。

ハーディングは部屋から出てしばらく考えたのち、「大丈夫です」と声をはずませて答えた。しかし彼には個人的にスキャンダルがあったため、大統領在任中に謎の死を遂げるのである。

スタンダード石油とシンクレア石油にからむティーポット・ドーム汚職事件(相互参照)が発覚するなかで、キャビネット・メンバーに次々と疑惑の影がしのび寄ってくると、まず着服容疑者の協力者チャールズ・クレイマーが風呂桶のなかで射殺され、二人目は、司法長官の部下で大金を受け取ったジェシー・スミスが弾丸を射ち込まれて死亡した。

ついで二ヵ月後には、ハーディング大統領が船旅のなかで蟹を食べて急死してしまった(tw)。その船のメニューには蟹がなく、大統領のほかには誰ひとり食中毒を起こさなかったのである。これが三人目の怪死だった。

ハーディングの臨終を見守った侍医チャールズ・ソーヤーがオハイオ州で急死して四人目の死者となったのは、一年後にこの事件がさらに世間の耳目を集め出した時だった。

次で五人目は、司法長官と親しい法律家トマス・フェルダーが「すべてを話す」と発言した直後、心臓麻痺とアルコール中毒で急死した。“アル中”と言っても、時代は禁酒法の最中である。

六人目は、司法長官についての証言を予定されてていたジョン・キング上院議員、七人目は投獄を予定されていたJ・W・トンプソン、八人目は内務長官の汚職で起訴されたエドワード・ドーニー、九人目はこのドーニーの秘書でありながらドーニーを殺し、自殺してしまった…

ハーディング内閣が蟹中毒で倒れると、ただちに副大統領から昇格したモルガン商会特権者のクーリッジ内閣に受け継がれた。P138このふたつの政権を通じて司法長官をつとめたハリー・ドハーティーが「捜査局」の次長に抜擢したジョン・エドガー・フーヴァーは、通俗史家の書き物によれば、

「司法省内の腐敗を根絶するため、“オハイオ・ギャング”を粛正するのに辣腕をふるった」となっている。これは過ちである。オハイオ・ギャングによる腐敗の根源は、司法長官自身だったのだ。そのボスを追放できるわけがない。

フーヴァーは世に言われるような単純な悪党ではなく、ジャック・モルガンが支配する「アケーシア・ミューチュアル保険」の重役だった。この会社のパートナーには、ロックフェラー=モルガン連合の「ポトマック電力」の社長、「ナショナル貯蓄トラスト銀行」の社長など、見事なメンバーが名前を揃えていた。

新大統領クーリッジは、モルガン商会重役のドワイト・モローと級友だったが、司法省のなかで問題を起こしそうな人物を粛清させると、ドハーティー長官の役目を終わらせ、もうひとりの級友ハーラン・ストーンを新長官に任命した。

ストーン長官は、着任して直ちに、フーヴァーを「捜査局」の局長に任命し、ナチスのゲシュタポと同じ性格を持つ治外法権を与えた。「ファシストの戦術を活用せよ」というUSスチール副社長の指摘が、ここに実現したのである。

やがて第一次大戦の責任者ドイツに賠償金を支払わせるための国際委員会がつくられ、今度はモルガンのゼネラル・エレクトリックで会長をつとめるオーウェン・ヤングが委員として送り込まれた。

P139敗れたドイツは賠償金を払えるはずもなく、その金を誰かから借りなければならなかった。その借金二億ドルのうち半分以上を、またしてもモルガン商会が貸し付けたのである。一九二四年のことだった。

これはまだ一部である。一九二〇年から三〇年にかけて、ドイツ、フランス、イタリー、ベルギー、オーストリーに対してモルガンの銀行が貸し付けた総額は、九億六千万ドルに達する。この金利だけで、毎年一社ずつゼネラル・モーターズを支配できる額になる。

しかしチャップリンたちユダヤ人にとって、このうち一億五千万ドルが一九二五年、イタリーのファシスト党党首ムッソリーニに貸し付けられたことは、別の意味を持っていた。

すでにその三年前の十月に、ファシスト党は首都ローマに進軍して占領を終え、十一月には独裁権を手にしていたのである。この融資契約を取り決めた人物の名は、ヴェルサイユ条約の立会人でモルガン商会の重役、同じくトマス・ラモント(相互参照)であった。

モルガン家の行動には、社会への素晴らしい貢献が見られる。

“ムーン・リヴァー”の名曲をヒットさせた映画『ティファニーで朝食を』のなかで、オードリー・ヘップバーンが超一流の宝石店ティファニーの前に立ち、パンをかじるながら豪華なショー・ウィンドーのなかを物欲しげにのぞき込んでいたが、この店に並んでいた金銀宝石類の多くは、モルガン家がプレゼントしたものである(相互参照)。

慈善事業では、決してロックフェラー家に劣っていない。

(P140-)


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