2017年12月2日土曜日

メモ2017.12.02 「アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか」(旧)

2019.10.05移行→(URL)
P033-34 1932年11月6日に行われた国会総選挙で、ナチスは恐慌以来続けてきた快進撃に土をつけ、初の敗北を喫した。ナチスはなお第一党を維持できたものの34議席を失い、代わりに共産党が躍進して11議席増やした。特に首都ベルリンの選挙では共産党がナチスをはるかに上回り第一党になった。

危機感をつのらせたケプラークライスは、広く財界の重鎮たちに呼びかけて、ヒトラーを首相に任命するよう大統領に請願する署名運動を展開した。ケプラーやシュレーダーは計42名の有力な財界人に署名を求めたが、応じたのはその半数にも満たない20名に過ぎず、この試みは失敗に終わった。

P035 ヒンデンブルク大統領の、「ヒトラーを首相に任命する」との決断に、何が決定的な影響を与えたのかは定かではない。しかし、フリッツ・テュッセンやクルト・フォン・シュレーダー男爵、そして彼の背後に控えていたドイツ重工業界の首脳が、共産主義の脅威からドイツを救うためにヒトラー政権の誕生を望み、そのためにさまざまな画策を行っていたのは確かである。こうして1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が誕生した。

 →『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士P348-(参照)

ヒトラー政権とアメリカ財界の危険な関係 P35-58
P35 ヒトラー政権が誕生して半年以上が経過した一九三三年八月四日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、ヒトラー新首相がはじめてアメリカの企業家代表団をベルヒテクスガーデンに招待した、というニュースを小さなべた記事で報じた。

ヒトラーに接見したこの代表団は、アメリカの大手通信会社、国際電話電信会社ITTの創設者ソスシーンズ・ベーン社長とそのドイツにおけるエージェント、ヘンリー・マンであった。ITTはすでに一九三〇年にスタンダード・エレクトリツィテーツ・ゲゼルシャフトSEG社P36とロレンツ社という二つの会社を買収してドイツ市場に参入していたが、新しいナチス政府に接近することでさらにビジネスを拡大させようとしていた。(略)

一九三二年五月、ヒトラーが首相に任命される八ヶ月も前に、ウォール街の仕掛人の一人アレン・ダレスが、「プロシア議会選挙の様子から察するに、ヒトラーの分子のプロシア政府や帝国政府への参加の問題が 再燃するでしょう。個人的に私はヒトラーたちの政府への参加が実現することを望んでいます」という手紙を、兄ジョン・フォスター・ダレスにに書き送っていた。

また、ジョン・フォレスター・ダレスも当時『フォーリン・アフェアーズ』誌などへ盛んに寄稿し、「ヨーロッパにおける独裁者の台頭は、圧迫されているヨーロッパの新興国家が、国家的帝国主義諸国に対して、不均衡の是正を求めるうえで避けることのできない潮流なのだ」との見解を示し、ファシズムを擁護する発言を繰り返していた。

つまり当時のアメリカ財界のエスタブリッシュメントは、ヒトラーを危険視するどころかむしろ歓迎していたのである。

 (略)

P183 マーチンはさらに続けて語る。「拡大する経済権力に直面する政府の無力さというテーマは、もちろん、新しいものではない。二つの世界大戦の間、世界経済におけるもっとも重要な出来事は、領土や市場がイギリス、ドイツ、アメリカの巨大企業の間の私的な協定によって分割されたことであった。この協定には小規模ながらフランス、イタリア、そして日本の企業も参加していた。こうした巨大勢力が世界情勢を決めていったのに対して、各国の政府はただ傍観しているのみだったのだ」

この言葉が明確に物語るように、マーチンは「ドイツ産業界の解体を食いとめ、強P184いドイツを復活させる」というアメリカ財界の強力な意志によって止められたのだった。「強いドイツ」を求めた反共派=《親独派》は、現場における実権を握り、モーゲンソーの作った「JCS1067」を事実上棚上げにした。紙に書かれた政策と、実際の履行とは別のものだったのである。

うして《親独派》は、ドイツ経済の解体を食いとめ、再びドイツの復興のために邁進していったのである。ちなみにドレイパーはこの後一九四八年一月に、「ドイツの財閥解体を食いとめた」実績を買われて、今度は日本の財閥解体を有名無実化するために東京行きを命じられている。