2017年12月4日月曜日

メモ2017.12.04 『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料- チャールズ・マックファーレン著 渡辺惣樹訳

更新2022.06.12 林千勝「日本開国計画解説(tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw)」(youtube相互参照
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 1)1845年、プラットの決議案提出
 2)オーガスト・ベルモントとペリー提督の娘との偶然?の出会い
 3)情報はオランダから
 4)アーロン・パーマーの(日本開国に関する)クレイトン国務著官への手紙
 5)アーロン・パーマーについて
 6)アーロン・パーマーの長期構想(実現させたこと)

更新2018.04.05  読者へ 追加参照
更新2018.04.05 【第十章 娯楽、嗜好、民族性】追加参照
更新2017.12.24 【第五章 政体】一部追加 参照
更新2017.12.09 【第十一章 言語、文学、科学、音楽、絵画】追加 参照

※訳者まえがきより、

『日本1852』は、アメリカ世紀のプロジェクトとも言える日本開国計画に強い関心を寄せるアメリカ国民に向けて書かれた。(中略)ペリーは日本開国交渉の本質が、米国に莫大な富をもたらす支那市場への太平洋蒸気船航路(太平洋シーレーン)を安全なものにすることであることは十分に理解していた。

ペリー提督の娘キャロラインは美貌で知られ、ニューヨークの富豪オーガスト・ベルモント(相互参照)に嫁していた。ベルモントイギリス・ロスチャイルド家のエージェントであった。ロスチャイルド家にはベルモントの他にもう一人のエージェントがいた。それが法律家アーロン・パーマーだった。このパーマーこそが「日本開国計画」を立案し、時の政権に建言した人物だった。(中略)

ペリー提督は計画の狙いやその重要性は理解していたものの、交渉相手となる日本についての知識は乏しかった。そんな彼にとって東回りの長旅は幸運だった。何冊もの日本を理解するための書を読みこんだ。その中の一つが本書『日本1852』だった。

読者へ2018.04.05追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示


第一章 西洋との接触P21-144
1.1 ポルトガル人来航 P21-23
(P20)

1.2 フランシスコ・ザビエル P23-26
(P22-)

1.3 ポルトガル貿易の繁栄と布教 P26-29
(P26-)

1.4 イギリス人航海士ウィリアム・アダムス P30-36
(P30-)

P30 イギリスは布教については全く関与していないのだが、オランダ人が初めてこの国にやって来ることができたのは、(彼らに雇われていた)イギリス人航海士アダムス(日本名、三浦按針)の技能と科学知識のおかげであった。エリザベス朝期の半ばに生まれたこの男の興味深い逸話は数多く残されている。残された手紙を引用しよう。(略)

P31 船団がテセル島(現在のオランダ北ホラント州にある島)を出帆したのは一五九八年六月二十四日、エリザベス一世治世の晩年の頃である。当時は何事もなくうまくいく航海などほとんどなかった。(トルデシリャス条約による)教皇子午線を越える前には既に病気(壊血病)が蔓延し、アフリカのギニア沿岸に碇を下ろさざるを得なくなった。指揮官はここにたどり着く前に亡くなっていて、さらにここでも相当数が死んでいる。その後も苦難の連続だったが、一五九九年四月初め、ようやくマゼラン海峡まで達した。
「南米のこの地は、既に冬となっていて雪も激しく、寒さと飢えで仲間の多くが衰弱していった」
当時、この海峡を抜けるヨーロッパの船はほとんどなく、海図もなく、アダムスはたとえ倍の時間がかかろうともケープ岬沖を抜けたかったようだ。
(略、航海の様子)
P36 一六〇〇年二月二十四日(略)オランダの港を出た五隻の艦隊のうち、残ったのはアダムスの船だけであった。しかしアダムスはあきらめなかった。

1.5 カソリックの敵意 P36-39
(P36)

「嵐に悩まされながら全力で、日本に向けて帆を張った。三月二十四日、ウナコロナ島と名づけられた小さな島が見えた。この頃既に多くの乗組員が病気になり死者も出ていた。なんとか這いずって動けるものが九人か、十人いるだけだった。(略)四月十一日のことだった。この頃になると動ける者はわずか五人もいないありさまだった。ここは目指していた豊後だった。(略)」
後日、日本人は実直な民族だと知るのだが、この時点では彼らは決して正直とは言えなかった。
P37「日本人は、危害を加えることはなかったが、持てる限りの積荷を持っていってしまった。ただ、のちに代金を支払ってくれる者もいた。(略)五、六日した頃、数人のポルトガル人がやって来た。そのうち一人はイエズス会士だった。キリスト教徒になった日本人も何人か混じっていた。長崎という町から出向いてきたのだ。彼らは、我々が海賊で、商売のためにこの国にやって来たのではないと主張していた。プロテスタントの我々を敵視していたのだ。
確かにこの頃、太平洋のこの周辺に現れる船は、スペインやポルトガルからの船でなければ、みな海賊船あるいは私掠船と見なされていた。ローマ教皇の裁定で、次々に発見される新世界はスペインとポルトガルで分け合うことが約束されていて、イギリスやフランスなど他の国には手が出せなかった。(略)しかし、宗教改革を成し遂げた国々はこの馬鹿げた主張を受け入れはしなかった。

1.6 大阪の皇帝 P39-43
(P38-)

P39 ポルトガル人たちは、この国に築いた独占貿易の既得権は絶対に渡さないと懸命だった。信仰の異なる者に対する激しい憎悪。だからオランダ人もイギリス人も毛嫌いされていた。我々イギリス人は不可侵のテリトリーに迷い込んだ異教徒の群れだった。アダムスたちが磔にされたら、どれほど彼らを満足させたことか。日本人のキリスト教徒にとっても、我々は警戒すべき異教徒で、神を冒瀆する堕落者と思われていた

ところが我々にとって幸運だったのは、我々の件が大坂にいる皇帝(emperorと記述されているが、徳川家康のこと)に報告されると、大坂に連れて来るようにととの命令が下ったのだ。二人が大坂に向かうことになった。そのうちの一人がアダムスだった。(略)

P40 アダムスが政治や経済やらの小難しいことには馴染みのない、ただの航海士であったことが幸いしたのだろう。自分たちの置かれている立場をうまく説明している。「皇帝は次に、我々の国では戦争があるかと聞いてきた。ポルトガルとスペインとはいつも戦っていますが、それ以外の国とは仲よくやっています、と答えた。続けP41て何を信仰しているか、との質問が続いたが、天地を創造した神にいつも祈っていると話した。

皇帝は矢継ぎ早にいろいろな質問をぶつけてきた。この国に辿り着いた経路も詳しく聞いてきたきたので、持っていた地図を見せながら、マゼラン海峡を抜けてやって来たことを丁寧に説明した。皇帝はこの説明に納得せず、私が嘘をついていると感じたらしい。

その後も質問は夜が更けるまで続いた。船にはどんな商品を積んでいるのか、とも尋ねられたので持参したサンプルを見せた。皇帝が尋問を終え部屋を出ようとするとき、我々もポルトガル人のように、この国と貿易が可能かと問いかけた。皇帝の答えは聞き取ることができなかった。(略)
アダムスの対応はナイーブで、船乗りらしい率直さが微笑ましい。対照的なのは皇帝の驚くべき好奇心だ。アダムスも彼の質問には素早く、そして隠しだてなく答えている。P42英国が誇る海の外交は、昔からこうした素晴らしいものだった。
「結局、三十九日間牢に入っていたことになる。リーフデ号(エラスムス号)はどうなったのか、船長はどうなったのか。状況は一切知らされなかった。この間にも、イエズス会やポルトガル人たちは、私たちは海賊で皇帝に厄災をもたらし、全ての国の敵である、と言い張っていた。もし我々が処罰されなければ、この国にやって来て交易する者がいなくなるだろうとまで言うのだ。何とか処刑させようと必死だった」
ポルトガル人は後から来たものには情け容赦なかった。もちろんオランダ人も立場が逆転したときには同じようなものだった。必要に応じてキリストの信仰を否定することも厭わなかった。
「皇帝は、日本に何の害を与えていない者を処刑することは正義に反する、ポルトガルとオランダが戦争しているからといって、このオランダ人たちを殺すわけにはいかない、と言ってくれた。ポルトガル人はひどく不満げだった」(略)

「船にあったものは何もかも持ち去られていた。特に、航海に必要な観測器具を喜んで持っていったらしい。ところが、皇帝は持ち去られたものを元に戻すよう命令してくれた。その上(略)に相当するお金を食料や必需品を買うために支給してくれたのだった。

しばらくして将軍の住む関東(Quanto)という島に向かうことを命じられた。江戸(Jeddo)という町に近いらしい。我々は船で移動したいと懇願したのだが、皇帝は許可しなかった。乗組員たちは船長に反抗し始めていて、日本人から支給された全てをよこせと要求していたから、もし皇帝が船での移動を許可していたら、船長も私も殺されていたかもしれない」
1.7 西洋式帆船の建造 P44-45
1.8 故郷への手紙 P45-47
(P44)

P45 アダムスが実際に携わったのは製図だけで、あとは日本人の船大工やら鍛冶屋が活躍してくれた。みんな船の構造をよく理解していたらしく、アダムスは指揮をするだけで十分だった。この仕事が終わると、皇帝はアダムスをさらに重用した。何にでも興味を示す皇帝のよきアドバイザーといった立場だった。(略)

P46 アダムスの日本での驚くような体験は、彼自身が妻や友人に宛てた手紙で知ることができる。妻への手紙は不完全で日付がなく、友人への手紙は一六一一年十月二十二日付となっている。こうした手紙でアダムスがヨーロッパを出発したのが一五九八年六月だったことがわかるのだ。(略)

1.9 オランダ貿易 P47-52
(P46-)

P48 一六〇九年、大型のスペイン帆船セントフランシスコ号が夜半この沿岸で座礁した。百六十人が溺れてしまったが、三百四十人以上が救助された。このニュースペイン(メキシコ)に向かう船にはマニラ総督に匹敵する重要人物(スペイン領フィリピン、マニラ臨時総督ドン・ロドリゴのこと)がいた。助けられた乗組員はみな親切な扱いを受け、彼らをアカプルコに帰すのにアダムスの百二十トンの船が使われた。アダムスは帰国するチャンスだったが、この船に乗り込むことは許されなかった。

一六一○年にアカプルコに向かったこの船は無事戻ることができた。その翌年には救助のお礼の品々を満載した船がニュースペインからやって来た。その船には、両国の継続的な交流を求める特使も乗っていた。この事件についてアダムスは一六一一年に書いた手紙の中で触れている。この頃には彼の建造した百二十トンの船はフィリピンで使われていたことがわかっている。この事件の頃にはアダムスは地方領主のような扱いを受けていた。(略)
「私の仕事に対する将軍の評価は高く、家来が八十人から九十人も持てる身分に取り立ててくれた。(略)P49確かに多くの苦難はあったが、神の御加護があったのだ。帰国できるかどうか私にはわからない。ただオランダとの交易が始まれば、その願いが叶う可能性はあった。一六〇九年、二隻のオランダ船が日本にやって来た。この二隻の主な任務は、ここにマニラから年二回やって来るポルトガルのカラック船を海上で捕獲することだった。(略)彼らが皇帝の住む駿府にやって来ると大歓迎された。年に二、三度の交易船を日本に送ることに合意すると、彼らは皇帝の発行した朱印状を携えて去っていった」
この使節の交渉にあたったのはもっぱらアダムスだった。オランダはアダムスに大きな借りを作ったといえそうだ。(略)アダムスはこうしたオランダ人との交流で、本国のイギリスが東インド諸島で活発P50な交易活動に入っていることを知ることになった。特にマラバル沿岸(インド南西部)で商館の設置を計画しているらしい。(略)
「どんな方法でもいいから家族と連絡を取りたいと願い、手紙を書いた。誰の手を経てもいい。何とか家族にこの手紙が届くように神に祈った。生きている間に何としても会いたい」
アダムスの願いは叶わなかった。皇帝に最後まで仕え、ここに引用した手紙が家族に届くのを願いながら平戸の港でその生涯を終えている。彼が亡くなったのは一六一九か一六二○年のことだ(一六二○年、平戸にて没)。この頃にはオランダの日本P51との交易は活発になっていた。アダムスの貢献に対するオランダ人の感謝の気持ちは当然あるべきであろうと思うのだが、彼らがアダムスの墓を建てたとか記念碑を建立したという話は聞かない。イギリスに残った家族のことを調べたという話も聞かない。多分どちらもオランダ人はしていないだろう。(略)

アダムスが手紙で伝えるこの島のことはあまり多くないのだが、ほとんどが好意的な記述になっている。
「この国は素晴らしい国である。(略、地理の記述)P52日本人は礼儀正しく好感が持てるのだが、戦になると勇敢である。仁義が重んじられ、それに違反する者は厳しく処分されている。礼節によって統治されているといってもいいくらいだ。この国よりも礼節が重視されている国は他になかろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えを持つことには寛容である。イエズス会とフランシスコ会の僧侶がいて、多くの日本人の改宗に成功し、教会も各地にできている」
1.10 カソリック宣教師の傲慢 P52-57
(P52-)

P52 最初のオランダ商館は、アダムスが生涯を終えることになった平戸に開設されている。商館はこぢんまりとしたものだったが、ポルトガル人は必死になって設置を阻もうとしたり、破壊させようと画策した。しかし結局その企ては失敗に終わっている。

オランダ人とポルトガル人の対立と憎しみは暴力に満ち、決して和解できるような性質のものではなかった。その憎しみは突発的な感情といったものではなく、心の奥底までに根を張った。果てることのない性質のものであった。ポルトガル人がオランダ人を「いやしむべきルター派、分離主義者、呪うべき異教徒」と罵れば、オランダ人は「奴らは一片の木っ端や骨でできた偶像をありがたがるカソリック。偶像を崇める馬鹿な嘘つき集団だ」とやり返す。(略)

P53 ポルトガル人は、日本で起きたキリスト教徒への迫害はオランダ人のせいだと主張するが、それは正しくない。キリスト教への締めつけはアダムスが日本に来る前からのことで、オランダの存在が日本に知られる前にそれは始まっていたのだ。布教への規則も、もとはといえば、東アジアで活動する複数の修道会が、互いに憎しみあい、いがみあっていたことが原因だった。

布教の活動を、最初にこの国にやって来て大きな成功を収めた先駆者に任せておけば、少なくとも迫害を引き起すようなやり方にはならなかったろうし、より多くの日本人がカソリックに改宗したことは間違いないだろう。

抜けめなく慎重にことを進めてきたイエズス会だったが、他派の修道会がこの国に押し寄せてきた。フランシスコ修道会、ドミニコ修道会、アウグスチノ修道会。ゴア、マラッカ、マカオをはじめとした各地のポルトガル植民地からたくさんの宣教師がやってきた。彼らはこの国の為政者とうまくやっていこうなどと考えず、身内だけの勝手な法体系をつくって運用した。

フランシスコ会はドミニコ会と対立した。また、こうした会派の布教のやり方にはロヨラが見せた抑制的な態度が全くなかった。それぞれの会派が、日本人を扇動して他派を攻撃させることもした。真摯にキリストの教えを信じるようになった日本人は、こうした内輪揉めを何とかしようとするのだった。

P54 日本人には性的に自制心がないという性癖があった。地方領主や有力者はたくさんの妾を持っていた。彼らには、この悪徳を矯正しようとした宣教師たちへの反感があった。教会の教えといえども、彼らのやり方を否定してはいけないのだ。この性に対する考え方の違いが、この国での布教活動を難しいものにしたという考え方があるようだ。

一説には領主の一人がキリスト教に改宗した婦人に恋したらしいが、婚姻外の色恋沙汰に厳格なキリストの教えを聞いて、ひどく憤ったらしい。皇帝は牧師や宣教師がこの国に来ることを禁じてしまった。ポルトガル船の船長も商人もキリスト教関係者を連れてくることが一切できなくなったのだ。にもかかわらず密航は続いた。特にフランシスコ会は積極的だった。彼らにはスペインの後押しがあった。スペイン領フィリピンを根拠に、マカオにも進出しおおっぴらに宣教活動を続け、教会を設置していた。清皇帝の命令を無視した活動だった。

布教活動には慎重な態度で臨むべきだというイエズス会のアドバイスは、哀願と言ってもいいくらいに切実な願いだったのだが、フランシスコ会は一顧だにしなかった。殉教の精神を重視し、積極的な布教活動を性急に進めていったのだ。イエズス会は、フランシスコ会のやり方はキリスト教の布教に支障をきたすと危惧していた。イエズス会の憂慮が現実のものとなったのは、一五九七年のことだった。アダムスの来航の三年前だった。

P55 こうした強引な布教活動とこの国のやり方との対立。オランダ人がのちに書き残しているように、二つの文化の確執は、自尊心、物欲、宗教的規範に対する感受性の相違でいっそう悪化している。日本人キリスト教徒も、宣教師たちの布教への意気込みに感心しながらも、彼らが見せる金銭や土地への執着には呆れている。

宣教師はあまりの自尊心のためか、この国では最上位にいる武士たちにさえ横柄な態度を見せた。この頃の布教の成功に、こうした傲慢な態度がむしろ役立っていると考える者までいた。幹部の中には歩くことさえせず、かつての十二使徒のような振る舞いを見せる者まで出てきた。あたかもローマ教皇のように、あるいは枢機卿のように、贅沢な椅子に座り、それを担がせて移動するのだ。この国の支配者と同等だと考えるならいざ知らず、彼らより上位にいると見当違いする者も現れた。

一五九六年に起きた事件がある。(略)彼らの存在がこの国にとって害悪となると思われた始めたのは当然だった。威張り散らす高慢ちきな態度がポルトガル人たちへの憎しみにつながり、P56結局そのことで命を失うものが出てきたのだった。鼻持ちならない虚栄心と強すぎる自尊心、それに加えての無礼な振る舞い。皇帝がそれに気づくのは素早かった。宣教師の中には、金や女にうつつを抜かすものも確かにいただろうが、それは一部の者に限られていた。

このような悪行は、見知らぬ土地で厳しい布教活動に置かれていることが原因というよりも、むしろこうした教団が長きにわたって富を蓄えていたことに起因すると見たほうがよさそうだ。日本での宣教師の蛮行は、彼らを憎むオランダ人によって大袈裟に語られたようだ。彼らは宣教師への迫害を望んでいたし、その悲劇にそれなりの理由があると納得していたとしても不思議ではない。

一五九七年には激しい迫害があった。二十六人のキリスト教徒が磔刑となったのだ(秀吉による「二十六聖人殉教事件)。処刑された中には一人か二人のイエズス会士、数人のフランシスコ会士がいたが、多くは日本人教徒だった。宣教師たちはあまりに過激にこの国の伝統的な偶像崇拝の風習を攻撃した。この宗教を信じた日本人たちも、熱狂的にこの教えを広めようとした。キリストの教えを信じなければ永遠に地獄で苦しむと脅かすだけではなく、仏教の僧侶を侮辱し、仏像を壊し、寺を破壊することまでした。

これがキリスト教徒への迫害に火をつけたといってもよいだろう。皇帝や諸侯が、こうした振る舞いに、彼らがこの国に革命を起こそうとしているのではないかP57と疑ったのも当然だった。キリスト教徒への迫害は一六一二年にも起こっている。アダムスが平戸にいた頃で、オランダとの交易が始まるか始まらないかの時代だ。迫害は一六一四年にもあった。(略)しかしかなりの数の宣教師が地下に潜行し、秘かに布教の活動を続けたのもまた事実である。

建立された十字架はなぎ倒され踏みにじられた。教会は破壊され、付属の神学校(セミナリオと呼ばれた)は閉鎖された。キリスト教徒は、日本の伝統と政治のあり方を否定する破壊分子だとされたのだった。

1.11 ポルトガルの衰退 P57-60
(P56-)

P56 そうは言っても、ポルトガルの商人までが迫害を受けることはほとんどなかった。彼らはたくさんの外国の品々をこの国にもたらしていたし、この当時はオランダとの交易は微々たるもので、ポルトガルとの貿易に取って代われるものではなかった。それでも、ポルトガルの船に潜んで密入国する宣教師を何とかしなくてはならなかった。これに対処するため長崎港にある出島にポルトガル人の出入りを限定させた。

他の港を利用することを一切禁じたのだ。一六ニニ年、出島からそれほど遠くない丘でキリスト教徒に対する壮絶な仕置きがあった。日本人使途だけでなくイエズス会のスピP58ノラ神父やドミニコ会、フランシスコ会の宣教師が捕らえられた。宣教師はみな国外退去を命じられていたにもかかわらず、秘かに布教を続けていたのだ。このとき行われたすさまじい拷問の様子は、オランダ人たちがイラストを残して伝えている。日本信徒が見せた深い信仰の姿は、ポルトガル人のようなカソリック教徒だけではなく、カルビン派やルター派の新教徒らによっても記録されている(「元和大殉教」と呼ばれる事件)。

この頃になると、ポルトガルは、東洋での軍事力が衰えを見せ、国の威信も低下していた。あの偉大なアフォンソ・デ・アルブケルケ(ポルトガルの探検家。一四五三~一五一五年)から始まった世界に広がるポルトガル植民地帝国。これがばらばらになりかけていた。オランダはセイロンをはじめとしたポルトガルの植民地を次々に奪い始めていた。こうして、およそ百年かけて築いてきたポルトガル繁栄の源が消えていったのだ。

何とかオランダ人を貶めて日本との交易から排除したいとポルトガル人が考えるのは当然だった。「オランダ人は君主たるスペイン国王に反逆する不逞分子である」。皇帝や諸侯にこう訴えたのだ。専制支配の国ではこれは相当に有効な理屈だった。さらにオランダ人は海賊行為を働くとんでもない奴らだとも訴えた。豊後に現れたアダムスらを攻撃するのに使った方法をここでも繰り返したのだ。商売敵のオランダ人。彼らへの嫉妬や憎悪が激しい中傷の言葉を生んだ。

この頃のローマ教皇をP59信じる者たちが記す書物には、イギリス人やオランダ人はいつも「海賊」として描写されていた。こうした批難には根拠がないと反論したが、実際には相当ひどい海賊行為があったのは事実だ。ケンペルは、ポルトガル人の中傷に反駁したオランダ人を弁護しているのだが説得力はなかった。そのことは彼自身も認めている。

東洋の植民地からリスボンに向かうポルトガル船は、喜望峰の辺りでオランダの私掠船に襲われるのが常だった。襲われたポルトガル船から一通の書簡が見つかったことがある。日本人によって書かれたものだ。それはポルトガル王宛で、その文章はどうも、モロ船長の作文のようだった。この男は熱狂的なカソリック信者で、イエズス会と密接な関係にあった。日本では彼らのエージェントのような役割を果たしていた。

見つかった書簡にイエズス会がかかわっていたのか、それとも他の宗派が関与していたのかは、はっきりとしない。しかし彼らが日本人信者と結託して、日本の国内治安の混乱を画策していたのは間違いないだろう。

日本人信者はの数は充分に増えていたし(一六一〇年代の信者の数はおよそ六十五万人、宣教師は百五十人程度と推定される)、布教の施設を増やすことができれば信者を増やすことはそう難しくないと思われていた。ポルトガルからの支援があれば、そうした信者を使ってこの国の政権を転覆させ、キリスト教国家を作り上げることさえ夢ではないと思う者もいたのだ。純粋な宗教者であったロヨラの教えを守ってきた者の中には、目的達成のためには手段を択ばないやり方に眉をひそめる者もいた。

1.12 ポルトガル人の放逐と島原の乱 P60-64
(P60-)

P60 ポルトガル王に宛てた手紙はオランダ人にとっては宝だった。これを日本の為政者に見せれば、ポルトガルの日本での利権に止めを刺すことができると目論んだ。この書簡は平戸藩主に提出され、それは直ちに長崎奉行に届けられた。モロ船長も、これに関わった日本人信者もいっせいに捕らえられた。モロは関与を強く否定したが、自身の筆跡と押印が証拠となった。ポルトガル王への信書には、兵士と兵器の供給を要請し、その支援を背景に、日本の信者とポルトガル人が将軍を放逐するという計画が記されていた。

その上、この計画が首尾よく成功すれば、新しい国はローマ教皇により認証される手はずになっていた。モロはマカオのポルトガル総督にも同様の信書を送っていた。その信書を運ぶ船が今度は日本の船によって拿捕され長崎に届けられた。日本転覆計画は間違いなくモロによって計画されていたことが明らかになった。モロは生きたまま火あぶりの刑に処せられた。一六三七年、将軍はポルトガル人追放令を命じた。(略)

P61 こうしてポルトガルは儲けの多い日本との商売から締め出された。一六三九年が終わるころにはポルトガル人は一人もいなくなってしまった。これはひとえにオランダ人の策謀だとポルトガル人がおこったのも決して根拠のないことではなかった。ポルトガル人は商売だけでなく、あらゆる分野で敵対していた。状況次第ではオランダ人とポルトガル人の日本での立場は逆転していてもかしくなかった。二つの国のどうしようもない敵意と憎悪。日本人の信者がこの対立の犠牲になっていった。

P62 信者たちは神父や宣教師の消えたあとも信仰を捨てなかった。拷問や死をも覚悟した強い信仰だった。しかし厳しい抑圧に耐えられず、遂に反乱が始まった。島原で皇帝の兵に立ち向かったのだ。幕府はオランダ人に幕府軍への協力を命じた。こうした事実は同時代のオランダ人が記録しているし、それ以降も継続的に一八三三年まで何度も報告されている。オランダの役割は消極的であったと記録されているものも多い。

一八三三年のM・フィッシャーの書物によれば、オランダは反乱軍の残兵の鎮圧に駆り出されたとのことだ。オランダは大砲と火薬を差し出した。使用法を訓練したのちに兵隊と兵器を戦場に運んだだけだと記しているものもある。しかしドイツ人のケンペルによれば、オランダは明らかにこの反乱鎮圧の一方の当事者として能動的に参加している。キリスト教信たちは古い城(廃城となっていた原城)に立て籠もり、幕府軍だけではこれを落とすことができないでいた。
「反乱に手を焼く幕府軍は、オランダ人を懐柔し協力を要請した。平戸のオランダ商館長クーケバッケルはこの要請を受けると直ちに準備を開始した。(略)P63島原に向かったクーケバッケルはわずか二週間で現地に到着し、反乱軍の立て籠もる城に四百二十六発の大砲を撃ち込んでいる。これらの砲撃は艦砲射撃だけでなく、陸揚げした大砲から発射されたものもあった。オランダの支援は幕府を十分に満足させるものだった。(略)」
近年、アメリカの歴史家はこのオランダの行為を非難している。島原の城はオランダ人の大砲の支援がなければ落ちることはなかっただろう。勇敢な信徒たちは彼らによって虐殺されたのだ。島原の反乱軍が、彼らの母国で新教徒の仲間を迫害したアルヴァ公爵(フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド。一五〇七~八二年。スペインの将軍。属領だったネーデルランドの新教徒を迫害)、(略)のような連中だったなら、少しは弁解の余地があるかもしれない。しかしクーケバッケル

1.13 オランダ商館 P64-68
(P64-)

P64 にとってはオランダの商業権益が何より大事だったのだ。反乱軍に対する包囲は長期間にわたった。ザビエルの来日以来キリストの教えに帰依した信者たちの戦意は高かったが、次第に食糧不足が深刻になっていった。そこに悪天候が追い討ちをかけた。それでも信者らは一人として信仰を捨てる者がなかった。逆に虐殺が始まった。男も女も子供たちも容赦なく殺され、山のように死体が積み上げられた。この戦いで攻守双方に四万の死者が出たと推定されている。

カソリック側の報告では、日本人信者の犠牲者だけで八万人を大きく超えている。ローマ皇帝ディオクレティアヌスが行ったキリスト教徒迫害に匹敵する虐殺が繰り返されたというのだ。カソリック教徒の語る話は誇張され後世まで伝えられた。こうした厳しい処置が、かえってこの国でのカソリック信仰を根深いものにしたともいえる。殺された信者が埋められた塚には立札が掲げられ、幕府の意思をきっぱりと示していた。

「この国に日が昇る限り、キリスト教徒は許さない。このことをスペイン王にも、キリスト教の言う神にもはっきり宣言する。この命令に背く者は斬首をもって処刑される」
オランダ人は、キリスト教弾圧の手先として協力したにもかかわらず、期待したほどのP65見返りを得たとは言いがたい。この国でかつてポルトガル人たちが享受していた畏敬の念を受けることもなく、行動の自由も与えられなかった。儲けのことしか考えない悪徳商売人と見なされたと言ってよいかもしれない。
「皇帝のキリスト教一層に消極的ながらも手を貸したのは我々だった。この国で商売を続けるには致し方ないことだった。

幕府は全ての外国人の追放さえ念頭にあったのだ。我々の行動はやむを得なかったとはいえ、幕府の中にはそれを苦々しく見ていた者もいた。ポルトガル人が日本人にしっかり説明していたように、オランダ人もポルトガル人も、その信ずるものの本質はほとんど同じだった。それを日本人はわかっていたから、キリスト教信者の反乱鎮圧に喜んで協力したオランダ人が警戒されたのは当然だった。

オランダ人が異教徒の国日本に忠誠を示すことなどあるはずがないのだ。幕府の要請に唯々諾々と従ったことで、日本人のオランダ人に対する警戒感を高めるという皮肉な結果になってしまった。我々は忌み嫌われ、そして軽蔑される対象になってしまったのだ。

一六四一年にポルトガル人がこの国から完全に追放され、キリスト教信者の取り締まりは厳しくなっていった。これに呼応するかのようにオランダの平戸商館閉鎖され、快適な平戸から小さな出島の商館に移ることを命じられた。厳重な監視P66下におかれた出島は、商売をする場所というよりも、むしろ監獄と表現したほうが、ふさわしい場所だった。

しかしオランダ人は、商売への執着、莫大な利益を生む日本の貴金属を前にして、永遠の虜囚生活に甘んじたのだ。日曜日の礼拝、祝祭を遠慮し、祈りを捧げることも、賛美歌を歌うことも自粛した。十字架を取り払い、キリストの名を口にすることさえも避けた。日本人がどんなに不躾な態度を見せても隠忍自重を続けたのだ」
オランダ人が押し込められた出島は長さ六百フィート(百八十メートル)、幅二百四十フィート(七十三メートル)の人工の小さな扇型の島だった。(略)

P67 ときおり島内では密輸で捕まった罪人の処刑が執行された。密輸は死刑と決まっていた。オランダ人は常に監視されていた。役人だけでなく密偵やら見張りの組織があって、ときには心づけが必要だった。猜疑心から生まれた監視システムの傑作だった。(略)入港するオランダ船に女が乗ってくることは許されていなかった。(略)使用人は頻繁に交代させられていた。オランダ人の習慣に馴染み、主人への親しみがわいてしまうことを未然に防ぐ処置だった。(略)この頃の長崎にはおよそ六万の人が暮らしていた。

1.14 出島の生活 P68-70
(P68)

P68 この町に繰り出そうとして橋を秘かに渡ろうとすれば大変なことになった。日本人の気質は人懐っこくて、外国人に敵意など持っておらず、奉行所の規則が厳重なことを残念に思っていたようだ。それでも決まりを破って法に触れるようなことはできなかった。

オランダ人のところで働こうとしたり、彼らと商売をしようとする者は、キリスト教をはっきり否定し、この宗教を忌み嫌っていると誓うことが求められた。確認は、年に二度も三度も行われ、少なくとも一度は踏み絵の儀式が要求された。ヴォルテール(一六九四~一七七八年。フランスの啓蒙思想家、作家)はオランダ人がこういった仕打ちを受けたことを嘲笑ったが、それは少し真実とは違うところがある。

ルター派や長老派のプロテスタントの、十字架や十字架のキリスト像や聖人の肖像画に対する崇拝の念は、イギリスの清教徒と同じくらい希薄だった。彼らは、こうした偶像崇拝の対象が、不敬な手段で破壊されるのをむしろ喜んでいた節がある。オランダ人に追い詰められたポルトガル人たちは役人に向かって、どちらの信仰も同じものだと懸命に訴えた。

それに対してオランダ人は、両者の間には大きな違いがあって、ポルトガル人には敵意を持っているし、教皇も、イエズス会も、フランシスコ会も、ドミニコ会も、P69それに奉仕する全ての宣教師と神父も忌み嫌っていると反論した。オランダ人にはヴォルテールが考えたような踏絵への罪悪感はなかったに違いない。(略)

ケンペルによれば、オランダ人の生活や行動に、キリスト教の教義を匂わすものは一切なかったようだ。(略)それでも信心深い連中は、こうした生活の中でさえ信仰心を失うことはなかったようだから、全てのオランダ人が血も涙もない、唾棄すべき連中だと、決めつけるのはやめておいたほうがよさそうだ。(略)

1.15 江戸参府 P70-72
(P70)

P70 時代が下ってくると、こうした規則も緩やかになっていった。一八二二年の江戸参府では、多くの人々との交流が比較的自由にできた(商館長はヤン・コック・ブロンホフ<一七七九~一八五三年>。一八一六年、初めて妻子を伴って来日し、許可された)。(略)江戸では決まっ

P71 た宿(「長崎屋」と呼ばれる)に宿泊しなければならなかったが、そこにはいろいろな人がやって来た。(略)こうした交流は確かに監視されていたものの、十分に自由なものだった。法律では売春は厳禁で、遊女の立ち入りはできないはずだったが、かなりの数の女が宿泊所へ入り込んでいて、ときには一人の男を六人の女が誘惑することさえあった。日本の女性はオランダ人たちをおおいに魅了したらしい。当時の江戸の様子は、こうした女の魅力に取りつかれた商館長の記録で知ることができる。(略)

1.16 イギリス船の来航 P72-77
(P72-)

1.17 平戸商館 P77-78
(P76-)

1.18 イギリスへの警戒心 P78-80
1.19 ロシア使節 P80-83
1.20 ゴローニン事件 P83-88
1.21 箱館の尋問 P88-91
1.22 ゴローニン奪還計画 P91-94
1.23 フェートン号事件 P94-98
1.24 ラッフルズ卿の危険な試み P98-102
1.25 ゴードン艦長 P102-104
1.26 サマラン号 P104-107
1.27 モリソン号事件 P107-110
1.28 アメリカ大統領の親書 P110-113
1.29 プレブル号事件 P114-115
1.30 日本開国の正当性 P115-121
1.31 マリナー号 P121-123
1.32 パナマ運河 P125-129
1.33 航路短縮 P129-134
第一章 注 P134-144

第二章 日本の地理P145-168
第三章 民族と歴史P145-203
P173 ケンペル(wiki)はこうした日本の言葉や民族の特徴などから、耳を傾けるべき貴重で信憑性のありそうな推論を述べている。

日本人という民族は起源をメソポタミア周辺に持ち、そこからゆっくりとカスピ海沿岸に移動した。エニセイ川(モンゴルから北極海に注ぐロシア連邦にある川)やセレンガ川(モンゴルからバイカル湖に注ぐ)などが形成した渓谷を

P174 抜けアーグイーン湖(Lake of Argueen:現在どの湖を指しているか不明)のあたりまでやって来るのだが、厳しい寒さでこの地に定住できなかった。そこから流れ出る同名の川の渓谷に沿って移動するとアムール川(Amur river 原文ではAmoor riverと表記。中ロ国境を流れ、オホーツク海に注ぐ)となる。この川は東北東に流れている。

この渓谷に沿って移動するとアジア大陸の沿岸部に到達する。東の海に注ぐアムール川をあとにして、さらに朝鮮半島に移動する。当時この半島には人が住んでいなかっただろう。ここまで来ると日本まではそう遠くない。また危険でもない。日本列島へはほとんど一定の間隔で並ぶ島を伝っていけばよい。夏に移動すれば危険度はより低下する。ちょっとした漁をするような小舟を操れば海峡を渡れただろう。

ここまでの移動の間に大きな湖や川を渡ってきただろうし、しばらく過ごしただろう期間には魚を捕って暮らした時期もあったろうから、操船の技術は持っていただろう。朝鮮半島で暮らした時期もあっただろうから、その間に漁師として航海のノウハウを身につけてたと考えられる。

この大移動は一年とか五十年、あるいは百年といった短い期間で達成されたのではない。移動の途中で暮らしやすいところに留まって生活し、周囲の遊牧の民に圧迫されるようになると新たな牧草地を求めて移動した。新鮮な水と牧草があればそこに落ち着いた。

こんな生活を続ける民族をアジアでは今でも見ることができる。近いとこ

P175 ろではトルコにそれを見ることができる。この地方の遊牧民は暮らしを営んでいる地方のパシャ(Pashalik。部族の長であるパシャ(Pasha)の支配する地域)に圧迫され始めると他のパシャが支配する地域に移動する。そこで圧迫が始まれば同じことを繰り返す。誰の支配もところまで移動は続く。

このようなケンペルの推論は、日本語が他の言語から独立していて混合がないことからきている。移動の過程で一か所に長期定住したり、周辺にいた部族と交わることはなかったに違いない。長期の定住があれば、そうした土地の言葉が日本語の中に相当取り込まれたはずなのだ。

日本島に辿り着くと、西部の海岸からさらに南に移動した。土地は肥え、温暖で健康にすこぶるよい気候。ここでは安全で落ち着いた、そして快適な住環境があった。今では日本人は、先祖はもともとこの国いたのだと主張する。そういうわけで、日本では祖先の聖地を巡る旅が盛んで、祖先を崇拝する行為も豊富にある。

日本人が実際にどう移動してきたか、あるいはそれはいつごろだったのかは、はっきりしないものの、遠い昔にアメリカ大陸に日本人がやって来たことは、ほぼ間違いないだろう。

チャールズピッカリング(アメリカの自然学者、医師。1805-78年)は次のように述べている。

P176 「ポリネシア族は、南アメリカとは広大な海で分離している。この海は波が荒く、南アメリカの方向には常に逆風が吹き、海流も同様に逆に流れているので、西から大陸へ接近することは難しい。カヌーを使ってアメリカに向かうとなると、どうしてもカリフォルニアの北端を目指すことになる。この辺りが民族移動の競争が始まったところだ。メキシコでは、サンフランシスコはマニラ-メキシコを結ぶ航海ルート上にあると昔から言われてきた。

日本からアメリカ大陸に接近するにはカリフォルニアは有利な場所である。現在は日本の鎖国政策のため、日本からの船は海難事故による漂流によってしかこの沿岸に現れることはない。それでも近年、北の海で捕鯨船に救われたケースや、サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)で遭難したケース、漂流してコロンビア川河口の沿岸に漂着したケースなどがある」

参考資料 東アジアのY染色体ハプログループ移動図 (異なる年代の移動を同一の図に表している点に注意)(出典



第四章 宗教P204-232


第五章 政体(途中から)P233-257 2017.12.24追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示


第十章 娯楽、嗜好、民族性2018.04.05追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示

優美な女性 P306-307
確かにこの国には魅惑的な生活の作法が存在する。友人(序説「読者へ(参照)」にあるジェームズ・ドラモンド卿を指す)は日本の女性を手放しで称賛している。
「日本の女性はもうなんとも言えない自然な優美さを持っている。私の見る限り、世界で最も魅力でエレガントな女性たちだ。少しばかり風変りなところを矯正すれば、英国の宮廷だろうがヨーロッパの宮廷だろうが、一度連れ出すだけで彼女たちは憧れの的になるだろう。日本女性のちょっとした風変わりなところも、しばらく一緒に暮らせばすぐ慣れてしまう程度のものだ」
私は彼の言葉を信用している。彼は世界各国を旅し、実際にそうした国々に住んだ経験があるのだ。こうした話を聞いたことが私が日本への興味を抱いたきっかけだったということはもうもうおわかりだろう。

男を磨くのは女だとはよく言ったものだ。女性は品がよく、優雅で、洗練されていれば、男性が下品で、粗野で不恰好ということはない。もちろんこの逆も真なりである。少なくとも私たちが旅した国ではそうだった。日本の男性も態度が立派でマナーが洗練されている。それは身分の高い者だけの特徴ではない。一般人にも、喧嘩早かったり大法螺を吹いたり、不快になるほどだらしない者はまずいない。路肩でその日暮らしで働いている者でさえ、会話はまともで礼儀をわきまえている

日本人を観察する者は、この社会の「礼(politeness)」の存在にはっきりと気づくのだ。よほどの権力者の場合は別にして、日本人が横柄で不躾な受け答えをすることはまずない。彼らは攻撃的で口汚い人を軽蔑する。そうした人々のもとで働くことさえ拒否するのだ。ツンベルグはこうした日本人の性格と祭りの関係について述べている。

   (略)

妻の貞節 P320-323
P320 さて繰り返しになるが、日本の女性についてもう一度述べておきたい。女性のありようを見ればその国の文明の程度が一目瞭然である。先述のとおり、日本の女性に対する扱いアジアで最高のレベルにある。女性は隔離された社会に閉じ込められてはいない。フェアな社会的地位を持ち、父や夫と同じように遊びに興じている。妻の貞節、娘たちの純潔は本人の誇りと自覚に基づいて保たれている。もちろんそうした行動は、不貞の責任は命をもって贖わなくてはならない決まりで補強されてはいよう。

それでも不貞な妻というのは日本では聞いたことがない。身分の高低にかかわらず、子供はすべて学校に行かされる。学校の数は世界のどの国よりも多いのではないかと言われている。だからこそ、どんな貧乏な者でも少なくとも字は読める。P321まさに世界に誇れる特質だ。女性の心は男たちの心と同じように豊かである。だからこそ、この国には優れた女性の詩人や歴史家や小説家がたくさん生まれているのだろう。

高位の者や金のある男たちは、妻たちの見せる貞節とは全く逆の行動を見せる。むしろこうした男の性癖は身分を問わず一般的な傾向といってもよい。日本の男はこのたわいない悪徳(pleasant vices)のせいで火傷をするのはわかっていても、やっぱり遊んでしまうのだ。日本を訪れた西洋人はこの様子を、日本の国民的悪徳(the great national vice of Japanese)だと呆れている。こういう中で、日本の女性が厳しく純潔を守ることは議論の余地がない。

このことは日本人自身だけでなく、この国を訪れた多くの西洋人によって証言されている。既婚の女性たちは男性からいつも敬意を払われている。日本の女性はたいへんに名誉を重んじる。彼女たちに恥をかかせた男が殺された例にも事欠かない。
「それなりの地位にある男が旅に出た。その留守に高位の男がその妻に言い寄った。妻はその男を詰り、きっぱりと断ったのだが力ずくで犯されてしまった。夫が旅から帰ると、妻は愛情いっぱいで迎えた。しかし彼女の中には、異常なまでに落ち着きはらった空気が感じられた。P322夫はそのわけを聞き出そうとしたができなかった。明日まで待ってくれという。明日、親戚や町の主だった人々を家に呼ぶので、その時に話すと言うのだ」

「翌日、大勢の客が集まってきた。その中に例の男もいた。宴は屋上にあるテラスで何事もなく進んだ。食事が終わると、客の前で夫の留守中の出来事を話し始めた。そして夫に不貞の妻を殺すように迫ったのだ。夫も客も彼女を落ち着かせようと懸命に試みた。この妻が責められるべきは何一つないのだ。責められるべきはその悪い男だ。

妻はみなの慰めに感謝し、夫の肩で泣いた。しかし突然抱きしめる夫の手を払い、欄干から身を乗り出して飛び降りてしまった。客の中にいた例の男が突然、階段を下りて行った。あとを追った者たちが見たのは、死んだ女の横で血に染まった男だった。腹を十字に切って果てたのだ。身を投げた女は、不貞を強要した男の名を明かさないままだったから、誰一人彼を疑ってはいなかったにもかかわらず」
こういう事件が多くの演劇や小説のモチーフになっている。もう一人強い意志を示した女性の話が伝わっている(以下に紹介される話は、1651年に起きた慶安事件をモチーフとした『慶安太平記』に基づいている)。
「忠弥(Tchouya)という男が反乱を企てていることが発覚し、仲間の正雪(Ziositz)と併せて逮捕が命じられた。二人同時に取り押さえたかったが、まずは江戸に居る忠弥を捕まえ計画の中身を白状させることにした。奇策をもって捕まえるのがよろしかろうと、『火事だ!』と叫びながら忠弥の屋敷の門を叩いた。

飛び出してきた忠弥を取り囲んだが、忠弥に二人が倒されてしまう。それでも数に勝る捕り手により忠弥は捕縛される。この騒ぎに気づいた忠弥の妻はすばやく機転を利かし、夫の書付を燃やしてしまった。そこには仲間や支援者の名前が書き込まれていたのだ。忠弥の妻が見せた強い意志と正しい判断力は今でも語り継がれている」
日本では親子間の関係も素晴らしい。子供が親に示す愛情、敬意、恭順は限りなく強く、同じように親たちも子供たちを強く信頼している。家庭内で揉め事があると、親は長男に調整を任せる。彼が全体の合意を取りまとめるのだ。息子が一定の年齢に達すると家産を早々に譲り、息子に扶養される道を選ぶ親も多い。こうした子供への厚い信頼が裏切られることはまずない。


第十一章 言語、文学、科学、音楽、絵画2017.12.09追記 ※画像クリックでオリジナル画像を表示