2019年5月7日火曜日

偏愛メモ 『東アジアの動乱と倭国』

倭国の登場~7プロローグ P1-18


Ⅱ伽耶諸国をめぐる紛争 P108-180
1「任那四県割譲」と己汶・帯沙をめぐる問題
武寧王と継体天皇

P108 六世紀になると、百済では五〇一年に武寧王が即位し(在位五〇一年~五二三年)、その二三年間におよぶ治世は、熊津時代の百済に安定期をもたらすものであった。

倭国でも五世紀以来の倭の五王の系統を引く応答に男子が途絶し、その出目には王族説、地方豪族説があって確信できないが、北近江・越前を本拠とし、近江・尾張や河内などの豪族との婚姻関係を勢力基盤として、「誉田天皇(応神)五世孫」と称する男大迹王(継体)が、五〇七年にヤマト王権の大王に就任している。

継体も二五年(あるいは二八年とも)の治世を有し、新たな倭国の安定・方向付けに寄与しており、倭国・百済共に新しい世紀をむかえるのである。(略)

P110 「斯麻」は百済の武寧王のことである。『三国史記』百済本記武寧王即位前紀にも、武寧王の諱は斯摩で、東城王の第二子であったと記されている。ただし、東城王の第二子とする系譜には異説があり、『日本書紀』雄略五年(四六一)条には次のような記事が見られる。この年四月に百済の蓋鹵王は軍君(昆支)を倭国に派遣しようとし、その際に自分の夫人ですでに妊娠していた女性を軍君に嫁した。

蓋鹵王はもし途中で夫人が出産したら、生まれた子を船で送り返すように指示しており、果たしてこの女性は筑紫の各羅島(佐賀県東松浦郡鎮西町加唐島か)で男子を出産したので、この子を嶋君と名づけて、百済に送り返した。これが武寧王である、と。

これと同じ話は『日本書紀』武烈四年(五○二)是歳条に引用された百済系史料の「百済新撰」にも記されており、武寧王は軍君(昆支)に嫁した女性から生まれたという点では東城王とは異母兄ということになるが、本当の血縁関係を辿れば、蓋鹵王の子であったと見ることができる。(略)