2023年3月11日土曜日

偏愛メモ ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕(上)』第一部 無条件降伏 P50-116

1.3 一九四五年四月~五月 P50-69(戻る)
P50
P52 現実はというと、一九四五年の夏に日本の指導者が真剣に求めていた唯一の条件は、天皇を排除しないという保証だけであることを、大半のアメリカ首脳陣は十分に認識していた。それゆえ、大統領側近の一人を除く全員が、降伏を確保するためには(たぶんイギリス国王のように名目上の元首のような形で)天皇の安全が日本人に保証されなくてはならない、と強く求めていた。

しかも、現在利用可能な証拠を見るかぎり、原爆が使用されるかなり前の段階で、この件で日本に保証を与えることが、克服できない政治問題になると信じていた大統領側近は一人もいなかった。この点は今日でも、一部の研究者にはあまり理解されていない。

一時的な遅れにわずかばかりの有利な点を見いだす向きもあったが、厳格な条件にこだわることが、侵攻によってアメリカ人の命を危険にさらすのに値しないことは間違いなかった。いずれにせよ、最終的に戦闘をやめるように命令を下せるのは天皇しかいなかった。

もっとも重要なのは、大統領自身がこれらはみずからの見解である、と繰り返し示唆していたことが、いまではわかっていることだ。実際、現在手元にある証拠によれば、トルーマン大統領は閣僚や準閣僚クラスの当局者、さらにはチャーチル首相から(わかっているかぎりで)少なくとも一二回にわたり、降伏の条件を明確化するように直接求められている

ジェームズ・バーンズ国務長官を唯一の例外として、七月にはこの問題について大統領と直接話すことのできるような高位の政治、軍事顧問の全員が、大統領の条件の明確化を支持していた。

P53さらに、このときまでにこれらのすべての補佐官は、そうした動きの含意するところを日本が消化できるように、十分に時間を与えるべきだという点で一致していた。いずれの場合にも、新兵器の原子爆弾を使用する前に、五週間から六週間の長い期間を与えるように提案された。

ここでも、大統領の個人的な反応についての情報が利用できるすべての場合において、トルーマン大統領がこの種の提案をおおむね支持していたことを記録は示している。そして、大統領個人は、降伏の条件を変更するのにほとんど支障ないと見ていた。条件を変更することによって政治的に非難されるのではないかという重大な危惧を、トルーマン大統領が個人的に表明したという証拠はまったくないようだ。

そして、もちろん、原爆を使用した後、大統領は日本に天皇の保持を認めた。一九二六年に即位した裕仁は第二次大戦の期間を通じて皇位にあり、その後も一九八九年に世を去るまで日本国の名目上の元首としてその地位にあった。

問題は、当時、合理的に戦争を終結させられるかに見えた方法を、大統領はなぜ最終的に退けたのかである

(略、日本社会において天皇の存在は大きい、という話)

P54 したがって、アメリカからの「無条件降伏」の要求は、天皇その人だけでなく、日本文化の中核をP55成す教義をも、じかに脅威にさらしていた。天皇のこうした独特の政治的宗教的地位ゆえに、アメリカの指導者は三つの関連する際立ったポイントを繰り返し勧告されていた。

  • 第一に、神である天皇が地位を追われたり、傷つけられたりする(つまり、たとえば、ドイツの指導者がそうなろうとしていたように、戦争犯罪人として裁判にかけられ、絞首刑にされる)ことがないと保証されないかぎり、日本人は降伏を受け入れないだろう。
  • 第二に、もっと重要なポイントとして、そうした保証が与えられなければ、日本人は最後の一人になるまで戦闘をやめないだろうと、アメリカの指導者は忠告されていた。激しい島の戦闘でも降伏した日本軍部隊はほとんどなく、日本兵は天皇のために死ぬ覚悟ができているという十分な証拠もあった。何より、天皇に関する保証を「条件」と呼ぶか否かに関係なく、それがなければほぼ間違いなく死闘になるということを、アメリカ軍は理解していた。
  • 第三に、大統領とその主要な側近たちは、戦後の日本における秩序の維持、そして実際に、混乱さらには共産主義革命の試みに対する歯止めとして、天皇がきわめて重要な役割を果たすことになると聞かされていた。
  • そもそも「無条件」という言葉は、一九四三年一月カサブランカ会談において、ルーズベルト大統領によって初めて使われた、ほとんど偶然のなせる業だった。当時のコーデル・ハル国務長官によると、「無条件降伏」は国務省のもともとの戦略にはなかったという。

    「大統領が初めて、チャーチル首相も同席していた記者会見で突然この言葉を口にしたときには、首相があっけにとられていたのと同じくらい、われわれも驚いた」

    P56
    P58 一九四五年二月のヤルタ会談で、チャーチル首相も一般論としてこの問題をとりあげた。そして、実際にこの早い段階で降伏の条件の修正を提案している。「日本に無条件降伏を求める…」四ヵ国の最後通牒を突きつけることができるのではないかと、チャーチルは提案した。

    それを受諾するにあたって日本は「無条件降伏の条件をどれくらい緩和してもらえるのか」と尋ねるだろう。どうするかはアメリカ次第だと、チャーチルは下駄を預けたものの、「非常に多くの血が流されることになる戦争の一年か一年半の節約につながるのなら、何らかの軽減は一考の価値がある」と訴えた。

    大統領が日本の降伏方式を曲げてもいいと考えていた形跡はないが、ルーズベルト時代には固定したものは一切なかった。それは大統領自身が、カサブランカ宣言からわずか八ヵ月後の一九四三年の秋にイタリアと条件付きの「無条件降伏」を交渉したときに、妥協をしないという自らの言葉をいとも簡単に反故にしてしまったという事実から明白のように見える。

    陸軍情報局と国務省の一部の部局では、何人かの当局者が、降伏の方式を曲げることは「宥和政策」に匹敵すると訴えていた。なかでも、極東の担当でなかった二人の国務次官補が、その後、夏に国務省内部で行われた論議で強い反対を表明した。

    そして、トップレベルの当局者がこの問題でどんな判断をしたかは、一九四五年四月十二日のルーズベルト大統領死去のほとんど直後から試されることになった。

    P59ハリー・S・トルーマンが後継として大統領に就いたのは尋常ならざる時期だった。アメリカ軍の沖縄上陸(一九四五年四月一日)、ソ連による対日中立条約破棄の発表(一九四五年四月五日)、小磯内閣に代わる鈴木海軍大将の新内閣発足(これも一九四五年四月五日)、そしてヒトラーの自殺(四月三十日)と続いて、まったく新しい状況が生まれていた。

    予想にたがわず、トルーマンの初期の動きは前政権の政策との継続性を強調するものだった。就任直後にトルーマンは従来の方式を確認し、一九四五年四月十六日に議会での演説でこう宣言した。
    われわれの要求は、従来も今後も、無条件降伏である。平和の破壊者とは取引をしない
    この宣言は、議員全員が立ちあがって拍手した、と一部では伝えられるほど好意的に受けとめられ、トルーマン大統領個人の立場、さらには従来の方針を継続することへの圧倒的な政治的支持を明快に示したものとして、後によく引き合いに出された。

    しかし、その後に公開された証拠に照らしてみると、必ずしもそうとは言いきれず、この最初の演説もやはり大きな歴史の流れのなかに位置づけられことになる。

    もちろん、原爆が使用された後になって、トルーマン大統領が「無条件降伏」の方針を迷わず変更したことはわかっている。現時点で公開されている文書によれば、トルーマン大統領が最初の宣言からわずか三週間のうちに姿勢を変えはじめたこともわかっている。

    五月八日のドイツ降伏時に厳密に言葉を選んで発表した声明のなかで、大統領は「無条件降伏」の意味することころをきわめて慎重に説明している。

    P60 「無条件降伏」の下で日本の陸海軍が武装を解除するまで、われわれは攻撃を停止しない。それでは、日本国民にとって軍の無条件降伏とは何を意味するのか。

    それは終戦である。

    現在の悲惨な状況へと日本を追いこんだ軍幹部の影響力がなくなるということである。…
    無条件降伏とは、日本国民を皆殺しにしたり、隷属させたりすることではない
    大統領の新しい政策を示すこのごく初期の声明に、研究者はどちらかというとあまり注意を向けてこなかった。もちろん、戦史を振り返ってみても、軍の「無条件降伏」を求めることは決して珍しいことではない。そして、新たに注意深く公然と線引きすることがきわめて重要だった。

    高位、それも大統領レベルの政策の声明は、理由もなく発表されるわけではない。五月八日の日本軍の「無条件降伏」要求は、陸軍省情報局(OWI)とフォレスタル海軍長官室の発案だったことが、最新の記録によって確認されている。

    ここで重要な役割を果たしたのは、エリス・ザカリアス海軍大佐で、極東での宣伝政策に責任を負っていたOWI海外部と共同で心理戦の準備を進めていた。

    ザカリアスはフォレスタル海軍長官によってワシントンに登用され、総合的な作戦を提案する準備をしていた。その成果である「日本占領を達成するための戦略プラン」は心理戦の戦術である。「作戦計画I-45」とともに一九四五年三月十九日に公表された。

    作戦計画はただちにフォレスタル長官の承認を受けただけでなく、アメリカ艦隊司令官のキング提督とOWIのエルマー・デービス局長にも承認された。「無条件降伏」の意図を説明する大統領声明の準備が進められ、声明は作戦全体を開始するためのOWI提案という形でルーズベルト大統領の承認を受けるべく送付されていた。その矢先の四月十二日、大統領は死去した。

    P61ルーズベルト死去からドイツ降伏前夜までの三週間、声明はどうやら一時的に行方不明になっていた。しかし、最終的にはOWIのデービス局長によって国務省と統合参謀本部に送られ、論評と推薦を受けることになった。

    五月六日、レイヒ提督は、提案された声明を承認する旨をトルーマンに伝えた。 対日心理戦を開始するのにあたって陸軍情報局が重要文書として利用できるような声明を大統領が発表すrべきだというエルマー・デービスの提案について、国務長官代行および統合参謀本部と協議した。

    グルー次官と統合参謀本部はいずれも、修正された声明がしかるべき時期にプレスリリースの形で発表されることに同意した。統合参謀本部は沖縄上陸作戦の終了まで声明の発表を遅らせルことを望んでいたが、レイヒ自身の考えは違っていた。
    沖縄での作戦の進行が思うに任せないことを考慮すると、エルマー・デービスの提案になる「修正された声明」は、ドイツ軍の降伏の発表に続いて早い時期にプレスリリースとして発表すべきだというのが私の考えだであり、そうするように勧告する。
    実際、最終的に声明は五月八日にトルーマンがヨーロッパ戦勝記念日の演説をする直前に報道機関に公表された。

    同じ日、トルーマン大統領の発表からわずか数時間後に、ザカリアス大佐は「アメリカの公式の報道官」となり、降伏を呼びかける一連の日本語の放送を始めている。

    トルーマンのヨーロッパ戦勝記念日の声明に基づき、ザカリアスは放送を通じて日本人に「無条件降伏」は「日本国民を皆殺しにしたり、隷属させたりする」ことではないと請け合い、日本軍の無条件降伏こそアメリカの要求の核心であると強調した。

    P62 トルーマン政権が発足当初から厳格な「無条件降伏」の要求を修正しようと試みていたことに、報道機関が気づかないはずはなかった。実際、一部の有力な全国メディアはもっと迅速な行動を取るように訴えた。

    たとえば、大統領声明のの発表された翌日の「ワシントン・ポスト」社説は、降伏の方式をご破産にすべきだ、とそっけなく主張していた。 日本に敗北を認めさせるためにも、命運についてただちに知らせてやるべきである。これまでの日本は好戦派の言い分にしか耳を傾けてこなかった。…そうした連中を撲滅するという思想は…土壇場の戦意を鼓舞するために日本人自身の手で日本中に広められていることは間違いない。降伏して蹂躙されるなら玉砕したほうがましだというわけである。

    念のために、、われわれは条件付きの降伏を提案している。だからどうだと言って、そもそも、無条件降伏が最適の方式ということはありえなかったのだ。…

    そこで、ただちに日本に対する降伏の条件をまとめ、それを日本に通告するように要請する。イギリス外務省はずっと前から、降伏の方式を修正することが不可欠であり、そうすることで戦争を終わらせることができると判断していた。

    しかし、修正のことに関してアメリカに「スケープゴート」にされることを恐れて、ロンドンでは誰も条件の変更を強く主張したがらなかった。それでも、イギリスの外交官は、政治的雰囲気の変化の兆しが見えないか、アメリカの世論の動向を注意深く見守っていた。

    ハリファックス大使は五月十三日付のロンドン宛の週報で、無条件降伏をいくらか修正することへの支持(「単にかつての孤立主義の報道機関においてというだけでなく…」)が表れてきた兆しだと、「ワシントン・ポスト」社説を引用している。

    P63また、「日本が絶望的な状況を認識したときに早く降伏する可能性についての楽観的な観測」にも言及している。

    ポストの社説には陸軍省作戦企画局(OPD)のファイルにも収められた。OPDでも政策の変更が進行中だった。OPD戦略・作戦グループ指揮官ヒュー・ソーヤー中佐は、切り抜きの上の余白にメモを走り書きしている。「われわれの通信を読んでいる者がいる」。

    ソーヤーのメモは控えめなコメントだ。実際、第一項で指摘したいくつかの諜報報告書は、すでに降伏の方式の批判を始めていた。

    「無条件」という表現がルーズベルト大統領個人の口から出た言葉だっただけに、当然のことながら、中間レベルの当局者は真っ向から攻撃することは避けていた。代わりに、さまざまなグループは、一般的な表現を(少なくとも当面は)変更することなく、実際に要求される条件いかにして明確にするかに照準を合わせていた。

    たとえば、一九四五年四月十八日、つまりトルーマンの最初の声明から二日後だが五月八日の方針変更より三週間前に、前出の合同諜報委員会の報告書は「日本国に対して連合国の意図を明確にすることによって、無条件降伏の可能性が近づくかもしれない…」

    さらに、この早い段階で「天皇に支持された合法的な日本の中央政府は一九四五年のうちにもっと合理的な『無条件降伏』を受諾するかもしれない」と指摘している。そのうえで、報告書にはこう結論している。 日本政府は、絶対的な「無条件」降伏という汚名を被ることなく、何らかの形で戦争を終結させる方式を探るものと、われわれは確信している。そうした方式が連合国にとっても受けいれられるものなら、日本本土への侵攻を経ずして日本は降伏するだろうとわれわれは確信している。

    前出四月二十五日付の太平洋戦略の見直しにおいて、統合参謀企画部は、もっと厳しく既存の文言を批判している。

    P64 いかなる手段を取ろうと「無条件降伏」を受けいれさせることは…まったく不確定の事態である。…

    この戦争において、これまでのこところ日本軍部隊が組織として降伏した例はない。日本人の気質に「無条件降伏」という考え方はまったく馴染まないのだ。

    この報告書の勧告は強引だった。

    したがって、「無条件降伏」は日本人に理解できるように規定すべきである。滅亡や国家の自殺は含意されていないことを日本人に納得させなくてはならない。そのためには、将来がどうなるのかを「意図の宣言」という形で政府レベルで日本人に通告するのがいいだろう。…

    日本人が受けいれられるように無条件降伏を規定できないかぎり、全滅に代わる選択肢はないし、完全な敗北の脅威が降伏につながる見通しもない。
    その後の第二次大戦研究において混乱の原因となることの多かった重要なポイントが、統合参謀企画部の報告書でも強調されている。そして、そのことについて最初に検討しておくのは有効だ。

    こうした勧告をしているにもかかわらず、「日本への上陸侵攻が無条件降伏や完全な敗北を達成するのに最適な戦略だと考えられる」というのが、統合参謀企画部の結論だった。

    下位レベルの当局者の思惑がどうであれ、必然的にこの時期のあらゆる軍の政策は「無条件降伏」という公式に表明された大統領の継続を前提としていなくてはならなかった。

    別の言い方をすれば、大統領が政策を変えないかぎり、軍は最悪の事態を想定していなくてはならなかった。

    P65それゆえに、「無条件降伏」を受け入れさせるためには、侵攻しなくてはならないという判断になる。事実、それが明白な現実だった。とくに、「無条件降伏」という法式が天皇および天皇制に対する脅威と映っているかぎり、軍の政策立案当局は最後の最後まで全面戦争に備えておく以外に選択肢はなかった。

    実際、統合参謀本部は、統合参謀企画部の報告書に着目し、五月十日にはそれを将来の企画の基礎として採用している。しかし、その一方で降伏の条件について慎重な検討がなされるべきであるという勧告にも従っている。

    そして「無条件」という言葉を明確にする提案に向けて大きく歩を踏みだした。すぐに即時降伏の要求(JCS1340)の素案が統合参謀企画部と合同諜報委員会に同時に送られ、論評と勧告が求められた。

    タイミングについては意見の違いが表面化する一方で、五月十二日には、「無条件降伏」は明快に日本軍に対してのみ適応されるべきであり、また、既存の天皇制の権威についても明快に言及されるべきであるという点で、おおむね意見の一致を見た。

    降伏の条件を少し変えることによって戦争の終結が早まるのではないかという考え方は、ワシントンに届いたいくつかの「平和の打診」の中でも強く示唆されていた。なかでも五月八日にドイツが崩壊して以降のものによく見られた。

    たとえば、日本のスイス公使からの接触を詳述した前出の五月十二日のウィリアム・ドノバンOSS局長からトルーマン大統領に宛てたメモによると、
    [加瀬は]日本がこだわるいくつかの点の一つは、日本が共産化することに対する唯一の保障措置としての天皇の保持になるだろうと信じているという。加瀬の感触では、日本に関するアメリカで一番の権威とおぼしきグルー国務次官も同じ意見だ。
    現在では、何人かの共和党の重鎮もこの時点で条件の明確化を求めるようになっていたというかなりの証拠があることがわかっている。

    P66 たとえば、ハーバート・フーバー元大統領はトルーマン大統領の要請で五月二十八日に大統領と会談している。なかでも、フーバーとトルーマンはいかにして戦争を終わらせるかについて意見を交換した。

    トルーマンがどのような見解を表明したのかについての正確な記録はないが、やはりトルーマンの要請でフーバーは条件の明確化を求めるメモを準備した。大統領はその後、このメモを側近に回覧している。その中でフーバーは早期降伏に有利な条件として以下の要因を挙げた。
    (a)かつては反軍国主義者だった老政治家の鈴木が首相に任命されたこと。
    (b)日本人が国の精神的元首であるミカドを護持したいと願っていること。
    (c)ロシアが全兵力を組織的に投入してくる前に講和したい、という意思を日本が示したこと。
    (d)今やそれが運命だと悟っているに違いない完全な崩壊を日本人が恐れていること。
    (e)日本には大規模な中産階級が存在すること。この階級は工業化の産物で、思想的にはリベラル、一時期、政権に就いていたこともあり、その時期には世界の平和的な勢力と完全な協力体制を組んでいた。このグループが再び影響力をもってくれることが、安定した進歩的な政府を実現する唯一の希望である。(相互参照)
    フーバーの勧告の要点は、アメリカは次の点を明確にせよ、ということだった。
    連合国は日本国民や日本政府を撲滅するつもりもなければ、日本式の生活に介入するつもりもない。…
    六月九日、トルーマンはフーバーのメモをグルー国長官代行とスティムソン陸軍長官に送って論評を求めた。

    P67スティムソンはそれを参謀に検討させた。一週間後の六月十四日、フーバー・メモに関する参謀の評価が以下の指摘とともに戻ってきた。
    戦争目的を公にする宣言する、すなわち事実上「無条件降伏」を規定するという提案には、慎重に処理されれば、明確な利点がある。
    スティムソンへの参謀報告にはマーシャル元帥のメモが添えられていた。
    ここにお送りするメモは参謀がまとめたもので、私は根本的に同意見です。内容は、長官がハンディ将軍に検討を命じた、「対日戦を終結させる」と題する文書に関する分析と論評であります。
    トルーマンと会談した後、フーバーが何人かの有力な共和党上院議員と会食したことも、今ではわかっている。その上院議員はとは、ロバート・タフト、ハーラン・ブッシュフィールド、

    「そして(ウィリアム・キャッスルの日記によると)その他に八人ほどが後で話をしにやって来た。そのなかには、ワイリー、シップステッド、ムーア、ヒッケンルーパー、そしてアレックス・スミスの各上院議員がいた」。

    しかし、上院議員らがフーバーと会いたがったのは、戦況について元大統領の見解を聞きだすためだった。そして、フーバーは極東でどんな政策を進めるべきかについてきわめて自由に持論を展開した。

    ともかく戦争を終わらせなくてはならないと、元大統領は語り、イギリスとともに条件をはっきり日本に通告すれば、かろうじてチャンスはあるように思えると述べた。

    また、満州を中国に返還することは絶対条件で、もちろん、日本は侵略したすべての国から手を引かなくてはならないが、台湾と朝鮮は領有させたままのほうがいいかもしれない、とも語った。さらに、

    P68 天皇や日本人が望む政体に余計な口出しをするつもりは毛頭ないと述べた。

    これから見ていくように、こうした五月の一連の会談は、共和党指導者が「無条件降伏」という方式を修正することに反対していなかったばかりか、むしろ歓迎し、実際に条件の明確化を求めるようになっていたことを示しているだけではない。

    日本の状況が悪化の一途をたどるにつれて、彼らはそうした努力がが実を結ぶに違いないとますます自信を深めていった。

    大統領自身の態度について確かめられることは何か。われわれが知りうるかぎりで、トルーマン自身の見解が五月八日の声明で打ちだした路線を継続していたことは、この時期に政府部内のトップクラスの専門家によってなされた方式を修正しよう、という多大な努力との関連で証明することができる。

    大統領が五月八日の声明からさらに方式を明確にすべきだと考えていたのは、「ワシントン・ポスト」、統合参謀本部、そしてハーバート・フーバーのような共和党の重鎮ばかりではなかった。

    この時期に政府のトップレベルでとりわけ熱心にこの考えを押していたのは、国務長官代行で元駐日大使のジョセフ・C・グルーだった。

    エドワード・ステティニアス国務長官が国連創設に関係してワシントンを留守にすることが多く、一九四四年十二月から一九四五年七月の大事な時期の大半において、国務次官だったグルーが国務省の日常業務を取りしきていた。

    そして、五月二十八日、フーバーと会談した直後の大統領にグルーはこう力説している。
    …日本人は狂信的で最後の一人になるまで戦いを続けかねない。そうなれば、アメリカ人の犠牲がどれくらいになるかは予断を許さない。

    P69日本が無条件降伏を受け入れるに際しての最大の障害は、そのことによって天皇が永久に排除され、国体が破壊されることになるのではいかという日本人の信念だ。

    完膚なきまでに打倒され、将来の戦争をひきおこすことができなくなった時点において、将来の政治体制を自ら選ぶことができるのだと知らせてやることができれば、日本人も何とか面目をたもてることになる。さもなければ、降伏はほとんどありえない。
    「そのような声明は、二日前の東京大空襲の直後に発表されていたら、最大の効果を上げただろうと考えられる」と、グルーは強調した。再度の大空襲後の火災が強風にあおられ、日本の首都のさに広大な地域が焼け野原になっていた。「そんな瞬間にそのような声明が発表されれば、心理的な影響力は絶大だろう」

    グルーはトルーマンとの会談を公式のメモに記録している。そのときの反応から、大統領の姿勢がどんなもであったかをうかがい知ることができる。大統領は私の説明に関心を示した。大統領も、同じ線に沿って考えを進めていたからである。

    1.4 六月十八日まで P70-
    なんとも落ち着かない会議だった。というのも、全体の状況を決定することになる本題、つまりS-1のことを聞かせてはならない連中が出席していたからだ。
             ---ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、日記、一九四五年五月二十九日
    グルーはきわめて注意深い男だった。開戦後のグルーのある演説は、敵に対する元駐日大使の「軟弱さ」を示すものではないかと、厳しく批判されていた。それが、一九四五年五月三日には、日本国民に直接語りかける声明に異を唱えた。

    「嘲笑的な反応」はアジアにおけるアメリカの威信を損ないかねないというのが、反対の理由だった。グルーが五月の後半になって突然降伏条件の修正に乗り出したことの真意を計りかねた研究者も少なくなかった。

    グルーの行動を解く手がかりとして、五百旗頭真と中村政則の二人は、スティムソン陸軍長官の五月八日の日記のある一節に注目している。三省調整委員会、すなわちスティムソンとフォレスタル、グルーは午前十一時に会った。

    スティムソンはこう記している。
    通常の会議が終わった後…私はフォレスタルとグルーを除く全員を退席させ、自分が結成に取り組んでいるS-1[原爆]に関する暫定委員会とその目的について二人に話した…その後で、委員会の役割について少し議論した。
    P71五百旗頭に言わせると、「『S-1』すなわち、原爆のことを考慮にいれないと、グルーの行動について納得のいく説明はできない」。第一に、日本で一〇年を過ごしたグルーは日本の人々を本当に好きになり思いやるようになっていた、と五百旗頭は指摘する。

    原爆を使うのではなく、降伏の方式を修正することによって戦争を終結させることは慈悲深いというばかりでなく、そうすることによって、戦後のアジアで影響力争いが始まったときに日本をのけ者にしないですむ。

    さらに、「日本の降伏と再建を喜んで任せることのできる[天皇に近い自由主義者らが]原爆投下によって死ぬようなことになれば、何が起きるだろうか」と、五百旗頭は指摘する。

    中村は率直に「グルーはもはや一刻の猶予もないと感じ、五月の後半から六月前半にかけて速やかに戦争を終結させるべく奔走した」と言う。

    新兵器についてグルーと話し合ってから数日のうちに、原爆は複雑に「絡みあった」アジアの問題を一気に解きほぐす「切り札」だと、スティムソンは明言した。

    日本の降伏はそうした問題の一部にすぎなかった。スティムソンの戦略的思考の一部が五月八日にグルーに伝わったということは十分に考えられるし、それがグルーを行動に駆りたてた一因かもしれない。

    グルーの新たな行動力の源泉が何であったにせよ、次なるステップについては疑問の余地はない。五月二十八日の降伏方式の再検討も終わりに近づいたときのこと、グルーはこう記している。
    [大統領は]この問題について手始めに陸軍、海軍の両省の長官とマーシャル元帥、キング提督との会議を設定して討議するように私に命じた。そして、このグループで意見交換が終わったら、大統領と改めて会議をするためにそろってホワイトハウスに出向いてもらいたいという。
    P72ここから闇夜の航海が始まることになる。最初に指摘したように、一九四五年夏にいくつかの重要な決定がどのようになされたのか、に関しては記録に空白がある。

    大統領が求めたのは、いわば非公式の「三省委員会」、すなわち、関係省トップの高官の会議である。しかし、国立公文書館のミルトン・グスタフソンが指摘しているように、一九七七年になってからですら、
    …すべての会合の議事録は見た者は一人もいない。議事録の大半は当初、機密扱いとされていた。…議事録の大半は一九七四年になるまで機密扱いを解かれず、二度の会議の議事録の一部[日本関連ではない]は今もって公開されていない。…今日でも議事録がすべて揃っているところはどこにもない。
    この高官グループの討議の議事録は利用できる部分でもきわめてずさんで、実際に何が起きたのかについてごく大雑把にしかつかめない場合も少なくない。

    そこで当然のことながら、この分野ではとくにそうだが、最終決定の「結果」はたしかに知っていることが多いが、ある事柄がなぜ特定の時点で行われたのかについて、利用できる資料に多くの疑問点が含まれているというのも事実である。

    アメリカ政府の最高レベルにおける「無条件降伏」に向けた政策の次の段階との関連では、以下のような疑問点がある。
    第一に、詳しく説明するという政策が大統領によって放棄されたのはいったいなぜか。
    第二に、この件に関して、この時期に大統領の中心的な補佐官は誰だったのか。
    第三に、形になりつつあった政策の主眼が放棄されただけでなく、公に逆転されたのはなぜか。
    三つの疑問のすべてについて、歴史学の論文などではかなりの論争と混乱があった(特定のポイントがまったく注目されない場合もあった)。それゆえ、この分野では、一日ごとに丹念に記録を調べていくことが必要だ。

    P73とりわけ、戦没将兵追悼記念日の週(一九四五年五月二十九日から六月一日)の出来事には注意深く対処しなくてはならない。そして、資料があまり込み入ってない分野ではもっと早いペースを取りもどすことになる。


    理解のあるレベルでは、謎もなければ見解の相違もない。実際、トップの高官は翌五月二十九日にペンタゴンのスティムソン長官の執務室で会議を開いている。グルーの記録によれば、出席していたのは以下のメンバーである。
    スティムソン、陸軍長官
    フォレスタル、海軍長官
    マーシャル元帥、参謀総長
    エルマー・デービス、OWI局長
    サミュエル・ローゼンマン判事、大統領法律顧問
    ユージン・H・ドゥーマン、国務省
    ジョセフ・C・グルー、国務長官代行
    この会議については何年もの間にさまざまな報告がなされている。なかでも初期のものの一つが第二次大戦の終戦から七年たった一九五二年刊行されたグルーの回顧録で、以下のように報告している。
    会議の目的は、われわれには将来の日本の政体を決定するつもりがないことを、大統領がきたる対日戦争に関する演説で明言すべきかどうか、について討議することだった…そうした声明を発表すれば…日本人が天皇のために狂信的に戦う代わりに無条件降伏を受けいれやすくなるのではないか、という考えがあった。

    P74会議は一時間に及び、議論の過程で次のことが明らかになった。スティムソン、フォレスタル両長官とマーシャル元帥はこぞって原則に賛成だが、ある公にできない軍事的な理由から、大統領がこの時点でそのような声明を発表するのは得策ではない、と考えられた。問題全体はタイミングの問題に集約された。…
    刊行されたフォレスタル長官の日記(一九五一年)には、いくらか明快な以下のような情報が記されている。
    われわれの言う無条件降伏とは日本軍の無条件降伏であり、日本国家を壊滅させようというのではないと言うだけでは足りないのか、と私は尋ねてみた。ドゥーマン[国務省の日本専門家、戦前に参事官としてグルー大使の下で東京の大使館に勤務した日本通]によると、それでは駄目だという。

    ドゥーマンの考えでは、アメリカが日本流の統治思想と信仰を破壊しようとしているという考えに日本人が染まってしまえば、われわれは掛け値なしに捨て身の防衛に直面することになる。

    物理的、産業的に破壊するつもりはない、という保証だけでは足りないというのである。
    フォレスタルはこうも記している。
    [大統領が]そのような声明を発表するには時期が適切でないということで、意見が一致した。
    同じように、グルーの側近だった国務省のユージン・ドゥーマンは、一九六○年のある講演でこう振り返っている。
    [一九四五年五月二十九日に]ペンタゴンのスティムソン長官の執務室で会議が開かれた。この会議には、フォレスタル、マクロイの他、制服組、非制服組を問わず、軍の高官が出席していた。

    P75グルーと私も国務省の代表として出席していた。[提案されていた]文書の発表は出席していた各人によって承認されたが、事後に口を開いたマーシャル元帥は、発表にはまだ時期尚早だと述べた(相互参照)。
    最後に、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官の日記(一九五九年公開)はこう記している。
    …私のところへ、国務長官代行のジョー・グルー、海軍のジム・フォレスタルと参謀総長のマーシャルの他、それぞれの側近が集まっていた。この会議は大統領の提案でグルーによって召集されたもので、会議の目的は日本に対する声明の発表について決定することだった。

    声明は、日本に降伏するか、さもなくば、もっと悪いことを覚悟せよ、という警告の役割を果たすことになっていた。
    また、スティムソンの日記は、きわめて重要なポイントも提起している。
    [グルーが草案を]読み上げ、そして論評を求めた。私はこう言った。そのような言葉を使わずに、無条件降伏の方式の修正を日本人に通告することに同意してもいい。
    ところが、
    タイミングがよくない、今はそうするときではないと思う、と私はグルーに言った。テーブルを囲んでの討論の後、私はマーシャル、それから他の全員の賛同を得た。
    スティムソンの日記には、グルーが「ある公にできない軍事的な理由」と評したものの明解な証拠がある。そして、大統領が声明を発表するのがなぜ時期尚早だと考えられたのか、なぜ「タイミングがよくなかった」のかも、はっきり示されている。
    何とも落ち着かない会議だった。というのも、全体の状況を決定することになる本題、つまり、S-1のことを聞かせてはならない連中が出席していたからだ。…
    P76しかし、全員が退席した後のことを、スティムソンはこう記している。
    会議の後、マーシャルとマクロイと私は居残って、日本の状況、さらにはS-1とその利用に関して何をなすべきかについて意見を交換した。
    マクロイも(一九八〇年代後半に公開された)日記のなかで、この意見交換について記している。 陸軍長官は、大統領演説と日本問題について討議した国務長官代行とフォレスタル長官との会議について言及した。長官は、行動を延期するという決定が健全なものだと感じていた。

    しかし、証拠を揃えていくと、二ヵ所に小さな空白があることを忘れてはなるまい。第一に、声明発表を延期する提案にあたってスティムソン(とマーシャル)が何を考えていたのか、本当のところはわかっていない。

    天皇の地位を(どうやらスティムソンが示唆しているように)明確にしようと考え、それで戦争終結が不調に終わったら原爆使用の準備に入ろうとしていたのか。原爆使用の態勢が整う直前に声明を発表しようと考えていたのか。別の考えがあったのか。

    第二に、この高官グループが(おそらくは)原爆がらみの理由からこの時期にこの結論に達したことが判明しても、それがただちに、このグループの勧告によって直後にトルーマン大統領が声明の発表を延期する決定をしたということにはならない。

    P77確かに、高官グループの会議をグルーに要請したのだから、トルーマンはその勧告に関心をもち、それに従っただろうという合理的な推論は成りたつ。それでも疑問はなくならない。

    事実、大統領は戦没将兵追悼記念日直後の演説で、単に無条件降伏の意味をさらに明確にすることを延ばしただけではない。五月八日の声明で打ちだした路線を大幅に変更したのである。

    五月八日の声明でトルーマンは、降伏の条件を注意深く軍事的な意味だけに限定して具体的に述べていた。ところが、六月一日の演説では大統領はこう述べているのだ。
    われわれ陸海軍の兵士を無事帰還させ、平和の下で快適な生活を享受させたいと願っているから、無条件降伏未満で妥協せざるをえなくなると、[日本軍幹部は]高をくくっている。
    彼らは無知を思い知るべきだ。…
    われわれの決意は固い。この戦争で完全な勝利を見届けるまで戦闘をやめるつもりはない。
    実際、六月一日の声明の語調は力強いばかりでなく、妥協しないという意思を明快に示すように準備されたように見える。六月三日付の「ワシントン・ポスト」社説はこう評している。
    国民の殺戮と郷土の破壊を食いとめるために何をしなくてはならないのか、日本人には圧倒的な力で示してやらなければわからないだろう。
    さらに六月六日付の「ワシントン・ポスト」はこう論じている。
    日本の当局者は一人残らず、われわれの戦争準備に関する大統領の説明を読んで、日本の将来について暗い気持ちになっているに違いない。思い知らせてやらなければならないのだ。だが、対日戦争目的をすべて仕上げないかぎり、降伏に結びつくことはありえない。…
    P78この大統領の姿勢の変化に研究者はほとんど注目してこなかった。その後、政府がこの演説(と五月の声明)に関する問い合わせに対して、アメリカ政府の最終的な立場を説明しているにもかかわらずである。

    大統領演説の主眼点は戦争の進捗状況であり、したがって、ペンタゴンの手を借りて起草されたことはほぼ間違いないが、降伏に関する新しい言い回しは陸軍省高官にとっても大きな驚きだった。

    たとえば、ジョージ・A・リンカーン将軍は六月七日、自ら長を務める作戦部政策課に怒りに満ちたメモを送っている。
    このG2[軍事諜報部門]の無条件降伏文書についてはっきりさせておきたい。ダンカン[提督]は、大統領がそれ[についての声明]をすでに発表してしまったから完全に死んだと考えている。

    だが、私は何も見ていない。もし公開されているのなら、なぜ誰も私のところへ届けなかったのか。
    当面はもう一つの重要な出来事と日付の接点に注目しておくといいかもしれない。戦没将兵追悼記念日の週に開かれた無条件降伏についての会議と大統領の新しい強硬な声明は、原爆にまつわるさまざまな問題について勧告するために設置された暫定委員会が、最も重要な勧告を公式に完了した時期(五月二十八日~六月一日)とまったく重なっていた。

    もう一つ注意しておきたいこと。五月二十九日のスティムソンの執務室での会議に関連して、たった今見てきたように、陸軍長官は他の政府高官との話し合いでも本当の動機をきわめてあいまいにしか表明しない。

    これから十分に資料の裏づけのあるいくつかの事例を見ていくが、大統領自身も原爆と外交との関係についての自らの戦略的思考との関連で、誤解を招くような、ときには、不正な話を作りあげている。

    P79現在見ることのできる文書の多くは、なぜ特定の決定がなされたのか、その「証拠」とおぼしきものを提供している。だが、臭い物にふたの雰囲気を考慮にいれると、多くの事例でいったい何が本当の動機で何がそうでないかは確かではない、というのが真相だ。

    これを証拠文書によってきっちりと跡づけていく作業はきわめて複雑であり、うっかりすると、一般人はもとより専門の研究者でも収拾がつかなくなる。

    なかでも大統領がこの時期の重要な決断を下したときに何を考えていたのかはもっとはっきりせず、利用できる証拠の限界と、原爆をめぐる秘密主義の下で一般的だったことがわかっているごまかしと責任回避を(できるかぎり常に)念頭において、一つひとつ丹念に解読していかなくてはならない。

    しかし、まさにこの時期における一部の重要人物の見解については、かなり確かな情報を揃えることができる。たとえば、マーシャル元帥がどんな考えをもっていたのかは、五月二十九日の最初の会議が終わった後に行われた継続討議に関する他の報告からもっと詳しいことがわかる。

    ジョン・J・マクロイ陸軍次官補のメモはこう述べている。
    マーシャル元帥は、大きな海軍施設のような純粋な軍事目標に対して、こうした兵器を最初に使ってみたらどうかと言い、そこから思うような成果が得られなかったら、人々に退去を警告したうえで、いくつかの大工業地帯に目標を定めるべきだと語った。

    つまり、われわれがそうした生産拠点を破壊するつもりだと、日本人に通告するというのである。…警告したという記録をはっきりさせるために、あらゆる努力を傾けるべきだ。そうした警告をしておくことによって、下手にそのような武力を行使すれば避けられない非難を帳消しにしなくてはならない。
    P80このメモから察するに、この時期にマーシャルが声明の発表の延期を望んだ一つの理由は、原爆を軍事目標に対して使用するという考えと関係があったようだ。その後、非常に明快な「警告」が発せられることになる。

    具体的には、日本国民に対して目標となっている都市や人口密集地から退去するように、という警告である。そこで初めて、原爆は都市の中心地に対して使用されることになる(前述したように、五月二十九日の第一回会議の記録と彼[と統合参謀本部]の思考に関する他の資料からも、マーシャルがこの時期に、警告の声明がいかなる形になろうと、無条件降伏の方式の変更を支持していたことがわかる)

    これに関連して、原爆のいわゆる「デモンストレーション」は最高レベルではあまり真剣に検討されなった(例外が一度だけあり、五月三十一日の暫定委員会で昼食時に非公式に議題になっている)と、よく言われる。

    さらには「デモンストレーション」は明らかに現実的でなかったとも指摘される。また、その後の論議で、無人島で爆発させるという発想がしばしば浮上し(そして、消え)た。

    したがって、ここでは単にこう指摘するのが重要かもしれない。近代屈指の尊敬される軍人であるマーシャル元帥は、軍事施設を目標として注意深く設計された「デモンストレーション」に克服できない障害があるとは見ていなかったらしい。

    マーシャルは、「下手にそのような武力を行使」すれば避けられない「非難」を帳消しにする重要性を力を込めて主張していた。そして、マーシャルが指摘しているように、「厳密に軍事的なデモンストレーション」によって結果が出せなければ、いずれにせよ、都市が攻撃目標になることもありうることになる。

    同じくこうした事柄に関連して、すなわち、五月三十一日と六月一日に、暫定委員会はいくつかの結論に達している。

    P81最も重要な結論として、新兵器は(マーシャルが言うように二段階ではなく)できるかぎり速やかに使われるべきだと正式に勧告された。厳密に軍事的な目標に対してではなく、労働者の住宅に囲まれた産業施設を目標に使われるべきである。

    そして、とくに警告を発することなく使われるべきである。委員会の議長を務めていたのがスティムソン長官で、最も有力なメンバーは大統領の代理人であるジェームズ・F・バーンズだった。

    この時点でわれわれの一番の関心事は依然として、天皇の運命と「無条件降伏」の意味するところについて、日本人に何が通告されるのかである。

    マーシャルの思考の概要を示したメモのように、多くのトップの高官が、この時点で警告の声明と新兵器の関係について正確にどう考えていたかのかを証拠づけてくれるような詳細な情報はない。

    しかし、根本的なポイントについては、非常に多くの証拠が揃っている。すなわち、戦術的な見方がどうであれ、アメリカ政府最高首脳のほぼ全員が、最終的に降伏をひきだすほとんど唯一の方法は条件を修正することだ、と認識していたことは明白である。

    たとえば、スティムソンの執務室で会議が開かれていたまさに五月二十九日に傍受された電文の報告が、ソ連のモロトフ外相と日本の佐藤尚武駐ソ大使のやりとりを詳しく伝えている。

    モロトフが、太平洋戦争はどのくらい続くのかと佐藤の見解を尋ねたのに対し、佐藤はこう答えている。
    日本はソ連にならい、できるかぎり早く戦争を終わらせたいと願っている。しかし、太平洋戦争は日本にとって生死の問題であり、また、アメリカの姿勢ゆえに、戦闘を継続せざるをえない。
    アメリカの諜報専門家は傍受した電文を論評するのに、佐藤が「アメリカの姿勢」ゆえに、日本は「戦闘を継続せざるをえない」と述べている点を、とくに取り出して強調する。

    ルーズベルトの元補佐官で、この時期に大統領の使節としてモスクワを訪問していたハリー・ホプキンズも、

    P82スターリンは「自らの情報に基づいて、日本は無条件降伏を受けいれないだろうと言い」、また「われわれが無条件降伏にこだわっても、ジャップは音を上げず、ドイツと同じく破壊しつくさなくてはならなくなる」と報告している。

    五月後半のポルトガル駐在のに日本外交官との接触に関するOSSからトルーマン大統領への報告についてはすでに述べた。実は、この報告もちょうどこの時期、すなわち六月二日に、ホワイトハウスの大統領のもとに届いている。

    報告は、「無条件降伏」という言葉が使われないかぎり、実際の和平の条件にはこだわらないと、井上は宣言したという内容だった。

    六月二十二日、統合参謀本部は前出のスイスにおける和平の打診の続報にあたる報告を受けとった。この報告もこう述べていた。「情報源によると、日本が降伏する前に、天皇が保持されるという保証がどうしても必要だ、と藤村は主張した」

    現代の研究者らが、四月と五月における政府首脳より一段下のレベルで降伏の方式を修正しようという試みに関連した、込み入った微妙な駆け引きを、賛否の両方の立場とも証拠を揃えて解明してきたように、六月に入ってからの官僚機構内部の対立についても、多くのことが書かれてきた。

    政府の「公式の」政策が柔軟路線に戻っていなかった、というより、六月一日に大統領自身によって強硬路線に変更されていたことから、当然のことながら、多くの中間レベルの官僚は、この問題に関して慎重にさまざまな策を講じていた。

    しかし、首脳レベルでの構図は再びきわめて単純明快になった。たとえば、スティムソン陸軍長官とマーシャル元帥は、この時期においても無条件降伏をめぐっていくつかのメモをやりとりしている。

    P83五月三十日付のメモでスティムソンはこう述べている。
    ご承知のことと思うが、私はこの問題についてしばらく考えてきた。…提案されているような全般的な目的についての声明の代わりに、「日本の戦争遂行能力の完全な打倒と恒久的な破壊」を私は支持したい。
    六月九日、マーシャルは「厳密に軍事的な観点から受け入れ可能のように思える」と回答し、さらにこう提案した。
    「無条件降伏」という言葉について、定義が厄介だという点では異論がないことでもあり、この際、公の使用を控えさせるように行動を起こすべきだ。代わりに、我が国の政策と戦争目的に関して、もっと決定的な公式声明を促すといい。日本の無条件降伏という言い方を避け、打倒と武装解除という見地から真の目的の規定に取りかかるべきである。
    マーシャルは同時に統合参謀本部にこう勧告している。
    降伏の条件を作成するにあたっては、「無条件降伏」という言葉を具体化しようとするあまり、なるべく早い日本の敗戦を心理的にもっと受けいれやすくするような用語に変更する可能性を封じることがないように注意すべきだ。
    スティムソンの「無条件降伏という用語の使用に関する…最新のメモ」に答えるもう一つのメモで、マーシャルは訴えている。その定義は、
    大統領が一九四五年五月八日の日本国民に宛てた声明ですでに示した路線に沿った[ものであるべきだ]。念のため、大統領はそのなかでこう述べている。

    「無条件降伏の下で日本の陸海軍が武装を解除するまで、われわれは攻撃を停止しない」そのうえで、大統領は軍の無条件降伏が日本人にとってどんな意味をもつのかについて明快に示した。
    P84同様に、統合参謀本部は六月九日、JCS1340の最終草案を承認して国務・陸軍・海軍三省調整委員会に送付している(国務長官に提示されることになる)。この文書は「日本に対する即時無条件降伏の要求」についての提案で、五月九日の決定に基づいて準備された。文書は冒頭で次の判断を示している。
    ドイツの崩壊と日本の孤立の衝撃は、今や本土およびアジアに展開する軍の要員も含め、事情通の日本人には認識されていると考えていい。そして、ロシアが将来どう出るのかはっきりしないことが、日本の指導者にとってかなりの不安の種になっている。
    文書はさらにこう述べている。「今後数ヵ月のうちに、日本は、連合国による本土の占領が課されず、最終決着で朝鮮と千島列島の領有を認められるなら、いかなる条件でも戦争の終結を求めるかもしれない。おそらく、日本がこだわる唯一の条件は、本土が占領されないという保証だろう」

    日本側からそのような条件を示してくる前に、という配慮もあって、文書は「無条件降伏の強い要求」を「沖縄作戦の成功が確保できるほど進展した時点…」(沖縄は陥落寸前で、実際に、一二日後の六月二十一日にそうなった)で突きつけるように勧告している。

    また「無条件降伏」はトルーマン大統領の五月八日の声明で示されたように日本軍に対して適用すると規定されるべきだ、と改めて強調した。さらに、言外に天皇統治の正統性を認めている、と暗に受け取れるような表現を新たに提案した。「大日本帝国政府」に送られる降伏要求の草案はこう述べていた。
    日本軍の無条件降以外にわれわれの戦争遂行の決意を鈍らせるものはない何もない。…

    人類全体の利益に鑑み、大日本帝国政府および最高司令部支配下にある日本軍のすべてが無条件降伏を宣言するように要求する。
    P85もう一つの証拠がある。ハーバート・フーバー元大統領は、トルーマンだけでなくフーバー政権で国務長官として閣僚に名を連ねていたヘンリー・スティムソン陸軍長官とも接触しており、五月十六日に戦争についての見解を概括した報告書をスティムソン宛に送っている*

    これにジョン・J・マクロイを加えた三人で戦没将兵追悼記念日の週、すなわち五月二十九日にも非公式に会っている。三日後にスティムソンはこう記している。
    私は[アメリカ陸軍参謀次長の]ハンディ将軍とも会談し、フーバー大統領が送ってくれた、最後の最後まで戦うという事態が避けられれば、戦争を短縮し、損害を軽減できるという内容の文書を手渡した。
    統合参謀本部は六月四日にメモを検討し、「日本の完全な敗北や無条件降伏の具体的な条件に付随する条件をまとめることを視野に入れながら…メモに盛りこまれた考え方をさらに追求することが望ましいように思われる」という結論に達した。

    一方、フーバーの五月三十日付のメモは大統領の要請によって国務省でも検討された。その分析結果ではこう述べられている。
    フーバー元大統領の提案になる条件を日本人が受諾するのに有利な要因について、元大統領の見解には同意できる点が多々ある。

    天皇制に関する日本人の見解について、われわれが入手できるすべての証拠は例外なく、現在の天皇個人に触れないこと、および天皇統治の国体を護持することが、日本人にとって譲ることのできない条件であることを示している。

    …この点に関してわれわれの意図を明確にできない、あるいは、天皇を戦争犯罪人として裁き、天皇制を廃止するという意図を宣言することによって、戦争が長期化し、人的損害が大きくなるという点で、われわれの見解は一致している。
    P86ここで改めて状況の複雑さを強調しておく必要がある。アメリカ政府の公式の政策は依然として妥協を許さない「無条件降伏」だったため、すべての軍事的な計画は必然的にこれに基づいて進められていた。

    しかも、前述したように統合参謀本部は、日本側が先手を打って独自に不十分な条件付き降伏を提案し、なおかつ、それがアメリカ国民に前向きに受けとられるのではないか、と危惧するようになっていた。

    実際、(一部の批評家が後にそう訴えたように)降伏条件の修正に対する国民の批判を危惧するどころか、事前にアメリカ側の明快な声明がないと、厭戦的になっているアメリカ国民が日本側の条件付き降伏に飛びつきはしないかと、統合参謀本部は危惧していた。

    グルーも大統領への回答のなかでこの問題に言及している。
    言うまでもなく、統合参謀本部がアメリカ国民の士気を維持するために必要と考える、いかなる措置をも押し進めることがわれわれの意図にかなっている。しかし、どんな言葉で表現しようと「無条件降伏」の意味するところを明確に示さずに日本に対して降伏を要求するだけでは、肯定的な反応を引きだすことはできないだろうと考えられる。
    グルーは、大統領宛ての論評に宣言草案を添付した。草案は「国連が天皇その人に危害を加えたり、天皇制を廃止したりしないという日本人の基本的な立場に合致し、日本人の懸念をいくらか和らげるように配慮された」いくつかのポイントを提示していた。

    六月十二日には、陸海軍の長官と国務長官(代行)で構成される三省委員会でも「無条件降伏」について討議した。またしても、公式の議事録にはこうある。
    P87フォレスタル長官は、日本での成果をうまく生かせなくなるようにな固定した立場を避けるようにすべきではないか、と語った。また、戦争の継続がどんな意味をもつのかに関する警告を日本に発するのは、調整とタイミングの問題だと述べた。

    さらに、気がついてみたら日本の軍国主義者らが国民の間で権力基盤を固めていたというような事態が起きないように、この問題は真剣に考慮しなくてはならないと感想を漏らした。長官は、日本国民と天皇のいささか神秘的な関係と日本国家主義の宗教的な背景のことを考えていた。

    陸軍長官はこの問題が頭から離れないと語り、マーシャル元帥と話し合ってみたとも語った。その後は、「無条件降伏」という言葉を継続することが得策かどうかの議論が続いた。

    長官は、この言葉を使わずに戦略目的をすべて達成できるのなら、その放棄を躊躇すべきではないと述べた。…
    六月十五日には、(サンフランシスコで国連創設会議に出席していた)ステティニアス国務長官からも、その見解を示す電報が届いた。
    いかなる状況であれ、沖縄作戦の終結を機に無条件降伏を要求することが望ましいと統合参謀本部が感じているのなら、三大国がとろうとしているいかなる行動をも害することがないように、大統領によって一方的に要求がなされるように提案する**
    六月十八日には、事態が進展し、レイヒ提督が非公式ながら私的日記に次のように記すことができる状況が生まれた。
    将来のいかなる太平洋越しの侵略行為に対してもアメリカの防衛にまったく支障をきたすことなく、日本にも受諾可能な条件で、日本の降伏を現時点で取り決めることができると考えられる。
    P88(その後、レイヒは、この記録を一九五一年の回顧録に記したときに、こう付記している。「当然のことながら、トルーマン大統領に対しては、ルーズベルト大統領のときと同じように、日本を打ち負かすためにとるべき最善の方法について、私の考えを遺漏なく伝えている」)

    この時点(六月十六日)で、グルー国務長官代行はもう一つの策を講じる決断をした。統合参謀本部の勧告を受ける形で大塔呂法律顧問のサミュエル・I・ローゼンマン判事に書簡を送り、日本に降伏を要求する声明を沖縄陥落後(わずか五日後のことだった)にタイミングを合わせるように提案したのである。
    私にはそのような行動を三大国の会談[七月にポツダムで開かれる予定になっていた]の時期まで延ばす、これといった理由は見当たらない。そして、日本人に降伏について考えさせるのは早ければ早いほどいいし、最終的により多くのアメリカ人の命を救うことにもなる、と私は考える。
    グルーは、明らかにこの問題についてひどく感情的になりはじめていた。
    …われわれの言う無条件降伏がどんな意味なのかを日本人にもっと明快に伝えてやるのは、単純な常識の問題だと考える。すでに大統領は皆殺しでも隷属化でもないと明言しているが、さらに二つのポイントが具体的に発表されれば、日本国内で平和を目指す動きに大きな弾みがつく。

    そして、今日の日本には、戦争を継続することは失うばかりで得るところは何もないことに、はっきり気づいている人々がいることは疑いない。
    「われわれには…合理的な平時の経済まで日本人から奪うつもりはない」という保証に加えて、次のことを明確にすることが不可欠だった。
    …われわれの手で日本が二度と軍事機構を築きあげることができないようにし、日本が国際的な責務を果たすという意図をわれわれに納得させて初めて…日本は将来の政体を自ら決めることを許されることになる。
    グルーの提案はタイミングという問題のもう一つの側面も浮き彫りにしている。明らかに、グルーの五月二十八日のトルーマンとの会談から六月十六日の提案にいたる二週間半のある時点で、声明を七月中旬の三大国による会談まで延期してはどうかというアイデアが、大統領周辺で浮上してきた。

    ここでも、そうするように誰が大統領に勧告したのか、また、なぜかは、正確にわかっていない

    しかも、明らかに他のトップの側近上ぼ全員も、声明は沖縄陥落に合わせて発表すべし、という方向で考えていたように見える。

    声明を延期するという新たな動きは、相当の懸念材料になっていたことも見落としてはならない。グルー国務長官代行は、声明が必要だというだけでなく、ずるずると遅らせることは大きな障害になると指摘している。

    グルーが声明の早期発表を訴えたのには特別な理由があった。そうすることで、すぐにでも「日本人に降伏について考えさせることができる」からだ。

    グルーをはじめアメリカの当局者には、日本人がアメリカの行動の意味を吞みこむのに時間のかかることはわかっていた。「平和への動きを緒につかせるために…」早期の声明が必要だったのだ。

    グルーは六月十八日午前中にトルーマンとの会談を設定し、そして大統領に言った。
    日本において平和への動きを促すようなあらゆる手段が講じられるように望んでいました。確かに、そのような手段によって期待どおりの結果がもたらされるのかどうかは想像の域を出ませんが、それでも、そうすることで失うものは何もないし、何かが得られるかもしれない、と強く感じていました。

    P90それも、私の考えでは、早ければ早いに越したことはないのです。
    しかし、トルーマンは、いささか不可解だとしても、断固たる決断をした。
    大統領は、私がローゼンマン判事に託した声明の草案を昨日じっくり検討したと言った。沖縄陥落後の発表と同時に日本に無条件降伏を求める声明を発表するというのは面白いが、ともかく三大国の会談で討議するまで発表を控えることに決めたという。
    グルーは大統領に再考するように迫ったと、こう続ける。
    将来の平和への脅威とならないように日本を無力化する、というわれわれの目的を一歩も譲らない以上、おそらく何千という戦闘員の命を救うことになるであろうという勧告を一つたりとも省略しないことで、自らの良心の調和を保とうと願っていた。
    最後に、落胆したグルーはこう結んでいる。
    大統領がこの時点で手を打つことを封じたことで、もちろん、これ以上は何もすることはできなかった。だが、この問題は決して忘れてはならないと感じていた。大統領はこの問題を三大国会談の議題に入れるように私に要請した。…
    *その内容はトルーマンに送られたものとは一線を画しており、とりわけアジアにおけるソ連の意図に対する懸念を強調していた。See Hoover to HLS,May 15,1945,Stimson Papers,YUL.
    **ステティニアスはこうも訴えている。「日本の将来に関する何らかの保証とそうした要求を結びつけることが役に立つのかどうかも検討してみたほうがいい」(FRUS,Pots.I,p.173.)そうした宣言にソ連を参加させることの重要性に関するステティニアスの見解については、30章を参照のこと。

    1.5 一九四五年六月十八日 P92-
    そこで私は言った。「はい、確かに閣下には他の選択肢があると思います。そして、それを試してみるべきだと思います。本当のところ、この戦争を終わらせるために、ありきたりの攻撃と上陸以外の方法を試さないのなら、われわれの頭を調べてもらう必要がある」

    すると大統領はこう言った。「いやはや、私の考えていたとおりのことをずばりと言ったね。すまないが、それを書き留めて国務長官に見せて、何ができるのか相談してみてくれ」
    ---ジョン・J・マクロイ元陸軍次官補、ハリー・S・トルーマン大統領への助言とその反応を想起して、一九四五年六月十八日
    きわめて明快なこともいくつかあるが、降伏条件を明確化する声明の発表を延期すると決定したときに、大統領が正確に何を考えていたのかは知る由もない。グルー国務長官代行、ステティニアス国務長官、そして誰より統合参謀本部が勧告していた沖縄陥落の劇的な機会をあえて外して、大統領が三大国会談の時期まで待つことを選んだのはいったいなぜか。

    トルーマンが事後に理由を説明した内容は次のとおり(一九五五年の回顧録のなかで提示した)。
    日本に対する宣言をきたるポツダム会談の場からはっするというのは、私が決めた。こうすることで、日本に、そして世界に対して、連合国が目的に向けて一丸となっていることを明快に示すことになると考えたからだ。

    P93また、そのときまでには、将来の取り組みに重大な影響を及ぼす二つの事柄、すなわち、ソ連の参戦と原子爆弾について、もっとはっきりするかもしれなかった。
    この声明を疑う理由はない。だが、これですべてではないことも明らかのように見える。

    大統領の説明は、宣言によって実際に降伏条件が変わるのか、という具体的な疑問に正面から答えていないだけでなく、大統領と同じように原爆とソ連参戦の可能性について知っていた軍のトップの補佐官の考えが、なぜ退けられたのかを具体的に説明していない

    また、これとの関連で、これほど重要な決定が高位の補佐官に相談することもなく新米の大統領によってなされたとは、とても考えにくい。しかも、この問題について助言した側近としては、ステティニアスとグルーだけでなく、スティムソンとマーシャルも明らかに圏外である。

    トルーマン大統領のこの時期における個人的な姿勢を示す資料はきわめてまれである。大統領が正確にどんな計算をしていたのかを示す証拠は、マーシャル、スティムソン、グルーの思考に関するそれに比べればはるかに少ない。

    それでも、いくつかの断片的な情報は、とりわけ中心的な問題にいかに対処するのかという葛藤と迷い、さらには、この時期、明らかに得て(そして聞いて)いたであろう他の助言をうかがわせる。

    トルーマンとグルーと会談してから数時間後に、ホワイトハウスに統合参謀本部のメンバーを集めて軍事計画の総括をしたとき、いくつかの事柄の輪郭が(一時的にだとしても)かなりはっきりした。

    この六月十八日午後の会議に先だって、トルーマンは軍幹部に以下のことを知らせておくように、レイヒ提督に指示していた。
    P94軍事行動についての決定を下すにあたってはアメリカ人の人的損害を極力少なくすることを主眼とするというのが[というのが[大統領の]意図である。時間と金の節約はどちらかというとあまり重要ではない。
    この一見明白なポイントが、実際にはかなりの、そして重要な、変化を表している。この時期、沖縄で払った大きな犠牲を誰もが気にかけていたものの、実際、犠牲者を最小限にするというのは、この時期における戦争遂行の基本的な基準ではなかった。

    むしろ逆に、一九四五年五月二十五日に統合参謀本部は、太平洋戦争の全般的な計画を正式に承認し、対日軍事作戦の次なる段階をすでに命じていた。しかも、旧上陸の指示がすでにマッカーサー元帥、ニミッツ提督、アーノルド将軍に出されていた。

    この指示による計画で、上陸の目標期日は一九四五年十一月一日に設定された。

    トルーマンの力点の置きどころが変わったのを知って、軍の戦略立案当局がどれほど驚いたかは、六月十四日に統合戦争企画委員会のダンカン提督と戦略・政策グループ司令官のリンカー提督が電話で話した内容(を起こしたもの)から明白である。
    [ダンカン]ちょっと困ったことになった。印刷されたのを読んでもらえばわかるが、手元にある声明には、「軍事行動についての決定を下すにあたってはアメリカ人の人的損害を極力少なくすることを主眼とする、というのが彼の(つまり大統領の)意図である」。

    ごもっともなことだが、これこれをしようとちゃんとした指示諸があるのに、いまさら決定を下すというのはいささか遅すぎやしませんか。

    [リンカーン]というより、もう作戦は始まってしまっている。

    [ダンカン]そのとおりだ。いったい、この指示書、つまり今もう作戦に入っているやつは、大統領のサインをもらっているんだろうか。

    P95誰かの言うには、OKをもらっているはずなんだが。統参本部は承知しているんだが、大統領のほうはわかんないね。もっとも、戦略全般を承認するのは元首の役割で、それはこの指示書も支持している。
    トルーマンが犠牲者を最小限にすることを強調するのは、降伏方式を明確化することに対する彼の指示に合致する(午前中にグルーに対して「それは面白い…」と語ったのもそうだ)。同様に、この時期に大統領が何を優先していたのかは、レイヒの統合参謀本部への報告に表れている。

    「時間と金の節約はあまり重要ではない」というのが、大統領の見解だ。この原則に従えば、外交交渉が試みられるなら、軍事作戦の遅れは明らかに許されることになる。

    六月十八日のトルーマンと統合参謀本部との会議はせまい意味での軍事問題が主要な議題だったが、「他の手段による」戦争終結の可能性も何度か提起された。たとえば、大統領が陸軍長官の見解を尋ねると、スティムソン長官は答えている。
    彼は、軍事的というよりむしろ政治的な配慮に関して、大統領に対して責任があると感じていた。日本にはまだ知られざる多くの人々がおり、このグループは現在の戦争を支持していないが、その意見と影響力が日の目を見たことはないというのが、彼の意見だった。

    このグループは自分の足元を攻撃されれば反抗し、粘り強く戦うだろうと、彼は感じていた。彼らと正面からぶつかり合うことが必要になる前に、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させるべく何かをすべきだと彼は考えていた。
    スティムソンの軍事的ではなく「政治的な」助言についての注意は適切だった。そして、トルーマンの当初の反応も取りたたて驚くほどではなかった(そして、トルーマンがそうした問題について別のこところ別の側近と議論していることを示すもう一つの信号でもあった。)

    P96「この可能性については常時取り組みがなされている、と大統領は述べた」

    トルーマンによって提起されたもう一つの問題は、軍事的選択と政治的選択についての大統領の個人的な懸念を、さらに強調することになった。「白人による上陸侵攻によって、日本人をもっと強く団結させることになりはしないか、と大統領は尋ねた」。

    スティムソンは「その強い可能性があると思った」と答え、また、統合参謀本部によって提案されている厳密に軍事的な計画に同意する一方で、「他の手段による何らかの実りある成果を望んでいた」。

    ジョン・J・マクロイ陸軍次官補も、政治的解決の可能性を探るように訴え、早く行動を起こすことの重要性を強調した。

    マクロイ次官補は、今こそスティムソン長官が言及した日本における未知のグループの力を引きだしうるあらゆる手段について、丹念に検討してみる時期だと思うと語った。

    同じように、大統領首席補佐官も、政治的解決を強く訴えた。

    レイヒ提督は、日本に無条件降伏をのませられないかぎり、われわれは戦争に負けtことになるという輩には、同意しかねると語った。提督の考えでは、たとえ無条件降伏をのませることが不調だったとしても、近い将来に日本が脅威になることなどありえないかった。

    提督が恐れていたのは、無条件降伏にこだわっていると、日本は死に物狂いになるばかりで、結局はわれわれの犠牲者が増えることだった。これはまったくやらずもがなのことだと考えていたのだ。

    刊行されたフォレスタルの日記は六月十八日の会議についてまったく触れていないが、未刊行のレイヒの日記は強い感情をもっと生き生きと描いている。
    …われわれがあくまで無条件降伏の立場を貫こうとすれば、生き残っているすべての日本人は、軍事的敗北を受けいれるくらいなら戦って死んだほうがましだと考える結果[におそらくなるだろう]…。
    これに対して、トルーマンは答えた。
    まさにそのことが念頭にあったからこそ、無条件降伏に関して議会が適切な行動をとれる余地を残しておいた。しかし、この時点でこの問題に関する世論を動かすべく自ら何らかの行動がとれるとは思っていなかった。
    大統領が、「無条件降伏にこだわっていると、日本人は死に物狂いになるばかりで、結局はわれわれの犠牲者が増える」というレイヒの見解に支持を表明したのは、われわれの知りえたこの時点までの大統領の見解に完全に合致している。

    しかし、どこか奇妙なことも起きているようにも見える。なかでも「議会が適切な行動をとれる…」余地を残しておいたという大統領の発言がそうだ。

    トルーマンのそれまでの公式声明を注意深く読んでみても、大統領がこの問題について議会に主導権を握ってもらいたいと期待していた形跡は、まったくない。実際、当時の出来事という見地からみて、この考え方はまったく意味をなさない。

    私の知るかぎり、大統領が議会やその指導者に対して、この問題への彼らの影響力に注意を喚起したという証拠は、いっさいない(おそらくは、記録担当の秘書官が大統領の発言を聞き違えたのかもしれない。本当のところは、議会「の前途に」行動をとりうる余地を残しておいた、とでも以前の演説で言ったのだろう)。 また、とりわけ五月八日の声明に照らしてみると、世論を動かすのに寄与するような行動を自らとれるとは思わなかったというトルーマンの言い分も、うつろに響く。日本軍の「無条件降伏」に明確に的を絞った五月八日の声明は、まさにそのような行動だった。

    P98それに、わずか二週間半前の五月二十八日のグルーとの会談で、トルーマンは無条件降伏の方式を公に説明するという構想を、おおむね承認している。しかも、世論を形づくることになるような声明を発表することに何らの問題も指摘していない(大統領がグルーに指示したのは、政治というより、むしろ軍首脳が軍の観点から声明をどう受けとめるのかを確かめることだった)。

    レイヒに対するトルーマンの回答は、単にこのグループと本当の問題を議論したくないという意思表示だったのかもしれない。この時期における他のいくつかの事例を見ていくが、たぶん、大統領はこの状況では単純に自分の手のうちを見せていなかったのだろう(問題となっているポイントを証拠によって正確に裏づけることは容易ではないが、六月半ばに極東と他の地域について進められていた別の議論のなかでかなり複雑な関連した戦略が形成されつつあった)。

    古井木の直接の議題について、すでに指摘したように、太平洋司令官に対する重要な指示は会議に先だって承認されていた。一九四五年五月二十五日のことだ。

    軍の部門間でさんざん争った後で、海軍が当初から主張してきた封鎖によって日本を「窒息」させるという考えでも、日本が屈服するまで爆撃するという空軍の考え方でも足りないという結論になった。

    中国本土にまず上陸するという発想も、このときまでに事実上無視されるようになっていた。大統領の設定する目標が「無条件降伏」のままだとするなら、一九四六年の上陸侵攻は必要になると判断された。

    すでに指摘したように、これに先立って一九四五年十一月に九州上陸作戦が実施されることになる。六月十八日の会議の終わりに、トルーマンはこの第一段階を承認した。  
    大統領は、軍事的観点から見て九州作戦は問題ないだろうと言い、そのうえで、統合参謀本部を中心に進めて構わないと述べた。つまり、作戦を実行し、最終的な行動については後で決めようというのである。
    P99このように確認されているにもかかわらず、この六月中旬になされた決定にはいずれも不確定の要素が残らざるをえなかったという十分な証拠がある。たとえば、マーシャル元帥によると、「九州作戦の段取りが決まったといっても、さらなる行動の決定は後でということになりかねなかった」。そして、キング提督は明快にこう言う。
    準備という意味では、今や東京のある関東平野を目標としなくてはならない。さもなければ、決してそれを達成することはできない。いま準備を進めないのなら、後になってそれができるはずがない。しかし、いったん始めても、必要とあらばいつでも中止することはできるのだ。
    こうした論評は全般的な取り組みに関するものだったが、マクロイが後に振り返っているように、トルーマンは統合参謀本部に対して「大統領の側で自由選択の余地がなくなることころまで準備が進まないうちにさらなる指示を仰いで」もらいたいという意向を示した。

    もちろん、理論的にも、十一月の上陸作戦が始まるまでに四ヵ月半が残されていた。

    繰り返し指摘してきているように、政府首脳レベルですら秘密主義が常態だった時代における重要な当局者の見解を示している「らしい」資料の取扱いには最大限の注意が必要だ。

    われわれが直面している問題、そして、今日にいたっても知識が限られていることを如実に物語っているのが、六月十八日の会議の終盤で起きたと思われる重要なやりとりに関する問題である。

    このホワイトハウスで開かれた会議の公式の議事録は一九五五年に公開された。事後一○年たって、この重要な討議について初めて公式の情報を国民に提供した『対日戦争へのソ連の参戦』と題する国防総省の報告書のなかにおいてであった。

    P100それから五年後、実際の出来事からは一五年後の一九六〇年になって、議事録の全文がやっと公開された。その末尾には、次のかなり謎めいた一文があった。
    大統領と参謀総長らはそれからいくらか別の議題を討議した。
    そして簡単な脚注にはこうある。
    この段落は、原爆が日本に投下される前に、アメリカがそのような兵器を保有していることを日本に対して警告すべきである、という提案をめぐる討議のことを指している。
    六月十八日の会議の終盤で何が起きていたのかについて、それ以上の公式の情報は公開されなかった。しかし、この時点の議題が確かに、脚注でいささか混乱気味に言及されている二つのテーマであったことに、ほとんど疑問の余地はない。

    すなわち、「警告」(降伏方式の修正に関する意見が含まれていたことはほぼ確実だ)、そして、原爆である。とはいえ、マクロイ元陸軍次官補による追加的な情報が、政策展開の次の段階、そして、大統領の個人的な見解を読み解く手がかりを提供している。

    時間の経過とともに、「無条件降伏」問題ではマクロイが重要な役割を果たしていたことがますます明らかになっている。マクロイの伝記作家であるケイ・バードは、マクロイが「主要な漕ぎ手」としてこのテーマに関する主な提案を起草してきたと書いている。

    いくつかの資料から、陸軍次官補が「無条件降伏」という言い方を全く白紙に戻すべきだと結論していたことがわかる。たとえば、五月後半にスティムソンに宛てた書簡でこう書いている。

    「現在の日本は自ら招いた恐ろしい混乱から逃れる道を探ってもがいているように感じます。…あの言い方を用いることなく、日本に対して達成しようとしていることをすべて達成することはできないものでしょうか」

    P101マクロイは後に、六月十八日のホワイトハウス会議の前日のことを振り返っている。
    …私はスティムソン長官に言った。もはや日本に対するわれわれの圧倒的優位は動かないように思えます。爆撃すべき都市もないし、沈める空母も砲弾を浴びせる戦艦もない。

    攻撃目標を見つけるのが困難な状況です。ドイツに勝利し、パールハーバーの裏切りを乗り越え、太平洋を越えて日本の目と鼻の先までやって来たことにより、道義的にも物理的にも圧倒的に優位に立っている。

    そこで、これ以上、血を流すことなく、他の手段によって戦争を終結させる道を探るべきだと考えます。…そのとおりだと思いたい、と長官は答えた。
    一九八九年に亡くなるまで、マクロイは数回にわたって六月十八日の終盤に繰りひろげられた議論を詳しく振り返った。以下の追想は、一九六五年に原爆投下二〇周年を機に製作されたNBCの「白書」と題するドキュメンタリーに関連して行われた徹底インタビューに基づいている。
    …片付けをして書類を集めていると、トルーマン大統領が再度、私に目を留め、そして言った。

    「マクロイ、君はまだ自分の意見を表明していない。会議に出席していた以上、正々堂々と意見を言ってもらわないと、この部屋から出すわけにはいかない。たった今ここで決まったことの他に合理的な選択肢があるかね」

    私が長官の顔色をうかがうと、長官からは「思ったとおりに言ってみろ」という言葉が返ってきた。そこで、私は大統領に進言した。「はい、確かに閣下はに他の選択肢があると思います。そして、それを試してみるべきだと思います。

    本当のところ、この戦争を終わらせるために、ありきたりの攻撃と上陸以外の方法を試さないのなら、われわれの頭を調べてもらう必要がある」
    すると大統領が尋ねた(マクロイは続けた)。「政治的解決とは、どういう意味か」
    P102そこで私は言った。「われわれが手を打てるような条件をすべて書きだして日本政府に何らかの形で通告するのです」降伏ということはありえない。私なら、「無条件降伏」という言葉を二度と使わない。要は、降伏によって、われわれが戦いの目的にしてきた重要な事柄をすべて手に入れることだ。

    …そして今もこれ以上、血を流すことなく目的を達成できるのなら、それを試してみない法はない。そのためには、今がいい機会だと思う。
    マクロイはさらにこう続ける。
    [トルーマンは]条件をすべて挙げてみるように私に命じた。そこで私は、深く考えもせずにこれだけの条件があると並べてみせることにした。われわれには大規模な空軍力と海軍力があるが、もはや攻撃目標がない。われわれには日本を一つの国として、発展しうる国として存続させる用意がある。

    立憲君主国でという条件付きながら、ミカドの保持も含め、日本人に自らの政体を選ばせる。国境の外にある資源の支配はさせないまでも、それを利用する権利を与える、などなどと並べていった。
    「すると、大統領はこう言った」と、マクロイは結んでいる。
    「いやはや、私の考えていたとおりのことをずばりと言ったね。すまないが、それを書き留めて国務長官に見せて、何ができるのか相談してみてくれ」
    NBCの「白書」でも別の機会に、マクロイはもっと明快に発言している。
    私の考える降伏の条件がどんなものかを尋ねられたとき、彼らが欲するのなら立憲君主としてミカドを保持することを具体的に提示する、と私は述べた。発展しうる経済に具体的な機会を約束するため、日本に資源を支配はさせないが、利用する権利を与える。

    また、遠回しな言い方や手段としてではなく、威嚇の手段としての原爆について具体的に言及するようにも訴えた。
    P103マクロイは中心的な問題についての個人的な確信も表明した。「私としては、このようなメッセージが速やかに伝えられていれば、原爆を使用せずに降伏を引きだしていただろうと思いたいし、そのほうが原爆を投下するよりずっとよかったと考えたい」

    同様な発言は、これまでに違った場面での異なるインタビューにおいて一貫して必ずなされている。マーシャル元帥の伝記作家であるフォレスト・ポーグとの一九五九年の会話のなかで、マクロイはこう発言している。
    まさに私の考えていたとおりだ、と大統領は言った。「ひとつ草案でも作ってみせてくれないか」
    一九八四年のケイ・バードのインタビューに対して、マクロイは大統領がこんな言い方をしたと話している。
    そのとおり、その可能性を探ってみたいとずっと思っていた。…ジミー・バーンズのところへ行って、そのことを話してみてくれ。
    そして、マクロイは実際にジェームズ・F・バーンズに会いにいった、と何度かの機会に発言することになった。ところが、マクロイによると、ほどなくして国務長官に就任するバーンズは検討したがらなかったという。

    「私の提案は実行できない、と彼は言った」と、マクロイは振り返って言う。未公刊の回顧録(一部は一九九一年のジェームズ・レストンの著書『デッドライン』で紹介された)の中で、マクロイはこう書いている。
    大統領は、私の言った内容や自分の求めていたことに近いものだと示唆した。そして、私の提案をもっと詳しく説明するように求め、その件でバーンズと話をするように命じた。バーンズは当時、大統領の補佐官の役割をしていた。…

    P104私はすぐにバーンズを訪ねた。バーンズに言わせると、私の提案は我が国の弱みと受けとられかねないから、反対せざるをえないという。バーンズは天皇を戦争犯罪人扱いすることにはこだわらないと仄めかしたが、降伏要求に付随するいかなる「取引」にも反対するという姿勢を崩さなかった。
    一九五九年のフォレスト・ポーグのインタビューに対しても、マクロイは同じように発言している。

    「それから、われわれはミカドについて話し合った。ジミー・バーンズは後になって、話し合いに加われなかったことに不満を表明した…」

    これまでに発掘された資料を見るかぎり、概して一九四五年にトルーマンに最も近かった補佐官がバーンズであったことに疑問の余地はない。また、一般にバーンズは降伏の方式を変更することには一貫して反対の姿勢を崩さなかった。

    しかし、ここでとくに重要なのは日付である。マクロイの記述によると、降伏の条件に関して大統領が頼りにしていたのは、すでに六月中旬の段階で(おそらくはもっと早くから)バーンズだった。

    これよりずっと前から他の重要な問題についても、バーンズが非公式に大統領に助言していたという疑いようのない証拠がある。そして、直接の証拠はないが、二人がこの問題について六月十八日よりかなり前から検討していた、というのは無理のない推論である。

    実際、大統領は四月中旬にバーンズに国務長官就任を要請しており、また、バーンズはわずか一ヵ月後に迫った、トルーマンのスターリンとのポツダム会談の準備にすでに全力投球していた。

    見落としてはならないのは、五月三日の時点で、トルーマンはバーンズに原爆について検討する暫定委員会に、代理人として出席するように要請していることだ。

    P105すでにわかっているようにバーンズが一般的に強硬だったこと、とりわけ、多くの資料から明らかなように無条件降伏の方式を変更することに消極的だったことを考えると、トルーマンが五月八日に降伏の方式について軟化させた態度を逆転するように、また、とくに六月一日の演説で「妥協せず」の態度をとるように助言していたのもバーンズではなかったのかと問いかけるのは、理にかなっているようにみえる。

    この疑問に対する最終的な答えがはっきりしなければ、原爆使用をめぐる歴史的な論議には決着がつかない。それでも、トルーマンの他の側近が当時考えていたことについて判明していることに照らしてみると、どの一人を取りあげても変化の源泉だとは考えにくい。

    実際、これから国務長官になろうかという人物が、スターリンとの会談、さらには第二次大戦がクライマックスを迎えようかという時期に、まったくかやの外だったということはまずありえないだろう。

    それも、自分に関心のある分野の大きな決定には、なにかと首を突っ込みたがるバーンズの性格からすれば、なおさらである。

    この時期におけるトルーマンの態度について、最後に一つ振り返っておこう。すでに述べたように、午前中の会談でトルーマンはグルーに、条件を変更することに「やぶさかではない」と語っている。

    しかも、午後になって首席補佐官のレイヒ提督に対面し、さらにもっと長いマクロイとの議論のなかで、二度にわたって降伏の条件を明確化することへの全般的な支持を表明したかに見える。

    限られた情報をもとに判断すると、大統領は声明を延期することを考え直したようだ。マクロイをバーンズのもとに行かせたということは、すなわち、トルーマンが制服組、非制服組を問わず、トップの側近の圧倒的多数の見解に同意し、他の誰かを納得させる必要があると考えた可能性は大いにある。

    P106こうした出来事に関するマクロイの記述は不正確、あるいは記憶違いだ、とよく指摘される。マクロイは後のそうした疑問を予期していたらしい。というのも、事後ただちに記録を残しているようなのだ。
    会議から戻った直後ジョン・スタッキオに口述筆記させた会議の報告書が、ペンタゴンの公文書のどこかにある。国防総省を辞めたときに自分で持ちだしていない。スタッキオには最重要のファイルにとじておくように命じた。
    ところが、ここでも利用できる文書の壁に直面する。マクロイが一九四七年にこの文書の検索を試みたとき、陸軍省歴史局の編集主任だったルドルフ・A・ウィナカーはこう答えている。
    陸軍省に保存してある貴下の膨大な書類を丹念に調べてみましたが、ホワイトハウスの会議に関する貴下のメモは見当たりません。日本、降伏、あるいはホワイトハウスに関係があると思えないようなフォルダーにウェーナー嬢がとじてしまったのでなければ、私の知るかぎり、貴下のファイルにこのメモは存在しません。
    一九六五年には、マクロイはこう説明している。
    スタッキオも自分も、

    …それをどこで探せばいいのか[わからなかった]。メモの要旨はここに述べたとおりだ。参謀総長の秘書の一人が作成した会議の議事録は、大統領の決定以外は何も記録していない。たぶん、秘書は大統領が私を呼んで見解を述べさせる前にそのような会議は終わったと思ったのだろう。
    そして、一九六五年以降も、この文書は発見されていない。他の多くの文書と同じだ。一方、そうした事柄に関するマクロイの一貫性と誠実さの評判、そして、記録を正しておきたいという自明の関心から判断して、マクロイの種々の報告は概して正確だといっていいだろう*

    P107しかも、フォレスタルの未刊行の日記には六月十八日の会議についてこんな記述がある。「マクロイは、あらゆる努力と傾け、神経を集中して、日本のこうした勢力が有効な政治的影響力を発揮できる水準にまで活性化する方法を探るべきだと述べた」

    断定されうるかぎりでは、会議に出席していた誰一人として、たびたび繰り返されたマクロイの説明に異を唱えていない。少なくとも戦後の最初の数十年はその気になれば発言できにもかかわらず、である。


    *陸軍省の歴史家ルドルフ・A・ウィナカーの文書から手書きのメモが見つかった。一九九五年一月にやっと公開されたそのメモによると、一九四六年四月三十日から五月一日のニューヨーク出張中にウィナカーはマクロイと会い、六月十八日の会議について話し合った。

    メモは謎めいた部分もあるが、(この早い時期に)やりとりに関するマクロイの回想と、重要なことに、トルーマンの同意を確認している。「JJMcC、HSTと会談。九州は承認されたが、東京はまだ承認されず。最後に同意し、HSTが尋ねた。『McC、君の意見は?』。『政治的行動のときだ。GCM同意。HLS、それを支持。キング[承認]』。HST、イエス。私がやる。ポツダムへ行く…」

    1.6 一九四五年六月十八日~七月二日まで P108-
    …フォレスタル長官は、日本人に対するそのような対処の仕方を支持していた。さらに、スティムソンとグルーは、レイヒ、キング、ニミッツもこぞって日本人にそのように対処することを支持していると指摘した。
       ---フォレスタル海軍長官の秘書官マシアス・F・コリアのメモ、一九四五年六月十九日
    また、マクロイは後に(五月二十九日のマーシャルがそうだったように)、新しい原爆について日本人に具体的に警告するように要請していたと報告している。
    …われわれが原爆を保有し、投下する意向であることを通告すべきではないのか、という問題を私は提起した。
    そしてまた、マクロイはこうも振り返っている。
    …私が「爆弾」という言葉、つまり原爆のことを口にした瞬間に、この限られた人々のグループの間ですら、ある種の衝撃が走った。統合参謀本部と国家安全保障担当補佐官、大統領、そして陸軍長官の他には誰もいないという顔ぶれで、である。

    爆弾のことを口にしてはならなかった。別の機会にも述べたが、言わば、エールの上流社会でどくろの話をするようなものだった。

    P109とにかく禁句だったのだ。はっと息をのむ音が聞こえるようだった。それでも、「彼らに爆弾のことを具体的に警告しておいたほうが、我が国の道義的立場は良くなるだろう」と私は言った。
    マクロイはこの会議で、条件を明確にした後で、次のようにすべきだと要請したと別のところで報告している。
    われわれが並外れた破壊力をもち、一発で都市を破壊できる兵器を保有しており、降伏しなければそれを使用せざるをえなくなると、日本人に通告すべきだ。私自身は原爆という言葉を使用するのに支障はないと発言したものの、あまりの秘密主義的な雰囲気のゆえに、その威力を表現するのには他の言葉を使うことになるだろうと気づいた。

    それでも、ヒトラーの秘密兵器という脅威より、もっと説得力のある写実的な言葉でなくてはならない。
    無条件降伏という方式に関する大統領の姿勢、さらには、側近らの姿勢について、一つ二つ重要な当時の情報がある。

    ホワイトハウスで会議のあった翌日の六月十九日、主要な関係閣僚が再度顔を合わせている。フォレスタル長官の秘書官だったマシアス・F・コリアのとったメモが、一九五一年に刊行されたフォレスタルの日記のなかに編集された形で引用されている。

    コリアのメモの全文(「極秘」扱いになっている)は後に未公刊の日記という形で公開された。刊行された日記には次のような記述がある。
    降伏の条件---グルーの提案にスティムソンは最も積極的に賛意を表明しているが、これによると、日本にいかなる降伏の条件が要求されるのか、なかでも、独自の政体と宗教制度の保持は認められるが、同時に日本の軍国主義の痕跡は残らず一掃されることを日本人に通告するために、

    P110非常に近い将来に何かがなされるべきだとされている。スティムソンとグルーは両者とも、それがなされるべきだときわめて強い調子で主張しており、また、それが効果を上げるためには、いかなる形にせよ、日本本土への攻撃が行われる前になされなければならないという。
    どうやら、フォレスタルの日記が刊行された一九五一年には、そのようなアプローチに対する支持の度合いを公開することへの危惧があったようだ。そこのことは、日記から次の文が削除されていることからわかる。
    グルーによると、自分の見解をまとめた書簡を遅くとも土曜日[六月十六日]にはローゼンマン判事に送り、ローゼンマン判事は遅くとも日曜日[六月十七日]二は大統領に伝えると言ったという。
    こうした動きを支持していたトップの高官はグルーとスティムソンばかりではなかったことは、フォレスタルをはじめとする軍首脳に関する次の文によっても確認できる(これも、公刊された日記かららは削除されていた)。
    ゲーツは、フォレスタル長官を代弁するわけにはいかないと前置きしつつも、一般論としてフォレスタル長官は、日本人に対するそのような対処の仕方を支持していると思うと語った。さらに、スティムソンとグルーは、レイヒ、キング、ニミッツもこぞって日本人にそのように対処することを支持していると指摘した。
    未公刊の会議メモにもこんな記述がある。
    グルー長官代行は、大統領がこの見方を支持していない、といったような印象をもった。
    だが、この後半の論評はすぐに不正確だという指摘を受けた。
    P111スティムソン長官に言わせると、自分の理解はそうではなく、むしろ、大統領はそのような計画を現時点では進めたくない、とりわけ、そのような計画があるがために各省が最終的な攻撃の準備を怠るようなことがあってほしくないと考えていた。
    グルーも、後に自分の見解に関する当初の描写に強い調子で異を唱えた。一九五二年に刊行された回顧録で書いている。「フォレスタル長官は明らかに、私の言ったことを誤解していた」
    私は一九四五年五月二十九日にスティムソン長官の執務室で開かれた会議で明快に発言した。これには何人も証人がいる。この点に関して大統領は「彼自身、私と同じ方向で考えていた」と断言したが、私が陸軍および海軍当局と相談することを望んでいた。
    スティムソンの日記にも、この日の記述に会議の全体的な目的に関して、それを裏づけるような記録がある。
    …かたくなに最後まで戦うというような軍事計画を進めなくてはならないとしたら、嘆かわしいことだという感情は強かった。最後までやりとおす計画をたて、準備をする必要があるということで意見が一致した。

    だが、今日の討議のなかで、最後の最後まで戦うことなく日本を歩み寄らせる何らかの方策を見つけなくてはならない、とみんな感じていることが明白となった。そして、それが今日の討議のテーマだった。

    グルーは最近このテーマについて大統領に報告した内容を読みあげた。そのなかでグルーは、沖縄攻略から間髪を入れず日本に対して新たな警告を発するよう強い長子で訴えていた。…
    言うまでもなく、沖縄陥落は目前に迫っており、実際に二日後の一九四五年六月二十一日にはそうなった。これから見ていくように、この時点で声明が発表されれていれば、最初に原爆の使用が可能だった時点より五週間半前、そして、実際の使用の六週間強前の警告ということになる。

    P112六月十九日の会議に関するスティムソンの日記の描写には、もう一つ示唆に富む記述がある。陸軍長官はこう記している。
    …しかし、どうやらそれはきたるチャーチルとスターリンとの会談に関する大統領の計画とうまく合わないようだった。
    ここで面白いのは、やはり、大統領のタイミングについての決定が明らかにどこか別の場所でなされているらしいことを、単純に認めていることだ。この会議に出席していた高官の誰一人として、物事をかなり先まで延期したいという希望を表明していないだけでなく、この件について彼らがトルーマンに直接助言しているのではないことがあまりに明白である。

    また、陸軍長官自身が、この時点でホワイトハウスの意向を完全に知らされていないことも明白である。スティムソンは私的な日記のなかにすら、早期の声明は「どうやら」大統領の計画には合致しないらしいとかいているだけだ。

    同じ時期の六月三十日、グルーはトルーマン大統領に国務省の報告文書を送っている。この文書は正式な降伏方式の変更を勧告していた。声明の主な目的は「日本の無条件降伏にとって最も重大な障害、すなわち、天皇制の命運をめぐる懸念を取り除く…」ことであると、文書は力説していた

    (しかも、またしても国内政治ゆえにそうした声明の発表が困難になることなど気にかけることもなく、条件を明確にすることは「戦争目的を明快に言及することによって、太平洋戦争の早期終結を目指すべきだという世論の期待にこたえる」ことになると、文書は訴えていた)。

    スティムソンは七月二日に大統領と差しで会談した。スターリンとチャーチルとのポツダム会談への出発は五日後に迫っていた。スティムソンは、三省委員会の決定に基づいて起草されたメモを大統領に手渡した。

    P113メモに添えられたカバーレターはこう述べていた。
    …私は海軍長官および国務長官代行と相談した。それぞれ、このメモの趣旨に賛同し、それに盛りこまれた勧告を承認している。
    メモ自体は以下の疑問を提示していた。
    日本軍の無条件降伏と「太平洋の平和」を再び侵略するような日本の権力機構の恒久的な破壊に匹敵するものを確保する手段として、日本のそのような軍事的な占領に代わる選択肢はあるのか。
    その答えについて、さらには、タイミングの問題に関して、スティムソンの反応は明快だった。
    これから起きること、そして降伏の明確な機会について日本に通告することが十分に報われるようなそうした可能性は十分にあると考えたい。すでに述べたように、日本本土の実際の軍事的占領が始まる前に、その可能性を試すべきだ。さらには、国家としての対応ができるように、十分な時間の余裕をもって警告をすべきである。
    成功の見込みについて、陸軍長官から大統領に(強調とともに)提示された公式の評価に対する疑問もなかった。
    そのような危機においては、日本は、報道などの論調のなかで示唆されているよりはるかに理性的であると思う。
    スティムソンはこの評価の根拠を詳しく説明した。
    この疑問に関して、私は二つの点で日本を評価していいと思う。

    a、日本国民はそのような危機において、徹底して戦うことの愚を認識し、無条件降伏に匹敵する申し出を受諾するだけの知性と融通性を備えていると思う。また、

    b、国際社会の責任ある一員としての日本の再建を託せるだけの…自由主義的な指導者が日本国民のなかに十分いると思う。、
    P114諜報専門家がかなり前から指摘してきたように、何らかの通告もなされなければ起きるだろうことも、それに劣らず重要だと、スティムソンは力説した。
    その一方で、日本軍と日本の人口を武力などの手段によって破滅させようという試みは、ドイツで例を見なかったような民族の結束と反感の融合を生みだす可能性がが高い。
    マクロイが六月十八日に提案したように、スティムソンは「慎重に時期を選んで警告を」発するように、正式に訴えた。その中には、圧倒的な兵器の威力を盛りこむべきだが、同時に「日本民族や日本国を絶滅させるいかなる試みも認めない」ことも通告すべきである、と。

    スティムソンが大統領に手交した宣言の草案は、戦後の日本の政体について明快に述べていた。それによると、
    [日本政府は]現在の王朝の下での立憲君主制を選ぶこともできる。ただし、そのような政府が二度と侵略行為を企むことのないことが、国際社会が完全に納得する形で示されなくてはならない。
    (この条項なしには「提案が受諾される可能性はほとんどないと、日本について多くを知っていると目される人々は感じている」と、マクロイは六月二十九日にスティムソンに助言していた)

    草案はまた、トルーマンが五月八日にに表明した立場に明らかに戻っていた。軍事的な降伏を強調するだけでなく、二ヵ所において既存の日本政府の権威を明快に認めるような言葉遣いをしていたのである。
    P115われわれは日本の当局者に要求する。ただちに、日本政府と最高司令部の支配下にある日本国全軍の無条件降伏を宣言することを…
    最後に、スティムソンはトルーマンにこうも述べている。「個人的な見解ではありますが、こう述べることで現在の王朝の下での立憲君主制を除外しないことを付け加えるならば、受諾の可能性をかなり高めることになるでありましょう」

    スティムソンは一九四五年七月二日の日記にこう記している。
    大統領は、火曜日の三省委員会の討議をもとに作成して私が手交したメモに目を通し、感銘を受けたようだった。…大統領は声明文の草案にも目を通した。これは文字通り草案であり、S-1をどうするのかはっきりするまでは完成しえないものだと指摘しておいた。…

    会談の間を通じて、大統領はさまざまな主題の提案のされ方に大いに満足していたようだ。また、日本の扱いに関する私の姿勢について何も言わなかったが認めているらしく、私が書いた文書は非常に説得力があると発言した。
    われわれの主たる関心事が最高首脳たる大統領レベルの意思決定にあることは言うまでもない。トルーマン大統領は、ポツダムへ出発する前にもう一度、日本に対して天皇に関する保証を与えるように直接要請される機会があった。

    そのことについては、すぐに考察する。だが、その前に単純だがあまり指摘されることのない事実について簡単に振り返っておこう。この時点までに、正式に関係している主要な高官の全員、すなわち、国務長官、陸軍長官、海軍長官、レイヒ提督、マーシャル元帥、そして、統合参謀本部の全構成メンバーは、何らかの形で降伏の方式について明確化するよう訴えている。

    P116なかでも、統合参謀本部はグルーとともに、沖縄攻略に照準を合わせて声明を発表するように助言していた。

    端的に言うと、アメリカ政府のトップレベル全体が間違いない方向に進んでいたのである。フォレスタル海軍長官は、トルーマン大統領がチャーチルとスターリンとの会談のためにワシントンを立つ直前の七月六日のことを、日記にこう記している。
    ジョー・グルーと…話した。グルーは、提案していた大統領による日本向けの声明の草案に何とか格好がついたことに満足していた。声明の目的は、「無条件降伏」という表現の意味するところをもっと具体的に示すことである。
    すでに見てきたように、この時点で大統領の全般的な見解にもほとんど疑問の余地がないということが、何より重要である。

    降伏方式を修正するという考え方に反対していたのは、七月三日に正式に就任したバーンズだけだったように見える。