第三章 生命を賭けた通商戦争 P82-118
(P82-)ロシア産石油の挑戦 P84-86
ノーベル一家の誇り P86-88
ノーベル兄弟の争い P88-89
ロスチャイルド家乗り出す P89-90
スタンダード石油への挑戦 P90-93
ノーベル賞を生んだ誤報記事 P93-94
(P94-)
貝殻商人の息子 P94-96→参照1、2、3
P94 バツームからロシアの灯油が市場を求め、これまでにない量で流れ出していた。ノーベルの会社は少なくともロシアの国内市場をしっかり握っていた。しかし、ロスチャイルドはじめ他の会社は年々増える"余剰の「処分品」"に頭を悩ませる。ロスチャイルドはスタンダードの攻撃を避けつつ、世界市場に進出しなければならなかったのだ。彼らは東のほうアジアに関心を寄せる。そこには"ニュー・ライト"を買う客が何億といる。だが、問題はどうして石油をそこまで運ぶかである。
パリのロスチャイルド家はロンドンの海運ブローカー、フレッド・レーンと知り合いだった。彼はロンドンの石油利権を管理し、利害が共通している。レーンはこれまで舞台裏の人だったが、やがて石油のパイオニアとして重要な一人になる。彼は背が高く、がっしりし、知性豊かな男である。友人を作り、利害を調整する才能もある。彼にとってロスチャイルドとの友情とビジネスの上での協力関係はまったく同じことだった。
彼はそれを強めることを喜び、自分の資金で協力する。彼を知る人は初め"卓越した仲介者"と呼び、最後は"日陰のレーン"と呼んだ。彼の性格が暗かったからではない。彼が取引の場であまりにも多くの権益を同時に代表し、本当はどこの利益に沿って動くかわからなかったからだ。
レーンは海運のエキスパートだった。彼はその知識を駆使し、ロスチャイルドに解決策を提案する。そのためには、彼は知り合いのマーカス・サムエルという売り出し中の商人をロスチャイルドに結びつけた。P96計画は大胆だった。成功すれば、ロシアの石油問題を解決するだけでない。世界の石油取引におけるロックフェラーとスタンダード石油の鉄の支配を弱めることができる。
一八八〇年代の終わり、マーカス・サムエルはすでにシティーでそれなりの地位を確立していた。彼のようなユダヤ人には破格の成功だった。彼はロンドンのイースト・エンドの貧しい出身で、スペイン・ポルトガル系(セファルディー)のユダヤ人のような由緒ある出ではない。
祖先は一七五〇年、オランダとバイエルンからロンドンに移住した。彼は信仰のあついユダヤ人には珍しく父親と同じ名前である。父親のマーカス・サムエルが自分の商売を始めたのはイースト・ロンドンの波止場だった。
帰国した船員から外国の珍しい土産物を買ったのだ。一八五一年の市勢調査では、彼の肩書は"貝殻商人"となっている。彼が最も多く扱ったのが貝殻細工で飾った小さな箱だったからだ。これに"ブライトンの贈り物"という名前をつけ、イギリス各地の海辺のリゾートで少女や若いレディーに売った。ビクトリア時代の半ばのことである。
一八六〇年代、老マーカスはいくばくかの財産を作り、貝殻だけでなく、駝鳥の羽やらアンディラ材のステッキから胡椒用のバッグ、ブリキの板までいろいろなものを輸入した。また、輸入だけでなく、工業製品も輸出した。その中には日本向けの最初の自動織機もあった。
息子にとって大きな意味があるのは、老マーカスがイギリスの貿易会社のいくつかと信頼関係のネットワークを築いたことである。これらの貿易会社は祖国を捨てたスコットランド人がカルカッタやシンガポール、バンコク、マニラ、香港、その他の極東地域で経営していた。
息子のマーカスは一八五三年生まれ、ブリュッセルやパリでいくらかの学校教育を受けたが、一八六九年、十六歳の時から父親の仕事を手伝い始める。同じ年、アメリカデ彼より十四歳年上のジョン・ロックフェラーが一〇年後の将来を目指して石油産業の統合に乗り出そうとしていた。世界的規模の技術革新が貿易のあり方を変え、国際通商を様変わりさせていた。
一八六九年、スエズ運河が開通する。P96この結果、極東への旅は四〇〇〇マイルも短縮される。蒸気船が帆船に取って代わる。一八七〇年、イギリスからボンベイまでの直通電信回線が敷設された。そして、日本や中国、シンガポール、オーストラリアがまもなく電信回線網の中に入る。世界が電信回線によって初めてつながったのである。
早い情報が何か月ももの間気をもみながら待つ時間を一掃した。船舶輸送が投機行為ではなくなった。細かい取引の約束が事前にできるようになった。そして、若いマーカスはこれらのすべてを自分の道具に使って富を築くことになる。
横浜・神戸のサムエル商会活動 P96-97
P96 父親の死後、マーカスは弟のサムエル・サムエルと組んで貿易業務を発展させる。サムエル・サムエルは数年間日本に住み、兄のマーカスと二つの会社を経営した。一つはロンドンのM・サムエル商会、もう一つは横浜のサムエル・サムエル商会。
後者はその後、神戸に移る。この間、サムエル兄弟は日本の近代化に重要な役割を果たすことになる。マーカスは三〇歳にならないのに早くも日本との取引で最初の財産を作った。兄弟は極東での商売を広げる。それには、彼らの父親が培った貿易会社との関係が大きく役立っていた。こうして、マーカスとサムエルの兄弟はオリエントの貿易で頭角を現した初めてのユダヤ人となった。
マーカス・サムエルは国際商人として優れたアイデアマンだった。二歳年下のサムエル・サムエルは忠実に兄に従い、わき役に徹した。兄のマーカスは複雑な性格だった。年を経るに従って、彼の人を引きつけた魅力は消えて次第に人付き合いが悪くなった。それはほとんど彼の仮面と思えるくらいだった。
彼は背が低くく頑丈で濃い眉毛のその容貌はとてもよいとは言えなかった。しかし、彼は大胆なビジョンを持っていた。冒険好きで、天才的、行動は敏速、何か選択する時の決断は早かった。話すP97時は穏やかかな声で、時に聞き取りにくいほどだった。これが、かえって聞く人を緊張させ、彼の話をより説得力のあるものにした。彼はこうして人々の間に深い信頼感を植えつけた。
そのおかげで、その後二〇年間、彼は資金面では極東のスコットランド人商人の協力を受け、銀行には頼らないで済んだのだった。しかも、マーカスは富を蓄積する以上の何かを求めた。例えば、地位を欲しがった。彼はロンドンのイースト・エンド生まれのユダヤ人、完全なアウトサイダーである。彼は自らのエネルギーの限りを尽くして、サムエルの名前をイギリス社会の最も高い位置につけようと努力したのである。
弟のサムエル・サムエルは兄とは対照的な性格だった。心暖かく、寛大で社交的、そして、いつものんびりしていた。彼は他愛もないなぞなぞが大好きだった。気に入ったなぞなぞは五〇年以上も使った。客が晴れた日に昼食に来れば、サムエルは「今日はレースにはもってこいの日和ですな」と言う。客がいぶかって「何のレースですか?」と聞く。すると、彼が待ってましたとばかりに「ヒューマン・レース(人類)です」と言うのだ。
マーカスは間接経費を嫌った。それを信用しなかった。実際彼はそれに深い不信感を抱いていた。彼はイースト・エンドのハウンズディッチに小さな事務所を構えていた。その背後には、彼の倉庫があり、日本製の花瓶や家具、絹織物、貝殻、羽毛、飾り物、骨董品が天井まで詰まっていた。用のない商品は届くと同時に捨てた。事務所で働くスタッフは少ない。というより、彼はスタッフを持っていなかった。彼は資金をほとんど持たない。ファー・イースタン貿易会社が彼に提供するクレジットで用を足したのだ。
彼はこの貿易会社を海外代理店としても使った。これで、彼は組織と管理の両面で経費を切り詰めた。船をチャーターする時、彼は海運ブローカーのレーン・アンド・マカンドリュー社を利用した。同社の主要経営パートナーガフレッド・レーンである。彼の姿が狭い路地裏のM・サムエル商会の狭苦しい事務所でしばしば見られることになった。
(P98-)
スタンダードに対するクーデター準備開始 P98-99
スエズ運河通過をめぐる争い P99-101
アジアの販売拠点作り進む P101-103
貝の名前のタンカー P103-106
(P106)
日本の武器調達で蓄財 P106-108
P106 マーカス・サムエルはビジネスの成功の頂点にいただけではない。彼はイギリス社会でかなりの地位を獲得しつつあった。一八九一年、彼の地球規模のクーデター計画の進行中、彼は余暇にロンドン市議会の議員に立候補して当選する。議員はまったくの名誉職だが、彼はこの地位に執着した。
(略、癌と診断されるも誤診)
しかし、このときの死の恐怖がきっかけとなり、サムエルはビジネスに秩序をもたらそうと考えるようになった。その結果として、新しい会社を計画する、サムエル兄弟とフレッド・レーン、極東の貿易商たちが組織するタンク・シンジケートである。彼らは利益と損失を世界的規模ですべて共有する。
これはスタンダード石油と闘争し、それから生じる損失を吸収するために必要な組織だった。タンク・シンジケートは瞬く間に大きくなり、成功を重ねていった。マーカス・サムエルの財産は急速に増えていった。石油とタンカーのためだけではない。昔から関係のある極東各地の貿易会社、中でも日本との関係からである。
サムエル兄弟は一八九四年から九五年P107の日清戦争の時、日本のために武器と軍需物資を調達する中心となり利益を上げた。
タンカーのミュレックス号がスエズ運河を初めて通過して数年、ロンドンのイースト・エンド出身のユダヤ人、マーカス・サムエルは大富豪となっていた。(以下略)
(P108-)
死闘の果てに P108-111
ロイヤル・ダッチのスマトラ開発 P111-113
儲かっても貧乏なふりをする P113-115
オランダが最大の障害 P115-118
第六章 石油戦争---ロイヤル・ダッチの興隆と帝国ロシアの滅亡 P184-220
ジャングル P186-188
シェル石油の出現 P189-190
ピンチのロイヤル・ダッチ石油 P190-192
押しの強い男 P192-196
合併への第一歩 P196-198
"ブリティッシュ・ダッチ"石油とアジアテック P198-201
勝ち誇ったデターディンク P201-205
"シェル・グループ"とサムエルの降伏 P205-209
"アメリカ"へ P209-211
混乱の中のロシア P211-216
ロシアへの復帰 P217-220
第十〇章 中東への道--トルコ石油会社 P304-344
(P304-)P305 争いの焦点は、一つの地域に集中した。メソポタミアである。ここは、石油埋蔵の可能性についての好ましい報告(→グルベンキアン参照1、参照2、後述、tw)もあって、戦前の一〇年ほど前から、石油利権をめぐって国同士、また企業同士の複雑な争いの対象となっていた。この争いは、今や崩壊寸前のトルコ帝国が、慢性的な対外債務から抜け出そうと新たな歳入源を求めていたことで、さらに過熱していた。戦前の争いにおける主役の一つは、中東でドイツの影響を確保しようとしたドイツ銀行率いるドイツ・グループだった。
そのライバルは、ウィリアム・ノックス・ダーシーが資金援助し、後にアングロ・ペルシャ石油に吸収されることになるイギリス・グループで、ドイツの対抗馬として、イギリス政府がテコ入れしていた。
その後、一九一二年に、イギリスは、新たなライバル出現に驚くことになる。トルコ石油である。ドイツ銀行が、既存の石油権益の主張をこの会社の存在に託していたことも明らかになる。ドイツ銀行は、ロイヤル・ダッチ・シェルとともに、この新会社の株式を四分の一ずつ所有していたのだ。P306全株式の半分を持つ最大の株主は、トルコ国立銀行であった。しかし、皮肉にもこの銀行は、イギリスが、経済的・政治的利権を拡大するために設立したものであった。
しかし、さらに別の主人公がいた。"石油外交のタレーラン"として尊敬され、また軽蔑されもしたアルメニア人の大金持ち、カルースト・グルベンキアンである。この男こそが、トルコ石油を設立に導いた人物なのである。さらに詳しく調べればわかるが、グルベンキアンは、トルコ国立銀行の株を三〇%所有していた。つまり、トルコ石油の株一五%を握っていたのだ。(略、"五%の男"グルベンキアンの記述)
(P308)
P308 グルベンキアンは、また別の一面も持っていた。何事もとことん疑うことだ。後にグルベンキアンのコレクションを手助けした、美術評論家であり、ロンドンのナショナル・ギャラリー館長でもあったケネス・クラーク卿はこう言った。「これほど疑り深い人は二人といまい。まったく極端なのだ。誰かに頼んで、常に自分のためにスパイさせていたほどなのだ」。
美術品を買う時でも、二、三人の別の専門家に鑑定させるのだった。歳をとるにつれてこの傾向はますます昂じた。一〇六歳まで生きた祖父より長生きしようという執念から、わざわざ二つの医者グループを雇い、相互の診察結果をチェックしたほどである。(略)
(P310)
(P336)
P337 グルベンキアン(前述、tw)は、さまざまな事業活動を手がけ続けた。例えば、ソ連のキャビア市場への独占的な権利を確保しようと努力したりもした。彼は自分の妻を、パリのイエナ通りに建てた邸宅に、彼の芸術のコレクション--これを自分の「子供たち」と呼んだが--とともに閉じ込めておいた。
そして彼自身は、パリではリッツ・ホテル、イギリスではリッツ・ホテルかカールトン・ホテルの、スイート・ルームの間を行き来して過ごした。これらの部屋には、女性がひっきりなしに出入りしていたが、いつも少なくとも一人は、性的活力を若返らせるために「医師の助言」に基づいて、一八歳かそれ未満でなければならなかった。
(略)
第十一章 ガソリンの時代 P345-381(参照)
第十二章 "新たな油田をめぐる闘い" P382-409
(P396-)P397 ボルシェビキとの闘い
しかし石油と政治の衝突が最も劇的だったのは、西半球ではなく、東半球である。第一次世界大戦以前、ロシア産の石油は、世界市場で最も重要な商品だった。しかし、ソ連の新しい共産主義政府が石油を握った時、彼らはどんなゲームを演じるのか、それも誰のルールで?
最も危険な目を味わったのは、ロイヤル・ダッチ・シェルだった。ロスチャイルド家のロシアでの巨大な石油権益を第一次世界大戦直前に買収したばかりだった。ボルシェビキ革命直後は、多くの会社がロシアの石油を安く手に入れようと必死に活動した。グルベンキアンは、亡命ロシア人の財産を"格安の"値段で買いあさったと言われた。どんなものも見逃さぬとばかりに、彼は、現金のない亡命ロシア人が、荷物に入れて持ち出してきた美術品も買い集めた。
ロスチャイルド家と違って、ノーベル家は、ロシアの石油権益を握り続けていた。しかし革命が起P398きたため、家族は海外に逃れる。あるものは農民に変装し、またある者はソリや徒歩で国境を越えてフィンランドに出た。この結果七五年に及んだノーベル家のロシアの時代も終わったのだった。一族は最終的にパリにたどり着き、ムーリス・ホテルに滞在した。そして、一家の石油帝国のうちどれだけが救済できるか、その場合、どんな方法があるのか、考えをめぐらせた。
答えは、焼け残り品の特売のようだった。ノーベル家は、ロシアに持っていた石油事業のすべてを売却したいとデターディングに申し出たのだ。(略)デターディングはこの申し出に、ロシアの石油の支配者になるチャンスを嗅ぎ取った。ただそれには、一つだけ条件があった。つまり、ボルシェビキが敗退することだ。彼は、アングロ・ペルシャやカウドレー卿なども加えて、ノーベル家と交渉するシンジケート作りを進めた。
デターディングは、ボルシェビキ体制は長くは続くまいと確信していた。「ボルシェビキはコーカサス地方のみならず、六か月もすればロシア全土から撃退される」と、彼は一九ニ〇年にグルベンキアンに宛てた手紙に書いている。(略、交渉の内容)交渉は決裂した。
しかしこの話の舞台裏に、別の買い主が控えていた。その企業は、アメリカ政府の政治的支援の約束をすでに取りつけ、財政面だけでなく、国籍の面でも、ノーベル家にとっては、はっきり言ってはるかに魅力を感じる相手だった。
ニュージャージー・スタンダード石油である。アメリカとロシアが手を結ぶというのは、ノーベル家が一八九〇年代に進めようとして以来、長く待ち望んでいたP399ことだった。そしてこの危険に満ちた、一八九〇年とはまったく異なった状況下で実現する機会がようやくやって来たのであった。(略)
ニュージャージー・スタンダード石油とノーベル家は、集中的に交渉を開始した。しかし実際のところ、ノーベル家が売却しようとしている財産には、もはやノーベル家の所有権がないかもしれなかった。この懸念は、一九ニ〇年四月に、ボルシェビキがバクーを再び占領して、直ちに油田を国有化した時点で現実のものとなった。(略)
そして国有化から二ヶ月もたたない一九ニ〇年七月に交渉は成立した。スタンダード石油は、ノーベル家のロシアでの石油権益の半分について支配権を獲P400得することになったが、買収価格は紛れもなく格安だった。(略)これによって、スタンダード石油は、ロシアの石油総産出量の少なくとも三分の一、石油精製量の四〇%、そしてロシアの国内市場の六〇%の支配権を獲得した。(略)
この後行われた資本家と共産主義者との交渉で、ボルシェビキを代表したのは、海外貿易人民委員の肩書を持つレオニード・クラーシンだった。背が高く、彫の深い顔立ちで、ピンと尖った顎ひげを蓄えたこの男は、都会的なセンスの持ち主で説得力があり物事をわきまえた人物だった。西側が考えていたような残忍な共産主義狂信者ではまったくなかった。クラーシンはまた、婦人たちの目を引きつける魅力も備えていた。
あるイギリス女性は「どこをとっても生まれと育ちのよさがわかる。言動ともに本当の貴族」とうっとりしたほどだった。(略、履歴、人物像など)P401スタンダード石油がノーベル家と交渉の仕上げを急いでいる頃、クラーシンはボルシェビキ政府の代表として、貿易問題を協議するためロンドンを訪れた。一九ニ○年の五月三一日、彼はデビッド・ロイド・ジョージ英首相の招待で、ダウニング街一〇番地の首相官邸に向かった。
ソ連の代表が西側大国の政府首脳と会うのは、これが初めてであり、まさに歴史的瞬間であった。(略、彼(ソ連)はイギリスに信用されていなかったなどが書かれる)肝心のソ連が、極端な工業力の減退、インフレ、深刻な資本不足、そして飢饉の淵に臨んでいる全国的な食糧不足という、経済的大災害に向かって突き進んでいたからだ。ソ連は天然資源を開発、生産し、売却するために、ぜひとも外国資本が必要だった。
この目的のため一九ニ〇年の一一月、モスクワは外国投資家への石油利益付与を認める新政策を発表したのである。P402一九ニ一年三月、レーニンはさらに新しい手を打った。新経済政策(NEP)(相互参照)として知られる新たな政策である。この政策は、国内市場の拡大や私企業の復活、外国貿易の保証、権益の売却などを認めたものだった。しかしこれは、レーニンが心変わりしたというのではなく、単に緊急の必要に迫られただけのことであった。
「外国からの設備や技術的な援助なくして、わが国の力だけで、破壊しつつある経済を建て直すことは不可能なのだ」と彼自身が明言している。この援助を得るためには、「最強の帝国主義者のシンジケート」に広範囲な石油利権を譲る方針だった。そしてそのレーニンが最初に譲歩する石油利権の例としてあげたものは「バクー油田とグロズニー油田のそれぞれ四分の一」だった。帝政ロシア時代のように、再び石油が最も利益の期待される輸出品となったのだ。ボルシェビキの新聞は、石油を「黄金の液体」と呼んだ。
レーニンが西側との関係を改善したことに、疑い深いスターリンはじめ多くの同志は強い反対の声を上げた。(略)しかしこうした警告にもかかわらず、レーニンが新経済政策を発表した一週間後に、クラーシンはロンドンで英ソ貿易協定に調印した。彼はさらに、新たな石油利権の譲渡をほのめかしつつ、さまざまな企業に接近していった。うわさや暗示のたぐいを利用して企業同士を互いに競争させようとしたのである。
デターディングは、ノーベル家との取引の失敗に気落ちすることはないと思った。ノーベル家同様、彼も、スタンダード石油がロシアに進出することは、旧ロスチャイルド家の資産を保有している、ロイヤル・ダッチ・シェルなどすべての外国投資家にとって心強い保証となると確信していた。デターディングは、グルベンキアンに語っている。
「ロシアの食卓には、いくつかの素晴らしい料理が用意さP403れている。食事をするなら、やはり同じ食事に関心を持っている仲間と一緒のほうがよい」。しかしデターディングは、ボルシェビキが、すでにデターディングのものとなっているはずの資産を売却することを認めるつもりはなかった。だから彼自身は食事のテーブルに着くつもりは毛頭なかった。これは、ウォルター・ティーグルも同じだった。
統一戦線を求めて
一九二二年になると、ニュージャージー・スタンダード石油とロイヤル・ダッチ・シェル、それにノーベル家は、統一戦線、特にその後知られる同盟の結成に取りかかった。(略)しかし"石油商人仲間"は、ソ連人はもちろん、お互い同士も信用しないものなのだ。こうして、互いに誓い合い約束し合ったにもかかわらず、統一戦線は、結成された時から不安定な足で立っていた。策士のレオニード・クラーシンは、このような資本家とその競争本能をよく知っていた。そして、達人のような手口で、企業同士を張り合わせたのだった。
一方、世界中の市場で、安いロシア産石油との競争が激しくなりつつあった。一九二〇年から二三年にかけて実質的に休業状態だったソ連の石油産業も、西側からの大規模な技術導入もあって、その後急速に復興し、ソ連は石油輸出国として再び世界市場に進出してきた。ニュージャージー・スタンダード石油社内では、重役たちがジレンマに直面した。資産問題をさしおいて、安いロシア産の石油P404に手を出すべきか、それとも道義的にもビジネス上の理由からもこのまま手を出さずにいるべきか?
ティーグルは、今やノーベルの企業に投資したことを後悔し、次のように話した。
「こんな病気の子供を抱えて、何年も面倒を見る代わりに、同じ金をどこかで直ちに利益が上がる石油事業があったらそこに投資すべきだった」スタンダード石油ドイツ代表のハインリッヒ・リーデマンの見方はやや異なっていた。私企業が外国政府の接収や国有化から自分を守るのは、そうたやすいことではない、と彼は述べている。「ロシアのように、政府が産業やビジネスに参加するというのは、ビジネスの歴史では前代未聞のことだ。
われわれは誰もソ連のこうした考え方に手を貸したいとは思ってもいない。しかし、もし他の連中が手を貸そうとした場合、われわれが手を貸さないことが何の役に立つだろうか?」事実、他の西側の企業は、コーカサスのバクーからシベリア沖のサハリンに至るまで、ソ連全域で何とか石油利権を獲得しようと、ある者は密かに、ある者は堂々と、ソ連への進出を企てた。コーカサスにある資産といえば、ニュージャージー・スタンダード石油やシェルなどが、すでに所有権を主張している資産であった。悪いことに、ソ連は、これら資産から出た石油を自らのものとして売りに出し始めていたのである。
しかし、ソ連との正面衝突を避けて裏をかく方法が一つだけあった。ニュージャージー・スタンダード石油とシェルが共同して、ロシア産石油を購入するための組織を作ることである。ただティーグルは、このアイデアには賛成できなかった。
「こう感じるのは自分の考えが古いのかもしれないが」と前置きした上で、ティーグルは
「いずれにしても私には、人の家に押し入って財産を盗んだ男と仲よくしようという考え方は、まともなものとは思えないのだ」と主張した。しかし、他のアメリカ企業がロシア産石油を購入し、それを使ってニュージャージー・スタンダード石油に競争を挑んでくるP405となると、ニュージャージー内での反対の声は完全に押さえられてしまった。
シェルとの共同企業体は、一九ニ四年一一月に設立され、両者ともソ連との取引開始に向けて調査に取りかかった。(略)ソ連からの共同購入をめぐるニュージャージーとシェルとの合意は目前に迫っていた。その合意では、石油利権の前の所有者に対する補償として、購入に際して一応五%の値引きがあることになっていた。しかしティーグルとデターディングは、この取引全般に疑問を抱き続けていた。それで、この合意が一九二七年の初めに崩れ去った時には、デターディングは、まったく上機嫌だった。(略)
P406 デターディングの事業経営には、明らかにこうした感情論が入り込むようになった。亡命ロシア人女性リディア・パブロワと結婚した後は、デターディングの反共産主義ぶりもますます激しくなった。デターディングは、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアに電報を打って、スタンダード各社の傘下の関係会社にロシア産石油の購入を止めさせるよう頼み込むことまでしている。彼は「立派な人たちがソ連の厳禁獲得に手を貸す」ことがないようにと、「人間性のため」として、ロックフェラーに「懇願」したのだ。
ソ連の政権は「反キリスト教」であると強調した上で、デターディングは、ロックフェラーにこう伝えている。「ご自分の会社が血に染まった利益を得ることをお望みではないはずだ。・・・貴社がソ連との関係を断つことになれば、ソ連の残忍な制度もすぐに終わりを迎えう」(注9)
価格競争
デターディングの要請にもかかわらず、スタンダード石油の後継会社二社、ニューヨーク・スタンダード石油とバキュームは、ソ連との取引を進めた。ニューヨーク・スタンダードは、ソ連人のために、バツームに灯油の製油所を建設し、これを長期契約で借りて操業した。両社ともインドや他のアジア地域向けに、大量のロシア産の石油を購入する契約を結んだ。
ソコニーは、インドの市場に石油を供給するためには、どうしてもロシア産のものを必要としていた。シェルはインドでも他の供給源を確保していたが、ソコニーにはなかったからだ。(略、ロイヤル・ダッチ・シェルとスタンダード石油系列との価格競争など)
P408 一九二〇年代終わりには、大手各社は、ロシア産石油をめぐる問題に疲れきっていた。自らの資産を奪い返そう、あるいは投資のもとを取り戻そうといった努力は、今やどうでもよくなってしまった。さらにイラクのババ・ガーガーで油田が発見されたことで、彼らの関心は中東の新たな供給源に向けられるようになった。ニュージャージーの重役会議は、ソ連と契約もしないが、ボイコットもしない、という中立の立場をとることに決定した。(略)
第一六章 日本・戦争への道 P514-547
P514-P518-522
隔離政策(関連)
P519その年の七月七日の夜から翌朝にかけて、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が二度にわたって衝突した。戦闘はその後数週間にわたって続けられた。中国国民党は日本に譲歩することを断固として拒否した。
国民党の指導者蒋介石は「わが領土をこれ以上、一インチでも譲ることは、わが民族に対する罪を犯すものである」と宣言していた。一方日本側は、この際中国を懲罰すべきだという判断から、陸軍が"徹底的な攻撃”を加えていた。
最初の衝突から一か月余りたった八月一三日、上海で先端が開かれ日本は中国との全面戦争に突入した。
日本の経済は戦時体制への移行を開始し、政府は外国石油会社との関係修復に乗り出した。石油の供給が混乱することを望んでいなかった。国家総動員法制定のために臨時国会が召集され、この国会で人造石油製造事業法が可決された。
この法律は合成(人造)石油の増産を目指す七年計画を決めていた。合成石油は主に石炭から生産される液体燃料であった。当時の国内石油消費量の半分にあたる合成石油を一九四三年までに生産する計画だった。野心的であると同時にきわめて非現実的な計画だった。
日中戦争の初期の段階からアメリカの政策と世論は、中国を侵略の犠牲者として支持していた。だが、アメリカは依然として孤立主義にとらわれていた。フランクリン・ルーズベルトが、元海軍次官補として「日本を信頼すべきか?」と題した論説を書いてから一四年がたっていた。
今や大統領はとなったルーズベルトは、国内の政治的制約と海外での事態の不気味な進展が苛立ちを募らせていた。一九三七年一〇月の演説で、彼は「無法状態という伝染病」が広がるのを防止するためには、「隔離政策」をとるべきだという考えを示唆した。
揚子江にいた四隻のアメリカ船が日本軍の航空攻撃を受けた時、ルーズベルトは閣議で非公式に、隔離政策とは「宣戦布告をせず経済制裁などを実施することだ」と語った。P520しかし、なお優勢だった孤立主義の流れと中立法に阻まれて、その考えを実行に移すことはできなかった。(注6)
中国民衆に対する日本軍の攻撃が相次いで伝えられ始めると、アメリカの対日世論は一層険しさを増した。一九三八年、日本軍の広東爆撃が新聞やニュース映画で報道された直後の世論調査によれば、アンリか国民の大多数は軍需物資の対日輸出に反対していた。
だがルーズベルト政権は、強く出すぎると日本国内の穏健派の立場を崩してしまうのではないかと懸念していた。また対日強硬政策によって、より深刻で切迫している脅威、ナチス・ドイツに対抗するアメリカの力が分散させられてしまうことも恐れていた。
このため航空機と航空機用エンジンの"人道的禁輸”を決めただけであった。しかも法的な拘束力はなく、国務省がこれらの企業に対して日本に製品を売らないよう要請する手紙を送ったにすぎなかった。
アメリカ政府は、日本とドイツとの関係強化の動きにも不安を感じていた。一九三六年日本とドイツは、ソ連を対象とした防共協定を結んでいた。だが日本はドイツの希望に反して、それ以上の接近を避けていた。日本側の説明は、重要な資源とりわけ石油をアメリカとイギリスに依存しているため、「これらの民主主義国家と対立することはできない」というものだった。
日本は矛盾した立場におかれていた。資源に関してアメリカに頼ることを止めたかった。特に軍艦や軍用機の燃料となる石油の大部分をアメリカに依存しており、対米戦争となれば大きな打撃を受けることが予想された。
しかし、安全保障と自立を目指す"共栄圏”の確立は、アメリカとの戦争を開くものだった。三〇年代の後半、中国との戦争のため資源はますます必要となり、アメリカへの貿易依存度は一層高まった。
しかも外貨事情が悪化したため、輸入代金の支払いは困難になっていた。このため日本国内では、石油をはじめとする燃料の割り当て制など、物資の厳しい供給制度が実施された。
同時に戦時経済体制の整備も遅れた。日本の食糧確保に欠かせない漁船もも石油の使用が禁止され、P521代わって風力を利用するよう命じられた。(注7)
一九三九年になると、アメリカは日本の行動にはっきりと反対するようになった。ルーズベルトとハルは、依然として対日強硬策と宥和策との中間的な方策を探っていた。あまりに強い対抗措置をとれば、太平洋に深刻な危機をもたらしかねなかった。
また宥和策は日本の侵略を助長する恐れがあった。日本軍の中国各地への爆撃は、アメリカ国民に衝撃を与え世論を沸き立たせた。『タイム』誌特派員セオドア・H・ホワイトは、この爆撃を「空の脅威を歴史に記すもの」と伝えていた。
日本の侵略に対して非協力を訴える委員会など、アメリカのさまざまなグループが対日輸出を禁止するよう求めて活発な運動を始めた。「日本がパイロットを、アメリカが飛行機とガソリン、油、爆弾を出して、中国の都市を破壊している」と書かれたパンフレットもあった。
六月に行われたギャロップの世論調査によれば、アメリカ国民の七二%が軍事物資の対日禁輸を支持していた。
ルーズベルト政権内部では、これまで検討してきた経済制裁を含めて対応策に関する真剣な討議が続いていた。しかし駐日大使ジョゼフ・グルーは、予想される日本側の反応について警告を発した。
欧米列強から侮辱を受け、面子を失うことになれば、日本は何をするかわからない。グルーは一九三九年秋、ワシントンに戻ってルーズベルトと二度にわたって会談した。日記には次のように記されている。
「大統領には、はっきりと私の考えを伝えた。日本に対して、いったん制裁を加えると決定すれば、その制裁は最後まで続けられなければならない。最後とは、おそらく戦争を意味することになるだろう。もしわれわれが石油の供給を止め、他の国からも石油が入らなくなって安全保障が確保できないと判断すれば、日本がオランダ領東インド諸島にその艦隊を差し向けるのは必至だと、大統領に伝えた」ルーズベルトは答えた。
「日本の艦隊の行動は、簡単に妨害することができる」P522グルーは自らの考えを伝えたが、とるべき政策については意見を述べなかった。石油の輸出を禁止する計画はなかった。ルーズベルトもグルーには強気の発言をしたが、日本と衝突するような危険を冒すつもりはなかった。だが石油は、日米の重大問題に発展していった。(注8)
その一年前、一九三八年九月ハーグで、二人のアメリカ人ビジネスマンがラジオのニュースに聞き入っていた。一人は、ニュージャージー・スタンダード石油とニューヨーク・スタンダード石油の極東での合弁会社、スタンバックの社長ジョージ・ウォルデン。もう一人は、オランダ領東インド諸島にあるスタンバックの産油会社の社長ロイド・ショート・エリオットだった。
ミュンヘン危機の時だった。ヨーロッパは戦争の崖っぷちに立っていた。だが、イギリスとフランスは、チェコスロバキアに関するヒトラーの要求に屈した。イギリス首相チェンバレンは、「現在の平和を守るためだ」と語っていた。
その日、ラジオから流れるヒトラーの演説を熱心に聞いていたウォルデンとエリオットは、ヨーロッパだけでなくアジアでも戦争が避けられないと感じていた。アジアで戦争が起きれば、日本は必ず東インド諸島を攻撃する。襟音との言葉によれば、「問題は、いつ、どう攻撃するかということだけだった」
その夜、ハーグでウォルデンとエリオットは、日本軍が侵略してきた場合にどうすべきかを検討した。二人の行動は素早かった。まず、東インド諸島にいる従業員のうち挙動不審なドイツ人、オランダ人、日本人を解雇した。
計画はスタンバックの製油所と油田が破壊される場合に備えてのものだったが、そこにはかなりあからさまに日本に対する牽制の意味が込められていた。一九四〇年の初めには撤退計画も作られた。
スタンバックは、アメリカの法人ではなかったが、アメリカが石油の対日禁輸に踏み切った場合、ウォルデンは現地の社員に「全面的に協力し、スタンバックから日本への輸出を止めるように」と指示していた。
さらに彼は、「たとえ、日本海軍がオランダ領東インド諸島のP523石油施設を占領する恐れが強まっても、また"スタンダード石油のための戦争”に反対する国内世論のためアメリカが東インド諸島を守ることができなくなっても、われわれは対日禁輸を遵守して石油の積み出しを停止する」。(注9)
P522-546
日本の進出とアメリカの制約--第一ラウンド P523-526
静かな対話 P526-528
山本の話--「間違いなく死ぬ」P528-531
禁輸 P531-536
「もはや耐えられぬ」P536-537
「日々減少しております」P538-542
真珠湾 P542-545
一つの失敗 P545-547
(略)
第二一章 戦後の石油秩序 P672-707
P673 石油不足は輸入の急増を招いた。一九四七年まで、アメリカの石油輸出量は輸入より多かった。一九四八年、これが逆転し、原油と石油製品の輸入が輸出を初めて上回る。アメリカが世界の石油の供給者としての歴史的役割を終えたのだ。(略)サウジアラビア油田開発のリスク P674-676br> アメリカの石油輸入国への転換はエネルギー安全保障の問題に新しい要素を加えた。アメリカ、イギリス、西ヨーロッパの安全保障が中東石油の確保を基本条件とすることになったのだ。第二次世界大戦の教訓、経済的価値をますます強める石油、中東石油の潜在力、これらをソ連との冷戦の文脈の上でとらえること。
外交政策も、国際経済の要因も、国家の安全保障も、企業の利益もすべて石油という一点で交わるのだった。その焦点が中東である。そこでは、石油企業がすでに生産を始め、立場を確保するためにさまざまな工夫をしていた。
サウジアラビアの石油開発はアラムコ(アラビアン・アメリカン石油)が握っていた。アラムコはソーカルとテキサコのジョイント・ベンチャー(共同事業)である。だが、アラムコは迷っていた。理由はサウジアラビアの油田の規模の大きさ、その豊かさにあった。
開発に巨大な資金が必要になり、石油を生産すればそれに見合う市場が必要になる。ジョイント・ベンチャーを組んでいる二社のうち、ソーカルが弱体だった。テキサコは一九○一年、テキサスのスピンドルトップの石油発見で生まれた最大の会社であった。
アメリカではラジオのスポンサーになってメトロポリタン・オペラを東海岸から西海岸まで放送し、全国に知られていた。また、テキサコのサービス・ステーションのサービス係を表わす、"星を着た男"はアメリカ広告の記念碑的な傑作となった。
これに比べ、ソーカルはカリフォルニア地方の会社で、知名度も低かった。第一次世界大戦以来、同社は世界各地の石油探鉱に数百万ドルを注ぎ込んできた。しかし、その努力に比べ、見るべきものがなかった。わずかに東インド諸島とバーレーンで小規模な油田が発見できただけだった。