2020年3月19日木曜日

偏愛メモ 『ロックフェラー家と日本』

第一章 王朝の形成 P1-24

第二章 第二世代と近代フィランソロピーの確立 P25-84

第三章 多彩な第三世代 P85-114

第四章 広がる日本とのかかわり P115-214

4.1 父子の分裂 P116-123
4.2 ジョン---第三世代のミスター・ジャパン P123-132
(P122-)

P123 ロックフェラー家の日本に対する関心は、すでに見てきたとおり、第二世代の東洋美術に対する興味から始まったが、それがエキゾシズムを超えた世界へと大きく広がり変化するには、第三世代まで待たねばならなかった。

ジョン三世が生まれたのは一九○六年、石油王シニアに対する世間の悪評や非難の嵐はまだ激しく吹き荒れていた。祖父が築いたスタンダード石油帝国は、ジョンが生まれた五年後には、独占禁止法違反の最高裁判決が下って、三四の別々の会社に分割されるにいたった。 

父ジュニアは、敬虔なバプティストである両親から教え込まれた倹約、勤勉、自己抑制などの価値観を自分の子供たちすべてに厳しく伝え、食前の神への祈りと聖書朗読、克明な小遣い帳の記録と報告、禁酒、禁煙など祖父の時代からの習慣を励行させた。

三代目当主となるジョンに対する父の期待は特に大きく、それだけジョンへのしつけもいっそう厳しかった。しかし、アメリカ社会も、ロックフェラー家も変化し始めていた。第三世代の中には、祖父の成功物語を背負って生きなければならないのを重荷に感じ、両親が押し付ける価値観に反逆するケースも出始める。その第一号ともいえるジョンのP124姉バブスについてはすでに触れたとおりである。

五人の男児たちもそれぞれ犯行らしき行動に走りかけることが見られたものの、四男ウィンスロップ以外はみなロックフェラー家の伝統的枠組みから大きく逸脱することはなかった。(略)

P125 ジョンはコネチカット州の全寮制の高校を出た後、プリンストン大学へ進み、経済学を専攻する。プリンストンではマルサスの『人口論』に出会い、それがジョンのライフワークの一つになる人口問題との取り組みにへながる。

プリンストンの二年生になった一九二六年の夏、ジュニアは家族でヨーロッパ旅行をしているが、ジョンもその旅行に加わった。この旅行中に、ジュニアはジョンとウィルソン国際主義の信奉者である腹心のレイモンド・フォスディック(のちのロックフェラー財団会長)だけをつれてジュネーヴの国際連盟本部を訪れている。

ロックフェラー財団(tw,tw,tw)が検討していた国際連盟図書館をつくるための二〇〇万ドルP126の寄付について最終打ち合わせをするためであった。アメリカ大統領ウィルソンの提唱で誕生した国際連盟へのアメリカ加盟は、議会の批准が得られず実現しなかったが、事務局の情報広報担当次長はアメリカ人のアーサー・スイーツアーは、ジョンに目をかけ、

翌年の夏に数名のアメリカ人学生をインターンとして受け入れる計画があることを教えてくれた。すでに父のインターナショナリズムへの傾倒を受け継ぎはじめていたジョンは、卒業前年の夏休みを国際連盟本部広報部見習生として過ごすことになる。

国際連盟には事務次長新渡戸稲造(相互参照)の発意で発足した「国際知的協力委員会(International Committee on Intellctual Corporation)」があった。これは一九二一年の国際連盟総会の決議で設立され、戦後のユネスコ(国際教育科学文化機関)につながる組織である(tw)。

日本は連盟脱退後もこの委員会には代表を送っており、アインシュタイン、キュリー夫人、ベルクソンなど世界的な知識人による定期的な対話の舞台となっていた。ジョンは、この委員会の下部組織である学芸委員会に出席することを認められ、また著名なヨーロッパの政治指導者たちにも会う機会を得た。

新渡戸はすでに、事務次長を辞し日本へ帰ってしまっていたので、ジョンがジュネーヴで新渡戸に会うことはなかった。二人が出会うのは二年後の一九ニ九年、京都で開かれた「太平洋問題調査会」の会議においてである。

さらに後年、新渡戸の薫陶を受けた日本人グループとの間に親密な関係をつくり、ジョンは日米関係に深くかかわることになる。ジュネーヴでの体験は、ジョンが国際関係に特別な関心を持つようになった原点である。国際連盟のへの関心を深めたジョンは、大学生による模擬国際連盟会議をヴァッサー女子大学P127で開催することに奔走する。

そしてその会議を通じて、ヴァッサーの学生であったブランシェット・フッカーと親しくなり、やがて結婚(一九三二年)することになる。

ジョンは、一九二九年にプリンストンを卒業すると、ロックフェラー家三代目当主となるための帝王教育をファミリー・オフィスに入って受けることになるが、その前にほぼ四ヵ月をかけてヨーロッパとアジアを回る世界旅行に出かける。

国際情勢とアメリカの対外問題に精通した二人の専門家、ジェームズ・マクドナルド(外交政策協会Forreign Policy Association会長)とエドワード・カーター(太平洋問題調査会アメリカン・カウンシル事務総長)にともなわれたこの世界旅行は、ジョンの世界舞台へのデビューとなる。

用意周到なジョンは、出発前にマクドナルドと一緒にワシントンに行き、訪問予定国の駐米大使らに会い、それぞれの国で会うべき人々について助言を求めている。最後の訪問国となる日本については、松平恒雄(旧会津藩主松平容保の四男)大使や、たまたまワシントン滞在中だった樺山愛輔らと面談し、日本で会うべき人々についての情報をあつめている。

樺山は、日清戦争当時の海軍提督として名をはせその後海軍大臣や文部大臣などを務めた樺山資紀の長男で、アメリカのウェズレヤン大学とアマースト大学で教育を受け、当時の日本の国際派ナンバーワンとして知られていた。

ジョンが日本大使館を訪問したときに樺山がワシントンに滞在していたのは、大正皇后の使者として松平大使の長女節子(後の勢津子)を秩父宮雍仁親王妃とするべく「両親および本人を説得して、必ず応諾させる」ためであった(秩父宮妃、一九九四年、一二八頁)。樺山が使者に選ばれたのは、娘正子(後の白洲次郎夫人)が節子と親友の間柄で、樺山自身も節子を幼い頃からよく知P128っていたからである。

ジョンの一行は、ヨーロッパ各地、ロシア、中国などを三ヵ月かけて歴訪した後、一〇月初旬に日本に到着した。ジョンの日本訪問には特別な任務があった。それは京都で開かれる「太平洋問題調査会(IPR)」の第三回太平洋会議のアメリカ代表団のひとりであるマクドナルドの秘書として働くことであった。

IPRは、太平洋圏に利害関係を持つ諸国に共通する政治、経済、外交、文化などについて各国が理解を深めるための調査研究活動を行い、定期的に意見交換をする会議を開催する民間機関である。一九二五年、ハワイのYMCA指導者などの発意で発足した国際組織で、国際NGOのはしりともいえる団体である。

IPRは、最初は日本、中国、アメリカ、カナダ、ニュージーランドなどで構成されていたが、一九ニ七年にイギリス、一九三三年にフランス、そして一九三六年にはソ連が加わった。加盟各国には独立した国内組織としてのナショナル・カウンシルがあり、それぞれが調査研究活動や外交政策提言などを行っていた。

ナショナル・カウンシルを統轄する国際本部とアメリカのナショナル・カウンシルは発足時はホノルルに置かれていたが、一九三四年にニューヨークに移された。それは国際本部もアメリカのナショナル・カウンシルも共にジュニアの個人寄付や、シニアが設立したスペルマン基金、そしてロックフェラー財団の助成に依存するところが大きかったためであったと考えられる。

後に触れるがロックフェラー財団は、IPRを助成していたことで「赤狩り」旋風に巻き込まれることになる。

P129 京都の都ホテルを主たる会場として、一九二九年一〇月二八日から一一月九日まで開かれたIPR第三回太平洋会議の中心的議題は、いわゆる「満州問題」であった。中国北東部において日本が特殊権益を拡大していることに対する国際社会の懸念が高まっていたためである。松岡洋右(当時の満鉄副総裁)と中国代表の徐淑希(燕京大教授)が激論を交わし、「会議が決裂するのではないかと心配」されるほどだったという(松本、一九九二、九三頁)。

この会議にマクドナルドの個人秘書として参加したジョンにとって最大の収穫は、国際連盟事務次長職を去って間もない新渡戸稲造を団長にした日本代表団の秘書のひとりであった松本重治(相互参照)と出会ったことである。

ジョンが二三歳、松本が三一歳の時であった。当時、松本は欧米留学からもどり、東京帝国大学法学部に新設された「米国憲法、歴史及び外交講座」(通称ヘボン講座)の担当教授高木八尺の助手をしていた。日本のIPRナショナル・カウンシルの調査部長でもあった高木の推薦で、松本は京都会議の事務局で働く機会を与えられた。

ヘボン講座がロックフェラー家のご用銀行チェース・ナショナルの会長でロックフェラー財団設立時の理事でもあったバートン・ヘップバーンの寄付によるものであったことについては、すでに触れた。ちなみに第三回太平洋会議アメリカ代表団の団長は、ロックフェラー財団設立に深く関わったジェローム・D・グリーンであった。

IPR京都会議で、会議資料を配布したり、小委員会の記録をまとめることなどの仕事はジョンには退屈であったようだ。しかし、この会議を通じてほぼ同世代の松本に親近感を覚え、会議の合間を見つけては胸襟を開いて語り合い、すぐにジョン、シゲとお互いにファーストネームで呼び合う間柄にP130なった。

この関係は二人の人生にそれぞれ大きな意味を持つことになる。二人が将来の進路についてはまだ決めていない何となく不安な気持ちを共有していたことも、二人を結びつける要因となったようだ。二人の関係は戦後さらに深化し、日米関係の再構築に大きな足跡を残すまでに発展することになるが、それについては順を追って詳しく述べる。

IPR京都会議を通じてジョンは、松本だけではなく、国際連盟本部では会うことがなかった新渡戸稲造はじめ、戦前、戦後の日米関係に重要な役割を果たすことになる前田多門、鶴見祐輔、蝋山政道、高木八尺らを知り、また樺山に再会することもできた。

会議の前後を利用し、ジョンは、たまたま日本旅行中だったあの肝っ玉おばさんルーシーの一行に合流し、日本各地を広く旅行して回った。第三世代のロックフェラーたちに人気の高かったルーシーが、東洋美術、特に日本美術を愛し、浮世絵や袈裟、能装束などのコレクターでもあったことについてはすでに触れたが、そのルーシーおばさんと一緒に日本の名刹や美術館、そして古美術商などを広く巡り歩いたことは、二三歳の若きロックフェラー家御曹司が日本文化に対して特別な関心を寄せる原点となる。

日本を去る前にジョンは、樺山の計らいで天皇の秋の園遊会に招待されて出席している。出席者が大勢で天皇とことばを交わす機会はなかったが、遠くから天皇の姿を眺めながら、樺山と娘の正子らと美しい御苑を散策することができた。それは日本の皇室とロックフェラー家との最初の接点であった。

ジョンが最初の日本旅行を通じて、日本の社会や文化に強い興味を持つようになったことは、横浜P131港からプレジデント・ピアース号に乗船して日本を離れる前日の日記の内容から明らかである。日本の印象について四点を挙げ、次のように記している。

第一は、着物姿の女性の美しさだ。なぜか分からないが、着物を着た日本女性の姿に強く惹かれる。第二は日本庭園の美しさだ。旅行中に日本の名園と言われるいくつもの庭園を見たが、そのいくつかは、驚嘆するほど完全な美そのものである。

第三は、どこへ行っても人々も街も清潔なことだ。そして第四は、日本人の礼儀正しさと親切さだ。我々一行は、行く先々で友好的なもてなしを受けた。それは、私がロックフェラー家の人間であることを知っている人々も、我々一行についてなにも知らない人々も変わりなかった(Harr and Johnson,1988)。
ジョンの日本諸体験中に、ニューヨーク株式市場での株価大暴落が発生し、その余波が世界中に広がる大恐慌となり、アメリカも長期経済不況時代へ突入することになる。このようなときに日本から戻ったジョンは、帰国翌日には、ファミリー・オフィスに出てジュニアの下での修業を始めることになる。

修業初日にジョンのデビュー記者会見が行われ多数の記者が集まる。質問の多くは父と共に現れたジョンに集中するが、息子を制してすべての質問に対応したのはジュニアで、気弱いジョンは傍らで父の顔を見ながらにこにこ微笑んでいるだけだった。

IPR京都会議は、松本にとっても人生の大きな転機となる。会議資料の準備や裏方としての働きP132ぶりを評価した岩永裕吉(内務省衛生局、満鉄などを経て、新聞連合、後の同盟通信を創業)に抜擢され、国際ジャーナリストの道を歩むことになるからである。

4.3 ジョンとシゲの戦後再会 P132-140
(P132-)

P136 ジョンが再開をもっとも臨んでいたのは、IPR京都会議で知り合った人々、特に松本重治、高木尺八、そして樺山愛輔らであった。あれから二〇年以上の歳月が流れていた。

その間、松本は一九三二年から同盟通信社の上海支局長として中国に滞在し、「西安事件」(一九三六年、中国東北軍総指揮官張学良が蒋介石を西安で監禁して、共産軍との内戦を停止し、抗日統一戦線の確立を迫った事件)をスクープするなど国際的なジャーナリストとして名声を馳せるようになっていた。

松本は、汪兆銘(王精威、汪精衛?)の南京国民党政府による対日和平工作にもかかわり、また、近衛文麿政権による日米開戦回避の最後の動P137きにも、高木と共に密接にかかわったが、いずれも徒労に終わった。

高木・松本の師弟コンビは、リベラル知識人として、日米開戦を阻止できなかった自分たちの無力を省み、「日米が干戈を交えるに至ったのは、要するに(日本人の)アメリカ研究と一般理解が足りなかったからだ」という認識を共有していた(国際文化会館編、二〇〇三)。

そのような共通認識から二人は、戦後いち早く日本におけるアメリカ研究の振興と一般国民のアメリカ理解を促進することを目指す「アメリカ学会」を一九四七年に立ち上げ、『原典アメリカ史』の編集・出版などの活動をはじめていた。

高木は、アメリカの外交問題評議会の機関誌であるフォーリン・アフェアーズ誌の求めに応じて「敗戦と日本の民主主義」"Defeat and Democracy in Japan"と題する論文を同誌に寄稿し、戦後日本に民主主義を定着させるのに必要な「日本人の道義的覚醒と宗教的信念の深化を強調すると共に、占領が長引くのは、米国にも日本にもよくない」と説き、アメリカ知識人社会から注目される存在になっていた(Foreign Affairs,vol.26,no.4.july1948)。

高木と松本が一緒にジョンと戦後に再会したのは、一九五一年二月初めであった。前日、東京には大雪が降った。二人は帝国ホテルにジョンを訪ね、銀座のレストランで昼食を共にすることになった。帝国ホテルのスイートルームに立て籠ってばかりいないで、時には東京の街中に出た方がジョンのためにはいいだろうという松本の配慮によるものだった。

三人は京都での出会い以来、それぞれが歩んできた道について語り合うが、回顧談にふけっているだけの時間的余裕はなく、ジョンは単刀直入にダレスから与えられた任務について説明し、講和条約後の日米関係、特に文化や教育面におけるP138日米関係の構築について語り、自分がまとめる提言に盛り込むべき具体的事業について意見を求めた。

高木も松本も、占領が長引くことや、朝鮮戦争発生後の占領政策が左翼運動を禁止するいわゆる「逆コース」に転じたことに対して知識人や学生が反発し、その結果、反米世論が台頭しつつあること、そして中国、ソヴィエトを含む全交戦国との講和条約を結ぶ全面講和か、米陣営とだけの単独講和かをめぐって国論が分かれていることなどへの懸念について率直に語った。

高木は、日本社会の真の民主化のためには国民の教育と精神的基盤の中に民主主義の価値観を確立してゆく努力が必要であること---それはフォーリンアフェアーズ誌へ寄稿した論文の核心でもあった---を静かな口調で説いた。

他方、松本は戦後六年経った今なお、日本人が出会うアメリカ人は軍人ばかりで、学者や知識んと接触する機会がないことを嘆き、次のような発言をしている。
米軍による日本占領は六年近くになるが、いまだに三っ星のお偉い軍人ばかり日本に来て、学者や文化人はひとりも来ていない。少なくとも日本の知識人の抱くアメリカのイメージをよりよくするためには、超一流の学者や文化人に日本に来てもらったらどうでしょう。

私のいう超一流の人というのは、学問、思想、人物の点で日本人がほんとうに尊敬できる人という意味です。政治宣伝の道具に使われないくらいの誇りを持つ人物に来てほしい。そういう人物交流事業が実現できれば、結果的にジョンの考えている目的の達成につながることになる(国際文化会館編、二〇〇三)。
P139 三人の二二年ぶりの再会は、予定の時間を超えて続き、それぞれが思いのたけを余すところなく率直に語り合った。ジョンを帝国ホテルに送るために乗り込んだタクシーの窓からは前夜に降り積もった雪を除去している米軍兵士たちの姿が見えた。

それを見たジョンは、何気なしに「剣を鋤に打ち直して」とつぶやいた。内村鑑三に師事した敬虔なクリスチャンである高木には、ジョンのつぶやきが聖書からの引用(「イザヤⅠ書」第二章四)であることが直ぐ分かり、ジョンの日米関係再構築への意欲と決意が本物であることを鋭く察知する。

ついでながら、占領かの東京の主要街路には、アヴェニューAとかBとかすべてアルファベット名がつけられていて、街角には占領軍兵士への警告「現地人との交際禁止(Do not Fraternize Indigenous People)」や日本人に対する「立ち入り禁止」などと書かれた看板がいたるところに見られ、また下肥を運ぶ荷馬車も行き交っていた。

当時の東京の衛生状態に不安を感じていたのか、ジョンは銀座のレストランでの高木・松本の再会ランチで、水は飲まず、デザートに出た好物のアイスクリームにも口をつけなかったという。これは晩年の松本が筆者に繰り返し語ってくれたジョンとの戦後再会の一こまである。

ジョンの日本滞在は、四週間におよび、この間さまざまな分野の日本人と精力的に面談しているが、その多くは樺山、高木、松本らが勧めた人たちであった。生来恥ずかしがり屋のジョンは、演説が苦手であったが、離日直前には日比谷公会堂で開かれたリンカーン生誕記念日の集会で講演している。

ジョンは、高木、松本、樺山らが勧めた人々にかぎらず多くの日本人と会ったが、その中には松本や高木の場合のように、二度以上面談した人々も多い。彼らはみな、ジョンがダレスに提出する提言書の起草に参考になると思われる意見や希望を熱心に語り、ジョンは彼らの声に同様な熱心さで耳を傾けた。(以上)