第一章 日米開戦への道 P23-123
1.1 マリ子の父の情報工作 P23-651.2 黒人、商社マン、図書館 P66-80
(P76-)
知日派ザカライアスの策略 P77-80
P77 ワシントンの在米日本大使館前の緑濃いマサチューセッツ通りを二キロあまり北西に行くと、ウィスコンシン通りと交わった角に、古いアパート、アルバンタワーがあった。戦前ここの四階に日本の海軍武官室があった。
太平洋に緊張の高まり始めた一九三○年代中ごろから、この武官室を舞台に日米の激しいスパイ合戦が展開された。
主役は、そこから約一キロ北のポーター通りに住んでいた知日派のエリス・ザカライアス大佐である。ザカライアスは米海軍情報部(ONI)に所属していた。あの手この手のテクニックを駆使して情報工作を展開するこの情報将校に、日本海軍は何度となく煮え湯を飲まされた。
ザカライアスは一九二○年、語学研修生として東京に派遣された。逗子に住み、巧みに日本語を操った。当時、米海軍で彼以外に満足に日本語ができた将校はいなかったと言われる。P78ザカライアスは米海軍きっての知日派で、山本五十六、野村吉三郎両大将らと親交を結んだ。
一九三五年七月のある蒸し暑い夕、ザカライアスは山口多聞大佐ら武官室の面々を自宅での夕食パーティーに招いた。武官らだけでなく近隣の大学に留学中の将校までがやってきた。ザカライアス夫妻のもてなしで宴は盛り上がった。
ザカライアス邸では、みんなが杯を重ね、ほろ酔い気分になった。
そのころ、武官室では突然、電灯が点滅し始めた。留守番の書記と運転手は電気故障と思い、一階の管理人に電話すると、ほどなく作業衣を着て強力懐中電灯を持った二人の技術者が現れた。
P79 技術者は室内を隅から隅まで点検した後、「ショートが原因だった」と言って地下室でヒューズを替え、室内に光が戻った。こうして米海軍情報部は日本海軍武官室の中をくまなく調べ、暗号機械の外観から方式などの概略を把握した。
言うまでもなく、電気技術者に化けていたのは米海軍情報部員だった。ザカライアスはに対する日本側の警戒感は薄かった。
一九四一年二月六日、駐米大使として赴任する野村吉三郎を乗せた鎌倉丸がサンフランシスコに入港した。翌七日朝、ザカライアスは野村が宿泊したフェアモント・ホテルを訪ねた。野村は人払いをして、二人は一時間半率直に話し合った。
野村は日米交渉継続の意欲を示して言い切った。「アメリカとの戦争は日本帝国の終焉を意味する」ザカライアスはこのようにして、新しい駐米大使野村の真意を探った。戦時中、ザカライアスは対日神経戦計画を立案、対日プロパガンダ放送にも関与した。
一九四五年五月、ドイツの降伏が決定したのを受けて、ハリー・トルーマン米大統領の対日降伏勧告を自ら放送した。P80これ以後八月四日まで、ザカライアスは十四回にわたって無条件降伏を訴える放送を繰り返した。
「豊臣秀吉は死の床で朝鮮征伐の中止を決断した」「西南戦争で西郷隆盛の反乱軍は最後に武器を捨て、薩摩は破壊から救われた」などと知日派らしく歴史をひもといて説得に努めた。「無条件降伏」といっても、それは「戦争終結のための人道的な方法」であり、「アメリカの政策の基礎は、大西洋憲章とカイロ宣言にあり、領土的野心はない」と訴えた。
カイロ宣言は一九一四年(大正三年)以後日本が獲得した太平洋の島の放棄、中国東北地方と台湾の中国への返還、朝鮮の独立を規定していた。
そんな放送内容に日本の指導者らも注目した。当時の外務省首脳の手記や電報などにザカライアスは再三引用されている。
七月二十六日、ポツダム宣言が発表されたが、外務省首脳は、宣言の内容に驚かなかった。ザカライアスの放送の線に沿ったものだと判断した、という。
ザカライアスは、戦後書いた回想録で、自分がかかわった情報活動を明らかにして、日本の関係者らを驚かせた(関連)。
1.3 ルーズベルトのわな P81-100
1.4 英ソの策略 P101-123
第二章 祖国との決別 P127-216
2.1 米軍の秘密兵器・二世 P127-136(P126-)
P127 日米開戦で、アメリカ国内では反日ヒステリーが高まった。新聞紙上には、日本人と日系アメリカ人を敵視し、侮辱する報道が溢れた。根も葉もない情報が乱れ飛び、日系人を警戒すべきだ、との世論を盛り上げた。「地図と外国の文書を持ったジャップ二人を拘束」「狂犬、黄色い害虫、ニップス(日本人の蔑称)」そんな見出しが新聞紙上におどった。
特に西部の白人社会で、そんな反日のムードが爆発した。米陸軍西部国防司令部のジョン・デウィット将軍はフランクリン・ルーズベルト大統領に警告した。「日系アメリカ人はよく組織されており、呼応した行動を起こす準備ができている」日系アメリカ人がアメリカ国内で攪乱工作を計画していることを示す証拠はなかった。ただ、野村吉三郎駐米大使は本省あての秘密電報で、日系アメリカ人を情報工作P128に利用する計画を明らかにしたことがあった。情報としてはおそらくその程度のことしかなかったろう。
デウィット自身、確信もなかった。だが、彼の論理回路は理性を欠いていた。「これまで破壊工作が全く起きていない事実こそが、今後そうした行動がとられることを示している」全く誤った先入観と偏見に基づく乱暴な予測だった。だが、日系人が多い地元カリフォルニア州ではカルバート・オルソン知事、アール・ウォーレン検事総長が日系人排除に賛成した。ウォーレンは後に連邦最高裁判所長官となり、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件を調査するウォーレン委員会を率いた人物である。
それに加えて、ヘンリー・スティムソン陸軍長官ら陸軍首脳部も日系人の強制収容を支持した。フランクリン・ルーズベルト大統領はこの主張を支持し、一九四二年二月十九日、大統領行政命令9066号に署名した。
(略)2.2 捕虜サカキダの素顔 P137-156
2.3 山本五十六機撃墜の陰で P157-170
2.4 敗戦を決定的にしたZ文書 P171-186
(P172)
P172 ハリー・フクハラ語学兵(当時24歳、後に大佐)はそんな様子を今もよく覚えている。
2.5 OSSの日系要員 P187-216
第五章 日本の黒い霧
5.1 A級戦犯免罪の系譜 P335-370(P334-)
5.2 ノーベル平和賞を狙った男 P371-378
(P370-)
5.5 キャノン機関とCIA P420-470
(P420-)
P420 終戦から五年たった一九五○年(昭和二十五年)、日本を取り巻く情勢は依然、大きく揺れていた。朝鮮半島では、南北に分断国家が成立、中国大陸は共産化し、冷戦の荒波が押し寄せた。一時、武装闘争の方針を立てた日本共産党に対して、占領軍当局と政府は治安体制の確立を急いだ。五〇年前後の、そんな騒然とした情勢の中、日本国内では奇怪な事件が続発した。
この時期、一九四七年から五三年までの五年間、GHQ防諜部隊(CIC)の富山支部に、日系二世ハリー・フクハラ中尉が隊長として配置された。ハリーの両親は広島県出身の一世で、一九二○年、米西海岸シアトルで生まれた。日本名は福原克治。十三歳の時、父が病死したため、一家は広島へ引き揚げ、ハリーは山陽中学を卒業した。しかし、ハリーは日本になじめず、アメリカに単身戻ってしばらくして、日米開戦となった。
P421 陸軍情報部語学学校を出たハリーは、日本語がよくできる、いわゆる「帰米二世」の情報要員として重宝がられ、太平洋戦線に送られた。第二章「祖国との決別」でも、ハリー・フクハラの経験を紹介した(参照)。日本に残ったハリーの兄と弟は陸軍に召集され、太平洋戦線で、兄弟が敵と味方に分かれて戦った。
フクハラ兄弟は、山口豊子著『二つの祖国』のモデルになった。
ハリーは戦後、情報将校として、CICに勤務した。安保騒動などの舞台裏で日米の情報機関の間の密接な協力関係を築いた。警察庁長官を務めた後藤田正晴(後に副総理)、川島広守(後にプロ野球コミッショナー)らと親しい交際を続けた。一九九〇年、ハリー・フクハラは在日米陸軍第五〇〇部隊の対外連絡事務所長(大佐)を最後に引退した。五〇〇部隊は青山墓地のわき、六本木のハーディー・バラックス※にある。その任務は情報収集である。
ハリーが富山のCIC隊長をしていた一九四八、九年のこと。突然、東京のジャック・キャノン中佐から電話が入った。横柄な言い方だった。「伏木港(高岡市)に着いた密航船に乗って捕まっていて朝鮮人たちを釈放しろ」
※ハーディー・バラックス(赤坂プレスセンター)
第六章 日本改造 P472-614
(P492-)(P496-)
日米安保条約の原型(関連相互参照)
P497そこで、池田蔵相をアメリカに派遣して、米政府と直接協議し、ドッジ・ラインの緩和、つまり金融緩和策の可能性を探ろうとしたわけだ。池田は、所得税減税や給与水準の引き上げ、債務償還の緩和、輸出入銀行の設立といった日本側からの提案を説明し、おおむねアメリカ側の理解を得ることに成功した。
戦後五年たっていたこともあって、占領の終了と講和も大きな課題となっていた。日本国内には、講和条約を結んで独立を回復しようという機運も強まっていた。しかし、問題は、占領終了後の日本の防衛をどうするか、だった。
吉田には、基本的な構想があった。訪米直前の池田を呼んで、腹案を打ち明けていた(tw)。
「日本側から米軍の駐留を要請してよろしい」今から振り返ると、これが日米安保条約の原型の誕生となった、と宮沢も回想している。
池田蔵相一行は(一九五○年)四月二十七日ワシントンに到着した。
池田はドッジとの会談で、吉田首相からの伝言を伝えた。
P498「日本政府はできるだけ早い機会に講和条約を結ぶことを希望する。講和条約ができても、アメリカの軍隊を日本に駐留させる必要があるが、もしアメリカ側からそのような希望を申し出にくいならば、日本政府としては日本側からそれをオファーするような持ち出し方を研究してもよろしい(相参)」これに対して、ドッジは個人的な見解として、
「講和条約に反対というのではないが、その結果ソ連に対する日米の立場が弱くなることがあってはならない」と述べた。
以上の、池田とドッジの見解は五月三日、覚書の形で文書に残された。これが、日本がアメリカ軍に基地を提供することを定めた(旧)日米安全保障条約の基礎となった。
翌一九五一年九月八日、サンフランシスコで、アメリカなど一部の諸国と講和条約を結び、さらに日米安保条約が調印された。
日本がアメリカなどと講和を結んで、その後に安保条約を締結し、米軍の駐留を認める、という方式は、吉田首相とジョン・フォスター・ダレス国生顧問(後に国務長官)がまとめた。二人の名をとって、
P499「吉田・ダレス方式」
とも呼ばれた。
この間、社会、共産両党は全面講和を主張した。全面講和論を唱えた南原繁東大総長を、吉田は「曲学阿世の徒」と非難し、南原が学問への権力的強圧と反論するなどの騒ぎになった。
日本が米ソを操る危険性
(略、一九四七年十一月十四日付で、CIAは講和問題をめぐり、秘密文書をまとめていた。「日本の講和条約--問題と争点、反応」)
関連
・『秘密のファイル(下)』(参照)
・『持丸長者--戦後復興編--』3.6 サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結(参照)