2023年3月9日木曜日

偏愛メモ ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕(上)』第五部 ポツダム P317-460

ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕』第五部 ポツダム(に戻る
七月に三大国が…ベルリン郊外のポツダムで会談したとき、アメリカの首脳は以前と同じように赤軍の太平洋戦争への参戦を望んできた。

そこへ最初の原爆実験成功の法が届いた。世界の歴史の新たな時代の幕が開き、アメリカの外交にも新たな道具が加わった。アメリカはもはや、自国のそれであるか同盟国のものであるかに関係なく、大規模な軍隊に頼る必要がなくなった。あるいは、そう見えた。

原爆には大規模な軍隊より安上がりだという大きな利点があった。しかも、ずっと即効性がった。アメリカはすぐに原爆を外交の道具として利用するようになった。

---スティーブン・E・アンブローズ『グローバリズムに立ち上がる』
P318
5.18 三大国の会談へ
七月七日土曜日
大統領、随行の側近とともに、午前六時一分、オーガスタに乗船。
七月八日日曜日
午前九時三十分、大統領、バーンズ国務長官、レイヒ提督、国務省顧問のコーエン、マシューズ、ボーレンと長官の船室で会議。会談まで日課となった事前打ち合わせの第一回。…

---アメリカ海軍ウィリアム・M・リグドン大尉(大統領の個人秘書)の日誌より抜粋
八月初旬にいたる数週間、大統領とトップの側近がスターリンとチャーチル(イギリスの総選挙の結果が明らかになってからはアトリー首相)と会っていたこの時期は特別な意味をもっている。

ポツダム会談は、原爆投下に関する最終決定への最後の通り道なのである。バーンズは後年、この時期について「太平洋戦争の終結にいたる出来事」と三大国による議論は「あまりに多くのことが折り重なっているため、簡単に区別して語ることはできない…」と書いている。

しかも、バーンズと大統領はワシントンの「日常」とは違ったある種の緊張感のなかで物事は展開していった。最終的な原爆投下の判断を下す段階で、

P319外交に関する決定が新兵器の使用に関する決定と結びつくのを避けることはほとんど不可能だっただろう。

ポツダム会談については、過去五〇年に、とりわけ会談の重要な文書の一部が初めて公開された一九六〇年以降に、さまざまな記述がされてきた。戦後初期、すなわち主要な資料が公開される一〇年から一五年前には、会談はおおむね厳密に外交の場だととらえられていた。

最初の原爆実験が七月十六日、スターリンとの最初の

会談が七月十七日だったという奇妙な「偶然」にはほとんど注意は向けられなかった。新兵器によって交渉が有利になると、トップのアメリカ当局者が考えたのではないかという、かなり明白な可能性について論議さえされなかった。

新兵器がポツダムでアメリカの外交思想のなかで正確にどんな役割を果たしていたのかをめぐっては依然として見解が分かれているが、原爆がヨーロッパとアジアに対する態度に鮮明な影響を及ぼしたということは、大半の研究者が認めている。

同じくらい重要なこととして、その事実が今度は原爆の実際の使用についての考え方に影響を及ぼすようになっていったと考える研究者も少なくない。

大雑把に言うと、夏に入ってもここにいたるまでは原爆によってアメリカの外交が強化されるという「第二路線」の考え方がきわめて一般的だったが、ここポツダムにきて原爆の威力が実証された後にはいくつかの展開が戦略を前進させ、また具体的な内容をもつようになった。

第一に、原爆実験が成功したことにより、抽象的な理論が現実味を帯びてきた。「原爆がおそらく兵器になるだろうというだけではいささか頼りなく見えたが」と、スティムソン長官は後に振り返っている。

「現実のものとなった以上、まったく別の巨大な存在になった」「これで肩の荷が下りた」と、トルーマンはジョセフ・デイビーズ大使に打ち明けている。

P320二番目に、完全な報告が届いてみると、実験は誰もが予想していた以上に劇的なものだった。これまでは想像すらできなかったような形で、とてつもなく大きな力を手に入れたような印象をアメリカの指導者たちは抱いた。

第三点として、これに関連して、実験は成功するだろうというのがもはや理論的な可能性ではないだけでなく、原爆が実際に使用されるということも、理論ではなく現実の問題として、ありえないことではないように見えた。

第四に、こうした展開の結果として、アメリカの指導者たちは、ヨーロッパとアジアに対する具体的な外交戦略を組み立てる際に、新型兵器のデモンストレーションを想定し、それを当てにするようになった。

五番目に、どの観点から見ても、アメリカ(とイギリス)の指導者は熱狂していた。新たな展開による感情的な衝撃によって彼らの自信は深まり、また、原爆が国際関係で重要な役割を果たすことになる将来に対する期待も膨らんだ。

連合国賠償委員会アメリカ代表団の首席補佐官だったJ・R・バーテンは後にこう評している。「誰もがかなりハイになっていた」。

別の言い方をすれば、大統領、バーンズ国務長官をはじめアメリカの首脳がポツダムに滞在していた短期間のうちに、実際に原爆を使用することによって外交における交渉力が大幅に高まるという想定が彼らの思考のなかで是とされた。

そして、全般的な外交の姿勢を規定する基本的な方法と具体的な交渉の態度に組みこまれていった。こうした現実を背景に、戦争を終わらせるためのいくつかの選択肢、そして、原爆の実際の使用に関するいくつかのきわめて重要な決定が下された。

大統領とバーンズ長官は、日本が求めていた天皇に関する具体的な保証について、意図的に与えないことに決めた(そして、そうすることで、日本が降伏しないことを十分に承知していた)。

P321彼らはソ連の参戦についても意識的に奨励しないことに決めた。実際、赤軍による攻撃をできるかぎり延期するように画策し、そうすることでアジアにおけるソ連の政治的影響力を制限しようともくろんでいた。

しかも、彼らがそうした画策をしたのは、日本のソ連政府への働きかけが背景にあってソ連による宣戦布告の衝撃が大きくなりそうな時期だった。アメリカ政府首脳は赤軍による攻撃の尋常ならざる影響力をどうとらえていたのか。

そのことが、戦後の時代を通じて最も重要な資料の発見によって、それまでよりもずっと明らかになった。

暫定委員会では事前の警告なしに原爆を使用することに公式に異議を唱えたメンバーが一人だけいたことが知られている。海軍を代表して出席していたラルフ・バード海軍次官(相互参照)である。

バードは一九四五年六月二十七日付のメモで宣言している。
この計画に関わりをもつようになって以来、感じていたことだが、原爆が実際に日本に対して投下される場合、使用の二、三日前に何らかの事前の警告が日本に対して与えられるべきだ。

こうした感情の大部分は、偉大な人道主義国家としてのアメリカの地位とアメリカ国民のフェアプレーの精神によるものだ。

また、このところは日本政府が降伏のきっかけとして利用できるような機会をうかがっているのではないかという確信めいたものもある。三大国の会談に続いて、我が国の使節が中国沿岸のどこかで日本の代表と接触することもできるだろう。

そこでロシアの立場を代わりに説明し、同時に原爆の使用について何らかの情報を与え、さらに、天皇と無条件降伏後の日本国の扱いについて大統領が何らかの保証を与えることができるのなら、それを伝えることもできよう。

そうすることによって日本が求めている機会を提供することは十分可能なように私には思える。
P322バードが異議を唱えたことは広く指摘されている。しかし、大統領のポツダムへの出発にいたる時期にアメリカ政府の高位の政策論議で共通の基盤となっていた「二段階論理」の変形を彼も提案していたことは見落とされがちだ。

日本に対して原爆の情報を与えられるばかりでなく、三大国の会談後にアメリカは、(一)「リシアの立場を代わりに説明」し、(二)天皇に関して日本に「保証」を与える、こともできるというのである。
このような手順を踏んだところで、とくに失うものがあるとは思えない。むしろ、下手をすれば途方もない犠牲を払うことになりかねないから、このような手続きを真剣に考慮してみるべきだと思う。

現状ではそのような手続きを踏むことで大きな成功を手に入れられるという評価は、この国にはまったく存在しない。そのことを見いだす唯一の方法は試してみることだ。
バードのメモは翌二十八日にスティムソン陸軍長官に届けられ、また、七月二日にはバーンズのところへも届いた。後のバードの報告によると、暫定委員会でも話題になったという。もっとも、委員会の簡略化された議事録にと日誌には記録されていない。

バードはポツダムに出発する直前の大統領ともホワイトハウスで会談する約束を取りつけた。バード=トルーマン会談の記録はないが、バードは後に歴史家アリス・スミスのインタビューに答えている。

それによると、バードは「暫定委員会の勧告に対する反対をできるかぎり際立たせ」たいと考えていた。また、トルーマンに対して表明した見解はメモで述べられものと同じだった。

バードはもう一人の調査官(ヌエル・ファー・デービス)に対し、大統領にこう表明したと説明している。「お願いですから、日本に侵攻する軍を編成しないでいただきたい。一〇〇万人を殺すですって?ばかげている」

P323バードの努力は糠に釘だった。トルーマンはどうやら、侵攻と事前通告の問題については慎重に検討したとバードをなだめ、関心を向けてくれたことに感謝したようだ。

バードのメモは一九六〇年にフレッチャー・ネーベルとチャールズ・W・ベイリーの著書『ノー・ハイ・グラウンド(根拠なし)』のなかで初めて紹介された。フォレスタル海軍長官の特別補佐官で後に原子力委員会の委員長になったルイス・M・ストラウスに宛てた私的書簡のなかで、バードは後に自分の動機について補足説明を試みている。
私が提案していたそのような警告は十分に意味があったでしょう。というのも、まだ当時ロシアとの最終合意に達しておらず、また、日本は出口を求めていたから、そうしなければならない理由もなかったし、そのような警告をきっかけに日本が和平に応じていただろうことはほぼ間違いない。
バードは(ストラウス宛の二度目の書簡で)こうも述べている。「…当時の状況はあんなだったから、警告するだけで戦争は終わりになるし、原爆を落とす必要などないと思っていた」

バードは七月一日付で辞職した。第七部で見ていくことになるが、海軍次官はどこまで独自の判断で行動していたのか、また、どこまで上司であるフォレスタル海軍長官の意向に沿っていたのかという重大な疑問は残っている(後に検討するように、他の証拠から判断するかぎり、フォレスタルも降伏条件の明確化によって戦争の終結を目指していた)。

バードがトルーマンと会談していたのと同じころ、これもポツダムへ出発する直前になるが、米英合同諜報委員会は会談に備えて公式の「敵国状況の推定」を完成させていた。1章(参照)で述べたように、

P324この高位の文書も以前の評価を確認していた。
日本の人口のかなりの部分がもはや完全な軍事的敗北は避けられないと考えていると言っていい。海上封鎖も効果を上げているし、戦略爆撃によって何百万人が焼けだされ、日本の主要都市市街地の二五~五〇%が破壊されており、そうした認識はますます一般的になるはずだ。
合同諜報委員会は以下の判断を強調した。
ソ連の参戦によって日本もついに完全な敗北が避けられないことを悟ることになる。
これと関連していたのが「二段階論理」の別の要素だった。「日本は…歩みよりをますます望むようになっている…」できれば外国による占領と天皇の拘禁を回避し、

また、いかなる場合でも、天皇制に基づく国体を護持するために、日本はアジア大陸と南太平洋で占領したすべての領土から進んで撤退するだろう。さらには、朝鮮の独立と日本軍の事実上の武装解除に同意するかもしれない。

降伏条件が明確にされない場合にどんな事態を招来するかについても、委員会の見解はきわめて明快だった。「無条件降伏とは、すなわち、民族の消滅である」と日本人は信じているというのである。

今のところ、日本人がそのような条件を受諾する用意があるという兆候はない。

この「推定」が提出されてから数日後、陸軍省作戦局(OPD)はも次のように助言している(七月十二日)。
日本に対して何を求めるのかをできるかぎり具体的に規定することによって得られることは多い。…

日本の降伏はアメリカにとって有利である。戦争遂行の費用が大幅に削減されることになるし、あまりに多くの同盟国が西太平洋に参戦して日本の打倒にそれなりの貢献をする前に西大西洋の問題の決着をつけられる可能性が高くなるからだ。

日本は降伏を受け入れるだろうというのが陸軍省の現在の立場であり、太平洋の平和を求めるという現実的な目標に悪影響を与えないかぎり、日本にとって魅力となるような譲歩をしてでも追求するに足る価値があると判断している。
ポツダム会談が近づくにつれて、共和党の幹部からも降伏条件の明確化を求める声が上がった。こうした要求は、ハーバート・フーバー元大統領が五月に大統領と話し合った内容をさらに膨らませたものだった。

たとえば、七月三日、バーンズが国務長官の宣誓をした当日に、ニューヨーク・タイムズはこう報じている。
共和党員な総務のホワイト上院議員(メーン州選出)は、無条件降伏が日本人にとってどんな意味をもつのかをトルーマン大統領が上院の議場で具体的に述べれば、太平洋戦争はすぐにでも終わりになるだろうと宣言した。
ホワイト議員は個人的な見解にすぎないと述べたが、これほど有力な政治家の発言を聞き流すわけにはいかなかった*。しかも、ホワイトの動きにはインディアナ州選出のホーマー・ケープハート上院議員がすぐに支持を表明し、同じ日に記者会見を聞いてこう述べた。
これはジャップを嫌いかどうかの問題ではない。私は間違いなく彼らが嫌いだ。しかし、二年先と同じ条件で今、戦争を終結できるというのに、戦争を継続して何が得られるというのか。
五日後、イギリスのハリファックス駐米大使はケープハートの上院議員の動きを非公式にロンドンに報告している。
P326[ケープハートは]日本との和平条件に関する議論に火をつけた。信頼できる政府筋の情報として日本が一ヵ月ほど前に降伏の条件を明確に提示したが、国務省は議会と国民に秘密にしていると主張したのだ。

グルーは否定したが、ケープハートはそれでも真実だと主張した。無条件降伏は必ずしも日本の転落を演出する最良の武器ではないというのが彼の主張の前庭であり、また、アメリカの手で対日戦を終わらせるための条件は存在するし、また、整えることもできるという。
ハリファックスはまた、影響力のある評論家の間でも、降伏条件の明確化を求める声が日増しに高まっているとも報告している。たとえば、当時きわめて人気の高かったABC放送のレイモンド・スイングもその一人だ。「[ウォルター・]リップマンですら、向こう見ずな殺戮には反対している」

大使の結論は率直だった。「純粋に無制限の『無条件降伏』という方式に対するかなり強い反対の声が大きな流れになりつつある」

七月十三日、「ニューヨーク・タイムズ」はさらなる、もっと公的な動きについて報じている。
ホーマー・E・ケープハート上院議員(インディアナ州、共和党)は今日(七月十二日)、上院議場で演説し、連合国首脳がポツダム会談において「無条件降伏」を明確に規定し、和平と引換に支払わなくてはならない代償を日本人が正確に把握できるようにしてもらいたい、と希望を述べた。
「ニューヨーク・タイムズ」の表現によると、ケープハートの立場はこうだった。
「無条件降伏」の内容を明確に規定して日本人に知らせることにより、太平洋における戦争を実質的に短縮することにつながり、したがって多くのアメリカ人の命を犠牲にしなくともよくなるばかりでなく、

P327「今後、命を落とすことになる者は自らの犠牲によって何が実現されるのかがわかることになる」。…

「自らが正しいという信念に基づいて大統領閣下に提案申しあげたい。我が国は連合諸国と協力し、日本に要求すべき最低限の条件を具体的に示し、その暁には全世界に向かってその条件を発表すべきであります」
前述したとおり、新聞数紙も晩春になって条件の明確化を訴えるようになっていた。ここでも、さらなる展開が見られた。たとえば、ワシントン・ポスト紙は一九四五年六月十一日付の「致命的なフレーズ」と題する社説で、「無条件降伏」という方式を真っ向から批判した。
もちろん、トルーマン大統領は日本国民を全滅させる考えのないことをすでに表明している。しかし、これほどの高官によるそのような保証も、あの致命的なフレーズによって打ち消されてしまう。
無条件降伏という五文字が「あらゆる宣伝努力の大きな障害になっており、また、国民の自決も辞さないという日本の強硬派にとっては永遠の切り札になっている」と、「ワシントン・ポスト」は力説する。
これを改めようではないか。そして、日本に条件を突きつけよう。もちろん、厳しい条件だ。数世代にわたって日本を外交的にも軍事的にも無力にするような条件である。しかし、平和を望んでいる日本人にも希望を与えてやろうではないか

われわれの条件をのんだとしても、命と平和を保証されるほうが、戦争と殺戮よりいいはずである。
七月二日にはニューズウィーク誌のコラムニスト、レイモンド・モーリーもこの隊列に加わった。

P328(おそらくはフーバーの働きかけがあって)「対日戦争における目的を明確にすることが望ましいと、一ヵ月前にトルーマン大統領の耳に入れたアメリカ人がいる。極東の事情にきわめてよく通じている高名な人物である」と論じたのである。
そのときには、無条件降伏は陸軍と海軍に適用されると規定されるべきだと提案された。…戦後においても、日本人は天皇の家父長的な支配を受けることになるだろう。
ABC放送のレイモンド・スウィングの六月六日の放送で「我が国の日本との心理戦は…新たな局面に入るべきだ」と提案した。

個人的には天皇制の継続に反対していたが、七月三日には「このところ、日本に対する和平の条件を明確に示すようにという声がワシントンで高まっている」と報じるようになっており、さらに、今こそ「その条件を宣言するのにふさわしい時期だ」と述べている。

七月十三日には「ワシントン・ポスト」がこの問題について二つの別のコラムを掲載した。「日本国民に対して無条件降伏とは何を意味するのか、意味しないのかを、明確に示せば、多くのアメリカ人の命が救われることになるだろう」と、マーク・サリバンは主張した。アーネスト・K・リンドレーは天皇問題に直接言及した。
…日本の武装を解除し、再軍備を妨げるための適切な措置が講じられるなら、戦後において日本人がどのような政府の形態を選ぶのかはさほど重要でなくなる。
七月十六日にはタイム誌も「無条件降伏」の問題で足並みをそろえた。模範となるような政治家の能力を求め、アメリカは「日本に対する目的の明快かつ疑問の余地のない声明…」を発表すべきだと訴えた。
アメリカ軍の方針は明快だ。すべての抵抗が粉砕されるまで爆撃を続けるのである。しかし、

P329政治家が模範となるような手腕を発揮すれば、行き着くところまで行く必要はなくなり、ひいては無数のアメリカ人の生命を救うことになるかもしれない。
タイム誌は何より次の点を強調した。
そのように制限された生活は必ずしも一挙手一投足にいたるまでアメリカに支配されるわけではない。また、国際的な屈辱が永遠に続くわけでもない。しかし、そのことが大雑把な言い方にしても、日本人の耳には届いていない。
結論は抗しがたいように見えた。
ベルリンから沖縄まで、アメリカ人の口から「ジャップを殺せ、無条件降伏だ」よりさらに踏みこんだ声明が出てくることが待ち望まれていた。
最後にもう一つだけ例を引こう。七月十六日付のライフ誌もこう宣言している。「日本に関してアメリカが直面している大きな問題はもはや軍事的な問題ではない。むしろ、基本的には政治家の能力の問題だ。…」
[日本の]悲劇的な混乱が収まった後には、天皇という存在はなくなっているかもしれない。あるいは、まったく政治的な力をもたない、純粋に宗教的な天皇が現れるか、「立憲君主制」が誕生するかもしれない。いずれにせよ、日本人自身にそれを決めさせることが賢明な選択である**
いくつかの宗教雑誌も条件の明確化を訴えた。たとえば、「ザ・クリスチャン・センチュリー(キリスト者の世紀)」は「降伏後の日本との間に平和が回復される基盤について公表するよう大統領に要請する」請願書への署名を読者に訴えた。同じように、「クリスチャニティ・アンド・クライシス(キリスト教と危機)」も、神学者ラインホルド・二ーバーの明快な支持を背景に、
P330…「無条件降伏」というスローガンの解釈をめぐって[懸念を表明した]。降伏というのは軍事的な行為である。それが無条件であるべきだという要求は、日本人の人々にとって降伏の経済的、政治的結果がどうなるのかについて、我が国政府による明快な声明を妨げるものではない。

そのような声明を発表できなければ、日本人は得体の知れない結果を恐れて最終的に避けられない決定を遅らせることになる。
軍、政界、報道機関、宗教界のそのような意見が、普遍的でなかったことは言うまでもない。日本人に対する嫌悪感は依然として強く残っていたし、条件を緩和することに関しては、とくにリベラルな報道機関と民主党議員の間に根強い抵抗があった。

たとえば、ネイション誌は「軟弱な平和」に対してつねに警告していた。大企業グループ「財閥」による支配が温存されることになるというのである。「ニューヨーク・タイムズ」の論説委員会も、降伏方式の明確化に関連して慎重な対応を訴えた。

どんな変更をするにせよ、日本の抵抗を強めることになりかねないと、タイムズは危惧していたのだ。その一方で、「タイムズ」はこうも述べている。
そのような措置を講じることによって太平洋戦争を短縮し、将来にわたって日本を無害にできるのなら、実際に考慮してみる価値があるかもしれない***
ドイツが打倒され、血生臭い侵攻の可能性がじわじわと感じられるようになって、国民感情も変わってきた。五〇年後の今、その感情の機微にいたるまでをとらえるのは容易ではない。

確かに、降伏条件の明確化を求める声は圧倒的な力にはなっていなかった。しかし、後の多くの記述とは裏腹に、夏のこの時点には大統領とバーンズ国務長官は「無条件降伏」にこだわる頑なな世論の壁に直面していたというのも真実ではない。

P331この時期にまとめられた「日本の無条件降伏に対する現在の国民の態度」に関する政府部内の研究には、バランスがとれ示唆に富んだ評価が盛り込まれている。この研究の指摘によると、「無条件降伏」に対して引き続き支持が集まる一方で、
有力な新聞とラジオの評論家は「無条件降伏」という方式を補足する。あるいは、それに代わる声明をますます要求するようになっている。

また、世論調査を見ると、無条件降伏未満でも認めるという層が多くなっている。

国民の三分の一近くが、すべての占領地を日本が放棄するすることを前提に日本との「和平を試してみて」もいいと考えているからだ。
一九四五年七月十三日、大統領とバーンズ国務長官がまだ大西洋上を航海していたときのことだ。

グルー国務長官代行は船上のバーンズに電報を打ち、検討に値する「平和の打診」がワシントンに届いていることを否定する一般的な声明を報道機関に発表したと告げた。しかし、次のような自分の評価も付け加えた。
もし大統領が、単独であるいは他者と共同で、無条件降伏も日本人が当初思いこんでいたほど悪くはないという印象を伝えようとするなら、早期の降伏への扉も開かれるだろう。もちろん、推量にすぎないが、われわれは健全な推量のように思える。
重要なのはグルーが打電した日付だ。「早期の降伏への扉も開かれるだろう」という彼の評価は、日本の政治的軍事的姿勢のいちじるしい変化と時期がほぼ重なっている。

六月二十二日に天皇が、最高戦争遂行会議の六人との会議で、戦争の作戦立案は継続しなければならないが、「ただちに戦争を終わらせる計画を立てておく必要」もあると述べているのだ。

そして七月十二日、オーガスタ号が大西洋の中間点に到達したころ、東郷外相からモスクワの佐藤大使に宛てた至急電報が傍受されている。

P332それによると、

日本が内外で直面してる切迫した状況に鑑みて、戦争終結を秘かに検討している。

翌七月十三日、アメリカは東郷外相発のもっと重大な内容の「至急電」を傍受した。それは夏の外交展開のなかでも群を抜いて重要な内容だった。天皇裕仁による直接の介入について記されていたのである。
天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民により大きな災いと犠牲をもたらしていることに配慮され、心より早期終戦を望んでおられる。
東郷の電報によると、和平への大きな障害は、
イギリスとアメリカが無条件降伏を要求しているかぎり、大日本帝国は祖国の名誉と存亡をかけて全力で戦闘を続ける以外に道はない。
外相は、戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天皇の特使をソ連政府が受け入れるように要請していた。
右に述べたような声明を盛りこんだ親書を近衛殿下に託し、特使としてモスクワへ派遣するというのが陛下の意向である。
佐藤大使は必要な手配をするためにできるだけ早くソ連のモロトフ外相と会見するように指示された。七月十三日午後五時(七月十五日にマジックで報告されている)にやっとモロトフの副官で人民委員代理のソロモン・アブラモヴィッチ・ロゾフスキーに会うことができた佐藤大使はこう強調した。
今回の特使は、これまでモロトフ外相と三度にわたって会談した際に言及したものとはまったく性格を異にすることに、ロシア政府にはとくにご留意いただきたい。今回の特使は陛下のたっての希望で送られるものである。
P333天皇が動きだしたというのはただごとではなかった。モスクワ入りする特使がどのような立場で交渉に臨むのかは依然としてはっきりしなかったが、トップのアメリカ当局者は天皇自ら乗りだしてきたことに尋常ならざる気配を感じとっていた。

これまで春から夏にかけて定期的に表れたスイス、ぽるとがる、そしてバチカンを経由してのさまざまな「平和の打診」と違って、今度は正真正銘「公式の」動き、それも、最高首脳レベルのそれである。

なかでも最も慎重な姿勢を示しているのが、フォレスタル海軍長官によるこの予備的(七月十三日)な評価である。
日本人が戦争を終わらせたがっているという本物の証拠が初めて手に入った。われわれが傍受した東郷外相からモスクワの佐藤大使に宛てた電文によると、できれば三大国の会談に出発する前に、それが無理なら会談直後に、モロトフと会って戦争を終結させたいという天皇の強い意思を伝えるよう大使に指示している。
フォレスタルの頭のなかでは中心的な問題についてもほとんど疑問の余地はなかった。
東郷はさらに、連合国の無条件降伏要求が戦争終結を妨げているほぼ唯一の障害であり、その要求に連合国がこだわるなら日本はもちろん最後まで戦わざるをえないと言う。
海軍の太平洋諜報グループである太平洋戦略情報部(PSIS)によって準備された七月十四日付の報告書では、フォレスタルの評価がさらに一歩進められている。
上記[傍受電文]の通信だけでは日本の参謀本部が外務省と一緒になって「戦争終結を密かに検討している」のかどうかは断定できないが、この動きが「天皇の意向」の表れであると述べられている事実は重大な意味をもつように思われる。
P334スティムソン陸軍長官とマクロイ陸軍次官補はオーガスタ号の大統領に同行しておらず、別の船でジブラルタルまで渡り、そこから飛行機で十六日にポツダム入りした。

天皇が動きだしたという情報はポツダム入りするまで伝わっていなかったようだ。しかし、両者とも大きな転機が訪れたことをすぐに把握した。スティムソンの七月十六日の日記にはこう記されている。「…日本の平和工作に関する重要な報告を受けとった」高齢の陸軍長官のように抑えの効かないマクロイは喜びを隠せなかった。
日本がロシアを通じて終戦を画策しているというニュースが届いた。裕仁自身がカリーニンとスターリンに親書を送るように求めている。やっと動きだした。あのパールハーバーのニュースを聞いた日曜日の朝から、本当に長い道のりだった!
前述したように、スティムソンとマクロイは以前から降伏条件を明確化することの重要性を明快に認識していた。明快でなかったのはタイミングの問題だけだった(それも、沖縄陥落に先立つわずか数週間のことにすぎなかった)。

七月十五日より前、おそらくはポツダムに向かう途中で、二人は大統領に提出するもう一つのメモの作業に取りかかった。そこへ天皇が動きだした問い情報が届き、二人はすぐに行動を起こした。

マクロイと二人でまとめた最新のメモをポツダム入りした直後の大統領に示し、スティムソンはこう助言した(七月十五日)。
日本への警告を開始して、心理的に優位に立てるタイミングのように思えます。
陸軍長官は日本の直面している明白な状況について指摘し、そしてバードと同じようにロシア要因についても言及した。
敵は海軍とすでに配備された陸軍の戦力によって大きな打撃を受けています。その戦闘地域に新たに航空戦力と陸戦力が大規模に配置されるとなれば、軍の指導者も覚悟せざるをえないでしょう。これに加えて、この会談と迫りくるロシア参戦の脅威によってもたらされる効果もあります。
P335しかし、本当の意味で重要な展開は天皇が動きだしたことだった。
最近、日本からロシアに働きかけているという情報が届いています。今こそ、警告を発するときだと訴えずにはいられません。
スティムソンはこう結んだ。
したがって、この会談の期間中に日本に通告する警告をまとめられるよう要請いたします。それも、陸軍省によって準備され、私の了解では、国務省と海軍省の承認を得ている草案の方針に沿って、速やかにそうされるよう要望いたします。
声明草案に天皇に関する明快な保証が含まれていたことは言うまでもない。

前述したように、スティムソンはすでに七月二日のメモのなかで、天皇に関してしかるべき保証をも与えるような警告なら、日本も好意的に受けとるだろうという信念を表明していた。今度は大統領宛てのメモのカバーレターでこう述べた。
…われわれにとって有利な条件がふんだんにあり、こうした優位を速やかに我が国の勝利による戦争終結に置き換えることができるなら、いかなる手段でも講じるべきでしょう。できるかぎり速やかに降伏に導くべく日本に対して警告を発するべきだという理由については、すでに一九四五年七月二日付の陛下宛てのメモで述べております。
この時点でスティムソンが状況をどう評価していたのかは、メモの他のくだりからもうかがい知ることができる。

P336「もし日本が屈しなかったなら」そして、どうやらその場合に限って、「新型兵器の威力をすべて見せつけてやればいい」と、スティムソンは勧告している。しかも、「その過程では、新たな戦力と、おそらくはロシアの実際の参戦を背景に…改めてもっと強い調子で警告を与えるべきである」。

スティムソンから大統領に宛てた七月十六日付のメモは二段階の警告を提案していた。最初の警告で降伏を引きだせるだろうと、彼は考えていた。それが効かなかった場合、二番目の警告が発せられることになる。両方とも駄目だった場合にのみ、原爆が使用されることになる。

天皇が乗りだしたことによってあらたに生まれる可能性についてマクロイがどうとらえていたかについても、過不足なく資料が揃っている。

これより前にマクロイによって承認されていた六月二十九日付メモは、いわゆる「二段階論理」に従い、ソ連による宣戦布告の後が明確化声明を発表する最良の時期だと示唆していた。ところが、彼の立場は大きく変わった。七月十七日のマクロイの日記にはこう記されている。
朝食後すぐに陸軍長官、そしてハービー・バンディと会談。話題は、陸軍長官による国務長官訪問の準備。日本のロシアへの接触がもっと話題になった。警告を今、通告すれば、彼らのタイミングともぴたりと符合する。
マクロイは、ソ連による攻撃が行われる、あるいは明日に予告されるよりずっと前に行動を起こすべきだと判断していた。マクロイの日記にもこうある。
[陸軍]長官は大統領の夕食会に出かけたが、大統領とじっくり話をする機会を見つけるのはかなりむずかしいだろう。日本問題はきわめて緊急を要することだけに残念だった。日本が突然、

P337崩壊するようなことになれば、やるべきことはあまりにも多い。
七月における天皇の動きはアメリカ政府高官にどんな影響を及ぼしたのか。現在利用できる資料には、さまざまな直接、間接の影響が示されている。アイゼンハワーが原爆使用に反対の立場を表明したことはすでに見た。

以下に引用するのは、一九六〇年にアイゼンハワー大統領をインタビューしたハーバート・ファイスのメモの一部だが、ここにも傍受された電文の役割が明快に示されている。
大統領によると、この恐ろしい兵器を使わなくてすめばいいがと、とっさに思ったという。そのころには、日本は打倒されたも同然の状態だったからである。アイゼンハワーがこうした見通しを持つにいたった理由の一端は、傍受された東京の日本政府と駐モスクワの大使の間の通信を目にしていたことである。
天皇の率先した行動はバーンズにも強烈な影響を及ぼした。以下の報告から、国務長官は日本の暗号が解読されていたことを一部の側近に対しても秘密にしていたと見えるが、基本的な点に疑いの余地はない。マクロイの七月十七日の日記と同じように、ブラウンの同じ日の日記にはこんな記述がある。
チャーチルからのメッセージの結果、IFB[バーンズ]は対日戦争の早期降伏に自信を深めた。日本が停戦を打診しているという情報は、どうやらモスクワ駐在大使からチャーチルにもたらされたようだ。
アメリカ側の反応について、もう一つだけ見ておこう。一九八〇年代初期にルイス・M・ストラウスの文書が公開されたときのこと、文書のなかには一九四六年九月二十九日に「ニューヨーク・タイムズ」発行人のアーサー・サルズバーガーの自宅で行われた議論の手書きのメモがあった。

P338一九四五年にスティムソン陸軍長官の特別顧問を務めていたジョージ・ハリソンが、暫定委員会に意見を求められた四人に科学者は原爆の使用を承認したと報告している。ストラウス文書のメモは明白なポイントを提起している。
問い:四人[オッペンハイマー、ローレンス、フェルミ、そしてコンプトン]は、傍受された日本の外相と首相からモスクワに宛てたメッセージについて知らされていたのか。
この文書も、暫定委員会とその顧問団が限られた情報に基づいて勧告を行っていたことを思い起こさせてくれる。しかし、際立っているのは、天皇自ら戦争終結に乗りだしたことを伝える第一報にトップの高官がどれほどの意義を認めていたかである。

一九四五年のこの局面に関する記述では、何か重大なことが起きたという理解が見落とされることが少なくない。確かに日本政府がどんな姿勢で交渉に臨むのか、正確なところははっきりしていなかったが、後の記述、とくに戦後初期の記述の限界には他の要因が作用していたことはほぼ間違いない。

一つには、大統領とバーンズがワシントンから離れているときに傍受された情報が入ってきたために、新たな展開をめぐって交わされたであろう論議に関する確かな情報がほとんどない。とくに、オーガスタ号で航海中の二人の議論に関する情報は乏しい。

しかも、アメリカ当局では天皇の行動は手に取るようにわかっていたという事実は一九五一年になるまで公表されなかった。そのときですら、傍受された電文については、刊行されたフォレスタルの日記のなかでほとんど気づかれないような、わずかばかりの言及が見られるだけだった。

その後、一部の歴史家が傍受電文について報告しているが、その当時の影響力について正当に評価しているとはいえない。

P339そのことも、トルーマン大統領自身が傍受電文について知っていたのか、に関する情報がなかったという事実に原因があると見てほぼ間違いない。「大統領は何を知っていたのか。大統領はそれをいつ知ったのか」一九七〇年代、そして、一九八〇年代のアメリカを代表する問いだが、戦後初期には同じ問いに断定的に答えることはできなかった。

一九六〇年に公式のポツダム文書が刊行されて初めて、国民はトルーマン大統領が主要な傍受電文について余すところなく知っていた(非公式には四年前の一九五六年一月に国務省のインタビュアーに対して認める発言をしていた)ことを告げられた。

しかし、大統領の手書きの日誌が「発見」されるまでには、さらに一五年以上も待たなければならなかった。事後三四年、一九七九年のことである。この日誌によって、大統領が、傍受された電報を大西洋を渡る間どのようにとらえていたのか、を研究者は知ることになった。

七月十八日の手書きの記述を見ると、大統領はチャーチル首相と話した後でこの傍受電文を「平和を求める日本の天皇からの電報」と呼んでいることがわかる。

*共和党上院院内総務はマンハッタン計画(tw,相互参照(後述12))について事前に知らされていた数少ない議員の一人だったことも重要な要因かもしれない。(Memorandum for the Secretary of War,Atomic Fission Bombs,from LRG,23 April 1945,p.13,Military References Branch,N.A.)
**「タイム」と「ライフ」の発行人であるヘンリー・R・ルースの当時の見解について、詳しくは後出28章と48章を参照のこと
***「ニューヨーク・タイムズ」のニュース報道とコメントは論説委員会に比べて、交渉による平和の実現に楽観的だった。(省略、出典)

P340
1.19 明快な代案---最初の決定
彼は八月十五日に対日戦争に参戦する。そうなったらジャップも終わりだ。
       ---ハリー・S・トルーマン大統領、日誌、一九四五年七月十七日
バーンズは日本に対して速やかに警告を発することに反対した…
       ---ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、日記、一九四五年七月十七日
P341ポツダム会談を目前に控えたトルーマン大統領とバーンズ国務長官の態度を非常によく垣間見させてくれる三つの文書がある。最初は、トルーマンの一九四八年の選挙スタッフで大統領と親しかったジョナサン・ダニエルズの手になるものだ。

一九四九年に原爆について話し合った際のダニエルズのメモによると、トルーマン大統領は会談がまさに始まろうとするときに次のように感じていたと説明した。
「それが私の思っているとおりに爆発すれば、私は間違いなくあの連中に対してハンマーを手に入れることになる」
「ハンマー」と言い換えているだけで、五月半ばにポツダム会談が延期されれば自分の手の内の切り札が増えると言っていたのと、夏の後半になっても考え方は変わっていない。このメモの内容について、

P342ダニエルズは著書『インデペンデンスの男』のなかで確認し、敷衍している。大統領は「まだ打倒されていなかったジャップだけでなく、恒久平和で共同歩調をとらせるのに苦労していたロシア人も指していたようだ」(ダニエルズによると、本のなかでとりあげた素材全般について「事実上、後に大統領自身に目を通してもらった」という)

二番目の証拠は、大統領がポツダムに着いて最初の本会談直前に書いた日誌である。
私は外交官ではないが、通常、質問に対してはすべての言い分を聞いたうえでイエスとノーを言ってきたと、スターリンには言ってやった。そのことがスターリンを喜ばせた。

私は会談で議題にしたいことがあるかと尋ねた。彼はあると答え、もっと質問がしたいという。私は続けてくれと言った。彼はそうした。これが強烈な内容だった。しかし、こちらにも強烈なダイナマイトはある。ただ、今は爆発させないだけだ。
最後にこういうのもある。前述した日誌に、七月七日、大西洋を横断中にポツダム会談前の打ち合わせを終えた後で、大統領はこう記している。全文を引用してみよう。
私の有能で陰謀めいた国務長官と長時間話した。それにしても、彼は頭の回転が早い。それに、正直な男だ。しかし、田舎の政治家はみんな同じだ。他の政治家はみんな回りくどい、と彼らは思いこんでいる。だから、本当のことを率直にずばりと言われると、絶対に信用しない。それがときには利点でもある。
この時点で、国務長官の「頭の回転の早さ」に感服しているとはいうものの、バーンズのやり方、どれもよく似た「田舎の政治家」めいたところが、トルーマンには明らかに気がかりだった。いったい、バーンズが受け入れようとしない(「ときには」利点でもある)率直な真実とは何を指していたのかは知る由もない。

P343しかし、この時期に側近中の側近の態度が大統領は気にかかっていたのは事実であり、無視すわけにはいかない。とくに、トルーマンは後にバーンズの二枚舌を非難するようになるから、なおさらである*

一九四五年七月十六日午前五時二十九分四十五秒に最初の核爆発装置の実験が成功した。場所は、ロスアラモスから南へ二○○マイル(約三二〇キロ)、アラモゴードの北西六○マイル(約九六キロ)にあるニューメキシコ州の暗号名で「トリニティ」と呼ばれる実験場だ。

今や有名になったジョージ・L・ハリソン補佐官からスティムソン陸軍長官への第一報は謎めいている。
手術は今朝、実施された。診断はまだ完全ではないが、結果は満足どころか、すでに期待を上回っているように見える。…ドクター・グローブズも喜んでいる。
このメッセージは一九四五年七月十六日午後七時三十分にポツダムに届き、スティムソンによってすぐにベルリン郊外バベルベルクのリトル・ホワイトハウスにいた大統領とバーンズ国務長官に伝えられた。

七月十八日の朝には実験が大成功だったことを確認する続報が届き、その他にも重要な情報を伝えていた。
リトルボーイはビッグブラザーに劣らないくらいに大きくて強いと、ドクターはこれ以上ないというほど熱狂し、自信満々で戻ってきた**

目の輝きはここからハイホールドまで離れても見分けがつき、その叫び声は私は農場まで離れていても聞こえただろう。
この会話体の暗号を解読すると、爆発は二五〇マイル(約四〇〇キロ)離れた地点から見ることができ、また五〇マイル(約八〇キロ)離れた地点でも爆発音を聞くことができたということになる。

P344トルーマン大統領の決定は計算どおりの結果をもたらした。大統領は七月十七日正午にスターリンと初めて顔を合わせることになっていた。実験から二一時間一五分後である。

ポツダム会談が公式に開会する直前、戦争を終わらせることのできる選択肢はぐっと絞られていた。大統領自身にとっては、八月前半にスターリンが確かに日本に対して宣戦布告をすることが最も重要だった。

トルーマン大統領個人の態度が強調されてきたのには、具体的に三つの理由がある。第一に、これまで多くの研究では、赤軍による攻撃を確保するのが非常に重要だったことを示す新しい証拠に気づいていなかった(あるいは無視していた)。

実際、ポツダムに向かう大統領の頭のなかでは、それが他とは比較にならないほど重要な目的だった。二番目に、その点を認識している一部の研究でも、大統領がなぜこの点をこれほど重要視していたのかを示す証拠に十分な注意を向けていない。

「もし実験が失敗するようなことがあれば、我が国が物理的に日本を征服せざるをえなくなる前に降伏を引きだすことがなおさら重要になる」という理由である。

第三の理由は、最新の重要な証拠によると、ポツダム入りした大統領はソ連が実際に参戦するという保証を得て大いに勇気づけられていることだ。そして、その証拠からは大統領がなぜそれほど満足したのかの理由もはっきりわかる。

これまで多くの記述とは裏腹に、手元にある文書によれば、トルーマンの個人的な判断は四月に軍の戦略部門で出した結論と基本的には変わりなかったようだ。つまり、アメリカが日本に侵略しなくとも、ソ連による攻撃による衝撃だけで戦争が終わりになる可能性はかなり高い。

最近「発見」された最も重要な文書のなかでも二つはこの問題に直接かかわっている。一九七九年に発見されたポツダム会談のころの大統領の私的な日誌、そして、一九八三年に公開された大統領から妻に宛てた手紙である。

七月十七日、会談本番前にスターリンに会い、スターリンから極東に関するヤルタ協定について中国の宋子文外相と話し合ったという報告を受けた後、大統領は記している。
重要なポイントの大半は解決されている。
続いてスターリンの確認について記録した。
彼は八月十五日に対日戦争に参戦する。
最後に大統領は自らの判断を書き留めている。
そうなったらジャップも終わりだ。
翌日、トルーマン大統領は新たな現実と自分の幸せな気分についての自らの認識について、妻ベスに宛てた手紙でさらに明確に述べている。
…ここにやって来た目的を果たした。スターリンは、何の条件も付けず、八月十五日に参戦する。彼は中国問題を解決したがっていたが、これもほとんど片づいた。それも、期待していた以上の形で。宋子文はこちらの望んでいた以上の働きをした。
ベス宛の手紙は続く。
戦争は思っていたより一年は早く終わると断言していい。戦死しなくてすむ若者のことを考えてほしい。それが重要なことなんだ。
ジョセフ・デイビーズ大使の日記(七月十八日)にもこんな記述がある。
大統領は、必要ならいつでも帰国できるようになったと言った。スターリンから[ルーズベルトと]合意したのと同じように、日本に対して宣戦布告するという確約を得たからだ。

P346大統領は私の質問に答える形でスターリンとの会談について語った。それによると、本番の会談の結果いかんにかかわらず、スターリンは無条件に「イエス」と言った。つまり、日本と戦うというのである。
七月十七日と十八日という日付をもう一度強調しておこう。日本の状況が悪化していたというさらに多くの情報がその後も大統領に届いていただけでなく、(前述したように)計画では十一月一日まで上陸侵攻の第一段階すら認めていなかった。まだ、三ヵ月半も先の話だ。

ここで、前出の米英合同諜報委員会による「敵国状況の推定」を想起するのもいい。この報告には「ソ連の参戦によって日本もついに完全な敗北が避けられないことを悟ることになる」という判断が盛りこまれていたが、

報告がまとめられたのは、他の多くの推定と同じく傍受された電報から天皇自ら戦争終結に向けて動きだしたことが判明する前のことである。

夏に入ってここにいたるまでに浮上していたもう一つの主要な選択肢も、天皇が動きだしてから数日後のちょうどこの時期にさらに明快に規定されることになった。すなわち、頑なな降伏条件を手直しすることによっても戦争を終わらせられるだろうという強い可能性である。

傍受された七月十七日付の電報は、直接この問題に関連したものだった。そのなかで東郷外相は、降伏条件を修正することに関する日本の立場をこのように説明している。
もし我が国がまだ力を維持している今日の段階で、英米が日本の名誉と存在に配慮しようとするなら、彼らは戦争を終わらせることによって人類を救うことができるだろう。
東郷はまた、佐藤大使に対して、こうも強調している。逆に、
P347しかし、彼らが情け容赦なく無条件降伏を迫るのなら、日本国民は心を一つにして最後の最後まで戦争を戦い抜く決意である。

陛下ご自身もその決意を述べられた。だからこそ、我が国はロシアにこのような要請をしている。われわれがロシアに対して無条件降伏のようなものの仲介を頼んでいるのではないことを、銘記されたし。
翌七月十八日、チャーチルがトルーマンと昼食をともにした。チャーチルが戦時内閣に宛てたメモでも述べているように、首相はトルーマンに「対日戦争は予想以上に早く終わるかもしれない」という考えを告げた。

そして、チャーチルも条件の明確化を訴えた。
私は昨夜スターリンから明かされたミカドの和平提案について大統領に告げた。…

大統領も戦争が速やかに終わるかもしれないと考えていた。ロシアが彼を和平に誘導しようとしていると受けとられるのを恐れて、スターリン元帥はこの情報を直接伝えたくなかったのだと、私はここで説明した。

同じように、アメリカが適当だと考えている間は、われわれが対日戦争に乗り気でないと受けとられかねない発言を控えるようにしていた。しかし、日本に「無条件降伏」を押しつける代償としてアメリカ人の生命が大きな犠牲になること、また、程度こそ小さいがイギリス人の命もかかっていることを強調した。

何らかの別の形で条件を表明しないのかは彼が考えることだった。要は、将来の平和と安全保障に必要な条件がすべて整えられることだ。その上で、日本人が征服者の要求するすべての保障措置に従った後で、軍の名誉と民族の存続に関して何らかの保証を与えてやることができればなおいい。
チャーチルは続けてトルーマンの最初の反応とその後の態度を記している。
P348大統領は、パールハーバー以後の日本人に軍の名誉などありえないと反論した。私は、いずれにせよ彼らには大量の死者がでるとわかっていても守ろうとするものがあり、それはわれわれにはそう思えなくとも彼らにも大切なのかもしれないと言うにとどめた。

彼は続いて非常に好意的になり、二日前のスティムソン長官と同じように、無制限にアメリカ人の血が流されることに対する自分の責任の大きさについて述べた。
チャーチルはこれに付け加えた。
私自身の印象を言えば、世界平和と将来の安全保障、そして罪深き不誠実な国に対する罰に不可欠の要素は別にしても、「無条件降伏」という言い方に厳密にこだわることに疑問の余地はない。
この時点でのアメリカの姿勢に関するチャーチルの評価も示唆に富んでいる。
スティムソン長官、マーシャル元帥、そして大統領と話してみて、彼らがこの問題で自分の気持ちをじっくり見つめていること、また、われわれがそれを急かす必要のないことは、明白だった。
(この時点におけるチャーチルの次の見解については後で改めて触れる。「もちろん、日本がこの戦争で占領したすべての領土を放棄する意思のあることはわかっている」)

このときにチャーチルとの話し合いに関する大統領の七月十八日の日誌には、前出の日本発の傍受電文についての記述が含まれている。また、当時、明らかになりつつあった状況に関する自らの認識についても記している。
PM[チャーチル]と二人だけで食事をとった。マンハッタン計画(前述)について話した(これはよかった)。

P349これについてスターリンにも話すと決めた。スターリンはPMに、日本の天皇からの和平を求める電報について話していた。スターリンはそれに対する答えを私にも伝えてきた。

満足のいく内容だった。ジャップはロシアがやって来る前に間違いなく降参する。
ここでさらに二つの点に触れておかなくてはならない。まず、天皇の働きかけに対するスターリンの七月十八日の返事はどっちつかずのものだった。電報の一部はこう述べていた。
…日本の天皇のメッセージで表明されていた意図は一般的な形式で具体的な提案はいっさい含んでいなかった。ソ連政府の見解では、特使である近衛殿下の役割はまったくはっきりせず、したがって、七月十三日付の書簡で述べられている天皇のメッセージや[提案のあった]近衛特使の件に関してはっきりした答えはしかねる。
スターリンは日本の申し出に対して答えたくない理由があったのではないかと、多くの書き手が指摘している。戦争がすぐに終わってしまえば、赤軍は満州に進軍できなくなるかもしれないのだ。

しかし、スターリンの天皇に対する返答を「満足のいくもの」と受け止め、大統領もこの可能性については追及しないという選択をしたことに注意したい。

第二点は、ソ連が参戦する前に日本は「降参する」と、この時点で大統領が見ていたことである。ここではその判断について指摘するだけにとどめよう。いくつかの他の証拠を検討するしたうえで、この判断がどんな意味をもつのかを評価してみたい。

広島への原爆投下の決定は軍事的な必然性に基づくものだったとよく言われる。この問いについては第六部(相互参照)で詳しく検討するが、会談開始時期における一つの重要な展開は直接この問題と関係している。

P350一九四五年七月十六日、米英の軍幹部によって夏に入って明確にされていた二つの基本的選択肢が新たに「二段階論理」の形で一つにまとめられた。

ポツダム会談初日に開かれた合同参謀本部の会議で、イギリス軍参謀総長のアラン・ブルック陸軍元帥は前出一九四五年七月八日付の合同諜報委員会の「推定」に注意を喚起した。

「天皇制の存続について言及していた」報告である。アラン・ブルック卿は続いてアメリカ側の参謀に「『無条件降伏』という用語も解釈という問題」について検討したことがあるかと尋ねた。
軍事的な観点に立つと、この用語を日本人に説明するように試みることはなんらかの利点がるように、イギリス参謀本部には思える。…たとえば、もし天皇を頂点とする国体を解体することにはならないような解釈が見つかり、それを日本人に伝えることができれば、天皇は海外の領土にいたるまで停戦を命じることができることになる。しかし、王朝支配が崩壊するなら、海外の部隊は何ヵ月あるいは何年も戦闘を続けるかもしれない。
公式の議事録によると、アメリカの軍幹部は次のように答えている。
この問題については政治レベルでかなり検討されたと、アメリカの参謀本部は説明した。そして、何らかの形で合意した最後通牒を心理的に効果のある時期、たとえば、ロシアの参戦にタイミングを合わせて、突きつけてみてはどうかという提案がなされた。つまり、「無条件降伏」が何を意味するかではなく、何を意味しないかを説明するというのだ。
そして、このような形で「二段階論理」の概要を説明したうえで、統合参謀本部議長のレイヒ提督(前述したように、アメリカ政府内部で条件の手直しを主張していた)が異例ともいえる作戦に出た。

現代なら「エンドラン」とでも呼ばれるような一か八かの提案をしたのだ。イギリス首相からアメリカ大統領に考え方を納得させてもらえるように、アメリカ軍の指導者がイギリス軍の指導者に頼み込んだのである。
P351レイヒ提督は、事の中心は明らかに政治的だから、首相から大統領に見解を示し、「無条件降伏」という用語を日本人にどのように説明するのかについて提案をしてもらえると非常にありがたいと提起した。
これは形ばかりの提案でもなかった。正式に決がとられ、公式の議事録にも記録された。
合同参謀本部は---
a、敵国状況の推定に注目した。…
b、イギリス参謀本部を招き、首相を通じて日本の無条件降伏の問題を大統領に提起する可能性について検討した。
翌七月十七に、国防相***の首席補佐官のヘイスティング・イスメイ元帥も、チャーチル首相に直接手渡された議事録のなかで今や明白になっていた「二段階論理」を力説していた。
一、合同参謀本部は第一回の会合で敵の状況に関して合同情報スタッフが準備した報告書を検討した。報告書によると、ロシアが参戦を決めて日本に攻撃を仕掛ければ、天皇の退位以外ならほぼどんな条件をのんででも逃れたいと望むだろうという。
イスメイはこう説明した。
ここから、「無条件降伏」という用語の解釈をめぐる論議に発展した。おおむね合意できたのは、もしこれが王朝支配を解体することになるのなら、海外の占領地まで停戦を命じる者がいなくなり、イギリスとオランダの領土、さらには中国の各地で何ヵ月あるいは何年も戦闘が続くことになるかもしれない。

P352したがって、軍事的な観点に立てば、日本国内に絶対的な中央の権力を保持するという議論にかなりの分があった。
最後に、彼はチャーチルに言った。
二、アメリカ参謀本部は内部でこの問題についてかなりの議論をしたと言っており、「ターミナル」[ポツダム会談]の間に最高首脳レベルで検討されるべきだと提案している。彼らは、首相自身が大統領との会談のなかでこの問題を提起する用意があるかを尋ねてきた。

三、対日戦争はアメリカが中心になって戦っているのだから、この問題で主導権を取ることに首相は気が進まないだろうと、われわれは答えておいたが、ともかく、会議の内容をただちに首相の耳に入れることには同意した。
どうやら、チャーチルが乗り気でないというイスメイの判断が誤りだったことはほぼ間違いない。そして、レイヒの提案で始まった「エンドラン」作戦に刺激されて、首相は七月十八日にトルーマンに働きかけた。

天皇の新政策が傍受された電報によって明るみに出た直後から始まったさまざまな工作によって、ポツダム会談が開会したしたときに採択されそうな可能性がはっきりした。それと同時に、結論を出すべき三つのポイントも明らかになった。
第一に、早期の警告声明を発表するかどうか。
第二に、依然としてソ連の早期参戦を求めるかどうか。そして、
第三に、「無条件降伏」という文言を明確にすることによって、天皇に明快な保証を与えるべきかどうか、
である。

七月十七日から八月六日の間に、この三つのポイントについてどのように決定が下されたのか、また、三つのすべてにおいて誰の影響力が最も大きかったかを追跡するのは、いまではさほどむずかしいことではない。

P353しかし、当面、ポツダム会談の開始と同時にどうしても決定しなくてはならなかったことは一つしかない。すぐに声明を発表するのか、待つべきかである。

スティムソン陸軍長官とマクロイ陸軍次官補が天皇の動きを知って速やかに行動を起こしたことはすでに述べた。そして、とくに、七月十六日付のメモでスティムソンがただちに日本に(天皇に関する保証も含めて)警告するように訴えたことも指摘した。

タイミングの問題は、広島への原爆投下をめぐる重要な争点の一つであり、決定事項の一つだったことが、最近の資料を見るとはっきりわかる。しかし、問題の重要性と決定された事柄について十分に検討されることはめったになかった

前述したように、声明が意味をもつためには、日本人がそれを咀嚼する(陸軍省戦略政策グループの言い方を借りると、「イースト菌を発酵させる」)だけの十分な時間を与えなくてはならないことは、かなり前から明白だった。

それ以外のことは、現代風に言えば、宣伝活動のためのジェスチャーにすぎなかった。実際、六月十八日には、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代行、レイヒ提督、そして、マクロイ陸軍次官補がそろって早期の声明を勧告していた。

スティムソンは六月十八日の大統領との会談でこんな言い方をしている。
日本には知られざる多くの人々がおり、このグループは現在の戦争を支持していないが、その意見と影響力が日の目を見たことはない
というのが、彼の意見だった。

このグループは自分の足元を攻撃されれば反抗し、粘り強く戦うだろう
と、彼は感じていた。彼らと正面からぶつかりあうことが必要になる前に、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させるべく何かをすべきだと彼は考えていた。

同様に、スティムソンはトルーマンに宛てた七月二日付のメモでこう述べていた。「国家として対応できるように、十分に時間の余裕をもって警告は発せられるべきだ…」

P354さて、天皇が動きだしたという電報が傍受された直後に、あることが決定されなくてはならなかった。七月十六日、スティムソンは大統領宛ての「心理的に優位に立てるタイミング」というメモをバーンズに送り、この問題は「なにより重要だ」と述べた。

スティムソンの七月十七日の日記にはこうある。「私はバーンズと会議をするために早朝から『ホワイトハウス』に出かけた。…」ところが、
バーンズは日本に対して速やかに警告を発することに反対した。…
スティムソンはさらにこう記している。
[バーンズはそれから]警告に関する予定表の概略を述べた。どうやら、大統領とはすでに話がついているようだった。…
アメリカの代表団はポツダムに着いたばかりだったから、「予定表」は少なくとも部分的には大西洋を航海中にまとめられたと考えるのが理にかなっている。

スティムソンの日記の結語には、明快な決定がすでに下されていたという単純な事実以上のことが凝縮されている。また、力関係について、つまり、バーンズと支配的な大統領との関係について、もはや疑問の余地はなかったという真実を物語ってもいる。
…そこで私はそれ以上は追及しなかった。
*たとえば、ディーン・アチソンに宛てた一九五六七年の書簡(未送付)のなかで、トルーマンは断言している。ポツダムでは「彼を無条件で信頼していたが、その後、彼は私の頭越しに大統領職を動かそうと画策するようになった」。(Ferrell,ed.Off the Record,p.348.)
**つまり、砲身型のウラン原爆は爆縮型のプルトニウム原爆と同じくらい強力だということ。
***チャーチル首相が国防相も兼任していた。



1.20 ソ連によるヨーロッパの報道管制を解除する P356-
1.21 第二の決断 P381-
1.22 原爆とドイツ P396-
1.23 第三の決断 P420-
1.24 仮説と選択 P435-
1.25 答えられない疑問 P451-