2019年5月12日日曜日

偏愛メモ 『秘密のファイル(下)』(随時更新)

第八章 政界工作 P95-450

8.1 日本諜報機関の父・吉田茂 P95-148
(P94-)

組閣の大命 P95-96
幻の吉田追放案 P96-98
問われた戦争責任 P98-101
徳田球一からも聞き取り P101-103
公職追放 P103-105
マッカーサーと意思疎通 P105-107
吉田ファイル P107-110

(P110)

鳩山追放劇 P110-113

   (略)

(P112-)

P112 吉田も回想録に、「鳩山一郎君の追放は全くの寝耳に水だった」と書いている。しかし、吉田のこの回想はかなり疑わしい。四月十日の総選挙後、鳩山の公職適格性に疑問が出たので、GHQは終戦連絡中央事務局に、鳩山の審査を通告した、とGHQ覚書は明記しているのだ。吉田は外相兼終戦連絡中央事務局総裁であり、当然この再審査通告のことを知っていたはずである。

P113 具体的には、民間情報局(CIS)は日本政府に対して、①鳩山が一九三三年の文部大臣時代、京都大学の「滝川事件」で滝川幸辰教授の辞職を求めた命令②鳩山の著作『世界の顔』の内容---について報告するように求めた。『世界の顔』にはヒトラーやムッソリーニに関する好意的な記述があった。

GHQが発表した鳩山追放の覚書にまさにこれら二点が盛り込まれた。鳩山はこのため、追放解除後の一九五四年(昭和二十九年)末に首相の座に就くまで、八年半を棒に振った。

暗躍 P113-115
戦後初の総選挙から、鳩山追放、幻の吉田追放案、そして、第一次吉田内閣成立に至るまでの間、米情報機関が絡んで、"暗躍"が展開されたのは間違いない。鳩山は、追放された自分に代わって、吉田に自由党総裁になるよう求めた。吉田は、「本来政党というものに気がすすまなかったし、内政方面には知識も経験もなかった」ので、再三断ったが、騒然とした世の中で、「速やかに政局を安定して民心の動揺を鎮めねばならぬ」と認識して受諾。(略)

P114 吉田は回想録で、このような建前の話をしているが、、舞台裏ではもっと生臭いドラマが展開されていたはずだ。鳩山追放の動きは総選挙後始まった。GHQは終戦連絡事務局に、鳩山の公職適格性に疑問がると通告したが、日本政府側から、何らの釈明や処分も行われなかったので、事実確認の上、鳩山を追放したことが分かっている。

しかし、総選挙から追放発表までの三週間、吉田が鳩山追放を回避するために動いた形跡はない。「当の鳩山君に対しても、追放の可能性があるから・・・忠告も行われたらしい。鳩山君がそうした裏面の声に耳を傾けず、・・・社会党との連立工作を進めたが、それも失敗した矢先に追放となった」と、他人事のように記している。

  吉田が鳩山の真の盟友であれば、舞台裏で、GHQから示された公職適格性の問題点を整理し、釈明の機会を設け、追放回避に動いたに違いない。鳩山は、その後首相となる芦田均や片山哲とともに大政翼賛会に反対し、一九四ニ年の翼賛選挙で非推薦で当選した経歴があった。

その点を挙げて、公職追放は不当、P115と反論することもできたはずだ。だが、吉田が鳩山に、反論するようアドバイスした事実はない。「Y項パージ」という言葉がある。GHQの公職追放のカテゴリーはA項からG項しかない。Yは吉田のイニシャルだ。吉田が差配して政敵を公職追放したと思われる例が、Y項と呼ばれた。吉田は、それほど巧妙に自分の政治目的に公職追放を利用した、とみられている。

そして、今度は吉田自身の番だ。CISで「吉田追放」のメモが作成されたのを知った吉田は、そのもみ消しに動いたに違いない。厳しい追及を抑えて、追放を免れたのである。(略、以下吉田追放案もみ消し工作について記される)

(P116-)

清里の父と吉田の関係 P116-118
沢田ハウスのラッシュ P118-122
懐柔 P122-124
追放を回避 P124-126
こまごまとした心配り P126-128
「のんきそうな地方名士」 P128-130
「不思議の国のアリス」のような気分 P130-132
低い評価 P132-135
公安調査庁と内調、米協力で設置 P135-138
対中工作を申し出る P138-141
コミンフォルムに対抗する組織 P141-145
吉田ドクトリンの真相 P145-148


8.2 敬遠された鳩山と石橋 P149-169
(P148-)

(P162-)

P162 アメリカは鳩山不信をさらに強め、感情的な敵意をむき出しにしていたことがよく分かる。アメリカ側は、意図的に手荒な仕打ちをしたわけである。十月五日、訪日したハーバート・フーバー国務次官がアリソン大使とともに、鳩山を訪ね一時間余り会談した。

「鳩山はことのほか友好的だったが、あいまいで、いくつかの点でまったくポイント外れの発言をしたり、直接的な回答をせずにごまかしたりした」アリソン大使は同日付で国務省に送った秘密電報でそう伝えた。電報によると、鳩山は、日ソ交渉の展望について、「間もなく妥協するとの印象を持っている。自由党と一部国民は千島と南サハリンの返還を要求しているが、日本はサンフランシスコ講和条約でこれらの主権を放棄したと思う」

と言ったという。現実には、日ソ交渉はそれから一年もかかった。翌一九五六年三月十九日、東京で行われたダレス国務長官と鳩山の会談もよそよそしい雰囲気で終わった。例えば、鳩山が小笠原島民が帰還できるよう、「解決策を検討してほしい」と言うと、ダレスは、P163「島民は帰還を認められるべきだとの考えに傾いていたが、この問題を検討すればするほど自信がなくなる」

ともったいをつけて、小笠原は、「多くの人口を維持できそうにないし、・・・米国と自由主義世界にとって戦略的価値も高い」と後ろ向きの回答しかせず、会談はかみ合わないままだった。鳩山政権の時代、アメリカ政府はあえて日本政府とより緊密な関係を築こうとせず、先送りにした感がある。

一九五五年四月九日、国家安全保障会議(NSC)は新しい対日政策NSC5516/1号文書を承認した。「日本は、対米依存度を低くし、ソ連、共産中国との関係拡大などで国際的行動の自由を拡大しようとする」という現状を認識したうえで、
  • 効果的で穏健な保守政権の発展を促進する。
  • 個人的接触、意見交換、可能な支援により、実業家、政府当局者、防衛当局らP164の理解と協力を拡大する。
  • 共産主義勢力の組織基盤を攻撃し、共産主義者の財政・政治力を損ねるための効果的な国内的治安措置で日本政府を支援する。
  • 非共産党系知識人指導者の間のマルクス主義的傾向を除去し、一般国民に共産主義の危険を啓発する計画を拡大する。
  • ソ連との外交関係樹立に反対しないが、共産中国との外交関係に反対する。
  • 歯舞、色丹両島の主権をめぐる日本の主張を支持する。千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張に対して譲歩しない。
といった行動をとることを決めた。第六章「日本改造」で明らかにした、米情報機関の秘密工作はこうしたNSCの指令に根拠があったのだ。鳩山政権下では、アイゼンハワー政権は鳩山や重光以外の、政界の大物との接触を拡大した。

一九五六年八月二十二日、国務省北東アジア部のノエル・ヘメンディンガー部長代行はウォルター・ロバートソン国務次官補にあてた秘密メモで次のように明記した。P165「鳩山の後任には、より能力が高く、エネルギッシュな指導者が出てくる。岸(信介)は最も可能性が高い後継者とみられる」アメリカは、ポスト鳩山時代が早く来て、岸が首相になるのを待望していたのだ。

米、北方領土返還を恐れる
鳩山政権下で、アメリカ政府が最も懸念したのは、日ソ交渉の開始だった。一九五五年三月十日、ホワイトハウスで行われた国家安全保障会議(NSC)でアレン・ダレスCIA長官が指摘した。
「日本は、千島列島の少なくとも二島、歯舞、色丹両島の返還の希望を公言している。ソ連は歯舞を返還するわずかな可能性がある。しかし、ソ連が一度占領に成功した領土を放棄するのは通常の彼らの行動ではない」
これを受けて、兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官が発言した。
「ソ連が千島列島の重要な部分を放棄するような事態が起きれば、米国は直ちに、琉球諸島の施政権返還を求める、日本からの強い圧力を受けることになる。ソ連が現在の占領地域を日本に返還すると予測するのは、これまでの経験に反する。しかし、まさに日米間の緊張を増すためにそのような策に出ることは考えられる」
P166四月七日のNSCでも同じ問題が議論された。対日政策NSC5516号文書がテーマである。その政策原案では、北方領土問題をめぐっては、
  • 歯舞、色丹両島の主権をめぐる日本の主張を支持する。
  • 千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張を法的に無効と扱う。
とされていた。これに対しダレス国務長官が異議を唱え、力説した。
「前項には賛成だが、後の項には反対だ。もしわれわれがこの線で行動すれば、危険な領域に入ってしまう。千島列島と南サハリンに対するソ連の主張は実質的に琉球諸島および小笠原諸島に対するわれわれの主張と同じだ。従って、ソ連を千島列島および南サハリンから追い出す努力をすれば、われわれ自身を琉球諸島、小笠原諸島から追い出してしまう恐れがある
アイゼンハワー大統領は笑みを浮かべながら述べた。
「ロシア人を千島列島から追い出そうとしても成功しないのは確実だよ」
だが、ダレス国務長官は真剣だった。
P167「琉球諸島は、ソ連にとっての千島列島よりもっと価値がある。このため、琉球諸島でのわれわれの立場を危険にさらしてはならない」
大統領はこれに同意。結局、後の方の項目は、
  • 千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張に対して譲歩しない。
と変更された。アメリカは、このように、ソ連が北方領土を返還する可能性の方を恐れていた。アメリカはむしろ、ソ連が日本を直接攻撃する可能性より、こうした日米文壇に出る可能性の方が高いとみて警戒していた。そうした可能性は、当時作成されたCIAの国家情報評価(NIE)でも指摘されている。

日ソ国交回復
日ソ交渉は、ソ連の強硬姿勢で難航した。訪英中の重光外相は一九五六年八月二十四日、ダレス国務長官と駐英米大使公邸で会談し、"泣きついた"。
「ソ連は、米英両国の同意を得て、(北方領土)諸島を占領している、と主張していP168るのです」
重光は、北方領土問題を解決するには、関係諸国が参加した国際会議を開くしかないのではないか、とダレスに提案した。しかし、会議を開けば、
「ソ連は台湾や琉球諸島の問題を含めようと図るし、日本国内から、特に社会党から琉球諸島の全面返還の圧力が高まる」(アリソン大使)
と米側は恐れた。

アイゼンハワー政権時代、アメリカは小笠原諸島や沖縄の返還を考えていなかった。何度か日米間でやり取りした結果、米政府は九月七日、日本側に次のような覚書を渡し、ようやく対ソ交渉で日本支援に動き始めた。
  • 米国は日ソ間の戦争状態を正式に終結すべきだと考える。
  • サンフランシスコ講和条約は、日本が放棄した領土の主権問題を決定していない。
  • 歴史的事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部である歯舞、色丹とともに)常に日本の一部であり、日本の主権下にあると認識されるべきだ。
これを受けて、鳩山は十月七日、河野一郎農相とともにソ連に向けて出発した。ブP169ルガーニン首相との首脳会談で交渉が妥結、同十九日、「日ソ国交回復に関する共同宣言」などに調印した。

結局、領土問題では、歯舞、色丹両島は平和条約の締結時に返還する、という内容が盛り込まれた。しかし、国後、択捉両島のことはまったく触れられなかった
「われわれは、合意は両国政府にとって満足できるものと仮定できるだけだ」
国務省スポークスマンのコメントはそっけない内容だった。

日ソ国交回復の結果、この年の国連総会で日本の加盟が認められた。鳩山は、これで政治エネルギーを燃焼し尽くした。調印から二ヶ月後の十二月二十日、鳩山内閣は総辞職。鳩山自身も一九五九年(昭和三十四)死去した。結局、鳩山は二年以上の在任中、一度も訪米しないという、戦後では異例の首相で終わった。

鳩山の長男、威一郎は大蔵官僚から外相などを歴任した。由紀夫、邦夫の二人の孫も政治家となった。鳩山由紀夫は「駐留なき安保」という大胆な構想を月刊誌に発表、ワシントンで波紋を広げた。米政府当局者はこの構想を強く警戒した。由紀夫は後に民主党の代表にもなったが、祖父と同様、アメリカとの意思の疎通が大きな課題となった。

8.3 一蹴された重光の安保改定提案 P170-178
8.4 アメリカが支援した保守合同 P179-187
8.5 「ラッキーなら」石橋政権は短い P188-200
8.6 アメリカの期待の星・岸信介 P201-259
・マッカーサー二世と岸の緊密な関係 P201-204
・起訴されなかった理由 P204-206
岸信介が、アメリカとこれほど親密な関係を築くまでには、紆余曲折があった。岸は一八九六年(明治二十九年)、山口県に生まれた。一族には、叔父に松岡洋右外相、実弟には、後に首相となる佐藤栄作がいる。

東京帝国大学法学部卒業。国家主義の憲法学者上杉愼吉に私淑し、右翼学生団体のリーダーとなった。農商務省に入省、後に商工省で”革新官僚”として頭角を現し、一九三六年(昭和十一年)満州国産業部次長に転出した。

満州国では、産業開発五か年計画を推進して植民地経営に辣腕を振るった、関東軍参謀長だった東条英機と親しくなり、一九四一年、日米開戦時の東条内閣商工相として戦時経済体制確立に積極的な役割を果たした。

一九四四年七月、戦局がさらに悪化、批判が高まったため、東条英機首相は国務相(軍需次官兼務)の岸に辞任を求めた。だが、岸は辞任を拒否したため、結局、東条内閣は総辞職、岸は下野した。

敗戦の日を、岸は郷里の山口県で迎えた。岸の名前は、一九四五年九月十一日発表された第一次A級戦犯容疑者三十九人の中に含まれていた。岸は山口県特高課長に伴われて上京、逮捕された。岸は、

「裁判にかけられることは覚悟しなきゃならんが、日本をどうして復興するのか」を考え、取り乱すこともなかったという。身柄を巣鴨プリズンに移され、三年余勾留されたが、一九四八年十二月二十四日、他のA級戦犯容疑者十八人とともに、不起訴・釈放となった。

岸はなぜ起訴されなかったのか
  • 国際検事局(IPS)は、なるべく多様な類型の被告を選ぶ方針をとっていた。岸と似た経歴ながら一歩傷心が早かった大蔵官僚、星野直樹(満州国総務長官、企画院総裁、内閣書記官長を歴任、終身禁固刑)が被告に選定されたため、岸が外された(『東京裁判ハンドブック』)
  • 戦時中、東条と対立し、東条内閣の総辞職を招いた
P206 こうした説が流布してきた。だが、いずれの説も、決め手があるわけではない。米国立公文書館で筆者が発見した秘密の岸ファイルに、興味ある文書が多数残されている。岸を含む三十九人の逮捕の理由は、「安保上の脅威で、民主的傾向に対する妨害」とされていた。

しかし、岸個人についてGHQ文書は、「岸は、戦前政府内で長く活動し、東条内閣では真珠湾攻撃以後も閣僚を務めたため、拘留すべきだ」とだけ指摘している、岸本人の戦争犯罪と戦争責任を厳しく追及する、といった姿勢は最初からあまり感じられない。

・情報源として岸に期待 P206-208
巣鴨での岸に対する取り調べは、翌一九四六年三月七日、二十日、二十七日、二十八日と五月二十三日に行われた。調書は、岸を訊問した係官をジョージ・サカナリ中尉、P207G・モリウチ中尉と記している。二人とも日系二世だった。

二人の中尉の所属部隊が極めて興味深い。サカナリ、モリウチの両中尉は参謀第二部(G2、情報)傘下の民間情報局(CIS)の工作担当だった。国会図書館に保管されているGHQ電話帳によると、サカナリは一九四七年、もりうちは五〇年までCISに在籍していた。

二人とも国際検事局(IPS)で刑事訴追を担当していた将校ではなく、情報将校だったのだ。岸の尋問を目的に関して、「岸は東条内閣の商工相。満州国では星野直樹総務長官の下で働いていたことから、満州での行為に関連した人物について知っているはずだ」と防諜部隊(CIC)の秘密文書は明記している。

岸逮捕の理由は第一に、岸を拘留して東条、星野らの「満州閥」との関係を問いただし、情報を集めることにあったことがよく分かる。岸ファイルから見る限り、米側は明らかに、岸に「情報源」としての役割を期待したのである。

起訴されずに釈放された他の戦犯容疑者と比べるとは違いは明らかだ。児玉誉士夫の場合、拘留段階の当初の文書には「起訴されるべきだ」と明記されている。笹川良一も「起訴への可能な根拠を調査すべきだ」と書かれていた。だが、岸ファイルには、逮捕の時から起訴を展望して岸の戦争犯罪行為を実証しようとする動きは見られない。

・尋問リポート P208-212
訊問で岸は、東条や星野、鮎川義介(満州重工業、日産などの社長)ら満州人脈のことを聞かれた。岸は満州で、東条ら歴代の関東軍参謀長とつきあいがあったことを認め、「星野と東条は新京(満州国首都)に住んでいた時代、夫人同士も含め非常に親しかった」

などと供述した。児玉誉士夫については、笑顔を浮かべながら、「うわさでしか知らないが、中国大陸で大金をつくったと聞いた。ヤミ取引や麻薬密輸で金をもうけたようだな」とも言った。

岸は「軍閥の道具」にされた官僚とも言われていた。サカナリがその点を突くと、P209岸は、「自分と軍閥の関係は、常に意見が一致していたわけではない。多くの軍部指導者をよく知っていたが、私は石原莞爾中将から譴責されたこともある。…東条内閣総辞職後、私は憲兵隊に動向を調べられた」と言い訳した。

岸は取り調べ検事に好感を持たれた。第一回目の尋問後、CICがまとめた尋問リポートは次のような成果を挙げている。
  • 今後の手がかり
    「東條の秘書官、赤松貞雄を訊問すれば東条の行為の詳細がより明確になる」
    「東條内閣時代の岸の秘書官を訊問すればもっと明るみに出ることがあるかもしれない」
  • 評価
    知能指数=ベリーグッド
    信頼性=グッド
    協力度=グッド
  • 取調官のノート
    「岸は『満州閥』関係者をまったくよく知っている。操作の糸口は得られなかったが、情報は得られた。岸は控え目だが、訊問への協力の態度はよい」
二度目の尋問後、サカナリ中尉は、「岸はイエスマンと言われるタイプの人物。しかし、自分独自の考え方もあり、多少のエゴも持っている。東条内閣で、自分の能力と商工業に関する専門知識を基盤に自分の地位を築いた、との自意識がある」との印象を報告書に記した。

もはや、容疑者に対する追及、といった様子はうかがえない。岸自身、自分への訴追を逃れるためには、自分から「東条に対して敵対的な行動をとった」と売り込んでもよかった。だが、岸は、「東条内閣の総辞職は、重臣からの圧力があり、新聞の意見も強かった。それは、貴族院、衆議院内でも圧倒的な考え方だった」

と述べ、東条内閣総辞職時の自分の役割には詳しく触れなった。岸は日米開戦の際、閣僚として対米宣戦の詔書に副署した。東条内閣の内部ではどう考えていたのか、と聞かれ、彼は、「成功するが、容易な戦争ではないというのが圧倒的な意見だった。当初は、これほどの大規模な戦争になるとは予想していなかった」

と答えた。開戦時の考え方はそれほど甘かった。

五月二十三日の最期の尋問でも、「満州閥」の面々のことや東条の権力基盤のことがテーマになった。岸の戦争犯罪を追及する質問は中心的な争点ではなかった。

一九四七年四月二十四日、参謀第二部(G2、情報)は岸の処分について次のような結論を出した。「公式の記録から見て、岸が国家主義的・拡張主義的思想団体と関与した証拠がないことは重要である」「東京裁判の戦犯容疑者起訴の段階で、満州における活動について岸を起訴するに十分な証拠を挙げ、さらに大政翼賛会の活動が起訴妥当と判定されない限り、G2は、岸に容疑なしとして巣鴨プリズンから釈放すべき、と勧告する」

G2は、岸の満州における活動と大政翼賛会での役割を、
  • 満州では計画経済に基づく陸軍の満州国開発に参画した。商工相、国務相(軍需次官)への出世は行政能力への評価を示す。
  • 大政翼賛会参与、顧問を務めたが、それは閣僚ポストで自動的に就任したもの。
---と判断した。

G2はこうした判断を盛り込んだ文書をGHQ法務部(LS)と国際検事局(IPS)に送った。「岸は極めて有能な官僚」という評価があらためて確認された。情報機関G2が岸の無実を勧告し、その行政能力を高く評価した事実は重要だ。

岸の拘留中、世界は東西冷戦時代へと大きく動き、岸にとって有利な情勢になっていた。アメリカは、岸のような行政手腕のある保守政治家の登場を必要とするようになったのである。

・政界に復帰 P212-216
一九四八年十二月二十四日、岸信介は児玉誉士夫、笹川良一らとともに、巣鴨プリズンから釈放された。

P213 岸を出迎える人はだれもいなかった。岸は釈放にあたって、引揚者が着ていた服とドタ靴をあてがわれた。MP(MP)に、「どこへ行くか」と聞かれて、「弟のところ」と答えると、自動車で永田町の、当時吉田茂内閣の官房長官だった実弟、佐藤栄作(後の首相)の公邸に送られた。

いがぐり頭に口ひげを生やし、みすぼらしい姿で、女中に、「弟はいるか」と言うと、不審がられ、しばらくたって護衛を連れてきて、ようやく岸であると分かってもらえたという。

岸はしばらく佐藤の家にいて、郷里に戻り、翌一九四九年三月、再び上京した。旧知の藤山愛一郎が、岸を日東化学監査役と東洋パルプ重役に迎えてくれた。岸は活動を再開した。一九五二年四月、日本の独立回復直前に、岸が公職追放処分を解除されることが内定した。

だが、理由が明らかにされることなく、突然解除が取り消された。一九五三年九月十八日付の米陸軍情報部のファイルがその理由を明記している。
講和条約発効前に追放解除となる予定だったが、吉田首相が岸の発言に怒り、岸と他の東条内閣の四閣僚の追放解除をキャンセルした
追放されていた多数の保守政治家が講和条約発効とともに、自動的に追放を解除される直前のことである。岸は追放解除をにらんで、重光葵らを顧問に「日本再建連盟」を旗揚げする考えを明らかにした。吉田はそのことに激怒したようだ。

吉田は岸という"出る釘"を打とうとしたのではないか。吉田が"Y項パージ"を行使した暗躍のひとこまだった。正式に追放解除された後、岸は正式に、藤山、永野護、三好英之ら戦前からの旧民主党岸系の連中とともに「日本再建連盟」を立ち上げた。

事実上の「岸新党」と言われた。

P215 この年の十月一日の総選挙で、再建連盟は十数名の候補者を立てたが、当選者はわずか一人で惨敗した。

翌年二月、岸は三ヵ月の予定で欧米視察に出発した。ところが、西ドイツ滞在中に吉田茂による「バカヤロー解散」となった。

佐藤栄作からの田豊を受け、帰国すると、佐藤らが自由党公認で岸を立候補させる手続きをとっていた。岸は郷里山口から立候補し、当選、晴れて政界に復帰した。

岸は、「保守党の指導者を結集させ、日本の政治を安定させること」を目標に掲げた。アメリカ政府は、岸の動きに注目し始めた。だが、当時の岸にはまだ、東京の大使館との間に直接のパイプはなかった。岸には戦前、隠された有力なコネがあった。

戦前の駐日米大使ジョセフ・グルーである。日米開戦後、大使館内に閉じこめられていたグルー大使を岸はゴルフに招いた。方々に働きかけて、グルー大使が外でゴルフができるよう手はずを整えたらしい。グルーは「多くの理由」があったため、招待を固辞した。

P216 一九四二年三月二十九日の日記にグルーは、「岸は常に私の極めて価値のある友人の一人。…将来いつかもっとし幸せな時に合いたい。…招待を受けられない理由をわかってくれると思う」と記した。終戦直後、国務次官を最後に退官したグルーは戦後も対日政策で影響力を維持した。

 →『軍隊なき占領』P182(参照)

・米大使館員に真意語る P216-217
・ロハス救命美談の裏側 P217-219
・大統領はスパイだった P219-221
・高まる岸への期待 P221-224
・米各界に岸を売り込む P224-227
・「チャンネル外」で岸と接触 P227-229
・「反米感情」を追い風に P229-232
(P232-)

・ダレス国務長官が「待った」P232-233
・ジラード事件 P233-236
P233 それにかわって、ある厄介な事件の処理がアメリカ政府首脳の頭を悩ませた。P234事件が起きたのは、群馬県の米陸軍相馬ヶ原演習場。一九五七年一月三十日、ウィリアム・ジラード三等特技兵(当時二一)が、空薬莢を拾いに来ていた近くの主婦坂井なか(当時四六)に発砲、死亡させた。

当時、空薬莢は、くず鉄と同様に売れた。事件があった日も、約二十五人の住民が演習中の部隊と一緒に移動しながら、空薬莢を拾っていた。

短い休憩中に、ジラードは中尉の命令で、もう一人の兵隊とともに、機関銃などを護衛していた。ジラードは悪ふざけをして、空薬莢拾いに来ていた日本人たちをからかい始め、空薬莢を放り投げて、

「ママさん、ダイジョウブ」「ママさん、タクサンネ」などと言って、壕の方へ拾いに来るように手招きしたかと思うと、突然、「出ていけ」と叫び、手投げ弾発射装置に空薬莢をつけて発砲。それが坂井なかの背中に命中し、死亡させた。

ちょうど三十八年後の一九九五年九月、沖縄で起きた米海兵隊による女児レイプ事件と同じように、反基地運動、反米運動が高まった。

P235 「意図的殺人だ。国会で調査せよ」そんな要求も社会党議員から出された。最大の問題は、裁判の管轄権だった。

日米行政協定によれば、裁判権は、ジラードの犯行が公務中なら米側に、公務外なら日本側に与えられる。

「この問題が日本の裁判所で裁かれるのは最も賢明でない」四月二十六日付で陸軍省は極東軍事司令官、ライマン・レムニザーあての秘密でそう指示していた。

だが、日米行政協定に基づく日米合同委員会で、第一次裁判権をめぐって、日本とアメリカは対立した。

「公務中だから、行政協定に基づき、第一次裁判権はアメリカ側にある」

と主張する米側に対して、日本側は「公務外」と譲らなかった。当時、法務省秘書課長として、合同委員会刑事裁判権分科会の委員長を務めた津田実は言う。

「公務中なら何をやってもいいのか、という日本の主張に米側は答えられなかった」

アメリカ側も、こんな悪質な行為を「公務中」と言い張ることはできなかった。分科会の協議は行き詰った。合同委員会で、日本側は、

P236 「日本が主張を変える可能性はない。街頭行動が異常に高まっており、第一次裁判権をアメリカ側に認めれば、国会答弁のしようがなくなる」

と通告した。苦慮した合同委員会は、数回秘密会合を開いて、対応策を検討した結果、五月十四日、アメリカ側が折れ、「アメリカ側は裁判権を行使しない」ことで決着した。

・軽い判決を密約 P236-239
五月十四日付で極東軍司令部がワシントンの陸軍省に送った秘密電報に、そのいきさつが詳述されている。筆者が国務省に対して、情報の自由公開法(FOIA)に基づき請求し、この文書を入手した。合同委員会は、次のような四項目の「秘密取り決め」で合意していたのである。

  • (1)この取り決めに関する情報が漏れるのを避けるため、双方はあらゆる可能な措置をとる。
  • (2)アメリカ側は日本に、裁判権を行使しないとの決定を通知する。
  • (3)日本は、日本の刑法二〇五条に基づき、傷害致死罪でジラードを起訴する。(これは日本の法律では、合理的な範囲内でジラードを起訴するのに適用できる最も軽い罪であることが分かった。従って、日本側は上記の罪名より重い罪でジラードを裁くことにはならない、と合意した)
  • (4)日本側は、日本の訴訟代理人のチャンネルを通じて、事件の状況に考慮して、日本の裁判所が判決を最大限可能な限り軽減するよう、勧告する。(カッコ内原文)
この秘密合意の筋書き通り、日米両政府は二日後、

「ジラード三等特技兵を日本の裁判で裁く。ジラードを日本側当局に引き渡す」

と発表した。 そして、通常国会の閉会直前の五月十八日、前橋地方検察庁はジラードを傷害致死で前橋地方裁判所に起訴した。

秘密合意の内容はまったく公表されなかった。早く言えば、

P238---日本に裁判権を与える、だが軽い罪になるので心配はいらない---

という秘密取り決めである。

この秘密合意は明らかに、行政による司法権の侵害だった。外交上の理由があったとはいえ、裁判所に対して、判決の軽減を求めるなどというのは、あってはならないことだ。

秘密合意の中の「訴訟代理人のチャンネル」とは何を意味するのか。ここでは、検察庁のことを指している、ともとれる。公正であるべき裁判の裏側で、外務省、検察庁、裁判所などが絡んだ裏取引があったのは間違いない。

検察庁が軽い求刑をし、裁判所にも軽い判決を言い渡すよう働きかける、というシナリオである。

この密約は、日米双方の世論に配慮して、あみ出された。日本側には裁判権を与えて面子を立て、アメリカ側には執行猶予つきの判決を出してジラードを早く帰国させる---というものだ。

現実に、裁判手続きはスピーディーに進められた。前橋地裁は十一月十九日、ジラードに懲役三年(求刑五年)・執行猶予四年の軽い判決を言い渡した。被告、被害者とも日本人同士の事件の場合、こうした事件で執行猶予がつくことはないだろう。

P239 結局、被告側、検察側双方とも控訴せず、判決は確定した。ジラードは自由の身となり、日本人妻ハルとともに、十二月六日帰国の途についた。

・米議会は猛反発 P239-241
「アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官らは、米国内の世論も考慮しながら大所高所に立った、公正な判断を下した」(『岸信介回顧録』)

というのは表向きの話である。

その間の舞台裏では、大変なドラマが展開され、癇癪を起こしたアイゼンハワー大統領が米軍の"総引き揚げ"を口にするほどの騒ぎに発展していた。アメリカが裁判権を放棄して、日本に裁判権を認めたことから、日本側の怒りは、一応おさえられた。

だが、米議会からは反対の声が噴出、ジョン・フォスター・ダレス国務長官やウィルバー・ブルッカー陸軍長官らに対する釈明要求が相次いだ。

ダレスは部下に命じて、事件の報告を求めた。ウォルター・ロバートソン国務次官補はダレスあてに三ページの秘密メモを提出、日米間で秘密合意ができている、と説明した。

P240(略、秘密合意の内容)

ダレスはこの時点で、秘密合意の内容を知った。しかし、事態はアメリカ国内で政治問題化し、ダレスは動揺していた。

ダレスは五月二十一日、在日米大使館に秘密電報を送り指示した。

「日本側に、司法手続きをさらに進めないよう求めよ。被告人の引き渡しまでは、合同委の合意は取り消し可能と米政府は考える」「国防総省は合意を無効としたいと考えている。議会の強い感情を考えて、外交チャンネルで検討されたし」

P241 一連の秘密文書から、議会の強い反発を受けて、米政府が慌てた様子がうかがえる。マッカーサー二世は翌二十二日、東南アジア訪問で留守中の岸の臨時首相・外相代理、石井光次郎国務相を訪ね、再考を促した。

だが、石井の回答は厳しかった。「日本人は合同委の決定を正当と感じている。・・・米国での報道は歪曲され、一方的ではないか。事実が知らされていないのではないか」

マッカーサー二世はそう反論されて引き下がり、二十四日、国務長官に打電した。「日本は米側に裁判権を与えることに同意しないと確信する。・・・日本側はまた、日本の裁判所が公正な裁判をしないとの米マスコミに怒っている。日本の裁判の歴史は素晴らしい。同種の犯罪で比べると、判決は全体的にみて、米軍法会議の判決より軽い。・・・ジラード事件は対日関係の国益からみても、自由アジア全体からみても極めて重大な意味を持つ」

・怒ったアイゼンハワー P241-245
ダレス国務長官は行き詰った。五月二十四日午前八時三十五分、ダレスはアイゼンハワー大統領と電話で話した。「アジアで米軍が置かれた状況は極めて恐るべき状態に陥っています。…国防総省P242の当初の合意通りこの男を日本側に引き渡さないと、日本を放棄してしまうことになります」

国務長官がそう言うと、大統領は、「それは事実だ。だが、日本を捨てないとしても、国民や議会の意見が問題だ。ヨーロッパにも悪影響を与える。これは、日本によって裁かれる事件ではない」と苦悩をにじませた。

「私には分かりませんが、国防総省が引き渡しを指示したのです」ダレスはそう述べ、日米間の合意について説明した。二人とも、「(裁判権の)放棄はミステークだった」との点で一致した。二人して愚痴を言っているようにも聞こえた。だが、大統領は最後に決然と言った。

「アジア諸国に米軍が本当に駐留すべきかどうか、見直さないといけないな。彼らがわれわれのことを嫌うのなら、駐留は継続できない」アイゼンハワーは感情を害し、在日米軍の引き揚げまで口にしてしまった。一時的な怒りとはいえ、重大なことだ。

その日の午前八時半、大統領と国務長官は再び電話で話した。P243大統領の癇癪はおさまっていなかった。「在外米軍兵力の削減について、直ちに抜本的な対策をとるべきだ、というのが大統領の強い考えだ。遅かれ早かれ、強い反米感情を持たれるのは避けられない、と大統領は語った」

ダレスは秘密メモにそう記した。翌二十五日、ダレスはロバートソン国務次官補とあらためて、ジラードの裁判権について法律的根拠を調べ直した。「だれにも、裁判を受け、弁護される権利がある。…裏取引をする権利などだれにもない。ジラードを殺人罪で起訴しないというのは、日本との裏取引だろう」

法律家のダレスはそんな建前論を展開した。そんな話をし始めた段階で、ダレスの論理は破綻していた。日米合同委では、日米の主張が衝突して、建前論で決着つかず、結局、日本側が秘密合意でジラードを特別扱いにする、と約束して妥協が成立していたのだった」

二十五日夕、ダレスがアイゼンハワー大統領に電話し、大統領用のメモを準備した、と話したところ、大統領は言った。「メモは必要ない。この男を向こう側に渡すべきだとの結論に達した。このことは終P244わりにしたい。議会の連中もこれが個々のケースのあてはまるとは考えないだろう…こんなことは二度と起きないだろう」

これを受けてダレスはロバートソンに、「大統領を説得した。事件は遡及させず、日本側に裁判権を与える」と通知した。アイゼンハワーはようやく、日本との密約以外に解決の方法はないと理解したのだった。

その後、ジラードはワシントン連邦地裁に人身保護請求訴訟を起こし、日本での裁判開始は多少遅れた。だが、連邦最高裁は七月十一日、日米合同委員会の決定は「米国憲法に違反しない」との判断を示し、結局日本側で裁判が行われ、十一月十九日、執行猶予付きの判決が出た、というわけだ。

この問題は、六月十九日ワシントンで、到着したばかりの岸信介首相とロバートソン国務次官補らとの会談でも取り上げられた。「(連邦最高裁の)最終判断を待たなければならないので、日本がジラードの裁判開始を何らかの通常の手続きを通じて延期してくれれば助かる」とロバートソン、続いてマッカーサー二世が依頼すると、「岸は、「状況はよく分かる。問題を円滑に解決するよう努力する」P245と答えた。

ジラード事件に限らず、岸政権時代の日本とアメリカの関係は、数々の秘密の合意で彩られている。

・ネール訪日の裏に米戦略 P245-247
・米、岸の東南アジア訪問を誘導 P247-249
・岸は「唯一の賭け」P250-253
・裸の付き合い P254-256
岸信介首相は訪米に当たって、「日米新時代」の到来を掲げた。岸は、一九五七年六月十九日午前、ワシントンに到着した。ホワイトハウスでアイゼンハワー大統領との第一回目の首脳会談を行う三十分前に、ホワイトハウス前の迎賓館、ブレアハウスで、ロバートソン国三次官補らとジラード事件の処理方針で細かい打ち合わせを行った。

ジラードがワシントン連邦地裁に人身保護請求訴訟を起こし、連邦最高裁の判決待ちの状態だったため、「日本の裁判開始を遅らせてほしい」と米側は要請、岸は問題解決への努力を約束した。ジラード事件の解決にアメリカ側はそれほど細かい神経を使っていた。

岸は午前十一時半から首脳会談に臨み、昼食後、一緒にゴルフコースに向かった。ワシントン郊外メリーランド州にある名門のバーニングツリー・カントリークラブで、岸はアマチュアのチャンピョンだったプレスコット・ブッシュ上院議員と、大統領は松本滝蔵衆議院議員と組んで回った。

ブッシュ上院議員は、後に大統領になるジョージ・ブッシュ(第四十一代・父)のP255父である。ワンラウンド終えて、ロッカー室に戻ると、「アイクが『ここは女人禁制なのでこのままシャワーを浴びよう』というので、二人とも真っ裸でシャワー室まで歩いて行った。正真正銘の裸の付き合いをした」と岸は回顧録に書いている。

プレー後、記者団に感想を尋ねられて、アイゼンハワーは「ゴルフだけは好きな人とでなければできないものだよ」と答えた。温かい歓迎ぶりだった。岸は二十一日までの三日間で、アメリカ政府側と実に九ラウンドものP256会談をこなした。

だが、アイゼンハワーとの首脳会談は二回だけ。ダレス国務長官らとの実務的な会談が六回、後の一回はロバートソン国務次官補との、ジラード事件処理に関する秘密の打ち合わせだった。アイゼンハワー大統領は、約三十年後のレーガン大統領と同様に、外交の細かい点に関する協議は国務長官に"お任せ"するという「ハンズオフ」のスタイルだった。

・「信頼できる首相」と安保改定へ P256-259
十九日午前十一時半からの第一回目の首脳会談で、儀礼的なあいさつのあと、岸は日本の政治姿勢を詳しく説明した。安保条約については、「一部の問題を再検討したい」沖縄の領土問題については、「日本人は最終的には返還されるものと理解している」などと控えめに述べた。

アイゼンハワーはこれに対して、安保、沖縄の問題には触れず、在日米軍について、「われわれは求められないところにはいたくない。だから、米軍の撤退開始を検討する用意がある」と述べた。これにより、在日米軍地上部隊の全面的な撤退を開始することになった。

安保、沖縄の問題は岸・ダレス会談で詳しいことが話し合われた。ダレスは慎重で、「現行の安保条約の改定を上院に提出すると、日米関係に有益でない議論が行われ、その結果も疑わしくなるので、望ましくない」と述べた。

結局、安保条約にかかわる問題について話し合うため、日米政府間の委員会を設置することになった。事実上、この委員会は安保改定を協議する場となった。岸は、日本国内の世論を背にして、核実験禁止や対中国貿易規制の撤廃を求め、持論を主張した。

だが、アメリカ側の壁は厚く、岸の主張を認めなかった。最後まで残ったのは、沖縄、小笠原の主権をめぐる表現だった。当初の共同声明案では「潜在的かつ究極的な主権」となっていたが、結局、「日本は潜在的主権を有する」との表現で落ち着いた。共同声明は、P258

①安保条約に関する諸問題を検討する政府間委員会を設置。現行安保条約は暫定的なものとの認識で一致
②在日米軍地上部隊の撤退
③沖縄・小笠原諸島の潜在主権を日本に認める

などの点を盛り込んだ。実は、ジラード事件が首脳会談に影を落としていた。アメリカ政府側は、議会を刺激する恐れがある「安保条約の改定」という文言を避けたのである。だが、事実上岸は、安保改定に向けた作業を開始するとの"実"を得た。

最終日、二十一日の首脳会談で、アイゼンハワー大統領が言った。「岸訪米と共同声明は日米関係の大きな変化を印した。米軍地上部隊は直ちに撤退されるし、安保条約を検討する新しい政府間委員会も設置する。これまでの安保条約は片務的だが、委員会で長い時間をかけて双務的にする」

ダレスも続けた。「幸いなことに、今は信頼できる首相がいる。彼は自由主義世界の原則に純粋に貢献P259している」そして、最後に、大統領に向かって、「われわれはこの紳士に大きな賭けをしている。しかし、それはわれわれの将来の関係の利益からみて正当な賭けだ」と言い切った。

岸はこの時、アメリカ首脳の信頼を一身に受け、感動したに違いない。だが、岸は回顧録でも、このような日米首脳の"信頼の契り"の感動的な場面のことを記していない。当時の日本で「親米」は、「アメリカべったり」と受け取られ、政治的に大きなマイナスになる恐れがあったのだ。

8.7 CIAと岸信介 P260-290
岸の勝利が米国益
CIAが選挙支援
秘密資金提供のシステム
自民党勝利で「前進」
ニューヨーク・タイムズが暴露
岸に現金
佐藤栄作が米に資金要請
マッカーサー二世の秘密電報
「後継大野」で誓約書
OCB、岸の政治力低下を心配
自民、予想を覆し勝利
改定草案決まる
核アレルギー
ホット・ポテト
事前協議方式で密談
新安保条約に調印
肯定も否定もしない
大平・ライシャワー会談 核艦船の寄港は「持ち込み」ではない
引き継がれなかった密約
ライシャワーが秘密暴露


8.8 安保改定・核密約の真相 P291-323
8.9 安保騒動の舞台裏 P324-368
8.10 沖縄選挙にCIA資金 P369-410
8.11 日本の政治家ファイル P411-450


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『秘密のファイル(上)』
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