(八)
P101
問。常のひはんにも、しほれたる(相互参照)と申事ことあり。いかようなるぞや。
(略)P103
(略)[通釈]
問。日頃の批評の言葉にも「萎れた」ということがある。これはどういうことを指すのであろうか。
答。この問題は、とりわけ文字で書いて説明できるものではない。書いたとてその風情は表現されないであろう。けれども「萎れた風情」はたしかにある。これもただ花のあることを前提として、花あっての風情である。
よくよく考察してみても、これは稽古や動作でおよび得る境地ではない、ただ花そのものを極めるならば会得されるのである。それ故、一切の物真似について、あらゆる花を極めるというほどでなくても一方の花を極めたほどの人ならば、その花の萎れたという風情はどこをいうのか、理解することもあろう。
P104そこでこの萎れたということ、花から更に一段上のことだともいえよう。これは花あってのことで、花がなくては、その花が萎れる所をあげつらっても役には立たない。それだと「萎れた」ではなくて「湿った」になってしまう。
花の萎れたればこそ風情もあれ、花の咲かない草木が萎れてもどこがおもしろかろう。そこで花を極めることが既にこの道の一大事であるのに、その上ともいうべき事なのだから、萎れた風体はいかにも大事である。こんなわけで譬えてもこれをいい表すことは困難ではあるが、古歌に歌ってある、
薄霧の籬の花の朝じめり秋の夕と誰かいひけんまた、
色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありけるまあ、このような風体だといってもよかろうか。よく心中に思ひあてて考えてみるがよい。
[余説]
世阿弥は、もちろん観阿弥もだが、能役者は他の芸術にたずさわることを禁じながら、歌道だけはむしろその習得を進めている。それは一つには情操を培うことであり、二つには能を実作する知識を得るためであるが、また、伝書中しばしばここにみるように説明を超えた芸の境地を、引用の歌の味読によって会得させようとする。
これは他の、たとえば剣道の伝書などにも、しばしばみられるところで、異とするには足りぬながら、彼の組立
P105
花伝第七 別紙口伝 P172-208
P195 [語釈](略)
[通釈]
一、秘する花を知るべきこと。秘すればこそ花(tw
,tw
)で、秘するのでなくては花ではないのだというのである。このけじめを理解するのが大事の花なのだ。そもそもあらゆる事、諸道諸芸において、その家々に秘事といってあるのは、秘するによって大きな効用があるためである。それ故、秘事ということを白日の下にさらけ出すと、何も大したことではない。
P196だが、これを大したことでもないという人は、未だ秘事ということの大きな効用を知らぬからなのである。まず、この花の口伝でも、ただ珍しいのが花だと皆が知ってさては珍しいことがあるのだろうと、待ち設けている観客達の前では、たとえ珍しいことをやっても、観客の心には珍しい感じはあり得ない。
見る人の側で、花だとも知らずにいてこそ、役者の花になるのである。それ故、見る人は予想外に面白い、上手だとばかりみて、これが花だとも知らないのが、役者の側の花なのである。
こんなわけで、人の心に意外な感動を起こさせる方法、これが花なのである。たとえば、武道の方の手段にも、名将の謀略によって、意想外な方法で頑強な敵にもうち勝つことができる。これは敗北した側の目には、珍しいやりかたに欺かれて敗かされたのではあるまいか。
これあらゆる事、諸道諸芸において、勝負に勝つ根本原理である。こんな手段も、事がすんでしまって、実はかような謀略だったのだと知ってしまえば、その後は何のことはないけれども、その時は未だ知らなかったればこそ、敗けるのである。
こういう次第故、秘事といって、一つを我家にに遺すのである。これによって次のことを理解せねばならない。たとえ、秘事を人に知らしめぬまでも、こんな秘事を知っている人だというけぶりさえ、人はにさとられてはならない。人に心を見すかされると、相手は油断をせず用心するから、逆に敵に気を付けてやるようなものである。
相手方が不用心でいる時に、当方が勝つのはなおたやすいであろう。人に油断をさせ、勝利を得るのは珍しいという道理の大きな効用ではあるまいか。それ故、我家の秘事として人に知らせないことをもって、一生涯失うことのない花の保持者になるの
P197 である。これは秘すればこその花であって、秘することなくば、花ではないのである。
[余説]
秘伝(相互参照)の意義を説明した注目すべき箇条である。芸道武道あらゆる面で、中世は秘伝が行われた。解題にも触れたように、和歌では古今伝授があったし、「徒然草三個の大事」などというのまである。
しかし世阿弥がいっているように、その多くは白日の下にさらすと他愛のないものである。しかしそれだからといって秘事はつまらぬという人は、秘事の効用を知らぬのだ。
秘事はそれが秘密である故に意義があり、価値がある。どんな計略でも、予め判っていてはだれもひっかって敗けはしない。それが極秘の間に行われればこそ相手はひっかかる。
発表すれば、ああなんだというような内容でも、これが秘密に保たれ一方的にのみ利用されるとき、絶大な効用を発揮できる。それが秘事秘伝の意義だと説いてある。
本居宣長が古今伝授を罵倒したように、学問上の見地に立てば、秘事秘伝は多く内容が空疎ではあるし、もし有用であれば尚更公開すべきものであるが、中世は何事も敵に勝つ用意に備えねばならぬ時代であって、猿楽のような芸能でも、立合勝負というようなきびしさは、現代風に競演と訳しても実はその意気込みを十分に伝え得てはいないのである。
そこで六韜三略(tw)が必要となり、あらゆる方面で秘伝が行われたのである。中世の時代相に認識を持たなくては、当時の人の秘伝尊重の気持ちは汲み取れない。