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からだは孔が空いている
P182感覚神経が凝集する特異点からだの孔というのは、不思議なパーツである。凹みや窪み、襞や皺にもまして、妖しいパーツである。まるでブラックホールのように、あらゆる解釈、あらゆる修辞をその空洞のなかに吸引する。
触覚は別として、わたしたちの主要な感覚器官は、身体の開口部に集中している。見ること、聴くこと、嗅ぐこと、味わうこと。眼、耳、鼻、口。指先とならんで、そこに感覚神経の末端が凝集している。
だからそこは、快感や興奮がある強度をもって発生する場所でもある。口唇、性器、肛門。
だがそれはまた、危険な部位でもある。呼吸、栄養摂取、排泄・・・。その孔をとおして生命維持に不可欠な物質が出入りする。ときに、人体にとってきわめて危険なものもそこから流入するし、体内にあるべきものがそこから漏出することもある。
わたしたちの存在の特異点ともいうべきこの部位は、しかもわたしたちの視野から外れている。
P183男性の尿道口を除いて、わたしたちはみずからの身体の孔をじかに見ることができない。臍という、閉じられた孔以外には。
だからそこに想像力が集中してくる。さまざまな意味づけ、象徴作用、妄想がそのまわりをぐるぐるかけめぐる。
<顔>という現象、<肉>という固定観念、パーツという表象。あるいは、<像>としての身体、<器官>としての身体、そして<物質>としての身体。身体をめぐるもろもろの観念群、表象群は、すべて、想像力のあおりを受けて生じためまいのようですらある。
観念や表象だけではない。身体への物質的な介入、つまり身体パーツの加工や変形、とくに塗飾や隠蔽といった操作が、これらの孔のまわりでなされる。アイラインにアイシャドー、口紅、ピアスにイヤリング。
そして性器と肛門の強迫的なまでの隠蔽(tw)。孔から侵入しようとする悪霊や疫病神を怯ませるためという説もあれば、宇宙をもっと深く感じたい、もっとゴージャスに迎え入れたいという願望からくるという説もある。
「董の優雅な眼は、彼が眺めているものの色におのれの色が染まるまで、青い空を眺めるのだ(tw)」---こう語るのは、シェリーだ。
「美しいものを見るためには眼が美しいことが必要だ。瞳のなかに美しい色彩が入るためには、眼の虹彩が美しい色彩を持たねばならない。青い眼がなければどうして空が青い空が真に見えようか?黒い眼がなければどうして夜が眺められようか?」---これはバシュラールの言葉。
P184 不浄、汚れの感覚と、孔
唾をたえず吐き出していないと、体液の汚染にじぶんの存在そのものが崩れてしまうように感じるひとがいる。便の漏出を自己の漏出と感じて、排便をぎりぎりまでこらえようとするひとがいる。現在あたえられているじぶんの身体像に深く幻滅して、じぶんの身体をおぞましいものとしてしか感受できない人がいる。
「トイレで尿と一緒に魂が流れていってしまった。それからは魂が抜けてファーンとしている」。あるいは、「骨が鉄でできているように思う。(骨と骨が)すれると穴があいてしまう。子宮の中にへびかまむしが入っている。内臓の位置がふつうの人と違うように思う」。
永井真理が『内政の構造』(岩波書店、一九九一年)のなかで引いている症例のなかの言葉である。
きれいとかきたないという感覚も、この孔に深くかかわっている。糞尿、洟と唾と痰、膿と血と精液。身体の内部から排泄ないしは分泌されるもの、それらがまさに孔を出入りするさまを、ひとは忌避する。くそったれ、はなたれ、よだれ。
「もしわたしが熱烈な愛を抱いてかれの涙を飲むことができるとしたら、かれの鼻先に付着した水滴を飲めないのはなぜか」、そうジャン・ジュネは問いただしたが、この不浄、
P185この汚れの感覚は、身体のある状態から他者への存在へとイメージとして拡張されて、秩序とそこからの排除、差別と隔離という現象を発生させる。
「不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである」とは、汚穢論のメアリ・ダグラスの言葉である。
危険なゲームを回避するためのゲーム
孔を出入りするものがアンタッチャブルとして忌避されるとすれば、孔そのものはつねに隠蔽される。いや、隠蔽されることで、真理の最終的な根拠として逆に捏造されると言ってもよい。
性器を見たいという高校生の夢と、推理小説の結末を知りたいという読者の欲望と、究極の真理に触れたいという哲学者の欲望とが同型のものだと指摘したのは、『テクストの快楽』のロラン・バルトであったが、そういう結末、そういう隠された真理へといたる回路が設定され、かつそれがたえず宙づり(サスペンス)されていることで、これらの快楽はなりたっている。
エンドマークはいずれ打たれるはずのものでありながら、しかもいつまでも打たれてはならないものなのである。ここには人生の真理がかかっているのである。なぜなら、現在を常にヴェールが一枚ずつ剥されていく途上の点として意識させることによって、ヴェールの背後にほんとうはなにもないという事実をこそ覆い隠すわけだから。
P186 人生の無根拠さを隠蔽すること、つまりサスペンス物語としての人生。
ジルベールラスコーがかつて書いたように、「裂け目や断層や傷口や孔のまわりで、ひとは夢見たり考えたりする」。しかし、モードはその夢に、もうひとつの夢として戯れかかる。
メイクした口唇は、その空洞の奥深くになにかを呑み込んでしまう存在の開口部ではもはやなく、アクセサリーのような、モノ(=記号)として閉ざされたものへと変換される。口紅は「男根的交換価値を受けとる印」に、つまりは「性的に充血し、勃起する唇」になる。
「この唇によって、女性はおんなになり、男性の欲望は彼女のイメージそのものにしがみつくようになる」。このように言うジャン・ボードリヤールは、モードというゲームのなかでは、身体の「まぼろしの切断」、つまりは身体を線で区切る行為そのものが、欲望の対象としての身体の幻想化をもたらすという。
ネックレス、指輪、長手袋、腕を締めつけるブレスレット、踝に巻かれたアンクレット、そして素肌をちらつかさせる袖口、胸元、スカートの裾・・・。
そう、衣服がぱっくり口を開けているところが、身体の「裂け目や断層や傷口や孔」にとって代わるのだ。あるいは、身体を透かし見せるトランスパランの生地、身体表面を鋭い線で区切る黒のブラジャーやガーターやストッキング、スリットを入れて身体をちらちら露出させるドレス・・・
それらのすべては、タブー視されている身体の秘密の際にますます近づくことによって、身体を侵犯するように見えてじつは逆にそれを回避する。記号が作用するその論理にますます深く組み込まれることによって、である。
P186皮肉な物言いをすれば、モードは、もっと危険なゲームを回避するためにくりひろげられる、記号の「ちょっとアブないゲーム」だということだ。