2022年7月24日日曜日

偏愛メモ 『恋の中国文明史』

序章 文化を解く鍵--恋 P9-35

1.禁欲の表裏
P11六朝の歴史を記録した史書の一つ『南史』のなかに次のようなエピソードがある。

梁元帝蕭繹(五〇八~五五四年)の妃徐昭佩は、多情な女性であるが、容姿はあまりきれいではない。夫の梁元帝はもともと女色をそれほど好む皇帝ではなく、いつも公務や読書に没頭している。

それにこの妃はあまり魅力がないため、彼女のところにはたまにしか泊まりに行かない。妃は皇帝の薄情を怨み、仕返しをしようと企む。梁元帝は片目がつぶれていたので、妃は皇帝が親臨するときはいつも顔の半分だけ厚化粧して皇帝を迎える。急所をつかれた皇帝はその都度憤然となって帰ってしまう。

酒を嗜み男をこよなく愛するこの妃殿下は、もちろん後家さん同様の暮らしに甘んじるはずはない。彼女はなかなかの度胸があり、皇帝の愛をえられない代わりに、隙を見てはお坊さんと密通し、あるいは皇帝の側近の美男を誘惑する。

そうしたことが梁元帝の怒りを買い、また皇室の権力争いにも巻き込まれたため、後に命ぜられて自殺するはめになった。

歴代の妃のなかで徐昭佩ほど気性のはげしい者はまれである。しかし、帝王の気まぐれに不満を持ち、それに一矢を報いたい気持ちは皇室のすべての妃嬪に通じるだろう。

P12さまざまな規制があるとはいえ、過剰な夢を厭くなく追い求め、奔放に生きようとする思いは女性側にも当然あったはずである。ところが、古代中国において、男の遊蕩に対してかなり寛容であったにもかかわらず、女に対する束縛はきわめてきびしかった。

結局、徐妃も淫らな婦人としてしか見られず、背徳の典型にされる運命から逃れることはできなかった。

中国の儒学は子孫繁栄を前提とする夫婦の和合を容認し、かつ賛美するが、未婚男女のあいだの交際を認めない。結婚は、常識的な意味でのお似合いの配偶者を選別するするシステムが考案され、婚前の感情は徹底的に抑圧された。

こと恋になると、儒学者たちはほとんど何も語ろうとしない。彼らは未婚男女のあいだの恋を蔑視し、恋の情緒を思索の対象から除外した。そのため、十九世紀にいたるまで中国では恋について思想的に論じようとする試みはまったく見られない。

夫婦関係についてもさまざまな規制があって、生殖に直結しない快楽は否定されている。女色から遠ざかることはより高尚なる精神のあらわれだとされ、女性に対する親密な行為はたとえ夫婦の間柄でも認められない。

少なくとも他人の前では野卑な行為とされている。男性優位の価値体系のなかで、婦人を愛することは不名誉の同義語でもある。儒学だけでなく、儒学対立する位置にある老荘思想も男女のあいだの恋や情愛を普遍的価値としては認めない。

後に宗教と化した道学は子孫繁栄と養生のための性行為を容認し、かつ評価するようになったが、老子と荘子の場合はそうではない。夫婦の情愛を認める儒学に比べ、性そのものを不条理とする老荘思想はむしろより禁欲的である。

P13ところが、こうした禁欲的な倫理観がすべて現実生活のなかで実践されていたわけではない。男と女がいるかぎり、男女のあいだのさまざまな情感もなくなることはない。

『漢書』巻七十六にはこんな実話が記されている。漢代の高官張敞は家のなかで秘かに夫人の眉を画いていた。そのことが巷の話題となり、やがて皇帝の耳にも届く。皇帝の詰問に対し張敞は、「閨房のなかでは夫婦は誰でも眉を画く以上のことをしているでしょう」と答えた。(「京兆画眉」tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw)

新・白蛇伝23 32:09~   花と将軍37 28:19~   明蘭41 03:55~(相参)   皇帝の恋30 21:19~(相参)

驪妃53 07:03~(相参)   蘭陵王妃12 26:12~   蘭陵王妃39 24:44~


儒学倫理の実践者であるべき皇帝の私生活にはしばしば目にあまるものがある。五代十国の時代には南漢(九一七~九七一年)と称された短命の王朝があった。そのラスト・エンペラー劉鋹の宮中には若いペルシア人の女性がいた。

容貌がきれいで、体がグラマーであるだけでなく、賢くてセックスのテクニックにもたけている。劉鋹は彼女に首っ丈になり、宮中で日夜淫らな生活に耽っている。

彼はセックスの場面を見るのが趣味で、民間から美少年たちを選び、彼らと宮中の美女たちとを裸にしては、皇居の庭で交わらせる。その間皇帝はペルシア人の美女をつれて庭園のなかを散歩しながら乱交の場面を見物する。

それにもあきたときには、みずから寵愛しているペルシア人女性とほかの男とを交わらせるなどして、ひたすらはげしい官能の刺激を求めた。

道徳の制約はときにはむしろ現実生活のはなはだしい逸脱を背景としている。また男女交際に対する禁制も場合によっては侵犯の動機を生み出す原因となる。 後に官学の地位を勝ち取った儒学はたしかに中国人の恋の慣習に決定的な影響を与えたが、 P14しかしだからといって男女関係にまつわるすべての夢と情熱がなくなったわけではない。

本能の抑制を唱える思想と逸脱する現実、それが想像と抒情を刺激し、また生み出す源泉でもある。その産物の一つとして、恋の情緒表現があげられる。有史以来、中国人の恋はどのような形態としてあらわれてきたのか。

恋の感情はいかに表現されたのか。歴史のなかでそれはどう変化し、原因は何なのか。それらのことを究めるのは、中国文化の特質の解明にとって欠かせない基本的な作業の一つである。

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P18「恋」と関係のあることばにはそのほか「色」と「愛」がある。孔子はかつて「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり(吾未見好徳如好色者也)(tw)、論語-衛霊公P05」と言ったことがある。

P19 一方、六朝の志怪小説、唐代伝奇をはじめとする作品群を見ると、小説の世界では「鶯鶯伝(tw)」にあるように、ときには「好色」が肯定されることもある。

P21 中国文化において「恋」はおおよそ三つのパターンにわけられる。一つは夫婦のあいだの「恋」、もう一つは未婚男女のあいだの恋、そして三つ目は遊女との恋である。

そのなかで、夫婦のあいだの「恋」は中国人の情緒表現において非常に重要な地位を占めている。もし「恋」を結婚関係のない男女のあいだの特定の行為だと定義すれば、『詩経』と『楽府』の一部の詩をのぞけば、唐代までの文学のなかに純粋な「恋」を明晰な形で描いた作品はきわめて少ない。

鶯鶯伝」があらわれるまで、結婚関係にある男女の親密な感情が一種の疑似的な恋の情緒となり、未婚男女のあいだの恋情と夫婦のあいだの慕い合いの感情とは同じものと見なされてきたからである。

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第一章 閨房内の恋--中国文明の象徴 P35-

1.1 親が取り決める結婚
P37 「父母の命、媒酌の言」という言葉に代表された中国の伝統的な婚姻制度は、親が結婚を取り決めることを特徴とする。『詩経』の「斉風」には、「妻をめとるにはどうするか、かならず父母に告げて許しを受ける」という詩句があり、親が結婚を取り決める慣習は西周の時代(紀元前一〇二〇頃~紀元前七七〇年)にすでにあった。

ただ、当初は必ずしも非常にきびしい制約があったわけではなく、男女のあいだにある程度の自由な交際はまだ可能であったと思われる。とくに春秋戦国の時代では、小国と小国のあいだに微妙な風習の違いがあり、鄭国のように、男女の交際や恋に対する禁制が、それほどきびしくない国もあった。『詩経』の「鄭国」には「溱洧」という詩がある。

鄭の国は風習が乱れていたとは言われているものの、類似する情景は他の小国、とりわけ中原地域のから地理的に少し離れた小国ではまったくなかったとはいえない。

当時各国の文明の水準は比較的に接近しており、相国と小国のあいだの密接なつながりから考えると、同様の現象はむしろかなり普遍的であったと思われる。『周礼』巻四「地官司徒下」には「(毎年の)二月には、男女を対面させる。そのとき、駆落ちすることを禁止しない」という言葉がある。

その記述を見るかぎりでは、男女のあいだの交際は一時的ではあるにせよ、かつて制度によって保証された一面さえあったのである。

春秋戦国の時代を含めて八百年以上にもおよぶ周代は民族と独自の文化がしだいに形成された時期で、その間にさまざまな変化が起きていた。中原文化の成熟により男女のあいだの交際と恋の自由はしだいに狭められ、親の取り決めによる結婚が定着するようになった。

「父母の命、媒酌の言」による結婚はいくつかの発展段階を経たと思われる。最初は男女が自らの選択について親と相談し、親の許しを得たうえで結婚するのが普通の手順であった。

P39同じく『詩経』の「衛風」の「」という詩には次の語句がある。

仲人はただ形式的な存在に過ぎなかったことを示している。ところが、家父長制の強化により、やがて子供の結婚は家族の長の取り決めにしたがわなければならないようになった。この制度を成立させるためには、女性の社交禁止と、男女の隔離が必要である。

男女の自由な交際が禁止されると、恋はできなくなり、みずからの意志による結婚相手の選択も不可能となる。青年男女にとって結婚はもはや媒酌人の斡旋と、父母の取り決めという道しか残っていない。その時点において親の取り決めによる結婚がはじめて成立したのである。

ただ、男女が隔離された時代でも、ときと場合によっては結婚相手の自由な選択は可能であった。『左伝』の「昭公元年」(紀元前五四一)の記載によると、鄭の国の下大夫公孫楚は徐吾犯の妹と婚約したが、公孫楚の従兄弟で、上大夫の公孫黒はその女性が美しいと聞いて、むりやりに結婚を申し入れる。

徐吾犯は二人が争いになるのを心配し、国政を執っていた子産(公孫僑)に調停を依頼した。子産は「こうしたことが起きたのは国によい政治が行われていないからだ。あなたが嫁がせたいと思う方へ嫁がせればよい」と答えた。

徐吾犯は二人に、妹を選ばせたいと申し入れると、二人とも承諾した。そこで徐の妹はみずから結婚相手を選び、公孫楚と結婚することになったのである。しかしそれはまれにみる例外で、徐吾犯は公孫楚と公孫黒の二人を恐れ責任を逃れようとしたからこそ、妹に夫を選ばせたのである。

また夫を選ぶときには男女が直接対面したのではなく、女性が部屋のなかから見ていただけである。

媒酌人が仲介し親が取り決める結婚は、それまでの近親結婚やレビレート(レビラト)婚(tw,tw)(これには夫の死後、夫の兄弟の一人が未亡人と結婚する場合と、子が亡父の、実母でない妻と結婚する場合と、また未亡人が義母の兄弟と結婚するなどの場合がある)。

皇后の記44 20:20~終わりなき「酔いどれドルゴン」(tw,tw)37:18~若兮「でも、母上様は娶ってないわ」(tw、関連tw)


ソロレート婚(妻の生死にかかわらず、その姉妹か姪を第二の妻とする結婚)など、さまざまな原始的な結婚の慣習に対する否定と改革において意味を持つ。

当然古代においてそれは一種の開けた風習であり、また進歩の象徴であった。漢代の班固は『白虎通徳論』巻九「嫁娶」のなかで「なぜ男がみずからかってにめとらず、女はかってに嫁がず、必ず父母の取り決めにより、媒酌が必要なのか。それは恥じるようなことを避け、淫乱を防ぐためである」と言ったが、媒酌の正当性はまさにその倫理性にもとづいていたのである。

新しい道徳観によって裏付けられたこのような慣習は、最初は貴族、官僚や士大夫階級のなかではやりだした。

P41 『左伝』「定公五年」(紀元前五〇六年)のなかに、楚昭王の妹が結婚相手を選ぶエピソードが出てくる。楚昭王は妹の季芈をある人に嫁がせようとしたが、彼女にはすでにひそかに心を寄せた男がいる。

呉の国との戦争中かつて季芈を背負って救いだ出した鍾建である。そこで季芈は、女子は男から遠く離れているべきで、鍾建という男がすでにわたしを背負った以上、もうほかの男と結婚してはいけない、という口実を使って巧みに自分の見初めた男との結婚を果たした。

また、『孟子』のなかにも、男女のあいだでは直接ものの受け渡しをしてはいけない(「男女授受するに親らせざるは、礼なり」)という倫理原則をめぐって、兄嫁が川に落ちたとき、義弟としては手を差し伸べて救うべきかどうかという議論がある。

こうしたことをみると、紀元前五〇〇年ごろ少なくとも王侯や貴族のあいだでは「父母も命、媒酌の言」による結婚とその前提となる男女禁制がすでに常識化されていたのである。

媒酌による結婚は単に家父長が家族の結婚に対し決定権を持つことを意味するだけではなく、共同体の一種の集団意志のあらわれだとも言える。父母が結婚を決める権利をもっていたとはいえ、媒酌人の意思は共同体の合意を前提としている。

媒酌による結婚は配偶者の選別を共同体の秩序のなかへ組み込むことを通して、集団意志の権威を具現させるものである。古代中国では共同体の存続はつねに優先され、個人の意思よりも集団の目的が重視されていた。

媒酌は集団意志の尊重において文化の象徴性を持っており、同時にそれはまた古代人の生活の知恵でもある。共同体の優先は結果的には個人の自己保護の手段にもなったからである。

(略)

このように、媒酌制度は感情生活を犠牲にすることにより、より合理的な結婚を実現させようとしたものだといえる。

1.2 管理された感情生活
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1.3 漢民族の恋の原型
P50 春秋戦国時代から六朝までの散文を読むと、恋をあつかう作品のなかに夫婦の情を描いたものが非常に多いこと気付く。もちろん、例外がなかったわけではない。例えば春秋戦国時代の『楚辞』、また人間と妖怪の恋を描いた六朝の志怪小説の一部などがそうである。

それ以外の作品では恋がおもに夫婦のあいだの情を表現しており、恋の情緒は暗黙のうちにもっぱら結婚という制度によって保証された男女のあいだの情感を指している。

もう一つの注目すべき点は恋を表現する場合のジャンルの偏りである。漢代まで、恋はおもに賦や詩などの韻文によって描かれており、六朝になってやっと散文による恋の描写があらわれたのである。

どちらの場合も、閨房のなかの恋、つまり夫婦のあいだの情を歌ったものが主流を占めている。唐代になって未婚男女のあいだの恋がやっと詩文表現の射程内におかれるようになったのである。

閨房のなかの恋を詠んだ詩はおおむね二種類に分けることができる。一つは夫婦の和合を歌ったもので、もう一つは夫と離別した妻の思慕の情を歌ったものである。

両者とも古く『詩経』のなかにすでにあらわれている。『詩経』「鄭風」には「女曰鶏鳴」という詩がある。

P51 夫婦のあいだの親密な情をうたった詩である。『詩経』の時代にはこのような詩は男女のあいだのさまざまな感情を詠んだ詩のなかの一首に過ぎず、とりわけ夫婦のあいだの情を強調しようとしたものではない。

また『詩経』では夫婦や恋人あるいは愛人などの分類はまだそれほど重要ではなく、いわゆる健全な道徳の見本とされた夫婦のあいだの崇高な感情を描く場合も、淫奔者同士の恋情を描く場合も恋の感情を表現する方法においてはたいした変わりはない。

重要なのは後世における受け取り方である。先行作品の情緒表現の継承における後の時代の偏った選択の趣味は『詩経』のなかも夫婦の情を描いた詩に特別な重みを与えたのである。

その偏った趣味の形成は親の取り決めによる結婚と深いかかわりがある。中原文化のなかで「父母の命、媒酌の言」による結婚が定着し、男女が隔離されるようになるにしたがって、婚前の恋はしだいにむずかしくなった。

詩が文人の特権的な表現手段になってから、未婚男女の恋は詩の表現対象から排斥され、散文のなかでも唐代にいたるまでその占めるべき位置はえられなかったのである。

一方、あたかもその代償のように閨房内の恋を詠うことが、ほとんど男女のあいだの感情を表現する唯一の手段としてますます多く用いられるようになった。夫婦の和合を詠んだ詩だけでなく、辺境の警備や遠征、徭役などさまざまな原因で遠くへ出かけていった夫を思慕する若い女性の思いを歌った詩も多くつくられた。

もとをたどればこれもまた『詩経』のなかにその原型を見いだすことができる。『詩経』の「周南」には「卷耳」という詩がある。

P53 同種類の詩は「卷耳」のほかに「伯兮」、「君子于役」などいくつもある。同じ閨房内の恋を詠うものでも、夫婦の和合の詩に比べると、夫婦の離別の悲鳴を歌う伝統は後の時代により多く継承され、数多く詠まれた。

それは古代中国においてさまざまな原因によって夫婦の離別が日常的に起きていたこととも深い関係がある。が、一方では媒酌による結婚の成立が情緒表現の方向を左右し、感情発露の範囲を狭めたのがより重要な原因の一つとなっている。

儒学が中原文化の中枢部まで浸透し、文人がほとんど儒学者であるということは、感情表現の重要な手段としての詩文から儒学倫理の許容範囲以外の恋をすべて追放したことを意味する。

事実、閨房内の恋、なかでも夫婦の離別の悲しみを詠った詩について漢代以降の例をあげる必要はない。漢代まで延々と続いたこの詠唱の流れのなかにそうした例はあまりに多いからである。

夫婦のあいだの相思は後々の時代まで恋の感情表現の重要な部分であり、後には「閨怨」「宮怨」といった詩題を生み出すにいたったのである。

1.4 結婚による民族の混血
閨房内の恋を賛美する精神は中原文化の特徴であり、生活実践における儒学の結実である。

親の取り決めによる結婚は最初は中原地区の中心部で確立され、その後しだいに周辺の部分へ拡大されていったと考えられる。

春秋時代には中原地区の中心部においてすでに「父母の命、媒酌の言」による結婚が成立したにもかかわらず、文化の中心から離れたところ、とくに「夷、蛮、戎、狄」に近い周辺部にはすぐには波及していなかったようだ。

それどころか、儒学道徳とまったく相反する両性関係もしばしば見られる。

P55 『左伝』には親族関係の姦通がいくつか記述されているが、比較的関係の遠い者のあいだをのぞいて、兄妹、舅と嫁、叔父と姪など近親相姦が四例ほど記述されている。

晋の国の例(趙嬰とその甥の妻の姦通)はそのなかの一つで、楚の国と関係のある例(蔡景公と楚国からもらった太子の嫁との姦通)も一つである。そして斉の国と関係のあるのは二例(斉襄公とその異母妹との不倫および斉悼公の妻とその叔父の姦通)記載されている。

『国語』「晋語八」には、晋の国は「戎狄の人たちが取り囲んだところ」に位置しているとあり、また『左伝』「昭公十五年」によると、晋の大臣は周の景王のまえで、自分の国が深い山のなかにあり、異民族の地--戎狄に隣接し、周の王室から遠く隔たっていると言っている(春秋時代の中国地図)。

そして建国の初期には国を築いた地--夏虚(現在山西省夏県の東北)には戎族の人たちが多いので、「啓くに夏の政を以てし、疆するに戎の索を以てせり」(『左伝』「定公四年」)、つまり中原の政治を用いて民を治めるが、法律は戎のものを用いた。

一方、楚の武王(紀元前七四〇~六九〇年)はみずから「蛮夷」と称しており(『史記』「楚世家」)、中原地域と異なる文化を持っていたことを公言して恥じない。斉の国は東のはずれの方にあり、また蔡の国は地理的に楚に近い。

後者はつねに楚の脅威下にあり、楚文化の影響をかなり受けていた。儒学論理に反する近親相姦はほとんどの場合、中央から離れた国に起きていた。この傾向はそのほかの姦通例にも見られる。

『左伝』の記述内容は国の運営とかかわりのあるものに偏っている嫌いがある。とはいえ、このような地域的な特徴はやはりただの偶然だけでは説明しきれない。

P57当時のそれぞれの小国のなかにも文化水準の不均衡が見られる。『漢書』巻二十八「地理志・下」によると、秦の国が位置していたところは「五方雑錯し、風俗は純ならず」、つまり四方八方から集まってきたさまざまな人々がいりまじり、習俗は純粋ではなかった。由緒ある名族は礼、文を好むが、豪傑は任侠や密通などを好むという。

また鄭の国については土地が狭く地理的位置が険しく、人々がみな山のなかに住んでいると言い、男女はよく逢い引きをし、その風俗はかなり淫らだと記されている(『漢書』巻二十八「地理志・下」)。

燕の国も男女関係においては非常に開放的で、お客さんがくるときには接待として妻や妾を客と寝させる。そして結婚式をあげる夜には男女の区別なく、みな自由につき合うことができたという(『漢書』巻二十八「地理志・下」)。

秦代の大統一のあと、中原文化圏の拡大により、夷、蛮、戎、狄と称された地域はしだいに後退し、その一部は中原文化圏にとけ込んだ。『漢書』「地理志・下」には「武威から西の部分は匈奴の領地であったが、漢の武帝がそれを支配下におき、四つの郡を設置した」とあり、また、巴、蜀、広漢(いずれもいまの四川省にある)はもとは南夷(異民族の地)であったが、秦はそれを合併し郡を設置した、とも記している。

中原政権に併呑された異民族の地域では結婚制度をはじめ中原文化のさまざまな要素がしだいに吸収された。それに対し後退した辺境民族の地ではもとの生活様式がたもたれ、儒学倫理にもとづく結婚制度は最後まで受け入れられなかった。

ただ、中原政権の支配下に入れられた地区でも中原文化の吸収は緩やかな過程であった。このように中原地域のなかでも、また周辺民族の地域でも、ある特定の歴史時期にかぎって見ると、地域と地域のあいだの差異は非常に大きい。

このような差異から古代中国の道徳状況と、儒学の倫理制約性についてしばしば二つのまるっきり反対の結論が引き出される。人々はあるいは中国では古来儒学の束縛が非常にきびしかったといい、あるいは古代の現実生活のなかで儒学はほとんど機能していなかったという。

しかし、この二つの結論はどちらも一面的でしかない。差異の偏在はむしろ文化の体質そのものをしめしている。またまさに差異があったからこそ儒学の有効性が証明されたのである。

言い換えると古代中国における文化の不均質は儒学の先進性と有効性を際立たせ、儒教倫理の寿命を伸ばしてしまった結果となったのである。

もう一つの見逃してならないのは、儒学に対する態度はそれぞれの民族の文化形態の異同を示す指針となったということである。儒学道徳を守るかどうかは時には異なる民族の文化の衝突を意味している。

儒学が思想的版図を広めたことは周辺の少数民族が中原文化に侵食されたことを意味し、逆に異民族の移民や混血などにより周辺民族の文化が漢民族文化のなかに持ち込まれたときには中原文化は当然周辺民族の文化の影響を受けざるをえなかった。

恋や婚姻においてはそれは周辺民族が儒学の婚姻制度を受け入れるかどうか、あるいは逆に中原地域が周辺民族のより素朴で、しかしより奔放な恋や婚姻慣習の影響を受けるかどうかに反映される。

P59 周辺民族と漢民族の結婚は漢民族の文化を変質させた大きな原因の一つと考えられるが、このような異なる民族のあいだの結婚は古くからあり、しかもずっと後まで続いていた。

中国では文字資料によって実証できるもっとも古い時代は周代である。夏についての記述はほとんど伝説に留まっている。商(殷)については甲骨文字があるものの、それは歴史を記録したものではない。

夏と同じように商に関する『史記』などの後世の史書の記述には不明な点や疑問点があり、その歴史を明らかにするにはなお十分な裏付けはえられない。しかし、史書の記述のなかでも周以降の部分となるとかなり正確である。

周は夏、商と同じように従来漢民族の起源とされている。ただ夏、商、周はそれぞれ起源の異なる部族で、のちに領土の統一によって一つの民族に合流されたと考えられている。

『史記』巻四「周本紀」によると、夏の末頃に政治の混乱により、周の人たちは「戎狄」の居住地区に大挙して移住した。ここで言う戎狄は必ずしも一つの民族の名称ではない。

中原と異なる民族をひっくるめて戎狄と称したことがしばしばあったからである。彼らは現在の甘粛省慶陽県のあたりに居住しており、地理的に近かった周とはその後も密接なかかわりを持っていた。

『史記』巻四「周本紀」によると、かつて戎狄が周の所轄下の土地と住民を略奪しようとしたが、周の首領古公は民衆の苦しみをもたらす戦争を避けるため、戎狄の要求した通りに領地を譲った。

周が中原に進出し黄河中流地域の支配権を持つようになるのはそれよりずっと後のことである。

ところが、中原地域を支配するようになってからも、周王朝はなおも周辺民族とさまざまな関係を持っていた。『左伝』によると、僖公二十四年(紀元前六三六年)に滑の国が鄭の国との約束を破ったため、鄭の公子士泄が軍を率いて滑の国を攻撃した。

それを知った周の襄王は二人の大臣を鄭の国へ遣わし滑の国を許すよう要請した。ところが当時の周と鄭の国はかたちの上で上下関係ではあるが、周の襄王はもはや実権を持たなかった。

鄭伯は周の襄王の命令にしたがわなかったばかりでなく、かえって周王の二人の大臣をとらえてしまった。立腹した周の襄王は狄の国に出兵させて鄭を征伐した。狄は勝利を収め櫟というところを攻め取った。周の襄王は狄の王に感謝してその娘をめとって王后にしようとした。

周の襄王が狄の王女を后にするのは当時中原の人たちと戎狄の人との結婚がめずらしくなかったことを物語っている。事実狄の王女を王后にしようとする周の襄王やり方に大臣の富辰が反対したのは、王女が狄の人だからではなく、女の性情が放恣にして止まることを知らず、君の寵愛をいったん失った後に恨みは非常に大きいということを理由にあげたのである。

『左伝』には中原の民族と戎、狄など周辺の民族の結婚がほかにも多く記述されている。荘公二十八年(紀元前六六六年)に晋献公は戎から二人の娘をめとった。まもなく晋は驪戎を攻撃し、晋の攻撃を恐れた驪戎の王は娘の驪姫とその妹を晋献公に嫁がせた(tw)。

P61この四人はそれぞれ息子を生んだが、驪姫だけが晋献公に寵愛されていた。のちにぞの「枕元攻勢」が功を奏し、驪姫が生んだ子奚斉は太子に立てられた。奚斉は周辺民族の血を引いていたにもかかわらず、晋献公は彼を政権の後継者とするのに少しもためらわなかったのである。

一方、晋献公と戎の娘狐姫とのあいだにできた子重耳はのちに驪姫に追われ都を去り、僖公二十三年(紀元前六三七年)に狄に亡命した。狄の王は赤狄を征伐しその娘叔隗と季隗の二人をとらえ、晋の公子重耳に夫人にするよう献上した。

重耳は妹の季隗を妻に選び、狄に十二年間留まった。後に帰国し位を継承して晋文公となったとき、狄は季隗を晋に送り届け、そのかわり重耳と季隗のあいだにできた二人の子をひきとった。

諸侯だけでなく、大臣たちも異民族の人と婚姻を結んだ。重耳が亡命したとき、随行していた趙衰は季隗の姉叔隗をめとり、一子もうけた。趙盾である。後に晋文公は娘を趙衰に嫁がせたが、彼女はみずから趙衰に叔隗を正妻にし、趙盾を嫡子にするよう申し出た。

趙盾の母は異民族の出身ではあるが、そのことは趙盾が宰相になることに何の障害にもならなかった。

秦の国も建国したばかりのときには中原から遠く離れたところに位置し、戎と強いつながりを持っていた。『史記』によると、秦は黄帝の末裔だが、ただ同じ『史記』のなかで匈奴のことも夏の末裔と言っているから(巻百十「匈奴列伝」)、はたしてどのくらいの信憑性があるのかは疑問である。

一説では秦の公族の先祖は夷で、大陸の西部に移ってから、戎、狄の人たちを吸収して発展してきたのだという。『史記』巻五「秦本紀」のなかでは、秦の子孫たちは中原にいたものあったし、夷狄にいたものもあった。

また司馬遷は巻二十七「天官書」のコメントのなかで「秦、楚、呉、越は夷狄なり」と言っているから、秦が戎、狄など周辺の民族と血のつながりがあったことはまちがいない。

周辺民族に近かったためか、魯など中央部の国に比べると秦は男女関係においても比較的おおらかで、結婚にはそれほどきびしい制約はなかった。

『左伝』「僖公二十三年」によると、晋の国の公子重耳(前述、のちの晋文公)が秦の国に亡命したとき、秦穆公は一度に五人の女を重耳に嫁がせたが、そのなかに娘の懐嬴も含まれている。

彼女はかつて重耳の甥にあたる晋の懐公の妻であったが、人質であった晋の懐公が国に逃げ帰ったときに彼女を秦の国に残したので、父親である秦の穆公はその娘をまた重耳と結婚させたのである。

同じ女性を相前後して甥と叔父に嫁がせることに対し、秦穆公も重耳もまったく問題にしていなかった。

(tw)『史記』巻六十八「商君列伝(参照)」のなかで商鞅(参照)は「以前は秦の風習は戎、狄と同じで、父子の別なく同じ妻を共有していた。今では私がその風習を改めて新たな制度にし、男女の区別を立てた」と言った。

秦孝公の時代まで秦ではまだ儒学の影響を受けておらず、文化の面では戎、狄に近かったことが窺える。しかし、商鞅の改革は異民族との婚姻を禁止したものではない。秦昭襄王のときに昭襄王の母である宣太后が義渠の戎王と不倫関係を持ち、二人の子をもうけたことがその一例である(『史記』「匈奴列伝」)。

P63 『史記』『左伝』では一般民衆のあいだの結婚についてほとんど触れることはない。しかし、異民族の影響をもっとも警戒するはずだった支配階級の人でさえ異民族と婚姻関係を結んでいたのだから、一般の民衆はさらに抵抗はなく、異民族のあいだの結婚はごく普通のことであったろう。

このような結婚による民族の混血は秦代が成立するまでのあいだは非常に盛んだったが、秦王朝が中原を制覇し統一国家を樹立させた後、中原地域と周辺地域との対立構図ができあがり、民族意識もしだいに明確になった。

秦の中国統一は戎、狄から脱却し中原文化に融合したことを意味していた。やがて万里の長城に象徴される民族間の断絶が生じ、異民族のあいだの直接的なつきあいはますますむずかしくなった。

史書の記述を読むと、強固にして広大な国土を持つ統一国家秦が成立した後、異民族のあいだの結婚は目立って少なくなり、漢代になると中原と周辺の関係はさらに文明と野蛮の対立として誇張され、異民族の男女のあいだにかつてあったようなつきあいと結婚も少なくなったのである。

中原の民族と周辺の民族の結婚は、上層階級同士と一般民衆同士の二種類に分けられる。ただ史書のなかで前者についての記録がわずかに残っているだけで、後者については無視されたかあるいは意識的に忌避されていた。

したがって後者についての資料を見つけるのはほぼ不可能である。上層階級の異民族間の結婚はほとんどの場合、政略か利害関係が絡んでおり、一般に男女間の感情の介在はなかった。

それに対し一般民衆のあいだの結婚は感情介在の可能性が非常に高いと思われる。しかし、古代において詩文という特権的な表現方法はほとんど全部中原の士大夫階級に独占されていたため、詩や散文文学のなかにも一般民衆のあいだの恋は描かれていない。

ただ一方では異民族とのあいだの恋や結婚によって獲得された新しい感情表現の方法は、ひとつの伏流として中原文化の体内に蓄積されたことは十分にありえただろう。

事実、後に戦争などにより異民族間の行き来が再び盛んになったとき、それはかたちを変えて洗練された表現の場をえ、また異民族の文化の吸収をスムーズなものにしたのである。

第二章 人神の恋--南方の歌垣から P65-

第三章 人怪の恋--北方民族の文化から P90-

3.1 大混血の時代と「漢民族」の誕生
P92 中国の民族について考えるとき、なにをもって民族を区別する尺度とするかは大きな問題である。というのは中国では少数民族を含めて、民族の成分は非常に複雑で、単一で固定した物差しは当てはまらない場合が多いからである。

私はつねづね中国大陸に居住し、しかも特定の少数民族を名乗れない人はみな漢民族だと考えており、また事実そうであるにちがいないと確信している。

中国ではたとえその祖先が異民族であっても、本人が名乗らなければ誰も知らないし、名乗ってもまわりの人々は興味を持たない。家系図を作るために金銭で古代の有名人の名を先祖として買うことさえしばしば起こっていたのだから、そんなことは茶飲み話のネタにもならない。

先祖がどんな民族であろうと、五世代以上経てばルーツの話はもはやおとぎ話以外のなにものでもない。重要なのは現在である。二、三世代中国に住めば誰でも漢民族になれるのである。

中国における「中国」ということばの意味の変遷はすでに現代の学者、于省吾、陳連開など諸氏の研究によって明らかにされている。それによると、このことばは西周(紀元前一〇二〇頃~紀元前七七〇年)初期にはじめてあらわれたという。

一九六三年に陝西省宝鶏の賈村に出土した西周の尊(酒樽)に刻みつけてあった文章にはすでに「中国」の二文字がある。

P93ただ、それは国名として使われたのではなく、国都を中心とした地域を指していた。

『詩経』「大雅」にある「此の中国を恵し、以て四方を綏んぜよ」もその意味である。歴史書のなかで「中国」ということばは『公羊伝』『左伝』にも出てくる。ただその場合ことばの意味は少し拡大され、魯、斉、鄭、陳、蔡などの小国がみな「中国」あるいは「華夏」「諸夏」と言われている。

戦国時代になると、秦、楚を含めて、斉、燕、韓、趙、魏などいわゆる「戦国の七雄」はともに「中国」と称されるようになった。『史記』の用例に見られるように、漢代になると「中国」ということばは事実上、統一国家の国名として用いられていた。

ただ、一方では「中国」は多義語で「国都」という意味もある。事実、「国都」という意味の「中国」は春秋時代から清朝にいたるまでずっと使われていた。

中国語の「漢族」ということばは日本語の「漢民族」に当たり、社会学の用語として近代に入ってからはじめて使われるようになった。それまで漢民族の呼称として、「漢人」が散見していただけである。

「漢人」はその名の示すとおり、ほんらい漢代の人という意味であって、民族の名称ではなかった。もっとも王朝名、あるいは年号が用いられていた歴史書のなかに、普通「漢人」ということばが使われること自体、それほど多くない。

中国人を呼ぶ名称として「漢人」はもちろんもっとも古い呼称ではない。さらに遡れば秦代の人は「秦人」と呼ばれていたが、戦国時代より以前に統一した名称はない。

ただし、中国を統一した秦王朝は戦国時代の秦の国だったので、「秦国の人」という意味の「秦人」はもちろん戦国時代にすでにあらわれていた。したがって、「秦人」ということばには二つの意味があったのだ。

秦始皇帝のときから匈奴の人たちは統一国家の人々を「秦人」と呼ぶようになった。この場合、当然「秦人」とは中国人という意味である。秦が滅び、漢王朝が成立した後も「秦人」は中国人の通称として使われており、その証拠として『史記』巻百二十三「大宛列伝」、『漢書』巻九十四「匈奴伝」や巻九十六「西域伝」のなかの用例があげられる。

「漢人」ということばは後漢(二五~二二〇年)にすでにあらわれたと思われる。『後漢書』巻八十八「西域伝」、巻八十九「南匈奴伝」、巻九十「烏桓鮮卑伝」などには漢王朝の人を指して「漢人」という用語があった。

しかし、中国人の通称としての「漢人」はおそらく魏晋六朝時代になってはじめて定着したのだろう。「秦人」と同じように、「漢人」という名称も最初は匈奴のような周辺にある民族、あるいは中原に進出した民族などによって呼ばれていたと思われる。

その後、単なる民族とのつきあいのなかで、中国人自身も自分の民族を呼ぶ名称が必要だということに気づき、やがて彼らはみずからを「漢人」と呼ぶようになったのであろう。

ところが、「秦人」にしろ「漢人」にしろ、ほんらい純血の一つの民族を指すのではなかった。それは現在の「中国人」「アメリカ人」と同じように、ただ「国民」という意味しか持っておらず、民族という意味はほんらいなかったのである。

P95秦が中国を統一し、秦王朝を樹立した後の民族の融合、また漢代における民族のあいだの相互浸透はそのもっともよい証拠である。とりわけ楚、越など南の民族派、後退した一部の集団を除いてほとんど「秦人」や「漢人」に吸収されたのである。

秦王朝が中国を統一するまえの秦の国と戎、狄など周辺の民族との密接な関係についてはすでに第一章で述べたが、実は秦の人たちが騎馬民族だったかもしれないことを示す資料があるのだ。

『史記』巻五「秦本紀」によると、周の孝王のとき、秦の人たちは「馬及び畜を好み、善く之を養息」していたので、周の孝王は馬の放牧を非子を首領とする秦の人たちに従事させた。

すると、「馬は大いに蕃息す」という。このことからみると、秦の先祖たちがかつて遊牧民であった可能性は大きい。少なくともいわゆる秦の人のなかに戎、狄など異民族の人がかなり含まれていたことはまちがいない。

ところが支配権を争い、正統性を主張するためか、楚と違って秦の人たちはつねに異民族ではないことを示そうとしていた。早期の秦の地理的位置とも関係があっただろうが、彼らは後にほかの戎の部族とよく戦い、秦の襄公のときに犬戎が周王朝を攻撃した際、秦は周の平王を助けた。

そのため、秦の襄公は諸侯に封じられ、「襄公是に於いて国を始め」(『史記』巻五「秦本紀」)、秦はついに中原の国々に仲間入りを果たしたのである。

紀元前二二一年に秦の始皇帝が中国を統一した。戦国時代においてすでに中原の文化を全面的に吸収した秦はしだいに中原のほかの小国を併呑し、と同時に戎、狄など多くの異民族と戦いをくりかえしながら、その領土と住民を吸収した。

秦王朝の誕生により、異民族に「秦人」と呼ばれた中国人ははじめて一つの「民族」として歴史の舞台に登場する。もちろん、「秦人」と呼ばれた中国人はすでに混血や同化などを通して、多くの異民族を吸収していたので、彼らはほんらい一つの民族ではなかったことはいうまでもない。

古代において民族の境界線ははなはだ不明瞭であった。史書の記述を見ると、戦国時代までにはまだ「民族」という概念がなく、「礼」の秩序を認めるかどうかがつねに「異質」を見分ける基準とされた。

『礼記』に見られるように、「礼」の制度は生活様式から服飾にいたるまで細かい規定がなされている。『左伝』には夷、蛮、戎、狄などは礼を知らず、信を守らないという記述がかなり多い。

『左伝』「襄公四年」にある「戎狄は親無くして貪る」や「戎は禽獣なり」などのことばは、戎、狄などの民族が「礼」を知らないから、親愛の情がなく欲が深いことを指している。

同じく「成公二年」の「蛮夷戎狄、王命を式いず、淫湎常を毀る」とは、君臣、父子など上下の序列をわきまえず、信がないことを意味している。

『史記』になると、生活様式、生産方式が区別の基準として言及されたが、それでも「民族」という意識はなお希薄であった。「匈奴列伝」を見ると、匈奴のことばについては「文字がなく、口頭で約束する」ことだけがあげられ、ことばの違いそのものは区別の基準ではなかった。

老人を敬わず、父親が死んだ後、息子がその妾をめとり、兄弟が死ぬと、その妻をめとることなどの風習はもちろんひきつづき「礼儀を知らざる」こととされている。

P97ところが、それとは別に漢代ではもう一つの基準として「冠帯の飾」がある。後に「礼儀の厚い風俗」という意味で用いられた「冠帯」ということばはもともと「冠を被り帯を結ぶ」ことしか意味していなかったが、『史記』では道徳、風習というニュアンスで用いられた。

「冠帯」への言及は服飾の違いが「異質」を区別する基準として意識されたことを意味している。事実、同じく『史記』巻十六「秦楚之際月表」のなかで秦の始皇帝による統一を「冠帯の倫」つまり礼儀をを知る人々を統合したと言ったのも、秦が中原の文化を継承したという意味である。

地域の名であった秦が王朝名になったと同じように、「漢」が王朝の名になったのも、漢水という川が流れる漢中郡を領有した劉邦が漢王であったからだ。史書のなかで「漢」をはじめて王朝名としたのは『史記』であった。

ただこの場合でも「秦楚之際月表」にあるように最初は楚、趙、斉、燕、魏などと並列していたに過ぎなかった。

新しい統一国家としての漢は北方民族の匈奴とのあいだに絶えず衝突が起き、その間に住民の強制連行、捕虜、投降などにより漢と匈奴との人員の流動がしだいにはげしくなった。

『漢書』巻九十四「匈奴伝」によると、漢の将軍趙信はもともと異民族の胡の王であったが、漢に降ってから諸侯に封じられ、軍隊を率いて匈奴と戦ったことがある。

漢に降ったときに王の趙信の統治していた領土とともに、そこの住民たちも漢に融合した。同じく『漢書』によると、紀元前一二一年に匈奴の昆邪王が兵卒四万人以上を率いて漢に降ったという。

一方、匈奴はほとんど毎年のように漢の領土に入り、物資の略奪や住民の強制進行をくりかえしていた。このように民族対立がはげしい時代にはさまざまなかたちを通して漢はほかの民族を吸収したのである。

3.2 魏晋六朝の恋にあらわれた異質の要素
魏晋六朝時代の恋について考えるとき、漢代までの民族の構成とその変遷について振り返るのはけっして蛇足ではない。

漢代には西北における民族の衝突がくりかえされていたかわりに、長城の内側の民族融合が進み、かつての中原文化は領地を広めた。まえの時代の辺境の地をも含め、漢王朝に統轄された地域では中原文化が「中国文化」となっていった。

中央政府を脅かす匈奴、東胡など辺境の異民族との違いをはっきり示すために、儒学を重視する必要性があらためて認識された。『史記』の「匈奴列伝」からも窺えるように、匈奴の社会では青壮年がよい食物を食べ、年よりはその食べ残したものを食べるという習慣を反面教師にして、漢代の人たちは老人を敬う意味を見いだした。

また、父親が亡くなった後、息子がその妾をめとり、兄弟が亡くなると、兄嫁を妻にするという匈奴の風俗に対し、中国人は男女隔離の倫理についての自信を強めたのである。

漢代において儒学が官学として地位を築いたのは、ほかでもなくまさにその文化の差別化をはかるためのものであったろう。

P99 漢代の詩文を読むと恋はおもに『詩経』のなかの閨房内の恋だけを継承し、夫婦のあいだの情を詠うのがほとんど男女間の感情を表現できる唯一の方法であった。

しかも、それはいっこうに衰えを見せなったばかりでなく、のちにさまざまな詩題のヴァリアントを生み出したほどなお活力に満ちていた。

中原文化は自己批判の能力と進取性を失い、「外」に対するこのうえない優越感、現状に対するかぎりない満足と上位文化にいるという陶酔のなかで、人々は不滅の王国の夢を見、永遠に多民族に優越するという幻想に浸っていた。

下位文化に囲まれたときによく見られる、衰退の悲しむべき序幕であった。

やがて巨大な統一国家の体内に蓄えられたエネルギーはそうした傲慢、怠惰と約四百年間という長い時間の流れのなかで消耗し尽くされ、漢王朝は終局を迎え、国家は統一から分裂の周期に入ろうとした。

しかし、悔やまれる結末ではない。もはやなにかの手を打てば避けられるような状態ではなかった。如何なる文化もそれなりの周期がある。あたかも果樹つのように、春の陽光と雨露に恵まれてのびのびと成長し、青々とした葉が茂り、やがて大きな実を結んで豊饒な季節を迎える。

しかし、どの木もまた葉が落ち、冷たい風のなかで冬を過ごす運命にあうのと同じである。もちろん、国家にとって悲劇であった分裂状態は多民族社会の文化にとって必ずしも悲しむべきことではない。

否、むしろ他民族の新しいエネryギーを吸収し、民族の新たな体力を蓄積する機会が到来したといえるかもしれない。

漢代に続く時代はまさにそうであった。三国時代から中国はまた分裂状態に陥ったのをきっかけに、周辺に追いやられた民族はやがて再び内陸へ入り込む機会をえた。

魏晋六朝の詩文にあらわれた恋を考えるとき、何よりもまず最初に思い出されるのは曹植の「洛神賦」であろう。

洛水という川を通り過ぎたときに、宋玉の「神女賦」を思い出して作った賦であると作者の序からもわかるように、屈原の「九歌」や宋玉の「神女賦」からヒントをえたことは明らかである。

ところが、かつて楚の地にあった神への融合の願望はすでにない。中原に伝わった屈原の『楚辞』は完全に中原文化の文脈のなかで解釈されたのである。楚の文化を理解せず、また興味も示さない中原の文人たちにとって、中原文化のなかで消化された『楚辞』のもとの意味を詮索する必要はまったくない。

君臣関係の隠喩とする一元的な批評は、この作品を中原文化に組み込むのに最良の方法だからである。

しかし、屈原や宋玉の作品の底に潜む雄大な想像力はやはり魅力的であった。屈原より数百年も後に生まれた曹植は、すでに屈原や宋玉の作品の背景となる特殊な文化を知らなかったであろう。

が、かくもみごとに詠わしかもほかにほとんど例を見ない恋の情熱に三国時代の人々は心を強く打たれたにちがいない。、

やがて、魏晋六朝の志怪小説にも人神の恋があらわれるようになった。ごく自然の成行きだと思われがちだが、韻文から散文表現への大きな、困難な一歩であった。曹丕の撰と言われる『列異伝』(一説には張華の撰)にはこんな物語がある。

黄原という人がある朝門を開けると、一匹の犬が外で飼犬のように番をしている。

P101黄原はその犬を猟につれて行った。日が暮れようとするとき、突然一匹の鹿をを見つけたので、犬にその鹿を追わせた。犬のあとをつけていくと大きな穴があり、なかに入って百歩あまり歩くと、突然一本の平らな道が目の前にあらわれる。槐や柳の木が道路の両側に並び、家々のまわりには垣根や塀を巡らしている。

黄原は敷地のなかに入ったが、なかには数十軒の家が立ち並び、この世にないようなきれいな女性たちばかりがいる。艶麗な服を身につけ、ある者は楽器を奏で、ある者は碁を打っている。

此の高殿のところに行くと、そこには三軒の家があり、二人が番をしている。黄原を見ると微笑みながら、「この黒犬が連れてきたのは、きっとお姫様の主人になる人でしょう」と言う。

そこで、一人が残り、もう一人は建物に入る。しばらくしてから四人の侍女が出てきて、黄原を建物のなかへ案内する。なかには南向きの広い部屋があり、窓から大きな池が見える。妙音という名のお姫様は容貌が艶やかで、声もきれいである。そこで二人は夫婦に結ばれる。

結婚の儀式が終わると、宴会が始まり、そして二人は一夜を共にする。数日経った後、黄原はホームシックにかかり、家に帰ろうとした。妙音は、人間と神の道は異なり、もともとそう長くいられるものではない、と言って玉を解き、袂を分かつ。

別れぎわに女は涙を流しながら、もはや再び対面することはない、もしわたしのことを恋しくなったら、三月一日には飲食を慎み、けがれに触れないようにし、家に閉じ込もった方がよい、と言った。

四人の侍女は黄を送り出し、半日かかってやっと家にたどりついたが、心中はなおうっとりしている。その後、毎年三月一日になると、空中に女の乗っている牛車が飛んでいくのを見ることができる。

この物語から窺えるように、プロットの構成、典拠の使用などにおいて屈原の作品から少なからぬヒントをえている。しかし、ここの人神の恋は完全に中原文化のコンテクストのなかに吸収された。

劉義慶撰『世説新語』「惑溺」にある韓寿の話が唐代の「鶯鶯伝」と発想のうえでのつながりを持っていたのと同じように、後の『遊仙窟』などの作品への想像力のリレーはこの黄原の話においてすでに認められるのである。
(tw,tw相互参照tw)『恋と日本文学と本居宣長』 P007/ 009/ 011/ 013遊仙窟、万葉集/ 015遊仙窟、和漢朗詠集、源氏物語/ 017遊仙窟,魯迅/ 019/ 021/ 023/ 025鶯鶯伝、西廂記、紅楼夢/ 027金瓶梅、紅楼夢、西廂記/ 029/ 031
一方、中原文化のなかの「鬼」「神」を区別しない慣習とあたかも呼応するかのように、人間と妖怪の恋を描いた作品も同じ時期に登場した。人神の恋という蚕から人怪の恋という別種の蛾が生まれたのは意外なことであり、また当然なことでもあるようだ。

同じく『列異伝』にはこんな話がある(「捜神記」巻十六にも収められている)。

(略)

P103/ 105/ 107
3.3 北方民族の南進と風習の変遷
P108ところで、なぜ魏晋六朝において大きな変化が起きたのだろうか。この問題を解明するためにもう少し当時の歴史背景を振り返る必要がある。

後漢の建武二十四年(四八年)に南北匈奴が分裂し、南匈奴は漢王朝に臣服した。その後、南匈奴は漢の領地内に生活し、ときには漢王朝の圧力のもとで内陸部へ移動したこともあった。

章和二年(八八年)に南匈奴の単于は皇帝宛の上申書のなかに、「臣などは漢の地に生れ育ち、生活は漢の食物の給与を頼りにしている」(『後漢書』巻八十九「南匈奴伝」)と言ったことがあり、南匈奴はまえよりかなり内陸部に入っていたことを示している。

P109一方、分裂のために弱体化された北匈奴は西の方に移り、それにかわって鮮卑族が残留した匈奴を統合し、後漢の終わりごろには中国北方の最大の民族となった。後漢が滅び三国時代になると、鮮卑族にくわえて、匈奴族、氐族、羌族などの民族が大量に大陸の中心部に流れ込んだ。

彼らはあるいは内戦に挑み、あるいは戦乱に乗じて領地を拡大した。当時、魏、蜀などの軍隊には異民族の兵士が多く、『三国志』巻三十「魏書三十・烏丸」によると、袁紹は烏丸族(烏桓)の精鋭な騎兵を傘下の軍隊に多数編入したという。

また、袁紹自身が認めたように、彼はそれ以外に「戎狄の衆」をも率いている(『三国志』巻一「魏書一・武帝紀」)。一方、曹操は建安十一年(二〇六年)に烏丸を破り、「其の族を悉く徒し中国に居せしむ」。

そのため、烏丸族の軍隊は改編され、後には「天下の名騎」といわれるほどの有名な騎兵部隊となったのである。

蜀の将軍馬超は祖母が羌族なので、羌、氐などの民族のあいだでたいへん人望が厚く、彼の率いる軍隊には氐族、羌族など異民族の兵士が非常に多かったという(『三国志』巻三十六「蜀書六・馬超)。

彼はその軍隊を率いて甘粛省南部の隴山のほとりを攻略し、涼州を占拠し(前出)、また、建安十九年(二一四年)には氐族、羌族の兵士数千人を率いて曹操軍を迎撃した(『三国志』巻九「魏書九」)参照

当時、氐族、羌族などは漢民族と雑居しており、異なる民族のあいだの関係は必ずしも悪くはなかったようである。『晋書』巻五十二「阮種」には「魏氏以来、夷虜は内に附き、桀桿の侵漁はまれに有るなり」という言葉があり、漢民族とほかの民族は平和につきあっていたことが示されている。

『世説新語』「軽詆」によると、氐族政権「前秦」の皇帝苻堅が羌族の姚萇に殺されたとき、皇太子の苻宏は母や妻子をつれて東晋に亡命した。東晋は苻宏を受け入れ、輔国将軍を授けただけでなく、太傅(国務大臣)の謝安はいつも懇ろに彼をもてなしたという。

貴族や官僚のあいだだけでなく、役人と庶民の関係もかなりよかった。同じく『世説新語』「方正」にはこんなことが記録されている。魏の関中都督である郭淮の妻は兄の罪に連座して、処刑されることになった。

郭淮ははなはだ民心をえていたため、侍御史が捕らえにきたとき、部隊長や羌族、胡族のかしらをはじめ数千人もの人たちが町に出て、郭淮に上表して妻をひきとめることを願いでる。それにしたがい郭淮はみずから陳情して皇帝の許しをえた。

『三国志』巻三十の付録「魏略・西戎伝」には、氐族の人は「多くは中国語を知り、中国人と錯居す」と書かれている。西晋(二六五~三一六)になると、関中(現在の陝西省の地)にいる百万人以上のなかに漢民族以外の人がすでに半分を占めていた(『晋書』巻五十六「江統)。

それ以外の地域でも異民族は大挙して中原に進出し、晋文帝の司馬昭はかつての晋の「王政」がよいために八百七十万以上の異民族が晋の領地へ移住したと吹聴した(『晋書』巻二「文帝」)。

P111そのことばにはやや誇張があるかもしれないが、漢民族の居住地に移住した北方民族の人数がかなり多かったことはまちがいない。

晋武帝の司馬炎が帝位に即いた後、匈奴の地では洪水に見舞われ、二万以上の集落が晋に帰化し、晋武帝は彼らを漢民族と雑居させた。さらに太康后五年(二八四年)には匈奴の太阿厚という人が二万九千三百人を率いて帰化し、二年後に都大博、萎莎などが十万以上を率いて帰順した。

その翌年、匈奴の都督は一万一千五百人と牛二万二千頭、羊十万五千匹をつれて晋に奔った。晋武帝は大臣の反対を退け、彼らをみな受け入れた(『晋書』巻九十七「北狄・匈奴」)。

帰化した匈奴の人たちのなかには固有の風俗や習慣を変えず、そのまま集団で生活していたものもいたが、漢民族と雑居し、彼らのなかにとけ込んだ人もいた。

晋武帝のとき、太原では多くの匈奴や胡人が小作人として漢民族の地主に雇われ、その人数は数千人にのぼったといわれ(『晋書』巻九十三「外戚・王恂」)、漢民族への同化は生産方式の面まで進んでいたことを示している。

漢民族の地に移り住んだ各民族は進んで中国語を学び、中国式の名字をつけ、なかには普通の中国人以上に古典に精通するものもいた。三〇四年に「漢」という名の国を作った劉淵は匈奴の出身でありながら、幼い頃から勉強が好きで、『詩経』『尚書』を学び、ことに『左伝』が好きであった(tw)。

その博学ぶりは晋武帝をも驚かせたほどである。彼はまた『孫子兵法』を暗唱でき、『史記』『漢書』、諸子の書など読まないものはないという。その子の劉和、劉聡、劉宣などもみな中国の典籍を熟知していた(『晋書』巻百一「載記第一・劉元海」)。しかも、そのような人は異民族のなかに少なくなかった。

当時、漢民族の支配者は北方民族を警戒していたが、日常生活においては民族差別は必ずしもなかったようだ。晋の郗超は人々に氐族の苻堅に似ているといわれると、たいそう喜んだという『世説新語』「企羨」の記述はそのよい証拠と言える。

三一六年に東晋は劉淵の養子劉曜によって滅ぼされ、中原地域を含めて、中国の北方は異民族の統治下にゆだねられた。そのときから民族融合はさらに進み、狩猟から農耕への生産方式の転換、結婚などにより、民族のあいだの区別はいよいよ二次的なものになってしまった。

当時の人口の比率から見ると、漢民族(もちろん春秋時代から混血をくりかえしてきた漢民族)は多数を占めており、匈奴、鮮卑族などの北方民族は軍事的に漢民族を征服することはできたが、いずれも漢民族を同化することはできなかった。

逆に六朝時代を経て多くの北方民族が漢民族のなかへ融合したのである。さらに遡れば、北方民族が中原に進出するまえに中央政権と和親した時期があり、そのときには皇室の人たちがみな漢民族と婚姻関係を結び、劉淵のように皇室の直系のなかに漢民族の血を引いた者も少なくなかった。

P113(東晋十六国地図) おもしろいことに、大陸の北部を統一した北方民族はみなみずから「中国」と称し、しかも「『春秋』の大義」を掲げていた。彼らは中国語を話し、中国の古典を読んでいただけでなく、二文字以上ある姓を中国人のように一文字にした。

鮮卑族の拓跋珪が三八六年に北魏を樹立した後、漢民族の文化への同化はさらに進み、孝文帝のときになると、ついに「衣服の制を革らたむ」つまり服装を変え、朝廷では「北俗の語」(民族の言葉)を使ってはいけない。違反者は官職を罷免する、という詔書を出すまでにいたったのである(『北史』巻三「魏本紀」)。

こうした北方民族の漢民族への同化は裏返していえば、また漢民族の変質の過程でもあった。漢民族への同化は同時に自分の民族のものを漢民族文化のなかへ持ち込むことを意味する。

北方民族の人たちが漢民族のなかに融合したからといって、彼らが自分の民族の風習を捨てる必要はないし、また捨てようともしなかったであろう。事実、当時では異民族の品物が重宝され、その習俗がまねされていたようだ。

干宝の『捜神記』によると、
「胡床(椅子の一種)と貊槃(北方民族である貊族の使う鉢の類)は、もとは北方の胡の使う道具だった。また羌煮(羌族の料理)と貊炙(貊族の肉の焼き方。丸焼きにして刀でさいて食べる)は、もとは北方の胡の料理だった。

ところが太始(二六五~ニ七四年)以来、中国では貴重なものとされ、高貴の人や金持ちは必ずこれらの道具を所蔵しているし、めでたい席や客を招待するときには、胡の料理が最も上等とされてきた」(竹田晃訳)。
『捜神記』は説話のアンソロジーであるとはいえ、こればかりはフィクションではないだろう。

P115 ここで先に引用した『抱朴子』のなかの記述を想起すれば、漢民族文化の変質の謎がおのずと解けてくる。「沢山のお伴を連れ、路一杯に派手な服装をひけらかし、女中や兵卒で市場のような雑踏である」という現象の背景にはやはり異文化の影響があったであろう。

つまり、大量の北方民族の流入は中原の風習を大きく変えてしまったのである。

そもそも北方民族と漢民族とは男女関係において大きな違いがあった。『三国志』巻三十「魏書」の「烏丸」によると、三国の蜀と関係のよい烏丸は「其の嫁娶は皆先に私通し、女を略して去る」という。

漢民族のいわゆる「私通」は男女の自由な恋であろう。当時、烏丸にはまだ母系社会の跡が色濃く残されており、かつレビレート婚(関連tw)などの風習もなお見られていた。鮮卑族は「常に季春を以って大会し、水上にて楽を作り、女を嫁がせ婦を娶る」(前出)。そのほかの民族も漢民族の風習と大きく異なっていた。

そうした北方の女たちが男女隔や女性の外出禁止を守らなかったのはまったく不思議ではない。さらに重要なのは、ときには彼女らが異民族としてではなく、漢民族として道を練り歩いていたのである。

そうした状況のもとで漢民族とりわけそのなかの庶民階級が影響を受け、女性の外出禁制の戒律が緩んだのもごくあたりまえのことである。

葛洪は『抱朴子』のなかで、「晋の懐帝・愍帝の世(三〇七~三一六年)、風俗が驕慢淫猥になり、まるで自分が野蛮人であるかのように振舞う」ということが、北方の蛮族が中原を乱し、長安を侵略するという事態を予告するものであった、と占卜術的に解釈していたが、事実はその反対で、その「風俗の驕慢淫猥」こそが漢民族文化と北方民族との衝突によるものだった。

P116このような状況のもとで、異民族のあいだの男女交際の機会と頻度が増えたことは容易に推察される。前秦の王嘉の『拾遺記』巻九にはこんなことが記されている。

石崇(ニ四九~三○○年)には翾風という侍女がいる。彼女は十歳のときに北方民族の胡(鮮卑族だと思われる)から買ってきたのだが、十五歳になると、絶世の美人となり、とりわけ体つきがきれいである。

石崇は数千人の美しい侍女を抱えていたが、この侍女をもっとも寵愛していた。『拾遺記』は怪奇のことばかり記述した書物だが、石崇は晋の実在の人物である。

その侍女が実在の人物かどうかは詳らかではないが、北方民族が数多く中原に流入した時代においてまったくの作り話とも考えられない。

事実、異民族の女性と恋をした記録は史書にも見られる。『晋書』巻四十九「阮籍」によると、阮籍のいとこの阮咸は叔母の家の鮮卑族の侍女を寵愛していた。母の喪に服しているあいだ、叔母がその侍女をつれて遠くへ移った。

その話を聞いたとき、ちょうどある客が阮咸を訪ねてきた。阮咸は客から驢馬を借りると、喪服をつけたまま追いかけ、侍女をつれて帰った。その後、侍女とのあいだにひとりの子を設けたという。

北方民族の女性たちは外を自由に歩くことができるから、漢民族とそれらの民族の女性のあいだに恋が芽生えることも当然しばしば起きていたにちがいない。そして、その影響のもとで漢民族の女性も多かれ少なかれ儒学倫理の束縛から解き放たれ、漢民族同士のあいだにも自由な恋が生まれただろう。

P117六朝の志怪小説のなかには町や野外や、あるいは川のほとりで見知らぬ女と出会い、二人が恋におちいり、一夜を共にした話が非常に多い。そうした物語の背後に北方民族の文化の浸透があったことは見おとせない。

このように見てくると、「九歌」や「「神女賦」などの作品系列からの継承が一方にあったとはいえ、六朝の志怪小説にあらわれた人神の恋や人怪の恋は魏晋六朝における異なる文化の衝突と大きなかかわりを持っていたことが明らかである。

北方民族文化の刺激がなかったら、六朝文学における恋の表現はまた異なる様相を呈しただろう。

六朝の志怪小説にはもう一つ、人間と動物のあいだの恋や結婚を描いた、いわゆる異類結婚譚と呼ばれる作品群がある。『異苑』巻三に虎が美人に化けて人間を誘惑する話があり、『捜神記』巻十四に牝馬が人間の女性に恋をした話や、また『幽明録』には淳干矜が美しい女性になりすました狐と結婚した話などがある。

そうした物語は異なる民族のあいだの恋や結婚から連想された可能性がきわめて大きい。春秋時代から中原の民族は辺境の民族を軽蔑して、異民族の呼称に犬偏をつけた字を使ったり、動物を思わせる名前をつけたりする習慣がある。

かつて戎族のなかに「犬戎」と称された民族があり、類似する名称はほかにも見られる。『後漢書』のように正確さで知られた史書さえ、「蛮夷」は犬と王女のあいだにできた子の末裔だと書かれている(巻八十六「南蛮西南夷列伝)。

漢代に匈奴と呼ばれた民族は殷のときに「獯粥」と呼ばれ、周の時代には「獫狁」と呼ばれていた。漢代の『説文』によると、「獯」は「㺗」に通じ、『山海経』では人間の顔をした犬であり「獫」は口の長い犬である。さらに、「狄」について『説文』には、もとは犬の種である、と赤裸々に書いている。

もちろん、そうした命名には動物をトーテムとする民族習慣が一部反映されていたかもしれない。が、漢民族文化の文脈では侮辱の意味があったことも否めない。

あくまでも推測の域を出ないが、北方民族に対するそうした動物とつながる漠然としたイメージの連想から、女性が動物という姿で物語に登場したことは十分にありえただろう。

ただ、これはあくまでも想像の回路をたどった試みに過ぎず、実際、六朝の志怪小説のなかでは、男と恋する女性は神であれ、妖怪であれ、あるいは動物などの異類であれ、そんなことはまったく関係はない。

重要なのは恋が記述の対象として、すでに韻文から散文への転換が完成され、物語のなかで一つの意味構造として独立したことである。

異なる民族文化の進入は漢民族文化に大きな刺激を与えた。魏晋六朝の志怪小説の誕生にはさまざまな原因があったろうが、数多くの民族の人たちの出会い、異なる服飾、諸々の風習、北方民族を通して伝わってきた仏教などが、漢民族の想像力を豊かにしたことは否定できない事実である。

男女関係においてそれは漢民族の恋の習慣に大きな影響を与えただけでなく、新しい恋の情緒表現を生み出す原動力の一つともなった。そして人神の恋や人怪の恋、あるいは人間と動物の恋という「怪奇」の上塗りは、非儒学的な恋の表現に対する非難を避けるための保護色にもなったのである。

第四章 美貌の胡姫たち--長安の宴 P119(唐代の舞楽屏風)-
4.1 遊里の風習と遊女物語の誕生
P121 序章では恋はおおよそ三つのパターン、すなわち、夫婦の恋、未婚男女の恋、遊女との恋に分けられると述べたが、短編小説というかたちで登場してきたのはいずれも唐代になってからである。 P123/ 125
4.2 異国の美人たち
P127 六朝時代には未婚男女のあいだの恋が現実に存在していたものの、それが美的価値として定着したのは唐代がはじめてであった。この意味において九世紀のはじめに書かれた「鶯鶯伝」は情緒表現の歴史において重要な一理塚である。

そのなかに展開された恋の絢爛たる世界は後の世代の人々の感情生活を大きく左右した。

ところで、未婚男女の恋を描く成熟した作品が唐代になってあらわれたのはなぜだろうか。『楚辞』や漢代、六朝以来の人神の恋と人怪の恋の継承などもちろん重要な原因であろう。しかし、それとは別にもう一つ注目すべき点は西域の女性との交際である。

漢代から西域諸国は中国に使節を派遣するようになったが、唐代になると社会秩序が安定し平和が続いたため、使節だけでなく、外国からさまざまな人たちが中国を訪ねた。

『新唐書』巻二百二十一下「西域下」によると、貞観(六二七~六四九年)のはじめ頃に唐の太宗は西域の使節に、「西の突厥はすでに降伏したから、貿易は再開してもよい」と言ったので、「外国の商人たちは非常に喜んだ」という。

その後、外国との行き来はいっそう盛んになり、奈良時代の僧侶真人元開(後に還俗し、淡海真人と賜姓され、淡海真人三船と名乗った)は『唐大和上東征伝』のなかで、天宝九年(七五〇年)の広州について次のように書いた。

「川にはインド、ペルシア、崑崙(南海諸国--引用者注)などの船が泊まっており、その数を知らない。
P129/ 131/ 133
4.3 胡姫たちの唄 P134/ 135/ 137/ 139/ 141/ 143/ 145
4.4 玄宗と楊貴妃の恋(参照)
P146人口に膾炙する白楽天の詩「長恨歌」は唐の玄宗と楊貴妃のあいだの情愛を詠ったものとして長く人々に好まれてきた。

二人の関係はほとんど例外なく恋人のように見なされ、玄宗と楊貴妃は悲恋の典型として文学のなかで再三取り上げられた。

P147題材として、典拠として、さらに隠喩として、その後長い時代においてその内在する活力と素材としての可能性はずっと失われていない。
P149/ 151/ 153

第五章 略奪婚の衝撃--漢族文化への回帰 P154-(tw)
P155(聴阮図)
5.1 恋の技術への興味
P156『楚辞』に起源する人神の恋、六朝に誕生した人怪の恋や人間と動物の恋の流れを汲んで、異民族文化の刺激のもとで形成された唐代の未婚男女の恋には新しい情緒表現が登場した。

鶯鶯伝(参照)」に見られるように、空間的な隔たりを恋の源泉としながらも、男女間の越えられない距離が同時に禁忌であったがゆえに、禁忌への侵犯の動機が恋の情熱の源泉として昇華したのだ。

媒酌の排斥、詩の交換の持つ象徴的な役割の定着などにより、未婚男女の恋はついに確立されたのである。

ところが、唐代では異民族文化の参入が重要な要素であった未婚男女の恋は、宋代になると儒学文化のなかに吸収され、人々はもはやそのなかの異質な素因には気づかない。

禁忌が文化融合のなかで洗われ、その毒々しさが歴史の川でしだいに溶けたとき、禁忌への侵犯を美的価値の前提とする行為もその意味を失う危機に直面する。そこで恋の方法への注目は一気に増大し、また、従来と異なった意匠と工夫も必要となる。

宋代において未婚男女の恋がいかに受けつがれたかは同時代の作品からかっきりと窺える。明代の版本しか残ってないが、研究者のあいだでは宋代の話本と見られている「灯籠まつりの宵」(「張生彩鸞灯伝」)はそのような恋物語の一つである。

越州の張舜美というハンサムな青年が科挙の試験に落第し、灯籠まつりの夜、

P157杭州の街を散策していたとき、たまたま容貌の麗しい若い女性に出会い、一目ぼれした。

女性も張舜美に気があるようだが、互いにことばを交わすことはできない。この美人のことが忘れられない張舜美は翌晩また灯篭を見に出かけ、町のお寺でようやく見つけた。

帰りしな女は一通の恋文を落し、そのなかで自分の住所を教え、翌日、両親と兄弟はおじの家の灯会に出かけて、家には侍女と二人しかいないから、遊びに来るようにと誘った。

降って湧いたような幸運に恵まれ、張舜美は大喜びで一晩眠られなかった。翌朝はやく男は女の住まいを訪ね、ようやく二人は直接ことばを交わすことができた。

しかし、女の両親が戻れば、また会えなくなる。そこで二人は張の親戚のいる鎮江へ駈落ちすることにした。夜になると、女は男装して男と手を携えて出かけたが、灯籠まつりで町中はたいへん混雑していた。

人ごみのなかで二人はたちまちはぐれてしまった。男は女一人では町を出られないと思って城内を捜してみたが、一晩捜してみ見つからない。翌朝、川辺に女の靴が一つ見つかり、町には女が川に飛び込んで自殺したとか、誘拐されたという噂が飛び交った。

それを聞いた張舜美は悲しさのあまり病気となり、寝込んでしまった。

しかし張舜美にはぐれた女性は自殺しておらず、混雑に乗じてなんとか城外へ抜けていた。彼女は張が一人でさきに目的地に行ってしまったと思い込み、船を借り切って後を追っていった。

町を離れる前にわざと一つの靴を目の付きやすいところに捨てた。両親を断念させるためである。しかし、鎮江についた彼女は行き場を失い、困り果てていたときたまたま一人の尼僧に拾われて、大慈庵という尼寺に住み込んだ。

一方、病気になった張舜美はしばらく休養した後、故郷に帰り科挙の試験準備に取り組んだ。三年の後、科挙試験を受けるため船で上京した。途中強風のため鎮江で足止めされ、陸に上がり散歩しているうちに大慈庵に入り、そこで期せずして恋人と再会した。

その後、男はめでたく科挙の試験に合格し、女をつれて故郷に錦を飾った。

この恋物語は明らかに「鶯鶯伝」の流れを受け継ぎ、明代以降の才子佳人小説につながる中間的な作品である。「鶯鶯伝」に比べると、恋は密室から解放され、灯籠まつりというおおやけの場に移されている。

宋代の風習がその背景になっているとはいえ、新しい恋の「場」の発見は、ステレオタイプの打破と恋人選びという新しい要素を恋の情緒に書き込むためには非常に有効である。

文章体と口語体という文体の違いがあるため、単純な比較はむずかしいが、ストーリーの構成は「鶯鶯伝」に比べてはるかに複雑で緻密になり、物語の完成度は明らかにかなり高い水準に到達している。

宋代はやや想像力が不足する時代ではあった。それでも恋を表現する歴史においてまったく創意がなかったわけではない。この作品のなかで注目すべきは恋の技術についての言及である。

中国では散佚した書物も含めて、性の手引書は漢代に遡ることができ、かつその数もおびただしい。が、恋の技術についての著述は見あたらない。

男女が隔離され、現実のなかでの恋はほぼ不可能であり、またたとえできたとしても評価されない文化背景のもとでは恋の技術に対する興味が生まれにくいのもうなずけるが、それが遅ればせながらも宋代の話本において発見され、記述されたの興味深い。

P159/ 161
5.2 略奪婚から閨房内の恋へ
P163 「灯籠まつりの宵」に描かれた恋は「鶯鶯伝」系譜のもので、空間的な隔たりが恋の情熱の源泉であるだけに、しばしば離別した夫婦の「恋」に類比される。

この意味で「鶯鶯伝」式の恋がのちに次第に儒学文化に吸収されたのは当然のことだといえる。なぜならそれは閨房内の恋の一種のヴァリアントとしても成り立つからである。

ところが、離別と再会をめぐる男女の哀歓を描くものなら、なにも筋の展開が単調になりやすい未婚男女にかぎられる必要はない。異なる民族のあいだに戦争がくりかえされるなかで、夫婦の別離も恋の情緒を伝えるりっぱな題材となりうるのである。

P165
P166「鶯鶯伝」風の恋が儒学文化に黙認され、閨房内の恋が復活し、かつ再び恋の情緒を表現するおもな方法になったのはぜだろう。一言でいえば、それは南下した北方民族文化に対する排斥によるものだ。

いままではもっぱら異なる民族文化の吸収についてだけ述べてきたが、しかし、異民族文化がつねに吸収されたとはかぎらない。吸収には一つの不可欠の条件がある。それは受容側にとって王ラスになるだけではなく、伝統文化に大きな脅威を与えるものになってはならないことだ。

宋代以降、儒学文化にとって異民族文化は二つの面において脅威となった。

P167一つは漢民族と異民族の力関係の逆転で、もう一つは文化の落差が縮小されたことである。

九〇七年に朱温(朱全忠相互参照)が後梁を樹立し、二九〇年に及ぶ唐王朝はついに幕を下ろした。もっともそれより二、三十年まえから中国は実質上すでに分裂状態に陥り、九六〇年に宋王朝が成立するまで数十年もの内戦がつづいた。

宋が天下を統一したとはいっても、その支配領域は唐王朝の最盛期よりはるかに狭くなり、北の方は契丹族政権の遼、党項族政権の西夏など異民族の国に取り囲まれたかたちになっていた。

その後それらの異民族政権の勢力がしだいに拡大し、一一ニ七年になるとついに北宋が滅びるにいたった。南に逃亡した宋の皇族は臨安(いまの杭州)に南宋を再建したが、その勢力はわずか南方の一部にかぎられていた。

このような状態は南宋がモンゴル族の元に滅ぼされるまで続いており、その間、黄河流域が漢民族の支配下にあったのはほんの数十年でしかなかった。

かつて中原地域にいた民族が辺境にいた民族を夷、蛮、戎、狄と呼んで蔑んでいたが、いまや漢民族と北方民族の地位が逆転し、中原地域が北方民族に支配され、漢民族が蛮夷の地--南方に追いやられたのだ。

表面上、この状況はかつての魏晋六朝における中原民族と辺境民族の対立構図とそれほど変わりはなかった。しかし、宋代の場合、民族のあいだの力関係においてすでに大きな変化が起きた。

魏晋六朝のときには複数の北方民族のあいだに力が分散されており、遼の契丹族や金の女真族やあるいは元のモンゴル族のように漢民族政権の南宋の国土面積をはるかに越えた国はかつてなかった。

また、魏晋六朝の時代には漢民族の政権が南部しか支配していなかったとはいえ、北方民族政権とのあいだに実力の差はそれほど開いておらず、双方はほぼ互角に戦っていた。

しかし、南宋になると、国力は大きく落ち込み、遼、金、元などの北方民族の政権とほとんど軍事的に対抗できなかった。異民族の絶えざる脅かしのもとで、享楽におぼれ、安逸な生活から抜けられなくなった南宋の人々は戦闘力を失い、大金を貢ぎ、領土を献上するしか生き延びていく方法はなかった。

南方の一隅で余命を保っていた南宋にとって北方民族はすでにみずからの存亡を左右する巨大な勢力となったのである。

P169(金・南宋地図) さらに重要なのは文化のあいだの差がしだいに縮小されたことである。たしかに五代までは異民族文化は漢民族文化に大きな影響を与えた。しかし、その場合、前者に対し後者は絶対的な優位にあり、中原に進入した異民族は漢民族文化を同化する自信は持っていなかった。

漢民族の人々も文化の優越感と安心感から大胆に異なる文化を摂取する余裕があり、異なる文化を取り入れることによって漢民族文化が滅びることなど真剣に心配していなかった。

ところが、五代、とくにそれにつづく宋代になると、周辺地域では民族意識が高揚し、北方民族の文化は明らかに儒学文化を崩壊させかねないほど成熟してきた。

魏晋六朝には辺境の民族が中原の政治制度をまねしなければ王朝は成立できなかったが、五代以降になると遼や金などの北方民族の国は漢民族と異なる政治制度を持っていた。

遼の太祖は神冊六年(九二一年)に「契丹および諸夷の法を制定した」(『遼史』巻六十一「刑法志上」)うえ、勅令によって官職の序列を立て(『遼史』巻四十五「百官志」)、事実上の官吏制度を定めた。

『三朝北盟会編』巻三「政宣上帙」によると、天慶二年から天慶四年(一一一二~一一一四年)のあいだ、女真族の人々は「みずから法律、文字をつくり、其の一国を成した」という。

もちろんその時点では、混血をくりかえした漢民族がまだ上位文化を享有していた。軍事的に漢民族を打ち負かし、広い領土を支配下に収めることに成功した遊牧民族は、まだ宋の洗練された文化を超えるものを作り出す力は持っていなかった。

P171しかし、儒学文化と異民族文化のあいだの差は魏晋六朝の時代に比べてはるかに縮まった。もはや悠然と異民族文化を吸収する余裕を持てなくなる。軍隊の南進とともに異民族文化は洪水のように漢民族地域を襲い、とりわけ線直後の一時期には後者に大きな打撃を与えた。

伝統文化の崩壊に対する危機感は異民族文化に対する脅威と化し、吸収や融合よりも排斥の意識が生じたのである。

一方、魏晋六朝の時代には新鮮で魅力に満ちた北方民族の文化も時間の推移によって漢民族にしだいに知られるようになっていた。そのため、宋代になるとかなりの程度まですでに新鮮さを失ってしまったのである。

恋や婚姻の面についても同じである。かつて異民族の恋の風習は漢民族の人たちの好奇心と想像力を刺激したが、未知と希少のベールが取り除かれると、刺激の作用も失ってしまった。

また、異民族文化と接触するときの形態も吸収を妨げる要因となった。平和時の人員の流動のなかでは恋が自然に民族のあいだに生まれ、異なる恋の風習は自然なかたちで伝播され、影響し合っていた。しかし、宋の時代には異なる民族のあいだの結婚は多くの場合、略奪によって成立したのである。

つまり、軍事力が圧倒的に強かった異民族の人たちが力によって漢民族の女を奪い、むりやりに妻や妾にしたことが多い。そうした民族の対立、摩擦、衝突による憎しみは当然、異なる民族のもつ文化に対する嫌悪感を増大させた。

匈奴の末裔の契丹族は唐代の末期に着実に領土を拡大した。彼らはまわりの小さい遊牧民族を併呑しながら、くりかえし中原の住民を略奪し、その勢力を大きく伸ばした。

『遼史』巻一「本紀第一・太祖上」によると、唐末の天復二年(九〇二年)に河東(いまの山西省)の代北に侵攻し、九万五千人を略奪した。翌年唐の劉仁恭の守備区域を数州も攻略し、その住民を家族とともに強制連行した。

九一九年に遼陽城を修築し、漢民族の人たちをそこに移住させた。翌年、天徳にいた唐の節度使の宋瑶を捕虜にしたうえ、その住民を陰山の南に移らせた。九二一年にはさらに南に進出し、十以上もの都市を降し、その住民を契丹族のなかに移住させた(『遼史』巻二「本紀第二・太祖下」)。

契丹族の政権「遼」が樹立した大同元年(九四七年)になると、略奪した漢民族の人口は百九万百十八所帯にのぼったという(『遼史』巻四「本紀第四・太宗下」)。

契丹族の人口略奪にはいくつかの目的がある。都市建設、農業生産、兵器の製造、軍隊の拡充などのための人材の導入はもちろん必要だが、女性の略奪も財産の収奪とともにその大きな目標の一つであった。

宋代の話本にはところどころ異民族の女狩りから逃れるために南へ逃げた人たちのことが書かれており、また北方民族に略奪された女性が操を守るためにみずから命を絶ったこともしばしば描かれている。

(略)

P173 遼が滅びたのち、女真族の金は南へ進出し、ついに中国の北部を支配し、宋王朝の存続を脅かす最大の勢力となった。女真族も政権を樹立した初期にはまだ略奪婚の習慣が残っており、『金史』巻六十八「列伝第六」にそれに関する記述がある。

(略)

P174略奪婚の風習はのちに同じ民族のなかではしだいに少なくなったが、人口増加対策の一環として宋王朝領内の女性は戦利品として略奪され、奪われた漢民族の女が強制的に結婚させられることはまだ多く見られた。

北方民族の軍隊による婦人の略奪は物の強奪と破壊とともに、漢民族の人々の目には当然、野蛮な行為として映った。このような背景のもとで儒学の倫理によって定められた結婚の方法は再度その先進性が認識される。

略奪婚という外来の脅威を受けただけに、親の取り決めによる結婚は必ずしも束縛ではなくなる。むしろ相対的に合理性を持つようになり、漢民族の人たちの共鳴をえたのだろう。

宋代にあったような民族間のはげしい対立と憎しみは結局文化の想像力を枯渇させてしまう結果となったのである。

「灯籠まつりの宵」と「馮玉梅団円」に見られるように宋代では、過去すでにあった恋の類型については文体やストーリーの構成など細部における工夫と創意が加えられたが、恋に対する洞察と思索においては過去を超えたものにはならなかった。小説類だけではない。

P175五代以降になると、詞は詩に代わって重要な文学表現の形式となり、かつ大きな発展を遂げた。それらの詞には男女の情愛を詠ったものが多く、なかには優れた作品も少なくない。

ところが、恋を唱ったそうした詞をよく吟味すると、離別した妻や妾に寄せる思いを詠んだものが大多数を占めている。異なる文化を吸収する余裕を持てなくなったため、結局恋の情緒表現は閨房内の恋という古い小屋に回帰せざるをえなかったのである。

5.3 混血の帝王たち
民族戦争のために、他の民族による略奪婚は民族間の必然的な結婚形態の一つとなった。少なくとも一時的にはそれはかえって民族間の溝を拡大させ、民衆レベルにおける異民族間の自発的な婚姻を妨げた。

ただ、みずからの意志による結婚に白、略奪婚にしろ、混血が依然として進んでいたことには変わりはない。そんななかで漢民族の感情世界も知らず知らずのうちに変化していったのである。

ところで、宋代までの漢民族の混血は果たしてどのような規模のものだったのか。中国の恋と婚姻を考えるうえで無視できない重要な問題である。しかし、民衆軽視の史書からはこの問題の実状はきわめてつかみにくい。

幸い儒学文化のなかで重要な位置を占める皇帝についての記述は数少なくない。漢民族出身の執筆者が多く、かつ儒学者が大多数を占める史学者の手になる歴史書には異民族出身の皇帝についてほとんどの場合二つの記述態度しか見られない。

彼らを蛮族と決めつけて蔑視するか、さもなければなるべく彼らの出身民族を隠そうとする。とはいうものの、文士としての良心とプライドにより、細部の記述はさすがに正確である。そうした細部の記述からときには隠された重要な事実を発見することができる。

最高権力者である各王朝の皇帝の血筋を明らかにするために少し時代を遡ってみよう。秦代に皇帝という絶対的な支配者が誕生してから、清代にいたるまで皇帝による統治という制度は二一一七年もつづいた。

統計基準や皇帝の定義によっては多少異なるが、失敗した農民反乱の「皇帝」をのぞき、皇帝あるいは天王、王という名称を持ち、かつ年号を使用した歴代の帝王の数は三百四十一人にものぼる(元号は漢の武帝が創始したので、それを持たなかった秦の始皇帝から漢の景帝までも計算に入れる)。

それらの帝王のなかで純粋の異民族出身者が百四十七人で、全体数の約四三パーセントを占めている。民族数は匈奴、鮮卑、氐、羯、羌、蘆水胡、鉄弗匈奴、突厥沙陀、契丹、党項、女真、モンゴル、満など少なくとも十三を下らない(tw)。

ところが、漢民族の出身と思われていた皇帝たちも必ずしも全部漢民族の人ではなく、なかには他の民族との混血の人も少なくない。

これまで漢民族は絶えず混血してきたことにくりかえし述べてきたが、ここでいう混血はそのような目に見えないものではなく、史書の記述を通して異民族間の結婚の過程がそれぞれの皇帝の家系からはっきりとたどれる場合を指す。

それなら、秦代以降そのような混血の皇帝はいったいどれくらいいたおだろうか。

P177漢代の劉邦は沛県(いまの江蘇省沛県の近く)の生まれだから、漢の皇帝は漢民族であった。漢が滅びると、情勢はしだいに変わる。魏晋六朝以降、数々の戦争のなかで勝利を収めたのはしばしば北方辺境の民族である。

それらの民族は生活文明の水準がやや低かったものの、きびしい自然環境と戦い、生活の窮乏に耐える能力を養われていた。狩猟や放牧をおもな生産手段としていただけに、彼らは集団移動に機敏に対応する力を自然と身につけ、戦闘力がきわめて高い。

戦争がくりかえされるなかで、いつのまにか中原の軍隊が弱く、北方、西北の軍隊が戦争に強いという傾向が生まれた。そのため、非漢民族の人たちが政権を勝ち取り、皇帝の玉座につく機会も当然しだいに多くなる。

なかでもとりわけ混血の人たちが皇帝の有力な候補者となった。魏晋六朝以来くりかえされた大規模な民族融合のなかで、漢民族と北方民族のあいだの結婚が激増し、また北方民族のなかに居住した漢民族も急激に増えた。

彼らは戦争に強いという北方民族の長所を持つだけでなく、かつ漢民族の相対的に高い文化にも親しんでいた。そのため、政権を勝ちとる能力を持っていたばかりでなく、国を運営する方法をも熟知していた。

北朝の斉(五五〇~五七七年)の初代皇帝文宣帝の高洋(系図wiki)はその一人である。『北史』には、高洋が渤海蓚(現在河北省景県)の人であると書いているだけで、その民族は明示していない。

ただ曾祖父の代から懐朔鎮(現在の内蒙古包頭の東北部)に居住し、数世代にわたって北方の辺境に住んでいたため、北方民族の風習に染まり、「遂に鮮卑に同す」と書かれている。

さらに、その先祖が晋のときに玄兎(現在の朝鮮咸鏡道)の太守を命ぜられており、かつ長く鮮卑族のなかに生活していた。そんななかで一族は自然に地元の鮮卑族の人たちと婚姻関係を結んだ。

高洋の父親高歓は匈奴の傍系である蠕蠕族(柔然ともいう)の王女をめとったことがあり、そのため、少なくとも高洋の代から混血のあとがはっきりとたどれるようになる。

事実、高の一族の生活習慣はすでに漢民族とかなり異なっていた。のちに高歓の妻となる婁氏は高歓が城壁の上で執務していたのを見て一目ぼれをし、「この人こそわたしの夫となるべきだ」と言って、侍女を通して愛を告白した。

その後、ひそかに数回も私財を高に渡し、それを結納の金とした(『北史』巻十四「列伝第二・后妃下」)。このような恋は漢民族のなかではほとんど考えられない。

また、彼らは日常生活のなかで鮮卑族のことばを使っていたようで、高洋が生まれたときに、鮮卑語の愛称がつけられたほどだった(『北史』巻七「斉本紀行中第七」)。高の一族は高麗族であるという説もあるが、少なくともその家族は鮮卑族と混血したことはまちがいない。

隋の皇室も一般に漢民族だと思われているが、実はそうではない。『隋書』によると、楊家の先祖は北方に居住しており、初代皇帝楊堅から遡って五代まえから武川鎮(現在の内蒙古の川西)に移り住み、歴代は武川鎮司馬、太原太守、平原太守、寧遠将軍など鮮卑族の王朝(北)魏で重職を任じていた。

P179楊堅の父親楊忠も鮮卑族の王朝(北)周の有力将軍で、後に文皇帝というおくり名を与えられた宇文泰に従い、度重なる戦功を立てた。そのためだ大司空(水土のことをつかさどる官職)、大将軍など重要な職に任ぜられ、また隋国公という称号が贈られたうえに、「普六茹」という鮮卑族の姓まで下賜された。

数世代も鮮卑族のなかに住んでいた楊家がその文化に染まらなかったはずはない。事実隋の文帝楊堅の姓名は普六茹堅というだけでなく、幼時の愛称は那羅延という。

家族のあいだに用いられた呼び名には文化の帰属性を反映していることが多く、鮮卑語の名を持っていたということは、楊の一族のあいだに鮮卑語が用いられていたことを意味しているかもしれない。

興味深いのは楊忠が「胡人」の容貌をしていることである。『北史』巻十一「隋本紀上」によると、楊忠は背丈が高く、きれいな髭をたくわえているという。隋唐の時代に髭が多く、かつ髭のかたちがきれいであることは胡人の容貌だとされたことが多いから、『北史』のこの記述にもそのような意味合いが込められているであろう。

また、楊堅の妻の独孤皇后は(北)周の将軍独孤信の娘である。『北史』巻六十一「列伝第四十九」によると、独孤家の先祖は北方の部族の首領であったという。独孤は本来匈奴族の姓であったが、独孤信は長く鮮卑族のなかに住んでいたから、すでに鮮卑族に同化していたと思われる。

独孤伽羅01(tw)    02(tw)      13(tw)       54        55終(twtw)

淵蓋蘇文12 49:15~独孤皇后(tw) 14 43:30~史実とは?(tw)     MULAN01 35:19~独孤皇后(tw)
            

陸貞つながり(tw)→
後宮の涙01 29:38~(#趙麗頴 tw,tw) 独孤伽羅15 10:21~   独孤伽羅43 18:30~
   

一口酥つながり(tw,tw)
後宮の涙29 19:38~    夢華録20 37:36~     軍師連盟07 26:57~


したがって、たとえ楊堅が漢民族であっても、少なくとも楊堅と独孤皇后のあいだに生まれた隋の煬帝楊広が漢民族と鮮卑族の混血児であることは疑えない。

さらに鮮卑族の政権(北)周の明帝宇文毓の皇后は独孤信の長女だから、楊堅は(北)周の明帝と義兄弟の関係になる。一方楊堅の長女楊麗華は(北)周の宣帝の皇后で、楊家と(北)周の皇室とは二重の姻戚関係にある。

中国では唐代が漢代に並んで理想の王朝とされており、漢民族がもっとも勢力を伸ばした時代だと思われていた。いうまでもなくそれは唐の皇室が漢民族であるということを前提とした見方である。

ところが、唐代の皇帝を純血の漢民族としたのは大きな事実誤認である。もちろん専門家のあいだではそれに対する疑問がまったく提起されていなかったわけではない。

しかし、事実を認めることはときにかなり苦痛を伴うことで、どの時代のどの文化においても卑俗な大国願望と文化不滅の幻想はつねに真実の認識を妨げているのだ。

『北史』巻六十一「列伝第四十九」によると、唐代の初代皇帝李淵の母親は独孤信の第四女で、李淵が皇帝の位についたとき元貞皇后というおくり名を与えられた。さらに、二代目の皇帝李世民(相参)の母親で、李淵の妻の太穆皇后の竇氏は匈奴族の父親と鮮卑族の母親を持ち、その母親は(北)周の文帝の第五女の襄陽公主である。

1)武則天45愛する人を追って。23:14~唐軍、安岩城を攻撃(張真泉と柳伯顔に囲まれた)(tw)
2)ヨンゲソムン01 01:11:13~李世民、包囲される。そして、ヨンゲソムンに左眼を射られる、02に続く(tw)
3)武則天46武媚娘の申し出。李世民、右胸を射られる。(twtw)
4)ヨンゲソムン02 左眼を射られた李世民


唐太宗李世民の妻、文徳皇后の長孫氏は長孫晟の娘である(相互参照)。『北史』巻二十二「列伝第十」によると、長孫晟は「代」つまり(拓跋)鮮卑人の末裔である。したがって、李世民と文徳皇后のあいだに生まれた三代目の皇帝、唐高宗の李治も混血であった。

そもそも李の先祖がはたして史書に記述されているように漢民族であるかどうかははなはだ疑わしい。また、かりに李の一族が漢民族だとしても初代皇帝の李淵は二分の一の漢民族で、

P181二代目の唐太宗の李世民は四分の一の漢民族でである。三代目の唐高宗の李治になると、漢民族の血が八分の一しかなかった。混血の度合いに違いがあるにせよ、唐代の二十四人の皇帝は、女皇帝の武則天をのぞけば多かれ少なかれみな異民族の血をひいている。

このようなはっきりした異民族あるいは混血の皇帝のほかに、漢民族か異民族かは明らかでない皇帝もいた。たとえば(北)燕(四〇九~四三六年)の皇帝馮跋と馮弘の民族を証明する資料は残っておらず、鮮卑族か、それとも漢民族かはいまだにはっきりしない。

また(冉)魏(三五〇~三五二年)の皇帝冉閔はかつて羯族の政権(後)趙の皇帝石虎の養子の子であったが、その出身民族は詳らかではない。

宋代までは異民族の人が皇帝になってもなるべくその出身民族を隠し、唐代の皇室のように中原における支配権を正当化するために、彼らはつねに自分は漢民族の祖先を持っていると主張した。

また、世代が下がるほど漢民族への帰属意識が強くなるのも事実である。夏(四〇七~四三一年)の皇帝赫連勃勃のように民族のほこりをはっきりと示し、漢民族の姓を匈奴族の姓に変えた例はほんのわずかであった。じっさい宋代までに漢民族あるいは華夏と名乗らずに中国を統一した皇帝は一人もいなかった。

宋代以降になると状況が変わった。政権を勝ち取った異民族はもはや出身民族の公開を恐れない。と同時に異民族と名乗っても中国の全土を統一するのになんの障害ももたらさなくなった。

元王朝を樹立したモンゴル族も、清王朝を樹立した満族も異民族として中国を数百年にわたって支配したのである。

異民族と名乗った皇帝と、混血がはっきりとわかった皇帝を合わせると、その数はさらに多くなり、全部で百七十九人にものぼり、秦代から清代までの歴代皇帝のなかで五二・四パーセントを占め、漢民族の皇帝は逆に五割にもならない。

さらにその五割にもならない漢民族の皇帝もすべて純粋の漢民族とはかぎらない。混血してから時間の経過があまりにも長く、血筋がわからなくなった人や、あるいは混血を意図的に隠した人もいたかもしれないからである。

もちろん、このような混血は異民族についてもいえることで、たとえば「漢」という国名をつけた匈奴族の皇帝劉淵は母親が漢代の皇帝の娘だったから、母親の姓を名乗ったのだ。

同様の例はほかにも多い。このように混血は歴代の皇室のなかでも結婚を通して頻繁に起きていたから、民衆レベルでの混血の範囲の広さと深さは想像に難くない。そして、こうした混血は確実に漢民族の文化を変質させ、また、彼らの情緒表現をも少しずつ変えていったのである。

尚食05 33:30~鶯鶯伝、西廂記(tw) 紅楼夢(clip)西廂記1112(参照)   1920(参照


第六章 モンゴル文化の陰影--男女共演の舞台 P183(文庫本P193)-(相互参照)

6.1 才子佳人式恋の再興
P194「西廂記」の挿絵
P195南宋を滅ぼしたモンゴル族は一二七九年に元王朝を樹立した。元代は九十年しかつづかなかったが、中国を統一した史上初の非漢民族王朝であっただけに、中国の歴史、文化に大きな影を落とした。しかし、この九十年のモンゴル民族による支配が中国の文化を大きく変えたことはしばしば看過ごされてきた(tw)。

モンゴル族が中国大陸を征服した後、文化の異同を見分けるのに多くの場合「言語」をおもな物差しとせざるをえなくなった。つまり中国語を用いるかどうかがなによりも重要な基準となった。

元代では民族の融合がいっそう進み、モンゴル族による支配という背景のもとで、漢民族はそれまでにもまして他の文化の吸収を強いられたのである。

唐代の詩、宋代の詞と同じように、元代はその時代のもっとも代表的で、もっとも輝かしい文化遺産--戯曲を後世に残した。豊かな表現力をもつ戯曲には当然男女の恋をあらわすものが少なくない。

そのなかでとりわけ注目に値するのは「拝月亭」という戯曲である。テキストによって多少の相違はあるが、大筋はつぎのようになっている(tw)。
P196十三世紀のはじめ頃、チンギス・ハーンがモンゴルの軍隊を率いて金国に侵攻したときのことである。金国の兵部尚書--国防相--の王鎮は前線を視察に行っているあいだに鎮の妻と娘の王瑞蘭は難を逃れるために、群衆にまじって南へ逃げた。

途中娘は母親にはぐれてしまい、やむなく蒋世隆という書生と一緒になり、夫婦と装って旅を続けた。その間二人のあいだに恋が芽生え、やがて旅路で結婚した。

ところが、ある日王瑞蘭は宿泊していた宿屋で偶然父親の王鎮の護衛兵に出会い、その結果、父親とも再会できた。蒋世隆が無一文であるため、王鎮は娘の結婚を認めず、名前も聞かずに無情にも病気中の蒋世隆を追い返した。やがてモンゴル軍隊は撃退され、王鎮は娘をつれて都に帰った。

生木を裂かれた蒋世隆は発憤して勉学に励み、まもなく見事に科挙の試験に合格し、首席合格者である「状元」となった。その間、王瑞蘭は親の再婚の勧めを拒み、一心に蒋世隆の帰りを待つ。

一方、高級官僚になった蒋世隆もずっと王瑞蘭のことが忘れられず、再婚をしなかった。そして、王鎮は新しい「状元」が娘の前夫とも知らず、むりやりに蒋に娘との結婚を勧めたが、蒋世隆はその娘が王瑞蘭であることを知らないため、つめたく縁談を断る。

他方、王鎮は娘にもこの話を持ちかけたが、操を守ろうとした娘に断られる。しかし、王鎮は策略を使って蒋を家宴に招待し、酒席で蒋世隆と王瑞蘭はめでたく再会した。
P197未婚男女が偶然の機会に出会い恋に陥り、ようやく願いが叶えられたかと思うと思わぬ邪魔が入り、二人は引き離される。さまざまな試練を経て、男は科挙に合格し故郷に錦を飾ったうえに、恋人とめでたく結婚する。

このような物語は元代のその他の戯曲にもしばしばあらわれ、いわば才子佳人の恋の典型的なパターンとなっている。

才子佳人式の恋はやはり「西廂記」にもっとも典型的にあらわれている。唐代の「鶯鶯伝」を原型とする「西廂記」は物語の構造の組み替えにより、原作にないさまざまな要素が加えられた。

鶯鶯伝」とのテキストの継承性を強調することを通して、「漢民族」への帰属意識と伝統への連続性を明示した。とはいうものの、細部描写の変化においては、かつてなかった異質の要素が顕著にあらわれている。このことは「西廂記」のストーリーの構成からも見ることができる。
張君瑞は偶然の機会に美人の崔鶯鶯に出会い互いに一目ぼれしてしまった。たまたま武装した匪賊が鶯鶯を略奪しようとする騒ぎが起こり、鶯鶯の母親である崔氏は匪賊を退ける者に娘を嫁がせる、と約束をする。

そこで張君瑞は友人の将軍に頼み、匪賊を撃退させた。その間二人は逢い引きをし、結婚の約束をする。ところが、まもなく鶯鶯の母親は約束を破り、娘を大臣の息子鄭恒に嫁がせようと企む。

張はやむなく都長安に出かけ、やがて科挙に合格する。ところが、鄭恒は二人の仲を裂こうとして、崔氏に張君瑞がすでにP198ほかの大臣の娘と結婚したと嘘をついた。しかし、まもなく張が帰り、誤解が解消され、二人は晴れて結婚する。
西廂記」の底本となった唐代の短編伝奇「鶯鶯伝」で男女を隔離する塀が象徴的な意味を持ち、空間的な距離の克服が恋の過程そのものとなっていた。

ところが、戯曲「西廂記」になると、空間的な距離はもはや主要な隔絶ではなくなり、ただ恋を長引かせるための小道具に成り下がった。

隔絶の形式ははっきりと変化した。男と女の家柄、地位や金銭などの面での距離が提起されるようになった。なかでももっとも興味を引くのは恋のライバルの設定である。

西廂記」では張君瑞にとって鄭恒はほとんど対抗できない強力なライバルで、彼は由緒のある家で生まれただけでなく、父親は権勢を持つ現役の大臣である。

そのうえ鄭恒はまた娘の結婚を取り決める権利を持つ母親の親戚で、趙君瑞にとっておよそ勝てる見込みのない相手である。唯一有利な条件は崔鶯鶯の心が張になびいたことだけだ。

それだけに鄭恒の出現により崔鶯鶯に対する張君瑞の恋心がいっそう燃え上がったのである。それが「西廂記」と底本「鶯鶯伝」とのあいだにある大きな違いの一つである。

「漢民族」と思われた人たちのあいだでさえ男女隔離という儒学の倫理がすでに権力によって保証されなくなったことが窺える。男女のあいだの恋を表現する元代の多くの戯曲はさまざまなヴァリエーションを持ちながらも、基本構造においては多くの類似点を有している。

「拝月亭」では男主人公の蒋世隆のまえに立ちはだかっているのは二人のあいだにある家柄、社会的地位の相違と両家の経済力の落であった。その落差のために女性の父親が二人の結婚に強く反対した。

しかし、まさに父親のその禁止こそ二人の激しい恋情を刺激したのである。「西廂記」の場合も、ライバルの鄭恒の力がつねに崔鶯鶯の母親を通して発揮されていることを考えると、両者は共通しているともいえる。

つまり「西廂記」も「拝月亭」も他者による引き裂きが恋の情熱の源泉となった。ここに外力による恋の剥奪が恋を成立させる構図をみることができる。

このような恋の成立はもちろん文学の内部にも原因があったろう。空間的な隔絶が恋の唯一の源泉とされた場合、塀を乗り越えるという行動に象徴された男女の自由な恋はやがて物語としての生命力を失い、固定された語りのパターンのなかで想像力が貧弱になるばかりであった。記述行為という点だけを考えれば、たしかに出口は物語構造の突破にしかなかった。

しかし、それとは別に、もう一つ忘れてならないのは男女隔離の倫理規制を風化させた異民族文化の浸透である。そのことは底本の内容に制限を受けた「西廂記」よりも「拝月亭」の方にはっきりとあらわれている。

娘が道ばたで知り合った男と恋に落ち勝手に結婚してしまったことに対し、父親の王鎮はまったく倫理的には責めていなかった。彼のP200反対理由はあくまでも男女の家柄や身分の違いだけである。

言い換えれば、男の家と女の家との社会的地位が釣り合うならば、父親は娘みずからの意志による恋と結婚に反対しなかったはずだ。そのような価値観はもちろん漢民族文化のなかで自発的に生まれてきたものではない。非儒学文化の要素が関与していることが明らかである。

(略)

6.2 異民族のあいだの恋
P202/ 204/ 206/ 208
6.3 下位文化との苦闘
P209「拝月亭」や「西廂記」をはじめ、多くの元代の戯曲にはモンゴル文化の浸食が見られ才子佳人式の恋は異民族文化の養分をえて飛躍的な発展を遂げた。

P210 宋代の講談に描かれた恋の大きな特徴の一つは、閨房内の恋に再び傾斜していったことである。元代の戯曲になると、その傾向がさらに顕著になった。

宋代の講談と同じように、元代の戯曲では未婚男女のあいだの恋と夫婦のあいだの情はほとんど区別されていない。そもそも中国文化においては恋を単独に分類する意識がきわめて希薄で、極端にいえば中国には「恋」という分類概念がなかったともいえる。 

現在「恋物語」と見なされ、あるいは便宜のために「恋物語」と称される作品は、ほんらい「きれいな女の話」や「不幸な女の話」あるいは「妖婦の話」に過ぎない。

明代の王世貞はかつて男女関係を描いた伝奇、志怪、筆記、稗史、話本などさまざまなかたちのフィクションを「艶」と「異」の二字で総括し、それをみずから編んだアンソロジーの書名にした。

この見方は中国人の恋についての基本的な思考法をみごとにとらえている。遡れば、虚構物語についてはじめて分類らしい意識が芽生えた宋代の文筆家は、話本の一種類として「煙粉」という項目を立てたことがある。

ほんらい「煙粉」は遊女や妖怪の話を指すのだが、当時「恋物語」にあたる分類がなかったため、この「煙粉」には恋を描いた話も含まれている。しかし、それはなにも「煙粉」が「恋物語」であるということを意味しない。

元代ではこの傾向が全面的に継承された。元代の燕南芝菴が書いた声楽理論「唱論」には歌の内容として「閨中の怨女」「河辺の商婦」が、「放浪する旅人」「洞窟のなかの仙人」「色町の少年」などとともにあげられているものの、「恋」という分類は見あたらない(『中国古典戯曲論著集成』所収)。

また元代の雑劇には四つの役がある。それぞれ女子に扮する「旦」、男子に扮する「末」、悪人か道化に扮する「浄」、それ以外の登場人物に扮する「雑」などである。

女主人公に扮するのは「正旦」という。戯曲のなかで全劇に正旦の唱を用いるものは「旦本」と呼ばれる。この「旦本」も「きれいな女」か「不幸な女」を描く劇で、恋は必ずしも不可欠な要素ではない。

そうした劇のなかに多くの場合、恋が描かれているのは、きれいな女のまわりには必ず男がいるという宇宙不変の真理による結果に過ぎない。なかには艶聞--つまり恋の話--もたしかにあったが、そうでないものも含まれていた。

夫婦の別離と再会はもちろん、「竇娥冤」のようにぬれぎぬをきせられた美人の悲運を描くものも恋物語と同じ種類に入れられている。

このように元代の戯曲のなかには恋の描写があったものの、いわゆる「恋愛劇」という分類の意識は欠如していた。「才子佳人式の恋」も後世の人による命名で、元代の劇作家たちはまだそうした分類の意識を持っていたわけではない。

恋を描いた元代の戯曲を見ると、モンゴル文化のさまざまな要素を吸収しながらも、儒学道徳への憧憬、あるいは儒学的秩序への回帰の願望が弱められなかっただけでなく、むしろ逆にそれを求める傾向がつよくなってきている。

鶯鶯伝」の題材を用いた「西廂記」はその一例である。

P212 もし「西廂記」の底本「鶯鶯伝」が唐代において儒学道徳からの逸脱を意味するものだとすれば、儒学が官学の王座から引き下ろされた元代において(tw関連)、「西廂記」は逸脱を意味しないばかりか、むしろ儒学を賛美するものとなる。

男が科挙の試験に合格し、役人となってめでたく女と再会するというストーリーの設定の裏には過去の秩序への憧れが隠されている。

(略)

P214
6.4 男女共演の波紋
P216 唐代の小説「鶯鶯伝」を底本とした「西廂記」をはじめ、「恋」を描いた元代の戯曲はストーリーがそれぞれ異なるとはいえ、全体としてあるパターンにはまっている。

ところが、そのようなややもすればステレオタイプに陥りやすい戯曲は長いあいだ人々に感動を与えつづけてきた。才子佳人という限界を越えられなかった元代の戯曲はなぜ人々の心の琴線に触れる力があり、後の恋の情緒表現にさまざまな刺激を与えたのか。

作品のみごとな出来栄えはむろん原因の一つである。緻密で興味の尽きないプロット、優雅な文体、ユーモラスな表現、機知に富んだ科白などは観客を魅了する重要な原因である。

しかし、それ以上に大切なのは恋の情緒表現の変化である。かつてのさまざまなかたちのフィクションのなかであらわせなかったものが元代の戯曲において表現できるようになったからだ。

それらの戯曲をよく吟味すると、恋の情緒表現がはるかに繊細になり、また感情の表出もより率直なものになったことが窺える。

(略)

P218/ 220/ 222/ 224

第七章 明代の淫らな性--「金瓶梅」の秘密 P213-

第八章 新しい恋--「紅楼夢」の謎 P243(文庫本P255)-(相互参照)

第九章 恋愛の発見--中国文化の近代 P269-
中国史略年表 P297-
参考文献一覧 P303-
あとがき P307-
(文庫本のみ)解説 丸谷才一 P330/ 332/ 334

【関連資料】
『唐代伝奇集1』 「鶯鶯の物語」(tw相参1)P 190/ 192/ 194/ 196/ 198/ 200/ 202/ 204/ 206/ 208/ 210