2017年12月4日月曜日

メモ2017.12.04 『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料- チャールズ・マックファーレン著 渡辺惣樹訳

更新2018.04.05  読者へ 追加参照
更新2018.04.05 【第十章 娯楽、嗜好、民族性】追加参照
更新2017.12.24 【第五章 政体】一部追加 参照
更新2017.12.09 【第十一章 言語、文学、科学、音楽、絵画】追加 参照

※訳者まえがきより、

『日本1852』は、アメリカ世紀のプロジェクトとも言える日本開国計画に強い関心を寄せるアメリカ国民に向けて書かれた。(中略)ペリーは日本開国交渉の本質が、米国に莫大な富をもたらす支那市場への太平洋蒸気船航路(太平洋シーレーン)を安全なものにすることであることは十分に理解していた。

ペリー提督の娘キャロラインは美貌で知られ、ニューヨークの富豪オーガスト・ベルモントに嫁していた。ベルモントイギリス・ロスチャイルド家のエージェントであった。ロスチャイルド家にはベルモントの他にもう一人のエージェントがいた。それが法律家アーロン・パーマーだった。このパーマーこそが「日本開国計画」を立案し、時の政権に建言した人物だった。(中略)

ペリー提督は計画の狙いやその重要性は理解していたものの、交渉相手となる日本についての知識は乏しかった。そんな彼にとって東回りの長旅は幸運だった。何冊もの日本を理解するための書を読みこんだ。その中の一つが本書『日本1852』だった。

P173 ケンペル(wiki)はこうした日本の言葉や民族の特徴などから、耳を傾けるべき貴重で信憑性のありそうな推論を述べている。

日本人という民族は起源をメソポタミア周辺に持ち、そこからゆっくりとカスピ海沿岸に移動した。エニセイ川(モンゴルから北極海に注ぐロシア連邦にある川)やセレンガ川(モンゴルからバイカル湖に注ぐ)などが形成した渓谷を

P174 抜けアーグイーン湖(Lake of Argueen:現在どの湖を指しているか不明)のあたりまでやって来るのだが、厳しい寒さでこの地に定住できなかった。そこから流れ出る同名の川の渓谷に沿って移動するとアムール川(Amur river 原文ではAmoor riverと表記。中ロ国境を流れ、オホーツク海に注ぐ)となる。この川は東北東に流れている。

この渓谷に沿って移動するとアジア大陸の沿岸部に到達する。東の海に注ぐアムール川をあとにして、さらに朝鮮半島に移動する。当時この半島には人が住んでいなかっただろう。ここまで来ると日本まではそう遠くない。また危険でもない。日本列島へはほとんど一定の間隔で並ぶ島を伝っていけばよい。夏に移動すれば危険度はより低下する。ちょっとした漁をするような小舟を操れば海峡を渡れただろう。

ここまでの移動の間に大きな湖や川を渡ってきただろうし、しばらく過ごしただろう期間には魚を捕って暮らした時期もあったろうから、操船の技術は持っていただろう。朝鮮半島で暮らした時期もあっただろうから、その間に漁師として航海のノウハウを身につけてたと考えられる。

この大移動は一年とか五十年、あるいは百年といった短い期間で達成されたのではない。移動の途中で暮らしやすいところに留まって生活し、周囲の遊牧の民に圧迫されるようになると新たな牧草地を求めて移動した。新鮮な水と牧草があればそこに落ち着いた。

こんな生活を続ける民族をアジアでは今でも見ることができる。近いとこ

P175 ろではトルコにそれを見ることができる。この地方の遊牧民は暮らしを営んでいる地方のパシャ(Pashalik。部族の長であるパシャ(Pasha)の支配する地域)に圧迫され始めると他のパシャが支配する地域に移動する。そこで圧迫が始まれば同じことを繰り返す。誰の支配もところまで移動は続く。

このようなケンペルの推論は、日本語が他の言語から独立していて混合がないことからきている。移動の過程で一か所に長期定住したり、周辺にいた部族と交わることはなかったに違いない。長期の定住があれば、そうした土地の言葉が日本語の中に相当取り込まれたはずなのだ。

日本島に辿り着くと、西部の海岸からさらに南に移動した。土地は肥え、温暖で健康にすこぶるよい気候。ここでは安全で落ち着いた、そして快適な住環境があった。今では日本人は、先祖はもともとこの国いたのだと主張する。そういうわけで、日本では祖先の聖地を巡る旅が盛んで、祖先を崇拝する行為も豊富にある。

日本人が実際にどう移動してきたか、あるいはそれはいつごろだったのかは、はっきりしないものの、遠い昔にアメリカ大陸に日本人がやって来たことは、ほぼ間違いないだろう。

チャールズピッカリング(アメリカの自然学者、医師。1805-78年)は次のように述べている。

P176 「ポリネシア族は、南アメリカとは広大な海で分離している。この海は波が荒く、南アメリカの方向には常に逆風が吹き、海流も同様に逆に流れているので、西から大陸へ接近することは難しい。カヌーを使ってアメリカに向かうとなると、どうしてもカリフォルニアの北端を目指すことになる。この辺りが民族移動の競争が始まったところだ。メキシコでは、サンフランシスコはマニラ-メキシコを結ぶ航海ルート上にあると昔から言われてきた。

日本からアメリカ大陸に接近するにはカリフォルニアは有利な場所である。現在は日本の鎖国政策のため、日本からの船は海難事故による漂流によってしかこの沿岸に現れることはない。それでも近年、北の海で捕鯨船に救われたケースや、サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)で遭難したケース、漂流してコロンビア川河口の沿岸に漂着したケースなどがある」

参考資料 東アジアのY染色体ハプログループ移動図 (異なる年代の移動を同一の図に表している点に注意)(出典



読者へ2018.04.05追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示


第五章 政体(途中から)2017.12.24追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示


第十章 娯楽、嗜好、民族性2018.04.05追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示

優美な女性 P306-307
確かにこの国には魅惑的な生活の作法が存在する。友人(序説「読者へ(参照)」にあるジェームズ・ドラモンド卿を指す)は日本の女性を手放しで称賛している。
「日本の女性はもうなんとも言えない自然な優美さを持っている。私の見る限り、世界で最も魅力でエレガントな女性たちだ。少しばかり風変りなところを矯正すれば、英国の宮廷だろうがヨーロッパの宮廷だろうが、一度連れ出すだけで彼女たちは憧れの的になるだろう。日本女性のちょっとした風変わりなところも、しばらく一緒に暮らせばすぐ慣れてしまう程度のものだ」
私は彼の言葉を信用している。彼は世界各国を旅し、実際にそうした国々に住んだ経験があるのだ。こうした話を聞いたことが私が日本への興味を抱いたきっかけだったということはもうもうおわかりだろう。

男を磨くのは女だとはよく言ったものだ。女性は品がよく、優雅で、洗練されていれば、男性が下品で、粗野で不恰好ということはない。もちろんこの逆も真なりである。少なくとも私たちが旅した国ではそうだった。日本の男性も態度が立派でマナーが洗練されている。それは身分の高い者だけの特徴ではない。一般人にも、喧嘩早かったり大法螺を吹いたり、不快になるほどだらしない者はまずいない。路肩でその日暮らしで働いている者でさえ、会話はまともで礼儀をわきまえている

日本人を観察する者は、この社会の「礼(politeness)」の存在にはっきりと気づくのだ。よほどの権力者の場合は別にして、日本人が横柄で不躾な受け答えをすることはまずない。彼らは攻撃的で口汚い人を軽蔑する。そうした人々のもとで働くことさえ拒否するのだ。ツンベルグはこうした日本人の性格と祭りの関係について述べている。

   (略)

妻の貞節 P320-323
P320 さて繰り返しになるが、日本の女性についてもう一度述べておきたい。女性のありようを見ればその国の文明の程度が一目瞭然である。先述のとおり、日本の女性に対する扱いアジアで最高のレベルにある。女性は隔離された社会に閉じ込められてはいない。フェアな社会的地位を持ち、父や夫と同じように遊びに興じている。妻の貞節、娘たちの純潔は本人の誇りと自覚に基づいて保たれている。もちろんそうした行動は、不貞の責任は命をもって贖わなくてはならない決まりで補強されてはいよう。

それでも不貞な妻というのは日本では聞いたことがない。身分の高低にかかわらず、子供はすべて学校に行かされる。学校の数は世界のどの国よりも多いのではないかと言われている。だからこそ、どんな貧乏な者でも少なくとも字は読める。P321まさに世界に誇れる特質だ。女性の心は男たちの心と同じように豊かである。だからこそ、この国には優れた女性の詩人や歴史家や小説家がたくさん生まれているのだろう。

高位の者や金のある男たちは、妻たちの見せる貞節とは全く逆の行動を見せる。むしろこうした男の性癖は身分を問わず一般的な傾向といってもよい。日本の男はこのたわいない悪徳(pleasant vices)のせいで火傷をするのはわかっていても、やっぱり遊んでしまうのだ。日本を訪れた西洋人はこの様子を、日本の国民的悪徳(the great national vice of Japanese)だと呆れている。こういう中で、日本の女性が厳しく純潔を守ることは議論の余地がない。

このことは日本人自身だけでなく、この国を訪れた多くの西洋人によって証言されている。既婚の女性たちは男性からいつも敬意を払われている。日本の女性はたいへんに名誉を重んじる。彼女たちに恥をかかせた男が殺された例にも事欠かない。
「それなりの地位にある男が旅に出た。その留守に高位の男がその妻に言い寄った。妻はその男を詰り、きっぱりと断ったのだが力ずくで犯されてしまった。夫が旅から帰ると、妻は愛情いっぱいで迎えた。しかし彼女の中には、異常なまでに落ち着きはらった空気が感じられた。P322夫はそのわけを聞き出そうとしたができなかった。明日まで待ってくれという。明日、親戚や町の主だった人々を家に呼ぶので、その時に話すと言うのだ」

「翌日、大勢の客が集まってきた。その中に例の男もいた。宴は屋上にあるテラスで何事もなく進んだ。食事が終わると、客の前で夫の留守中の出来事を話し始めた。そして夫に不貞の妻を殺すように迫ったのだ。夫も客も彼女を落ち着かせようと懸命に試みた。この妻が責められるべきは何一つないのだ。責められるべきはその悪い男だ。

妻はみなの慰めに感謝し、夫の肩で泣いた。しかし突然抱きしめる夫の手を払い、欄干から身を乗り出して飛び降りてしまった。客の中にいた例の男が突然、階段を下りて行った。あとを追った者たちが見たのは、死んだ女の横で血に染まった男だった。腹を十字に切って果てたのだ。身を投げた女は、不貞を強要した男の名を明かさないままだったから、誰一人彼を疑ってはいなかったにもかかわらず」
こういう事件が多くの演劇や小説のモチーフになっている。もう一人強い意志を示した女性の話が伝わっている(以下に紹介される話は、1651年に起きた慶安事件をモチーフとした『慶安太平記』に基づいている)。
「忠弥(Tchouya)という男が反乱を企てていることが発覚し、仲間の正雪(Ziositz)と併せて逮捕が命じられた。二人同時に取り押さえたかったが、まずは江戸に居る忠弥を捕まえ計画の中身を白状させることにした。奇策をもって捕まえるのがよろしかろうと、『火事だ!』と叫びながら忠弥の屋敷の門を叩いた。

飛び出してきた忠弥を取り囲んだが、忠弥に二人が倒されてしまう。それでも数に勝る捕り手により忠弥は捕縛される。この騒ぎに気づいた忠弥の妻はすばやく機転を利かし、夫の書付を燃やしてしまった。そこには仲間や支援者の名前が書き込まれていたのだ。忠弥の妻が見せた強い意志と正しい判断力は今でも語り継がれている」
日本では親子間の関係も素晴らしい。子供が親に示す愛情、敬意、恭順は限りなく強く、同じように親たちも子供たちを強く信頼している。家庭内で揉め事があると、親は長男に調整を任せる。彼が全体の合意を取りまとめるのだ。息子が一定の年齢に達すると家産を早々に譲り、息子に扶養される道を選ぶ親も多い。こうした子供への厚い信頼が裏切られることはまずない。


第十一章 言語、文学、科学、音楽、絵画2017.12.09追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示


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