地理的遠近法
渋谷駅から道玄坂をまっすぐ登り、ほぼ登り切ったところで右に曲がる。そこが円山町の入口である。この街一帯には約六十軒のラブホテルが林立しており、学生とおぼしき若いカップルが、手をつないで白昼堂々ラブホテルのなかに消えてゆく。
都内有数のこのラブホテル街は、渋谷ホテル旅館組合という団体によって統括されている。その組合員の一人によれば、円山町のラブホテルの回転率は平日で三回転、土、日で五、六回転、平均すると一日、四、五回転だという。
円山町のラブホテルの部屋数は一軒あたり約二十室といわれるから、この街のラブホテルを利用するカップルは、一日平均五千組、人数にすると一万人にものぼる。
携帯電話相手に気がふれたようにひとり際限なくしゃべりつづけるルーズソックスの女子高校生たちで芋を洗うような渋谷センター街が「援助交際」のメッカだとすれば、若いカップルが発散するフェロモンでむせ返った円山のラブホテル街は、「廉恥心」の三文字がみごとなほど欠如した街である。
ここには、アジア人売春婦が跋扈する新宿の大久保通りのような暗さはない。
P16迷路のように入り組んだそのラブホテル街を抜けたところに、井の頭線の神泉駅がある。踏切を越え五メートルほど行った右側の木造モルタルの古ぼけたアパートが、彼女が殺害された現場である(参照)。
このアパートの一階の一室で彼女は何者かによって絞殺された。遺体となって発見されたのは、杉並区永福の自宅を出たきり行方不明となった日から数えて十一に後の平成九年(一九九七)年三月十九日のことだった。(略)
その現場を過ぎてまっすぐ進むと、淫風漂う街並みとはうってかわった宏壮な住宅街につきあたる。都内でも屈指の高級住宅街といわれる松濤は円山のラブホテル街とまさに隣接しており、あおのあまりの落差の激しさに一瞬軽い目まいを覚える。
都知事公館や松涛美術館が落ち着いた佇まいをみせるその街の一画に、かつて鍋島藩の庭園の一部だったところをそっくりそのまま利用した鍋島松濤公園という小さな公園がある。
新緑の若葉にかこまれ、大きな水車がゆったりと回るその公園で、シベリアンハスキーやアラスカンマラミュートなどの高級犬を連れて散歩する人たちをみかけた。(略)
円山町と国道二四六号線をはさんで隣接する南平台は、松濤と並ぶ高級住宅街として知られる。
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P20 109を出た彼女は道玄坂のなだらかな坂を上り、道玄坂上交番を過ぎたところで右に曲がる。彼女は円山町のラブホテル街を抜け、狭い路地の奥にある道玄坂地蔵(参照)という小さなお堂の前に立つ。
ここに佇み、道行く男たちに声をかけるのが彼女の約五年間のかわらぬ日課だった。雨の日は傘をさしレインコートをはおって、まるでそれが本当の自分の仕事でもあるかのように、毎日、彼女はそのお堂の前に立ちつづけた。
「仕事」を終え、神泉駅に向かうのはいつも夜中の十二時過ぎだった。神泉駅十二時三十四分発の井の頭線下りの最終電車に乗る。それも、彼女のいつもと変わらぬ夜の行動パターンだった。
いくら遅くなっても週電車に乗り、母と妹の待つ杉並区永福の自宅に戻る。その律義にすぎる行動は、とめどなく堕落しながらもプロの売春婦にはついになりきれなかった彼女の、ぎりぎりまで追いつめられてなお残る最後の倫理だったのかもしれない。
奥飛騨を追われた一族
円山町の一画にある仕出し兼日本料理店の「萬安」は、大正九年(一九二〇)年創業の老舗である。その二代目の女主人の天野とみによれば、戦前の円山町は昼間から三味の音が流れる粋な街で、料亭や待合の数は三百軒を超え、芸者衆も三百人は下らなかったという。
「新内流しや声色屋がいつもこの街を流していました。料亭の門の前に立って芸を披露すると、なかから投げ銭がほうられる。
P21 そんな情緒あふれる花街でした。ただし差別はきびしく、丸山町生まれの子供というだけで区立の学校にも入れてくれない時代でした。風紀が乱れるというのがその理由で、子供たちは円山町に遊びにいってはいけないと、親や先生からきつくいわれたものでした」
戦前は東急グループを創業した五島慶太、戦後は政治家の大平正芳らが足繁く出入りしたその丸山町が一大変貌をとげるのは、戦後の復興も一段落ついた昭和三十年代初頭のことだった。
昭和二十七年(一九五二)年に円山町で旅館業をはじめた有賀千春は、渋谷ホテル旅館組合相談役の肩書をもつ円山町旅館街の生き字引的存在である。その有賀によれば、円山町が花街から旅館街にかわる流れの先鞭をつけたのは、のちに岐阜グループと呼ばれることになる人びとだったという。
「富山県境に近い岐阜の奥飛騨に御母衣ダムという大規模ダムがあります。そのダム工事にともなって水没した村の人々が大挙してこの街にやってきた。最初にやってきたのは、ダム建設賛成派の一人で、莫大な補償金をもらって村を捨てた杉下茂一というひとでした。
杉下さんは侠気のあるりっぱな人物でした。経営が傾きかけていた料亭などからこの辺り一帯の土地を買い占め、自分を頼って東京に出てきた同じ水没村の連中に、その土地を儲け抜きで売ってやった。
杉下さんが始めた『竜水』という連れ込み旅館を皮切りに、こうして岐阜グループの人びとがこの街に次々と旅館、ホテルを建設していった。上京して旅館をつくった岐阜グループの人たちの結束は、日本にいる韓国人たちより強い。
P22春秋会という組織をつくり、年中集まりをもっている。この辺り一帯のホテルに白川など、川のつく名前が多いのは、水没した村のことをいつまでも忘れないでいようという岐阜グループの人たちの気持ちのあらわれなんです」
なぜ杉下茂一は円山で旅館業を始めたのか。茂一の息子で大田区蒲田でビジネスホテルを経営する杉下保によれば、そもそも杉下一族が東京に出てきたのは、保の兄、すなわち茂一にとっては息子の一義を頼ってのことだったという。
「一義は当時、川崎の日本鋼管に勤めており、その後、大田区の仲六郷で簡易旅館を始めた。私たち一族は、だから、仲六郷で最初の草鞋を脱いだんです。一義は早くに亡くなり、仲六郷の旅館を親父が引き継ぎ、次いで旅館が少しづつ建ち始めた渋谷の円山町に進出した。
うちはダム建設には中立の立場でしたが、どっちみちダムで水没するなら早く出たほうがよいと考え、東京に移ってきたんです。円山町でホテルをやっている岐阜の連中は、みんなうちの親戚ばかりです」
有賀と杉下がこもごも語る話に耳を傾けている間、私の身内にずっと軽い衝撃が走っていた。それは
御母衣ダム→電力→東京電力という二つの連想が交差したからである。
御母衣ダム→水没→丸山ラブホテル街
「客」として彼女と二年間つきあった五十代の男によれば、彼女は東京電力につとめていることを異常なほど誇りに思っており、電力こそ日本経済を支える最大不可欠の原動力だと熱っぽく語るのが常だったという。
ちなみに慶応大学経済学部を優秀な成績で卒業した
P23 彼女は、東京経済新報社が主催する民間経済学者・高橋亀吉賞の応募でも佳作に入選したことがある。「東電美人OL」は女流エコノミストとして知る人ぞ知る存在だった。
ホテルに入り、レギュラー缶二本、ロング缶一本のビールを飲みながら、四十分間、経済論議をするのが彼女のいつもの習わしだった。
あるとき彼女の「客」だった五十代の男が、東京電力は大企業の電気料金をひそかに割引きしているのではないか、大企業はその浮いた分の資金を政治献金に回しているのではないか、と冗談めかしていったことがあった。
すると彼女は、ふだんめったにみせない感情をむきだしにして「東京電力はそのような不正は断じてしておりません」と、怒りながらきっぱりいいきった。
彼女が自分と同じ東京電力につとめ、重役一歩手前の副部長まで昇進しながら、五十代の若さで死亡した父親を激しく慕っていたことはよく知られている。事実、彼女がとる客は例外なく自分より年上で、甘えられるタイプばかりだった。
彼女にファーザーコンプレックスの種を飢えつけたといわれるその父親は戦後まもない昭和二十四(一九四九)年に、東大の第二工学部を卒業している。その卒業生名簿をみて驚かされた。
同級生には、山本卓眞(富士通名誉会長)、三田勝茂(日立製作所顧問)、森園正彦(ソニー相談役技術最高顧問)など、わが国の電機業界を代表する錚々たる顔触れがそろっている。
敗戦から四年後に東大第二工学部を卒業した彼らは、電機立国、電子立国を目指して、文字通り日本の高度経済成長の屋台骨を支えた。そして彼らに比べれば影の薄い存在でしかなかった彼女の父親も、彼らに電力を送りつづけるという形で、日本の高度経済成長を裏側で支えてきた。
P24そうした日本の電力業界のなかにあって戦後最大の仕事の一つが、最大出力二十一万五千キロワットという、当時とすれば途方もないエネルギーを創出する御母衣ダムの建設だった。
彼女の父親は御母衣ダムの建設には直接関わらなかった。だが、御母衣ダムに代表される巨大ダムの建設が、わが国の電力業界に空前の活況をもたらす原動力になったことは間違いない。
そうした父をもった娘が、御母衣ダム地下茎でつながった円山のラブホテル街に夜ごと出没し、そしてある夜、凶暴な力で絞殺された。
彼女が円山町に通ったのは、単に帰宅途中にある街だったからだけではなく、彼女を吸引する磁力のようなものが、この街にあったからではないか。そして彼女は、湖底に沈んだ奥飛騨の村のように、この街の底に水没していった。
P25第二章 幻聴
電力は国家なり
(著者、御母衣ダム訪問)
P26戦前は「満州の政商」といわれた鮎川義介の片腕として働き、戦後、電源開発の初代総裁となった高崎達之助によってつくられたこのロックフィル式ダム工事について、『荘川村史』はこう述べている。
ダム建設に要した労務者数延六百万人、アメリカの技術陣を招きその最新式建設機械を導入して建設せられたもので、その建設予算は当初(昭和二十七年)百六十七億円余であったが、ダム方式変更と物価上昇に伴って二十八年には二百七十四億年となり、三十五年完成までには四百億円の巨額となった。また水没した村についてはこう書かれている。
これは当時日本一といわれた佐久間ダムの三百六十億円を上回るものであった。着工以来昭和三十五年完成まで五ヶ年間の災害においても、その発生件数五十七件死者六十八人を出している
過去数百年の間平和で静かなたたずまいをつづけてきた山郷の一角に、戦後次第におしよせてきた近代化の波が、昭和二十七年の御母衣ダム建設という一大怒涛となって、村を一瞬にして変貌させたことは未曽有の出来事であった。P27 水没地区に指定された村では、建設賛成派と反対派が鋭く対立し、根深い村民感情のもつれから、建設賛成派の子供たちの通学を反対派の子供たちが阻止するという「村八分問題」まで起きた。
そのため本村の凡そ三分の一にあたる岩瀬・赤谷・中野・海上の全部落と牛丸・尾上郷の一部が湖底に沈み、長年住みなれたふるさとから人影が消えていった
しかしダム建設は結局予定通り実行された。村々は、そこに長年住みついた人びとの声をかき消すように湖底深く沈んでいった。
荘川村が昭和四十(一九六五)年に調査した「水没住民の移住先及び職業」という記録がある。これをみると、美濃市、関市、岐阜市、高山市、名古屋市など近隣人都市に移住していった人びとが大半を占めている。
一方、移転先の職業は、名古屋市に移住していった三十二世帯の職業を例にとると、旅館業、アパート、喫茶店経営などのサービス業が圧倒的に多いことがわかる。
林業と農業以外手を染めたことのない村人たちが都会に出てやれることといえば、特段の技術習得の必要もなく、人があまりやりたがらない、それら簡易サービス業くらいのものだった。
東京に移住してきた人びとの職業をみると、その割合はさらに高く、ほとんど全員が旅館、ホテル業についている。水没した村の親睦組織「ふるさと友の会」の会員名簿に載っている東京移住組十七世帯のうち、円山のラブホテル街を興した杉下茂一の一族を中心に、円山町一帯で三軒、大田区蒲田一帯で六軒、四谷・新宿一帯で六軒、実に合計十五軒が旅館業を営んでいる。
水底の声
P28水没する前の村の暮らしむきがどんなものだったか知るため、私は御母衣ダムの堰堤を望む峠を離れ、世界遺産に指定された白川村の合掌造り集落に向かった。百十軒あまりの合掌造りの家が固まったその集落のなかの一軒に入ったとき、私はまた不思議なものに出あった。
かつて十三人の大家族が住み、いまは観光用に開放されているその大きな家のうすぐらい居間には、一枚のカラー写真が飾られていた。そこには、白川村の村長をつとめたこともあるこの家の当主と並んで、元総理大臣の大平正芳の姿が写っていた。
家人にたずねると、この地域に強い影響力をもつ隣県富山市選出の代議士綿貫民輔に連れられて上京した折、首相官邸で撮影したものだという。
前にふれたが、大平は一時期、円山町の花街に足繁く通った。SDK出身のさる大きな料亭の女将が大平の愛人だったということは、今でも円山町の老妓衆の間で公然と語りつがれている。しかし私が驚いたのはそのことではない。
「東電美人OL]が殺害された現場には、彼女がふだんから使っていた手帳とアドレス帳が残されていた。二つの手帳には彼女が客としてとっていた男性の名前と連絡先の電話番号が書かれており、これが捜査のカギを握る最重要証拠となっている。
警視庁詰めの新聞記者によれば、彼女のもっていたアドレス帳には大平正芳の三男で、現在、大正製薬副社長の大平明の名前と携帯電話の番号が書かれていたという。
大平明は大正製薬入りする前東電に在籍し、彼女の上司だった時期がある。
P29 二年間、彼女の「客」だった五十代の男も、彼女の口から大平明の名前を何度か聞いたことがある。「大平明は東電で自分と同じ部署にいたことがあるといっていました。彼女は大平明の名前を日を変えて三度、僕に言ったんです。慶応の先輩で東電の上司だったとね。話はそれだけだったんですが、話の本筋とはまったく関係ないこの人物のことが突然もちだされたので、却って印象深く覚えているんです」
大平正芳が足繁く通い、愛人までつくった円山町に、彼女が夜ごと立ち、客の一人に、自分の上司でもあった大平の息子の名前をさりげなく告げる。
白川村の合掌造りの家に飾られた大平元首相の写真は、もちろん、偶然撮影されたものにすぎない。だが御母衣ダムと円山町を結ぶ地下茎のようなネットワークは、大平親子という人的ファクターをはさみこむことによって、さらに根深い闇を広げていくような気がしてならなかった。
翌日、私はタクシーを飛ばして、もう一度御母衣ダムの堰堤を望む峠に向かった。巨大な岩石を幾重にも重ねて空高く積みあげたロックフィル式の堰堤は、折から降りだした雨に煙って、前日にもまして荒涼たる風景をさらけだしていた。
この世のものとは思われぬ一種凄絶な光景を眺めながら、飛騨高山の夜の街の流しからデビューした盲目の演歌歌手、竜哲也が歌った「奥飛騨慕情」の歌詞が、不意に私の口をついてでた。
P30(略、奥飛騨慕情の歌詞)
諏訪湖の約五倍、三億三千万立方メートルという膨大な水量をたたえた御母衣ダムの青い湖面は、雨にぼおっと煙っていた。
そのとき私の頭に、雨の夜、傘をさしレインコートをはおって、円山町の小さな地蔵堂の前にたたずむ彼女の姿が、三善英史の歌う「雨」とともに、映画のカットバックのように突然浮かんだ。
(略、歌詞)
P31
(略)
P32第三章 富士
第一発見者
行きとは反対に奥飛騨からバスで約三時間かけ日本海側の高岡に出た私は、富山空港から羽田に飛び、その夜、また円山町の殺害現場を訪ねた。殺害現場を訪ねるのはこれで五度目だった。
三月十九日の遺体発見から数えて約二ヵ月が経過していた。この段階での捜査は以前膠着状態のままだった。とはいえめぼしい手がかりがこの段階までまったくなかったわけではなかった。
最初に疑われたのは、彼女の遺体が発見されたアパートの空室の鍵を大家からまかされて管理し、第一発見者ともなったネパール料理店の雇われ店長だった。そのネパール料理店は、殺害現場と国道二四六号線をはさんで三百メートルと離れていない渋谷区桜丘町の雑居ビルの一階にある。
私は殺害現場を離れ、その店に向かった。突然訪ねていったにもかかわらず、店長はさして驚いた風もなく、事件前後のことを淡々としゃべり始めた。
「あのアパートは喜寿荘といって、持ち主はこの店を経営している社長と知りあいなんで
『東電OL症候群』
P195 記者会見には、約三十人ほどの外国人記者たちが集まった。私は十分ほどのスピーチのなかで、事件の概要と、私がなぜこの事件に興味を持ったかを手短に述べたあと、いまなお勾留中のゴビンダと、最近遺体で発見されたイギリス人女性のルーシー・ブラックマンとの比較を通じて、日本人がアジア人に対して根強い差別意識をもっていることを訴えた(tw、tw)。
P315 「裁判官が仕事上受けるストレスの強さは外の人にはなかなか理解してもらえません。村木くんのような行為が正当化されることは絶対ありませんが、当時彼が置かれていた状況が相当に苦しいものであったことは間違いありません。その点では私は彼にかなり同情しています」
世間から猛烈な批判を浴びている後輩判事をなお慮る木谷の言葉には、仲間うちに甘いという批判がたぶんあるだろうか、彼の人柄がそれを越えてにじみでていた。
正当な判断を下すため、痛みに耐えながらマラソンで治そうとした克己心の見本のような裁判官もいれば、人を裁く重圧から少女買春に走ったという、何の説得力もない言わけをする情けない裁判官もいる。
泰子の視線は、いま私の目の前で消え入りそうにしている買春判事の醜さを射抜いているだけでなく、かつては席を同じくした二人の判事の際立った違いまであぶり出しているような気がした。
P321
P322同じエリート呼ばれた同世代の二人の男女は、一人は売春婦となって何者かに殺され、一人は買春客となって獄舎につながれた。女は父親のような年齢の男を求めて公然と街角に立ち、男は娘のような少女を求めて携帯のメールを妻に隠れ打ちつづけた。
→「歴史上の重大事は、通常、互いに関係のない数多くの発展が合成した結果」(参照、tw)
→「別の枠組みを当てはめて相互の関係を新しい体系に組みかえること」(参照、tw)
P323 いまは片側に数軒の店しかないすっかりさびれた横丁を歩きながら、私の頭にまた泰子のイメージが浮かんだ。
川崎に出て東芝などの女子工員になった少女のなかには体をこわし、街角に立って春を鬻いだ娘も多かったという。もし彼女たちが生きていて東電OLのことを知ったなら、年収一千万もある女が何が悲しくって夜鷹商売を始めたのさ、といって激しく罵ったに違いない。
・・・
P341 二人に共通していたのは、己に課した負荷の高さからくる歪んだ幼児性である。高校時代から法曹界を目指していた村木は、その幼い夢が実現したとき、それが自分を破壊させる恐ろしい世界でもあるという成熟した認識をもつべきだった。
P342彼の幼さは、自分の実存を根底から揺るがす危機が迫ったとき、その空洞を補填するため自分のいうことを聞いてくれそうな少女とセックスを安易に求めた行為そのものに現れている。
セックスが他者との間をつなぐコミュニケーションを果たさなかったという意味では、泰子も同じだった。泰子はベッドの会話にまったくふさわしからざる難解な経済論議を客にふっかけるの常だった。
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二人は遊びのないハンドル、人生の風雪の年輪を重ねてこなかった樹木のようなものだった。彼らは老木がポキリと折れるように、一人は売春生活に入って命を落とし、一人は少女買春に走って命にも等しい法曹資格を失おうとしている。
もし二人に違いがあったとすれば、性の消費行動の決定的な差だった。泰子は世界を破滅させるように自分の性を蕩尽することによって、人生を「文学」の高処にまで吊りあげてしまったが、村木の性行為から感じられるのは上目遣いするようないじましさと安っぽさだけである。
P349 P350「裁判の決着はみたが、君はなお社会的責任を負う。君はいま失意と不安のなかにいるだろうが、この世には志半ばで病に倒れ、不幸にも事故で命を失う人もいる。生きていること自体に感謝しなければならない。人は人のために生きてこそ、人である。今後はその視点をもって、もう一度自分自身を律してほしい」
これを聞いたとき、岐阜県時代の担任が卒業時に村木に贈った、いかにも白樺派の作家が吐きそうな台詞を思い出した。人間は二十五年かかってもそう変わらないものなのかもしれない。
しかし、山室の一言はやはり余計で、これでは身内に甘い判決だと批判されても仕方ないな、と思った。
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【関連リンク集】
・「東電OL殺人事件」から見える、東電とメディアの闇(参照)・無為雑感 「東電OL」再び(参照)
・精神科医 春日武彦さん スペシャルインタビュー (第1回) – salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草WEBマガジン(参照)
・柴田千晶詩集『空室』について(参照)
