第一章 謎の訪問者 P22-57
P26 連合国のよる日本占領について学ぶ。連合国軍最高司令官マッカーサーは軍事独裁者でありながら、一九四七年、日本に民主平和憲法を与えたのだと教えられる。この憲法は、今日もなお、この国を司る最高位の国法である。学生たちは、戦争を引き起こした者に科せられたパージや懲罰のこと、天皇の神格化否定宣言、さらに、長く苦しんできた天皇の「臣民」たちに与えられた多数の改革について学ぶ。それ以上によく知られているのは、三菱、三井、住友、安田など、戦前、日本の独裁金権体制を堅固に支えてきた強力な「財閥」を、マッカーサーが解体したことである。それでもなお、平均的日本人が(平均的アメリカ人もそうだが)十分に認識していないことがある。「しかし、早くも一九四七年には、アメリカの対日政策の重点は、そのような遠大な改革から、日本を極東の経済ワークショップとして復興させることに転換していた」とションバーガー教授は指摘した。一九四〇年代末期に、日本を民主化する方向からアジアにおける反共の砦にする方向へ、アメリカの対日政策をの重点を大きく転換させた一連の動きを「逆コース」と呼ぶが、教授は、日本の戦後史研究でしばしば無視される、「逆コース」研究の第一人者である。
教授の論文によれば、「奇妙なことに(略)非公式の圧力団体が果たした役割は、ほとんどすべての占領史P27研究者から、事実上、無視されてきた。日本とくに関りがあったもっとも重要な団体はアメリカ対日協議会(American Council on Japan)であり、それがジャパン・ロビーと呼ばれるにふさわしい組織だった」
一九四八年から五三年までの期間、アメリカの対日政策に大きな影響を及ぼしたこの「ロビー」は、財閥解体計画をめぐるアメリカ国内の改革派と反動派の闘争から生まれた。ハリー・F・カーンは、このロビーの首謀者であり、アメリカ対日協議会(ACJ)の事実上の組織者であった。(略)
ゴリアテともいうべきマッカーサーを前に、無敵のダビデたるハリー・カーンは、伝説のように「石投げ器と石」だけで向かっていったわけではなかった。それどころか、彼は、当時、唯一の存命中の大統領経験者をはじめ、閣僚級の政治家数人、国家安全保障会議(NSC)の最高位の役員たち、また、著名な将軍や提督それぞれ数人P27の支持を取りつけていた。そのうえ、アメリカの最も傑出した財界人と彼らの企業に仕える顧問弁護士たちや、彼らが支配する有力財団の理事長たちもまた、カーンの支援者だった。
実権は誰が握っていたのか、そして、だれがだれに仕えていたのか、といった問題は、ACJの主役の顔ぶれを紹介するうちにおのずと明らかになる。(略)一九四〇年代から六〇年代にかけて、カーンは日本で最も有名な戦後の首相P29吉田茂と、いわゆる保守本流のその後継者たちを訪ねるのをつねとしていた。後継者の中には、ACJのおかげで栄達を果たした者が何人かいた。なかでもとくに知られているのが、(略)岸信介である。岸は重大な戦争犯罪の罪を問われ、戦後の三年間を巣鴨拘置所ですごした(略)。
しかし、ACJが設立された一九四八年にはどういうわけか釈放される。その後、岸が東条内閣の他の閣僚たちを含めたP30戦前の軍国主義者や帝国主義者らを従えて、自民党総裁の地位にまでのし上がったのは、カーンをはじめとするACJ一派の後押しがあったからだという説があり、またこれを裏づける確たる証拠が存在する。(略)
日本の戦前型の軍国主義者たちは、資本主義、天皇制、軍備拡張を支持しており、拡大主義者であったから、カーンと親しいジョン・フォスター・ダレス(アイゼンハワー政権の国務長官)など、アメリカの右翼政策立案者たちのもっとも熱心な同志になった。ダレスの狙うところは、日本を、当時アジア大陸の二大共産勢力であった中ソを、封じ込めないし無力化するための反共同盟の北の砦にすることだった。
P31 旧勢力の老兵たる彼らは、絞首刑あるいは長期刑をかろうじて免れたことに大いに感謝していたこともあり、保護者たるアメリカ人の政策を実行に移すための格好の仲介者となった。岸はまさしくその典型だった。
占領期間中、「ジャパンロビー」の役割はその名のとおり、アメリカの対日政策に影響を及ぼすことだった。カーンは、一九四七年から五一年までのきわめて重要な時期に、自分の支持者や顧客たちを動かして財閥解体を逆行させ、財界と政界のリーダーたちの追放を解除させた。旧指導者らを影響力のある地位に復帰させることにより、反革命派は民主的諸権利の行使に歯止めをかけ、上昇機運にあった労働運動を後退させ、日本を再軍備の道へと導いたのである。
なによりも、ACJは天皇制維持のためのロビー活動を成功させた。その功が認められたのであろう。カーンは日本政府から勲三等瑞宝章を、また、彼の協力者のジェームズ・リー・カウフマンは勲三等旭日章を受けた(カウフマンは死後あらためて勲二等瑞宝章を受章)。カーンの側近グループのなかで欠かせない人物であるカウフマンは、弁護士として、戦前はアメリカの対日投資に尽力したが、この時点では、投資家の資産と利権を回復させるための準備をしていた。
(略)
1.3 国務省分裂 P35-38
冷戦は日本に不安定な状況を生み出し、カーンと仲間たちはそのなかで初期の政治工作を遂行した。太平洋戦争が終結に向かう頃、アメリカ政府の主流をなしていたのは、社会改革を実行して一九二九年以降の大恐慌からアメリカを救いだした「ニューディール派」だった。彼らは本来、反ファッショであり、史上もっとも破壊的な戦争を引き起こした敵対諸国に対する厳しい処分を支持した。
それに対する保守派は、ニューディール派を、急進派、破壊分子、さらには共産主義者とさえみなした。P36両者間の大きな対立点の一つは、ドイツと日本の降伏後にとるべき政策、とりわけ経済政策だった。『ニューズウィーク』と『タイム』はともに、ドイツと日本に対して、報復的というよりもむしろ和解的な政策をとるよう政治的支援を集めようとしていた。これはきわめて自然な動きだった。アメリカの資本家たちは、この両国に巨大かつ価値のある利権を有しており、領地を占領して、その政府を一時的に支配したのち、両国への投資と市場拡大を促進したいという野望をいだいていたのである。
占領政策の一本化を図っていた国務省内で、もっとも保守的な勢力は、ジョゼフ・C・グルーが率いるものだった。グルーは、戦前の十年間(一九三二~四一年)、駐日アメリカ大使をつとめており、日本の主要財閥や家族、外交官、政界の首領たちと親交があった。ルーズベルト政権が一九三七年以降の日本の中国侵略に強硬に反対していたのにひきかえ、グルーは、西側諸国を相手にした総力戦になるのを防ぐために、日本の軍国主義分子の敵意を買うことは避けなければないと考えていた。
その意味で、グルーは、これと同時期に同じ理由から、ヒトラーに対する融和につとめていたイギリスのネヴィル・チェンバレン首相と同じ役割をアジアで演じていた。P37グルーは、ジョン・ピアポント・モーガンのいとこで、彼自身も富豪だったが、日本と中国におけるアメリカの投資権益の行方を憂慮していた。その大部分はモーガン系列の企業と銀行が支配していた。
もう一人の宥和主義者は、ロックフェラー財団の理事長でもあるジョン・フォスター・ダレス上院議員だった。彼のサリバン・アンド・クロムウェル法律事務所は、すでに長年、海外のロックフェラー系企業に仕えていた。見識のある評論家の多くが、第二次世界大戦は不可避と考えていたとき、ダレスは(一九三九年に)こう断言していた。「ドイツ、イタリア、もしくは日本が、わが国に戦争を仕掛けてくるなどと考えるのはヒステリーだ」。驚くことではないが、後年、カーンは、グルー、ダレスと深く関り、彼らの保守的な対日政策を宣伝することになる。(略)
P38 グルーは自分のまわりに、アジア経験が豊富で自分と似た考え方をする外交官を数人置いていた。いわゆる日本派と呼ばれた人たちで、参事官のユージン・H・ドゥーマン、古参の親日派のジョゼフ・バランタイン、国務省極東局長になった中国問題専門家ウォルトン・バターワース、駐日大使からハーバート・フーバー政権の国務次官になったウィリアム・R・キャッスル、そして、東京のアメリカ大使館の元語学将校でマッカーサーの友人でもあるマックス・ビショップだった。これらの人びとが作る結束の固いグループが、カーンを軸にACJのインナーサークル(中枢)を形成した。(略)
1.5 ダレス動く P41-46
戦後の日本では、戦時中のような「思想統制」に人びとが苦しめられることはなくなった。しかし、猛威を振るいはじめたインフレに不安が生まれつつあった。デトロイトの銀行家ジョゼフ・ドッジが示した厳しい経済安定政策、いわゆるドッジ・プランが実施され、景気が徐々に回復しはじめると、社会の風潮は保守主義に向かった。トルーマンの財閥解体計画は消滅した。すべてはACJの計画どおりに動いていたが、それでもカーンは満足しなかった。
彼の顧問ともいうべきジョン・フォスター・ダレスも同じだった。共和党上院議員だったダレスは、一九五〇年四月、国務省特別顧問(極東問題担当)に任命された。P42 六月、ダレスは、マッカーサー元帥及び連合国最高司令部(SCAP)民政局(GS)のコートニー・ホイットニー准将と対日平和条約の条件を協議していた。ダレスの信任を得ていたカーンは、ダレスの特別機に首尾よく同乗して来日した。この機に乗じて対日協議会の計画を売り込んだのか、あるいは、逆に、ダレスがカーンを利用したのだろうか。ダレスは日本の再軍備を説いていたが、それを拒否したのがマッカーサーだった。
六月十八日から二十一日まで、韓国を訪れ、北緯三十八度線の防御施設を視察した。東京に戻ると、ただちにマッカーサーと協議に入った。後日、AP通信に、「極東における平和維持のためのアメリカによる積極行動」が予想されると語った。朝鮮戦争勃発後わずか四ヵ月という時期に、ダレスは、「日本を自由世界圏内にとどめておくという問題は唯一、朝鮮のおかげで(略)解決可能になった」と述べていた。
六月二十二日、ダレスは、カーンの招待を受けて、東京(渋谷)のパケンハム邸を訪れた。(略、夕食会メンバーの紹介など)P46 ダレスが何を考えていたにせよ、朝鮮戦争は日米関係に急速かつ激烈な変化をもたらした。日本はたちまち当時のアメリカのマッカーシズムにも似た反共の嵐に呑み込まれた。日本共産党の中央委員会と同党機関紙『赤旗』のスタッフは、憲法上の保障にもかかわず非合法化され、労組、マスコミ、その他公職に対し、いっせいに「アカ狩り」が行われた。景気はたちどころに上向きはじめ、日本が韓国防衛のための工業基地、補給基地となるにつれ、特需ブームが起こった。
1.6 極東の反共のリーダー P46-49
一九五〇年七月、マッカーサーは七万五千人の警察予備隊の創設を命じた。これが今日の自衛隊の前身となるが、創設にあたって主導的役割を果たしたのが、パケンハムの友人で、先の夕食会にも出席した海原治だった。新憲法の第九条が、陸、海、空のいかなる軍隊の存在をも禁止していたため、この新軍隊の名称は当時、きわめて微妙な問題として扱われた。
一九五一年、三菱財閥が、事実上、戦前の規模で再建され、他の財閥も着々とあとに続いた。(略)ダレスは一九五一年にふたたび訪日した。このときダレスに同行していたのが、ジョン・D・ロックフェラー三世だった(ロックフェラーの金融帝国は、その後まもなく、日本への最大の投資家となる)。このときの訪日目的は、対日平和条約の地ならしをすることだったが、これが日本と台湾を結びつけ、以来、中国のとの関係を厳しく阻害する結果となった。一九五一年九月、アメリカなど連合国の大部分との平和条約がサンフランシスコで調印されたが、アメリカのかつての同盟国である中ソの不参加が目立った。
第二章 逆コース P60-104
(略)P65 筆者は「逆コース」についての従来の月並みな解釈は退け、(大仰なものではなく、むしろ醜い話だが)もっと事実に即した説を支持したい。(略)その方針転換の陰には、アメリカのエスタブリッシュメント内部の小グループによる法外な政治力乱用があったことが示されている。正式な権限はもたないが、この一派には国のコンセンサスを論駁したり、民主的であるはずの政府を操ったりするばかりか、P66あげくには私的な意向を政府に押しつけて、それを公式の長期政策として認めさせてしまう力があった。(略)2.1 ジャパン・ロビー始動 P66-69
この圧力グループの存在を、正統派の日本問題研究家が論じることはめったにない。彼らは、すぐだれとわかる実在の人物による政治的策謀について論じるのを快く思わない傾向がある。人間のあさましい欲望をいちだんとさらけ出した、大物がからむ策謀であればなおさらだ。(略)
P67 ジャパン・ロビーの中枢機構として発足したのがアメリカ対日協議会(ACJ)であり、グルー一派が長年にわたり一貫して広めてきた意見をそのまま主張した。駐日大使時代のグルーは戦争回避のために軍部ファシズムを黙認し、そのゆきすぎを我慢するよう説くなど、日米関係を円滑にするために力を尽くした。グルーの経歴や交友関係、行動を調べると(略)
P68独立戦争以前のニューイングランド時代から続く家系の生まれで、大富豪のなかで育っている。従兄にあたる金融資本家ジョン・ピアポント・モーガンは、日本を含む多くの国々に強大な利権を有する複数の銀行や企業を支配していた。たとえば、その一つのジェネラル・エレクトリック社は、外国企業として日本に最大の投資をしていた。グルーの前任大使であるW・キャメロン・フォーブスが、モーガン傘下のAT&Tの取締役をつとめていたことも偶然ではあるまい。(略)
P69 一九三〇年代と四〇年代、二つのグループに分かれたアジア専門家が国務省の主導権争いを繰り広げた。日本に対する態度が一貫して寛大な、いわゆる宥和派は、「日本派」あるいは「グルー派」として知られた。対する「中国派」は、パールハーバー攻撃以前から、日本の侵略を阻止する強硬手段を講ずるよう主張しており、日本の敗戦後も対日強硬策を擁護した。(略)
2.2 マスコミの結託 P69-75
羽が生えそろったばかりのジャパン・ロビーが活力を得て巣立つまでには、報道機関が重要な役割を果たした。なかでも『ニューヨーク・タイムズ』『シカゴ・トリビューン』そして、ヘンリー・ルースの出版物(『タイム』など)の特派員たちは、すぐに、まだ無名だったジャパン・ロビーとその目標の敬虔な使徒となった。最大の貢献をしたのは『ニューズウィーク』であろう。当時は、主に、ハリマン、アスター、メロン、モーガンなどの大富豪が所有し支配していた雑誌である。
すでに述べたが、同誌の出版人や役員は、戦前は、公然とファシズムを支援していた。発行人のマルコム・ミュアは全米製造業者協会のリーダーだったが、同協会こそはアメリカ保守主義の砦であり、『ニューズウィーク』のオーナー重役アベレル・ハリマンとビンセント・アスターから盛んな支援を受けていた。
一九四〇年代末期に『ニューズウィーク』東京支局長だったのがコンプトン・パケンハム。一九五〇年六月に歴史的会合を主催することになったイギリス人である。同誌の外信部長だったはりー・H・カーンは、終戦当時は日本についてほとんど知識がなかった。だが、パケンハムの知識と感受性、そして知り合いのアメリカ人投資家の日本に対する高い評価に刺激され、日本に関心をいだくようになった。ともに筋金入りの保守派であるカーンとパケンハムは、アメリカの納税者に負担をかけずに日独両国の経済を一刻も早く復興させることをめざしていた大手銀行や大企業と意見が一致していた。(略)
P71 パケンハムと同様、ジェームズ・リー・カウフマンも日本では古顔だった。戦前、日本で開業していた数少ない外国人弁護士の一人で、当時、勢力のあった日本アメリカ協会(American Association of Japan)の会長もつとめた。ハーバード法律大学院の優等生で、『ハーバード・ロー・レビュー』の元編集者という経歴をもつカウフマンは、一九一四年から三八年まで東京のマッキーバー・カウフマン・アンド・ヤマモト法律事務所のパートナーとして活動し、五年間、東京帝国大学法学部教授の職にあった。
アメリカの銀行の日本での債券発行のために大きく貢献し、彼の事務所は「事実上、日本にあるあらゆるアメリカ企業」の代理人をつとめた、と彼は書いている。しかし、一九三八年、ますます排他的傾向を強める日本政府は、カウフマンをはじめ大部分の外国人弁護士の日本での活動を禁止する法律を通過させた。筆者が入手している資料のなかでカウフマンがふたたび登場するのは、一九四六年、国務長官特別補佐官ジョセフ・バランタインに書いた彼の書簡である。(略)
P72 バランタインは、その後まもなくジャパン・ロビーの中心メンバーになる。一九四七年のはじめには、一派はまだACJとして知られてはいなかったが、すでに対SCAP攻撃の態勢をととのえていた。引退したグルーがどこよりも自分の息がかかった国務省でロビー活動に励んでいたことは、当時の書簡から明らかである。ジョージ・C・マーシャル将軍が国務長官になったのもこの頃のことで、彼は陸軍長官ケネス・C・ロイヤル、国防長官ジェームズ・V・フォレスタル、陸軍次官ウィリアム・H・ドレイパー(相参2)、国務次官ロバート・A・ラベットらとともに、ほどなくジャパン・ロビーの砦を固めていく。
これらの指導者たちは、少なくとも一九四七年から四九年までは確実にジャパン・ロビー幹部と手紙のやりとりをしていた。一九四七年六月には、カーンは知人のウィリアム・V・プラット提督(退役)を通じ、元大統領ハーバード・フーバーとの面会に成功した。フーバーはカーンの考えに同意し、『ニューズウィーク』のキャンペーンに激励を与えて、カーンが書く記事のために極秘文書までリークした。
P73カーンの攻撃の手はじめは、一九四七年一月二十七日号の『ニューズウィーク』記事「日本人パージの陰に--アメリカ軍内部に対立」だった。この記事でカーンは追放された財界人たちを「日本でもっとも活動的で、有能で、教養ある国際人グループ」と喧伝し、共産主義の脅威に対抗するアメリカの最高の協力者となる人びとだとほめそやした。
「このような迫害は、日本の極佐グループと、つねに目を光らせているロシア人、つまりは過酷なパージの擁護者を助けるだけである」とカーンは書いた。パケンハムの取材にもとづいて書かれたカーンの記事は、マッカーシー時代の典型的な論調だった。カーンは「二万五千人から三万人」の日本の財界人が職を奪われるだろうと書いたが、実際に指名された財界首脳は千九百人ほどで、大企業役員の一パーセントにも満たなかったのである。
(略)アメリカン・コネクション P90-95
P90 占領時代、あらゆる階級の日本人がアメリカ人と近づきになって利を得ようとした。この点に関しては、パージを受けた人たちはとくに積極的だった。容易に想像できることだが、戦前アメリカ人と親交のあった日本人、なかでも英語を使いこなせる者は、とくに有利と感じたようである。
実際に、渉外担当として選ばれた日本人の多くがそうした人たちだった。彼らが本来の任務以外にも、日米双方から協力を求められ、(苦情や野心を胸に秘めて)しばしば実際に協力したという証拠がある。
その顕著な例が白洲次郎(参照)である。吉田茂が駐英大使のときに親交があったケンブリッジ大学出の実業家である。日米協会の会長としてアメリカに多くの知己があった樺山愛輔伯爵の娘婿で、グルーおよびドゥーマンとはかなり親しい関係にあったといわれた。
樺山は近衛文麿公が会長をしていた国際文化協会の理事をつとめたこともある。一九四五年、吉田を外務大臣に押すよう、まだ勢力のあった近衛を説き伏せほか、P91近衛の自殺後も吉田のキャリアを後押ししたといわれた。
吉田には三井・三菱各財閥の大番頭せあった向井忠晴と加藤武男という強力な後押しがあったが、ACJのメンバー、なかでもグルーとの親交もそれに劣らず彼の成功を決定づけた要因にちがいない。
外務大臣の吉田は、SCAPとの折衝にあたる終戦連絡中央事務局の名目上のトップにあったが、実務は白洲に一任し、白洲はその地位と流暢な英語を駆使してアメリカ人に取り入った。
こうした接触を通じ、白洲は占領行政の内情を隅から隅まで知り尽くし、その最大の弱点に気づく。参謀第二部(GⅡ)のチャールズ・ウィロビー少将と民生局(GS)のコートニー・ホイットニー准将の不和である。
二人とも一九四二年四月、アメリカ兵捕虜一万二千人の四分の一が戦死した、フィリピンのバターン半島での激戦の生き残りだった。「バターン・ボーイズ」と呼ばれたマッカーサーの側近グループの仲間だったが、ホイットニーがSCAPの政策に忠実に従った様子であるのに対し、ウィロビーはロシアの脅威に取りつかれ、民主改革は共産主義を招来するとして、ことあるごとに妨害をしたようである。
白洲はウィロビー対ホイットニーの不仲を、吉田派、財閥、海外の投資家、そして、とくに自分のために利用した。
アメリカ人と親交を結ぶのに成功した点で彼に劣らないのは元子爵の渡辺武であった。福田赳夫の下で大蔵省の終戦連絡部次長をつとめたバイリンガルの渡辺は、内外の財政問題に関する政府側仲介者として、ジャパン・ロビーから特別に関心をもたれた。
綿密に記された彼の日記は、カウフマンと頻繁に話し合っていたことを明らかにしている。カウフマンは公的な地位には就いていなかったが、渡辺を通じて政府に指示を出していたものと思われる。渡辺は、カーン、パケンハム、ドレイパーら、ACJ幹部と何度も会っていた。
渡辺はSCAPに、日本経済を建て直す権限を持つ財務専門家を派遣するよう要請していた。一九四九年二月一日、デトロイトの銀行家で欧州復興計画「マーシャル・プラン」の財務専門家であるジョゼフ・ドッジが、SCAPの経済顧問として来日した。
ドッジ一行はACJのプロパガンダをたっぷり吹きこまれていたようで、それを確実に政策に組み込んだ。一九四九年三月、ドッジは占領軍の「逆コース」経済計画を緊縮予算というかたちで示し、日本の議会はそれを無修正で通過させた。
また、「米国援助物資見返り資金特別勘定」も設立した。これは工業借款に充当して、工業生産を増強するため、アメリカの援助物資で得た円利益を見返り資金として積み立てるというものだった。
のちにわかるように、これはACJが白羽の矢を立てて養成してきた政治指導者たちの資産増強にもつながった。
ACJを補足するものに、主にアメリカの民間投資を受けていた十四の日本企業の代表者からなる外貨導入懇談会(FIC)があった。FICの目的は「アメリカのビジネスをできる限り戦前の投資水準まで戻すこと」と
P94『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』が伝えているが、その目的どおりにSCAPの経済政策にほぼ全面的に反対した。
ジャパン・ロビーと現地代理人の排他的性格を示す一例として、FICのトップには、財閥直系で吉田と白洲の親しい友人でもある木内信胤が収まっていた。都合のよいことに、木内は外国為替管理委員会の委員長として外国人投資家への補償関係を扱っていた。
一九五〇年はじめ、木内は外資委員会の委員長に指名を受けた。これは、旧対外債務を保証し、戦争損害補償を手配し、外資への課税を軽減することによって、海外からの投資を促進することを目的とした公的機関だった。
こうした処置は、協議によって決められたとはいえ、ACJの要求と寸分違わぬものだった(『日本近現代史入門』P502参照)。
持株会社整理委員会の状況も似たような馴れ合いだった。委員会は、廃止された持ち株会社の有価証券その他の資産管理と処理を含み、財閥解体計画全体を管理す中央機関であったが、委員長になったのは、半官半民の日本興業銀行(『日本近現代史』P209参照)の笹山忠夫だった。
篠山の補佐役で、SCAPとの折衝担当のチーフをつとめたのが野田岩次郎。元三井の幹部で、四半世紀に及ぶ滞米経験があり、アメリカの実業家たちとの交流では抜きん出ていた。笹山は占領終了後、アラスカパルプ社長に就任した。
アメリカに設立された同社は、P94戦後日本初の対外大型投資であり、カウフマンのお膳立てでディロン・リード社の融資を獲得していた。一九五九年、野田は東京のアメリカ大使館に隣接した超一流ホテル、ホテルオークラの社長となった。
後年もよく日本を訪れていた旧友ハリーカーンも利用したこのホテルは、いまもなおアメリカ人VIPお気に入りの隠れ家になっている。
ACJが要求したとおりに、日本政府が独占していた電力事業は解体され、地域別に九つの電力会社が生まれると、白洲はその一つである東北電力の会長となり、シェルと三菱が合併した昭和石油の幹部も兼ねた。このように、渉外担当者のことに触れたのは、本来の重要性からではなく、占領終了時後に異例の出世をした多くの仲介者たちの例としてである。
対日政策大転換 P95-99
ACJの動機づけは、(めったに公表されなかったが)その公式の活動から読みとることができる。最初に主催した大きな会合は設立三ヵ月後のニューヨークでの昼食会で、P96日本に投資している大企業の幹部たちが選ばれて出席した。
紳士たちは、少し前に退役した前第八軍司令官アイケルバーガー中将から、SCAPの改革が共産主義を育てていること、日本を再軍備すればソ連の拡張主義に対する強力な欲知力となろう、といった話を拝聴した。
カーンはこのスピーチのインパクトにいたく感激し、アイケルバーガーをを国防総省に就任させるよう、陸軍時間ウィリアム・ドレイパーを説得した。
かくして、アイケルバーガーは同省における日本に関するアドバイザーとなり、ACJと政府高官とのパイプ役をつとめることになった。
もう一つ、この組織の正体を物語る会合に、一九四九年二月十六日、ペンタゴンと国務省の高官が綺羅星のごとく出席したワシントンでの晩餐会がある。口実は、ロイヤル陸軍長官の日本と韓国訪問旅行からの帰国祝いだったが、この旅行中、長官と行動をともにしていたのは、ウォルトン・バターワースの指示の下に動くマックス・ビショップ(ともにACJ一派の日本通)だった。
ロイヤルが訪日した動機は、一つには、国家安全保障会議(NSC)がSCAPに送った経済安定化の司令に対し、マッカーサーがどのような措置を講じているか調べることだった。ビショップはその年のうちに、国家安全保障会議のメンバーになっている。
P97 略して「NSC15-2号」と呼ばれたその指令は、ケナンの調査結果をもとに作成されたものだった。国務省政策企画本部長ジョージ・F・ケナンといえば「マーシャル・プラン」の骨格を築いた人物だが、対ソ封じ込め政策の提唱者でもあった。
その直前の一九四七年五月には、ケナン委員会の長に任命されていた。ケナンは何人ものACJメンバーの影響を受けており、指令の内容はACJの見解に著しく似通っていた。
ディナーが終わると、『ニューズウィーク』に掲載予定の記事「日本の何が間違っているのか」の元となるリポートについて討論が行われた(掲載されたのは、一九四九年四月十八日号)。執筆したのは、晩餐会のホストであるカーンで、司会はカウフマンがつとめた。
参加者の大半がすでにACJのメンバーもしくは支持者であったため、あまり白熱した議論とはならなかった。要するに、政治的に同質の選ばれた人びとが、反対者不在のなかで日本の将来を決定していたのである。
討論の傾向は、ある国務省職員の要約記録から知ることができる。要点の一つとして、以下の記述がある。
「アメリカ対日協議会のメンバーは、SCAPという機構が生みだした策は重大な誤りだったという点で意見が一致しているようである。SCAPによる日本経済と日本社会の構造改革への努力は失敗に終わった、また、そもそも企てられるべきではなかったという考えだ」カーンのリポートと「NSC13-2号」は、数週間後に出たACJの「対日政策に関する報告」の骨子となった。この徹底した勧告は、巻頭からSCAP廃止要求を突きつけていた。SCAPの代わりに、「学識、力量ともに最高クラスのアメリカ人」をスタッフとした「管理委員会」を設置し、ACJ計画を具体化した新組織を監督すべきであるとしている。
重点は、当然ながら経済復興に置かれていた。外国からの投資を誘引するような税法を調整し、戦時中に損害を受けたり喪失したりした資産を以前の投資者に補償することを認めるよう勧告している。さらに、少なくとも十五万人からなる「十分に武装し、十分に訓練された警察隊」を設置することを勧めている。
天皇問題については、日本人みずからが他からの干渉受けずに解決すべきであるとし、さらに、パージ廃止は前提条件であると述べている。
「日本人は、連合国から高れベルの勧告を受け、独自に政治制度を作ることを認められるべきであり(略) 独自の方法で共産主義者に対応することを許されるべきである」一九四九年、中国共産党が国民党打倒に向けて破竹の勢いで進んでおり、東南アジアのヨーロッパ植民地も同じ運命にあるかにみえたこの重大な時期にあって、SCJのシナリオが極端なものに聞こえることはなかった。
アメリカ国内では反動勢力が再び結集し、リチャード・ニクソン、ジョセフ・マッカーシー、ウィリアム・ノウランドなどの喊声が耳につくなかで、先の大戦による傷のまだ癒えていないドイツと日本が、アメリカの「来るべきロシアとの戦争」の前進基地とみなされることも容認されたようだった。
その年の夏、経済改革措置はさらに緩和され、集会の自由は大幅に削減され、SCAPの支援を受けた日本政府と大企業は、あらたに自立した労働運動に反撃するために手を結んだ。その年の末には、反財閥運動が沈静化されており、裁判を待っていた大物戦犯容疑者がいっせいに釈放され、段階的パージ撤廃へ向けて準備が進められていた。
(略)
第三章 冷戦と財閥復活
3.4 カーン、岸を操る P133-140第五章 岸傀儡政権 P182-214
(P182-)P182 日本の権力中枢を捜しにかかったアメリカ対日協議会(ACJ)は、いとも容易にそれを探りあてることができた。長州と薩摩の歴史的な権力争いは、日本の政治史に残る多くの曲折や転換を決定づけてきた。岸信介が生まれた長州は、日本が封建制を廃し、明治維新と呼ばれる一連の改革により、一八六八年に新政府が発足して以来、日本政治の流れのなかで多くの首相を生みそだてた。
岸とその弟の佐藤栄作は、保守本流の生みの親であり、岸・佐藤の姻戚にあたる吉田茂とともに、長州出身であった。この著名な一族(閨閥)は一九四六年から七二年まで二十六年間のうち十八年間にわたって政権を握り、二十次にわたる戦後内閣のうち十次の内閣を率いた。
しかし、この強力な閨閥は、日本の保守政治のゴッドファーザーたる吉田茂とこの兄弟二人の関係だけに限られるものではなかった。岸の長女は自民党の実力者、安倍晋太郎に嫁ぎ、弟の佐藤は旧満州国の高官、松岡洋右の姪と結婚した。松岡は国際連盟脱退の際、日本の首席全権をつとめ、また、第二次世界大戦中のファシスト・グループである日独伊三国同盟を締結した人物として知られた。
岸の長男信和は、日立や日産を傘下に収めて日産コンツェルンを築いた鮎川義介のいとこの娘と結婚した。鮎川は、P183戦前財界の大御所、久原房之助の義兄にあたる。久原の十人の娘はそれぞれ有力な政治家及び財界人と結婚した。そのなかには、衆議院議員をつとめた石井光次郎、東急社長だった五島昇らの名前がある。この閨閥は、石井光次郎の線から、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の一族につながる。驚くには値しないが、これら日本の実業界の大物たち全員が、いざというときには岸の後ろ盾になった。
しかし、岸が戦後の日本政治を支配することになるピラミッドの頂点に立ったのは、彼が特別な位置づけをされていたためであった。占領軍当局は、A級戦犯容疑者の岸を巣鴨で尋問したあと、この戦前の超国家主義者が戦後日本における共産主義の急激な拡大を阻止するために、役立つことに気づいた。岸が児玉誉士夫、笹川良一と同じ拘置所に留置されたのは、おそらくそのためであろう。三人はそれぞれ絞首刑を免れることとと引き換えに親米的な特殊任務を担った。岸は政界において、
P184 児玉は右翼運動と政界のフィクサーとして、笹川は政府公認の競艇収益を世界中にばらまく「国際的な慈善家」として。長州一族のまとまりのよい政治勢力は、まさにACJとその一派がウォール街を中心とするアメリカ東海岸のエリートの伝統的政治勢力と噛み合わせる相手として求めていたものだった。もちろん、彼らこそは、日本をパールハーバー攻撃とそれに続く太平洋戦争に突入させた同じ面々であった。
ACJの使命とは、一九四○年代末期に日本で生まれつつあった民主的傾向を逆行させ、日本をアジアにおける反共の砦にすることだった。彼らがこの無謀ともいえる夢を実現させたことは、生きて巣鴨を出られないと覚悟していた岸さえも驚かせたにちがいない。巣鴨にいるとき、彼は友人の児玉に「君と笹川君とか僕なんかは、呼ばれやせんよ(釈放されることはないだろう)」と語ったと伝えられる。
関連→『秘密のファイル(上)』(P334児玉誉士夫、P370笹川良一)
関連→『阿片王 満州の夜と霧』P221、『東京アンダーワールド』P107
ACJが仕掛けた「逆コース」の成功は、極東軍事裁判を、「(島内敏郎の言葉を借りるならば)「最悪の茶番」に変えてしまった。岸をはじめとするA級戦犯容疑者はアメリカ当局から起訴さえされず、まして極東軍事裁判にかけられることはなかった。戦時中、東条英機内閣の商工相をつとめ、また、伯父の松岡とともに満州国を取り仕切った五人の指導者のうちの一人である岸は、釈放されてわずか六年後、日本民主党幹事長に就任した。その翌年、民主党は自由党と合併して自由民主党が結成され、それから二年もたたないうちに、わけのわからない早業で、岸は自民党総裁として首相の椅子におさまった。
関連→『鮎川義介と経済的国際主義』(P10)
関連→『日本近現代史入門』(P138、P294)
関連→『重光・東郷とその時代』(P184)
5.1 岸の金脈 P185-190
(P186-)
P185 三年間の首相在任中、岸は、韓国、フィリピン、インドネシアととくに緊密な関係を築いたが、これが保守政治の中枢まで揺さぶる一連のスキャンダルへとつながっていく。岸の指導の下で、右翼が大きく復活し、
P186 道徳再武装運動(MRA)や文鮮明の統一教会(世界基督教統一神霊協会)といった疑似宗教団体が栄え、CIA資金が自民党の金庫に流れた。保守政権を支える目的でCIA資金が日本へ流れたことは、一九五〇年代にCIAの東京支局をつとめたE・ハワード・ハントと国務省の高級官僚だったロジャー・ヒルズマンほか多数の者が証言している。
1)2022.09.24 ~(tw、tw)「日本はとんでもない間違いをした」岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三…3代続く関係性から見える旧統一教会が目指した“国家宗教”【報道特集】|TBS NEWS DIG youtube
2)2022.07.30 01:43~岸首相の文鮮明への祝電とレーガン大統領への親書(tw)「我々は世界を支配できると思った」米・統一教会の元幹部が語った”選挙協力”と”高額報酬”の実態【報道特集】|TBS NEWS DIG youtube
1) 2)
しかしながら、アメリカが一九五〇年代末期から六〇年代初期にかけて与党自民党に財政的支援をおこなっていた事実が、機密解除された文書によって明らかにされたのは一九九四年後半のことであった。支援があったとされる時期は、岸信介が実権を握っていた時期と一致する。一九五五年から五八年までCIAの極東工作責任者だったアルフレッド・C・アルマー(Ulmer)二世は、「われわれは自民党に資金を援助した。自民党には情報提供を頼っていた」と『ニューヨーク・タイムズ』に語った。(略)援助の目的は、日本を反共の砦とし左翼勢力の弱体化を図ることであり、さらには自民党政権に親米路線の保障を求める狙いがあった。
(略)P187 在ワシントン英国大使館のA・J・ド・ラメア公使が残した覚書(一九五六年一二月三十一日付)には、アメリカは「岸に投資してきた」ので、共産中国寄りの姿勢をみせていた石橋湛山首相(当時) の動きを岸が抑えてくれるものとあてにしていたとするアメリカ国務省高官の言葉が記されていた。ちなみに、岸はこの覚書の二ヶ月後に首相になっている。その二年後、当時の駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー二世は、佐藤栄作(第二次岸内閣蔵相)が「共産主義と戦うための資金援助を強硬に要求してきている」(相互参照)とワシントンに伝えていた(巻末資料5(1,2))。
CIAから自民党へ流れた秘密資金については、その後も、公文書の機密解除が相次いだ。一九九六年十月には、施政権返還前の沖縄での(一九六五年の)立法院選挙で保守勢力に勝たせるために、自民党の有力政治家に資金援助が行われたことを裏づける国務省文書が公表され、九四年秋以降の一連の秘密資金報道がいっそう信憑性をおびる結果となった。
しかし、アメリカの諜報機関から入る巨額の政治資金も、新しい保守党と政治権力を一手に握りたいという岸の貪欲な妄想を支えるには十分ではなかったようである。世界の反姜勢力をうるおす国際的な資金還流の作り方を自民党に教え示したのは、主として岸であり、そのアメリカの後援者たちだった。
岸の権力構造を支える原動力は、主に隣の韓国から提供された。アジアの共産勢力に隣接する反共の砦である韓国と岸の最大のコネクションは、みずから委員長をつとめた、強力な半官組織「日韓協力委員会」を通じてのものだった。
このかつての満州国の大物指導者は、韓国各地に巨大なリゾートを開発したハニル・ツーリズム・デベロップメント・カンパニーの共同会長にもなっていた。一九七三年の『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』は、これらの資金源からかすめとった資金が自由民主党と韓国の朴正煕政権を支えるために流用されている可能性が高いと報じた。
インドネシア、台湾、フィリピンに関わっていた自民党の他の委員会は、日本の援助外交を利用して、岸の買収資金を満たした。インドなどアジアの一部の国は、こうしたP190ごまかしの本質を見破り、日本の援助をきっぱりと断った。
政治的に、岸は歴代首相のだれよりも右寄りだった。彼は、アジア人民反共連盟(APACL)、MRA、統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織にも深く関わった。首相を退いた二年後の一九六二年九月には、東京で五日間にわたって開催されたAPACLの会合で基調講演を行っている。
また、日本郷友連盟や祖国防衛同志会など、民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する御供団体の顧問もつとめた。岸は、首相在任中、日本を訪れたMRA代表者たちに次のように挨拶している。
「諸君は世界中に道徳的バックボーンを与えているのです。私はMRAがこの六週間(一九六〇年五月~六月)のあいだ、わが国に与えた圧倒的なインパクトに対して感謝の気持ちを表したい」
時あたかも、岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、MRA代表団の訪日のタイミングのよさには目をみはるものがあった。
5.2 日韓癒着 P191-192
P191 戦後日本政治の最大の問題の一つは、東南アジアに対する賠償支払いに関わるものだった。これらは多くの場合、とくに日本の侵略により最大の痛手を被った中国について、棚上げにされた。しかし、ACJの記録をひもとくと、日本の財界のアプローチは一風変わっていたことがわかる。
賠償支払いは、東南アジアにおける共産主義の拡大をくいとめる一方で、市場を生みだすと考えたのである。日本の右翼が関与していた一九五〇年代半ばのインドネシア革命後、賠償基金を完全に掌握した新大統領スカルノと反共主義者・岸のあいだに強力な協力関係が生まれはじめた。
極度に政治色の強い貿易商社である木下商店(のちの木下産商)は岸政権の時代に、日本・インドネシア間の多くの二国間取り引きを仲介した。これらの取引きは、例外的にではなく常時、(リベートが加わった)「超過利得」をもたらした(tw)。
木下商店がもっとも得意とする部門は鉄鋼であり、自民党岸派との接触は、主に木下商店社長の木下茂と、当時の富士製鉄社長の長野重雄の兄、長野護を通じて行なわれた。長野重雄は日韓産業界の関係を促進する国家主義者グループである韓国ロビーでも活躍した→P192へ
(P192)
P192 人物だが、彼の友人には創価学会の大物で金貸しの塚本泰山がいた。塚本は、のちに岸が醜聞に巻きこまれる千葉銀行の大株主でもあった。木下産商の取締役の一人が、元駐米大使で、ハリー・カーンのPRジャパン社のスポンサーでもあった谷正之(東条内閣の外相兼情報局総裁)だった。
ジャパン・ロビーと韓国ロビーの利害関係は多分に重複しており、両者のあいだにはある種の同盟関係が生まれていたのである。
5.3 岸の三つの使命 P192-195
一九五五年の保守合同後まもなく、政権を引き継いだ岸は、ずばり三つの政治使命があった。一つは、アジアの反共の砦としての日本の役割を維持すること、二つ目は六〇年に期限切れになる日米安全保障条約の更新を実行すること、そして、三つ目は日本の産業と中東の石油供給国を結びつけることだった。
岸の経歴や生い立ちは多くの日本人に知られているが、この超保守政治家が、国際政治、とくに石油に関して果たした役割についてはそれほど知られていない。中東から日本への石油供給の発端を切り開いたのは岸だった。
P193 この功績は、ACJで彼をバック・アップしていたハリー・カーンの口利きがあって達成された。カーンはイランやサウジアラビアの王族にまで通じていた。ビジネス上のつきあいだけでなく、個人的人脈があればこそ、コネクションはきわめてスムーズに機能した。
人脈とは、当時、CIA中東駐在チーフのカーミット・「キム」・ルーズベルト、その上司のアレン・ダレス(CIA長官)、そして、陰の外交官マックス・ビショップで、いずれも中東政治や石油戦略に深く関与していた。
朝鮮戦争の際、米軍のありとあらゆる兵器の修理基地の役割を果たし、経済的利益を手にした日本経済は、一九五〇年代初期に不振から脱却し、離陸段階に移行しつつあった。日本がそれまで育成してきた石炭産業は、主として「セブン・シスターズ」と呼ばれるメジャー七社から供給さあれる石油にとってかわられ、徐々に消滅していった。
五○年代半ばまでには、アメリカのオイルメンによって、日本が未曽有の石油消費期に入っていくための舞台がととのえられた。石油の国内生産をほとんど行っていなかった日本は、「黒い黄金」をほぼ全面的にセブン・シスターズからの輸入に頼らざるをえなかった。ちなみに、セブン・シスターズのうち三社はロックフェラー一族が支配していた。
(P194)
P194 一九五六年のスエズ運河閉鎖により、それまで使用していた小型船では南アフリカの喜望峰回航での石油輸送が不可能になり、日本の海運業界にブームがもたらされた。こうして、超大型タンカーの時代が到来し、日本はその助産婦役を果たした。
スエズ動乱は、また、日本経済の舵取りたちに、中東諸国から無制限かつ継続的に石油供給が得られる保証がないことをみせつけた。これは一九九一年の湾岸戦争の際にあらためて痛感させられた教訓でもある。
日本は、アメリカ、イギリス、フランスとは違って、中東に石油利権を保有していなかった。また、中東で操業している石油会社もなかったから、アメリカの石油メジャーの「好意」に頼る以外に方法がなかった。
一九五五年、国際問題担当のシニア・エディターになっていたカーンは、『ニューズウィーク』(三月七日号)に「サウジアラビアの内幕」と題する三頁のリポートを書いた。前月(二月)、サウジアラビア国王の国賓として同国を訪問した直後であった。
石油で得た富を社会福祉施設の建設や国の開発に振り向けているとして、サウジアラビアを賞賛する一方、アメリカ系メジャーの共同子会社アラムコが同国民に仕事を提供していることを称えていた。この記事はまさに、半面の真理を利用して両方にへつらうというカーンお定まりのやり口だった。
二、三ヵ月後に、再度、同国を訪問したときには、国王が中東に対する共産主義の脅威を認めたことを歓迎している。ハリー・カーンはこの記事をサウード国王および彼の王国サウジアラビアとの絆を固めるために利用した。
結果として、翌年、自分の出版物『フォーリン・リポーツ』を始めたときにかなりの見返りを得ることになった。しかし、カーンは、いったいだれの仲介でサウジアラビア政界上層部と知り合ったのだろうか。
日米欧のエリートたちを結ぶロックフェラー財団支配下の民間外交団体である日米欧委員会(TLC)のある中心メンバーによれば、紹介者はマックス・ビショップだという。一九三○年代、ドゥーマンの下で駐日大使館の語学将校をつとめ、ACJ工作の中枢でもあったビショップは、戦後、マッカーサー元帥の政治顧問になり、ACJのカーンやドゥーマンと密接な関係を維持していた。
国家安全保障会議(NSC)での任務後は、サウジアラビアのダーランでアメリカ総領事をつとめた。上級外交官だったビショップが、なぜ総領事になったのかは不明だが、別の見方をすれば、この職を得たために、テキサコ、ソーカル(スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア)、エクソン、モービルといった巨大石油資本からなる世界最大の石油会社アラムコ本社との密接な関係が生まれたわけである。
5.4 戦犯イメージの払拭 P196-199
(P196-)
P196 カーンはとビショップがペルシャ湾岸で好機の臭いを嗅ぎつけていた頃、ACJ一派は、岸をACJ初のリモコン首相にするために、戦犯のイメージを払拭することに力を注いでいた。パケンハムが岸に英語と政治家としての振る舞いを教える一方、アメリカでは岸のイメージアップを狙うPR活動も行われた。
岸をやたらにほめ称えた本『岸と日本---太陽を求めて』(Kishi and Japan :The Search for the Sun,Ivon Obolensky,Inc.)もその一つだった。著者のジャーナリスト、ダン・カーツマンは、一九四八年から四九年までパリのアベレル・ハリマンの下でマーシャル・プランの広報ディレクターをつとめた人物だった。
パリでカーツマンと同じオフィスにいたのが、CIA秘密工作の中心人物ハワード・ハントである。ハントはのちにCIAのフロント組織、ロバート・R・マレン社をベースに活動するようになる。日本外国特派員協会の古参会員のなかには、やはり特派員協会に属していたカーツマンが、岸と岸の国家主義政策を必死に売りこんでいたのを記憶している者がいる。
P197 カーツマンの本が出版された一九六○年、カーンは川部美智雄を社長とするPRジャパン社を東京に開設しようとしていた。同じ頃、アメリカでは、岸の巣鴨拘置所の仲間、児玉誉士夫と笹川良一を売りこむ英文の広報資料や書籍も出版されていた。
児玉の著書『獄中獄外---児玉誉士夫日記』(廣済堂出版)と『われ敗れたり』(協友社)を英訳した広報マンの福田太郎はロッキード社アジア代表事務所内にオフィスを構えていたほどだった。ロッキード社の東京本部でもあった同オフィスは、同社の日本代理店である丸紅のビル内に収まっていた。
少しも意外なことではないが、児玉の巣鴨時代の日記に序文を寄せたのが、ほかならぬ岸だった。
一九五六年、すでにニューズウィーク社をやめていたカーンは岸に次のような手紙を書いた。
日本がエジプトで多大の商業的努力をしていることは承知していますが、私のみたところ、ペルシャ湾はさらに大きくなる可能性を秘めています。アメリカは政策的な観点から、ペルシャ湾だけでなく中東全体における日本のイニシアティブを歓迎するはずです。
日本は市場を必要としています。P198また、日本は中共(中華人民共和国)の対抗勢力になります。ご存じのように、中共は中東とくにエジプトに一大攻勢をかけております。多数のエジプト人が中国に招待されていますが、私はこの関係はプラスにならないと思います同じ頃、カーンは当時の鳩山一郎首相に、サウード国王の日本公式訪問の手筈をととのえるよう強くすすめた。
サウード国王が日本を訪問すれば、われわれ全員にひとしく利益となる協力関係に扉を開くことになるでしょうと彼は手紙を書いている。カーンの現地リポートは、彼の私的ルートであるカリフォルニア州選出上院議員ウィリアム・F・ノウラントを通じ、ホワイトハウスにまで届けられた。ノウランドは、マッカーシー時代、共産主義弾圧が頂点に達した頃、上院の右派でタカ派の調停役として知られていた。
ノウランドの書簡は、彼がアイゼンハワー大統領に直接近づくことができ、カーンの手紙と勧告を大統領に伝えていたことを示している。
中東の石油と日本を結ぶこのルートは、一九五六年まで確立された。ノウランドとP199カーンは互いに「ハリー」「ビル」と呼び合い、書簡を交わした。ハリーはアイゼンハワー大統領とも親交があったようで、大統領のことを「アイク」と呼んでいた。
カーンの最終目標は、リヤド、東京、ワシントンを結ぶ三極関係を確立し、そこでみずから「コンサルタント」を演ずることだった。この三者間の同盟関係は、反共主義、資本主義の大義にかなうものであり、三井物産、丸紅、日商岩井など、金持ちの顧客を経由して彼自身の懐を豊かにする、とカーンは考えたに違いない。
5.5 日本・中東直結リンク P199-201
日本の石油輸入量拡大の経済的、政治的、戦術的な意味合いを考えると、カーンが鳩山や岸に宛てた手紙の目的は、世界でもっとも豊かな石油埋蔵国サウジアラビアと日本を「直結する」ルートをつくることだった。
一九五○年、メジャー(国際石油資本)は日本の石油精製所復興のために資金を投入し、専門技術を提供することに合意したが、日本は石炭から石油をベースとした産業構造に急速に転換しはじめていた。これと引き換えに、これらの石油資本は、石油精製所が必要とする原油供給権をすべて、P200主として中東から取得した。
(P200)
いわゆる"タイド・クルード(ヒモ付き原油)"協定は実質的に石油資源をもたない国に対する強大かつ高利益のレバレッジをアメリカの石油会社にもたらした。
カーンが日本との取り引きで強調しようとしたのは、日本の生命線である石油の八○パーセント供給の保証を、アメリカの石油会社に依存しているだけでなく、サウジアラビア、イラン、クウェートなどの中東諸国政府の好意に依存しているということだった。
カーンが岸に伝えた問題の緊急性は、当時より今日のほうがいちだんと切迫しているようにも思われる。
しかし、岸を首相に据えるだけでは十分ではなかった。カーンは中東での商取り引きに岸を巻きこまざるを得なかった。カーンは「三水会」という私的政治組織を日本輸出石油に引きこむことで、この離れ技をやってのけた。
日本輸出石油は、一九五六年、山下太郎が中東に設立した日本法人だが、ここで一役買ったのが三水会のメンバーで、忠実なるアメリカのロビイスト、日本精工社長の今里広記だった。同じ三水会で、小林中や福田赳夫、岸などと顔を合わせていた今里は、のちに海外石油開発、ジャパン石油開発(ともに一九七三年設立)の社長に収まった。
また、今里はMRAのメンバーでもあり、P201イランのパーレビ国王のスポンサーだったデイビッド・ロックフェラーが創設した日米欧(三極)委員会にも、加わっている。
日本最初の海外での採掘権は、山下がサウジアラビアのサウード国王と会見した翌一九五八年、アラビア石油が取得した。サウジアラビアとクウェートの中立地帯の沿岸沖に七千平方キロメートルの油田採掘権を得て、同社は何年間も原油供給の大きなシェアを獲得してきた。
のちにアラビア石油社長に就任する小林中は、それ以前に「キャンディ」と呼ばれた「米国援助物資見返り資金特別勘定」(CIA資金)から百億円を得て、日本開発銀行総裁に就任していた。小林はまた、反共の実業家世代を養成するため、一九五○年代にアメリカの買収資金数百万ドルを持ち出したとも噂された。
小林が日本開発銀行総裁の地位を得たのは、樺山愛輔(伯爵)の女婿でACJのグルーとドゥーマンと親交のあった白洲次郎の口利きがあってのことと推測される。
5.6 四人のK P202-206
(P202-)
P202 その一方で、カーンは、岸を説得し、岸とは反共主義という点で一致しているサウジアラビアのサウード国王に近づき、友好関係をつくるよう仕向けた。しかし、カーンは、この二人が世界の石油の需要と供給をそれぞれ代表しており、彼自身はアドバイザーとして両者のあいだに立っていることを承知していた(tw,tw,tw)。
しかしながら、日本、サウジアラビア、アメリカを結ぶ三国コネクションの突っ込んだ分析は、「四人のK」---岸信介、川部美智雄、ハリー・カーン、アドナン・カショギ(相互参照)---の戦略を述べずには完成しない。真に「国際的」と呼ぶことができるのは、わずかに最後の「K」だけである。
若く精力的で、如才ないカショギは、まさにアメリカと日本の両方がサウジアラビアで必要としていた仲介者、つまり、王室への「橋渡し」役を果たした。アドナンの父親は初代サウジ国王の宮中に仕えた医師だったが、この国では、医者といえば即、政治顧問でもあった。
このサウジアラビアの策士の会社「トライアッド」はリヒテンシュタインに本拠を置き、ワシントンのカーンと、岸の秘書の川部美智雄が代理をつとめていた。この「四人のK]ルートの成果としては、一九六五年と一九七○年の岸のサウジアラビア訪問、一九七一年五月のファイサル国王の日本訪問がある。
このとき、ファイサルは、御殿場の岸邸を訪れて昼食をともにするほど岸と親交を深めていた。
カショギは、一九六七年にモロッコで知り合ったリチャード・M・ニクソンを通じ、ワシントンの政治舞台でも積極的な活動を展開した。一九六八年、ニクソンが大統領に選ばれてからは、カショギはニクソンの信頼篤い友人となり、政治資金の拠出者になった。
アラブ人のカショギは、ワシントンのイスラエル・ロビーが勢力をもちすぎていると感じ、その足を引っぱろうとしていた。カショギの生活の糧は石油ではなく、武器取り引きであり、最大の顧客というのが、たまたまCIAが一九五三年にクーデターによって政権につかせたイラン国王(パーレビ)だった。
一九七ニ年のニクソン再選運動にカショギが不法な資金を送ったことが発覚したが、告訴されることはなかった。P204このサウジ商人には特別の守護神がついていたのだろうか。考えられることは、ワシントンにいたカショギの密使、政治的に"アンタッチャブル"なハリー・カーンが、高所からサウジの庇護に回ったということである。
もう一人の「K」川部美智雄は、表向きは、デュッセルドルフとジャカルタに支店をもつレストラン・チェーン「日本館」のオーナー経営者だった。岸と川部の関係のルーツは占領時代にさかのぼる。知り合ったのは、川部がGHQとアメリカ大使館に通訳として勤務していた頃だった。
以来、接触を重ね、一九五六年に岸が外相になると、川部は海外広報担当秘書になり、翌年の岸内閣誕生と同時に内閣渉外参与になった。その一方で、川部はハリー・カーンの仕事仲間でもあった。
一九六○年、日米安保条約改定をめぐる左翼学生の反対運動のさなかに川部の会社、PRジャパンが設立されたが、カーンは同社の取締役に名を連ねていた。カーンはそれ以前にも、岸への影響力を武器に、日本でロビイストとして活躍していた。
パケンハムは日本国内で、岸が一九五七年に亡くなるまで、コーチしたり英語のレッスンをしたりしていたが、カーンのほうは、岸の訪米の際に、ここぞという細部を取り仕切っていた。
P205 日本とのビジネス関係では、カーンと川部は、グラマン製品の売りこみをしていた日商岩井ととくに近い関係にあったが、その一方、カーンは、三井物産の利権にも直接関与していた。七○年代はじめ、三井は、同社主導のコンソーシアム(国際借款団)が五千億円の石油化学プラントを建設中だったイランに深く入りこんでいた。
カーンはパーレビ国王とサウード国王の両方と親交があったから、日本の商社は彼の情報を高く買っていた。一九七○年代に入って数年後に、カーンの日本での政治基盤を揺るがしたロッキード事件が表面化し、パーレビ王国を打倒するイラン革命が発生した。
岸はかなり前に引退していたし、ハリー・カーンも日本での足場が危うくなっていた。カショギはロッキード事件ですっかり正体を暴かれ、その二年後には川部もグラマン事件でカーンとともに仮面を剥がされてしまった。
かくして、「四人のK」が君臨する時代は終わったが、岸は日米保守政治の「陰の実力者」として変わらず君臨し、一九八七年に亡くなるまで自民党政権の首相選出に確実に影響を及ぼし続けた。
ふり返ってみると、アメリカに後衛を守られた岸政権のもっとも重要な使命の一つは、共産主義の反乱をくいとめ、それに続く時代にアジアにおける日本の経済戦略の地盤を固めるために、東南アジア向けの経済援助拡大というテコを生み出し、それを利用することであったように思われる。
岸政権下の賠償にはじまる国際利権ネットワークは、まもなくアメリカ資本と結びつき、日本、アメリカ、韓国、インドネシアをとり囲む貪欲な工作員たちによる強力な秘密結社へと発展していった。
5.7 岸の先駆的功績 P206-208
経済に関して、アジアの意志を日本の反共リーダーの下に従属させること以上に重要だったのは、P207日本、アメリカ、中東の三極関係の形成であったが、この関係は、依然、未完成のままである。石油を大量に消費する日本の産業は、いまもって圧倒的に石油供給を中東に依存しており、アメリカ・メジャーは、これらの石油の大半を供給している。
ハリー・カーンや岸信介が作りあげたインフラストラクチャーは、時代の波にもまれ、無数のスキャンダルと政治的暴動に遭いながらも、見事なまでに生き延びてきた。
最終的に、岸信介がいかなる人物であったか、彼がなぜ、平然と、容赦なく日本におけるアメリカの利益を推進するために日本を裏切ったかは、いまだ不明である。
しかしながら、大方の見方は、岸は冷戦の真髄であった。だからこそ、左翼系過激派学生から悪の化身として嫌悪され、政権を追われたというものである。
岸自身について、また、岸と暴力団との破廉恥な関係については多くが知られている。しかし、この老獪な右翼は多くの秘密を残したまま、一九八七年八月、九十歳でこの世を去った。そして、みずからの政治生命を犠牲にして勝ちとった一九六○年の日米安全保障条約改定という遺産を残した。
(P208-)
因業な老政治家が死を迎えたときには、彼の政治流儀は、日本の政界にあって周囲を困惑させるほど古臭いものになっていた。P208しかし、ACJという後ろ盾を得て、石油に飢えた日本の産業界を中東産油国と結びつけた彼の先駆的業績は、後まで残り、栄え、ACJ首謀者たちのもう一つの長期的目標を成就させた。
(注釈)
(以下略)