第一章 季節の移ろいと自然観の違い
P20アナログ的な日本の季節P22春愁の日本人/ 24/
P26気候が育んだ文化と美意識
P28自然への愛情が生む情景、曖昧が心心地好い/ 30
P32おかげさま、自然に任せる、いただきます(P136)。
(略)「自然は立派やね」
「自然は立派やね。私は日記をつけておるけれども、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。(毎年)ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから自然の法則をまねて人間が暮らす。
P34 人間の欲望に従っては迷いの世界だ。真理を黙って実行するというのが大自然だ。誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたからこれだけの報酬がもらえるということもない。
時が来たならば、ちゃんと花が咲き、そして黙って褒められても褒められんでもすべきことをして黙って去ってゆく。そういうのが実行であり教えであり真理だ」(NHKスペシャル「永平寺 104歳の禅師」) 百六歳で逝去された曹洞宗大本山永平寺の貫首宮崎奕保禅師の言葉である。人の世に何が起ころうと、自然は毎年同じようにひっそりと命の循環を繰り返している。私たちにその美しさを感受する余裕があろうがなかろうが、褒められようが褒められまいが、ほぼ違えず、ひたすらに命の循環を繰り返しているのだ。
(略)月を愛でる
(略)P36/ 38
P40月のイメージの多層性/ 42/ 44
P46ものに命を宿す/ 48
P50発動する命
P52ミクロの観察眼
P54落花も雑草も
P56ドラマの中の季語
P58和菓子に見る季語
P60四季を着る日本人
P62日本が詰まった礼拝堂
P64日本人に見る小動物への愛/ 66
P68もう一つの礼拝堂
P70挨拶の中の信仰心
P72私たちの桜
P74"違い"ではなく"共通点"を共に探す/ 76
第三章 型と余白
P98「型」は命P100型と床運動
P102型の自由
P104「型」は「思い」の冷凍保存
P106切って、広げる/ 108
P110余白を紡ぐ(相互参照)
能、狂言、古武術、映画、舞踊、手仕事、生け花など、パリでは年間を通じてさまざまな日本文化が紹介されている。私などは日本にいる時よりも遥に日本文化に接する機会が多かったように思う。
そんな中であらためて見えてきたのが、「余白美」である。
「私は花を生ける時に、花は見ていません」。パリで出会ったある華道家の言葉である。むしろ花を生けることによって生まれる空間の方を見ているのだろう。余白の方が主役で、花はそのための手段のようにさえ見える。
料理人の神田祐行氏は、日本料理の味のアピールを五分で止めると言う。ではあとの五分はどうするか。「それは食べるも人が探ってください」と言うのだ。余白に控えているもっと奥深くに隠された味は、食する側が手繰り寄せていくものなのだろう。
能を観る時、静かな動きのその余白に、鑑賞者がそこには見えていないものを観、味わうのと同じだ。
P111小川流煎茶道では、一碗のお煎茶の量は八滴程度が理想とされている。八滴となると、小ぶりの茶碗に注いでも底にへばり付くほどの量しかない。しかしそのわずかなお茶を淹れるために用いる葉の量は一回につき五~六グラムと少なくない。
小ぶりの急須(茶瓶)の底に盛り上がる程入れる。玉露は湯冷ましを使って湯の温度を下げ、時間をかけて淹れる。手前の基本はあるが、その日の気温や湿度によって、湯の温度、茶葉の量などきめ細やかに加減する。
煎茶を美味しく淹れるには法があり、それぞれに手前(型)がある。手前の中で茶碗を濯いだり、茶托を拭いたりするのは、衛生上の目的の他に、茶が出るまでの時間を調整したりするのだ。
茶は本来「不老長寿の霊薬」(多種のアミノ酸やタンニン、ビタミンCなどが含まれ薬効がある)として昔から尊ばれてきたが、急須に入れる湯の温度が高すぎたり、時間が長すぎたりすると、茶が苦くなるだけでなく、胃液の分泌を妨げるという。
手前のすべての所作に意味があり、お茶を美味しく淹れるために、合理的、衛生的且つ美的に完成されているのだ。手前を手順通りに手際よく行えば、お茶は美味しく淹れられるようになっているのだ。
P112 初めて煎茶席で煎茶を飲んだ時の感動は、いまだに忘れることができない。旨味が凝縮された茶の雫は、舌頭から沁み入るように全身に広がり、まさに身ぬちを清風が駆け抜けた。それは世界が一変するような感動だった。
白露のごとき究極の煎茶を淹れるための理論や技術、医学や科学、長年の経験や知恵などはすべて裏側に隠され、差し出された八滴のお茶はただただ甘露の雫となって、私の心と身体を潤していった。
夏目漱石の『草枕』に、主人公が煎茶、といって高級な玉露だが、それを飲む場面がある。「…濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落として味わって見るのは閑人適意の韻事である。
普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下りるべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂いが食道から胃のなかへ沁み渡るのみである…」。
俳句はまさに感動の雫である。十七音節に絞り込むために、切り捨てられた風景、言の葉の数々。それは決して文字として俳句には表出されないが、一句の裏側につまり余白に隠され、密やかに存在している。
「本当にそこにコスモスが咲いていたんです」。例えば、一句の中でコスモスという季語が適当でないと指摘すると、初心者の多くがこのように抵抗する。
P113確かに実際そこにコスモスは咲いていたのだろう。しかし、作者の感動をより鮮明に伝えるためには、コスモスである必要がない時もある。萩の花や女郎花の方がよいかもしれない。
そういう時、私たちはコスモスをあきらめ、実際にはそこになかった他の花を取り合わせる。いや他の花どころか渡り鳥や鰯雲など、まったく違うものを持ってくることも多い。
さらに季節そのものを変えてしまうこともある。このように夥しい事実の省略と犠牲の上に一句は完成するのである。事実を優先するのではなく、普遍的な真実を優先するのだ。
日本の生け花が空間を花で埋め尽くさないように、俳句もまた言葉で空間を埋め尽くすことはしない。言葉を紡ぎながら、同時に余白を紡いでいく。言葉の豊饒ではなく、余白の豊饒が求められる。
十七音節という限られた言葉で表現するのだから、できるだけ多くの人が共有できる平明な言葉を選ぶのがよい。しかもその行間には、普遍的な真理といったものが充溢していなくてはいけない。
読者はその余白に漂う気配や匂い、余韻や余情といったものを感受する。自己の体験を重ね合わながら余白に作者の感動を再生産し、追体験するのだ。鑑賞者と作者の共同創作で
P114 あることは、俳句に限らずあらゆる芸術に共通することだ。俳句は身の丈を超えないと言われるが、鑑賞もまた身の丈を超えないのである。
詩人のポール・クローデルの言葉を引く。
「日本では書であれデッサンであれ、一枚の頁の中でもっとも重要な役割は常に余白の部分に委ねられています」
負の美学
松尾芭蕉は木曽義仲や源義経といった志半ばで逝ったつわものに惻隠の情を寄せた。生前、自らの墓を義仲が眠る膳所の義仲寺にと遺言した程だ。
夏草や兵どもが夢の跡「おくのほそ道」の旅は、義経や義仲追悼の旅でもあったのだ。
芭蕉に限らず、日本人は昔から判官贔屓だ。義経、弁慶の「勧進帳」は歌舞伎十八番だし、蘇我十郎、五郎の父の仇討ちを描いた「曾我物」は新春の出し物と決まっている。一年の終わりを飾るのは「忠臣蔵」だ。いずれも志高く、非業の最期を遂げたつわものたちの話である。
P115日本の物語には勧善懲悪のスーパーマン型のヒーローは少ない。幕末志士たちが人気があるのは、一国の維新に勇猛果敢に奔走し、志半ばで若い命を散らしたからだ。官軍より賊軍に、勝者より敗者に賛美を贈る。完了しないもの、満たないものに日本人は美を見出し、甚く共感する。負の美学と言ってよいだろう。
アナログ的に移ろう日本の四季は、移ろいゆくものへの愛情の他に、不揃いなもの、完全でないもの、不規則なものへの感銘と美学を育んだ。ややに欠けた月、いびつな茶碗、古びた庵、散った花弁…。
完全でないものは常に余白を孕み、余白は声にならない声、形にならない形を抱えて無限の可能性を孕んでいるのである。
片しぐれ、片便り、片袖、片待つ、片歌、片肌、片扇、片泊り、片男波、片趣、片っ貝、片掬び、片雲など、「片」がつく美しい言葉が多いのも、満たないもの、未完成なものへの憧れなのかもしれない。この独特の美意識は今も脈々と日本文化に息づいている。
P116花野は春か秋か
P118梅は野に一,二本。七五調(五七調)で超える時空/ 120/ 122/ 124
P126褻の喪失・晴の喪失。俳句はストップ・モーション/ 128
P130体→技→心。意味を求めない/ 132
P134旅の理由
P136おかげさま、自然に任せる、いただきます(P32)。未知の自分と出会う/ 138