第三章 一九一五~三四 P80-149
P101 昭和七年四月二十八日。三週間余り前二十七歳になったばかりの文隆は、サンフランシスコ行き客船、『大洋丸』の甲板に立って、見送りの人波を見おろしていた。(P104-)
(二)ニューヨーク P105-149
P105 サンフランシスコの埠頭には、サンフランシスコ駐在日本総領事の若杉要が出迎えてくれた。若杉は、文隆の祖父篤麿公が創設した東亜同文書院の卒業生だ。
(略、シカゴを経てニューヨークへ、入学するローレンスヴィル・ハイスクールのあるフィラデルフィアに近いニュージャージー州西端へ、卒業生の大半は七キロ離れたプリンストン大学に進学する。ゴルフ部入部)
P108 入学してからおよそ七か月余り後の一九三三年すなわち昭和八年一月、文隆は冬休みを利用して、ゴルフ部の仲間たちとフロリダで合宿した。
(略、P110ジーン・サラゼンと手合わせ、アドバイスをもらうという幸運)
P115 波瀾に富んだ高校生活だったが、一九三四年すなわち昭和九年六月十八日、どうにかローレンスヴィル・ハイスクールを卒業することが出来た。
(略)
P116 夏休みを日本で過ごした文隆は、八月下旬アメリカに戻り、九月三日、プリンストン大学の入学式に臨んだ。専攻は政治学。
(略、学生生活)
P121 車を入手して以来、土曜日の午後はニューヨークで過ごすことが多くなった。この頃のニューヨークは、一九二九年秋に始まった大恐慌の傷がほぼ癒えて、盛り場も以前の活況を取り戻しつつあった。一時は閑古鳥が鳴いた老舗のバーやレストランにも、客が戻ってきていた。
そうした老舗のバーのひとつ『デンプシー』が、ニューヨークにおける文隆の拠点だった。車を飛ばしてニュージャージーを縦断し、ハドソン川を渡って、まずは『デンプシー』に向かう。ここでしばらく飲み、腹が減ると、ウィリアムズバーグ橋のブルックリン側のたもとにある、これも老舗のレストラン『ピーター・ルガー』でステーキを食う。仕上はドイツビールの店『ジャーマンクォーター』。
(略)
P124 こうした文隆の奔放な生活ぶりは、当然のようにニューヨーク在住邦人の間で評判になった。噂は首都ワシントンまで飛火し、在米日本大使館員の耳にまで届いた。
(略)
自重を促す人もいたが、文隆は黙殺した。自分はただむやみに遊びまわっているのではないという、開き直りにも似た思いがあったからだ。また、そう言えるだけの多少の根拠もあった。彼が足を向けるいくつかのナイトクラブやレストランは、アメリカ東部で指導的立場にある人々の溜まり場として知られていた。
P125なかでもユダヤ人街にある『ピーター・ルガー』はマスコミ関係者が多く集まり、常に著名なジャーナリストやコラムニストが顔を見せている。
文隆がはじめてこの店を訪れたたのは、プリンストンに入って間もなく、ニューヨークに立ち寄った旧知の白洲次郎(参照)に連れられてであった。白洲次郎は、建築で財を成した白洲文平の息子で、以前英字紙『ジャパン・アドバイザー』の記者をやっていた時期があった。文隆に負けず劣らずの長身で、達者な英語を話した。以前イギリスに留学していた頃、折に触れてアメリカを訪れ、ニューヨークの事情にも通じていた。
文麿公と親しい樺山伯爵令嬢正子を娶り、目白の近衛邸にも時折顔を見せていたので、文隆も少年時代から彼を知っていた。白洲の日本人離れしたバタくさい容貌と、如才ない話しぶりに、兄貴に対するような好意を抱いていたのだった。
その白洲が、昭和九年十月はじめ、久しぶりにニューヨークにやってきた。そしてこの月の五日午後二時すぎ、文隆に電話をかけてきて、待ち合わせの場所として指定したのが、『ピーター・ルガー』だったのだ。
(略)
P129 文隆と白洲が食後のブランデーを楽しんでいる時、隣のテーブルで議論していた四十歳ぐらいの禿げ頭の男と、三十歳をわずかに出たぐらいの眼鏡をかけた男の会話が耳に入ってきた。
「昨日の日本大使の定例記者会見はひどいものでした。ジャップは、今頃になって清朝の末裔溥儀を引っ張り出し、マンチュリアを建国したことについて、ロシアの南進を防ぎ、極東アジアの平和を保つためだと強弁しています。
しかし実際のところは、過去数年来経済が不調で、鬱積した国民のはけ口が必要だったことと、豊富な地下資源を狙っての、侵略行為にほかなりません。マンチュリアは、日本の完全な傀儡国家です。それに対するアメリカの対応は甘過ぎます。政府は経済制裁を含む、強力な対応をすべきです。次回の論説で、政府の尻を叩いてください。
眼鏡をかけた男が、ポマードできっちりと撫でつけた茶色の髪を光らせながら、そう力説していた。
(略、満州事変についての二人の男の会話、に我慢がならなくなった文隆が割り込む)
P132「どこが間違った認識なのですか」
「なによりもマンチュリアは、中国の固有の領土だ。日本はそれを無視し、ロシアの進出を阻止するという荒唐無稽な理由を掲げて、マンチュリアに軍を進め、ひいては傀儡国家を設立してしまった。アメリカは国際社会の一員として、これを座視するわけにはいかないのだよ」
P133「ならば、イギリスがオスマン・トルコの衰退につけ込み、同じようにロシアの南下を阻止すると言いたてて、あっというまに中近東を席巻したことを、どうお考えですか。今は独立したとはいえ、イランもイラクも、まったくイギリスの意のままになる王家を推戴しているではありませんか。
それに比べれば、当初から今は亡き清朝の再興を目的に、五族協和を旗印に独立した満州は、はるかにまともな国です。アメリカがかつてのイギリスの行為は見て見ぬふりをし、日本だけをことさら非難するのは、矛盾しています。いわばダブル・スタンダードでしょう」
(略、二人は、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の政治部記者・ユージン・サルツマン、ロンドンの『ニュース・クロニクル』紙記者、東京駐在特派員・ギュンター・シュタインであった)
P135 文隆は、満州国が日本とロシアのバッファー・ステーツ、つまり、緩衝国として不可欠の存在であること、さらに、漢民族支配からの脱却をはかった満州人の独立を日本が支援した結果、満州国が誕生したことの正当性を力説した。
「バッファー・ステイツ論については、国際関係間の冷徹な政治力学に照らして、いちおう聞こう。しかし、日本が満州人の漢民族からの支配脱却を支援した結果、満州国が出来たという、君の説には同意出来ない。だいたい、君の祖父である近衛篤麿公だって、清朝打倒に動いた孫文の熱心な支持者だったではないか。篤麿公だけではない。
当時の日本には、民族の壁を越えて、孫文を支援する者がたくさんいた。しかるに、かつてあれほど支援した孫文の夢がかなった今、今度は一転して、孫文らに滅ぼされた清朝の再興を唱えて満州国を設立するなど、同じ日本人のやることとは思えない」
(略、こうして、文隆と二人は友人になった。有閑マダム・エイミー・ベルグマン夫人(架空の人物?)と昵懇のなかとなる)
P147 だが、エイミー・ベルグマンとの付き合いで、文隆の得たものは大きかった。何よりも彼女は、アメリカそのものだった。少なくとも文隆にはそう見えた。陽気で気が強く、楽天的な浪費家。そして基本的に正直だが、必要とあらば、平気で嘘もつく。
そうしたエイミーの性癖を、彼女を通じて知り合った作家のスコット・フィッツジェラルドが、当のエイミーを前にして、こう評した。「要するにエイミーは、ものすごく幸せなのさ。そして、この上なく不幸だ。亡くなったエイミーのダンナは、一九二○年代の好景気時、不動産取引を通じて巨万の富を得たP148ことは、ブッチも知っているね。
第四章 一九三四~三八 P150-220
(一)ニューヨーク P150-171(P150-)
P152 文隆がエイミー・ベルグマンと付き合いはじめておよそ半年後の一九三五年五月二日。『ウィスパー・ニューヨーク』というタブロイド紙の一面に、
---日本のプリンス、ニューヨーク社交界のスターを溺愛!というタイトルで、事実を極端にフレームアップしたコラムが載った。この記事の文隆は当の相手であるエイミー宅で読んだ。彼女はまったく歯牙にもかけない様子で、「ブッチ、これであなたも、ニューヨーク社交界で一人前の男として認められるわ」と、鼻にしわをよせて笑った。
いっぽうこうしたゴシップが、それなりに影響力を発揮することを知り尽くしている人々にとって、この記事は笑ってすませられる範囲を逸脱していた。マンハッタンの中心街にあるロックフェラーセンターの一角に、RCAビルがそびえている。この日、その三十六階にある日本総領事館の総領事執務室に集まった数人の日本人たちの判断が、まさにそうだった。
総領事の沢田廉三が、苦虫をかみつぶしたような顔つきで腕を組んでいた。沢田は、戦後国連大使をつとめた練達の外交官で、風貌人格とも洒脱でおだやかな人物である。ちなみに沢田の夫人美喜は戦後、戦災孤児や、駐留軍兵士と日本の女性の間に生まれた、身寄りのない子供たちの保護施設『エリザベス・サンダースホーム』を設立運営して話題になった。(略)
「FBI筋から聞いたところによると、このエイミー・ベルグマンという女性は、アメリカ共産党の隠れ党員だという噂のある、ジャーナリストのウィタカー・チェンバースP154や、ギュンター・シュタインらと親しいらしい。もし彼女自身も隠れ党員だったりしたら、大事になる。早いうちに手を打つ必要がある」
「アメリカのにも、共産党があるんですか」
驚きの表情でそう聞いたのは、この春外務省に入省し、その足でアメリカ赴任を命ぜられた、新米外務書記生平沢和重(tw)だった。平沢は戦後外務省を退官した後、NHKの解説員になり、わかりやすく外交問題を解説して人気を博した。
「少し前まで、れっきとした公認政党の共産党があった。非合法化された今も、主要メンバーの大半は健在だ。彼らはもともと隠れ党員で、学者やジャーナリストとして活躍していたので、無傷のまま生き残れたのだ」
にこりともせずそう言った後、沢田は視線を動かして、平沢の隣に座っている阿波則夫二等書記官を見やった。「阿波君、すまんが、平沢君を帯同して、このベルグマン夫人に会ってくれ。そして、文隆君の置かれていう状況を説明し、彼に対する課外授業はこれで打ち止めにしてもらいたいと言ってほしいんだ。言い方は任せるが、マスコミに嗅ぎつけられることだけは避けてほしい。
(略)
(二)ヨセミテ P171-220
P171 昭和十一年(一九三六)五月二十日午後。文隆は、ワシントン駐在日本大使館に呼ばれた。いつになく、あらたまった呼び出しだった。
(略)P174なにやら重要な用件らしい。そう見当をつけた文隆は、身を乗り出すようにして質問した。
「八月半ばに、太平洋問題調査会第六回大会という国際会議が、カリフォルニアのシエラネヴァダ山中にある保養地、ヨセミテで開催されることになった。この会議に、日本から元外務大臣の芳澤謙吉さんを団長とする代表団が乗り込んでくることになっている。これを手伝ってほしいんだ」
「太平洋問題調査会、ですか。それはどんなことを話し合う組織なんですか?」「太平洋調査会は太平洋地域に利害を持つ国々、すなわち日本、支那、アメリカ、ソヴィエト連邦、それにオーストリアなど、直接太平洋にかかわりのある国々と、この地域に植民地を持つイギリスやフランス、オランダなどが参加して設置された常設機関だ。
二年ごとに一堂に会して、折々の問題を討議する。今回は日本とアメリカなど欧州諸国との貿易問題、支那那事変、満州国などが議題の中心になりそうだ。君に手伝ってもらいたいというのは、団長の芳澤さんの意向だということだ」
(略)
P176八月十二日、芳澤謙吉元外相を団長とする日本代表団が、ヨセミテに到着した。
彼らの宿舎は、会議が行われるホテルである。ホテルの前庭に立てられた十数本の旗竿には、会議に参加する各国の国旗が、涼しい高原の風にはためいている。文隆は、やはり一足早くヨセミテに到着して、代表団の到着を待っていた。
P177在米日本大使館の平沢和重(tw)ら若手外交官とともに、ホテルの玄関で彼らを出迎えた。
「おう、ポチ君。久しぶりだな」
まっさきに声をかけてきたのは、(略)通訳兼秘書団長を務める牛場友彦である。
イギリスのオックスフォード大学を卒業した後、太平洋調査会書記に就任、得意の英語を生かして各国との調整に走り回ってきた。
「日本を出発する直前、渡米のご挨拶をするため君の父上におめにかかった。近衛公は、ポチの奴、わしの目がとどかないのをいいことに、アメリカではずいぶん羽を伸ばしているらしい。
会議中は君がしっかりと見張っていてくれたまえ、と言っておられた。そんなに羽を伸ばしているのか。うらやましいかぎりだな」
牛場の生家は、明治維新後財を成した裕福な商家である。端正な細面にコールマン髭をたくわえた容貌は、まるで公卿の流れをくんでいるかのように貴族的である。しかし風貌と裏腹に、きわめて剛毅かつあけっぴろげ、さっぱりとした性格の持ち主で、たいていのことには動じない。
文隆はそんな牛場が好きだった。だが、顔を合わせるなり、父親のせりふまじりでからかわれて、おもわず口を尖らせた。
P178「いきなり何を言われるんですか。羽なんか伸ばしておりませんよ。毎日、勉強やらなにやらでぎゅうぎゅう言わされているんですから」
「わたしにまで弁解することはないよ。余人は知らず、貴公に限ってそんなことはあるまい。ちゃんと顔にも、女難の相が出ておる。誤解しないでもらいたいが、それがいかんと言っているのではないぞ。
わたしも留学経験がある。現地の人文風物をよく知るには、多少羽を伸ばすぐらいでないと、現地との接点は見つからない」
「そう言って下さるのは、牛場さんくらいのものです」
苦笑いしながら頭を掻いた文隆に、牛場は自分の両脇に立って、文隆とのやりとりを微笑みながら見つめていた、ふたりの男を紹介した。いずれも牛場と同年配の、三十歳をわずかに超えたくらいの男たちだだった。
「近衛君、この人は、西園寺公望老公のの孫--と言っても、直接は血のつながりのない養子だがね--で、わたしと同じく太平洋調査会で働いている、西園寺公一君だ」
「君が有名なポチ君か。祖父からしばしば君について聞かされている」
ベージュの麻のスーツを涼しげに着こなした西園寺公一は、黒縁の眼鏡をかけた卵型の顔に愉快そうな笑いを浮かべて、文隆の手を握った。彼も牛場と同じ時期、オックスフォード大学への留学経験を持つ。握手を求めるしぐさも日本人離れしていた。
留学から帰朝した後、しばらく外務省の嘱託を務めた。今回の渡米直前外務省を退き、太平洋調査会の専従職員となった。
P179「西園寺公には、祖父や父がひとかたならずお世話になっております」
文隆はそう言って、丁寧に西園寺公一の手を握り返した。実際西園寺家と近衛家は、親戚同様と言っていいほどの深い間柄である。文隆の祖父篤麿公が早逝した後、西園寺公望公は、若くして近衛家を継いだ文麿公の後見人的な立場になった(相互参照)。
外遊する西園寺公に同行した文麿公は、公望公の秘書として身辺にあり、種々薫陶を受けた。
少年時代文隆も、父のお供で西園寺家を訪れたことがある。しかし、いま目の前にいる公一とは顔を合わせたことがなかった。
「そしてこちらは」
牛場は、自分の右斜め後ろに、控え目にたたずんでいたもうひとりの男を紹介した。
「朝日新聞の敏腕騎射にして、太平洋調査会の嘱託を務めてくれている尾崎秀実君だ。尾崎君は支那語に堪能で、日本の新聞界では右に出る者がいないと言われている支那通でもある」
「よろしく。あなたの父上には、しばしば取材等でお世話になっています」
尾崎と紹介された男は、牛場や西園寺とは対照的に、いかにも日本人然とした印象だった。濃紺の背広に包んだ身体はずんぐりとしていて、垢抜けない感じだった。しかし、細い目をいっそう細めて笑いながら話しかけてくる尾崎には、初対面の者の気持ちを一瞬にときほぐす不思議な魅力があった。
P180「ポチ君は長いことアメリカにいるのだから英語は堪能だろう?わたしと西園寺君は、いちおうイギリスで暮らしたので英語でのやりりにはあまり困らない。だが尾崎君は、さっきも言ったように支那語の達人だが、英語はあまり達者でないらしい。彼が言葉のことで困るようだったら、ポチ君、いろいろと手伝ってくれたまえ」
牛場がそう言うのに、尾崎は柔和な笑いを浮かべて文隆を見やってうなずいた。
「ぜひ、そう願いますよ」
だが、それは謙遜だということが、じきにわかった。日本からの代表団が到着したというので、先着していたアメリカ太平洋調査会書記長フレデリック・バンデルビルト・フィールドらが玄関先まで出てきた。
尾崎は彼らと、牛場や西園寺のように流暢ではないものの、よどみのない英語で挨拶を交わしたのだった。
日本代表団は、団長以下そうそうたる顔触れで構成されている。副団長の貴族院議員で元法制局長官の山川瑞夫、経済学者で東京商科大学教授の上田貞次郎、東京帝大教授で英米法の権威高柳賢三、医師ながら満州国間島省長を務めている、金井章次。
ちなみに金井は満州国の財政を支えるため、アヘン取引の元締的な役割を果たしていたことが戦後明らかになって、公職追放になるという変わり種だ。
P181いわば日本としては、会議で紛糾必至の満州および北支問題に備えて、万全の態勢を整えての参加だった。
しかし、こうしたそれぞれの分野での権威をさしおいて、実質的に日本代表団を取り仕切っているのは、三十五歳になったばかりの牛場である(tw)。その彼を支えるべく派遣されたのが、英語に堪能な西園寺と、中国問題に精通している尾崎だった。
尾崎と牛場は一高東大を通じての同期生である。富裕な家庭に育った牛場や西園寺と異なり、薄給のジャーナリストだった父を持つ尾崎には、外国に留学するような余裕はもとよりなかった。尾崎は東大を卒業すると同時に朝日新聞に就職した。
以後特派員として中国大陸にわたり、足かけ四年間にわたって上海、北京で活動した。そんな尾崎を、東大同期生で親友の牛場は、アメリカで開催される太平洋調査会議の日本代表の一員に招いた。
各国代表を相手に、満州や北支など、大陸における日本の立場を論理的に説明しうる人物は、尾崎をおいてほかにないというのが牛場の考えだった。
牛場にとってありがたかったのは、今回の渡米を機にはじめて顔を合わせた尾崎と西園寺が、太平洋を横断する船中で意気投合し、無二の親友同士になったことである。
結果的に牛場を核として三人が親友になり、この上ないチームワークが可能となった。
実のところ、日本代表団の事務方助手として文隆が選ばれたのも、牛場の推挽があったからだった。牛場が、日頃から目をかけられている近衛公に、ヨセミテでの会議参加に向けての準備について報告におもむいた折、留学中の文隆のことが話題になった。
P182「そんな国際会議の雰囲気を体験するのも、ポチにとってはいい勉強になると思うんだがね」
という近衛公の言葉の真意を敏感に汲み取った牛場は、
「実は、現地で手伝ってくれる助手を、ぜひともほしいと思っていたところです。文隆君にそういう役回りをお願いしていいですか」
と言った。まだ学生の身分である文隆が、在米の大使館や領事館勤務の若手職員を差し置いて事務方助手に選ばれたのは、そういった背景があった。
団長の芳澤元外相や斎藤博駐米大使は、牛場の人選を追認しただけだったのだ。
牛場が尾崎秀実の助手に文隆をあてがったのも、近衛公の意向をおもんぱかってのことだった。孫文らと親交のあった文隆の祖父篤麿公が、後に東亜同文書院となる東亜同文会を上海に設立して以来、近衛家と中国の関係は極めて密接なものになっている。
文麿公は、昭和初期までは東亜同文書院の理事長を務めた。近衛家の嫡男文隆も、いずれは父と同じ道程を歩むことになる。
そのためにも、尾崎のような中国問題の泰斗と親しくなっておく必要がある。
そのあたりの事情を、牛場は尾崎に説明などしていない。だが、問わず語りに尾崎もちゃんと心得て、文隆を遇した。
P183尾崎は、太平洋を横断する『大洋丸』の中で、会議で発表する日中関係の論文を練った。それは、„RECENT DEVELOPMENT IN SINO-JAPANESE RELATIONS=日中関係における最近の展開”というタイトルの、密度の濃い論文だった。
彼はそれを英語に翻訳し、会議で発表することになっていた。ヨセミテに到着した翌日の八月十三日夜、尾崎はその原稿を文隆に見せた。
「近衛君、会議二日目に、私はこれを発表せねばなりません。どこかに誤りやおかしな表現がないか、さっと読んで見てくれませんか。生きた英語で鍛えられた目で点検してほしいのです」
文隆は、尾崎の部屋の机で、その論文に目を通した。そして、舌を巻いた。英語の表現力もさることながら、中国に関する見事な分析と論理の組み立ては、これまでその方面に関心を持たなかった文隆をも、引き込んで読ませる説得力を持っていた。
「素晴らしい論文ですね。それと、英語の表現もすごい。尾崎さん、もう英語が不得意だなんておっしゃってはだめですよ」
心底感心した文隆がそういうと、尾崎は細い目を糸のように細めて、うれしそうに笑った。
そこへ、緊張した面持ちの牛場が入ってきた。右手に紙片を握りしめている。
P184「おい、尾崎、アメリカ側の作戦がわかったぞ」
「アメリカ側の作戦?日本のソシアル・ダンピングを槍玉にあげる、というんだろ?」
そんなことは前からわかっている。いまさらなにを興奮してるんだ、とでもいいたげな調子で、尾崎が聞き返した。
「それもある。だが、連中が議論の中心にすえようとしているのは、別のことだ。去る二月に起きた二・二六事件の結果、それまで対立しつつも微妙な均衡を保っていた、日本陸軍内部の権力闘争にケリがついた。
それを踏まえて、今後の日本の対支那、対満州政策について議論しよう、というのがひとつ。残りのひとつは、二ヵ月ほど前に成立した日本の自動車製造事業法が(tw)、ヨーロッパやアメリカの自動車メーカーにいかなる影響を及ぼすかを、研究テーマとして議題にのせたい、というものだ」
「ほう」
尾崎が、感心したような声を出した。
「アメリカさんにしてはめずらしく、本格的な切込みをしてくるな」
「感心している場合じゃない。つっこまれたら、厄介なことになるテーマばかりだ」
「だいじょうぶだよ」 尾崎は平然と笑いながら言った。
P185「どうせ、誰かの入れ知恵だ。日本の事情に詳しいジャーナリスト、たとえばギュンター・シュタインか、ウォルター・リップマンあたりに知恵をつけられて急遽、より実際的なテーマにしぼりこもうという魂胆だろう。
二・二六なんて、日本のような後進国にはよくある権力争いがらみのクーデターだ。自動車製造事業法については、フォードやGMの日本法人が、あまりやりたい放題にやるから、それに歯止めをかける意味で生まれた法律だとはっきり言ってやればいいさ」
「お前は気楽でいいな。そんなこと、国際会議の場で言えるわけはないだろうが。芳澤さんは、にがりきっておるよ」
牛場と尾崎のやりとりを、文隆は尾崎の英語論文を読むようなふりをしながら、黙って聞いていた。そして、同級生同士で、こんな議論が出来るふたりの関係を、うらやましく思った。
プリンストンの同級生で、いいゴルフ仲間、遊び仲間は何人もいる。だが、政治学を専攻する立場から、現在の日米関係やそのほかの国際関係を、正面から議論しあえるような友人はほとんどいない。
かろうじて、今奇しくも名前の出たギュンター・シュタインや、ウィタカー・チェンバースなど、ニューヨークの下町のレストランで出会ったジャーナリストたちと、その手の議論をしたことがあるだけだ---。
文隆がなぜ、そんなことを思ったかというと、つい一ヵ月ほど前、父文麿公からの手紙の中に、自分の金遣いの荒さをいさめる言葉とともに、遊んでばかりいないで、たまには天下国家について考えよ、というくだりがあったからだ。
その点に関しては、前々から内心忸怩たるものがあっただけに、痛いところをつかれた思いだった。図星だっただけに、逆に反発する心も湧いた。そんな思いを直接手紙にしたためて、母に送った。
……今のアメリカの大学生は、ことさらに天下国家を論じたりはしない。かと言って国家を考えていないわけではないから、とりこし苦労をなさらないように。
そんなことを書いた手紙を発送した後、さらに後悔した。これでは、自分の金遣いの荒さ、とかくの噂のある素行について、逆に開き直ったと受け取られても、しかたがないではないか……。
八月十五日、太平洋調査会第六回大会は、無事開催された。会議の間中、文隆は牛場や尾崎の雑用を一手に引き受け、分厚い体躯を忙しく動かして、文字通りコマネズミのように走りまわった。
当初、名門近衛家の遊び好きな御曹司くらいの認識しかなかった日本代表団の面々の、文隆を見る目が変わった。
尾崎の論文は、各国それぞれの立場からの反論はあったものの、その内容についてはひとしく賞賛を浴びた。いつも穏やかに笑っているこの新聞記者に対して、文隆はいちだんと尊敬の念を深めた。
P187八月二十九日、会議は無事終了した。
いわば下働きにすぎなかったが、つつがなく仕事を終えることが出来て、文隆もほっとした。ほっとしたのは文隆だけではなかったらしい。
会議の全日程を終えた翌日の三十日夜、主だった出席者を集めて、アメリカ代表のフレデリック・バンデンビルト・フィールドが、フェアウェル(お別れ)・パーティを開催した。会議の緊張が解けた解放感からか、この席は荒れた。
アメリカ側の事務方の責任者だったジョナサン・カーターは、パーティの会場で飲み過ぎてぶっ倒れた。日本側の事務方責任者牛場友彦も、酔った勢いで、ホテルの裏を流れる川に飛び込んだ。
文隆は、アメリカ側のアシスタントを務めた若い娘とチークダンスをを踊っている最中、キスをしたまま牛場の後を追って川に飛び込んだ。まさに乱痴気騒ぎだった。
ヨセミテから帰った文隆は、前にもましてゴルフに精を出した。勉学のほうはあいかわらずかんばしい結果が出ない。だが、ゴルフではプリンストン学内だけではなく、アイビー・リーグの学生ゴルファーで、文隆の右にでる者はいなくなった。
P188文隆のゴルフの特徴は、いかなる状況のもとでも、思い切り良くフルスイングをすることだった。ティーショットのみならず、ピンに四十ヤードぐらいのところでも、クラブをフラットに持ってフルスイングした。
分厚い胸板の筋肉を躍動させてクラブを振ると、乾いた音をたてて飛んで行ったボールが、ピンのそばに落ちた。
年が明けて昭和十二年になった。この年の四月、子供の頃ブタ公とかオンちゃんとか呼んで、ひときわ可愛がっていた末の妹の温子が結婚した。相手は文隆の親友で、学習院時代の同期生、細川護貞だった。
細川は、江戸時代の終焉まで熊本地方を支配した大名で、現在は侯爵に任ぜられている細川家の嫡男である。
長身で性格温厚、ゴルフ好き。文隆にとっては唯一無二の親友といっていい。
文隆がアメリカにきた直後、細川と温子は恋に落ちた。そして、いつしか将来を誓い合う仲になった。そのふたりが、晴れて結婚したのだ。
このことを知らされた文隆は、親友のスチュアート・アトキンらを寮の自室に呼んで、一晩飲み明かした。酔ったあげく日本語で、
「うちのブタ公が、サダの嫁さんになりよった…」
P189と、何度もつぶやいては、ひとりで笑っていた。アトキンが気味悪がって、
「何をいってるんだ。英語で言ってみろ」
と言ったので、文隆は自分の言葉を英語に置き換えた。
「おれんちのブタ公が、親友と結婚した」
と言うのを聞いて、アトキンたちは、ますますわけがわからなくなった。
これから約二ヵ月の六月一日、文麿公に組閣の大命が降下した。このことはアメリカの新聞でも、一面で報道された。
文隆はしかし、さほど驚かなかった。かねてから予測されたことであったからだ。加えて、数日後に迫ったゴルフの大学クラブ選手権の準備に忙しく、父への大命降下など、実のところどうでも良かったのである。
六月四日、近衛内閣発足。外相に元総理の広田弘毅、内相馬場鍈一、蔵相賀屋興宣、陸相杉山元、海相米内光政。戦後の官房長官にあたる内閣書記官長には、ジャーナリスト出身の衆議院議員風見章(相互参照)が任命された。
翌五日(アメリカ東部時間)、文隆はスプリングデール・ゴルフクラブで行われた大学選手権に優勝。プリンストン大学ゴルフクラブの主将に選ばれた。この夜、親しい友人たちとビールを飲んだ文隆は、
(P190)
P190「日本では、プライム・ミニスターは首相、クラブのキャプテンは主将とと呼ばれて、発音はまったく同じなんだ。だから、俺と親父は同格だ」
などと言って、仲間たちを煙に巻いた。
(略、盧溝橋事件勃発)
(P192-)
(P200-)
P200さすがにこの時間になると、いくらかしのぎやすくなる。プリンストンのロゴの入った白いポロシャツに、黄色のゴルフズボンといういでたちで日枝神社の脇を通り、山王下に出る。およそ一年半前、二・二六事件の折に反乱軍を指揮した将校たちが結集した料亭『幸楽』は、不気味なほど静まりかえって黄昏の薄暗がりの中に沈んでいる。
尾崎との会食の場所は、虎の門交差点近くにそびえる満鉄ビル七階のレストラン『あじあ』と決めてあった。
七時五分前、文隆は虎の門交差点にほど近い満鉄ビルに到着した。エレベーターで七階に上り、レストラン『あじあ』の入口に踏み込んだところで、先着して席にに案内されるのを待っていた牛場と鉢合わせした。
奥まった席につき、尾崎の到着を待つ間、ビールを飲んだ。文隆たちのテーブルの、通路を隔てて反対側に位置する席では、白人の男がふたり、額を突き合わせルようにして話し込んでいた。
二人のうち、小柄なほうの男に、なんとなく見覚えがあった。
---どこかで会っている。誰だっけ。
思案しつつも、あまりじろじろ見つめるのは失礼だと思って、視線を正面の席に座っている牛場に戻し、談笑した。
数分後、グレイの背広の上着を小脇にかかえた尾崎が、汗をふきながら姿を現した。
P201「いやあ、すまない。出だしにヤボ用が入ってね。いやあ、近衛君、ひさしぶりです。あの節は、ほんとうにお世話になりました」
尾崎は、陽気な大声で遅刻の言訳をしながら、文隆と握手を交わし、一別以来の再会を喜んだ。
彼の声があまりに大きかったのだろう、隣のテーブルで話し込んでいた白人客が、顔を上げて尾崎を見た。
「なんだ、ずいぶんにぎやかな人がいると思ったら、オザキさんじゃないですか」
大柄なほうが立ち上がって、英語で尾崎に声をかけた。彼を一瞥した尾崎は、一瞬驚きの表情になったが、すぐに破顔一笑して、
「なんだ、ドクター・ゾルゲ(相互参照)じゃないの(tw)。これは奇遇ですな」
そう言ってから、笑顔を文隆に向けて、その男に引き合わせた。
「ドクター・ゾルゲ、この方は内閣総理大臣近衛文麿公のご子息、文隆君です。近衛君、わたしの友人で、ドイツの『フランクフルター・ツァイトゥング』紙特派員、ドクター・リヒャルト・ゾルゲです」
文隆は一メートルは八十センチ近い長身だ。しかし、尾崎に紹介されたゾルゲというジャーナリストは、その文隆よりもさらに数センチ背が高かった。
がっしりとした顎を持つ長めの顔、鋭い青灰色の目、広い肩幅。一見したところは猛禽類のような、獰猛で近づきがたい雰囲気を発散している。
P202だが、笑うと一転して親しみやすい顔つきになった。ただ、右顎から首の上部にかけて貼られている大きな絆創膏が、笑顔になるたびに彼の顔をひきつらせ、いかにも窮屈そうだった。
上等な物らしいが、乱暴に着ているせいかよれよれに見える茶色の上着の腕を、無造作にまくっている。その手をさっと差し出して文隆の手を握った。
「首相閣下のご子息ですか。はじめまして、ゾルゲと申します」
ドイツ訛りはあるものの、滑らかな英語だった。その時、ゾルゲの脇に立っていた小柄な男が控えめに話しかけてきた。
「プリンス・コノエ、わたしを覚えておられますか。ニューヨークの『ピーター・ルガー』でお会いした、ギュンター・シュタインです」
「あっ、そうか。いや、実はポチ--ぼくも先刻お見かけした時に、どこかで会ったことのある方だと、と思ったんですよ。いやあ、これはうれしい」
「驚いた。世の中、せまいもんですね」
ゾルゲとシュタインは、以前から牛場と顔見知りだった。シュタインは今、ロンドンの『ニュース・クロニクル』紙特派員として、日本に滞在中だという。
顔見知り同士が集まったという形になり、通路を挟んだふたつのテーブルで、おおいに盛り上がった。ゾルゲと名のった特派員は、自分の顎の絆創膏について、照れくさそうにこう説明した。
P203「二月ほど前、酔ってオートバイを運転し、道端のコンクリートの壁にぶつかって大怪我をしました。怪我をする前は、もうすこし男前だったのですよ。くそいまいましい怪我のおかげで、女にもてなくなりました」
ひとしきり互いの近況を述べあった後、シュタインが文隆に質問した。
「コノエさん、プリンストン卒業まで、あとどれくらいかかるのですか?」
文隆はにやりと笑い、
実のところはたして卒業出来るかどうかが問題です。だから、いつという質問にはお答え出来ません」
と言った。牛場が驚いて、詰問口調で聞いてきた。
「ポチ君。いまの話はほんとうかい?そのことを近衛公はご存じなの」
文隆はうなずいて、
「すでに父には、そういう可能性があると伝えてあります」
と答えて、また笑った。
牛場はしばらくの間、文隆を無言のまま見つめていたが、やがてほつりと、
「こんなことを言うと、近衛公にお叱りをこうむるかも知れないが、どうせポチ君は、いずれ政治の世界に入ってくることになるのだから、留学はほどほどのところで切り上げて帰朝し、日本の政界の空気にじかに触れたほうがいいのかもしれないね」
P204と言った。
日本語をある程度理解するギュンター・シュタインが、薄笑いを浮かべて割り込んできた。
「ミスター・ウシバの言われたことに水をさすわけではないが、オウリンス・コノエは、アメリカで政治学だけを学んでいるわけではなさそうですよ」
牛場が真顔でうなずいた。
「アメリカに留学したことにより、ポチ君のゴルフの腕前に、いちだんと磨きがかかったことは、もちろん承知しています」
それから、突然ににやりと笑って文隆の顔を見た。何もかも知っているぞ、という表情だった。文隆は頭を搔いて、
「シュタインさんはたぶん、ゴルフのことだけを言われているのではないでしょう。このことをおっしゃりたいのではないですか」
と言って、右手の小指を立てた。ゾルゲが文隆に向かってウインクした。
「そうです。その国をより深く知ろうと思ったら、女性と仲良くなるに越したことはありません」
この頃ゾルゲは、石井花子という日本の女性とつきあいを深めていたところだった。
P205この席で、それを知っていたのは尾崎だけだったが、その尾崎は、腕を組んで黙って笑っていた。
たわいのない話題でひとしきり盛り上がった後、話題は自然に、二週間余り前に北京郊外の盧溝橋で勃発した、日支武力衝突の今後の見通しに移って行った。口火を切ったのはゾルゲである。
「近衛公をはじめとする日本政府はもちろんのこと、参謀本部も、日支間の紛争をこれ以上拡大させないと言っているが、それは額面通り受け取っていいのだろうか?」
牛場がすかさず答えた。
「すくなくとも政府は、紛争がこれ以上拡大しないように全力をあげている」
それに尾崎が首を傾げて質問を呈した。
「しかし、軍の中には、この際徹底的に支那をたたいてしまえという、いわゆる膺懲論者が少なくない。わたしは政府がそれを抑えきれるかどうか疑問に思っている」
牛場は一瞬言葉を選ぶように宙をにらみ、
「手は尽くす」
と言った。ゾルゲが追い撃ちをかけた。
「それは事態の収拾を現地軍まかせにせず、政府間の交渉に委ねるということか」
牛場はまたしばらく視線を宙にさまよわせてから、小さく首を縦に振った。
P206「それも選択肢の中に入っている。しかしこのことはまだ、オフレコにしてもらいたい」
ゾルゲが、なお質問を続けようとした時、牛場にレストランの従業員が近づいて声をかけた。
「お楽しみのところ恐れ入りますが、お電話が入っております」
「ちょっと失礼」
席を外した牛場は、一分もしないうちに妙に緊張した顔つきで戻ってきた。
「すまん。突発の用件が出来て、これで失礼しなければならなくなった。諸君は、ゆっくりして行ってくれたまえ」
尾崎が驚いて、
「いったい、なにがあったんだ」
と聞いた。牛場は顔を横に振って、
「たいしたことではない。それに、まだ事態が正確に把握できていない。すまんが、これで失礼する」
と言って、そくさくと出て行った。
残された三人は、文隆を除いて、いずれもジャーナリストである。皆、いっぺんに酔いが覚めたような顔になり、腰を上げた。
(略)
(P208-)
P208 盧溝橋事件は、ごく限られた地域紛争にすぎないという当初の予測に反して、北京一帯P209から華北全体、ひいては中支にまで拡大しそうな気配を見せはじめた。近衛公はこのことを非常に憂え、腹心中のの腹心である書記長の風見章に、なんとかして拡大を阻止する方策をたてるよう指示した。
風見もまったく同じ考えだった。首相の意を受けた風見は、陸軍内部で不拡大を声高に唱えている、参謀本部の石原莞爾作戦部長を官邸に呼んで方策を練った。石原は、もっとも効果的な方法は、近衛首相自らが南京に乗り込み、蒋介石とじか談判することです、と提案した。風見はただちにこの案に乗った。近衛も賛成し、南京行きの飛行機の準備にとりかかった。
これを知った杉山元陸相らが色をなして反対し、けっきょく近衛の南京行きは軍によってつぶされてしまった。近衛公は、次善の策として、密使に親書を持たせて南京に派遣することにした。
「蒋介石がもっとも信頼する日本人のひとりに、かの宮崎滔天の子息、龍介がいる。近衛公は、この宮崎龍介氏を密使にしたてて、南京に派遣することにしたのだ」(『娘が語る白蓮』が詳しいP101(url))
宮崎滔天は、(略、孫文、蒋介石との関係が記される)
P210 近衛公は、宮崎龍介を支那に派遣するにあたり、宮崎同様蒋介石の信頼が厚い、ジャーナリスト出身の元衆議院議員秋山定輔に、南京への連絡を依頼した。秋山は親交を結んでいた国民政府駐日陸軍武官、蕭叔宣に頼んで、特使派遣を打診した。
蕭叔宣は、暗号電報で蒋介石に指示を仰いだ。蒋介石の返事は、
「特使派遣を歓迎する。中国上陸後の特使の安全を保障し、南京まで無事に案内したいので、上陸する港と日時、乗船名を連絡されたし」というものだった。
近衛公は、軍による妨害を排除すべく、密使派遣の件を杉山陸相だけに告げ、途中の安全を確保するよう要請した。「ところが、それが裏目に出てしまった。宮崎さん神戸から上海行の船に乗り込んだ直後、待ち構えていた憲兵隊の検問にひっかかり、逮捕されてしまったのだ。
当然父上は激怒され、杉山陸相を詰問されたのだが、陸相はぬらりくらりと言を左右にするばかりで、宮崎氏は今も勾留されたままだ。けっきょく、日支首脳の直接交渉で局面を打開すしようとした父上の狙いは、杉山陸相以下軍部の妨害で頓挫してしまった」
P211「ははあ。少しわかってきました。あの夜牛場さんが、慌ただしく飛び出して行かれたのは、宮崎さん逮捕の連絡が入り、それへの対応を迫られたからですね」
「そうだ。宮崎氏は蒋介石が近衛公の提案に同意した場合に備えて、親書の内容を口頭で具体的に捕捉する任務をも与えられていた。彼が逮捕されたことにより、その内容が事変の拡大をめざしている軍の連中に知られる可能性があった。
もしそうなったら、きわめてやっかいだ。それを避けるために、一刻も早く宮崎氏の身柄を取り戻せ、との父上の厳命があった。だが憲兵隊は、宮崎氏には通敵という国家反逆の容疑がある。
その疑いが晴れるまでは釈放出来ないの一手張りだった。宮崎氏の自由を通して、和平交渉の全容を把握しようとしているのだろう」
これを聞いて、文隆は怒る前に呆れかえった。いやしくも父は、陛下の信任を受けた総理大臣だ。陸相といえども、父の指揮下の閣僚のひとりではないか。なのに、父の意向を無視してそんなことをするのか…。
そんな文隆の思いを見抜いているかのように、牛場はこう言い足した。
「軍の連中は、ことあるごとに統帥権を持ち出して近衛公の力を削ぎ、主導権を握ろうとしている。今回の一件も、自分たちに相談なく和平交渉をしようとしても無駄だぞ、という嫌がらせにすぎない。
しかし、連中にとっては単なる嫌がらせでも、日支両国の命運を左右する事態につながりかねない。そういうわけで、近衛公は、和平交渉への道が閉ざされことに、非常に落胆されている」
P212「落胆なさる前に、杉山さんをクビになされば良かったのに」
そういう文隆を、牛場はしばらく無言で見つめてから、ぼそりとつぶやいた。
「それが出来ることなら、とっくにそうなさっているよ」
そう言ってから牛場は、急に上体を乗り出すようにして文隆に顔を寄せ、声をひそめてこう続けた。
「ここまで話したからには、さらにもうひとつ、実らずじまいになってしまった工作を、ポチ君の耳に入れておく。父上が、いかに日支和平に努力されたかを、死っておいてもらうためだ。
後年なにかの折にポチ君が、父上の支那に対する姿勢を問われたら、これらの事例を明らかにして、父はやるべきことをやっていた、と胸を張って言ってほしい。
実は、宮崎龍介氏の工作が不首尾に終わった(tw)場合に備えて、もう一つ別の筋から、蒋介石政権と接触した」
牛場の説明に依れば、宮崎龍介とほぼ同じ時期に、牛場の親友西園寺公一(ゴルフ)が、近衛首相の意を体して上海に向かった。上海に到着した西園寺は、蒋介石政権の財政部長、すなわち蔵相を務めている宋子文と会った。
宋子文は、アメリカ留学当時、同じハーバード大学卒業のルーズベルト大統領と親しくなり、その関係は現在も続いている、と言われる。
P213近衛首相が西園寺を宋子文に会わせることにしたのは、今回の事変の収拾に関する日本側提案を示し、同時にそれが蒋介石政権の最大の庇護者である、アメリカに伝わることを狙ったものだった。
「西園寺君が宋子文に示した近衛和平案は、基本的に宮崎龍介氏が携行した、親書の内容と同じものだった。すなわち、支那が満州国を承認することを唯一の条件として、今回の事変の収束をはかる、というものだ。
これに対する宋子文の返答は、満州国を積極的に承認することは支那の面子として出来ないが、満州のことはお互いに触れない、ということにして日華和平を結びたい、というものだった」
「それは、双方が完全に受け入れることが出来る内容ではないですか!」
文隆が勢いこんで言うのに、牛場は寂しげに笑って答えた。
「もし、日本国内で何事も起きていなかったら、まったくそのとおり。しかし、昨日すなわち二十七日の閣議で、これを吹き飛ばすような決定がなされた。近衛公は、軍部の意志をさぐるべく、大谷拓務相に因果を含めた。
それを受けた大谷が、閣議の席で杉山陸相に対し、今回の事変ではどこまで軍を進めるつもりか、と聞いた。杉山が黙っているので、見かねた米内海相が、永定河・保定の線で停止する予定だ、と答えた。
すると、それまで口を閉ざしていた杉山が、突然こう言った。---こんな席で、統帥事項をうんぬんされては困る」
P214天皇の専権事項とされる統帥権を持ち出されては、だれも何も言えない。ここで杉山は、おもむろに、今回の事変はあくまでも帝国の自衛権の発動だと声明すべきだと発言し、それを中島知久平、永井柳太郎ら政党出身の閣僚が同調した。
こうして、あっというまに帝国政府の自衛権発動声明が閣議決定し、公表された。
「これでなにもかもが水泡に帰してしまった。それでもなお父上は、和平への道筋を見いだそうと努力しておられる。今回の事態は、いったんことが起きてしまったら、それを収拾することがいかにむずかしいかという好例だ。
ポチ君も将来、同じような苦労をきっとするよ」
牛場はそう言って、深い溜め息をつき、のろのろと腰を上げた。
八月十三日。
事変は華中の上海に飛火した。八月九日、上海に駐屯している、日本海軍特別陸戦隊所属大山勇夫海軍中尉、斎藤与蔵一等水兵の両名が、国民党正規軍によって殺害されたことが引金になった。
北支の限定紛争だとされていた事変は、これでいっきに全面戦争の様相になった。
この翌日、文隆は、戦勝気分に沸き立つ日本を後にして、アメリカに向かった。日本とは裏腹に、約二ヵ月ぶりに戻ってきたアメリカの雰囲気は、日本に対してきわめて冷ややかだった。
P215十一月五日の柳川兵団杭州上陸で、中国側の形勢が極端に悪くなった。それに連動してアメリカにおける日本への風当たりはますます強まった。
十一月二十一日に書かれた父文麿公あての手紙で、文隆はそんなアメリカの様子を出来るだけ正確に伝えようと努めている。
(前略)現今日本に対する感情愈々悪く、昨日も紐育の5TH AVEで、日本の商品を売っている店の前で、数十人が支那の子供が空爆で死んだ写真をかかげて、デモンストレーションをやったり、紐育に絹を着ない会を作ったり、スミスという女の大学でも絹の靴下をはかない会等が出来たり、日本に対する感情は絶対に悪いです。
若しこの状態が続いたら、米政府がやらなくても、自発的に米国民がボイコットをやる様な危険がる様に思われるほどです。(中略)兎に角、只今アメリカに於ける日本に対するフィーリングは、一般に感じられて居るより以上にSERIOUSであると云うことのご報告まで。
ご機嫌よう。
十一月二十一日
御孟様 ポチ
(P214-)
P218 『爾後蒋介石政権を相手とせず』という、例の近衛声明を発したことに対する後悔の念と、軍部との思惑のちがいによる神経戦のストレスにより、体調まで崩してしまっていた。政治の中枢に近い永田町にいては、健康の回復はおぼつかない。そう考えた文麿公は、転居を決行した。
以前から懇意にしている医師、入澤達吉博士から、東京の西郊外荻窪の南、西田町の広大な邸宅を譲り受け、荻外荘と名づけて移住したのだ。昭和十三年二月はじめのことである。
(以下、略)
第五章 一九三八~三九 P221-281
P233 「蒋介石は、短期間だが日本に留学した経験を持つ。さらに蒋が兄とも父とも仰ぐ孫中山は、不遇の時代を長く日本で過ごし、日本の長所短所共に知り尽くしていた。そんな孫中山の遺志を継いだ蒋介石だ。直接話をすればかならず分かりあえる」「わたしもそう思います。ですからおもうさまが、宮崎龍介さんを密使に仕立てて、直接交渉の可能性をさぐられたのは、まったく正しかったと思います。だいいち蒋介石は、支那のメンツさえちゃんとたててくれるなら、すなわち蒋介石政権による北支以南支配を日本が保障するなら、満州国の存在は黙認するとの意向だそうじゃないですか。
すくなくとも、ソ連に入り込まれるよりは数段増だと思っているんでしょう。今でこそ国共合作などと言っていますが、あんなものが長く続くはずがないことを、一番よく知っているのも蒋介石だと思います」
(略)
P238 文麿公は、わずかの間思案するように顎に手をやっていたが、すぐに首を横に振った。「たしかに尾崎君は、支那問題に通暁している、すぐれた人物だ。だが、彼にはほかにやってもらわねばならぬことがある。尾崎君とはだいぶちがうタイプだが、北支那に関する知識おいては勝るとも劣らぬ人物がいる。彼に行ってもらおう」
「誰です、それは」
「中山優という男だ。現在、満州の建国大学で教鞭を取っている。おもしろい男だぞ」(略)
P239 そう言って文麿公は、中山優なる人物の概略を文隆に説明した。
「中山さんは、わたしのおもうさんの篤麿公が創設した、上海の東亜同文書院の出身だ。学生時代はほとんど授業には出ず、酒は食らうわ女遊びはするわで、何度も停学を食らった豪の者だ。(略)」(略)
実際中山優という人物は、型破りの学者だった。九州は博多の出身で、広田弘毅や緒方竹虎らを生んだ名門修猷館中学を卒業後、上海の東亜同文書院政治学科に進んだ。同文書院での一年先輩に、国粋主義者の団体、九州玄洋社を主宰する頭山満の子息立助と、後に阿片王として知られるようになった里見甫がいた。このふたりも、修猷館中学の卒業生である。
(略)
P240 東亜同文書院を中退した中山は、根津同文書院院長の紹介で、大阪朝日新聞に入社、新聞記者になった。だが、学生時代の放埓がたたったのか、じきに病を得て朝日新聞を退社する。しばらく浪人生活を送った後、見識を買われて外務省嘱託になった。
この頃まとめた『対支政策の本流』という論文が近衛文麿公の目にとまり、昭和十二年夏、虎ノ門の霞山会館で近衛公と対面する。以後、近衛公の演説草稿を起草するなど、厚い信頼を得るようになった。昭和十三年三月、満州の首都新京に建国大学が設立された。大学設立に尽力した関東軍参謀副長石原莞爾少将の強い要請を受けて教授に就任、東亜政治論を講じている。
(略)
P280 正確に言うと、アゼルバイジャン最大の都市バクー郊外に広がる、ムガン平原という油田地帯の片隅です。おかげで、ドイツに引き揚げてからのあだ名がムガンだったんですよ。
(略)
P281 十二月二十日。重慶の蒋介石政権内で、日本との和平を主張して蒋介石と鋭く対立していた汪兆銘が、妻の陳壁君、腹心の曾仲鳴らを伴って突然重慶を脱出、仏印のハノイに到着した。これに呼応して、近衛首相は十二月二十二日、善隣友好、共同防共、経済提携を骨子とする近衛三原則を発表した。
同時に、汪兆銘政権を前提にした日華国交調整も発表、これに関連して、この半年間を震撼させた、爾後蒋介石政権を相手とせずという、いわゆる近衛声明の解消を宣言した。(略)これを機に、近衛首相は総辞職を決意、年があらたまった昭和十四年一月四日、退陣した。(略)
第六章 一九三九 上海
P310 十一時すぎ、院長室から自席に戻り、やれやれと、上海にきてから愛用しはじめたタバコ、ルビークインに火をつけた。その時、直属の部下で、かつ独身倶楽部のの仲間である近藤が、妙な顔つきをして近づいてきた。「近衛さん、お客さまです。お知り合いの方の紹介だと言って、近衛さんに面会を求めておられます。あらかじめの約束なしで、突然の来訪ですが、どうなさいますか?」「今はヒマですからすぐ会いましょう」そう言って腰を浮かせた文隆の肘を押さえて、近藤がささやいた。「近衛さん、若い女性ですよ」興味津々といった表情である。文隆は意に介さず、「あ、そうですか」と答えただけで、教職員室の隣にある、接客用の小部屋のドアを開けた。部屋の中央に置かれたソファに座っていた女性が、ふわり、という感じで立ち上がった。まるで、微風に舞う花びらのような立ち上がり方だった。
P311 その女性と視線があったとたんに、文隆の顔色が変わった。年の頃は二十歳前後。顔は小さな卵形。広い額の下に、きれいに弓形を描いた眉毛と、目尻がわずかにつり上がった大きな二重まぶたの目があった。瞳の色は淡い茶色。長めの髪の毛を、無造作に軽く後頭部で束ね、肩まで垂らしている。藤色のチャイナドレスは、膝の少し上までスリットが入った、控えめな物。それが、この女性には恐ろしいほど良く似合っていた。(略)
P312 文隆の笑顔に応えて、女性が笑いを大きくした。上唇がかすかにめくれ、桃色のきれいな歯茎が見えた。文隆の自信は一瞬にして崩壊し、笑顔を張りつけたまま、茫然と彼女の顔に見入った。「良かった。もしかして、門前払いで終わりじゃないかと思い、はらはらしながら待たせていただいたんです」「まさか、そんなことするわけがないでしょう。さあ、おすわりください。今、お茶を出しますから」「ありがとうございます。でも、押しかけてきたのですから、どうぞおかまいなく」(略)
P314 「申し遅れましたが、わたしは鄭蘋如(鄭蘋茹)と申します。日本風に読めばテイヒンニョですが、こちらではテンピンルーになります。『シロス』の張偉珠さんに、近衛さんがこちらにおられると聞き、失礼も顧みずお訪ねしました。日本の習慣では、突然お訪ねすることがどれほど不躾な行為であるか、耳にタコが出来るほど母から言われて育ちました。なのに、こうしてご多忙中にいきなり押しかけて、本当に申し訳ありません」
いったい誰がこんな見事な女性を紹介してくれたのかと思ったら、あの張偉珠か。なんとなく納得できる感じがした。張偉珠自身なかなかの美人だし、頭の回転も速い才女だ。
(略)P363 かつて、日本亡命中の孫文を支えたひとりである宮崎滔天の息子龍介に、父が親書を持たせて蒋介石のもとに派遣しようとしたのを、陸軍に阻止された。父はやるべきことをやろうとしていた。テンピンルーに話すことなど出来はしない。いらだたしい思いで、つい口調がとんがった。(略)
P364 「汪兆銘は、蒋委員長にとって代わることなど出来ないわ。奥に逃げ込んだとおっしゃるけど、重慶の政府は、大陸の大部分を支配してるのよ。日本軍が占領したと言い張っている海岸地帯だって、日本の支配下にあるのは都市などの点でしかないわ。日本が和平交渉を行うべき相手は、汪兆銘ではなくて蒋介石よ」(略)
彼女はさらにたたみかけてきた。「もう一度言いますが、もし日本が本気で和平をめざすのなら、自分にとって都合のいい相手を勝手に作りあげたりしないで、堂々と戦っている相手と交渉すべきです。ましてその相手は、以前日本の世話になったことに、ものすごく恩義を感じている人々が中心になっている政権なのよ。たとえ汪兆銘が傀儡政権を作り、日本がそれを相手に交渉して、なんらかの合意が成立しても、ほとんどの支那人はそれを認めないでしょう。P365けっきょく後で、蒋介石との交渉をやり直すはめになるわ。だったら最初から、蒋介石と交渉するのが、正しいやりかたじゃないかしら。そうでしょう、ボチさん」(略)
気持ちの上では納得しがたいものが残っている。その反面、かねてから漠然と思っていたことを、ピンルーが具体的に言葉にしてくれた。文隆は、渋々彼女の言葉に同意してうなずいた。(略)「ピンルー、君は何者だ?」(略)「何者でもありません。わたしは、あなたの...ボチさんのピンルーです」(略)
「ボチさん、これからいろんなことが起きるはずです。だから、もう一度言います。わたしを、絶対に信じていてください。そして、すべてがうまく行き、民国と日本の和平が実現したら、かならずわたしを、お嫁さんにして、日本に連れて行ってください。わたしはそれだけを楽しみに...」(略)「わかったよ、ピンルー。かならず一緒になろう。なあに、だいじょうぶだ。日本と支那は、かならず和平するよ。その日を信じて、がんばろう」
(略)→鄭蘋如(鄭蘋茹)(参照)