2019年9月6日金曜日

偏愛メモ 『近衛文麿- 野望と挫折-』(随時更新)

第二章 革命児たち P52-148

(P84-)

2.5 卓見の士 P84-87
P84 参謀本部第一部長(作戦部長)である石原莞爾少将は北支事変がはじまるや、ことはきわめてP85重大と、和平にむけて近衛首相に蒋介石との直接会談を提言します。これに対して風見(相互参照)は、
「石原少将は参謀本部の第一部長にして、同少将にして北支に於ける日支両軍の衝突事件が含蓄する意義の如何に重大なるかを知悉するとせば、近衛公が南京に飛んで蒋介石と直接交渉し、依って以て問題の解決をはかるべしと要求する前に、

支那駐屯軍の満州への後退の用意ある旨を政府に向かって明らかにすべきに拘わらず遂にこのことなきは、石原少将の地位に在ってすらその用意を実行に移すことの容易ならざる有様なるを物語るものといわざるを得じ、即ち軍部内の統一全からざる也。統制力は疑わしきを実証して余りありというべし」(昭和十二年七月十三日)
とまず意地悪く指摘しています。

しかし、考えてみれば、陸軍や支那のそのような状況を前提に大変な危機感をもって石原は行動にでたのです。実際、石原は梅津陸軍次官に反対されています。風見は屁理屈をつけて石原を非難し、あえて不作為を意図し、事態を悪化させるよう取りはかったもでした。(略、風見の日記)

P86 危機的な状況だから近衛は動かないよ、と風見は言っているのです。風見も風見ですが、近衛もこれにあわせて、この大切な七月十二日から十九日までのあいだの時期、例のごとく病臥して自宅に引きこもって動こうとしませんでした。

七月三十一日、石原は天皇に対して支那の軍事情勢についての御進講を行い、「軍としては保定の線に進むことが精一杯で、それ以上の戦線の拡大には自信がもてない。したがってそこまで行く前に、外交手段により兵を収めることを最善の策と信ずる」と言上げします。天皇もこれに同感の意を表されています。

昭和十二年九月、北支那事変勃発後二ヶ月強にして石原は参謀本部第一部長から関東軍参謀副長に移され、昭和十三年十二月には舞鶴要塞司令官へと追いやられました。どちらも第一次近衛内閣下のできごとです。わが国を救いえる卓見の士は中央で腕をふるうことを許されなかったのです。

共産主義者たちにしてみればこんなに有りがたいことはありません。風見は石原への誹謗に念をいれます。

(略)

2.6 尾崎の足音 P88-117(tw)

  P88 近衛のブレーン・トラストである昭和研究会や朝飯会について語るならば、尾崎秀実を欠くことはできません。昭和研究会朝飯会に参画し、さらには内閣嘱託として首相官邸に乗りこんだ尾崎を、われわれはしっかりととらえなければいけません。

尾崎秀実は、明治三十四年四月東京で生まれ台湾で育ちました。その後上京して第一高等学校をへて東京帝国大学法学部を卒業します。一高や東大法学部において牛場友彦、そしてこのあと述べます松本重治と同級でした。牛場とは特に高校時代の三年間交際がつづいていました。

高等文官試験に落ちてから。尾崎は東大大学院に進み、経済学部助教授大森義太郎の指導で共産主義へ傾倒します。本人も、「大正十四年から共産主義者であった」とゾルゲ事件(相参1相参2)で逮捕後の尋問で明言しています。大正十五年、東京朝日新聞社に入社、社会部に籍をおきます。

この頃「草野源吉」の偽名で社会主義の研究会や日本労働組合評議会関頭出版労働組合などに所属していました。その後、大阪朝日新聞社に転じて昭和二年十一月、上海支局に赴任しました。

上海において尾崎は、中国共産党の幹部や郭沫若グループ、中国共産党政治顧問団の面々、そP89して東亜同文書院左翼学生グループなどとのつきあいを始めます。日本人共産主義者の水野成や中西功などの指導も行いました。共産主義運動家への資金支援も行います。

アメリカ人女性ジャーナリストで中国共産党と通じアメリカの反日世論を湧き立たせていたアグネス・スメドレーとは特に濃密な関係でした。スメドレーからは国民党の暴露情報などを得ています。尾崎はスメドレーの仲介でドイツから来たソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲと会い、スメドレー同様に上海ゾルゲグループの一員となりました。尾崎が国際的な共産主義活動に入ったのです。

昭和七年一月に帰国するまで、ゾルゲの要請に応じて、支那各地や満州国で日本軍の動向を含めた広範な諜報活動や調査を行いました。尾崎帰国後の諜報活動の後継者は、新聞聯合社の記者山上正義です。新聞聯合社の上海支局長には一高・東大法学部でやはり尾崎と同級の松本重治が就任します。

この時期、昭和三年六月に張作霖爆殺事件があり、八月にはコミンテルン第六回大会でソ連防衛と中国革命を念頭に、「帝国主義戦争を内乱(敗戦革命)へ」のテーゼが採択されています。昭和六年九月に満州事変、そして昭和七年四月には中国共産党がソビエト政府名で対日宣戦布告します。昭和七年二月、尾崎は上海事変を機に帰国命令をうけて日本に戻りました。

(略)

2.7 松本の闇 P117-134

P117 松本重治(相互参照相互残照)は謎がつきない人物です。北支那事変を語るとき、近衛の最期を語るとき、松本重治をはずすことはできません。かなりの鍵を握っていた人物です。松本は尾崎秀実の盟友でもあります。

松本重治は、明治三十二年大阪市に父枩蔵、母光子の子として生まれています。父はアメリカ遊学後、実子のない松本重太郎のあとを継いで九州電気軌道会社の重役(のち社長)となりました。しかし巨額の金品を不正に得たことが発覚します。生活の大半は九州ですごしたといいます。

母光子は松方正義(「持丸長者-幕末・維新篇-相互参照系図、「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇スライド、「七人の日本人、ユダヤ人との攻防」323334)の四女です。

したがって、松本は、西園寺公一、木戸幸一、原田熊雄などと縁続きということになるようです。松本は特に西園寺公一とは子供のころからのつきあいがあります。松本は牛場友彦とも親類関係にあります。

松本の妻の花子は、松方正義の三男の娘です。松本はキリスト教徒です。しかも内大臣牧野伸顕や貞明皇太后と同じクエーカー教徒です。彼は中学校時代までを母とともに神戸ですごしました。神戸一中を卒業、一中では白洲次郎参照)が後輩にあたります。

P118 第一高等学校に入学し、ボート部仲間に親類の牛場友彦、同じ寮に尾崎秀実がいました。高校卒業後、松本は、牛場、尾崎と供に東京帝京大学法学部に進みます。彼はその後大学院に進み、そこで蝋山政道と知り合いになりました。大正十三年にエール大学に留学、ニューヨークの日本総領事宅で元一高校長の新渡戸稲造(相互参照)の側近であった鶴見祐輔と出会います。鶴見祐輔は太平洋問題調査会(IPR)の日本側の中心人物です。

松本は鶴見の縁で歴史家のチャールズ・ビアードと対面し、ビアードの「日米間の中心問題は中国だ」との主張に感銘したといいます。ビアードはすでにこのとき日本ともなじみが深い存在で、東京市政に関する顧問になっていました。ちなみにビアードは、戦後はルーズベルトの戦争責任を追及する立場をとり、激しいバッシングを受け学会での地位を失います。

一方、松本はロックフェラー邸にも訪問しています。しかし、この訪問の詳しい様子はわかっていません。彼はこのあと二年かけてヨーロッパ各国を遊学しました。昭和二年に帰国。どういうわけか、鶴見祐輔、アメリカ研究の泰斗で東大法学部教授の高木八尺、そして国際労働機関日本政府代表でのちに朝日新聞論説委員となる前田多門ら錚々たる顔ぶれが松本の後見人役となっていました。全員が太平洋問題調査会の支部である日本IPRの幹部です。

松本はとりあえず、生涯の師と仰ぐ高木教授が受け持つチェース銀行副頭取ヘボンの寄付講座の助手になりました。彼は助手をしながら、ジャーナリストを志望して日米関係や支那問題に関心をはらうのです。

P119 昭和四年十月、京都の都ホテルで開かれた第三回太平洋問題調査会の京都会議は高木教授が幹事役でした。松本は書記として参加します。会議では、満州をめぐり、支那の固有領土であると主張する中国代表団と、松岡洋右らを中心とする日本代表団との間で何度も激しい応酬があろました。

 →『ロックフェラー家と日本』P129-(参照)

一方、松本は、この京都会議をつうじてジョン・D・ロックフェラー三世やイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーと親しくなりました。この二人と松本の交流は生涯続きます。

どういうわけか白洲次郎もいて、英国代表の友人たちに対応していました。松本は、この都ホテルで、会議とは別に、白洲と衆議院議員樺山愛輔の娘正子とを偶然を装って引き合わせる仲人役を演じました。二人はほどなく結婚します。

昭和五年、松本は、蝋山政道、牛場友彦らとともに、左翼的立場の「東京政治経済研究所」を虎ノ門に設立しました。松本と蝋山とは満州問題において支那の主張を重視することで意気投合しています。

「東京政治経済研究所」は満州問題に取りくみ、「独立国家として満州国は認めず、北支那に満州の宋主権を与え、満州を高度の自治国家にする」という国益を損なう提案を国際連盟に提出したと言われています。また、国内啓発のために政治経済年鑑を刊行していきます。

昭和六年、第四回太平洋問題調査会上海・杭州会議に松本はついに代表団のひとりとして参加しました。上海・杭州会議は、満州事変勃発直後の日本と支那とが緊迫した雰囲気のなかで行われた会議です。

P120 会議日程の最期で松本は"理想主義的"な観点から会議を自己批判して米英代表たちから高い評価をうけたといいます。松本は「東京政治経済研究所」の活動でもわかるように、一貫して満州国建国や石原莞爾の事跡を否定します。また松本は、この会議で反日感情旺盛な中国代表たちとの人脈を築くことに成功しています。

さらに松本は、イギリス代表から、「ロイター通信極東支配人のクリストファー・チャンセラーを『生涯の友人とせよ』と紹介され、実際、チャンセラーと生涯の友としてのつきあいを始めました。チャンセラーは後にロイターの社長になる人物です。

昭和七年末、松本は、太平洋会議で懇意になった岩永裕吉に誘われて、岩永が専務理事となっている新聞聯合社に入社します。新聞聯合社は当時、電通とならぶ日本の国際通信会社となっていました。松本は、すぐにロイター上海オフィスに間借りしている上海支局の支局長となって赴任しました。同時に日本政府や軍の対外広報機関プレス・ユニオンの専務理事も兼務しました。

松本にとって激動の「上海時代」六年間が始まります。松本は上海において、チャンセラーの紹介により超大物イギリス人、ジャーディン・マセソン商会のケズウィック兄弟(相参1相参2)と親しくなります。

ジャーディン・マセソン商会とは、インドのカルカッタを起点に、香港、厦門、上海、横浜にまたがっての極東貿易、特に清へのアヘンの密輸とイギリスへの茶の輸出に長年覇をとなえたP121会社です。ケズウィック一家が支配していました。ケズウィック兄弟の祖父ウィリアムは幕末に横浜居留置に支店「英一番館」を開いた人物です。

伊藤博文・井上馨らいわゆる「長州ファイブ」のイギリス留学を世話したり、配下のトーマス・グラバーが坂本龍馬を通じて薩長に武器を供給したりと、明治維新の立役者でした。松本はケズウィックがつくった英国紳士がつどう「上海クラブ」にチャンセラーの根回しもあって加入を許されました。

松本は、戦後はジャーディン・マセソン商会の顧問弁護士に就任します。松本は上海で、代々の英国大使や、南京大虐殺を喧伝した「マンチェスター・ガーディアン」紙のティムバーレーなどとも親しくなりました。イギリス人仲間が多くなり、彼らとは日本軍が万里の長城を越えて北支へ進出するだろうことを早くから予想しています。  

松本が樺山正子との結婚を斡旋した白洲次郎は、実はこのケズウィック兄弟の三男ジョンととりわけ親しい間柄でした。近衛を語るとき、白洲も欠かすことのできない人物です。ここで頁を割いて白洲について見てみます。

白洲の祖父退蔵は、横浜正金銀行の創設にかかわり頭取になっています。やはりクリスチャンです。このとき退蔵はケズウィック家と親しい香港上海銀行の協力を得た関係で、ケズウィック家とのつきあいが始まっています。退蔵は神戸周辺の不動産投資で莫大な財を成しました。

退蔵の長男、すなわち白洲の父文平もクリスチャンでありハーバード大学そしてボン大学に留P122学しています。ドイツ留学仲間に近衛篤麿、新渡戸稲造がいました。また文平は留学中にのちに次郎の義父となる樺山愛輔とも会っています。

樺山愛輔は海軍大将樺山資紀の長男で、アマースト大学に留学後、ロイターと提携して国際通信社を設立するなど実業家として活躍し、貴族院議員でもありました。文平は帰国後ジャーディン・マセソン商会の支援で投資会社白洲商店を興します。

白洲次郎は、神戸生まれで、牛場友彦とは幼馴染、「トモ」「ジロー」と呼び合う仲でした。大正八年に神戸一中を卒業し、高校や大学を出ずにケンブリッジ大学の聴講生として留学します。九年以上のイギリス生活のあいだに自動車に耽溺し、ついにはジブラルタル海峡までヨーロッパ大陸旅行をした話はよく知られています。

昭和三年、白洲は父の経営する白洲商店が昭和恐慌のあおりを受け倒産したため留学を取りやめて日本に帰国しました。昭和四年、英字新聞「ジャパン・アドバイザー」に就職し記者となり、忘れていた日本語の勉強をしたようです。この年、白洲は第三回太平洋問題調査会京都会議に出ました。さきにふれましたように、太平洋会議が催された都ホテルで、松本によって樺山愛輔の娘正子と偶然を装って引き合わされ結婚することになります。

なお、正子の相手は驚いたことに西園寺公一でした。御殿場の別荘で二人はよく一緒に遊びました。と言っても二人は小学生のときの話です。しかし、後年も次郎には内密に関係がつづいていたとも言われています。 P123 白洲は英字新聞「ジャパン・アドバイザー」在籍の後、破格の待遇でセール・フレイザー商会に勤務した上で、昭和十二年に日本食糧工業(のちの日本水産)の取締役となりました。セール・フレーザー商会のオーナーのセール一族はドイツからロンドンへ拠点を移した国際金融一族です。

当主のチャールズ・セールはロンドンのジャパン・ソサエティの副会長になっていました。会長は吉田茂駐英大使です。セール・フレイザー商会のバックにはジャーディン・マセソン商会がいると言われていました。そしてジャーディン・マセソン商会の背後にはロスチャイルドがいると言われていました。

昭和十二年から十四年ころ、白洲は日産グループ入りした日本水産に取締役として籍を置いていました。しかし彼は社業以外の海外での活動が多かったようです。ロンドンでは吉田茂が大使でいる日本大使館を自らの定宿としていました。吉田がこのようなこ有数の富豪となりましたとを認めていたとは驚くべきことです。

ここで吉田茂について触れておきます。吉田の養父謙三は鍵です。謙三は、幕末イギリス軍艦で密航し、二年間イギリスで西洋の新知識を習得しました。明治元年に帰国。ウィリアム・ケズウィックが率いるジャーディン・マセソン商会横浜支店(「英一番館」)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦、武器そして生糸の売買で目覚ましい業績をあげました。退社後は実業家として独立し、東京日日新聞の経営に参画したり、醤油醸造や伝統事業などで活躍して横浜有数の富豪となりました。

謙三は自由民権運動と国会開設運動の牙城であった東京日日新聞への経営参画をつうじ、板垣P124退助、後藤象二郎、竹内綱ら自由党の有力メンバーと関係を深め、同党を経済的に支援しました。とくに竹内とは昵懇になり、竹内が保安条例によって東京を追放されたときには、横浜の吉田邸を住まいに供します。

謙三は、明治十四年に竹内の五男「茂」を養嗣子としました。これが吉田茂です。しかし謙三は四十歳の若さで死んでしまいます。十一歳の茂は莫大な遺産を相続したのです。このように吉田も松本や白洲と同様にケズウィック家と深い関係だったのです。ケズウィックを中心に吉田、松本、白洲という人脈の輪ができていたと考えられます(tw)。

だから、白洲はイギリスで吉田茂がいる日本大使館を自分の定宿とすることができたのでしょう。白洲はのちに首相となる吉田と近しかっただけでなく、幼馴染であった牛場の紹介で近衛の政策ブレーンの一員となることにも成功しています。さらに白洲は朝飯会等を通じて、後藤隆之助、西園寺公一、尾崎秀実などとも気心しれた仲となりました。白洲は木戸幸一ともゴルフでのつきあいが長かったようです。

白洲ととりわけ親しかったケズウィック兄弟の三男ジョン・ケズウィックは、ロンドンに拠点を置くハンブローズ銀行の会長でもありました。くわえて、イギリスが支那に送りこんでいた情報局極東局のトップにして大物工作員であったと言われています。対支政策については自らの利権に絡んでのことではありますが、英国政府と日本政府と述べたあいだに生まれた入って調整を行っています。

P125 話を松本重治に戻します。昭和十年に松本は支那の幣制改革のためイギリスから上海に来ていたリース・ロスとケズウィックの紹介で面談し、密かな情報交換を行っています。ケズウィックはリース・ロスに「日本側の意向を知りたければ松本に会うべき」と言っていたのです。松本は、リース・ロス側の立場に立って、日本陸軍武官などとの会見の便宜をはかっています。

松本は日本大使館には毎日顔を出して大使や情報部長ともきわめて親しくなっていました。大使館と外務省本省との間でやりとりされている極秘情報も見せてもらう関係です。松本は日支政府間交渉や現地陸軍の北支自治工作についてのかなりの機微情報まで把握させてもらっていたのです。

昭和十一年一月、新聞聯合社と日本放送協会とで世界に伍するナショナル・ニュース・エイジェンシーとしての同盟通信社が設立され、半年後には日本電報通信社(電通)を吸収合併しました。

 →『阿片王 満州の夜と霧』P141-(参照)
 →『阿片王 満州の夜と霧』P156-(参照)
 →『日本近現代史入門』P280-(参照)

松本はこの年十二月十二日に起こった西安事件を独占スクープして世界に発信します。抗日統一戦線の結成を要求する張学良が蒋介石を監禁した前代未聞の事件です。

 →『ロックフェラー家と日本』P132-(参照)

松本のスクープは、支那の要人・ジャーナリスト・学者らとの常日頃の深い交流の賜物です。これにより松本の名声は一気に世界で高まりました。しかし、不思議なことに、松本はこの事件がおきる五日前には「蒋介石は中国共産党の提言を受け入れ抗日統一戦線の結成を応諾するだろう」との観測電報を本社に送っていたのです。

松本は、毛沢東を世界に喧伝したエドガー・スノーとは西安事件の性格と中国共産党の将来性P126について意気投合していました。周知のとおり日支関係はこの西安事件によって大きく変わっていきます。同じ内容を予測記事として尾崎が発表して大反響を呼んだことは前に触れました。

昭和十二年八月、第二次上海事変が起きた後、松本は岩永社長から命じられて一時帰国し、九月十日ごろ近衛首相に永田町の邸宅で支那事情を説明する機会を与えられました。以後、松本は近衛と三、四十回も会い、近衛に、「自分が心を許せる人間のひとりは松本だ」と言わしめるほどの信頼を勝ち得ます。

何がふたりをこれほどまでに急速に結びつけたのでしょうか。おそらく松本の内外にわたる華麗な人脈のなせるわざなのでしょう。松本は八年後に、近衛の死に隣室で臨みます。昭和十二年十月、貴族院議員で親英米派の長老樺山愛輔が皇軍慰問団として上海入りし、かつて娘を白洲と引き合わせてくれた仲人役の松本をたずねました。

松本は樺山を例の英国紳士ご用達の上海クラブに連れて行きます。そこでケズウィックがじきじきに樺山を歓待し、正式な上海クラブのゲストとして優遇することにしたのです。樺山はことのほか感激したそうです。


支那事変中の日中間の和平工作は複数のルートが錯綜して登場します(年表via上海エイレーネー)。それぞれの和平工作に浮き沈みがあり、複雑でわかりにくいものになっています。このような複雑な和平工作の全体像については本書では紙幅の都合があり扱いません。しかし、なんといっても支那を知りつくす松本の動きは気になるところです。

そこで本書では、もっとも本格的な和平工作であったと言われる宇垣・孔工作だけを採りあげます。宇垣一成外相リーダーシップの下で、正規の外交官が支那側の行政院長の秘書と接触したもP127のです。

宇垣は昭和十三年五月に外相に就任しました。支那情勢がいっこうに好転しないため、近衛首相は自らが出した「対手とせず」声明の失敗を認めざるをえず、事態打開をめざす一環として内閣改造を打ちだしました。近衛の事態打開をめざすという発言を真にうけた宇垣は、日支和平になみなみならぬ熱意を持って外相に就任したのです。

宇垣は近衛に、「国民政府(蒋介石政権)を対手とせず云々に深く拘泥せず」という入閣条件を提示して、その了解をえて入閣したのです。すくなくとも宇垣はそのように理解していました。

なお、近衛は六月には陸相の更迭もすすめ、杉山元を板垣征四郎に替えます。かつて宇垣の組閣を妨害した陸軍が宇垣の入閣を認めたうえ、前例のない首相の意向による陸相の更迭を許したほど、「扇の要」にいつづける近衛の実力はおおきくなっていたのです。

ただし、板垣は和平に前向きな姿勢をしめしていたものの、政治経験に乏しく支那にとっても満州事変の推進者のイメージが強烈であり、事態打開の切り札とならないことははじめから目に見えていました。陸相更迭も近衛のポーズでしょう。


ここで、茅野長知翁という人物が登場します。茅野(「萱野」とも表記)は、犬養毅、頭山満、宮崎滔天とともに孫文の革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々ともきわめて親しい間柄でした。日支関係上貴重な人物です。

茅野は支那事変勃発後まもない、昭和十二年十月、支那派遣軍司令官松井石根大将の要請により、上海に事務所を設置して和平工作をはじめていたのです。

一方、これとときを合わせて、松本らは昭和十三年一月ごろから別の工作を始め、二月に国民政府外交部亜州司日本科長の董道寧を説得して訪日させました。董を参謀本部の多田次長や影佐禎昭第八課長(謀略課)と会わせ、陸軍参謀本部の和平の意向を確認させます。

三月、茅野の見こみはどおり国民政府側から茅野側に打診があり、上海のカセイホテルでの会見となりました。国民政府側は孔祥熙行政院長の恩人の息子で孔の意を体して日本との和平に奔走していた人物です。このとき茅野側が出した和平条件は、満州国の独立承認と内蒙における日本の立場の承認でした。

国民政府側の条件は、日本軍の全面撤退でありました。この日本軍の撤兵については、日本側が原則的に承認するならば、実際の撤退の時期・方法等の具体的な処置については、日本側の希望もいれて協議する用意があるというものでした。

日本の現地軍や特務機関もこの交渉に賛成しました。そこで茅野は日本政府や軍部と協議するために、上海を出発し六月九日東京に着き、板垣陸相、近衛首相そして宇垣外相と会談したのです。孔行政院長ルートの和平工作の進展にきざしありです。

茅野は六月十七日、上海へ戻りました。茅野はちょうど上海にいた松本重治にこの孔行政院長ルートの和平工作の経緯を話しました。松本が近衛と親しい間柄であると聞いていたことから、情報交換も兼ねてでした。一方の松本は自らの工作の動きは茅野には話しません。

茅野はのちに松本と会談したことを後悔します。茅野の動きは日支の和平工作への流れの上でP129欠かすことの出来ない重要なものであったにも拘らず、松本は茅野との会談についてその詳細を極める回顧録の中で触れていません。とても不自然です

このあと茅野は香港に行き、中村豊一総領事の出迎えを受け、東京ホテルで国民政府との交渉に入りました。

六月二十二日、孔の使者が漢口から香港に出てきて中村総領事との間に折衝がはじまりました。蒋介石の下野については支那側は受け入れられないものでしたが、宇垣や茅野をはじめとする日本側は基本的に「国民政府を『対手とする』」ことを前提としていたので、日支和平への可能性は開けていました。参謀本部の意向にもそったものです。

中村は茅野の交渉をバックアップします。

七月五日、さきに参謀本部を訪問した董の上司、国民政府外交部亜州司長の高宗武を松本が連日の説得によって秘かに訪日させることに成功しました。高は、日本の横浜声明に呼応して汪兆銘を日支和平のために国民政府から離れた第三勢力として立ちあがらせるという構想を持っていたのです。

この汪兆銘構想は、基本的に「国民政府を対手とする」宇垣・孔工作と違って、蒋政権を否認した近衛にとって政策思想を大きく変更しないですむものでした。高は、板垣陸相、米内海相、多田参謀次長、犬養健、西園寺公一、岩永裕吉と会談します。近衛グループとの接触がはじまったのです。不思議なことに高は宇垣外相とは会いませんでした。

この時点から、中村・茅野による孔工作は停滞・中断し、松本らの近衛グループの工作が前面にP130出ることになりました。近衛の意をうけた松本が茅野を裏切りる形で秘かに東京で画策した成果です。松本は近衛から「自分が心を許せる人間のひとりは松本だ」と賞賛して語られるほどの信頼を得ていました。

八月二十七日に病気になった高にかわった梅思平と松本との会談がはじまりまり、工作が本格化していきます。

松本は、「日本軍が漢口、長沙を取り西安もやるそうだから、十二回重慶の空爆を試み、恐怖のドン底に陥れた後なら相当の見込みがあるだろう。自分は近く日本に帰り、このラインに添った運動を試みるつもりである」と工作に協力していた朝日新聞の神尾茂に語っています。

しかし、九月になって松本は腸チフスにかかってしまいます。十二月初めまでの入院で、工作は一時中断します。

一方、和平実現にむけて情熱あふれる茅野の孔工作は再開されていました。九月二十日、ついに孔と宇垣外相との会談の打診が支那側からもたらされます。宇垣は会談の件を五相会議にはかって一同の賛成をえたうえで、天皇に上奏し承認を賜ったのでした。

日支和平へのドアが茅野ルートを通じてここに開いたのです。宇垣は、孔行政院長との交渉を軸として日支和平をしっかりと推進しようとしました。ところが何ということか、九月二十九日、宇垣は突如辞表を出します。外務省の対支外交を権限縮小に導く性急な内閣直属の興亜院設置問題で躓かされたのです。

宇垣は九月三十日に正式に辞任しわずか四ヵ月間の短命外相に終わりました。

P131 このとき「宇垣の首相を狙う野心」なるものが各所に喧伝され形勢は宇垣に不利に動いたと言われています。世上の評判をうまく使うやり方は公家流です。宇垣は近衛にこわれて外相に就任したのですが、近衛に約束を反故にされたうえに梯子をはずされ裏切られたと述べています。

「蒋介石政権対手とせず」のいわゆる第一次近衛声明後に試みられた最も本格的な日支全面和平工作、宇垣・孔工作はこのようにして突如幕を閉じたのです(相参1,相参2)。

松本の工作の動きは、尾崎、犬養、西園寺、影佐らに支援され、汪兆銘引きだし工作として展開していきます。松本、尾崎、犬養、西園寺らは近衛を中心とする気心しれた仲間であり、太平洋問題調査会のメンバーもしくは共産主義者たちです。

汪兆銘工作たけなわの頃、松本と西園寺が上海と香港間の船中で一緒のところが目撃されています。松本重治と西園寺公一は「キンちゃん、シゲちゃん」と親しく呼びあっていたとのことです。十月二十七日漢口は陥落し、国民政府は重慶に移りました。蒋介石の国民政府は「七段構えの長期戦態勢」に入りました。

十一月三日の近衛による東亜新秩序宣言(第二次近衛声明)は、国民政府といえども、「従来の政策と人的構成とをあらため、まったく生まれ変わりたる一政権として、支那再建に来たり投ずるにおいては、日本はもとよりこれを拒むのでない」とし、暗に新政権工作の具体化をほのめかしたものとなりました。

また、「新秩序」という言葉が声明されたことが特徴です。汪兆銘引きだし工作は進展し、十二月十八日、汪はついに重慶を脱出、二十日にハノイに着きました。汪の脱出に前後して梅思平ら汪グループの主要メンバーもそれぞれ重慶から脱出しました。

しかし汪の期待に反して、昆明・四川・広東・広西などの軍実力者たちは汪に同調することがなかったのです。十二月二十二日、汪の脱出にこたえる形で発表されたのが善隣友好、共同防共、経済提携の近衛三原則声明(近衛第三次声明)です。

声明の要点は、
「政府は本年度再度の声明に於いて明らかにしたる如く、終始一貫、国民政府の徹底武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携えて、東亜新秩序の建設に向かって邁進せんとするものである」「日満支三国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである」

「日本が敢えて大軍を動かせる真意に徴するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざることは明らかである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである」
となっていました。この声明は汪にとって打撃となりました。汪と日本側の事前密約の柱であった支那にとって一番大切な「日本軍の撤兵」にまったく触れていなかったのです。

それでも汪はコメントを発表し、内外に広く「和平反共救国」を訴えました。蔣政権はただちに汪を国民党から永久除名し逮捕命令を発しました。工作の中心であった近衛も昭和十四年正月にいち早く首相を辞任してしまいました。

支那問題をこじらせるだけこじらせてもはや引き返せないようにしてから逃げたのです。真の和平運動をP133つぶすことを企図した近衛、そして松本、尾崎、犬養、西園寺らの勝利です。

近衛によって声明された「新秩序」(New Order)という言葉は、英米をいたく刺激します。New World Orderという言葉が第一次世界大戦後のころから英米の政治家によって多用されるようになっていました。公式で確認されているなかでも、国際連盟の設立とベルサイユ体制の構築などによる新しい世界秩序をさしてアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が「新世界秩序」という言葉を使っています。

New World Orderは国際金融資本のきたるべき世界戦略思想をあらわしていたといわれています。東亜新秩序はあきらかにNew World Orderの対抗軸であると見做されたことでしょう。

ところで、高は汪の重慶脱出をせかし、さらに汪のハノイ脱出後は汪グループの一員として行動するなど工作に深いかかわりをもっていました。やがて、まことに奇妙ななりゆきですが、汪兆銘政権の「傀儡性」に懸念をつよめた高は、昭和十五年三月の汪兆銘南京政府樹立の直前に突然逃亡したのです。

そして逃亡の際、汪兆銘政権構想にかかわる日本側の内約原案である「華日新関係調整要綱」を国民党系新聞「大公報」で暴露し、汪側におおきなショックを与えました。高は汪との決別後、蒋介石政権の駐米大使胡適を頼ってアメリカに渡りました。

「株式投資に成功」して、晩年は悠々自適であったと伝えられています。松本は戦後、高をワシントンに何度もたずねて旧交を温めます。

P134 昭和十三年八月、松本は、さきに述べましたように上海の日本軍の特務部が開いた日本の傀儡政権強化についての会議に出席し発言しています。明らかに妙な動きです。昭和十三年暮、松本は六年間の上海時代を終えて東京に戻り、翌年編集局長に就任しました。その後、彼はアメリカ向けの謀略放送に携わったといいます。

戦後の松本についても触れておきます。彼は、昭和二十年に同盟通信社を退職し、近衛の憲法改正作業(『日本近現代史』参照)の動きを助けました。同年、言論活動として「民報」社を設立し社長兼主筆となりました。このころ、ジョン・ケズウィックが終戦連絡中央事務局次長徒なっていた白洲を通して松本を資金援助します。

また松本は白洲から吉田茂外相を紹介され、以後彼は吉田を助けていくことになります。しかし昭和二十二年、松本は公職追放処分を受けます。

処分解除後、松本はアメリカ学会を創設してその会長となります。さらに財団法人国際文化会館の設立に奔走しその専務理事、のちに理事長となります。世界的な知識人を招待し文化交流を行う民間機関です。ジョン・D・ロックフェラー三世は松本を無二の親友とよび、国際文化会館の設立に絶大な協力をします。

→『ロックフェラー家と日本』P129-(参照)、P132-(参照)

その後、彼は吉田茂、鳩山一郎、池田勇人から駐米大使、駐英大使、国連大使への就任要請がありましたが、すべて断っています。何らかの理由でこのような公職についておもてに出ることができなかったのでしょう。(以上)

2.8共産主義者の牙城 P135-148

第三章 レールを敷くP150-223

3.3日米交渉 P177-185

3.4不倶戴天の敵 P185-192(tw,tw,tw,tw)

P185「支那事変から対米開戦へそして日本の全面的敗北、併せて天皇退位と米軍進駐、近衛による親米政権の樹立」が覇権獲得にむけた近衛のメジャーシナリオです。

P186そして、可能性が低いものの念のための想定としてのマイナーシナリオが、「ソ連をバックとした敗戦革命」でした。

北進論すなわち対ソ戦はこのメジャーシナリオの進行を妨げるものであり、同時にソ連の力を弱めるという観点からマイナーシナリオにも悪影響を与えます。共産主義者たちはマイナーシナリオのほうに没頭していました。

近衛にとってやっかいな問題が起きます。

昭和十六年六月二十二日の独ソ戦です。

実は、独ソ不可侵条約締結後も、ソ連やコミンテルンは、ドイツ近隣諸国やドイツ占領下で、武器供与をふくむ対独破壊工作とスパイ活動を継続していました。ブルガリアをはじめとするバルカン半島での策動、フィンランドへの食指、トルコへの援助、そしてドイツ国境の軍事力増強などソ連は野望をしめしていたのです。

このためドイツは対抗手段をとらざるを得なくなったのです。独ソ戦開戦後、英米両国はただちにソ連援助の声明をだしました。

独ソ開戦の報を聞くや否や、松岡外相はただちに参内して、「即刻北進してソ連を討ち、ドイツとともにソ連を東西から挟み撃ちにすべし」と天皇に上奏します(tw,相互参照)。

日・独・伊・ソの四国同盟を背景にアメリカと対峙する松岡の構想が崩れ去ったいま、激動の世界情勢のなかで日本が生き残るひとつの道は、P187本来不倶戴天の敵である共産ソ連を討つことです。

北進は陸軍の健軍の精神でもあります。

ソ連は、支那事変勃発後、二十四個師団文の経費約一億元を国民党政府に借款供与し、大量の軍事物資と爆撃機四百機を提供しています。

昭和十二年八月には早くも国民党政府とのあいだで中ソ不可侵条約を締結しています。

その後もソ連は国民党政府を精力的に援助してきました。

支那事変解決のためにも、ドイツがソ連に攻め込んだことは日本にとって千載一遇のチャンスであったのです。

日本が日ソ中立条約を破ってでも従来からの仮想敵国であるソ連にむかえば、本来は反共である蒋介石にも影響をおよぼして新たな大きな展開を見せたはずです。

日本が共産ソ連と戦っているかぎり、アメリカも正面きっての介入の口実はありません。

「日本は強大なアメリカとは戦えない」--これが松岡の本心です。

日本が対ソ戦にうってでれば、沿海州・北樺太などのソ連領は短期間に占領していたことでしょう。北樺太には屈指の埋蔵量がある最大級の油田があったといいます。

日本が北進していればソ連は東西に兵力が分散されたままで、東西からの同時攻勢に抗しきずレニングラード、モスクワ、スターリングラードはおそらく陥落していたでしょう。

ドイツはコーカサスを進んでカスピ海の油田を手にいれ、さらに南下してペルシャ湾の油田も獲得していた公算が大きいのです。

P188六月下旬、ゾルゲはオット駐日ドイツ大使より、「松岡外相は日本は日ソ中立条約があるといえども、近くドイツ側に立って対ソ参戦をなすと言明した」との情報を得ていました。

ゾルゲはドイツ大使館陸軍武官からも、「日本陸軍は一、二ヵ月後に対ソ参戦すると約束した」との情報を得ていました。

ゾルゲも「独ソ戦は日本にとって絶好のチャンス」であったと見ていたのでしょう。

このドイツ開戦は当時世界的にみても決して的はずれなものではなく、チャーチルやアメリカのウェデマイヤー将軍がのちに回顧して次のような趣旨を述べています(相互参照1相互参照2)。
「日本が第二次世界大戦で勝者となれる唯一最大のチャンスがあった。それは独ソ戦勃発時に北進してソ連を攻撃し、ドイツと組んでソ連を東西から挟み撃ちにすることだった。

この絶好の機会を日本はみすみす逃してしまった。日本が北進せず南進して、アメリカとの戦争に突入してくれたことは、われわれにとっては最大の幸福であった」
独ソ戦勃発直後の松岡の北進・ソ連攻撃論は、天皇が疑問を持たれたため撤回せざるを得ませんでした。やはり、近衛が松岡を妨害したのです。近衛は木戸を通じて、あくまでも「外相単独の行動」としっかり事前に天皇への注進を行っていました。

くわえて近衛は天皇に拝謁して松岡の主張を次のように位置づけました。
「いうところは判然としなかったが、要するに外相は彼個人の最悪の事態に対する見透しを申し上げたものらしい」
P189独ソ戦開始当初は陸軍一般の雰囲気は自重的でした。けれどもドイツ軍の優勢をみて、陸軍にがぜんソ連を討つべしとの空気がわき起こってきていました。

そこで近衛は念には念を入れて、「外相の『強硬論』は、果たして彼の見透しに過ぎないものか、又は主張なのかはっきりせず、紛糾を恐れた余は宮中から書記官長に電話を以て其日午後開催の手筈になっていた独ソ問題の為の大本営政府連絡会議を取り敢えず中止させた」のです。

連絡会議つぶしです。

松岡の対ソ攻撃にむけた果敢な行動と陸軍のソ連討つべしの空気に慌てた近衛の防戦ぶりが目に見えます。近衛も必死でした。

近衛は政府としての態度を決定するとして、慎重に陸海相と懇談したあと、六月二十五日、二十六日、二十七日、二十八日、三十日、七月一日と連続的に連絡会議を開きました。このときも、松岡は断固として北進を主張し、南進に反対しました。

「南進すれば必ずアメリカと衝突し戦争になるから、少なくともあと半年待て」と主張したのです。正論です。及川海相もこれに同意するような発言をしました。

しかし近衛首相は、北進中止の「一種の代償として仏印進駐」を決定せざるを得ないとして、「統帥部がおやりになるというなら、やりましょう」とまったく抵抗をしめさずに南進のほうに同意したのです。

扇の要にいる近衛が、北進への代償として南進への道をひらいたのです。実に無責任で身勝手な決定です。

P190七月二日に御前会議が開かれました。そこで波瀾が起きました。原枢密院議長が、国策要綱案に「対米戦を辞さず」とあるのを採りあげ、南部仏印への進駐はアメリカとの戦いになる恐れがあるかと繰りかえし尋ねました。

平和的に慎重にやりたいという参謀総長の答えを引きだした原は、アメリカとの戦いは避けるようにしてもらいたいと念を押しました。そして彼は独ソ戦に関して「暫く之に介入することなく」の文言をとりあげ、「一日も早くソ連を討つように軍部と政府に希望する」と言ったのです。

結局、御前会議では軍令部が主張する南進と、陸軍が主張する北進・対ソ戦の準備という二正面での作戦展開の方針が決まりました。「南北統一作戦」と呼ばれました。

しかしこれは要するに、さしあたってはソ連に対し行動を起こさないと決定したことを意味しました。けれども、原議長の熱い訴えは陸軍参謀本部田中新一作戦部長らの強い味方となり、陸軍の対ソ戦準備に拍車がかかります。

七月五日には、陸軍省と参謀本部とのあいだで五十一万人を新たに動員する協議がまとまり、天皇の裁可もおりました。まれにみる全国的規模の大動員となったのです。

七月七日いわゆる関東軍特殊演習(関特演)が発動され、演習の名目で兵力を動員しつつ、独ソ戦の推移しだいではソ連に攻めこむということなのです。

ところで、当然のことながら、尾崎は独ソ戦が始まると、できるかぎり多くの人々に対して機会あるごとに、ソ連に対する日独の挟撃を阻止しようと働きかけました。

「北進は近視眼的な過った行動である。東部シベリアで獲得できる政治上及び経済上の利益は何一つない」

P191「南方こそは進出の価値ある地域である。南方には日本の戦時経済になくてはならない緊急物資がある」「南方こそ日本の発展を阻止しようとしている敵がいる」と説き、北進をやめ南進をとるよう必死に訴えたのです。

松本重治は、朝飯会でしばしば尾崎が対ソ戦反対の急先鋒として必死な姿であったことを目撃しています。

松本自身も、「ドイツによるモスクワ陥落を疑うべきだ」と述べていたそうです。結局、朝飯会メンバーは全員が対ソ戦に反対しました。朝飯会のメンバーにとっても北進は困るのです。

このようなさなかの七月十六日、近衛内閣が総辞職しました。対ソ戦阻止が一番の目的です。「日米諒解案」交渉をめぐる混乱を口実に松岡を追放し、七月十八日、第三次近衛内閣が成立します。

さっそく七月二十八日南部仏印への進駐が実行されました。これに対してアメリカは資産凍結と石油輸出全面禁止に打って出てきました。アメリカから石油が入ってこなければ日本は蘭印(インドネシア)で石油を得るべく必然的に英米蘭と戦うしかない。

日本が南進に踏みだしたとたんに、対米戦争は決定的となっていたのです。

永野の思惑通りであり、近衛の望み通りです。

日米開戦までの五ヵ月間の日米交渉はアメリカにとっても、日本を手玉に取ってのらりくらりと時間をかせぎながら、戦争を準備した期間以外のなにものでもありませんでした。

くわえて、日本の外交情報はアメリカのマジックと呼ばれる暗号解読システムですべて把握されていました。昭和十六年八月二十六日、近衛は海軍の高木惣吉に日米和平交渉について次のように語っています。本音が見えます。 「国交調査に対する見通しは『五〇・五〇』と思う。…しかし他方漫然として時日を遷延し『ジり貧』に陥りたる暁に戦いを強いられることも亦最も警戒すべきことであるから其の点は予め覚悟している」

P192このような情勢の中、近衛は今後さらに数ヵ月続く日米和平交渉をのちの戦争責任回避のためのアリバイとして「大切」にしていったのです。

近衛は、外務省や陸海軍省だけでなく、自らのスタッフである外交担当の秘書官の牛場、内閣嘱託で日米交渉に関する連絡役であった西園寺、そして松本重治や井川忠雄にも日米交渉案の起草をさせています。

近衛は、ルーズベルトの首脳会談実現でいっきに局面打開することを狙っている姿勢を執拗に見せました。

しかし、事前の実務レベルでの調整を米国側が必須事項として求めてきていましたので、交渉は初めから頓挫していたというべきでしょう(tw)。「結局、近衛の『平和への努力』にもかかわらず、残念ながら日米首脳会談は開かれなかった」というストーリーがシナリオ通りに完成してしまう。

3.5御前会議 P192-197



3.6「秋丸機関」と「腹案」P197-217
3.7非戦の決意 P218-223

第四章 果報は寝て待つ P226-251

第五章 戦後覇権を掴め P254-313

(P254-)

5.1 悪いのは奴ら P254-263
(略)
P259 昭和十八年七月には近衛は、共産主義陰謀説、統制派赤(アカ)説を高松宮に語っています。九月二十九日、東京地方裁判所にて尾崎秀実に死刑判決が出されました。十九年四月五日には大審院で上告が棄却され尾崎の死刑が確定します。近衛にとってお荷物が消え去ることが決まったのです。

P260 サイパン失陥で重大局面をむかえた昭和十九年七月、近衛は目白邸に平沼騏一郎を招き会見しました。

平沼は、「東條は戦争遂行一点張りで行くと言っているが、実は国内革新できればよく、戦争の名を借りて統制するのが目的ではないか」と話したというのです(参照)。

また平沼は、「梅津の周囲には赤が沢山いる」とも述べました。平沼のこのような見方は、近衛が「共産主義者と陸軍が悪かった」という説を完成させていくうえでありがたいものでした。平沼はこの時期の近衛にとっては「話がわかるやつ」であったのです。

『近衛日記』で、近衛は、平沼がいう「赤」とは「例えば、さきに企画院にありて、いわゆる革新政策の推進力となりし池田、秋永両少将の如きを指す」とわざわざ注記しています。池田、秋永とは企画院の革新政策でよく知られた池田純久と秋永月三です。

さらに近衛は、「敗戦に伴う左翼的革命さらに恐るべし」「いわゆる統制派は戦争を起こして国内を赤化せんとしつつあり」と日記にぬけめなく書き記しています。

近衛は、「皇道派史観」を擁していて自分にとって極めて都合がいい皇道派の面々を陸軍首脳部に起用すべきとの主張も展開しはじめます。

結局、七月十八日、重臣たちが力をあわせることで東條の内閣改造の企図を挫折させ、東條内閣は総辞職にいたります。このあと開かれた重臣会議では、後継首相は最終的に小磯国昭大将に落ち着きました。

この会議でも近衛は、共産主義革命の懸念を力説し、「十数年来陸軍の一部に左翼思想があり、今日軍官民に亘って連絡をとり、左翼革命を企てる者がある。これは敗戦以上の危機で、自分は敗戦よりも左翼革命を恐れる。敗戦は皇室国体を維持できるが、革命はそうではないからだ」と言っています。

すべてを陸軍「統制派」あるいは「軍官民に亘って連絡をとり、左翼革命を企てる者」に押しつけ糾弾する形で、自分の戦争責任を回避しようとしているのです。昭和十九年六月、近衛は高松宮と次のようなやりとりをしています。
「最近の滔々たるマルキシズム的傾向について申し上げ、一部には日本の国体は、上に天皇を戴き下万民は皆平等となるべしとして、

いわゆる天皇共産主義を主張する者あるも、凡そ共産主義と日本の国体とは相容れざるものにして、

家族制度を破壊し私有財産を否認することは、結局皇室をも否認するの思想なるを以って、かかる考えは革命思想と何等異なることなしと言上したる所、殿下は黙して何も御答えなかりき。

しかし別の機会に殿下は最近の赤の傾向は困ると仰せありたり」
昭和二十年二月十四日、近衛は昭和天皇に重臣として拝謁上奏します。その内容は「近衛上奏文」として伝えられています。

P262 湯河原の別荘で近衛自身が年明けkら書きつづっていた草案をもとに、上奏前夜、平河町の吉田邸に一泊して吉田茂らと協議のうえ完成させたものです。「近衛上奏文」はいわゆる共産主義陰謀説の代表的な文書として歴史にその名を残しました。「皇道派史観」ともぴったり重なります。

また、ソ連が東欧に勢力をひろげている情勢や、中国共産党のアジアでの動きの展開など、共産主義勢力が世界で非常な勢いで台頭しているという状況認識もしめされています。この状況認識はソ連通で親英派の外務省調査局第二課尾形昭二の報告などを基礎としたものです。

「近衛上奏文」を見ていきます。

最後の方の段落の冒頭、「此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、この一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難きを恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味を一掃が肝要」が近衛の主張を要約しています。

そして、支那事変も「『永引くがよろしく、事変解決せば国内革新が出来なくなる』と公言せしはこの一味の中心的人物に御座候」「徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものあり、又延安との提携を考え居る者あり」などと主張の背景の状況が述べられています。

「延安」とはここに拠点をおいていた中国共産党をさします。そして結論として共産革命から日本を救うために、「此の一味」すなわち敗戦革命の企図に踊らされている陸軍の「統制派」の面々を一掃する勇断を陛下に求めたのです。

「近衛上奏文」を全文掲載します。

(P262近衛上奏文-)

5.2 近衛上奏文 P263-275
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提を下に申述候。

敗戦はわが国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。

国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起きることあるべき共産革命に御座候。

つらつら思うに我が国。内外の情勢は今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。

ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権を爾余の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、P264着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

ユーゴのチトー政権は其の最典型的なる具体表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に準備せるポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。

ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエト政権に非ざれば存在し得ざる如く致し候。

イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる故を以て、内閣総辞職を強要致し候。

スイスがソ連との国交開始を提議せるに対しソ連はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争を続けられ、且之等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり、而して是等武相談を指揮しつつあるものは主として共産系に御座候。

ドイツに対してはポーランドに於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存候。

ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し候。ソ連の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に日本解放連盟組織せられ朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。

かくの如き形勢より押して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法、及防共協定の廃止等々)翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。

即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍内部一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。

少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。

皇族方の中にも、此の主張に耳を傾けらるる方あり、と仄聞いたし候。職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産主義的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て国体観念はだけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

抑々満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。

支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心人物に御座候。

是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。

不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。

昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢いを加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼射流なるも背後より之を扇動しつつあるのは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。

以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、P267勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。

戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態にまで戦局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。 

もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之候。

従て戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味を一掃が肝要に御座候。

此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるがゆえに、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。

尚これは少々希望的観測かは知れず候えども、もしこれら一味を一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありしと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改らば、彼等としては戦争の継続につき、考慮するようになりはせずやと思われ候。

それはともかくとして、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行すすることは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。
昭和天皇は上奏の内容の特異さに驚きました。

(以下、略)

5.3 天皇 P275-290
5.4 文隆という駒 P290-298
5.5 ライバル P298-304
5.6 戦後覇権を掴め P304-313

第六章 最後の我が闘争 P316-383

6.1 最後の我が闘争 P316-331
6.2 死の真実 P331-375
6.3 後遺症 P375-383

おわりに--近衛文麿の大望は歴史から拒絶された P384-388

主要参考文献 P389-398