①『裸体とはじらいの文化史』
序論P0/ 2/ 4
第7章 日本、ロシア、スカンジナヴィアにおける裸 P120-140
P120 さて、ギリシャ・ローマの古代、また西欧の中世あるいは文献から推定可能な他の時代に、裸体に対する例の捕らわれない関係が存在したとの説には、あらゆるものが不利な証言をしているように思われるが、これまでの議論は本質的にわれわれの文化領域に限られていた、と指摘する人もあろう。とにかく、日本文化においては、今世紀に入ってもなお羞恥心もなく裸になった、と何百もの旅行記は明らかにしていないだろうか(tw)。
例を挙げれば、一九世紀五〇年代の終わりごろ、アメリカのフリゲート艦パウハタンの艦長ジョンストン大佐(相互参照)は、日本の男性、女性、子供がいっしょに、アダムとエヴァの如く《いちじくの葉もつけずに》入浴しているのを、しかも堕罪前のわれわれの先祖顔負けの無頓着ぶりを余儀なく見た時、受けた《ものすごいショック》について、こう記してはいないだろうか。
P121《変な人たち!と私は思った。しかし、女性のデリカシーについて私が抱いてきたあらゆるイメージに対するそのようなショックは、そう簡単には収まらなかった。私はあちこち歩き続けた。かなり利口だが、極めてむかつく人間》入浴時に日本人が示すこの<無頓着ぶり>と称されるものに取りかかる前に、入浴する男女の裸はわりと新しい習慣で、概して十九世紀に限られる、と指摘しておくことが大事である。江戸時代の十八、九世紀、男女が混浴する場所はほとんど真っ暗にしただけでなく、男性は湯の中でも腰布を、女性は湯具と称する一種のペチコートか特別の湯用着を使用するよう気を配った。(略)
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P124 一八四〇年ごろ一蕙斎芳幾作の女風呂の木版画(図69参照)を見ると、そこに描かれている二〇人の女性すべてが、手拭いや脚の所作など、やり方は異なっても陰部のあたりを隠しているのが目につく。それは他の非ポルノ的入浴の絵でも、まったく同様である。これが芸術家の取り決めであるばかりでなく、伝統的日本の入浴における実際の礼儀作法に由来することは、入浴生活を良く知る多くの日本通によって確証された。
彼らはさらに、日本人が伝統的に陰部に対しまったく並外れた羞恥心を、同性に対してすら感じており、またそれがヨーロッパ人にはほとんど考えられない女性の陰部への覗き趣味と対をなしている、と指摘している。
P125 一八九二年京都の民衆劇場を訪れたあるヨーロッパ人が、舞台上をあちこち動き回る黒衣の人について不思議に思い、あれは一体どんな人物かと招待者に尋ねると、彼は驚いてこう答えた。《あれは劇場作業員です。でも彼らは見えない人なのです》と。同じように、彼らは自分の隣で入浴する者の裸を<見る>ことはなかった。
言い換えれば、日本人は浴場で、ゴフマンが《礼儀正しい不注意》と名づけたことを常に行った。すなわち、眺める者の視線は他の入浴者を通り過ぎるか、すり抜けるかであって、<見れ>ども心に留めずなのである。今日われわれが浜辺で偶然に、知り合いの女性の<トップレス>に出くわしても、たいていはそのむきだしの乳房を<認めない>のと同様である。
そうでなくとも目線の接触を嫌う日本人の間では、長く見つめられたり御視されたりすると、恥が生じた。もしそのようなことが公衆浴場や温泉で起これば、その羞恥心はずっとひどくなった。(略)
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P132 このように、常に主張されてきた日本人の裸体に対する無邪気さは、中世人のこの点に関する自然さとまったく同様、問題になりえない。今日この神話はたいてい、裸に羞恥心が付きものなのは堕罪よりもキリスト教のヨーロッパ侵入のせいだ、と考える人びとによって保持されているが、一〇〇年前この神話は、主に植民地主義者によって主張された。
彼らの関心は、日本人が原始的で文明化されていない点を示すことだった。
日本政府はそのことをはっきりと認識し、わが国は西洋が理解する<礼儀作法>の意味においての文明国である、と全力をあげて外国に表明した。が、その実日本人の方が以前からずっと、欧米人の粗野や原始性にひどく驚いていたのである。
それゆえ一ハ七一年に東京市当局は、男性労働者が公衆の面前で服を脱ぎ、ふんどし一丁の裸姿になるのを禁じた。「日日新聞」はこれについて次のような見出しをかかげた。<異人に嘲笑されるなかれ!>。
大半の外国人は、日本では裸体が見えないついたてで囲まれいたことを見抜けなかったので、風呂屋には通りから中を覗かれないよう、戸の前に西洋人の目にも見えるついたてを取り付けよと指示した。
男女別の浴場は、一八六九年一月以降再三にわたってお触れが出たが、もちろん---近代初期のロシアと同様に---浴場を低い柵で男用と女用に仕切るだけで、どちらかというとそれは象徴的なものだった。
上述の新聞はこの措置に関して、いかにもそれらしく次のように書いた。
P134 これらの措置は決して古き良き伝統を間違いだと決めつけようとしているのではなく、何も知らず日本のしきたりに遭遇する異国人に、民衆が嘲笑されないようにするためである、と。
これを見れば当然ながら、日本人が自国の礼儀作法の掟をほとんどの異国人が理解できないとの前提から出発したことが分かるが、それは彼らの地位がいまだに立派な野蛮人であることを確証する結果となった。
それゆえこれ以後、裸をタブーとしなかった日本人の《自然への近さ》が外国で話題になった時、日本人は異国人に伝統的な日本のエチケットを説明しようとはせず、自国の近代的<西洋的>立法を指し示した。
例をあげれば、日本で一〇年間教鞭をとった地理学者エドムント・ナウマンは、一八八六年にミュンヘンの人類学協会会員を前に講演をしたが、これは後にミュンヘンの「一般新聞」に掲載された。
そのテーマは公の場における日本人の裸であったが、医学生森鴎外は同じ紙上でナウマンにこう答えた。
《私はどうしてもここで、日本国内で人は<ほとんど裸姿で>闊歩しているという明らかな誤り正さなければならない。膝から上を丸出しにしても罰金を食らう日本の法律(「違式詿違条例」明治政府が制定した軽犯罪取締りの規定)をナウマンは知らないのだろうか。この掟はすでに数年来日本で通用しているのだ》。一八世紀に西欧人旅行者は、文明化されないロシア人についても同じように記述したが、当地でも支配階級の人びとは日本同様、嘲笑を恐れた。一七六五年に、ある《ドイツの士官》はロシアの入浴の習慣について次のように記している。
《初めてこの公衆浴場を見た時、私は自分がアメリカの未開人の中にいるのかと思った。老若男女、P135娘も青年も裸で恥ずかしげもなく、私の目の前を走り回っているのだ。一番驚いたのは、老若男女がいささかの恥じらいも見せずに混浴しており、母親は恥知らずな息子のまなざしに、父親は娘の好奇の目にわが身をさらしていたことである》。同じころ出版されたドートロッシュ師の著書『一七六一年のシベリア紀行』は、それよりもっと有名になった。この中で当の聖職者は、素朴な民衆の浴場では、男女の仕切りが実にお粗末で、お互いの裸を見ることができた、と西欧の読者に報告した。
《ほんのわずかでも財力があP136れば、みな自家風呂を備え、父、母、子供たちがしばしば同時に入浴する。下級階層の民衆は公衆浴場を利用する。これらの浴場は男女共同で、厚い板で男湯と女湯が仕切られているが、どちらも風呂から裸で出てくるので、お互いの裸姿が見えてしまう》。この報告には挿絵が添えられており、乱痴気騒ぎの中で裸女が一人、ほとんどポルノ風に脚を開いている。この世の至るところでそうだが、ロシアの公衆浴場においてもそんな姿勢をとるのはもちろん不可能である。
彼女の淫らさ加減は極めて根深い軽蔑と敵意を表したもので、ヤーコプ・ウルフェルトの報告によれば、一五七八年にデンマーク公使らがそれを体験した。ノヴゴロドで女性たちが窓越しにスカートを高々とまくり上げ、前と後ろから恥部を彼らに見せたのだ。
とりわけこのような絵は、エカチェリーナ二世を激怒させたらしい。というのも、事実そのような絵のためロシアの浴場が、本質的に女郎屋とたいして変わらないという印象を外国に与えたからである。
女帝は一七七〇年匿名で出した『解毒剤、もしくはドートロッシェ師によりシベリア紀行と題され、厚かましくも出版された危険な書の調査』と称する二巻物の著書で、こわばったイロニーを用いこのフランス人司祭の化けの皮を剥がし、彼が厚かましい嘘つきであることを明らかにしようとした。それほど彼女は自国の評判が落とされたと感じたのである。
すでに一六世紀の半ばごろ、はじめて西洋と大々的な貿易関係を結んだイヴァン雷帝は、男女の混浴を禁止した。しかしその成果が後々まで続かなかったことは、一七四三年に女帝エリーザベト・ペトローヴナ、そして後には上述のエカチェリーナ大帝がこの決定を繰り返し発した事実から明らかである。
P137 一七八三年の最後の条例によれば、婦人浴場に入るのを許されたのは、風呂屋と医師、それに---研究目的で---画家だけだった。噂ではこの条例が効力をもっていた時ほど多くの医者や画家が、ロシアにいたことは後にも先にもなかったらしい。
浴客の裸体が普通推測されるように、それほど問題のない無邪気なものではなかったことは、当時ロシアで広まっていた今の小咄が暗示するところである。多くの同時代の絵でも、ドートロッシェ師の本の挿絵とは反対に、共同浴場の男女は腰布をまとうか、少なくとも女性は小枝の束で下半身を隠していた。
スカンジナヴィアにおいても---少なくともある時代には---状況は同様であったらしいが、それについては矛盾する情報もある。スウェーデン人オーラウス・マグヌスは一六世紀の半ばごろ、故郷では男湯と女湯はそれぞれ二つの仕切られた部屋に分けられている、と報告している。
またある北欧人旅行者は、一六一三年ニュルンベルクで出版されたドイツの入浴習慣に関する著書の中で、次のように驚いている。
《ドイツ人が男も女も一つの浴室で、しかもほとんど全裸でベンチに並んで座っているのに、軽はずみな態度はまったく認められないほど自制できるなんて、当然のことながら不思議に思う》。これに反する別の報告もある。つまり、一六三五年にフランス公使館の書記官シャルル・ドジェはストックホルムの浴場を訪ねたが、そこで亜麻布の服を着た下女たちが男性に指先でマッサージをほどこし、湯を浴びせ、白樺の小枝で叩いていたのを見て仰天した。
《この仕事は、奇妙なことに肌着一枚しかまとわぬ若い娘たちによって行われた。彼女らは裸のP138男性とかかわってマッサージをほどこし、身体や頭から汗を洗い流し、石鹸を塗りたくり、シャワーをかけ、乾かすのに、おどおどしたり恥ずかしがったりする様子はまるでなかった。男性も女性も若い娘たちもいっしょに浴場を訪れた。女性は肌着だけを身につけ、一方男性は白樺の小枝で身体を覆っていた》。その際注意を引くのは、このフランス人がスウェーデン人をすこぶる無邪気なものと見なしたのが、上述のスウェーデン人のドイツ人に対する見解と同じだということだ。これを見れば、異国人を<エキゾチックにし>、実際よりもっと珍しい奇妙なものに仕立て上げようとする傾向が、この種の記述の中に潜んでいるのではないか、との疑いが起こる。
ところで、それは必ずしも著者が意識的に読者の《珍しいもの》への欲求に応えようとしたからではなく、著者自身が異国にある多くの見慣れたものをまったく違ウう目で観察したため、突然それらが極めて親しみのない珍奇なものに映ったからである。
ともかく、<北欧の礼儀作法>なるものに論じることはまったくできないが、男女混浴に関して、スカンジナヴィアに東西の落差があったのは確からしい。
なるほど一四世紀のノルウェーでは、浴場はしばしば飲み食い、祭り、ダイスやチェスに興じる社交的娯楽の中心ではあったが、見たところ男女混浴はデンマーク同様ほとんどなかったらしい。
いずれにせよ、一五七八年ノヴゴロドでデンマーク帝国参議院議員ヤーコプ・ウルフェルトは、居合わせた婦人や乙女の目の前で男数人が裸になって川に飛び込むという<水の祝福>に参加した時、自分の故郷では誰も異性の前で服を脱がなかったろう、と気づかされたのである。
P139むろんこれは、東西の落差が羞恥閾の落差であったことを示すものではない。なぜならフィンランドのサウナでも--日本の混浴と同様--最大限の礼儀作法が守られていたからである。フィンランドの古い諺に曰く《サウナでは教会内同様に振舞うべし》。
フィンランド人はたいてい軽装でサウナ室に入り、下着を着けたまま板張りの台に登り、そこで裸になって梁の上に服を投げ掛けた。因みに彼らは白樺の小枝をあてがうか、--女性の場合には--しとやかに座るかして陰部が見えないよう気を配った。また比較的若い女性は、サウナ従業員として働くのを禁じられていた。
フィンランドのかなり古い文献を見れば、サウナはしばしば男女別に仕切られていたことが明らかになる。またカレリア地峡では、夫婦さえ結婚後数年たってからやっと、いっしょにサウナを訪れるのが常であった。
一ハ九二年の報告によれば南フィンランドでは、入浴者は板の台に登ってから初めてその肌着を脱ぐことが許され、降りる時にはいつでも陰部のあたりを隠した。
P140 サウナから家まで男性はなるほど裸で走ったが、入浴用の小枝の束を前にあてがい、女性は丈の長い肌着を着けていた。ついに家に着くと女性は、居間のベットのカーテンの陰で服を着たのに、男性は炉端の腰掛のあたりでもっと堂々とやった。
第8章 ぶしつけな視線 P141-157
われわれはこのように、裸で混浴する事実があっても---たとえばエリアスの考えとは異なり---この場合の羞恥閾が肌着などを着て入浴する国々より低いわけではないことを、特に前世紀の日本の入浴習慣を手掛かりに見てきた。
むしろ反対にこの混浴のためには、より大きな<衝動の断念>が要求されたと思われる。なぜなら一方で人はぶしつけな視線を向けないよう常に自制しなければらないが、その反面、特に女性は他人に肉体の最たる秘部を見られたり、観察されることすら絶えず覚悟しなければならなかったからである。
その結果生じたのはわざとらしい雰囲気であり、西欧の目撃者が再三感じると思い込んだとらわれない雰囲気ではない。
さて、ひょっとするとこう言う人がいるかもしれない。これは決して驚くには当たらない。何しろ日本人が担っているのは高度の文化であって、原始的文化ではないのだから、大いなる衝動の束縛もP142当然期待されうるのではないか、と。
原注 7章 P412-419
②『裸はいつから恥ずかしくなったか』
第2章 混浴は日本全国で行われていたのか P51-842.10 まだら模様の入浴事情
2.11 風呂にすら入れない人々
第3章 日本人にとってのはだか~現代とは異なるはだかへの接し方~ P85-124
3.9 性をコントロールする方便 P113-117
P114 性を管理する手法はいろいろ考えられるだろう。ただ大別すると二種類になる。一つは性を徹底的に隠す方法、もうひとつは性をオープンにして日常品化する方法である。いずれを選択するかは「脳」次第である。
性の管理について西洋社会が前者を選択したのは言うまでもない。そもそも西洋は物事を「わけて考える」のが得意である。フランスの哲学者ルネ・デカルトは思考の基本態度として、ものごとを「求められるかぎり細かな、小部分に分割すること(方法序説P29)」を掲げた。
これは西洋流の「わける思想」を的確に表現している。そして、隠すということは他と区別することであり「わける思想」を適用していることに他ならない。一方、かつての日本人は明らかに後者を選択した。西洋社会の「わける社会」に対比して、日本は「つつむ社会」とも呼ばれる。
文化庁長官も務めた心理学者河合隼雄氏(東西で異なる「見るなの座敷」の結末——「あわれの心性」による完全美)は、こうした日本文化の特徴を「中空均衡構造」と呼んだ。これは「力もはたらきももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデル」である。
この対極に位置するのが「中心統合構造」だが、これはユダヤ・キリスト教などの一神教に見られる特徴だと河合氏は指摘する。
中心統合構造では、中心は絶対的であり相容れぬものを排除する。これに対して中心が空だと「善悪、正邪の判断は相対化」され、「統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる」わけである。
つまり併せてつつみこんでしまい。そうした心性をもつ日本人が、性をオープンに管理する道を選んだのは、極めて自然と言えよう。性をオープンに管理する日本の心性を表現した一例として、子供が登場する春画を紹介しよう。
P115(図3-6)。喜多川歌麿の『会本妃女始』(一七九〇、寛政二年)にある一点である。自分の姉と見知らぬ男との行為を見付けた弟が、「なぜ、おらが大事のあねさんの腹へまらをつっこみやアがった。泥棒め、アレおつかさん、あねさんをまらでえぐらア」と叫びながら男の髪をはひっぱる。(略)まさに笑い話である。しかし、性をここまで奔放に扱うかつての日本人とは、実に不思議な存在である。
同様のモチーフをもつ春画は他にも多数存在する。こうした春画に対して美術史家早川門多氏は「日本の性風俗として性愛についてのタブー意識が希薄であり、そのため性愛の場から子供たちを
3.10 異なる価値基準を前にして P116-117
P116 厳格に閉め出す意識が乏しく、子供たちが性愛の場に比較的容易に近づけたという現実が反映してゐると考へられる」と述べている。(略)こうして裸体が日常品化され、顔の延長のようなものとして機能する。このように裸体が日常品化された背景には、性をオープンに管理するという脳による基本方針があったのである。(略)
裸体を徹底的に隠蔽する文化と、裸体を日常品化する文化とが遭遇したとき、大きな衝撃を受けるのは明らかに前者である。隠蔽の否定は、理性の最大の敵である性を白日の下に引き出すことになる。これは理性の危機、裸体を隠す文化の危機でもある。こうして中心統合構造の原理が働いて、裸体を日常品化する文化を排除しようとする。
我々はすでに、異なる価値基準を前にして裸体を排除しようとする立場について見てきた。その代表のひとつが『ペリー艦隊日本遠征記』の論調である。ここでは混浴や猥褻図画の氾濫にP117対して、理解し難いものであり、日本人を「淫猥な人たちだ」と決めつける。そして、これらを「胸が悪くなるほど度が過ぎているばかりか、人が汚らしく堕落したことを示す恥ずべき烙印」と断定した。ペリーに随行した通訳サミュエル・ウィリアムズも同様である。
ウィリアムズは、日本人を「慎みを知らないといっても過言ではない」「淫らな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を過ごしている」と斬り捨てた。そして、彼が訪れた国の中で「この国が一番淫ら」だと断定する。また、ペリー艦隊ミシシッピー号士官スポルディングも、「ここで行われている嫌悪すべき不道徳な習慣からは目をそらすことはできない」と指弾した。(略)
さらに、ポーハタン号副艦長ジェームス・ジョンストン(相互参照)は「女性の貞節に関して私が以前から持っていた見解への衝撃は、容易に収まりはしなかった」と、裸体を日常品化する文化との遭遇で受けた大きな衝撃を語っている。そして「利口だが嫌悪すべき人間」と日本人を評した。さらに朝鮮通信使の一員で儒教の信奉者である申維翰は、日本人を「淫穢の行はすなわち禽獣と同じ」と断定した。
ghoti注『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料-(url)での日本人評は素晴らしく(裸体に関する記述無し)、人によってかくも印象が違うのか?それとも意図があってのことか?3.11 違いを乗り越えようとする努力 P118-121
3.12 異なる常識間のせめぎあい P121-124
第4章 弾圧されるはだか~西洋文明の複眼による裸体間の変容~ P125-158
4.6 タテマエの視線、ホンネの眼差し 138-141
第7終章 裸体隠蔽の限界 P225-231
7.1 裸体隠蔽の多様な副作用 P225-227
③『混浴と日本史』
第二章 国家仏教と廃都の混浴 P42-732.3 廃都の混浴 P66-73