2017年12月15日金曜日

メモ2017.12.15 『性のペルソナ(上)』、『セックス、アート、アメリカンカルチャー』

P013 セクシュアリティとエロティシズムは、自然と文化が複雑に混じり合う交差点である。いわゆるフェミニストたちは性の問題を度しがたく単純化し、社会的慣習の問題に還元してしまい、社会を変革し、男女不平等をなくし、性の役割分担を見直しさえすれば幸福と調和がおとずれると考えている。

P014 その点でフェミニズムは、過去二百年間のあらゆるリベラリズム運動と同じく、ルソーの末裔である。ルソーの『社会契約論』(1762)は「人間は自由なものとして生まれるが、いたるところで鎖につながれている」という一文で始まる。

ルソーは、堕落した社会に対するアンチテーゼとして、恵み深い自然というロマン主義的な自然観を唱え、19世紀の進歩主義的文化の生みの親となった。ルソーの後継者たちは、社会を変革すれば地上に楽園が出現すると信じていた。二度の世界大戦という大破局によって、その希望の泡ははじけた。しかしルソー主義は1960年代に復活し、その中から現代のフェミニズムが生まれたのである。

ルソーは、原罪、すなわち人間は生まれながらに穢れており、放っておけば悪へ向かう、というキリスト教の悲観的人間観を斥ける。人間は生まれながらにして善であるというルソーの信念、これはロックの思想に由来するが、そこからやがて社会還元主義、すなわち環境が人間を作るという発想が生まれ、それが現代アメリカの福祉事業、刑法典、行動療法などの中心的倫理観となっている。この考えに従えば、攻撃性や暴力や犯罪は、貧困とか劣悪な家庭環境といった社会的剥奪に起因する。

それでフェミニストたちは強姦をポルノグラフィのせいにし、独善的な循環論法によって、最近のサディズムの蔓延はサディズムそのものに対する反動なのだと説明する。しかしながら強姦やサディズムはいつの時代にも存在し、どんな文化もある時代にはそれらを経験しているのである。

本書はサドの立場に立つ。サドは西洋文学の大作家の中でいちばん読まれることが少ない。サドの作品は、ルソー主義者たちの最初の実験であるフランス革命が失敗に終わり、政治的楽園どころか恐怖政治という地獄を生み出してしまった直後の十年間に書かれた。彼の作品はルソーに対する全面的批判であり風刺である。サドはロックよりむしろホッブスに従う。攻撃性は人間の本性に由来するものである。のちにニーチェはこれを権力への意志と呼ぶことになる。

「自然に帰れ」というロマン主義者のスローガンは現代においてもなお、セックスカウンセリングからシリアル食品のコマーシャルに至るまで、私たちの文化の隅々まで浸透しているが、サドにとって自然に帰るとは、暴力と肉欲を抑えている歯止めを取り払うことにほかならない。私も同意見だ。社会が悪いのではない。社会は犯罪を抑止する力なのだ。社会の統率力が弱まれば、人間が生まれつきもっている凶暴さが噴出する。強姦犯は社会の悪しき影響によって作りだされるのではなく、社会による規制の失敗から生まれるのである。

P015 リベラリストは政府を横暴な父親と見なしているくせに、政府が愛情深い母親のように振舞うことを期待しているのである。

P21 仏教文化圏においては、女性性が古代においてもっていた意味が、西洋文化がそれを放棄した後も長らく保たれていた。男性と女性、中国の陽と陰は、人間と自然の双方における均衡のとれた相互に浸透し合う力であり、社会はこれに従属する。「抵抗せずに受け入れよ」というこの掟は、モンスーンが一夜にして五万人を流し去るといった大激変の起きる土地、インドで生まれた。豊饒神崇拝における女性像はつねに両刃の刃である。インドの自然女神カーリーは創造者であると同時に破壊者であり、何組もの腕をもち、一組の腕で恩恵を施す一方で、別の一組の腕で人々の喉を欠き切る。彼女は頭蓋骨を首飾りにしている。太地母的な女神を復活させてきたアメ

P22 リカのフェミニストたちは、そうした女神の道徳的両面性を都合よく忘れてきた。だが、自分の血を流さずに自然の白刃をつかむことはできない。

西洋文明は最初から女性性を避けてきた。女性的な力を崇拝した最後の大きな西洋社会はミノアクレタ文明だったが、象徴的にもその文明は崩壊し、二度と復興することはなかった。崩壊の直接の原因-地震か疫病か侵略か-は問題ではない。その崩壊が残した教訓は、女性性崇拝は文化の耐力や生存力の保証とはならないということである。

生き残ったのは、つまり事態を制圧してその精神構造をヨーロッパに刻印したのは、ホメロスを通じて私たちに伝えられたミュケナイの戦士文化であった。男性的な権力への意志。南からミュケナイ人、北からドーリア人がやってきて合体し、アポロン的アテナイを形成し、そこから西洋史におけるギリシャ・ローマ的伝統が生まれることになる。

アポロン的伝統もユダヤ・キリスト教的伝統も、ともに超越的である。すなわち、自然を克服し、超越しようとする。ギリシャ文化には、後に述べるようにアポロン的なものと対立するディオニュソス的要素があったが、最盛期の古典主義はアポロン的達成であった。キリスト教の生みの親であったユダヤ教は自然に対する最も強硬な抵抗である。

旧約聖書では、父なる神が自然を創造し、個々の事物への差異化やジェンダーは、神が男だという事実の後にくる。ユダヤ=キリスト教は、ギリシャにおけるオリュンポスの神々の崇拝と同じく、天宮信仰である。これは宗教の歴史においては進んだ段階である。宗教はどこでも大地信仰として、すなわち実り豊かな自然への崇拝として始まったのだから。

大地信仰から天空信仰への発展とともに、女は地下に追いやられる。女には神秘的な出産能力があり、丸い乳房・腹・臀部は大地の起伏に似ているために、女は人類初期の象徴体系の中心に置かれた。世界のどこでも宗教が誕生した際には必ず「太地母(great mother)」像が見られたが、女はそのモデルとなった。だが母親信仰は女の社会的自由を意味しなかった。むしろ、本書の続編の中のハリウッド論で述べることになるが、信仰の対象は、象徴的に膨張した自己像にとらわれる。すべてのトーテムはタブーの中で生きるのである。

女は腹の魔力(belly magic)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するものだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女はかつて人間を吐き出し今度はまた呑み込もうとする暗い胃

P23 袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へ移すことは、腹の魔力頭の魔力(head magic)に変えることであるからだ。そしてこの防御的頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。

近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。



◆『セックス、アート、アメリカンカルチャー』

P025 「マテリアル・ガール」のマドンナは、マリリン・モンローもどきのストラップレスの赤いドレスを着て、しゃなりしゃなりと歩きまわり、タキシード姿の男たちにかこまれてコケティッシュに扇子をひるがえす。ここで、彼女は初めてコメディの才能を見せた。

世評に反してマドンナとモンローのあいだにはそれほど共通する点はない。モンローはすぐれたコメディエンヌだったが、不安定で落ちこみやすく、受動的攻撃性タイプで、キャリアにたいしても腹立ちまぎれに自分でぶちこわすことが多かった。マドンナは躁病ぎみでワーカホリックの完璧主義者。モンローは酒と薬におぼれたが、マドンナはそういう

P026 ものとは無縁だ。モンローはうっとりと夢みながら欲望の世界に耽溺する。だが。マドンナはジュディ・ホリデーの機転と辛辣なしゃべり、ジョーンクロフォードの鋼鉄の意志、それにサーカス団をまとめあげるだけの統率力と自信をもっている。

1985年、マドンナにたいする文化人の反発がますます強くなった。映画『マドンナを探して』の素敵なテーマソング「イントゥー・ザ・グルーヴ」がヒットして、その一年間ずっと、そこらじゅうで耳に入ってきたというのに、その年のグラミー賞はあろうことか彼女を無視した。フェミニストやモラリストの中傷は熾烈をきわめた。マドンナは女性を「侮辱」している。マドンナはわいせつだ、神を冒涜している、愚かで軽薄。ご都合主義・・・。

P027 女こそが支配的な性なのだ。女の性的魅力は、デリラやトロイのヘレン以来ずっと男をとりこにして、破滅させてきた。マドンナは、世界中の何百万という少女のお手本となり、性の領域での女の主導権を取り戻すことによって、フェミニズムという病を治癒したのである。

P028 多くのビデオで、マドンナはバイセクシャルをほのめかす人びとと共演したが、その頂点ともいえるのが、「ジャスティファイ・マイ・ラブ」での女同士の真剣なキスである。服装倒錯者とSMのペルソナが交錯する、このすばらしく退廃的な舞踏(サラバンド)はMTVで放送禁止になった。(中略)

マドンナの内面にあふれる感情の移りかわりは、なめらかな透明感にあふれた「ラ・イスラ・ボニータ」にうかがえる。マドンナの曲の中で最も完成度が高いものといってもよく、失われた楽園をいつまでも恋いしたう郷愁にみちている。だが、そのことは話題にもならない。世間が注目しやすいのはむしろ、もっとメッセージ色の強いビデオである。「パパ・ドント・プリーチ」は十代の妊娠を扱っている。また、「エクスプレス・ユアセルフ」は、寝室でのボンテージ、地下牢での拷問、優雅なワイマール風の衣装をつけた中性的な人物が股間をつかんでポーズをとるといった強烈なイメージが、フェミニストの旗手たちの攻撃の的になったものである。

「ライク・ア・プレーヤー」には、ペプシコーラもぎょっとした。手のひらに聖痕を授かったマドンナが、生命を得て人間となった黒人の聖人像と抱きあい、十字架が燃えさかる広い野原を背景にしわくちゃの絹のスリップで踊っている。(中略)マドンナには不思議な能力があって、シンボルを彼女独自のイメージに変えてしまうことができる。

P029 「ヴォーグ」のビデオは、質という点で「オープン・ユア・ハート」に匹敵する。(中略)フェミニズムの領域は、美術を軽んじファッション写真や広告にいわれのない敵意をもつ文学かぶれの中流家庭に育った白人によって荒廃させられた。ファッション写真や広告には美術の歴史そのものが含まれている。濃淡を生かしたドラマティックなモノクロで撮影された「ヴォーグ」に登場する黒人およびヒスパニックのニューヨーク風ドラグ・クイーンーーまさにファッション雑誌からヒントを得たものーーは、かつてプラトンによって神聖なものとされ、それ以前にはエジプトの王侯たちが心から称えた「美しさ」という高慢な貴族性を表現しているのだ。

わたしの理論によれば、マドンナはダンスという躍動的なディオニュソスの力と、静止した肖像というアポロの力の両方をもちあわせている。



関連
・「階段のエスプリ」ジャン・ジャック・ルソー 「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか?」より https://ghoti-ethansblog.blogspot.jp/2017/05/blog-post_11.html#JeanJacquesRousseau
・アメリカ政治の6大潮流 http://ghoti-sousama.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

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