大河ドラマ 「黄金の日日」と「真田丸」
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(2019.04.19)
石田三成『七将襲撃事件』
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徳川家康3/3
— ghoti (@ghoti_sousama) August 26, 2019
43話、南蛮人と紅毛人の対立を利用した、豊臣側の徳川分断工作。大久保長安の夢を利用する。それをおみつ(架空の人物、徳川側に通じている)が聞いてしまう。
42分版https://t.co/OS6hpxpX89 pic.twitter.com/VK33XWDC8c
徳川家康2/3
— ghoti (@ghoti_sousama) August 26, 2019
42話、大久保長安は、南蛮人と紅毛人と交易し、世界の大商人になる夢を抱く。その報告に家康を訪れる。世界情勢を説く家康。等しく付き合うと。
20分版https://t.co/qft1zPgVaE pic.twitter.com/ABdAM8PEE7
1983年大河ドラマ徳川家康1/3
— ghoti (@ghoti_sousama) August 26, 2019
41話、南蛮人と紅毛人の争いに巻き込まれることを心配する納屋蕉庵。 pic.twitter.com/nG0aGPB4iZ
黄金の日日51終 堺炎上 2分版 高山右近⑦、ルソンに発つ(→ドラマでは関ケ原直後であるが、実際には1614年(翌年病死)
黄金の日日51終 堺炎上 6分版 助左衛門、徳川側の降伏要求に応ぜず、家康と面会。家康は、豊後に漂着したリーフデ号の船長のオランダ人、航海士のイギリス人(ウィリアム・アダムスのちに三浦按針)から聞いた南蛮の情勢、イスパニアの無敵艦隊がイギリス艦隊に撃滅させられたこと(アルマダの海戦1588.07~08)、それを受けて、日本の南蛮交易のあり方を考え直し、イスパニア・ポルトガルの交易を廃し、新たにイギリス・オランダとの交易を開始する方針を助左衛門に伝える。そして、堺港の閉鎖と江戸移住を助左衛門に要請する
黄金の日日48 暗夜行路 2分版 助左衛門、日本に向けてルソンを発つ。イスパニア・ポルトガル両国の王フェリペ二世死す1598.09.18、5日後秀吉死す。東西の絶対君主の死と共に16世紀は幕を下ろし、やがて来るべき暗黒の鎖国時代を前に近世日本の黄金時代の最後の喘ぎとでもいうべき戦いが始まっていく(ドラマの解説)
黄金の日日45 天変地異 13分版 慶長伏見地震1596.09.05 サン=フェリペ号事件~二十六聖人殉教(→参考) 高山右近⑥、キリシタン信徒をルソンに運ぶ計画。石田三成、小西行長が推進する講和は秀吉のわがままで決裂、加藤清正ら好戦派はおおいばり、再度朝鮮へ出兵(慶長の役)、秀吉批判
二十六聖人殉教の背景について、イギリス人が書いている。カソリック教徒でない人(たぶん)の見解ということで興味深い。チャールズ・マックファーレン著『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料-より(url)
1.10 カソリック宣教師の傲慢 P52-57太平洋の覇権(16) -----日本の「大航海時代」(1)|弁護士コラム・論文・エッセイ|丸の内中央法律事務所
P52 最初のオランダ商館は、アダムスが生涯を終えることになった平戸に開設されている。商館はこぢんまりとしたものだったが、ポルトガル人は必死になって設置を阻もうとしたり、破壊させようと画策した。しかし結局その企ては失敗に終わっている。
オランダ人とポルトガル人の対立と憎しみは暴力に満ち、決して和解できるような性質のものではなかった。その憎しみは突発的な感情といったものではなく、心の奥底までに根を張った。果てることのない性質のものであった。ポルトガル人がオランダ人を「いやしむべきルター派、分離主義者、呪うべき異教徒」と罵れば、オランダ人は「奴らは一片の木っ端や骨でできた偶像をありがたがるカソリック。偶像を崇める馬鹿な嘘つき集団だ」とやり返す。(略)
P53 ポルトガル人は、日本で起きたキリスト教徒への迫害はオランダ人のせいだと主張するが、それは正しくない。キリスト教への締めつけはアダムスが日本に来る前からのことで、オランダの存在が日本に知られる前にそれは始まっていたのだ。布教への規則も、もとはといえば、東アジアで活動する複数の修道会が、互いに憎しみあい、いがみあっていたことが原因だった。
布教の活動を、最初にこの国にやって来て大きな成功を収めた先駆者に任せておけば、少なくとも迫害を引き起すようなやり方にはならなかったろうし、より多くの日本人がカソリックに改宗したことは間違いないだろう。
抜けめなく慎重にことを進めてきたイエズス会だったが、他派の修道会がこの国に押し寄せてきた。フランシスコ修道会、ドミニコ修道会、アウグスチノ修道会。ゴア、マラッカ、マカオをはじめとした各地のポルトガル植民地からたくさんの宣教師がやってきた。彼らはこの国の為政者とうまくやっていこうなどと考えず、身内だけの勝手な法体系をつくって運用した。
フランシスコ会はドミニコ会と対立した。また、こうした会派の布教のやり方にはロヨラが見せた抑制的な態度が全くなかった。それぞれの会派が、日本人を扇動して他派を攻撃させることもした。真摯にキリストの教えを信じるようになった日本人は、こうした内輪揉めを何とかしようとするのだった。
P54 日本人には性的に自制心がないという性癖があった。地方領主や有力者はたくさんの妾を持っていた。彼らには、この悪徳を矯正しようとした宣教師たちへの反感があった。教会の教えといえども、彼らのやり方を否定してはいけないのだ。この性に対する考え方の違いが、この国での布教活動を難しいものにしたという考え方があるようだ。
一説には領主の一人がキリスト教に改宗した婦人に恋したらしいが、婚姻外の色恋沙汰に厳格なキリストの教えを聞いて、ひどく憤ったらしい。皇帝は牧師や宣教師がこの国に来ることを禁じてしまった。ポルトガル船の船長も商人もキリスト教関係者を連れてくることが一切できなくなったのだ。にもかかわらず密航は続いた。特にフランシスコ会は積極的だった。彼らにはスペインの後押しがあった。スペイン領フィリピンを根拠に、マカオにも進出しおおっぴらに宣教活動を続け、教会を設置していた。清皇帝の命令を無視した活動だった。
布教活動には慎重な態度で臨むべきだというイエズス会のアドバイスは、哀願と言ってもいいくらいに切実な願いだったのだが、フランシスコ会は一顧だにしなかった。殉教の精神を重視し、積極的な布教活動を性急に進めていったのだ。イエズス会は、フランシスコ会のやり方はキリスト教の布教に支障をきたすと危惧していた。イエズス会の憂慮が現実のものとなったのは、一五九七年のことだった。アダムスの来航の三年前だった。
P55 こうした強引な布教活動とこの国のやり方との対立。オランダ人がのちに書き残しているように、二つの文化の確執は、自尊心、物欲、宗教的規範に対する感受性の相違でいっそう悪化している。日本人キリスト教徒も、宣教師たちの布教への意気込みに感心しながらも、彼らが見せる金銭や土地への執着には呆れている。
宣教師はあまりの自尊心のためか、この国では最上位にいる武士たちにさえ横柄な態度を見せた。この頃の布教の成功に、こうした傲慢な態度がむしろ役立っていると考える者までいた。幹部の中には歩くことさえせず、かつての十二使徒のような振る舞いを見せる者まで出てきた。あたかもローマ教皇のように、あるいは枢機卿のように、贅沢な椅子に座り、それを担がせて移動するのだ。この国の支配者と同等だと考えるならいざ知らず、彼らより上位にいると見当違いする者も現れた。
一五九六年に起きた事件がある。(略)彼らの存在がこの国にとって害悪となると思われた始めたのは当然だった。威張り散らす高慢ちきな態度がポルトガル人たちへの憎しみにつながり、P56結局そのことで命を失うものが出てきたのだった。鼻持ちならない虚栄心と強すぎる自尊心、それに加えての無礼な振る舞い。皇帝がそれに気づくのは素早かった。宣教師の中には、金や女にうつつを抜かすものも確かにいただろうが、それは一部の者に限られていた。
このような悪行は、見知らぬ土地で厳しい布教活動に置かれていることが原因というよりも、むしろこうした教団が長きにわたって富を蓄えていたことに起因すると見たほうがよさそうだ。日本での宣教師の蛮行は、彼らを憎むオランダ人によって大袈裟に語られたようだ。彼らは宣教師への迫害を望んでいたし、その悲劇にそれなりの理由があると納得していたとしても不思議ではない。
一五九七年には激しい迫害があった。二十六人のキリスト教徒が磔刑となったのだ(秀吉による「二十六聖人殉教事件)。処刑された中には一人か二人のイエズス会士、数人のフランシスコ会士がいたが、多くは日本人教徒だった。宣教師たちはあまりに過激にこの国の伝統的な偶像崇拝の風習を攻撃した。この宗教を信じた日本人たちも、熱狂的にこの教えを広めようとした。キリストの教えを信じなければ永遠に地獄で苦しむと脅かすだけではなく、仏教の僧侶を侮辱し、仏像を壊し、寺を破壊することまでした。
これがキリスト教徒への迫害に火をつけたといってもよいだろう。皇帝や諸侯が、こうした振る舞いに、彼らがこの国に革命を起こそうとしているのではないかP57と疑ったのも当然だった。キリスト教徒への迫害は一六一二年にも起こっている。アダムスが平戸にいた頃で、オランダとの交易が始まるか始まらないかの時代だ。迫害は一六一四年にもあった。(略)しかしかなりの数の宣教師が地下に潜行し、秘かに布教の活動を続けたのもまた事実である。
建立された十字架はなぎ倒され踏みにじられた。教会は破壊され、付属の神学校(セミナリオと呼ばれた)は閉鎖された。キリスト教徒は、日本の伝統と政治のあり方を否定する破壊分子だとされたのだった。
http://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column028.html
フランシスコ会
この時期日本におけるキリスト教の布教はイエズス会に独占されていたような感があるが(もっともイエズス会以外のキリスト者が全く来日していなかったわけではない)、1580年代の後半になるとその「独占」は徐々に崩れる。
その理由は、日本布教を拡大するためにはイエズス会の宣教師のみでは絶対的な人手不足を来すようになってきたこと、フランシスコ会やドミニコ会ら托鉢修道会(修道会会則により、私有財産を認めない修道会)の修道士が日本にやってきたことにある。
フランシスコ会は1224年にローマ教会の承認を受けた団体であり、もとは清貧運動を特色とする説教活動を行っていたがやがて聖書研究にも注力するようになった。フランシスコ会は設立後間もない頃から東方宣教に力を入れ、1500年にはヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征に随伴してカリカットへ上陸し、1518年にゴア、コチン周辺に修道院を開設している。
フランシスコ会は日本へやってくる16世紀には既にフィリピン(1571年頃からスペインの版図となっていた)においても宣教を行うようになっていたが、フィリピンにおける托鉢修道会の活動は必ずしもうまくいってはいなかった。
1584年マニラからマカオへ向かっていた托鉢修道会のジャンクが遭難して、乗船していたフランシスコ会とアウグスチノ修道会の4人の修道僧が長崎に漂着し、領主の松浦氏の歓迎を受けた。フィリピン領内における布教が思うに任せなかった彼らにとって日本は有望な布教地にみえた。フィリピンへ帰った彼らの話は多くの托鉢修道会の会士を発奮させた。
これに対しイエズス会はローマ教会の本部に働きかけ、1585年1月、ローマ教皇(グレゴリウス13世)は日本への布教はイエズス会に限るとの小勅書を下した。これによりイエズス会以外の修道会による日本での布教は破門罪をもって禁遏された。
このことはスペイン系の托鉢修道会にとっては納得しうるものではなく、反撥もしたであろうし、請願もしたであろう。1586年、次の教皇シスト5世は忽ちにしてフランシスコ会がアジア・中国に修道院を設ける許可を与えたため前年の勅書は骨抜きになった。
イエズス会内部にもフランシスコ会らスペイン勢力の日本への浸透については賛否両論があり、スペイン人のイエズス会士はフランシスコ会に同情的であったが、これに対抗するポルトガル国籍の会士との間に対立が生じはじめた。日本への布教をめぐって生じたイエズス会と托鉢修道会の対立がまがりなりにも(法的な意味で)解決するのは1633年2月の教皇ウルバヌス8世の大勅書によってである。
豊臣秀吉は1591年にフィリピン総督に対し入貢を命ずる親書を原田善右衞門に託した。当時日本は戦国時代がほぼ終熄しようとする時期であったが、10万に余る兵を優に養いうる能力を持っており(後述する文禄の役において日本軍は15万人を動員した)、マニラのスペイン総督府は日本の軍勢が攻め寄せるおそれを感じてか(但し日本の海軍は万余の軍勢をフィリピンまで輸送するに堪えうる程に充実していたかどうかについては、当時における日本の造船技術に照らし疑問のあるところだが)、周章狼狽すると共に遷延策をとることにし、ドミニコ会士のコーボ等を使節に任じ訪日させた。コーボは明国攻め(1592年に文禄の役が始まる)の前進基地である名護屋に在陣していた秀吉に謁見したが、帰路、台湾で遭難してしまった。黄金の日日43 朱印船襲撃 8分版 五右衛門、マニラ総督の秀吉宛の(秀吉の降伏要求に対する)返書の写しをマニラより助左衛門のいる(石田三成が用意した)基地に持ち帰る。フロイスに翻訳を頼むために長崎へ、名護屋では秀吉がコーボら使節と謁見、原田善右衞門(唐十郎)が通訳(演劇調w)そこでフィリピン総督ダスマリニャスは1592年今度はフランシスコ会士のペドロ・バプチスタらを第2次使節団として日本に派遣し秀吉に総督書簡を奉呈した。 バプチスタは3人のフランシスコ会士を伴っていたが、このことは彼らが日本における布教を目論んでいたことを想像させるに難くない。しかし日本政府は前述の経緯に照らして彼らをスペインの入貢使節とみなした。
黄金の日日44 呂宋(るそん) 20分版
1593.4 入貢要求国書(第二次)を盗み読む
(遡って)
1592.9.1 秀吉、フィリピン総督宛、入貢要求国書(第二次)
1593.7 返書(ペドロ・バプチスタ)
1593.8.3 淀、捨(秀頼)産む
黄金の日日44 呂宋(るそん) 4分版
1594.4 入貢要求国書(第三次)「イスパニアの国王は、遠方にあっても予の言を軽視するなかれ」
1594.7 返書(ペドロ・バプチスタ)
1595.7.15 秀次切腹
スペイン領フィリピンの総督
ゴメス・ペレス・ダスマリニャス(1590年 - 1593)
ルイス・ダスマリニャス(1593 - 1596)
そこで交渉が進む間、日本に逗留したいと願ったバプチスタの請願を容れ、秀吉は自らの帰京に同行させ、加茂川附近に住居まで与えて行動の自由を保障した。 バプチスタは京都において直ちに布教を開始した。即ちバプチスタは秀吉に働きかけて1594年には教会等を、1595年には病院を開設し、大坂にも会堂を得た。しかしこの公然たる使徒的活動がこのあとフランシスコ会にとっての不幸を招く。
1587年の秀吉のバテレン追放令に接して、嵐が過ぎ去るのを待つようにして九州各地へ分散し活動を隠密にしていたイエズス会士にとってフランシスコ会の雀躍ぶりは面白かろう筈はない。オルガンチーノは在京を許されていた数少ないイエズス会士であるが、ひそかにフランシスコ開始の行動を監視し続けた。
1594年には第3次使節団(フランシスコ会にとっては第2次)が来日した。ジェロニモ・デ・ジェズースやリバデネイラなどの使節団はスペインの強大なることが書かれた書状を携帯していた。秀吉は彼らを伏見城で引見し、京都へ滞在し視察を行うことは許可したが、キリシタンの教えを広めることは許さず、と語ったという。
ともあれフランシスコ会は先発のイエズス会が秀吉の追放令をかいくぐって布教してきたことを理解せず――― 後発者としては日本の情勢をすぐには把握することができなかったのか、不幸な通訳の誤りがあったのか――― 、公然と布教に熱を入れた。秀吉は追放令の後キリスト教者の布教活動を見て見ぬふりをしていた。それに呼応してイエズス会もいないふりをして潜伏活動をしていたのに、である。
サン・フェリーペ号事件と26聖人事件
1596年10月、マニラ港から船出してメキシコを目指していた一隻の豪華貨客船があった。スペインの太平洋航路に就航していたサン・フェリーペ号であった。ところがこの船は台風のため土佐の浦戸湾において座礁し沈没した。現地を治めていた長宗我部元親は直ちにこのことを秀吉に報告したところ、秀吉は積荷を没収することを決め、現地に増田長盛(奉行職)を派遣した。
増田奉行は積荷(上場のしゆす繻子5万反、唐木綿26万反、生糸16万斤など)を没収し、更に乗員(233名)の所持金25,000ペソも没収した。そして12月に帰京した増田奉行は浦戸における事情聴取の結果、スペインは宣教師を尖兵として送り込んで侵略の手先としてスペインの広大な版図を手に入れた、との事実を認識しえたと復命した。
この復命の根拠とされた事情聴取がどのようであったかについては取り調べを受けた者の陳述に微妙な食い違いがあるといわれているが、船長(フランシスコ・デ・オランディア)ほか乗組員が、増田が示す地図についてスペインの強大さを示そうとして増田の疑惑を招く発言をしたことは認められるであろう(もっとも布教が侵略の尖兵だというのは事実として正しくない。ポルトガル/スペインの植民は軍事的侵攻の後に宣教・宣撫が続くのを常態としていた)。
秀吉は増田奉行が復命した12月8日から10日ほど経った日に京・大坂の宣教師を悉く逮捕せよと命じ、同時に改めてバテレン追放令を公布した。官憲はフランシスコ会修道院を包囲し、パウチスタ以下フランシスコ会士6名、イエズス会関係者3名と15名の日本人信者、合計24名を逮捕し、1597年2月15日に長崎で磔刑に処した。世に26聖人の殉教と呼ばれた事件である。上記の通り24名が逮捕され、2名が不足しているが長崎へ送られる途中に同行していたフランシスコ会、イエズス会の世話人計2名が首服して逮捕されたので26名となった。
秀吉が立腹していたのは新来のバテレン(フランシスコ会士)に対してであり、長崎に逼塞している(そのようなふりをしている)パードレたち(イエズス会会士)は自分の命に従っているので、(輸入ビジネスを専らにしている)、咎め立てする必要はないと述べたと言われ、イエズス会はこの弾圧から除外されていた。しかし処刑された人々の中にイエズス会士3名が入っているのは名簿作成上の不幸な手違いであると言われている。
豊臣秀吉は托鉢修道会員が京においてすでに布教を行っていた事実を当然知っていたであろう。しかるに何故この時期に弾圧の挙に出たのであろうか。余談めくが、背景事情を少し探索してみよう。
この時期(1596年)は、秀吉が明国攻めのため文禄の役(1592年-1596年)を開始してから4年目であり、朝鮮及び明軍と、日本軍との間に展開された戦闘がとりあえずのところ終熄の気運に至った。明国(朝鮮の宗主国)と朝鮮の軍事外交上の立場、緒戦における日本軍の勝利とこの時期における頽勢振り、日本政府内における終戦工作(秀吉に対する官僚らの欺瞞工作を含む)など、このあたりの内外の情勢は複雑で不可解な点も多いが、いずれにせよ1596年、丁度サン・フェリーペ号事件が起きる少し前、明国から使節が日本に来訪し、秀吉は大坂城において彼らを引見している。
つとに1593年5月、和平を求める明の使者が名護屋に来訪し、秀吉と会見し、秀吉は明の王女を日本の天皇の妃として送ることなど7つの条件(その他の条件:勘合貿易の再開、和議の誓約、朝鮮領土4道の割譲、朝鮮王子1人を人質とすること、加藤清正が捕虜にした朝鮮2王子の釈放、朝鮮宮廷の日本への帰服)を提示していた。しかし明がかような条件を受け入れるはずもなく、和平交渉は遅れに遅れた。
その後行われた上記大坂城における会見においても明国の使節はこの条件を呑むどころか日本を属国とし、秀吉を日本国王に封ずる旨を答えたのである(明国側には日本が降伏したとの情報が伝わっていた)。秀吉は当然激昂し(秀吉には明国が降伏したとの情報が伝わっていた)、怒りはその極みに達したであろう。
秀吉は翌1597年に慶長の役を開始する。
また丁度同じ時期、ヘドロ・マルチンスが日本司教区の司教として赴任し挨拶のため秀吉に謁見し、通訳としてロドリーゲスが同席していたこと、両名ともにイエズス会士であり托鉢修道会の日本駐留に反対していたことも大いに関係があるかもしれない。後にフランシスコ会はこの謁見の機会に、ポルトガル人がスペイン人を海賊であるとし、日本の国を奪おうとしていると秀吉に吹き込んだ、と主張している。
こうしたことを理由に、いわばやつあたりのようにして26名の磔刑に踏み切ったとするのは短絡的であろうが、秀吉の胸中の深いところに影響を与えているであろうことも想像できる。
事件後フィリピン総督ドン・フランシスコ・テーリョは日本へ使節を送り、サン・フェリーペ号の積荷の返還と刑死者の遺骸の引渡を要求した。 これに対し秀吉は返書をもって要旨次のように述べている(意訳の引用は松田毅一「南蛮のバテレン」による)。
1.往年、バテレンが当国に来訪し異国の宗教を説き、国風を紊し、国政を害したので、予は堅くそれを禁じた。しかるに貴国より来た僧侶たちは帰国せず、各地に赴き、賤しい人々に異国の法を説いてやまぬので、予はそれを聞いて忍ぶことができず、誅戮せしめた。
2.聞くところによれば貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているということだが、もし本邦から教師や俗人が貴国に入り、神道を説いて人心を惑乱することがあれば、国王たる卿は歓びはしまい。これを思え。
3.けだし卿らは、そのような手段をもってその地の旧主を退けて新たな君主となったように、予に背き、当国を支配せんと企てたのであろう。予がそのように憤怒の念を抱いていた折、本邦土佐に難破船が漂着した。予は船中の貨財を散せず、また分配することなく還付する考えであったが、貴国は既に法に叛したことをしていたので、貨財を没収したのである。 卿は予の処置が誤っていると思うか。
4.しかし旧交を修めるため、卿は風波の危険を冒して使節を派遣し、友好を正道に導こうと望んでいる。予は異端の法を説くことを欲しておらぬのであり、商売のために往来することは差し支えなく、彼らは予の印を押した免許状を持参すれば、海陸とも何ら害を被ることはありえない。
5.本邦から貴地に往来する者で、貴国の人民を惑わし、法を守らぬものがあれば刑罰を与えていただいて結構である。
この論は正論であり、スペイン側から反論することはなかなかに困難であったろう。
黄金の日日40 利休切腹 23分版 1590天正遣欧少年使節帰国。原マルティノ、利休を訪ねる。利休「皆それぞれに譲れないものを持っているということだ」「住みにくい浮世ならばなおのこと意地でも生き抜いて見せようではないか」。助左衛門、桔梗(亡き今井宗久の亡き妾の遺児)を迎えに行く。利休が蟄居(金毛閣の木像の件で秀吉の怒りを買う)を命じられたことを知る。秀吉は三成に利休が死ななければならない理由を語る
黄金の日日37 反逆 2分版 秀吉、キリシタン禁令を発布1587.07.24。キリシタン大名には棄教を、南蛮の宣教師には20日以内の国外退去を命じる。高山右近⑤は拒絶し追放される。小西行長は面従腹背
黄金の日日36 伴天連(ばてれん)追放 16分版 1586年12月、来春三月に決まった九州征伐の準備開始。石田三成、小西行長、九州征伐にしては補給物資が多すぎる、と訝る。高山右近、03.16大阪城での秀吉・コエリュの会見(フロイスは通訳)の模様を明かす。明・朝鮮征服のためコエリュに軍艦二艘を要請(→参考)。(略、九州討伐)九州平定後、原田喜右衛門が助左衛門にルソン征服計画、秀吉がキリシタン女子が夜伽を拒んだ逸話(なのでバテレンは追放されるかもしれない)を語る。そして、バテレン追放令。石田三成が秀吉の命を受けて高山右近④に棄教を迫る。右近は拒絶、行長は面従腹背、それは卑怯だと恐れるべきは秀吉ではなく真心だと助左衛門
http://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column014.html黄金の日日27 信長死す 2分版 ヨーロッパ文明と歩調を合わせていた近世への歩みが止まった。永禄3年の桶狭間から23年、永禄11年の上洛から15年、衰退と混乱の極に達していた中世末期の旧体制をことごとく破壊し近世への航路を切り開いた天才的変革者が突如として戦国史上から消え去った。日本の歴史は、近世への水先案内人を失って、たちまち闇の大海をさまよう漂流船となった。(ナレーション)。
ところで当時日本の国王であった豊臣秀吉はもとの主君であり、日本の総督たる地位にあった織田信長に対し、将来中国大陸に進出するという大風呂敷を広げ、中国への進出を考えていたかもしれない主君の歓心をかうなどのことを平気で行い得た人物であるが、1585年、関白職に就任した年に「日本から唐国(からくに)まで」支配を仰せつけられた旨を家臣の1人に宛てた文書の中で述べている。そして翌1586年には前号にも述べたようにイエズス会の日本準管区長であったコエリヨら宣教師と大阪城において会見している。
コエリヨは多分に政治向きの性格であったと言われている人物であり、ポルトガルの軍艦2隻と熟練した航海士の斡旋をするかわりに中国を征服したら全土に教会を建てたいと述べ、秀吉は中国の征服計画のためにすでに軍艦2000隻分の用材の伐採にとりかかっているなどと語った。しかし、余りにも植民地帝国を背景にしたコエリヨらの露骨な物言いに同席した諸侯の1人(高山右近といわれる)は、会談の危険性を感じとり、やがて迫害が加えられるのではなかろうかとコエリヨに語ったという。(略)
1587年秀吉は諸侯に動員令を発し九州へ出陣し数ヶ月で反抗分子を帰順させ、最後に残った島津氏を平げて博多へ凱旋する途次、すでに征服のための渡海作戦の立案を2名の諸侯に命じた。同年5月に博多に帰陣した秀吉はコエリヨに会う。コエリヨはフスタ型船(ただし龍骨を持たないために遠洋航海には役立たないと言われている)に乗って来航してきており、秀吉にも試乗を促した。秀吉は宣教師たちの願いを聞き届け、博多の町割の中に教会の建立を独占的に認めようなどと語ったが、ポルトガル軍船の能力、九州制圧の途中において見聞したキリスト教徒やポルトガル商人団の実情はどのように秀吉の目に映じたであろうか。来るべきポルトガルの侵略を予知し、戦慄したであろう。
果たして秀吉は博多に帰陣した後、わずか1ヶ月の後の6月、コエリヨのもとに宣教師(バテレン)やポルトガル商人の行為に対する4ヶ条の詰問状をつきつけ、ついで宣教師向けの5ヶ条の「定」を発した(但しポルトガル船による交易は認め、また一般の商人の来航は許すとする不徹底なものであった)。そして日本の諸侯に対しては11ヶ条の「覚」をもってキリスト教禁令を発令し、キリシタン大名の高山右近に棄教を迫り、右近は大名の地位を捨て棄教に反抗したが、小西行長や黒田如水などのキリシタンは棄教に反抗を示さなかった。
そして前回述べたように秀吉は独自で征明の計画を推進する。フィリピンのポルトガル総督に朝鮮への出兵を促し、それは成功しなかったが、1592年と1597年の2度にわたり朝鮮半島へ独自で兵を出した。もし、秀吉が遠洋航海に堪えうる艦船を保有していたとしたら、態々作戦上困難な陸路を経由せず、東シナ海を渡海して寧波あたりへ上陸したであろう。 朝鮮半島経由の征明作戦は明国本土へ足を踏みいれることさえできず第1段階で失敗に終わり、朝鮮半島における日本軍の暴虐のみが歴史に残った。
豊臣秀吉が精神に異常を来し、惑乱の挙句、征明を企てたという説がまかり通っている。しかしこれは彼の政権を倒した徳川政権により作り出された話であって、上に見たとおり、決してそうではなかった。 スペインによる明の征服計画とを綜合して考えてみるときは、両国の大いなる野望の失敗と評するのが公平かもしれない。
黄金の日日23 西国進撃 18分版 安土城解説1579.05完成 秀吉・小西行長の宇喜多直家寝返り調略 石山本願寺消失 助左衛門、高山右近より五百石船を購入、念願の船主になる
黄金の日日23 西国進撃 2分版 高山右近③ 荒木村重の謀反で投降した高山右近に信長がかけた言葉(信長の美学→合理性は感情と対立するものではなく、納得できるものとそうでないものがあると思った。この場合は納得できるものであった)
黄金の日日22 摂津動乱 2分版 高山右近② 人柄 摂津の解説
黄金の日日20 聖母昇天 2分版 高山右近① 摂津高槻 ヨーロッパ色の強いまちづくり
黄金の日日12 叡山焼討 23分版 助左は堺の町で南蛮人に絡まれている寧々を助ける。それが縁で秀吉がいる叡山の門前町坂本にお供することになる。途中、寧々から生き方について助言を得る。佐助は船から降ろされ腐っていたところであった。一方、光秀と秀吉は信長の叡山焼打の方針に戸惑う
黄金の日日04 北征前夜
1978大河ドラマ黄金の日日視聴完了!戦国時代を世界史との関連で描いた、自由都市堺の商人・納屋助左衛門の半生記1568~1600
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年4月13日
04話
1569春、二条城建設現場で信長・フロイス対面。信長は兵士の首を一刀両断、男はこうありたいものだw
10分版(ドラマの核心)https://t.co/djFOPSXFHj pic.twitter.com/6Z0CqazT2R
前動画5分版https://t.co/GcXFekoSek
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年4月7日
大坂の陣の背景に南蛮人と紅毛人の対立ありの見立て、目下鋭意調査中!
その前に、大河ドラマ葵徳川三代2話より、関ケ原に至る背景、がよくわかる。というかこれ以外に知らない😅
三成は忠誠心が強く自己過信で人望がない、かと
3分版https://t.co/HpDcFFTw7y pic.twitter.com/HTGg2s012h
大河ドラマ徳川家康に三浦按針が出てくる。南蛮人と紅毛人の争いが関ケ原以後絡んで興味津々。その前に、豊臣家の黄金が大坂の陣の火種の一つだと思われるが、その処分についての徳川家康と春日局の描き方。目的は同じ(徳川家による平和)でも、微妙な違い。私欲と公益のバランスとでも言おうか... pic.twitter.com/Wdm0DwDiaL
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年4月5日
ちょうど、この時代に興味を持ったからなのであろうな、思わず反応!→
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年4月3日
徳川家康の外交顧問を務めた英国人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)https://t.co/HhtQB4Jk3O @YahooNewsTopics
これからという時に春日局が視聴不可😭関心が関ケ原~大阪城の陣に移る。同時代別人物に光を当てて多面多重で描かれる大河ドラマいいね!
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年4月2日
真田丸45真田丸の戦い
真田信繁(幸村)「あれは井伊直孝、かの井伊直政の次男坊、向こうにもここに至る物語がある」と、次回作「おんな城主 直虎」の予告。 pic.twitter.com/LCzpx7AFcw
34話。家光の吉原初体験(番組オリジナル)1989昭和→平成バブル絶頂期ならではのシナリオいまならありえないたぶん!
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月31日
吉原通いが発覚し土井利勝に問責されたお福「誰しも若いときに一度は通らねばならぬ道にございます」(35話)
18分版(江口洋介、唐沢寿明が初々しい)https://t.co/QzJjpLlrxb pic.twitter.com/sSxGi1DKj1
春日局16話まで視聴。名場面※多々、作家は誰かと思いきや橋田壽賀子(作品視るのは初)であったか
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月29日
※
三姉妹…賤ヶ岳、親子の別離。お江与、三度の政略婚
稲葉一鉄の命懸、小早川秀秋・稲葉正成の関係
27分版(家康がお福を乳母に指名した理由とは)https://t.co/Wtj7p5R0Yl
お福・正成の夫婦愛 pic.twitter.com/NkhA4kkulH
春日局04話。お福は健気、三姉妹※カワイイというか美形。セリフが口調も含めて好感触w
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月29日
※茶々(喜多嶋舞)、お初(宮沢りえ)、お江与(坂上香織)
長版(お福の境遇、この後、祖母の実家の三条西家で身分を隠し下働き、隠忍の日々、お江与の境遇も興味津々)https://t.co/qVQp5Pm2a6 pic.twitter.com/WtZTX29S32
大奥~第一章~、それぞれの立場で心理描写がとてもよかった!
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月28日
お福(春日局)周辺をもっと知りたくなる。大河ドラマ春日局視聴開始。気になるとどうにも止まらない!w pic.twitter.com/LiLtP4RjOu
大奥~第一章~、それぞれの立場で心理描写がとてもよかった!
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月28日
お福(春日局)周辺をもっと知りたくなる。大河ドラマ春日局視聴開始。気になるとどうにも止まらない!w pic.twitter.com/LiLtP4RjOu
#大奥 シリーズ初めて(知った)視た、ハマるw 遡って視る。権力争い(大好き)とか知らないことばかり面白い!
— ghoti (@ghoti_sousama) 2019年3月26日
・第一部 最凶の女/第二部 悲劇の姉妹 2016 家斉
・華の乱 2005 綱吉
・2006 家継 絵島生島事件
・第一章 2004 お福(春日局)秀忠→家光 ←いまここ
家康、お福、お江与(お江) pic.twitter.com/VVKhoICj0z