2025年9月23日火曜日

偏愛メモ 『いきと風流』

第一章 王朝の文雅 P8-39

第二章 万葉集の風流 P42-68

P422.1中国の風流と好色 P42-47
P43まるで枯れてなんかいない。むしろ生臭い。その理由は、小西によれば、唐の少し前の六朝期に老荘思想がはやったこと、とりわけ六朝後期に神仙道が隆盛したことにある。「精力絶倫の仙人と容色美麗な仙女との交情は、道教における重要な理想像」で、「仙女と共に音楽・詩文・酒宴などを最高の水準において愉しむのが仙界の生活」とされ、これを模倣することが「風流」とみなされたというのだ。(「風流と『みやび』--琴・詩・酒・妓の世界--」)。

なお小西によれば、ここで言う「酒」とは飲酒というより酒席のことで「その席でかわされる機知的な社交談義をも含め、宴席の全体を酒で代表させた」ものであり、「妓」とは「女性の美しさを妓で代表させたにすぎず、実際

P44 には、若く美しい女性との交遊ないし交情を愉しむこと」であるという。
(略)
たとえば杜甫の詩『詠懐其二』の中に次の二句がある。
揺落して深く知る宋玉の悲しみ
風流儒雅またわが師なり
P45宋玉は紀元前三世紀の文人。「揺落」の語はの語は宋玉の『九弁』という詩の中に「秋は悲しい。風が吹くとも草も木も揺れ落ちて、姿も変わり衰えてゆく」とあるのから来ている。杜甫は「宋玉が秋を悲しむ気持ちはよくわかる、彼の風流儒雅は私の手本だ」と言っているのである。では宋玉とはどんな人物だったのか。古典の中の宋玉を見てみよう。

現代中国でも宋玉は「古代四大美男」の一人とされ人気は高い。ちなみに「四大美男」の他の三人は潘安(潘岳)、蘭陵王(tw)、衛玠(tw)である。

共通するのは知性と容貌がともに優れていること、そして文学や音楽の素養が高いこと(才貌双全、文学音楽修養極高)であるという。宋玉は日本でも『高唐賦』や『登徒子好色賦』の作者として知られていた。

『高唐賦』で有名なのは序文の冒頭なので、その概要を次に紹介しよう。なお「高唐」は山東省の地名である。
楚の襄王と宋玉とが高唐の高台に登ると、にわかに雲が立ち上がってつぎつぎと形を変えた。王が「これは何か」と聞くと、宋玉は「朝雲」というものですと答えて、こう説明した。昔、先生が高唐で昼寝をしていたとき、夢にひとりの女が現れ、枕を共にしたいと申し出た。

P46王はそれを受け入れた。女は去り際にこう言った。「私は巫山に住んでいますが、朝には雲となり、暮れには雨となり、朝な夕なに巫山の丘に現れましょう」と。翌朝空をみるとその通りだった。そこで王は彼女が神女であったこと知り、廟を建てて「朝雲」と名付けた。
(略)
2.2『万葉集』の風流 P47-54
2.3歌の母 P55-62
2.4松浦の仙女 P62-68

P64
P65『遊仙窟』(tw)

P68 本気の恋に落ち、真情を吐露する歌を詠む者は「風流」とは言われない。それは自分の言行についての反省的視点がないため、ときに見苦しく、同情はできても鑑賞に耐えないからだ(tw)。

「風流」と呼ばれる振る舞いは演技である。演技の特徴は、常に自分の言行について第三者の視点から眺め、最善の選択をしようとすることだ。だから衣装は役柄にふさわしく、振る舞いは優雅になり、言葉は意味を伝えるだけでなく洗練された形を選んで歌になる。

そして貴人を招いた社交界の宴席で、人々の注目を集める恋のゲームをウィットをもって演じきるとき、人は男女を問わず「風流」と呼ばれたのである。

第三章 宮廷の「みやび」と「すき」 P70-93

第四章 数寄と道 P96-124

P112 4.4 後鳥羽院の数寄生活
後鳥羽院は数寄の生活を愛した。もちろんそれは歌だけではなかった。たとえば彼が造営した水無瀬の離宮は風流生活のためであったと言ってよく、院はたびたびここで近臣とともに歌舞音曲を伴う遊宴を催し、ときには定家(後述)を召して歌を詠んだ。

その遊びにはたいがい白拍子や遊女が呼ばれた。中国の風流における「妓女」はほぼ日本の白拍子や遊女に相当する。まさに文芸・音楽・酒・女性という中国的風流の世界が実現していたのである。

前天皇である後鳥羽院が遊女を呼ぶことに、現代の読者は違和感を覚えるかもしれない。しかし当時の日本では貴人が遊女と遊ぶことはもちろん、公卿の母が遊女や白拍子であることも珍しくなくなかった。

後白河上皇は江口の遊女を正式に後宮に入れて、「丹波局」という名を与え、その腹に皇子をもうけている。この丹波局は後鳥羽院の恩人でもあった。安徳天皇が壇の浦に没して誰を次の天皇にするかが問題になったとき、丹波局が夢の御告げだと言って、高倉天皇の第四皇子を後白河上皇に薦め、その通りとなった。これが後鳥羽天皇である。
(略)
P116 4.5数寄と道 P117-124
定家とは反対に、後鳥羽院も良経も家長も和歌に対する態度は同じである。美しい宮廷生活というものを実現するための重要な道具とみなしている。家長の日記が花見のエピソードを過剰なほどに優雅に描いたのも、そこに自分たちの生活の理想が実現されていると思ったからだろう。

彼らはある意味一条朝の「儒雅風流」を継承したかったのだ。平氏の去った京都で、良経は太政大臣として政務に励んでいたし、公家たちはまだ律令体制が効力を持つ範囲で統治の仕事をしていた。

後鳥羽院にいたっては鎌倉幕府を滅ぼそうと承久の乱を起こした。そのとき彼の脳裏には、蘇我氏を滅ぼして権力を天皇家に取り戻し、中国をモデルに先進的国家体制を確立すると同時に日本を文化国家に仕立てようとした、あの大化の改新の再現があったのかもしれない。

後鳥羽院は定家批判の一つとして、「人の口にある歌」(人々が口にする歌)が少ないということをあげる。定家の歌は確かに美しいけれども、難解であるために一般人は理解できない、だから人々が口にしないというのだ。

さらに定家の父である俊成や西行の秀歌には人の口にある歌がたくさんあるとしたあと、こう続けるのである。
たとえわかりやすい歌であっても、いいものはいいと私は思う。だから定家が自分と同意見でない者を「歌がわかってない」と決めつけるのも偏見であろう。何でも定家の思いどおりになるものではない。

P118 そもそも歌がわかっていないからといって、何も困りはしない。大切なのは、勅撰集に選ばれ、後世に自分の名を残すような歌が詠めるかどうかである。そおれさえできれば、歌などわからなくともさして残念ではない。『後鳥羽院御口伝』
定家の歌が難解なのは意図的なものだった。彼はわかりやすい歌を軽蔑していたのだ。ここで「わかりやすい」と訳した言葉は「顕宗」である。一般人には教えない「秘密教」(密教)に対し、大衆向けにわかりやすくした教えが「顕宗」(顕教)である。

それは初心者に説くにはいいが、本当の仏教思想はそこにはないとされた。歌道を仏道にになぞらえて考えるなら、わかりやすい顕宗の歌は大衆向けのなぐさみにはいいかもしれないが、本当の歌人の歌は難解になるはずである。じっさい定家のの歌は若いころ「達磨歌」(禅宗野言葉のようにわけがわからない)とあざけられ、のちに高い評価を受けるに及んで「幽玄体(後述)」(奥深くてよくわからない)と呼ばれた。
(略)
P122
(略)
承久の乱は幕府の勝利に終わった。後鳥羽院は隠岐島に流され、その広大な所領は幕府に没収された。院の協力者らも処分を受けた。幕府は新天皇を選び、朝廷は新幕派の公家を中心とする体制に一新された。

P116この信朝廷で、はからずも定家は復活する。後鳥羽院は数寄の世界では定家を重用したが、公的な世界での身分は、定家が熱望していたのを知りながら、引き上げてやろうとはしなかった。

しかし新朝廷で定家はなんと正二位中納言にまで昇った。家格からすれば、まさに破格の出世と言ってよい。この厚遇の背景には、新朝廷が文化的権威を求めたということがあったかもしれない。敵対していた後鳥羽院さえその実力を認め、源実朝の歌の師でもあった定家はうってつけの人物だった。

朝廷の文化レベルの象徴となる事業は勅撰和歌集である。定家に与えられた仕事は新しい勅撰和歌集の編集だった。それも『新古今和歌集』のときとは違い、個人編集である。これは歌人として最高の名誉だった。

「歌の道」という概念の公認と、定家の神格化はこのときに始まったと言えるかもしれない。こののち定家の子孫は三家に分かれながらも、それぞれ「歌の家」として、現代の家元に似た権威を持つことになる。
(略)

第五章 婆娑羅の風流 P126-150

5.1佐々木道誉の風流 P126-130
5.2婆娑羅の花見 P131-139
5.3古典文化と輸入された文化 P139-142
(略)
P140鎌倉時代、とりわけ承久の乱以降、政治的パワーを幕府が握ることになっても、文化的パワー(ソフト・パワー)が依然として京都にあったのは、古典文化の「雅」を一手に握っていたからである。

たとえば源実朝が和歌を学ぼうとしたとき、遠く京都の藤原定家を師に選んだのもこのためである。実朝の死により源氏将軍が途絶えた後、幕府は京都から皇族ないし家格の高い貴族の家から将軍を迎えることになる。

高貴な将軍は一人で来るわけではなく、多数の公家や女房を引き連れて移住した。その中には名の知れた歌人などもおり、彼らは鎌倉に京都文化を移植する媒介者となった。

P141鎌倉の武士たちは、自分たちが田舎者であると自覚しており、「本場」からきた「本物」の文化人から歌会のやり方とか、儀礼の作法とかを熱心に学んだのである(似たような現象として明治以降のパリへの憧れと帰朝者への尊敬がある)。

しかし南北朝の動乱期になると、この京都の文化的パワーは衰えを見せ始めた。京都の文化人の古典教養が低下したからではない。むしろ彼らの唯一の拠り所として、古典や有職故実の学習は懸命に続けられていた。

彼らの責任ではなく、軍事的経済的権力を持つ階層が「雅」の文化を支持しなくなったからである。文化的制度は法律ではないから、文化に影響力のある人々の支持が失われればあっけなく崩壊する。婆娑羅の暴力が法親王の「雅」を簡単に吹き飛ばしたように。

婆娑羅の遊宴はある意味で古代以来の遊宴の続きである。けれども、平安朝の王朝の遊宴と違って古典世界との連続の意識がない。前章の御所の花見で見たように、王朝貴族の歌のやりとりは全て古典の和歌の知識に基づいて行われた。

それは古典的風流の世界に自分も属しているという意識から来ていた。けれども、道誉らの婆娑羅は古典を無視する。それは皇室や寺社の伝統的権威を一切否定する行動と表裏一体である。

ただし、その代わりに彼らは古典とは別の文化的パワーを利用した。中国からの輸入品である。
(略)
P142

5.4遊宴の茶会 P143-146
5.5茶数寄の条件 P146-150

第六章 隠者の侘数寄 P152-176

6.1禅林の茶と岡倉天心 P152-155
P154天心がこの本を出版した動機は西洋人へのプロパガンダであったからだ。天心のスタンスは次の文によく表れている。
「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満洲の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる」
6.2嵯峨天皇と納涼の宴 P155-157
6.3ゲームとしての茶の湯 P158-167
P162金春禅鳳によれば、珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」(『禅鳳雑談』)と語ったという。
P164ではこの「冷え」は、従来の美とどこが違うのだろうか。
6.4隠者の遊び P167-176
P168
P169もともと絵画には「行けない場所」を再現して訪れた気になったり、「会えない人」を眼前に見せて思いを馳せたりする機能がる。中国の古い絵画論を読むと、山水画の役割は名山などの風景を居ながらにして見て、実見したのと同じ気持ちになることだとある。
P170
P171隠者が友達を雪見に誘う話である。もっともこれだけではなぜ興がさめたのかがわからない。そのせいか、この話が『蒙求』に収められたとき、「雪がやんで空が晴れると、日が冴えて四方が白くなった」と月光が加えられた。

これを翻訳した日本の『唐物語』では雪がなくなり、ただ「月の光清くすさまじき」夜となっている。つまり雪見の話が月見の話しに変わってしまった。そして載の家までくると夜が明け、月が傾いたので帰ったとする。たしかに夜が明けては月見にならない。

『唐物語』の著者は王子猷について「心が数寄ある」人と評している。なんにせよ、これは世俗を離れた隠者の自由さと自然の美を愛する生活とをよく表した逸話として、後世絵画や詩の題材としてよく使われた。とりわけ漢詩と水墨画である。

第七章 雅の風流と俗の風流 P178-206

P180
P181煎茶道の開祖は江戸初期に明朝の禅を日本に伝えた隠元とされている。

7.1煎茶の清風 P178-186
7.2清貧と清福 P186-191
P188 ところが前にも記したように、中国では「風流」の語が隠者的清風とは対極の「好色」の意味をもつことが伝統的にある。それは日本でも変わらない。とりわけ江戸時代の本のタイトルに「風流」の文字があれば、たいがい内容は成人向けである。

とすると江戸時代の「風流」は、一方に文人的清風、他方に好色という、まるで正反対の意味をもっていたことになる。しかし詳しくは次章で述べるけれども、『色道大鏡』や『好色一代男』などをみると、「色道」の追求の末「色欲」という執着を卒業することによって、かえって本当の風流を獲得できるという考えもあったようだ。

P190 これは、「俗世間」の価値観から自由になるふつうの隠者を一段超えて、「俗世間の価値観から自由でなければならない」という思想からさえ自由になろうというものである。だから隠者でありながら、好色を否定しない。ただそれに囚われない。つまり完全に自由な精神をもって、日々淡々と心を楽しませながら生きるのである。

7.3風流の世俗化 P191-198
P192 「俳諧」とはもともと「滑稽」というほどの意味である。滑稽を狙った連歌を「俳諧連歌」といい、やがて略されて「俳諧」となった。連歌が古典的な「雅」の文芸になろうという動きに対して、わざと「俗」な文芸にとどまろうとしたのが俳諧であった。

それは俗な題材、俗な言葉を使ったが、笑いをとるには下ネタさえもいとわなかった。とはいえ、たんなる下ネタだけで笑いをとっても評価は低い。ひとひねりした機知によって読者から思わず笑いを引き出さなければおもしろくない。

そこでしばしば用いられたのが、「雅」の題材を「俗」に引きずり下ろす手法であった。

P193雅の文芸といえば和歌だが、漢詩はさらに格が高い。江戸時代には漢詩集が数多く出版され、文化人の基礎教養となった。中でも白居易の『長恨歌』は有名だった。その終わりに玄宗皇帝が楊貴妃に永遠の愛を誓うことがはよく知られていた。
天に在らば願わくは比翼の鳥となり
地に在らば願わくは連理の枝とならん
「比翼の鳥」は雌雄二羽で一セットしか翼がないので、いつも一緒に飛んでいるという鳥、「連理の枝」は二本の木の枝がつながっているもの。つまりどちらも物理的に一心同体となっていて離れられない。

玄宗は楊貴妃に「いつまでも離れないよ」と誓ったのである。これを踏まえて桃青という俳諧師がこんな句を作った。
地にあらば石臼などと誓ひてし
石臼は上下二つの石をすり合わせて粉をひく。一つだけでは役に立たないからいつも二つでセットになっている。比翼の鳥や連理の枝と同じで、一生離れられないという誓いの譬喩になる。

「地にあらば」という頭の五文字も同じだし、多少の教養があればただちに『長恨歌』を踏まえていると気がつくだろう。

P194 ところで石臼の中心には穴があってここに心棒を通して上の石を回転させる。性技の四十八手の一つに「茶臼」という体位があるように、これは性的な連想をさそう。つまり桃青の句は「雅」の『長恨歌』を「俗」に換骨奪胎したパロディなのである。

永遠の愛の誓いという内容は同じなのだが、「石臼」の語が古典の品位をぶち壊している。

けれどもそれは下品だとか、ただの滑稽だとか言って、軽くあしらってよいことだろうか。もし永遠の愛を誓う言葉を江戸時代の人間が探したとして、「比翼の鳥」という誰も見たこともない奇妙な鳥を持ち出すのと、「石臼」という身近なものにたとえるのと、どちらが効果的だろうか。

江戸人の心にはむしろ「石臼」のほうがよく実感できるだろう。とすれば、文芸において常に「雅」を求めて「俗」を排除するのは正しいのだろうか。同時代の人に「風雅」の価値を実感させるためには、むしろ「俗」に置き換える作業が必要ではないのか。

桃青は。かつて「雅」の言葉で語られた古典の「風雅」の世界を「俗」の言葉で語り直すことこそ、「俳諧」に求められている仕事ではないかと考えた。やがて桃青は名を芭蕉と改め、十年後に次の句を詠んだ。
古池や蛙飛び込む水の音
明治期に正岡子規がこの句を『ありのまま』を詠んだものだ、だから古典を参照する必要はないとして以来、現代でもそう解釈するのがふつうになっている。しかし江戸時代は必ずしもそうではなかった。

P195芭蕉没後百年ほどして石河積翠は芭蕉句の注釈の集大成ともいえる『芭蕉句選年考』を編んだ。彼は古池の句の注で西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」を先行作としてあげている。

これは何を意味するのだろうか。芭蕉が歌人の中では西行をもっとも尊敬していたこと、また西行自身がこの歌を自分の代表作とみなしていたという逸話(『井蛙抄』)が知が知られていたことを考え合わせるとき、芭蕉の「古池や~」の句は西行の歌の換骨奪胎ではないかとの解釈が成り立つ。

つまり西行の代表作が語ろうとした内容の本質をそのままに、表面を「俗」な言葉で語り直し、それを自分の代表作にしたということである。具体的には、西行の歌の「鴫」を「蛙」に、「沢」を「古池」に、飛び「立つ」を「飛び込む」に置き換えたものと見るのである。

この操作によって山中の古雅閑寂な光景は江戸市民の生活に見馴れた光景となる。つまり「雅」の歌は「俗」の句となる。けれども、その光景が意味するものは変わらない。それはやはり「心なき身にもあはれを知ら」せるものである。

古典が作り上げた雅の世界を、当代の日常という俗世界から題材を言葉を選んで作り直すこと。これが芭蕉のとった風流(芭蕉の言葉では「風雅」)俗化の戦略であった。 もちろん古典を書き直すだけが芭蕉の仕事ではない。彼の視線は目の前の自然のありようへと向かう。そして新しい風雅を発見し、これを言葉に定着させようとした。芭蕉は死の二年前、終生のパトロンであった杉山杉風への手紙を出した。

そこに「日ごろの工夫の成果です」と報告して次の句を記している。

P196
鶯や餅に糞する縁の先
芭蕉はいったい何を工夫していたのか。それは古典世界の風雅とは異なる自然との出会いを、江戸の庶民の日常生活の中に発見して、新しい風雅として世に知らせることである。

日本の和歌には梅に鳴く鶯がしばしば取り上げられてきた。その結果「梅と鶯」は風雅なものとして、文学や絵画や工芸品などに登場する。しかし芭蕉は世間の実生活のなかの鶯を捉えようとした。しかもまだ誰も言葉にしたことのない鶯の姿を。

芭蕉は見馴れた世俗の日常を、新しい目で見直すことを試みたのである
(略)
7.4雅人と俗物 P198-203
P200
P201 「雅人」気取りの二人は雪見に行き、連れが寒いと言おうものなら「俗物」のレッテルを投げかける。言われた方は「俗物といわれちゃあ男が立たねえ」と、まるで風流が男だてであるかのような言い方をする。

寒さくらいやせ我慢しなくては男の意気地がたりないというわけだ。「命は風雅によって軽し」というのは、『後漢書』の「命は義によって軽し」をもじっている。恩義のために命を捨てた者の名を列挙した後に続くこの言葉は、義のためなら死んでもいいという価値観を表している。

言うまでもなくこれは、江戸時代の「男だて」の価値観である。その「義」を「風雅」に入れ換えたわけだが、むろん冗談で言っているにせよ、ここでも語り手のふだんの生活規範が「風雅」とは遠いことを暗示している。

そして屋形船に芸者を呼んで唄や踊りを楽しんでいる金持ち見ると「俗中の俗だ」とののしる。ところが本音を語る段になると一転して、「もう風流には懲りはてた。やっぱり俗物がいい」とつぶやくのである。

どうやら彼は風流人ではない。それどころか「俗物」でありながら、ただ「俗物」と言われたくないために無理をしたのだ。ここに当時「風流」と「俗」とが対立する概念だったことがわかる。

これはかつての「雅俗」の対立にあたるといってもよいけれども、昔の「雅俗」は階級と連動しており、「雅」は上流階級のものであり、庶民は「俗」でしかありえなかった。

ひとつには「雅」が古典教養を必須条件としたこともある。ところが江戸時代には「風流」のインフレがおこり、だれでも花見や雪見をすれば風流に、そして「雅人」になりえたのである。

それどころか、雪見は寒いからいやだなどと言おうものなら、風流を解さない俗物として軽蔑された。

P202 ここから、三馬や鯉丈が描いたような、偽善者ならぬ偽風流人もあらわれたのである。

本居宣長は人間本来の「真情(まごころ)に従うことを日本の伝統文化とみなし、人工的な思想(儒教・仏教・道教など)に基づく規範をだいたい中国思想の影響下にある「さかしら」な「つくりごと」とみなした。

だから当然こういう「風流」に対して批判的である。たとえば「しづかなる山林をすきよしといふ事」と題する小文が『玉勝間』にある。
世の知識人や学者はみな住居は人里から離れた静かな山林がいいと言うけれども、私はなぜかそう思わない。人が多くて賑やかなほうが好きで、そんな世間から遠いところなど、淋しくて、心も萎えてしまう気がする。

(中略)人の心はさまざまだから、人が少なくて静かなところが住みよいとほんとうに思っている人もいるだろうが、また例のつくりごとで、中国人のまねをしてそんなことを言ってみて、自分は世間の凡人とは違うというところを見せようというだけの人も中にはいるのではないだろうか。こんなふうに疑うのも、私の心が俗なせいだが。
(略)
7.5風流の条件 P204-206
伝統的文化制度からすれば、「風流」が大衆化し「俗」の一部になったなどと言うのは、黒が白の一部になるくらい奇妙なことである。日本の「風流」は初め日本語の「みやび」にあたるものだったから、上流階級の占有物であった。

そして中国の「風流」概念が入ってくると、知識人のものとされ、古典の教養は必須だった。もちろん「好色」の意味を帯びていたから、その面では遊女や白拍子なども風流な逸話に登場したけれども、その相手はたいがい支配階級であった。

そして中世、隠者が風流の代表者であるという思想が中国から入ってくると、脱俗の世界で知的あるいは文化的エリートであることが条件となった。その一つの現れが隠者文学であり、また茶人などの「数寄者」である。

そして隠者の風流が好色的要素を排したとき、清風の要素が中心となる。盧仝や売茶翁のような清貧の隠者による雪月花を愛する美的生活が風流の理想となる。これが「風流」は庶民や貧者のものでもできる趣味だという考えにつながる。
陸羽『茶経』と盧仝『七碗茶歌』〜お茶を文化へと高めた中国文人〜 – 煎茶堂東京オンライン
高価な道具は庶民には手が出ないが、清貧ならお手のものだ。漢詩を作るのは教養がいるが月や花を見るだけなら学問はいらない。ここに「風流」が大衆化するための条件が生まれる。

歴史を振り返れば「風流」はその時の文化の担い手のものになっていった。古代は貴族の、中世は武士の、そして近世は町人のものに。「風流」はやがて一般化し、大衆化することは歴史の流れとして避けられないし、それはむしろ肯定的に受け止めるべきなのだろう。

問題は、そのとき「風流」はどのような変貌をこうむるかである。

P205このとき宣長の態度は参考になるだろう。彼はみずから俗物の位置にとどまる。しかし彼は月や花に「もののあはれ」を見出すことをやめない。美しいものを愛でるのは人間の自然の反応だと思っているからだ。

この「もののあはれを知る」という美的態度は人間に生来備わった傾向であるけれども、それを意識的に追求する生き方には既に一種の風流ではないだろうか。

「もののあはれ」とは何か。宣長はその説明に桜を用いた。桜を見て「いい薪だ」と見るのは実用的な見方である。いっぽう「美しい」と感じるのが「もののあはれを知る」ことである。

宣長は「実用」をもちろん大切なものだとする。いっぽう「もののあはれ」は役にたたない。しかし桜は、その役にたたない「美」をめでるために植えたものだ。だから「ああ美しい」と感じることにこそ、桜の存在理由はある。

人が桜を植えるのは「実用」のためではなく、「花見」という風流のためだというわけである。けれど桜は美しいと見るのに、人は身分も財力も教養もいらない。宣長に言わせればそれは人間の本来の心の働きである。

とすれば、風流とは人間が本来もつ美への感受性さえあればできるものであり、高貴な人々から底辺の庶民まで、誰でも楽しむことができるものである。

宣長によれば「もののあはれを知る」ことには二種類ある。一つは美を感じる力であり、もう一つは他人の心に共感する力である。この感受力の強い人を「あはれを知る人」といい、鈍感な人を「あはれを知らぬ人」という。

けれどもその違いは生れながらに決まるものではない。自らの努力と人生経験によってどのくらい感性を磨いたかによる。これはそのまま風流にもあてはまるだろう。

P206さて、風流であるための条件が身分でも教養でもなく、磨かれた感性であるとすれば、市井の町人でも風流になることはできる。いや風流だけではない。美意識がものをいう文化的現場において、感性を磨いた町人は貴族や武士と対等以上に戦うことができるだろう。

江戸時代に美意識が重視され、それゆえ美的感性がもっとも繊細に発達した場所は遊郭であったが、そこでは町人が雅俗とは別の美的基準を導入して、ついに武士を圧倒したのである。

その基準が「いき」と「野暮」であった。

第八章 「いき」と「すい」 P208-234

8.1 江戸の「意気」と上方の「粋」 P208-212
P208
P209 流行の発信源として町人階級に最も影響力があったのは歌舞伎であろう。だがもてる男のイメージが江戸と京坂の歌舞伎ではまったく違う。江戸歌舞伎の色男の代表は助六であろう。喧嘩っ早く、口が悪く、とにかく強気で誰に対しても一歩もひかない。男を立てる気風から「男だて」といわれるキャラクターである。

これに対し上方歌舞伎の色男の代表として今日なお上演されているのは『廓文章』(一八〇八初演)の伊左衛門であろう。柔和で軟弱、いわゆる「男っぽさ」がまるでない。肩を突いただけで転びそうなので、こういうキャラクターを「つっころばし」と呼ぶ。

たいがい大きな商家の若旦那か、故あって身分を隠している若殿様で、苦労なく育ったせいか人はいいのだが、わがままで頼りない。甲斐性もなければ根性もない。だがこれが京坂ではもてる二枚目なのである。

『守貞謾稿』に次のような文章がある。
P210 京坂の若者は歌舞伎役者のスタイルをまねる者が多いが、江戸は鳶の者をまねる者が多い。これは人情の自然な成り行きで、京坂の人は「にやけ」といって弱気であり、江戸は「いさみはだ」といって勇ましく過激なのを好むからだ。
(略)
P211若衆には少年の魅力が求められたが、念者には求められたのは大人の男の魅力である。それはさまざまな経験を経て子供っぽさを卒業し、他人から信頼を得る力と趣味のいい身なりを備えた「物やわらかにうつくしげなる男」なのである。

これが上方における男の魅力をそなえた「やさ男」であった。若くて美しいけれど頼りない「つっころばし」とは異なり、大人の魅力をもつ「やさ男」の特徴が「すい」である。

上方の「すい」に対し、江戸でもてる男の条件が「意気」であった。江戸中期に遊郭の風俗を描いた洒落本は、遊びのガイドブックとして読まれたが、同時にそれは「いき」と「野暮」とを教える教科書でもあった。

その一つ『辰巳の園』に「通信」という章があり、深川の遊里で使われる言葉を紹介している。「いきな男」という語は「男にかぎらず好いたということ」だとある。男であれ女であれ、「あなたはいきだね」と言われたら、それは「あなたが好きよ」という意味だよとおしえているのだ。

P212「いき」と「すい」の反対語はどちらも「野暮」になるのだが、「野暮」の反対語としてはもう一つ「通」がある。「通」と「いき」と「すい」の用例の多様さと時代的変化についてはすでに多くの先学の研究があるので、ここではおおざっぱに次のように言っておこう。

「通」はもっぱら遊郭における客の人物評価に用いられ、「すい」と「いき」は客と遊女の両方に用いられ、やがて遊郭の外の人々にまで適用範囲が広がった。そして「すい」は「粋」と書かれて主に京・大坂で使われ、「いき」は「意気」と表記されて主に江戸で使われた。

さらに江戸後期になると「いき」は人物だけでなく、衣裳・小物などの物品の美的評価にも使われるようになった。

要するに「いき」も「すい」も遊郭での「通」という概念がもとになっている。「通」あるいは「通人」の条件として上方では「すい」が、江戸では「いき」がかたられたのである。それらはもともと「優美」とならんで遊郭で求められる価値を表す言葉だったのだ。

8.2 丹前と男伊達 P212-222
「いき」の美意識は、江戸の遊郭に育てられたと言ってもよい。それは初め「意気」と表記され、ほとんど「張り」と同じ意味だった。だからよく合わせて「意気張り」とも言われた。

遊郭における「意気」と「張り」とをさかのぼると、吉原ではなく丹前風呂という非公認遊郭に行き着く。いま「丹前」という言葉はふつう綿入れの着物を指す。別名は「どてら」。なんだかもっさりした印象だ。

P213けれども、かつて「丹前」という言葉は一つの美学を指していた。それはファッションの面では人目をひく派手さを、生き方の面では社会秩序よりも個人的意気地を重んずるものだった。

平安時代から発した「風流」の意味の一つに、「人目を驚かす華美」がある。そして中世に、既存の権威を否定する武士たちの過剰な美的自己顕示が「婆娑羅」と呼ばれたことは前に述べた(第五章 婆娑羅の風流)。

それは圧倒的な金銭の力によって古い規範を打ち砕く行為でもあった。古典教養と伝統の継承によって「雅」の文化を独占していた公家たちに対する文化的下克上であり、それゆえに新興階層の支持を得たのである。

そしてこの美意識はその後もながく日本文化の中に受け継がれていった。

「人目を驚かす華美」のためには、必ずしも圧倒的な財力は必要がない。見たこともない新しさ、奇矯さがあればよい。こうして江戸初期に「かぶき(傾き)」という言葉が生まれる。

語源は「傾く(かたむく)」の古語「傾く(かぶく)」の名詞形だと言われ、まっとうではないことを意味する。奇矯ないでたちで、非常識なことをする連中を「かぶき者」など言い、「傾奇」「歌舞伎」などの字が当てられるようになる。

なかでも有名なお国という女性の始めた「かぶき踊り」で、彼女は南蛮風アイテムを取り入れて男装し、女装した男優と「茶屋遊び」のやりとりを演じたという(ここでいう「茶屋」は今日なら風俗営業の店にあたる)。彼女は現在「出雲の阿国」と呼ばれ、歌舞伎の創始者とされている。

かぶき者たちは、まっとうな人の眉をひそめさせながらも、時代の流行を求める人々のファッションリーダー的役割を期待されてゆく。

P214 そして一七世紀前半の江戸に「丹前」という言葉が生まれた。神田にある堀丹後守の下屋敷前に風呂屋がいくつもあり、丹後守の前の風呂を略して「丹前風呂」と呼ばれた。やがてそこへ通う客たちのことも「丹前」と呼ぶようになる。

「風呂へ通うかぶき者たちのことを別名丹前という」(『むかしむかし物語』)とあるから、当初はかぶき者の中で、丹前風呂へ通う者だけを言ったのだろう。しかし「今はなんであれ派手なものを丹前という」(『八十翁壽昔話』)という記述もあるから、しだいに意味が広がり、かぶき者たちだけでなく、そのスタイルの特徴を指すようになったのだろう。

江戸初期の風呂はいまの銭湯とは違い、客の目当ては入浴そのものよりも湯女のサービスという所が多かった。いわば非公認の遊郭である。丹前風呂には勝山という湯女のスターがいた。井原西鶴が『好色一代男』に勝山のことを「よろづにつけて、世の人とは変わって」と書いたように、彼女のファッションは独特だった。

頭上に大きな輪を作る髷(勝山髷)を結い、派手な縞柄(丹前縞)の綿入れを着た。町を歩くときは編笠をかぶり木刀の大小二本を腰に差したという。まさに奇矯ないでたちである。けれども彼女は流行を作る。丹前の湯女たちだけでなく、江戸の若い女性たちが彼女のスタイルに追随した。

勝山髷は「だて結び勝山髷」として後世に残った。興味深いのは、勝山のファッションが歌舞伎や男性たちまで影響したことである。彼女は自分の考案した派手な縞柄綿入れの着物をひいきの客に配った。客には旗本奴や町奴、つまり世間から望んではみ出したかぶき者が多かったから、この派手な綿入れを好み、それは丹前風の着物として広まっていった。

P215今日綿入れの着物を「丹前」と呼ぶのはここから来ている。彼らの人目を引くスタイルは「丹前風」とか「丹前姿」と呼ばれ、彼らを主人公にした「丹前物」と呼ばれる歌舞伎作品が多数作られた。

その舞台では、役者たちが「丹前振り」とか「丹前六万」という独特の身振りで踊った。これらのことは「丹前」が江戸の市民たちにとって魅力的なスタイルだったことを示している。

丹前の特徴は、中世の婆娑羅を復活させたようなファッションだけではない。その美意識は生き方のスタイルにも及んでいた。当時の言葉でいえば「男だて」(男伊達・男達)である。これは「男を立てる」から来ており、見栄(面目)を重んじ、なにより誰かに屈することを「男を下げる」として恥じとする。

この「突っ張り」的価値観は世界的にみられるマチスモ(強い男礼賛)の一種だが、これに社会のルールよりも仲間への信義を重んじ、得よりも損を選ぶ侠気を加えたものがだいたい「男だて」にあたる。

やくざの「任侠」とほぼ同じである。その代表が侠客の元祖ともいわれる幡随院長兵衛である。
(略)
8.3 「通」と「すい」P222-228
P224 『色道大鏡』は、初心者の「瓦知」がいかなる修行過程を経て「粋」になってゆくかを教える教科書でもある。「粋」とは色道の経験を積んだ達人、つまり「巧者」であり、「わけしり」であり、「心の練れた」人であり、「通」ののことであるとされる。

本書の中核をなす章は「色道大鏡廿八品」であるが、これは子どものような「無性品」(異性に目覚める前の段階)から修行を積んで「粋」となり、さらに色道を極めて「太極品」に至る過程を二八段階に分けて記述している。
(略)
P225「すい」を描いた作品としてよくあげられるのは井原西鶴の『好色一代男』である。これは『源氏物語』五四帖にならい、世之介七歳から六〇歳までの五四年間の人生を五四章に描いたものだが、その内容は無心な幼年期から色道を学んでほんとうの「すい」を知るまでの話である。最後の数章では、もはや遊女との愛情関係はなく、ただ面白く遊ぶとはどういうことかが主題となる。

「すい」の極致は自分がもてることではなく、他人を楽しませることなのである。最終章では、「いつまで色道の中有に迷っているのか」「もはや浮世に今という今、心のこりはない」と達観し、ついに現世の外へ出ていく。

P226 世之介が「すい」の極致を知る転換点で出会うのが、江戸吉原の小紫太夫である(相互参照)

世之介五七歳、第五一章のタイトルは「情のかけろく」という。「情けをかける」と「賭け禄」(金品の賭)との掛詞で、これは奇妙な賭けの話である。主人公は吉原の太夫小紫。

当時吉原の太夫は原則として初対面の客と床を共にすることはなく、三回目くらいにやっと相手をしてもらえるのがふつうだった。ところが京都の十蔵という少し頭の足りない仕立屋が、自分なら小紫に初会から振られないと公言したので、意地悪な金持ちが賭けを持ちかけた。

十蔵が初会で床を共にできれば家を一軒やる、振られたら一物を切り取るという。京にいた世之介は、面白がって彼に付き添い、江戸にやってきた。初会の日、十蔵は小紫に酒を注ごうとするが手が震えて相手の襟から膝までこぼしてしまい、おろおろした。

小紫は大丈夫ですと席を立ち、湯殿で行水し、最前と変らない姿で座敷に現れた。同じ衣装を二揃い用意していたのだ(西鶴は「上方の遊女では考えられないこと」としている)。そして、初会だからと店は寝具も用意していなかったのを、小紫は十蔵の望みを叶えた。

しかも彼の下帯に、確かに身体を許しましたという証文まで書いて与えたのである。不思議に思った世之介があとで小紫に尋ねると「少し足りない人を賭けにはめ、江戸まで来させたと見えました。そんな賭けの相手があまりに憎くて、あんな男を床に招きました」と明かした。

知恵の足りない人をいたぶって遊ぼうという相手が許せなかったのである。この後世之介がいくら口説いても小紫は相手にしなかった。野次馬としてたちの悪い遊びに付き合う世之介も同罪とみなされたわけである。

P227最後に小紫は西鶴から「心憎きおんな」と評されている。

小紫の行為は二つある。一つは酒を高価な衣装にかけられながら、同じ衣装に着換えて何事もなかったかのように戻ってきたこと。これは相手の失敗をさりげなくカバーして、その面目をつぶさない行為であり、「すい」な振る舞いと言ってよい。

もう一つは、十蔵を好きになったわけでもないのに、ただ賭けの相手の不正を憎み、懲らしめるために十蔵に情けをかけたことである。これは知恵の足りない者をいたぶる行為を怒る正義感に基づく行為とみれば「張り」の一種とも見える。

だが「張り」と違うのは、それを戦いの相手はもちろん、十蔵自身にさえわからないように行うことである。彼女は好きでもない男と寝るという犠牲を払いながら、誰からも感謝されず、評価もされないだろう。むしろ、あんな男と初会から寝るなんてと、評価を下げるかもしれない。ここで『色道大鏡』のいう「真の粋」の定義を思い出そう。
P227「真の粋というのは、色道のあらゆるわざを身につけながら、知っていることを隠し、自分の欲望にうち克って物を争うことをせず、他人を妬まず、人々から敬愛されて人を救う。かつ知・仁・勇の三徳を兼ね備え、義を知り敬を忘れず、配慮が深く行動が落ち着いている」
小紫の行動はこれに近いと言えないだろうか。

さらに注目すべきは、世之介が小紫に振られたことである。『好色一代男』は『源氏物語』をふまえ、世之介は光源氏をモデルにしている。貞淑な人妻を口説いて殴られるといったことはあるけれども、基本的に世之介はもてまくる。

P228 もし「すい」の目標がもてることにあるなら、すでに五七歳で小説中でもはや「名誉の上手」「わけ知り」とされている世之介が振られるというのは、構成としてありえない。西鶴は小紫と比較することで、世之介が「巧者」ではあってもまだ「すい」ではないことを示したのだ。

世之介はなぜ振られたのか
(略)
8.4 「いき」の意味の拡張 P229-234
「いき」は「意気」すなわち「心意気」として始まった。しかし時代とともにその意味はしだいに拡大して、ファッションの美的規範となってくる。それはどのような経過をたどったのだろうか。

まず各時代の辞書的な定義を探してみよう。『色道大鏡』(一六七八)には遊郭用語を説明する「言辞門」があり、「意気」をこう説明している。
意気「いき路」ともいう。「路」はいきの道すじを表している。いきのよしあしは世間でもよく言われるけれども、もともとは色道から来ている。「心いき」のよしあしのことである。心の清いのをいきがいいと言い、心のむさいのをいきが悪いなどと言う。この対比は心が成熟しているか初心者であるかの違いにも通じる。
「いき」は心が「清い」か「むさい」(穢い)かの問題であり、それは心が成熟しているかどうかの問題に通じるという。

世之介が小紫に振られたのも、この「いき」の清さがないと判断されたからかもしれない
(略)
P230 およそ百年後の『吉原大全』(一七六七)は、吉原遊郭でもてるための条件として「意気」をあげている。
女郎にもてるには貧富は関係がなく、名が大事である。名の通った意気人にはどこの女郎もほれるものだと思え。女郎をだましたりすかしたりといったさもしいことは、真の通人ならしないものである。

意気地というのは、心さっぱりといやみなく、伊達寛濶で洒落を表とし、人品高尚で実を裏とし、風流に遊ぶのを真の通人という。
『吉原大全』もまた外見を問題とせず、もっぱら行為や精神を問題にしている。
(略)
P232美意識となった江戸末期の「いき」に焦点を当ててその構造を分析したのが、有名な九鬼周造の『「いき」の構造』である。
(略)
P234つまり九鬼の「いき」の分析は江戸末期の女性の「色っぽさ」の話であって、初期の用例にはあてはまらないというのだ。さらに言えば、九鬼のいう「諦め」とか「媚態」とかは自由を奪われた遊女にはあてはまるが、客である男性や、遊郭の外で生きている人々には必ずしもあてはまらないとも言える。

そもそも「いき」の要素としての「諦め」は九鬼の言うように仏教から来ているのだろうか。ひょっとしたら「潔さ」を重んずる武士道や、欲望を捨てることを「清い」心とする伝統から来ているのかもしれない。

また「意気地」はほんとうに「武士道」から来たものだろうか。むしろ丹前の奴たち(前述)が男を立てるため(男だて)の条件とした「張り」(意気張り)の継承かもしれない。
(略)

第九章 「いき」の美学 P236-271

9.1「出ず入らず」 P236-239
「いき」はやはり遊郭でもてるための条件として語られることが多かった。たとえば、洒落本『遊子方言』は自称通人が初心者の若者を連れて吉原へ行く話だが、その通人はこんな風に説教する。
惜しいかなお前は色男なのに、なりや作りがどうもさえない(中略)吉原での着物は黒が間違いない。それから髪が野暮だ。(髪型について詳しく注意したあと)どうぞなりや何かをいきにさっしゃい。
このあと当時必須の持ち物であった紙入れの布地について「とんだいきなきれいだ」などと言ったりもする。つまりもてるための条件として、着物や髪型や持ち物を「いき」にしなければならない。
(略)
P237この時期の深川遊郭を描いた洒落本『辰巳の園』に「志厚」という通人が登場する。こういう本では名が体を表すから、志厚は軽薄な半可通ではなく、模範的な通人である。この志厚の姿を描写して
「髪は本多にあらず、茶筅坊にあらず、出ず入らずの男女好みと結」
とある。男女にかかわらず好かれるというこの髪型を考えてみよう。

そもそも洒落本には髪型についての言及が多い。遊郭でもてたい男たちにとって髪型は大きな関心事だったのだ。「茶筅坊」とはいわゆる「茶筅髷」のことである。後ろにまとめた髪の束で一〇センチくらいの塔を作って後頭部に立て、その先端を切って房をつくる。

その形が茶筅に似ていることからこの名前がある。戦国時代の武士の髪型であり、江戸時代になっても一七世紀半ばまで流行した。「丹前立髪」も茶筅髷である。しかし一八世紀になると、うしろでまとめた髪を少し伸ばして猫の尻尾のようなものをつくり、先端を前方に向けて折る「二つ折り」という髷が主流となる。

茶筅髷は田舎に残る程度になった。つまり「茶筅」は「浅葱裏(後述)」と同じで、流行遅れであることを知らない田舎者の髪型という意味になったのである。

「本多髷」とは頭頂部を広く剃って月代を大きくし、残りの少ない髪を頭の後ろで細く束ねてネズミの尻尾のようなものを作り、

P238それを上に向けてからくるりと前へ折り曲げて先端を頭頂につけるものである。その印象は、よく言えば繊細優美だが、悪く言えば軽薄軟弱である。男くさい逞しさもなく、謹厳実直にも見えない。

ところがこれが江戸中期に大流行した。とりわけ吉原へ行くには本多でなければならないとさえ言われた。『当世風呂通』では「時勢髪」と書いて「ほんだふう」と振りがなしているくらいである。

細部に工夫を求めるのが流行の常だから、本多には「金魚本多」とか「疫病本多」とかさまざまなヴァリエーションが生まれた。「疫病本多」とは、頭の上にもってくる尻尾部分(「刷毛」という)があまりにも細いので、病気で髪の毛が抜けたように見えるという名称である。

一ハ世紀後半の江戸風俗を記述した『賤のをだ巻』にも本多の流行ぶりの記述がある。
「歌舞伎役者の髪型なのだが、身分の高い家柄でも若い人たちは本多に結って、裃(かみしも)で公務を勤めたりしている。しかしこの頭はふさわしくない」
とある。「まったく近頃の若い者は」という声が聞こえてくるようだ。今で言えば、ダークスーツで役所に出勤する男の頭が金髪であるようなものか。

注目すべきは「出ず入らず」という言葉である。「ちょうどいい」と言ってしまえばそれまでだが、これは両方の中間にしておけばいいというニュアンスではない。まして「普通」や「平凡」にしておけば安全だという意味ではない。

これは程度を表す言葉ではなく、むしろ新しい規範を示す言葉だと考えるべきだろう。

美を求める人は、できるかぎりの美を実現しようとする。スポーツ選手が記録を追うように、美の追求に限界はない。

P239スポーツも種目ごとに計測基準が違うように、美にもいくつかの方向(趣味)があり、それぞれの基準が違う。中世の「婆娑羅(前述)」なら美麗を追求して絢爛豪華を尽くそうとする。

世阿弥の「幽玄(前述)」なら上品を追求して気品のある繊細優雅を目指す。「わび数寄」なら「冷え(前述)」た美を追求して色彩を排除し、目に立つ技巧を排除し、いかにも無作為のように見せようとする。

美の理念は異なっても、追求の姿勢は変わらない。適当でいいなどと言えば、スポーツと同じで、仲間からまじめにやれと非難されるだろう。しかし「出ず入らず」とは、このような追求を放棄するものである。

いや、むしろ「追求」という行為そのものを意図的に避けている。ここには何か新しい美の条件が働いているのだ。それは何か。

9.2「半可通」と「野暮」--「恥」の文化 P239-247
ここで導入された新しい条件とは、他者の目である。このことに気がついたのは「いき」の構成要件の一つに「媚態」があるとみた九鬼周造であった。彼はそれを「二元性」と呼んだ。

媚態という状態においては、「私」はつねに「あなたにとっての私」であるほかはないからだ。ひとり相撲が相撲として成立しないように、「私を見るあなた」がいなければ媚態は成立しない。

九鬼は「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などもこの二元性をもつとする。これらは媚態を行う者に対して他者の視線が下す評価であるからだ。ただし「上品」はこの二元性をもたないといもいう。「上品

P240 であるために他人の目は必要ないからだ。九鬼は「いき」をこの媚態の現れ方の一形式とみなし、したがって他人の目に依存する二元性をもつと考えたのである。
(略)
242
P243何が恥ずかしいのか?知らないのに知ったかぶりをしていること。できないのにできるふりをしていること。そしてできていないのに、自分ではできているとおもっていること。

たとえば、流行の衣裳を自慢げに見せびらかしているのに、それがすでに流行遅れであったりすること。田舎侍の代名詞となった「浅葱裏(前述)」がよい例である。浅葱色(ネギのような緑がかった青)の木綿は一時江戸で流行したが、やがて廃れた。

しかし地方ではそのことが知られず武士の着物の裏などに用いられていた。参勤交代があると彼らはその姿で江戸にやってくる。そして流行遅れであるのに、自分はいけていると勘違いしているところが滑稽だというので、馬鹿にされたのである。
「女にはご縁つたなき浅葱裏
という川柳は、江戸人たちの彼らへの嘲笑を示している。しかもこれは町人たちによる、武士への嘲笑である。「いき」という文化規範は、このような階級を逆転する革命を可能にしたのである。

P244 では、恥ずかしくないふるまいとはどういうものか。右の反対を考えてみよう。知っているのに知らないふりをすること。できるのにできると公言しないこと。できているのに、みせびらかなさないこと。ここに来て私たちはようやく
「本多にあらず、茶筅坊にあらず、出ず入らずのいきちょんと結い」
という言葉の意味を理解することができる。

「本多」は流行の髪型である。「茶筅坊」は流行遅れの髪型である。そのどちらでもないのが「出ず入らず」である。

流行遅れはもちろん恥ずかしい。だが流行に乗っていると見られるのも恥ずかしいのだ。とりわけ「本多」は派手であるから目に立つ。つまり自分は流行を知っていると誇示しているように見える。それは「出ている」ことなのである。

逆に「入っている」とは、何も外に表れているものがないことでもある。つまり髪型に何の特徴もない、適当に結っているだけというものだろう。

そういうものは「いき」ではない。おそらく志厚は本多には結わなかったが、本多を生み出した時代の美意識については鈍感でなかっただろう。そのころの時代の好みは、髪は少なく眉は細く、軽快にすっきりとつくるものだった。

髪の量が多いものは、その重い感じを嫌われた(もっとも開国以後、日本が戦争を意識し始めると、古風な大きい髷がまず武士に、そして庶民にも流行する。それを「糞船のたわし」と呼んでいやがる人もいた)。

志厚も時代に合わせて、髪の毛を減らすといった調整をし、垢抜けた印象の頭を作っていただろう。それは保守的な老人から若い女性まで、誰が見ても嫌味のない髪型だったろう。だから「男女好(いきちょん)」と言われたのである。

「男女好」の反対語は、たぶん「いやみ」というのが一番近いだろう。それは自分が「いき」であることを誇示し、他人に評価を強要する態度である。

P245けれどもなぜ「出ている」ことが恥ずかしいのだろう。見せるべきではない何かが、他人の目に見えてしまうからである。では何が見えるのか。それは自分をよく見せようという「作為」である。

たとえば、震災の被災地に多額の寄付をしたタレントが、金額を記載した振込用紙の写真をインスタグラムに上げたところ、ネット上でいわゆる「炎上」状態となったことがある。「売名行為」だというのだ。寄付そのものは善行だが、その動機が「美徳の誇示」であるとみなされたのである。

一元的に道徳的基準に従うなら、いくら善を追求してもよい。美的基準に従うなら、いくら美を追求してもよい。しかし「恥の文化」においては、その行為の背後にある「作為」が問われるのである。

自己顕示欲から出た善行は「偽善」と呼ばれ、相手の感謝を要求しているように見えると「恩きせがましい」と言われる。美意識の高さをあからさまに誇示すると「きざ」とか「ぶってる」などと言われるだろうし、得意げに振る舞うと「気取ってる」とか「いやみ」などと言われる。それらは恥ずかしいことなのである。

「出ず入らず」という規範が美の追求の行き過ぎを避けること(「出ず」)、そして何の美の工夫もないのを避けること(「入らず」)であるのは、きざになったり野暮になったりする「恥」を避けるためである。

ただし何も知らない野暮は大きな恥ではない。半可通にありがちな「『よく見せようとする作為』が見えること」が致命的な恥なのである。ここには屈折した二重構造がある。

もともとおしゃれは自分をよく見せようとする行為である。単に「よく見せよう」とするだけなら、

P246 美を追求すればよい。だが「自分をよく見せようとする作為」が見えることが恥ずかしいと思った瞬間、その行為を隠すという別の次元の作為が始まる。「出ず入らず」であるためには、そのような「『作為』を見せない作為」が必要なのである。

それは繊細な美意識を持った人間にしかできないことであり、だからこそ『辰巳の園』はこれを深川の「いきちょん」としたのである。ひょっとしたらその背後には、ライバル吉原の「いき」はしょせん本多髷を好む程度の単純なものだという思いがあったかもしれない(じつは深川は吉原は野暮と見くだしていた)。

こうして「いき」の美意識は屈折したものとなる。野暮を恥ずかしいと思えば外見や振る舞いを洗練させて「通」とならなければならない。しかし「通」であるところを見せようとすると、今度は「通ぶってる」とか「むしろ厭味だね」とか言われる。日本には「自分をよく見せようとする」ことを「見苦しい」とみなす文化があるからだ。

なぜそれを「見苦しい」と見るのか。それは「欲望」という利己的なものが表面に出てしまっているからだ。「欲望」の抑制はいうまでもなく倫理的な要請である。ここに「いき」とい美意識が倫理的な規範につながる理由がある。

服装が「美しい」かどうかは美的判断の対象だが、自分の美意識が優れていることを他人に認めてもらいたいという「欲望」は倫理的判断の対象となるのだ。

もちろんこれは美意識の有無だけでなく、徳性の有無についてもあてはまる。ある行為が善行か否かはもちろん倫理的判断の対象だが、善行をして自分が「いい人」であるとの評価を得ようとするとき、その欲望もまた倫理的判断の対象となる。

P247欲望が表面に出てしまうとき、せっかくの善行も他人の目にはかえって「見苦しい」と映るのである。ではどうすればよいか。ここに「いき」な振る舞い方が工夫されることになる。

9.3「いき」の表と裏--二重構造の仕掛 P247-251(相互参照)
テレビでジャングルポケットという三人組がこんなコントをしていた。ある会社員の男が会議を前に悩んでいる。今日恋人が外国へ旅立とうとしている。彼は空港へ駆けつけて彼女を引き止めたいのだが、勤務時間中だ。

ついに彼は意を決して、上司に外出の許可を求める。厳格な上司は、部下が重要な会議を休んで女に会うことを許さない。しかしそのあと上司はこう言う。「まだ会議まで時間があるな。風邪気味なので、ちょっと寝ることにする。その間に何があっても私は気づかないだろう」。

すると部下はひどく心配し「すぐ布団を用意します」と布団をとりに行こうとする。上司はあわてて彼を引き止め、あらためてこう言う。「腹が減ってきた。私の好きな弁当が空港にあるので、今すぐ空港へ行って買ってきてくれないか」。

すると部下は怒り出す。「私が彼女に会いに空港に行くのはだめなのに、自分の好きな弁当は買いに行かせるんですか!」観客は爆笑した。コントのタイトルは『伝わらない』。

上司の真意は、部下に恋人のもとへ行かせることにある。ただしそれは言葉の上には表われず、言外の意味として示唆されている。部下の言葉の表面だけを、まさに文字通りに取ってしまう。その結果、部下思いの上司がまるで悪い上司になってしまったことに観客は笑ったのである。

P248 考えてみれば、上司は「勤務時間中ではあるが空港へ行け。おれの責任で許可する」と言ってもよかったはずである。なぜそれを言外の意味という形で伝えようとしたのだろうか。

表面上相手が「規則違反をする」形にせず、また明示的に自分が「恩を売る」形にしないためである。そしてこういうやり方をふつう「いきな計らい」と呼ぶ。

「いきな計らい」の基本的パターンは、義務(ルール)と人情(欲望)とが衝突して悩んでいるものを助けるために、形式上ルールを守りながら、実質的に欲望を達成できるようにしてやることである。

一番多いのは、「見て見ぬふり」をすることである。右の上司はまずこれをやろうとした。次によくあるパターンは、なにか別の「正当性」を与えることである。だから上司は二番目の策として、空港へ行くことが「職務違反」ではなく「上司の指示」になる形にしようとしたのである。

また相手を救済することが「恩」にならないように工夫することことも多い。相手が望みながらできないことを「偶然」を装って実現させたり、自分の希望であるかのように装ったりする。上司が部下の空港行きを自分の希望としたのもその一例である。

「形式上」相手が感謝を表明しないでもよい形にすれば、相手の面子を傷つけないことになる(相互参照)。

大事なのは、この「形式上」とか「表面上」ということである。実質的にそれが人を助ける善行であったとしても、表面上はそう見えないことが「いき」の条件なのだ。つまり「いき」な行為には「表」と「裏」という二重構造がある。

そしてこの二重構造は美的表現に転用できる。こうしてようやく、「いき」が行為から美意識へと広がることができる。

P249たとえば、着物の表には安価で地味な生地を用いながら、裏に高価な生地や華やかな模様を用いることが江戸時代に流行った。また男物の着物は地味な色の無地や縞が普通だったが、その下に着る襦袢は派手な図柄のものが少なくなかった。もちろん下着は表から見えない。だが見えないところに目いっぱい凝るのが「いき」だったのである。

裏に高価な内容を置き、表に低俗なものを見せるという二重化の操作は、江戸文化のさまざまな方面で行われた。たとえば伊藤若冲に野菜の水墨画がある。中央に大きな大根が横たわり、周囲をさまざまな野菜が取り囲んでいる。

彼は元青物商だから、店先の光景でも描いたのかと思う。しかし題名が『果蔬涅槃図』であるのを知ると、意味が一変する。伝統的な「釈迦涅槃図」の構図は、中央に大きな寝釈迦を、周囲に釈迦の死を悲しむ弟子や動物たちを描く。

若冲の絵は大根を釈迦に見立てたのだ。表は大根、裏は釈迦という二重構造になっている。こういうものを「見たて絵」という。浮世絵には「見立て絵」が多い。たいがい古典の中の故事や詩句など、文句のない「雅」の題材を当世の「俗」に置き換えたものである。

たとえば能の『菊慈童』や『張良』の一シーンを若衆や美女で置き換え、『見立て菊慈童』などの題をつける。つまり表は艶っぽい江戸の風俗なのだが、その裏に古典の雅の世界があることがほのめかされている。

当時浮世絵は絵画の中でも庶民向けのものだから「俗」な身分であり、能は武家の式楽として「雅」の身分にあった。見立て絵は表が「俗」で裏が「雅」という二重構造が趣向の眼目となっている。

P250 石川淳はこのような「雅」を「俗」に仕立て、「聖」を「俗」に仕立てる操作を「やつし」と呼んだ。そして文学においては俳諧にその代表を見出し、さらにそれが江戸の市民の文学、つまり「俗」文学一般の方法であるとした。
このやつしという操作を、文学上なんと呼ぶべきか。これを俳諧化と呼ぶことの不当ならざるべきことを思う。一般に、江戸の市井に継起した文学の方法をつらぬいているものはこの俳諧化という操作である。「江戸人の発想法について」(傍点原文)
(略)
9.4 幽玄--想像された美 P251-256
鴨長明がこんなことを言っている。想像力のある相手には、隠しておいてほのめかすほうが露骨に全てをみせるよりも効果的である
(略)
P252 この「幽玄体(前述)」は藤原定家(前述)の創始した作歌法である。だから定家の歌を例にとろう。次の歌は古来「三夕の歌」(秋の夕暮れを詠んだ三つの名歌)の一つとして名高いものである。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 『新古今集』
日本の古典世界では花(桜)と紅葉が美の代表である。だがこの歌は、そんなものは何もないと言う。荒涼たる浜辺の粗末な小屋に住んで、しかも秋の日は暮れようとしている。なんとも侘しい報告である。

この歌の特徴は見えないものを語るところにある。「花も紅葉もなかりけり」とわざわざない物の名をあげるのはなぜか。それは詠み手がないものを想像したことをつげているのである。

浜辺の貧しい小屋の中で、かつて都で見た華麗な花紅葉を想像するという作業は、白居易が雨の夜に田舎の草庵の中で、花の盛りの都での生活を想像したのに似ている(たぶん定家の歌は、白居易の詩と流罪にあった浜辺の歌人たちの歌をふまえている)。

想像された花は単に美しいだけではない。失われたものであるからこそ、深く心に染みるのである。

この美意識は『徒然草』の吉田兼好に受け継がれる。彼は「桜は満開のときに、満月は雲のない夜にだけ見るものではない」という挑発的な言葉を残した。それは桜は散ったあとに、月は雨で見えない夜に想像するのがいいのだと説く。

P253似たような見解は世阿弥の能楽論にもある。『風姿花伝』は「花」を能の理念として説いたことで知られる。花のような魅力・美しさこそ能楽師のめざすべきことだというのだ。ところが当時の観客は能の批評にしばしば「しおれたる(相互参照)」という言葉を使っていた。

花が盛りを過ぎて萎れてしまった状態だというのである。これは誉めているのかけなしているのか?この質問に対し、なんと世阿弥は「しおたれる」は「花」よりも上だと答えるのである。ただしそれは「花」が萎れたものでなければならないと付け加える。

萎れた花を見るとき、私たちは盛りの花を想像する。だがしなびた草を見ても、そこに花を想像することはない。世阿弥は美しい「花」を想像させるしかけとして、「しおれた」花を評価するのである。

多くの歌が目に見える光景だけを語るのに対し、定家の歌は表面(現実)と裏面(想像)の二重構造を持っている。このような手法が有効であるためには、読者の側の想像力が発動されなければならない。

もし読者が事前に花紅葉を見たことがなければ、またそれを想像することができなければ、この歌は成り立たない。同様に、能の名人の「しおれた」芸は、ただ貧相なものにしか見えないだろう。

のちに「見渡せば~」の歌は茶道の精神を表すものとしてしばしば取り上げられるようになる。そのきっかけは一七世紀末に成立した茶書『南方録』にある。これは千利休の教えを書き留めた

P254 の秘伝書という形式をとっているが、実態はさまざまな伝承を利休没後百年ほどしてとりまとめたものであるようだ。だから『南方録』で利休の言葉としているものが本当に利休のものかどうかは疑わしい。

けれども三百年近くの間にこれが利休の思想を伝える秘伝書と信じられ、茶人たちが大いに珍重してきた事実がある。だからここでは、江戸時代から最近までの茶道の精神を反映している資料として取り上げることにする。

『南方録』は武野紹鴎(利休の師)が侘び茶の心を表すものとして定家の「見渡せば」の歌を示したと伝え、これは「花紅葉」つまり美は心の中にあるという教えだと解釈する。注目すべきはこれに続く一文である。利休はこれに加えて、藤原家隆の次の歌を示したと伝える。
花のみを待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
春と言えば華やかな桜しか考えない人に、山里の雪の隙間からわずかにのぞく草が示している春をこそ見せてやりたいという。この光景が美しいのは、その小さな芽が来るべき春を、そしてやがて全山を覆う新緑の光景を予感させるからだ。

いったんは全てが死滅した世界に、再び生命が復活し、世界を覆い尽くす。だからこの光景に感動できるためには想像力が必要である。まだ目に見えない春について、おそらくは現実以上に美しい姿を思い描く力が。

定家の歌と家隆の歌は共に表に見える侘しい世界と裏に想像される華麗な世界という二重構造を持っている。

P255しかし違いはある。定家の歌の場合、表面には何もない。すべての美は想像力によって呼び出される。だが家隆の歌では眼前に「雪間の草」がある。それはまだ花ではないけれども、すでに春の予感を孕んだ新しい生命である。想像しうる全ての春のイメージが、目の前の草に凝縮されている。そう思って見るとき、雪の間からのぞくわずかな草は強烈な力をもって目をうつだろう。それはひょっとしたら、満開の桜よりも深い感動をもたらすかもしれない。

目に見えるものだけが美ではないこと、むしろ想像力によって心中に描かれたものの方がより美しいと考える伝統が、中世以来の日本にあった。

それは見える表と想像される裏という二重構造の発見でもあった。だが当初は、二重構造の裏側がまったく見えないことと、少しだけ見えることとの区別は明確ではなかった。しかし江戸時代にはこの区別が明確に意識されたことが、『南方録』における家隆の歌の追加からわかる。
(略)
9.5「くずす」と「外す」--不完全の美学 P256-260
「隠しつつ一部見せる」という方法をさらに一般化して言えば、美しいものを完全な形では見せない、

P257あるいは不完全な形で見せるということである。不完全な外観を完全よりもよしとする美意識の記述としては『徒然草』第八二段が有名である。
「羅(向こうが透けて見えるほど薄い布)の表紙はすぐに破れてしまうのが残念だ」と言う人に対し、頓阿が「羅の表紙は上下がほつれているほうが、螺鈿の軸は貝が落ちてからのほうがいい」と言ったので、よくわかっている人だと思った。

何冊かで一セットとなる草紙などの場合、全部が同じ形でないと見苦しいと言う人がいるが、弘融僧都が「全部同じに揃えようとするのは未熟な考えだ。揃っていないからこそよいのだ」と言ったのにも感心した。

何事も完全に仕上げるのはよくない。不完全な部分をそのままにしておくほうが面白い。内裏を造るときも必ず仕上げない部分を残すものだと聞いた。
ここには不完全であるための二つの方法が書かれている。一つは初めから完全にしないこと。もう一つは完全なものが不完全に変わるのをも待つこと。完全から不完全へ、あるいは目で見てわかる美から想像しなければわからない美への時間的変化はいくつかの形がある。

花が萎れる、金属が錆びる、草木が枯れる、そしてその結果色が変わる、形が崩れる、手触りが滑らかでなくなる。それらは人間の老化と同じで、自然の摂理と時間の経過がもたらすものである。

けれども、老人の姿に青年の面影を見ることができるように、萎れた花にかつての咲き誇っていた姿を想像すること

P258 ができる人なら、かえって味わい深いであろう。

この不完全をよしとする美意識がさらに進むと、完全なものを破壊するに至る。茶人にはこの手の逸話が多い。『南方録』には、利休が耳付きの花入れの片耳をわざと打ち欠いた話がある。古田織部も疵がない茶碗や茶入れなどをわざと割り。修理のあとがわかるようにして使ったという。近代でも根津嘉一郎が信楽の大壺を打ち割って床の花入れとした話がある。
(略)
完全なものを、あえて不完全にして見せるという操作は「くずす」と呼ばれる。
(略)
P259だから「くずす」には完全から不完全へという操作のほかに、雅から俗へという意味もある。

くずす」に似た言葉として「「外す」」というものもある。
(略)
「やつす」「隠す」「くずす」「外す」、ほかにも「隙をつくる」「ゆるみをつくる」「遊びをつくる」「力を抜く」など完璧を避けようとする言葉がある。これらを一貫する美意識はなんだろうか。格式が求められる儀礼の場では、定められた「雅」の作法を守らなければならない。それは当然のことだ。

P260 しかし必ずしもそれが要求されていない場所で、あえて「雅」の美醜や格調をまとってみせるのは恥ずかしいという意識である。それらを嬉々として見せびらかすのは「田舎者」であり「野暮」である。なぜなら、そのようなやり方は「自分をよく見せたい」という欲望と作為とが、他者の目に読まれてしまうからだ。

もちろん他者からの承認欲求は誰にもある。だから欲望そのものは否定すべきではない。ただ自分の実態以上によくみせかいけようとしたり、わざわざ人が気づくように工夫したりするとき、その作為が見苦しいとされてしまう。

逆に、必要とあれば完璧な美はいつでも実現できるけれども、あえてそれを隠したり、あるいは「力を抜いて」少しくずしたり、外したりして完全性(他人が称讃せざるをえない美)をさけるのが「いき」な態度なのである。

たとえば美麗な衣装をこれ見よがしに着る者は、どれほど美しくとも、他人の目には「露骨」とか「べた」と見えてしまう。見る者はうんざりして「くさい」などと言う。この「くさみ」をなくすには、他人をうんざりさせる作為成分を取り除かねばならない。くさい要素をすっかり洗い流した状態を「垢抜けた」という。

それはぎりぎりの美醜さを残しながら、「これ見よがし」の要素をすべて排除したものである。つまり「出ず入らず」である。すると「お、いきだね」と言われたりする。「いき」とは単なる美的評価ではなく倫理的価値でもあるというのは、こういう操作が評価の対象となっているからである。

9.6「いき」と「婀娜(参照)」--美女の基準 P261-266
P262
P264
つまり「媚態」を男の側から見た時の印象である。ただし「婀娜」と「媚態」とではニュアンスがいささか違う。「媚態」はわざと男を誘惑しようという意識的な行為である。だから肌を露出するとか、甘えてみせるとか、しなをつくるなどの露骨な戦術を思い浮かべる。

けれども「婀娜」は露骨ではない。甘えることはなく、官能的な外見もとらない。むしろ表面から誘惑的な要素を排除しながら、かえって男の目はそこになまめかしさを見出す。それは隠しつつ見せるという、あの「いき」と同じしかけである。

ただし注意しなければならないことがある。無造作に見えることと無造作であることは同じではない。年増の女性が適当に髪を結い、適当に安物を着ているだけではけっして「婀娜」にはならない。

髪型も着物も、そして立ち居振る舞いや言葉づかいも、上品でもなく下品でもない「出ず入らず」でなければならない。だから守貞は「婀娜」について別の所でこう言っている。
現代、江戸の女性の碑ではあっても野ではない者を「婀娜」といい、これの反対を「不意気」あるいは「野暮」、京大坂では「不粋」という。
「婀娜」の反対は「不意気」とか「野暮」だという。つまり「婀娜」とは「いき」の一種なのだ。では「碑ではあっても野ではない」とはどういうことか。「碑」とは身分の卑しいことだから、江戸においては町人階級、それも中流以下の庶民と考えてよい。

「野」とは野蛮と粗野とか、要するに文明以前の自然状態のことだから、社会人としての教育とか文化的洗練などをもたないことと言ってよい。つまり幕末の江戸では、表面は下層の庶民ながらその裏に人間的成熟や文化的洗練を感じさせる女性を「婀娜」と呼んだというのである。

また「碑」が「婀娜」の条件だとすれば、「婀娜」は町人専用の評価ということになる。身分が高貴で「野」でないものは、「雅」にはなれても「婀娜」にはなれないからだ。

こうして「当世の美女」の、そして「いきな女」の条件とは、完璧な美を追求していないこと(崩し)、庶民であること(俗・碑)、けれども成熟し洗練されていること(婀娜)などということになる。

表と裏の二重構造をもつ「いき」は、上流階級(公家や武士)のものではなく、ただ庶民だけが手に入れることの価値だったのである。なぜなら格式を重んずる身分に属する者には、表面的に卑俗に見えてはならないという規範がある。

つまり表が卑俗で裏が高雅という手法が使えない。そして表が高雅で裏が卑俗なら、これは「田舎者」とか「野暮」でしかない。だから「いき」の登場は画期的だったのだ。

古代から江戸時代まで、日本の文化的評価軸の基本は「雅俗」だった。それはエリートの文化としての「雅」と庶民の文化である「俗」を対比するものだった。その対比は綿々と千年以上続いてきたのである。だが、江戸時代になって、ついに本来「俗」である階級のための美学的生活規範が生まれた。

それが「いき」である。「いき」は公的には下層階級である町人たちの文化規範であった。

P266 そして「雅」の代わりに「いき」を、「俗」の代わりに「野暮」を置いたとき、「雅/俗」に代わる文化的価値基準として「いき/野暮」が江戸に登場したのである。

9.7 美の革命--「雅」から「いき」へ P266-271
「いき」という美意識の登場がっ革命的だった理由は三つある。第一に「俗」を肯定的に捉えていること。それどころか「俗」は「雅」を包み込むものとして、むしろ「雅」を存立させるベースとみなされている。

第二に表と裏、形式と実質などの二重構造をもつこと。しかも想像された裏側が表面の現実に勝るとされたとこと。第三に「いき」の成立には他人の目が必要であること。これは九鬼周造の言う「二元性」にあたる。以下これについてもう少し詳しく話そう。
(略)
P267第二に表は「俗」で裏は「雅」といった二重構造について。それは一面の霧の向こうに隠された紅葉(鴨長明)とか、雲に覆われた月(兼好)とか、浜辺の侘び住まいに対比される記憶の中の「花紅葉」(定家)とか、待ちかねた春を示唆する「雪間の草」(家隆)などの伝統を踏まえている。

人は隠れたものにこそ強い関心を向け、想像の中の光景は実際以上に美化される傾向がある。

P268 そこで美しいものを「隠す」という戦略が生まれる。長明のいう「幽玄」である。これは江戸時代になると、世間で評価の低いものをわざと表み見せ、裏側に価値あるものをほのめかすという手法となる。

「表は木綿で裏は絹」というやり方である。さらにこれは「やつす」「くずす」「外す」などの方法を生んだ。見る側にはただ目に見えるものの美醜を判断する美意識だけでなく、見えない裏を思いやる想像力が必要となった。

しかも、誰にも見える表よりも想像された裏にこそ本質があるとされた。この裏側の美を読み取ることは、長明が既に指摘したように、子供にはできないし、鈍感な者にもできない。優美や華麗は誰の目にもわかるけれども、「いき」は感性を磨いた人にしかわからないのである。

第三に他者への目の依存について。華美とか上品などは、物それ自体、人それ自体の特性である。けれどもそれ自体「いき」な物や人があるわけではない。ある物を身につけることが、ある人の振る舞いが、他者の目に「いき」と見えるだけである。

つまり他人の目の中でのみ、人は「いき」な男ないし女という評価を得ることができる。九鬼周造のいう「二元性」である。遊郭や花柳界に発した「いき」は、当初異性を惹きつける力への評価だった。

「いき」の語は、媚態が成功して異性の心を動かしたこと(「好いた」と言われること)を意味した。けれど露骨な誘惑は「意気張り」に欠けるから「いき」と呼ばれない。「媚態」を隠しつつ、なお誘惑の力を持つとき、はじめて「いき」と呼ばれたのである。

そこには露骨な「好色」を避けたいという羞恥心が働いている。そしてこれは「恥」を避けようとする日本の文化と結びつく。「いき」の意味は拡大し、美意識に適用される。

P269自分の美意識が高いとか他人を思いやる心があるなどの美徳を誇示していると見えるのは恥ずかしい。だから隠さねばならない。そして他者の眼が隠されたものに気がついて、裏にあったものを評価するのみならず、それを隠したこと自体を「いき」と評価してくれるのを待つのだ。

自分にできることは、「いき」になることではない。「誰かが『いき』を見いだしてくれそうな二重構造をもった振る舞い」をすることである。

これらを集約した事例としての守貞の「当世の美女」を見よう。洗い髪は髷が無造作で顔に化粧気のないことを示している。格子縞の着物に黒の半衿は庶民のふだん着であることを示している。

ただ衿の内側に襦袢の模様が少し見える。ここに艶っぽさが隠されていることがわかる。問題は縞模様である。九鬼周造は縞を「いき」であるとしたけれども、すべての縞が「いき」なわけではない。縞の幅と色合いによって、その印象がまったく違うからだ。

淡い色で縞目が細かいものは地味だが上品にできる。強い色や太い縞だと丹前縞のように派手だが下品になりやすい。その中間に地味でも派手でもなく、上品でも下品でもないもの、つまり「出ず入らず」がある。

「当世の美女」の縞は、黒白の素描なので色がわからないが、おそらく絶妙な「出ず入らず」なのであろう。その気になれば派手にも上品にもできるのに、あえて抑制しているのがわかる。それが「「いきなあねさん」」というものだった。

「雅」をあらわす日本語の「みやび」は当初漢字で「風流」と表記された。そして長く「風流」は日本の生活美学における中心的な言葉として採用された。「風流」の意味は中国でも多様だが、

P270 日本ではまず社交上の美学として登場した。とりわけ男女の関係において、優雅に振る舞うことである。たとえば遊宴の場で歌を詠み、恋愛の演技をするなど。やがて貴族社会において生活のあらゆる場面で優雅であることを期待されると、恋愛だけでなく、花見などのイベントでも古典を引用し、機知を競い、後世に残る風雅な逸話を作ることを目指した。

また「風流」の意味が日本で変質して豪奢であることを意味するようになると、中世には「婆娑羅」が「風流」の一形態とされた。さらに中国が「風流」に仙人や隠者にみられる自然愛好という意味をこめたことから、日本でも茶の湯などで隠者的風流が流行した。

江戸時代にはこの二つの意味、すなわち遊びとしての男女の社交を優雅にこなせる風流と、好色を排し自然に遊ぶ風流が並立する。前者は浮世の風流であり、後者は隠者の風流である。

浮世の生活の美学は遊びとしての疑似恋愛だけでなく、日常の髪型、着物、持ち物を含め、あらゆる方面で洗練を求めた。そして社交面で「通」であることと、生活の細部で美麗であることの追求が極点に達したとき、江戸の町人の間でこれを隠すという逆転がおこる。

「いき」の美学の誕生である。これが起こったのは、欲望の露出を「恥」とする「張り」の文化伝統と、「雅」の真似はできても本質的に「雅」であることを許されない町人という身分制度のためである(たとえば奢侈禁止によって町人は高価な衣装を身につけることができなかった)。

江戸の町人は、日本で千年以上にわたって生活美学の原理であった「雅・俗」に代えて、「いき・野暮」という新しい原理を提案したのである。

古代の「雅」がもっぱら上流階級のものであったように、「いき」は都市生活者のものであった。

P271「田舎者」という言葉はほとんど「野暮」と同義だった。言い換えれば、古代における下層民も江戸時代の田舎者も無教養の野生人とみなされており、貴族や都市住民こそが美学的な生活の訓練を受けた文明人であるとみなされたのである。

もちろん実際には地方にも風流娘子はおり、江戸にも野暮な者はいる。けれども「野暮と化け物は箱根から先」という言葉は江戸っ子の誇りをよく示しているだろう。それは京都の伝統とは異なる価値規範を自ら打ち立てたという宣言であったのだから。

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・わび・さび・幽玄:伝統的な日本の美意識はいかにして形成されたのか? | nippon.com(参照