2022年5月13日金曜日

偏愛メモ 『オードリー・ヘップバーン物語(上、下)』(随時更新)

(上巻)


第1章 オランダ、そして遠すぎた橋(一九二九~一九四七年)P12-85

「わたしは自分の容貌に途方もないコンプレックスを抱いていた。この醜い顔では、だれもわたしと結婚してくれないだろうと思っていた」--オードリー・ヘップバーン

史上最大の空挺侵攻作戦が行われた日、オードリー・ヘップバーンは十五歳の瘦せっぽっちの女の子だった。目前に迫ったナチス・ドイツからの解放に茫然とすると同時に胸を躍らせ、それが自分の住むオランダの田舎町アルンヘムで起こりつつあることが信じられない思いだった。

一九四四年九月十七日のこの日、アルンヘムは第二次大戦中で最も大胆な連合軍侵攻作戦の舞台となった。この日は、ナチス占領下の千八百日とともに、彼女の生涯に永続的な影響を及ぼすことになる。

P13彼女は不思議な運命でこの場に居合わせることになったが、さらに不思議な運命が、侵攻作戦を見守っていたこの十代の少女を、その時代の最も美しい偶像に変えることになる。

「オードリーはごくありふれた女の子でありながら、どんな女の子とも似ていなかった」と、ある友達は語っている。「オードリー・ヘップバーンとさえ似ていない」。彼女は本格的なバレエに出演したしたことがないバレエ・ダンサーだった。出演料が世界一高額でありながら、一度も演技の勉強をしたことがない映画女優だった。

ペシミストたちは戦争からは新しい女性の理想は生まれないと語った、とセシル・ビートンは書いている。しかしオランダの瓦礫と、イギリス風のアクセントと、アメリカでの成功は新時代の精神を体現した意欲的な子供を生みだすだろうと。

「彼女のような容貌の人間はかつて存在しなかった」と、ビートンはいっている。おそらく、「あのフランス革命の熱狂的な子供たちを除けば」。大きな目、濃い眉、信じられないほど細長い首、そして当時の標準からすれば「高過ぎる」背丈。

それでもモジリアニの肖像画のように、「アンバランスそれ自体が興味深いばかりでなく、非のうちどころのない合成物を作っている」

彼女はたんなるニュー・ルックではなく、新しい女らしさ--アメリカ流のセックスの女神とは正反対のヨーロッパの女性を代表するようになる。歌姫マリア・カラスはじめ無数の女性たちが彼女をモデルとすることを望んだ。

「彼女は歴史的な瞬間に、フェミニズムと安易な離婚とセックス革命の直前に登場した」と、批評家のモリー・ハスケルは書いた。彼女P14は傷つきやすい宿なしの子であり、最後まで慎重で多義的だった。

『昼下がりの情事』のヒロインがその典型だった。とスタンリー・カウフマンは語っている。「彼女が思いきった冒険をしようとするサインは、手袋を脱ぐことだった」

あどけない子供のような女性はリリアン・ギッシュ以来映画の観客を魅了してきたが、ヘップバーン・タイプは逆説的なグラマーとソフィスティケーションとともに出現した。

ほとんどのグラマー・クイーンたちは、ウェイトレスか売り子の役からスタートして、所属する映画会社によって王座につく訓練を受けなくてはならなかった。

オードリー・ヘップバーンの場合はそうではなかった。彼女は貝殻から生まれるボッティチェリのヴィーナスのように、ほぼ完全な形で到着した。美とグラマーは重なる部分があるにしても、決して同じものではない。

美は視覚的なもので、グラマーに必要だがそれだけでは十分でない。グラマーはより抽象的である。そしてグラマーは集団催眠の一形態だとすれば、ヘップバーンは彼女の時代の最もすぐれた映画の催眠術師だった。

映画の偉大な女神たちのなかで、マリリン・モンローとエリザベス・テーラーだけがオードリー・ヘップバーンよりも≪ライフ≫の表紙に登場した回数が多く、ガルボだけが彼女よりもハリウッドから超然としていた。

四十年以上の間にわずか二十本の映画に主演しただけだが、どの作品にも注目すべき独自の存在感を吹きこんだ。ソフトな声でメランコリーをギターに打ち明けながら「ムーン・リヴァー」を歌うとき、「彼女はわれわれがそのよしあしを判定する女優ではなく、われわれが知り、かつ愛している一人の人間である」と、ある讃美者は書いている。

m P15「あの容貌だけで下手な演技やできの悪い映画は許されただろう。幸い、その必要はなかったが」

彼女の持つ王者のオーラもまた光り輝いた。「彼女はわたくしたちのお仲間です」と、エリザベス皇太后はヘップバーンと会ったあとで娘のにいったと伝えられる。

ハスケルの目には「彼女は半分森の妖精、半分王女としての五〇年代に空から降りてきて、やがて…足跡も残さずに…姿を消した…国籍も階級も定かでない、謎めいた血統の取替え子」であるかのように映った。

だとすれば、彼女が実際に男爵夫人の娘であることを知っても驚くには当たらないだろう。

オードリー・ヘップバーンの母親(相互参照)はオランダ貴族の由緒ある家系に属していた。祖父アールノート・ファン・ヘームストラ男爵(一八七一~一九五七)は弁護士で、ウィルヘルミーナ女王の宮廷ではよく知られた人物だった。

その先祖は十二世紀以来政治家および軍人として、オランダで高い地位を占めていた。オードリーの一生にも世間並みにいろいろ問題はあったが、少なくともアイデンティティの危機に悩む事はなかっただろう。先祖の肖像画がオランダじゅうの美術館や貴族の館に飾られていたからである。

ファン・ヘームストラ家はもともと植民地貿易で財をなしたが、アールノート男爵は貿易よりも官僚を好んだ。一八九六年にエルブリフ・ファン・アスベックと結婚して、五女一男をもうけた。三番目の子供でオードリーの母となるエラは、一九〇〇年にヘルダーラント州で生まれた。

P16エラはオペラの勉強をしたかったが、ステージは立ち入り禁止地域だった。「なにをしてもいいが、俳優や女優とはつきあうな」と、男爵は命じた。「一家の面汚しだ」。

エラの友達で、オランダのビール会社の一族であるアルフレート(フレディ)・ハイネケン三世は、彼女について、「生まれながらの女優、きわめてドラマチックな性格で、感情豊かで、優れたユーモア感覚を持っていた。

しかし当時は貴族の娘が職業を持つことは禁じられていた。彼女は幸せな結婚をして子供をたくさん産むことを期待されていた」と語っている。

エラは、「なによりもイギリス風に、スリムな体型に、そして女優になることを望みながら育った」無念さをたびたび口に出すようになる。父親に従順な娘は望みを捨てたが、自分に才能ある娘が生まれたら後押ししようと心に誓った。彼女自身の恵まれた少女時代は、男爵家のいくつかの領地で送られた。

なかでも特筆すべきはユトレヒトのの近くの、美しい庭園と白鳥の浮かぶ堀に囲まれた豪邸ドールン城(現在はハウス・ドールン博物館)であった。しかしファン・ヘームストラ家のエラの世代は、この城に長く住めなかった。

第一次大戦の記憶は第二次大戦の生々しい記憶の影に薄れてしまう。第一次大戦時オランダは中立国で、終戦と同時にカイザー・ウィルヘルム二世がドイツからオランダへ逃亡したことを思いだす人は少ない。

勝利した連合国はドイツ皇帝を戦争犯罪人に指名したが、寛大なオランダ人は彼の引き渡しを拒んだ。ファン・ヘームストラ男爵家は彼をドールン城に宿泊させたばかりか、一九二〇年には彼に城を売らなければならなかった。

皇帝はこの城で復権を夢想し、P17プロイセン流の野蛮さを発揮して、「体力づくり」のために敷地内の木を一日に一本ずつ伐り倒した。

ジョゼフ・J・オドナヒュー--未来の女優オードリー・ヘップバーンの未来の姻戚の一人--は、一九三〇年代の初めにカイザーの孫のルイス・フェルディナント皇太子の招待でドールン城を訪問したことを回顧する。
式部長官のフォン・グランシー男爵の出迎えを受け、堀を渡って案内された。[ドイツ製の]家具調度の目立つ大広間で、他の客に紹介された。[シェリー酒のあとで、]従僕が大きな扉を開けると、太ったダックスフントが王者然としたよたよた歩きで広間に入りこみ、そのあとに犬よりはかなり元気な足どりでカイザーが続いた。

[紹介が終わると、]りっぱな食事室に移り、わたしは皇帝の右隣の席に座らされた。[食事のあと、]主にフリードリッヒ大王の肖像画と記念品が飾られた喫煙室に場所を移した。カイザーはフリードリッヒに対して、祖母のヴィクトリア女王に対する愛情に勝るとも劣らぬ英雄崇拝を抱いていた。
最後のドイツ皇帝は一九四一年に死ぬまでハウス・ドールンに住んだ(死去に当たってヒトラーは軍令葬を許可した)。ファン・ヘームストラ家は、それよりずっと前に、オランダ東部アルンヘムにある先祖伝来のもうひとつの領地に居を移していた。

一七四三年に遡る素朴な小型の城、ザイぺンダールは、付属の厩舎、水車小屋、それに手入れの行きとどいた庭園と馬の管理人たちのための別棟の住居とともに、絵のように美しい田園風景に抱かれていた*。男爵とその子供たちは、彼がアルンヘム市長を務めた一九一〇年から二〇年までそこに住んで貴族的な生活を送った。  
*ザイぺンダールには現在、この州にある二十一の城とその所蔵品および庭園を保存する目的で設立されたヘルダーラント州城館友の会の事務局が置かれている。
彼は間もなく異国で勤務することになるのだが、その前にまず十九歳になるエラを結婚させるという仕事があった。彼女は一九二〇年三月十一日に、オレンジ=ナッサウ勲爵士ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアルレス・ファン・ウフォルトと結婚した。

夫は元王室の侍従武官で、今はバターフセ・ペトロレウム(のちのダッチ・シェル)の重役として、最近オランダ領東インド諸島へ赴任したばかりだった。彼は新妻をバタヴィア(現在はインドネシアのジャカルタ)へ伴い、そこで結婚式からちょうど九か月後に長男アレクサンデルが生まれた。

オランダ帝国の領土は広範囲にわたり、エラの父親はそのなかでも最も遠い植民地に向けて出発した。一九二一年に南米東海岸スリナム(オランダ領ギアナ)の総督に任命されたのである。

そこはカリブ海沿岸からブラジルにいたる、ジョージア州とほぼ同じ面積の領土で、一六六七年にニュー・アムステルダム--現在のニューヨーク州およびニューヨーク市--P19と交換にイギリスから受けとった土地だった。当時はこれが有利な取引と思われた。

三十万の植民地人口の半数近くが首都パラマリボに住んでいた。海岸通りに近いカラフルなアジア風マーケットでは、ヒンズー教の寺院とカリブ海地方最大のモスクとシナゴーグが平和的に共存していた。

全体として見れば、パラマリボは奇妙な人種混合にもかかわらず、まぎれもなくオラン的性格を持った国際都市だった*。比較的人種間の摩擦が少ないのは、オランダ的寛容によるところが大きかった。スリナム人は協調性があった。
 *原住民のインディアンとブッシュ・ニグロ(逃亡奴隷の子孫)は、いまほとんど探検されていない内陸部の熱帯雨林に住んでいた。数の上では彼らよりもクレオールと、農園労働者としてジャワ、インド、パキスタンからやってきたアジア人のほうが多かった。公用語はオランダ語だが、主な共通語はクレオール方言--タキ=タキと呼ばれるピジン・イングリッシュである。
パラマリボの誇りは十八世紀から十九世紀に建てられた多くの美しいオランダ・ネオ・ノルマン・スタイルの植民地建築だった。中でも代表的なものは、とても発音できそうにないオナフハンケライクハイトスプラインというオランダ名を持った広場にある総督官邸だった。

男爵夫人エルブリフは病弱だったので、十七歳になる娘のジャクリーネが父親の任期中代役としてホステス役を務めた。彼女はのちにユリアナ王女(のちの女王)の女官となる。さしあたりスリナムはそのための完璧な…そして文句なしに美しい…訓練場だった。

P20十二フィートの高さまで生長する蘭の花に囲まれた総督官邸を一目見て、ファン・ヘームストラ一家はその建物が気に入った。

一方スリナム人の側も、ファン・ヘームストラ男爵に好感を持った。彼は白人種のヨーロッパ人がめったに入りこまない内陸の奥地まで旅をした最初の総督だった。その目的は観光ではなくビジネスだった。

彼は大量のボーキサイトを含むこの国の膨大な天然資源の新しい利用法を探していたのである。まもなくスリナムのボークサイト/アルミニウム産業は全輸出額の七三パーセントに達することになる。

首都パラマリボは人をひきつける魅力的な雰囲気に満ちていた。この町の習慣のひとつに、講演で行われるバードソング・コンテストがあった。人々は散歩するときや、仕事にでかけるときでさえ、美しい声で鳴く小鳥を入れた鳥籠を持ち歩いた。

暮らしは豊かで、食べ物もおいしく--スリナムの人種構成に劣らずエキゾティックだった--なかでもポム、すなわちカサヴァのピュレと、ピーナッツ・スープと、バナナ・ダンプリングが名物だった。

気候は高湿度だが、年間を通して吹く北東貿易風のおかげで極端に暑くはなかった。そこはいろんな点でまぎれもなく熱帯のパラダイスだった。

しかし地球を半周したもうひとつの天国バタヴィアには問題があって、エラの結婚生活が暗礁に乗りあげていた。彼女とクアルレス・ファン・ウフォルトとの絶え間ない夫婦喧嘩は、二人目の息子イアンが生まれた一年後の一九二五年に終り、二人はオランダ領東インド諸島で離婚した。

当時オランダ貴族の女性の離婚は非常に珍しかったが、「彼女は多くの女性とP21違って、愛人を作るよりは離婚を望んでいた」と、ある友人は語っている。エラは豊かな生活を愛し、美貌の男性には目がない、意志強固でエネルギッシュな女性だった。

彼女は二人の息子を連れて、パラマリボの一族のもとへ去ったが、そこにも長くはいなかった。ジャクリーネと違って、スリナムの物珍しさにも一年足らずで飽きてしまい、一時的にアルンヘムへ帰ったあと、ふたたびインドネシアへ舞い戻った。

その本当の目的は、インドネシアで知りあったアングロ・アイリッシュのビジネスマン、ジョゼフ・ヘップバーン=ラストン(相互参照)との関係に縒りを戻すことだった。相手も最近離婚したばかりだった。

エラの階級では、結婚も離婚も外国でするほうが容易だった。彼女とジョゼフは一九二六年九月七日にバタヴィアで結婚した。

ラストンは一八八九年に、イギリス人の父親が商売をしていたスロヴァキアで生まれた。ケンブリッジで学び、第一次大戦中イギリス陸軍にいたという本人の言葉は確認されていないが、戦後外務省に入り、駐オランダ領東インド諸島副領事としてバタヴィアとスラバヤの中間の町セマランに赴任した。

やがてその職を辞して、東インド諸島産の錫の取引を扱うマクレイン・ワトソン&カンパニーのバタヴィア支店に就職した。

ジャワの魅力も酷暑と社交生活の乏しさには勝てず、間もなくこの夫婦はふたたびヨーロッパに戻った。しかしラストンのマクレイン・ワトソンのロンドン本社勤務はわずか一年しか続かなかった。

一か所にじっとしていられない性分の彼は、つぎに家屋建築融資その他を扱う英仏合弁の金融会社に就職した。この会社は彼に副社長兼管理部長代理の肩書を与えて、P22新しい支店開設のためにベルギーへ派遣した。彼とエラと二人の男の子はブリュッセルのイクセル地区に居を構えた。

それから半世紀たって、オードリー・ヘップバーンの伝記作家たちの大部分は、彼女の父親がイングランド銀行ブリュッセル支店勤務の「銀行家」で、エラと結婚したあと、ファン・ヘームストラ家の財産を管理していたと記述する。

オードリーは晩年になってそれをきっぱり否定している。「彼らはわたしの父が銀行家だったというけれど、それは違います。彼には長続きした仕事はひとつもありません」

イングランド銀行は大蔵省の管轄であり、通常の銀行とは違うし、ブリュッセルであれどこであれ、外国に支店など持っていなかった。ラストンが当初エラに抱いた関心は、ファン・ヘームストラ家には莫大な富があるという勝手な思いこみによって増幅されたが、やがて自分の思い違いに気づいて、怒りはしないまでも失望することになった。

「国際的銀行家」よりもむしろ「国際的投機師」という形容のほうが彼にはよりふさわしかった。そして今、彼の妻は「妊娠中」と形容される状態にあった。

オードリー・キャスリン・ファン・ヘームストラは一九二九年五月四日にブリュッセルで生まれた。「オードリー」は男の子が生まれたらつける予定だった「アンドルー」の女性形だった。

出生証明書からはラストンの前のハイフンでつながれた「ヘップバーン」が省略されている。エラが自分と娘の将来の名刺に箔をつけるために、後でそれをつく加えたといわれている。

P23伝記作家のウォレン・ハリスによれば、エラがラストンの家系図のなかに発見できた唯一の貴族の名前がそれだった--つまりスコットランド女王メアリーの三番目の夫、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの血を引くラストンの祖母の姓である。

赤ん坊の父親とオランダ人の母親がともに法律上はイギリス国籍だったので、子供もブリュッセルのイギリス領事官によってイギリス人と認定された。

「わたしが自分自身について本を書くとすれば」と、オードリーはあるとき息子のショーンに語った。「書き出しはこうなるわ。わたしは一九二九年五月四日に生まれて、三週間後に死んだ」生後二十一日目に、彼女は激しい咳の発作に襲われて心臓が停止した。

厳格なクリスチャン・サイエンティストだったエラは、医者を呼ばずにオードリーのお尻を叩いて蘇生させた。

「この赤ん坊は最後まで見放されなかった」と、ショーンは語っている。「おそらくその出来事が[あたかも二度目のチャンスを与えられたかのように]母の一生に影響を与えたのだろ思う」

彼女の幼年期は、ロンドンとブリュッセル、アルンヘムとハーグの間をしょっちゅう行ったりきたりする混沌とした生活だった。アレクサンデルとイアンは当時エラの両親の家にいることが多く、継父のヘップバーン=ラストンとはめったに顔を合せなかった。

エラもまた夫と同じように一か所にじっとしていられない性分で、オードリーがまだよちよち歩きの二歳のころ、一家でブリュッセルから近くのリンケベーク村にあるカステル・サント・セシールという名の小さな城館に越すことに固執した。

P24ファン・ヘームストラ男爵は当時すでにスリナム総督を辞して、娘のミーシェとその夫のオットー・ファン・リンブルフ・スティルム伯爵と一緒に暮らすために、ザイペンダール城に戻っていた。

オードリーはしばしばこの城を訪れて、広大な地所のなかを歩き回った。総じて彼女は少女時代によい思い出を持っていない。弱々しく、内向的な女の子で、友達ができず、ずっと年上の異父兄たちと遊ぶことを好んだ。「決して本物とは思えない」人形よりも、生きた動物のほうがずっと好きだった。

とび抜けて幸せな時間は田舎にいるときだった。「わたしは戸外の生活、木々や小鳥や花が大好きだった」と、彼女は語っている--それに兄のアレクサンデルから教わったラドヤード・キプリングが好きだった。

アレクサンデルは「本の虫だった…わたしたちが子供の頃、彼がキプリングを愛読していたので、わたしも兄に憧れてキプリングの全作品を読んだ。ほかにも兄の読む本はすべて読んだ。

こうして十三歳になるまでに、国際的な秘密文書や陰謀家の外交官や誘惑的な女スパイが登場する一連のロマンチック・ミステリーを書いたエドガー・ウォレスとエドワード・フィリップ・オッペンハイムのほとんどすべての作品を読んでいた…女の子のわたしにとって、それらの作品は『トプシー、学校へ行く』のような本よりもはるかに魅力的だった。

読書は彼女の命綱となった。『秘密の花園』を愛読書のひとつに挙げ、十二歳のとき、オランダからイタリアへ行く旅で列車に乗る直前に、母親から『アルプスの少女ハイジ』をもらったことを回想している。

列車に乗ってすぐに読みはじめ、読みおわったときは車窓のスイスの風景を一度も見ることなくイタリアへ入っていた。

P25もう一人の兄のイアンもあくことを知らない読書家で、妹と仲がよかった。「われわれは腕白で」と、かれは語っている。「よく木登りをしたものだった」。エラはきびしく𠮟って、「わたしを自分の子供と認めないと脅した」と、オードリーは回想している。
わたしの母は子煩悩ではなかった。素晴らしい母親だったけれど、規律と道徳にきびしいヴィクトリア朝の躾を受けていた。子供に対してとてもきびしかった。心のうちに溢れるほどの愛情を持っていたけれど、いつもそれを表に出すとは限らなかった。わたしはやさしく抱きしめてくれる人を探して家じゅうを歩きまわり、伯母や乳母にその人を発見した。
オードリーは伯母たちに勧められて、ピアノのレッスンを受けはじめた。しかし母親の威圧的な存在から逃れることはできなかった。オードリーが生涯最後の十二年間をともにすごした、

物やわらかな口調のオランダ人、ロバート・ウォルダースは、「すぐれた女性で、ユーモアのセンスに溢れ、並外れた読書家で教養もあったが、オードリーを含むすべての人に対して批判的で、偏見に満ちていて、狭量だった」人として、エラをよく知っていた。

オードリーの少女時代はたいそう閉鎖的な生活で、乳母や家庭教師に囲まれて育った。なにひとつ不自由はなかったが、金のことやほかの問題でいつも争いが絶えなかった両親の緊張した関係を強く意識していた。

P26彼女はますます自分の殻に閉じこもるようになり、神経過敏で、しばしば一族のお屋敷の庭に逃げ場を求めた。隠れることと食べることが最大の関心事になった。「チョコレートかパンを食べるか、爪を噛む癖がついた」

父親は仕事でしょっちゅう外国にでかけ、オードリーはその留守の間だけ心の平安を見いだしていたらしい。しかし父親が戻ると、また口論が始まり、それと同時にオードリーも自分の殻に閉じこもった。

その殻を破るために、母親は「ショック」療法を試みることにした。五歳のオードリーをイギリスの寄宿学校に送りこんだのである。

最初、「わたしは家からはなれることになって恐慌をきたした」と、大人になったオードリーは語っている。彼女はホッケーをやるイギリスの女子生徒たちと違って、内気で太っていることと、不完全な英語しか話せないことをからかわれた。

オランダの母親がひどく恋しかった。近くのロンドンにいる父親は、娘に会いにこようともしなかった。それでも彼女は、健気にも、「それは自立へのすばらしい教訓となった」と結論している。

その学校はケント州エラムにあって、六人の未婚のリグデン姉妹によって運営されていた。オードリーをさらにイギリスの風習になじませ、英語漬けにするために、エラはある炭鉱夫の家で休日をすごさせることにした。

オードリーはそこであらゆる花々の名前をおぼえ、二度と忘れることがなかった。「その家の人々は彼女に深い影響を与えた」と、ウォルダースは語る。「彼女はその家で飼っていたテリアの写真をいつも化粧室のテーブルに飾っていた」。

何年もあとで、彼女はその一家に会いに行き、P27その家の息子が国連を通じて一人の子供を養子にする手助けをした。

オードリーのほうは順調にイギリスに適応しつつあったが、イギリスの政治とヨーロッパの空を覆う暗雲が、両親の社会的不適応を増幅させていた。一九三〇年代半ばのイギリスでは、ファシズムの擡頭とその魅力は決して全面的に否定されていなかった。

かつてラムジー・マクドナルド労働党内閣の主要閣僚だったサー・オズワルド・モズリー(相互参照)が、イギリス・ファシスト連盟(BUF)を結成していた。彼の同士で将来の妻となるのがダイアナ・ミトフォードで、その妹のユーニティ・ミトフォード(参照12)もまたファシスト運動に共感していた。

エラはこのミトフォード姉妹と親しく、狂信的な反共主義者の夫を後押ししてこの運動に参加させた(tw)。

BUFの組織が強大になると、ヘップバーン=ラストン夫妻は公然と資金集めや党員募集にかかわりはじめた。エラはモズリーに心酔するあまり、BUFの週間機関紙『黒シャツ』の一九三五年四月に十六日号の自分の写真入りの記事で公然とモズリーを支持した。
われわれファシズムの呼び声を聞き、勝利への道を照らす灯火を頼りに進んできた者は、これまでおぼろげに知っていたこと、そして今は完全に気づいていることを理解するよう教えられてきた…

われわれはついに束縛を断ち切って救済への道に足を踏みだした…われわれがサー・オズワルド・モズリーを信奉する者は、彼のなかに、俗に目を奪われず、P28より高い次元の霊感と理想主義によって、イギリスを精神的再生の新しい夜明けの輝かしい光明に導く指導者を見いだしたことをことを知っている。
それから数週間後の五月に、エラと彼女の夫は、ナチス支配下のドイツ情勢を視察するために、モズリーのBUFの訪独代表団に加わった。彼らはアウトバーン、工場、学校、集合住宅などを視察してまわり、ミュンヘンにあるナチ党本部「褐色の家」でヒトラーその人と面会するするという栄誉に浴した。

そこで一行の写真撮影が行われた。ヘップバーン=ラストン夫妻がユーニティ・ミトフォード、その姉妹のパミラとメアリーほかと一緒に写っている写真は、のちののちまで銀の額縁に入れられてエラのマントルピースを飾っていた。

エラのファシズム運動への熱中がどの程度本気だったのか、あるいは夫の野心に対する見当違いの後押しにすぎなかったのかは、いまだに不明である。

機関紙の記事と「褐色の家」の記念写真だけが明白な証拠であり、彼女は後年そのあたりを娘に詳しく説明していない。いずれにせよ、ヒトラーと会見した喜びも家庭内の問題を解決する魔法の効果を発揮するにはいたらなかった。

ドイツから帰国した直後の、同じ一九三五年五月に、ラストンは妻と六歳の娘を残して家を出た。

オランダの消息筋によれば、ジョゼフ・ヘップバーン=ラストンは大酒のみで、彼とエラはそのことで争っていたとされている。しかし家出のより大きな原因はいよいよ激しくなる彼の過激思想にあった。

彼は間もなくBUFと袂を分かって、より過激な反ユダヤ主義分派P29に加わった。エラの父親は義理の息子の政治思想だけでなく、ラストンがファン・ヘームストラ家の財産管理を誤ったばかりか--なお悪いことに--その一部をファシズム運動のために流用したことに激怒したといわれる。

一説にはウィルヘルミーナ女王自身が、エラを沈黙させ、ラストンに手切金を払ってお払い箱にし、必要とあれば彼を一族から追放するよう、老男爵に圧力をかけたといわれている。

オードリーは父親の失踪を「わたしの一生で最もショッキングな出来事」と呼び、「その悲劇からいまだに立ちなおれたとは思えない。わたしは父を尊敬していたし、失踪したその日から無性に父と会いたかった--定期的にあうことさえできたら、父に愛されている、自分には父親がいると感じる事ができたと思う。

でも現実には、わたしはいつも他人の父親を羨み、泣きながら家へ帰ったものだった。彼らにはパパがいたからである」と、話している。それに劣らず彼女を苦しめたのは、母親の反応と、いつまでも消えない記憶であった。 母の顔を見ると、涙に濡れているので、とても恐ろしくなる。「わたしは一体どうなるのだろう?」と、自問する。足もとの地面が崩れてしまった…父は本当にいなくなってしまった。

出て行ったきり二度と戻ってこなかった。母の苦しみを見るのは生涯最悪の体験のひとつだった。母は何日も泣き暮らし、買い物にでかけるときでさえ泣きやまないのではないかとおもえるほどだった。

わたしは無力感に、父が家出した理由は永久に理解できないのではないかという思いに襲われた。
P30この不幸な出来事は驚くべき肉体的変化をもたらした。父親が家出したとき「母の髪の毛が一晩で真っ白になった。でも彼女は決してそれを父のせいにはしなかった」と、オードリーは語っている。

そのかわり、「必要に迫られて、母は父親の役も兼ねた」。エラはイギリスでオードリーと一緒にいる時間が多くなり、娘は両親の別居にもかかわらず、学校では優等生名簿に名を連ね、友達もたくさんできた。

なかでも重要なのは、六人いるリグデン姉妹の一人--イサドラ・ダンカンの弟子--の手引きで、生涯彼女をとりこにする芸術形式を発見しつつあったことだった。

わたしはダンスに恋をした」と、彼女は回想している。「わたしが寄宿していたケント州のこの村に、週に一度ロンドンからやってきてバレエのレッスンをしている若いダンサーがいた。わたしは一目見てバレエが好きになった」

彼女の生活はどちらかといえば快適な日常のなかで安定し、一九三八年に両親が正式に離婚するまではさしたる波乱もなく過ぎた。エラが九歳になるオードリーの優先保護権を得た。

ヘップバーン=ラストンは娘がイギリスにとどまることと、自分に訪問権が与えられることを要求した。エラは二番目の要求に抵抗したが、オードリーの懇願で折れた。結局父親がこの権利を行使しなかったことを考えれば、この決定は無意味だった。

それから一年後、世界の激動のなかで、オードリーの身にもうひとつの変化が訪れた。ある日母親が学校へ娘を迎えにきて、オードリーの才能を伸ばしてやりたいと願うダンス教師P31と話していた。

オードリーは二人の会話を立ち聞きした。「彼女をロンドンへ連れて行きたいんですけれど」と、教師がいった。「お断りします」と、母親は答えた。「あの子はオランダへ連れて帰ります」

一九三九年九月、ナチスのポ-ランド侵攻に続いてイギリスがドイツに宣戦布告したとき、エラは二人の息子たちを連れてアルンヘムの親戚を訪問中だった。旅行はいつ制限されるかわからなかった。

そうなれば何年も娘とはなればなれになるおそれがあった。エラはあわててイギリスへ戻り、オードリーをオランダへ連れ帰る裁判所の許可を(ヘップバーン=ラストンの反対にもかかわらず)得た。

「彼女はいつロンドンが爆撃されるかもしれず、自分とオードリーはアルンヘムにいるほうがより安全だと考えた」と、フレディ・ハイネケンは回想している。この考えはあとになってみればばかげていたが、当時は現実味があった。

オランダは中立国であり、その状態が続くはずだったからである。エラと彼女の問題の大部分は、ヒトラーが「オランダのいとこたち」の中立を尊重するだろうという甘い考えにしがみついていた。

商業機はほとんど飛ぶことを許されなくなっていたが、エラはつてを頼って数少ない一機にオードリーを乗せた。「母はどうにかして父と連絡をとり、[ケントから]ロンドンに到着した列車でわたしと会わせることにした」と、彼女は半世紀後に作家のドミニク・ダンに語っている。

「わたしはこの鮮やかなオレンジ色(オランダのナショナル・カラー)の飛行機に乗せられ、飛行機は超低空飛行で飛んだ。それはイギリスから出る最後の飛行機の一機だった。わたしが父と会ったP32のはそれが最後だった」

妻に先立たれ祖父の老男爵は、当時長女のミーシュと一緒にザイペンダール城に戻って暮らしていた。エラとオードリーと二人の息子たちは短期間この城に滞在したあと、アルンヘムのソンスペーク地区に自分たちのアパートを見つけて移り住んだ。

ヘップバーン=ラストンからはなんの援助もなかったので、エラは金のことが気になりだし、財産の大部分がなくなっていることに気がついた。彼女自身と前夫の浪費の結果か?その答えはだれにもわからなかった。

しかもそれは比較的小さな災厄だった。彼女は家族をアルンヘムへ連れてきたことに心から安堵し、アルンヘムこそ最も安全な場所だと確信していた。「とんでもない思い違いだった」と、オードリーは感慨をこめて語っている。

アルンヘムは古風な趣のある村々や、美しい城や、森や牧草地が混在する典型的なヘルダーラント州の町である。自然条件にも地理的条件にもただ一点を除いて恵まれていた。ドイツ国境からわずか十二マイルしかはなれていなかったことである。
アルンヘムとその周辺の文明は古く、二世紀に築かれたローマ帝国の砦まで遡る。町としてのアルンヘムは八九三年に始まり、一三一二年以降市民とギルドの親方たちが市政のなかで大きな役割を果たした。

十五世紀にはヘルダーラント州の州都となった。イギリスの詩人で戦争の英雄フィリップ・シドニーは、オランダのスペインからの独立のために戦って戦死し、アルンヘムに葬られた。

エウセビウス教会(tw)は後期ゴシック建築の傑作で、その目ざましい八面塔は一五六〇年から一九四四年までアルンヘムを代表するランドマークだったが、最後にして最悪の外国軍隊による占領で破壊される。

P33十九世紀半ばには、東インド諸島の植民地で財をなした多くのオランダ人がアルンヘム地域に移り住み、そこに住むことがファン・ヘームストラのような上流階級の流行になった

アールノート男爵は市長に選ばれたが、任期中の一九一一年に《アルンヘムセ・クーラント》は、彼がアルンヘムの将来は「上流階級の町」にあるとして、水運および貿易の中心としての発展に言及しなかったことを、ここぞとばかりに攻撃した。このような市長のもとでは、アルンヘムはいずれゴーストタウンと化してしまうであろうと。
このコップのなかの嵐は、一九三九年にはすでに遠く忘れ去られていた。彼以後の歴代の市長たちが老男爵のたるみを引きしめて、今や彼は引退した長老の一人にすぎなかった。

「新生アルンヘム」は産業都市としての確固たる目的意識を持ち、その根幹をなすのが川を利用した人と物資の輸送だった。ライン川に架かるアルンヘム最初の橋は一六〇三年に建造された。

そのいちばん新しい最も交通量の多い区間は、一九三五年に完成したばかりだった--この商業上の便利な施設に対して、当時の人々はそれ以上のさほど大きな意味を認めいなかった。

もちろん、自分自身さまざまな問題を抱えているエラもほかの人々と同じだった。一九三九年十二月に、彼女は荷物をまとめ、子供たちを連れてソンスベークからシッケスラーン七番地の質素なテラス・ハウスに引っ越した。

そこからハーグで高級室内装飾店を営むパンダースの会社まで、P34パートタイム勤務のために通勤するのに忙しかった。彼女はオードリーをタンブールスボッシェ(鼓手の森)公立学校の五学年に編入させた。

しかしそのころのオードリーのオランダ語は稚拙で、流暢な英語はドイツ国境のすぐ近くの町にあっては潜在的な危険をはらんでいた。

「母はわたしがドイツ兵だらけの通りで英語を話すことを心配していた」。エラは娘を少しでもオランダ人らしく見せるために、ヘップバーンではなくファン・ヘームストラ姓で入学させた。

オードリーにとって、姓は変わっても状況は同じだった。彼女は「話される言葉が一言も理解できない大きな教室にいて、わたしがなにかいうたびにみんなにどっと笑われるのが」いやで仕方なかった。

「学校へ行きはじめた最初の朝、わたしは小さな腰掛に坐って途方にくれていた。何日かは泣きながら家へ帰った。でも…早くオランダ語をおぼえないことにはどうにもならなかった。わたしは短期間でオランダ語が話せるようになった」

後年、あなたは自分をオランダ人とイギリス人のどちらにより近いと感じているかという問いに、彼女は一九三九年に「オランダへ行ったときはイギリス人の自覚が強かったので」どちらかといえばイギリス人に近い、と答えている。

しかし、オランダ語を学び、オランダに住む一族を知るにつれて、「わたしのオランダのルーツが再生した」

彼女の社会生活は限られたものだったが、母親が地元のフリーメイソン寺院にあったクリスチャン・サイエンス教会の信者だったおかげで、それはわずかながらも存在した。

ダーフィト・ヘーリンハはアルンヘムの町外れに住んでいたが、一九三九年末に、彼と数人の十代P35の子供たちは、新しい女の子が「英語を話す子供たち」を必要としているので、日曜学校にきてくれと声をかけられた。

アルンヘムのクリスチャン・サイエンス信者は多くなかった--おそらく三十家族くらいのものだったろう。ヘーリンハは、「ひどく無口な」十歳の女の子と、「聖書と『科学と健康』の読書会のためにフェルプのわが家にやってきたその母親」をおぼえている*。
*エラとヘーリンハの両親は交替で朗読者を務めていた。アルンヘムのクリスチャン・サイエンス教会は、その「インターナショナリズム」と、信者がユダヤ人にシンパシーを持っていると疑われたために、ドイツ占領期間の初期に閉鎖された。
エラは地元の芸術会議にも関係していたが、アルンヘム英国協会なるものの会長をしていたという彼女自身の話はいうまでもなく、そういう協会が存在したということさえ真実ではない。

彼女の文化活動はもっぱら舞台中心だった。しかもその活動はフットライトの観客席側ばかりとは限らなかった。一度「娘」と題する詩を朗読したことがあって、オードリーはアルンヘム劇場の二階中央の席から誇らしい思いでそれを聴いた。

また、一九三九年暮れに同じ劇場で上演された素人芝居では、エラと子供たちが十八世紀のコスチュームと舞台装置と音楽のなかで、モーツァルト風の凝った芝居を演じた。

オードリーはほんの小さな子供のころから何度もブリュッセルのバレエ公演に連れて行かれ。P36将来バレリーナになりたいという希望を口に出していた。しかし成長するにつれて鏡に映る自分の姿かたちに嫌悪を感じるようになった。

バレリーナたちはほっそりとした完璧なスタイルの持ち主ばかりだった。ところが彼女は丸々と太っていた。目が大きすぎると思った。歯並びの悪い歯も嫌いだった。

「わたしは自分の容貌に途方もないコンプレックスを抱いていた」と、彼女は語っている。「この醜い顔では、だれもわたしと結婚してくれないだろうと思っていた」。しかし踊りたいという欲求は生き続け、ケント州でレッスンを受けたことでふたたび火がついた。

彼女が短期間アルンヘムのハイスクールに通ったという説があるが、証拠はない。個人教授を受けていたという説もある。いずれにしても、思春期に差し掛かるころには学校よりもバレエへの関心がはるかに深かった。

オードリーの本格的なバレエの稽古は、アルンヘム音楽学校のウィニア・マローヴァのもとで一九四一年に始まった。「元ロシア・バレリーナ」とポスターに書かれたマローヴァは、じつはウィニー・コープマンというれっきとしたオランダ女性で、校長のダウエ・ドラーイスマと結婚して、ロシア風の芸名を名乗っていたのだった。

オードリーは体重を減らして一九四四年の夏の間マローヴァのもとで稽古に励み、彼女の愛弟子となる。マローヴァは回想する。
彼女は背が高く、すらりとしていて、とてもかわいらしく、学ぶことに熱心で、バレエにとりつかれていた。踊るためならすべてを投げ出す決意をしていた。わたしはいつも彼女に教えるのが楽しくてならなかった。

P37彼女は教わったことをすべて吸収した。最初の公演のとき、彼女がいかにすぐれていたかがわたしには一目でわかった。彼女がステージにあがると、まだほとんどなにも知らないのに、すぐに観客席が興奮に包まれるのがわかった。
「マローヴァがわたしの理想だった」と、後年オードリーは語っている。しかし「ウィニアはわたしが親しくなって友達と呼ぶことができた最初のバレリーナだった。彼女は美しい、世界的レヴェルのバレリーナで、このアルンヘムの小娘が自分もいつかは彼女のようになれると信じる手助けをしてくれた。わたしはバレリーナになれるとかたくなに信じて疑わなかった」

エラは娘を後押しした--強力に。「彼女はいつも稽古場にいたし、講演のときは舞台裏に立っていた」と、オードリーがマローヴァのレッスンを受けるときにしばしばピアノを弾いたカレル・ヨハン・ウェンシンクは語っている。

「オードリーの母親は歯に毛が生えていた」。これは「出しゃばりすぎる」という意味のオランダ語の見事な俗語表現である。

確かに彼女はステージ・ママだったが、ありきたりのステージ・ママではなかった。朗読と素人芝居で一度ずつ舞台にあがったあと、自分自身は二度とライムライトに憧れることがなかった。

年齢と貴族の慎みがついに秘めたる願望に打ち克ったのだ。以後すべてのエネルギーと世話が、ほぼ天才に近い--完全にとはいえないまでも--踊る少女に注ぎこまれることになる。

サドラーズ・ウェルズ・バレエ団はイギリスの最もすぐれた一座だった。戦前戦中戦後を通じて、その振付師--フレデリック・アシュトン--はバレエ界の第一人者だった。

演出家のニネット・ド・ヴァロアが、マーゴット・フォンテイン(十四歳で入団した)と当代最高の道化役者ロバート・ヘルプマンを中心とする、結束の固いすぐれたダンサーたちの一団を率いていた。

一九四〇年五月四日、第二次大戦勃発から八か月後に、サドラーズ・ウェルズはオランダ、ベルギー、フランスをめぐる勇敢な親善公演旅行に出発した。ブリティッシュ・カウンシルの後援のもとに、ナチスの脅威におびえるこれらの国々で士気を高めるために企画されたツアーだった。

バレエ団の後援者のロード・エッシャーは、ひとつの不吉な警告を発していた。「わたしはバレエ団がヒトラーよりも前に目的地に到着することを望んでいる」

二十一歳のバレエ団員アナベル・ファージョンが、新しくウェーブをかけた髪に関するボビー・ヘルプマンの心配に始まる巡業の日記をつけていた。「船が沈められたら」と、彼は宣言した。「のけぞって平泳ぎで泳ぐつもりだ。パーマをかけた髪が水につかって、安っぽい十シリングの髪型みたいにくしゃくしゃになったら、オランダをまともに見ることもできやしないからな」

オランダの根拠地はハーグで、若い団員たちはそこからバスに乗って小さな町へ出撃し、P39夜になると帰ってくる予定だった。バレエ団の最初の公演は五月六日にハーグ王立劇場で行われた。

翌日はドイツ国境からおよそ七マイルの工業都市ヘンゲローヘでかけた。「この町にはスパイやナチスの支持者がうようよいた」と、ファージョンは書いている。街を行く人々が唾を吐きかけて、「イングリッシュ! リープスティック!」と野次った。

ニネット・ド・ヴァロワは若い娘たちをハーグへ送り返したかったが、道路が一時的に封鎖されてしまった。「退路を断たれたことがわかると緊張感が高まった」と、ファージョンは書いている。

「『娼婦一代記』の売春宿のシーンが最も俗悪で、ヘルプマンは指揮者のコンスタン・ランベールに向かって下品な言葉を投げつけた」

翌日の晩の公演地はアイントホーフェンにある巨大なフィリップス・エレクトロニクス工場だった。その翌日、五月九日はアルンヘムだった。ファージョンは市内を歩きまわった印象を記している。

「川沿いに庭が水際まで達する豪邸が建ち並び、金持ちの引退したオランダ人が裕福な晩年を送っている。通りにはごみが散乱し、汚れた子供たちが排水溝のなかで遊び、下水の悪臭が立ちこめている」

そこから一マイルはなれた、少しましな地区では、十一歳のオードリー・ヘップバーンが胸を躍らせながらバレエの公演を待っていた。「この日のために、母は行きつけの小さなドレスメーカーの店でわたしのタフタのロング・ドレスを作らせた。

わたしはそのドレスをよくおぼえている。ロング・ドレスを着るのは初めてだった。小さな丸い襟、小さな蝶結びのリボン、前には小さなボタン、裾が床まで達して、さやさやと衣ずれの音がした。

P40母が大散財覚悟で--そんな贅沢は許されなかった--そのドレスを作らせたのは、わたしが終演後に演出家のニネット・ド・ヴァロワに花束を贈呈することになっていたからだった」 (略)

P56 ヘップバーン伝説の最たるものは--これは事実である--連絡係、そしてそのときには秘密のメッセンジャーとしての勇敢な役割である。彼女の息子のショーンは、「母が十一歳のときにレジスタンス組織へのメッセージを靴のなかに隠して運んだ話をしてくれた」ことをおぼえている(tw)。

フルーメンもいうように、子供たちはとくに学校の行き帰りなど、比較的自由に動きまわることができたので、しばしばそういう役割を果たした。

P57「あるとき私は地下組織の小さな新聞を届ける仕事を与えられた」と、彼女は語っている。「新聞を木靴をはいた足の毛糸の靴下に押しこみ、自転車に乗って届けにいった」。

違法の新聞の出所は、フェルプの開業医でレジスタンスの活動家、ドクター・フィッセルツ・ホーフトだった。ふつうの靴は配給制で、たいそう高価だった。彼女の母親は長くはかせるために二サイズ大きい編上靴を娘に買ってやった。

「わたしはその靴がはけるほど大きくならなかった」と、オードリーは回想しているが、少なくとも余ったスペースを役立てることはできた。

彼女のバレエの才能もまたレジスタンスと自分のために役立てられた。一九四三年に、ドイツ軍はすべてのラジオを没収した。それ以後は自分で音楽を作らなければならなかった。

「わたしは独りで取り残された」と、彼女は語っている。その結果、音楽とダンスにますます深くのめりこんでいった。「そこではだれとも話す必要がなく、ただ聴いているだけでよかった」。戦争は続いていたが,夢はなくならない。「わたしはバレリーナになりたかった」。

彼女の個人的な野心は、一連の「灯火管制公演」でレジスタンスと結びついた。それはバレリーナに舞台を提供すると同時に、地下組織のための資金集めにも役立った。

「わたしたちはだれかの家の窓に鍵をかけ、鎧戸を閉めてそれをやったものだった。わたしにはピアノを弾く友人が一人いたし、母が古いカーテンやらなにやらで急ごしらえのコスチュームを縫ってくれた。わたしは自分で振付けをした--信じてもらえないだろうけど!」

P 58/ 60/ 62/ 64/ 66/ 68/ 70/ 72/ 74/ 76/ 78/ 80/ 82/ 84

第2章 イギリス、そしてコーラス・ライン(一九四八~一九五一年)P86-141

第3章 夢のスター誕生(一九五一~一九五四年)P142-229

第4章 世界を支配する(一九五四~一九五七年)P230-303

P248 ディノ・デ・ラウレンティスは第二次大戦中にファシスト軍から脱走してカプリ島に隠れていたとき、時間つぶしのために読む本を二冊だけ持っていた。『オデュッセイア』と『戦争と平和である』。



前者はのちの彼の映画『ユリシーズ』を作るきっかけとなった---が、それは彼にいわせれば後者のために「小手調べ」でしかなかった。

一ハ六三年から一八六九年の間に執筆されたトルストイの二千ページに及ぶ大作には、ロシア社会とナポレオン戦争の壮大なパノラマを背景にして三百人の人物が登場する。

あらゆる小説中の最高傑作といっても過言ではないだろう。ある批評家はそれを「かつてあらゆる作家によって書かれたあらゆるものの組み合わせ」と呼んでいる。

P249映画史上の偉大な名前のいくつか---D・W・グリフィス、エルンスト・ルビッチ、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム、アーヴィング・タルバーグなど---が『戦争と平和』の映画化を企てたことはあったが、過去に一度も実現していなかった。

ところが今や突如として、『戦争と平和』の映画過熱が湧きおこった。時あたかも映画がテレビとの競争力をつけるために、壮大な叙事詩と新しいワイドスクリーン技術に目を向けた時代だった。

ディノ・デ・ラウレンティスのほかにも、一九五五年五月にマイク・トッドがトルストイの大作を彼の新しいトッド⁼AO65ミリ方式で映画化するために、ロバート・アンダーソンの脚本を入手したと発表した。

デヴィッド・O・セルズニックはベン・ヘクトの脚本で一九五五年六月に撮影を開始すると発表した。MGMは一九五五年八月の撮影開始予定で『戦争と平和』のセットを設けたという噂だった。

この大作の中心人物はナターシャ・ロストフ---「大きな口とほっそりとしたむきだしの腕と黒い瞳を持つ生気に溢れた女性…肩は薄く、胸は目立たない」と、トルストイは書いている。

「それが驚きと喜びと内気さえそなえたナターシャだった」。文豪はオードリーを思いうかべていたのかもしれない。今やすべての映画プロデューサーがナターシャのイメージをオードリーに重ね、女優自身もそう思っていた。

思春期を戦争によって翻弄され、戦乱の三年間に急速に成長してゆく女性を、彼女なら力強く演じることができそうだった。

トッドがフレッド・ジンネマン監督の同意を得て、このレースを一歩リードしているかに見えた。「オードリー・ヘップバーンにナターシャの役をやらせるというマイクの提案で、

P 250 この計画はますます盛り上がった」と、ジンネマンは語っている。

「だが残念なことに、ディノ・デ・ラウレンティスも同じことを考えていた。[トッドは]がっくりした。この映画に賭けていたからである。彼はすでにチトー元帥に働きかけて、ユーゴスラヴィアの騎兵二個師団を協力させるという約束を取りつけていた」

デ・ラウレンティスは、実際的な面と国民的プライドという二つの理由で、イタリア陸軍の方が映像的によりすぐれている---それに雇うのも簡単だと考えた。二つの抜け目のない差し手が、彼に『戦争と平和』レースの勝利をもたらした。

すなわちプロデューサーのカルロ・ポンティ(のちのソフィア・ローレンの夫)と組んだことと、アンドレイ公爵役にメル・ファラーを起用したことである。そのことがオードリー・ヘップバーンとの三十五万ドル(メルの出演料十万ドルの三・五倍)、プラス週五百ドルの必要経費という契約を確実なものにした。

この記念碑的な権威ある映画で共演することが二人を喜ばせ、残る問題は速やかに解決した。すなわちデ・ラウレンティスはアメリカおよびイギリスの配給権と引きかえに、パラマウントおよびABCの両社との間にオードリーの貸出し契約を結んだのである。

このような大作に必要なのは経験豊富な監督だった。デ・ラウレンティスはサイレント映画の古典『ビッグ・パレード』(一九二五年)と『群衆』(一九二八年)、トーキー時代では『白昼の決闘』(一九四六年)---しかしそれ以後は見るべき作品はない---などの職人監督、キング・ヴィダーに白羽の矢を立てた。

ヴィダーは輝かしい経歴の終わりにさしかかっていて、映画を作るのはあと一本だけと考えていた。彼の複雑な物語を過度に単純化する傾向とセンチメンタリズムは、年齢とともにいっそう際立っていたが、それでもまず間違いのない人選と思われた。

P251ヴィダーは監督だけでなく脚本家としても雇われ、トルストイの百五十万語の大作をわずか一か月で撮影台本に圧縮するという離れ業をやってのけた。いうまでもなくそれには多くの改変が必要だった。

「トルストイは[ナターシャとピエールの間に]恋愛感情があることを読者に伝えるのにニ百五十ページを費やしている」と、デ・ラウレンティスは語っている。「われわれはそれを冒頭の牧場の一シーンで片づけた」このような解決法にはおのずから欠点もあって、結局八人のライターが雇われてほぼ一年がかりで脚本の手なおしをしなければならなかった。

その一人が作家のアーウィン・ショーで、彼はのちにクレジットから自分の名前を削るよう要求したという噂を否定している---名前が出なかったことにほっとしているようだった。

最大の問題のひとつはピエールの配役だった。アンドレイ公爵---ナターシャは彼を熱愛している---は『戦争と平和』の最も重要な男性の登場人物ではない。神の主人公は彼女の異父兄弟で私生児のピエール・ベズーホフである。

オードリーとメルはこの役に最初グレゴリー・ペックを希望したが、彼はほかの映画に縛られていた。次善の選択はピーター・ユスティノフ(相互参照)だったが、これにはデ・ラウレンティスが「無名」という理由で反対した。マーロンブランド考慮の対象の一人だったが、結局ヘンリー・フォンダに落ちついた。

一九五五年の春に、ファラー夫妻はイタリアへ行って、かつてハネムーンをすごした

P252/ ローマ郊外二十マイルにあるアルバーノのチャーミングな農家をふたたび借りた。この家を訪れた客の一人がナターシャの弟の役を演じたジェレミー・ブレットだった。

「わたしがあの家に到着すると」と、ブレットは一九九五年の死の直前に回想している。「メルが出迎えてくれたが、彼の右腕の下には十六歳ぐらいにしか見えない化粧っ気のない女の子が寄りそっていた---このうえなく美しくも繊細な、陶器の人形のような人だった。わたしはうっとり見惚れた。彼らと一緒に泳いでいるときに、彼女に目を奪われてプールの壁に頭をぶつけてしまったことをおぼえている」

ファラー夫妻は中央のアンティークの石の彫刻から水がほとばしり出るそのプールが気に入っていた。だが七月四日に『戦争と平和』の撮影が始まると、泳いでいる暇はほとんどなかった。

ノルマは一日十時間で、午後八時に夕食のために家へ帰れれば運がよいほうだった。流産と全体的な衰弱のために、オードリーは体重の意地に苦労していた。メルは彼女のすべての必要をみたすための口うるさい連絡係だった。

「メルは彼女の夫であると同時にマネージャーでもあった」と、『アフリカの女王』のカメラマン、ジャック・カーディフは語っている。彼もファラーのひっきりなしの口出しに悩まされた一人だった。

「ミス・ヘップバーンには似合わない」…「ミス・ヘップバーンには暑すぎる(または寒すぎる)」といった調子だった。

オードリーはナターシャ役をそれまでで最もタフな役と呼んだが、だれにも負けないタフネスを発揮してそれをりっぱにやりのけた。

P253「わたしは八月にヴェルヴェットと毛皮を着て『戦争と平和』を撮影した」と、彼女は回想している。「猟のシーンでヴェルヴェットを着て、ハイ・ハットをかぶっていた。

一家がローマの灼熱の太陽のもとで広大な野原を進んでいるときに、とつぜん馬が気絶してわたしの下からふっと消えた。彼らはわたしが馬の下敷きにならないように急いで鞍から引きはなした。

だじゃら彼らがわたしを馬のように頑丈だというとき、それは本当だった。いえ、馬よりも頑丈だった。わたしは気絶しなかったけど、馬は気絶したんだから」

彼女のタフネスは信頼する裏方にあくまでこだわったことにも表れていた。たとえばメーキャップとヘアにはアルベルトとグラツィアのデ・ロッシ夫妻コンビを要求し、女優としてのキャリアの終わりまで彼らを手放さなかった。「彼女は美しい骨格の持ち主だったので、顔を引きたてるのに細工する必要はあまりなかった」と、エヴァ・ガードナーとエリザベス・テイラーのメーキャップ係を務めたアルベルトは語っている。

「彼女は顎の線が力強かったので、わたしはある意味でこめかみを強調することによってそれを和らげた。濃い眉毛はいつも薄くしなくてはならなかった。一緒に新しい映画の仕事をするたびに、前の映画よりも少しづつ眉毛を薄くするようにしたが、やりすぎないように注意した。彼女のような顔には眉毛が必要だった」。

あるときだれかがあなたには世界一美しい目の持ち主だといったのに対して、オードリーは答えた。「いいえ、それは違うわ---たぶん最も美しいアイ・メーキャップというべきよ---でもそれもみなアルベルトのおかげだわ」。実際、「ヘップバーン・ルック」の最大の貢献者はデ・ロッシ夫妻だという人もいる。

P254 オードリーはまた衣装にも精力的に気を配って---十九世紀初頭のファッションに関する本で研究していた---パリからジヴァンシーを飛行機で呼びよせて、すべての衣装を監修させてはデ・ラウレンティスの衣装係を怒らせた。

プリーツやペチコートを納得できるまで手なおしさせるために、三時間立ちっぱなしでいても平気だった。最終的にニ十四着の衣装と十種類の髪型と格闘したが、その大部分をヘアピン一本まで自分で指示した。

デ・ラウレンティス自身とてつもない難題を抱えていた。ボロディノとアウステルリッツの会戦でフランス軍とロシア軍を演じる一万五千名のイタリア軍兵士をかき集めるのに、多額の賄賂を使って軍当局を丸めこまなければならなかった。

ある一シーンだけで一万名---おそらく映画史上の最高記録---が出演した。(軍服のボタンをつけただけで、スイスの縫製工場の九十人の縫製工が何か月もかかった。)

約八千頭の馬と三千門の大砲が戦場に持ちこまれ、事故も数えきれないほど起きたので、デ・ラウレンティスは六十四人の医師を雇って兵士に扮装させ、戦闘員の間にばらまいて救急看護に当たらせなければならなかった。

玉葱型のドームを持つ教会や塔を完備した一八一二年のモスクワが労を惜しまずテーベレ河畔に再現され、七月の酷暑のなかで、石膏粉に浸したコーンフレークを送風機で吹きとばす方法で雪のシーンが創られた。

オードリーは丘の上に立って、『風と共に去りぬ』でセルズニックが再現したアトランタ炎上シーンをしのごうとするデ・ラウレンティスの野心を実現するために、撮影アシスタントたちが手に手に松明を持って「モスクワ」に火をつける光景を眺めたことを回想している。

P255この超大作はローマの巨大なチネチッタ撮影所---それ自体がなんでも揃っているひとつの街(チッタ)だった---の、四十八エーカーの面積と九つのサウンド・ステージのすべてを必要とした。

ファラー夫妻は借りている農家から毎日車でそこへ通い、ハリウッドの撮影所に比べれば、そこが楽しい刺激にみちた場所であることを発見した。オードリーはクルーと一緒にランチをとり、彼らが大量のワインとパスタを平らげるのを眺めて楽しんだ。

しかしストレスは大きかった。昼間の戦争と殺戮のシーンは夜の悪夢となってよみがえった。そのうえ彼女はそれぞれのシーンが順序を無視して撮影されるのがいやだった。『ローマの休日』と『麗しのサブリナ』は時間経過を追って撮影された。

『戦争と平和』では、ある日は純真な十代の娘を演じたかと思うと、つぎの日は悲しみに打ちひしがれた大人の女を演じなければならなかった。また、デ・ラウレンティスのがセットの見学を許した訪問客にも悩まされ、のちに《フォトプレイ》のインタヴューでそのことをこぼしている。
舞台で、だれかが「ちょっと失礼」といって、芝居が中断されるなんて考えられますか?映画では、見知らぬ人がステージにやってきて、握手を交わし、撮影を中断しておしゃべりするのです。やがてしばらくしてその人が帰って行くと、何事もなかったように撮影を再開しなくてはならない……。

わたしは無理に微笑をうかべて、お義理に言葉を交わしました。まわりからそれを期待されていることを知っていたからです。でも本音をいえば

P256 それでそのシーンは終わりでした。せっかく盛りあがった気分がとぎれてしまうのです。

なかにはこんな状況をうまく切り抜けてペースを乱されない俳優たちもいます。でもわたしにはとても無理です……仲間の俳優たちの前で仕事をしていてコンプレックスを感じたことさえありました。

でもわたしは学び、向上しつつあります。そうせざるをえなかったんです。イタリア陸軍の約半分がわたしを見守っていたんですから。
公には口に出せなかったが、彼女が腹を立てた主な相手は泣く子もだまるゴシップ・コラムニスト、ルエラ・パーソンズだった。彼女は『戦争と平和』の撮影中にローマに現れ、エクセルシオル・ホテルの豪華スイートにおさまりかえって、オードリーとの面会を要求し、その要求を通したのだった。

だからついに『戦争と平和』の撮影が終わったとき、オードリーが心底ほっとしたのも驚くには当たらない。あとはキング・ヴィダーと彼の編修係にゆだねられた。彼女とメルにとって、残るの作品の評価だけだった。

評価は、一言でいえば、『戦争と平和』は「これまでに作られた最もロシアらしくない映画である」というものだった。そしてこのときばかりではハリウッドの責任ではなかった。この映画は奇妙な国際的配薬---ハーバード・ロムのナポレオン、オスカー・ホモルカのクトォーゾフ将軍、ジェレミー・ブレットのナターシャの弟ニコライ、ヴィットリオ・ガスマン

P257のアナトーリ、アニタ・エクバーグのエレン、マイ・ブリットのソーニャ、ジョン・ミルズのプラトン---にもかかわらず、生粋のイタリア映画だったからである。

なかでも最悪だったのはヘンリー・フォンダで、この手足のひょろ長いヤンキーのアクセントは、ヘップバーンのソフトで耳に快いヨーロッパ風のアクセントと不協和音を奏でた。

彼は一瞬たりとも繊細なピエールには見えなかった。対象的にメルファラーは全篇を通じて、とりわけ絢爛豪華たる舞踏会のシーンで、高貴な威厳を示している。しかし死の床の劇的なナターシャとの再会シーンはインパクトに欠け、彼の臨終はえんえんと続くように見える。

映画そのものも然り。《マンチェスター・ガーディアン》は、「長さだけあって深さがない」と評した---三時間二十八分という上映時間は『風と共に去りぬ』よりわずか十二分短いだけだった。製作費は六百万ドルという巨額だったが、三倍の興収をあげた同年のライヴァル、『十戒』の千三百万ドルと比べて半分以下だった。

『戦争と平和』のプレミアは、モーセだけでなく『80日間世界一周』、『ジャイアンツ』という強敵もいた「スペクタクル大作」の年、一九五六年の八月二十一日に行われた。

多くの批評が、《フィルムズ・レヴュー》のそれと同じように、ヘップバーンのナターシャ役を賞賛した。「彼女は自身のキャラクターを作品の型に合わせて歪めることを否定し、人間性と戦争の非人間性の対比によって、歴史を前にした人間の無力さでわれわれ心をとらえることで、この叙事詩的大作を支配している。

彼女は戦ってかちとるに値するすべてのものを具現している」

P258 オードリーは脚本も演出も上出来とはいえないこの役をよく演じたし、完璧に見えた。結局、彼女はメル・ファラーに負けたのではなく、キング・ヴィダーとヘンリー・フォンダに負けたのである*。
*ヘップバーンは後年、ヘンリー・フォンダが『戦争と平和』出演を恥じていたばかりか、自作の回顧上映にこの作品を含めることを拒否したことを知ってショックを受けた(tw)。オードリーに対する映画監督からの感謝は、八時間の大作、ソ連版『戦争と平和』(一九六六年)のセルゲイ・ボンダルチュクによって捧げられた---この作品で彼はナターシャ役にリュドミラ・サヴェーリエワ(リュドミラ・サベーリエワ)---オードリーヘップバーンに瓜二つの女優---を起用した。
当時もその後も、人々はファラーが独裁的に彼女の仕事を支配し、自分のためのいい役がなければどんなよい役であっても彼女とミュージカルの『ジジ』の役を失った、というのは嘘である。しかし二人がはなればなれになりたくなかったのは事実で、そのことが彼らの出演映画の選択に少なからぬ影響を与えた。

『戦争と平和』の撮影の終わりごろ、彼女とメルは結婚後初めての別居を経験した。彼の出演

P259シーンが彼女のそれよりも先に終り、彼はジャン・ルノワールの『恋多き女』でイングリッド・バーグマン、ジャン・マレーと共演するためにフランスへ飛んでいたからである。

「われわれは仕事で別居しないためにベストを尽くした」と、メルはいう。しかしルノワール映画も大事だった。「オードリーもわたしもイングリッドが好きだった…結局見送るには惜しいチャンスだという結論に達し、彼女はその後パリでわたしと合流した。

一九五六年四月の、「夫はわたしから逃げない」と題された《フォトプレイ》の記事で、オードリーはメアリー・ワージントン・ジョーンズのインタヴューに答えて同じ趣旨のことをいっている。

「メルとわたしはおたがいのキャリアをとても大切にしています。でなければ愚かで無責任だといわれても仕方がないでしょう。[でも]もしもわたしたちが『なあに、今度だけだ、たった数か月はなればなれに暮らしたってどうってことはない』といったとしたら、やがてその一回が二回三回と重なって、気がついたとき二は物質的な成功が二人の生活をだめにしてしまっているかも知れません…わたしは結婚生活を危険にさらすおそれのある一歩を踏みだすことを求められたら、自分の心のなかをのぞきこんで、どうしてもそうしなければならないのかと自問します」

とりわけ彼女は、メルが彼女の生活を支配し、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用しているといい、彼らの関係を「一種の主人と奴隷の 関係」と呼ぶ記事に激怒した。

概して彼女はメル・ファラー⁼スヴェンガリ説におかんむりだった。

P260
メルがわたしにかわってすべてを決めている。わたしがなにを、だれと、どこでやるかを決めているなんて、どうしていえるのでしょうか?ほんとに腹が立ちます。わたしは彼がまったく正しくて、わたしから求めないかぎり決して意見をいわないことを知っています。それはわたしたちたちがおたがいのキャリアをきちんと分けて考えることを望んでいるからです。わたしたちはおたがいに干渉したくないのです…

わたしは十三歳のときから自立して、多くの重要な問題を慎重に考えてきましたが、判断を誤ったことが多かったとは思いません。そのことを、自分で物事を考える能力があることをとても誇りに思っているし、わたしの判断に逆らってなにかをさせることは、だれにも、愛する夫にさえできません。
このインタヴューが終わる前に---その他多くのインタヴューのなかでも---オードリーはメルが彼女のおかげで『戦争と平和』のアンドレイ役を手に入れた、という噂に反論しなくてはならなかった。彼女は怒って椅子から立ちあがり、部屋のなかを行ったりきたりしながら答えた、とジョーンズは語っている。

「彼はわたしに話があるよりずっと前に---実際はわたしたちが結婚する前に、アンドレイ公爵の役を持ち込まれたのです…話が決まったあとで、メルとわたしは同じ映画に出れることをとても喜びました。でもその瞬間からわたしたちは守勢に立たされたのです。考えてもみてください!同じ職業についていて、関心もキャリアも似ている夫婦が、同じ映画に出演するというだけで弁解をしなくてはならなかったんですよ!」

P261いつもは率直なナーナード・シュウォーツ---トニー・カーティスという名前の方がよく知られている---は、ファラー夫妻の親友というわけではなかったが、二人の関係について鋭い洞察を働かせる程度には彼らを(そしてハリウッドを)知っていた。

「なんとかして彼の目を盗まなかれば彼女に近づくことはできなかった」と、カーティスはいう。「結婚当初、彼女には話し相手がいなかった。まわりにだれもいなかった。彼女が頼れるのはメルだけで、悪い男じゃないんだが、彼の考えは確かに自分に都合のいいものだった」

「メル悪玉説」は手を変え品を替えして新聞や雑誌を賑わし、イギリスでさえ風刺漫画の形で《ロンドン・イヴニング・スタンダード》に載った。「メルは当初彼女に対して大きな影響力を持っていた」と、監督のフレッド・ジンネマンは語っている。

しかしそれは彼女「利用する」こととは別だった。同じ俳優としては、彼女のほうがスターとして格が上だったために、目に見えないところでストレスが生じた。彼女は外に向かっては抗議したにもかかわらず、しばしば彼の希望に沿うために自分の意思を抑えようとした。メルも同じことをしていると感じた。二人とも相手に遠慮しすぎた、と考える人もいる。

「彼女は文句なしにチャーミングだった」と、『葡萄の季節』(一九五七年)でメルと共演したときにフランスで夫妻と会った俳優のシオドア・バイケルは回想する。「---楽しくて、明るくて、国際的で、一緒にいるだけでハッピーだった。メルは穏やかな職人肌の男だったが、少し退屈で、彼女がパーティの主役だった。 オードリーは彼にとても気を遣っていた。

P262 彼女が彼の面倒を見ているかのようだった」

結婚生活と映画界の二つのキャリアを結びつけるには、できるだけ一緒に仕事をするしか方法がなかった。エラ・ファン・ヘームストラ男爵夫人も、ファラーが娘の芽が出かかったキャリアを自分のそれに従属させているのではないかという疑いを抱いた一人だった。

しかし彼がそうしていたという証拠はない。長い目で見れば、「一緒にいたい症候群」は彼女のキャリアよりもむしろ彼のキャリアを損なうことになる。

映画業界の人々は依然として懐疑的だった。一九五五年秋、スイスのオードリーをプロデューサーのハル・ウォリスと劇作家のテネシー・ウィリアムズが訪問した。

『夏と煙』の映画化について話し合うためだった。そのとき、召使いが一匹の巨大な魚を載せた大皿を運んできた、とウォリスは語っている---スープも添え者もデザートもなかった。

「ジヴァンシーのオリジナルを着て、ドレスデン焼の人形のように優雅なオードリーが、魚の大きなひときれを、おいしそうに食べた」が、ウォリスは料理にも食後の話し合いにも満足できなかった。彼女がオールド・ミスの教師の衣装をジヴァンシーにデザインさせることを希望し、相手役にメルを起用することを---メル自身ではなく---彼女が主張したので、この話はまとまらなかった。(結局主役を演じたのはジェラルディン・ペイジとローレンス・ハーヴェイだった。)

そこで彼女は次にどんな映画に出ることになるのか?

P263ABCの十二本を含むおびただしい数の脚本が殺到したが、彼女はすべて断った。パラマウントからは、エドモン・ロスタンの『鷲の子』のウィリアム・ワイラーによる映画化という興味深い話が舞いこんだ。

それはナポレオンと皇后マリー・ルイーズの間に生まれた息子という、サラ・ベルナールによって初演された意外な役だった。オードリーなら魅力的な少年が演じられただろうし、事実やりたかった。

彼女が『鷲と子』をやると報じた気の早い新聞記事は、男役に挑戦する「勇気」を賞賛した。しかし待望されたグレタ・ガルボの『ハムレット』と『ドリアン・グレイの肖像』の男役と同じで、一九五六年という時代にはあまりにも異端すぎた。

結局パラマウントはこの映画の企画を取りやめた。

同じころ二十世紀フォックスから持ちこまれた『ジェーン・エア』のタイトル・ロールでジェイムズ・メイスンと共演する企画も、結局ものにならなかった。メイスンは最初から彼女の起用に反対だった。

「オードリー・ヘップバーンは映画界で最も美しい女性、いわゆる人目を惹く美人だった。ところがジェーンの特徴は、部屋に入ってきてまた出て行ってもだれも気づかない点にあった」

オードリーの出演がなくなると、映画そのものも立ち消えになった。

彼女が断わった映画には、ほかにジョゼフ・マンキーウィッツが企画した『十二夜』と、マーク・ロブスンの『六番目の幸福』などがある。後者に主演したのはイングリッド・バーグマンだった。

また、ビリー・ワイルダーの『アリアーヌ』の話もあった。

しかし、勝者は『ファニーフェイス』(邦題『パリの恋人』)』だった。

第5章ハックルベリー・フレンド(1958-1962年) P304-405

P358多くの人々にとって、オードリー・ヘップバーンが「演じるべくして生まれた」役の最たるものは、『ティファニーで朝食を(相互参照)』のホリー・ゴライトリーだった。後年彼女はいつもの奇妙に控え目な態度で、「最も安心して観ていられる映画」と呼んでいる。

「しかしこの映画P359を観るたびにいつも考えることが二つある。それは(1)どうして猫を捨てられたのか、(2)トルーマン・カポーティはこの役をマリリン・モンローにやらせたかった、ということである」

カポーティーもそれを裏づけている。

「マリリンは、わたしが考えたホリー・ゴライトリー役の第一候補だった。ある映画で彼女を見ていて、彼女なら完璧だと思った。ホリーにはどこかいじらしいところ--未完成な感じがなくてはならなかった。マリリンにはそれがあった」

カポーティーは映画化権を六万五千ドルでパラマウントを代表する二人のプロデューサー、マーティン・ジュローとリチャード・シェパードに売り、彼らはモンローを念頭に置いた脚本を書かせるためにジョージ・アクセルロッドを雇った。

「彼女はぜひともこの役をやりたかったので」と、カポーティーは語っている。「二つのシーンを自分で考えてわたしの目の前で演じてみせた。文句なしにすばらしかった」。

しかしモンローの演技顧問のポーラ・ストラスバーグが、「彼女に夜の貴婦人をやらせるわけにはいかない」と反対した。モンローが候補からはずれたあと、「パラマウントはあらゆる点でわたしを裏切って、オードリーにこの役を与えた」と、カポーティーはいう。

「彼女はこの役にまったく向いていなかった」

ホリーはサリー・ボウルズ(クリストファー・イシャーウッドの小説『さらばベルリン』のヒロイン)の現代マンハッタン版であり、《タイム》によれば、「成長したロリータと十代のメイムおばさん」の中間物だった。

ホリーのエージェントは彼女を、「にせ物といわれればそのとおり、しかし本物のにせ物だ!」と呼ぶ。

P360彼女は実際は娼婦なのだが、アクセルロッドは気まぐれな女優の卵に設定を変え、オードリーはその役を「魅力的」と感じた。一九六〇年十月、彼女はショーンをビュルゲンシュトックの母親と乳母に託して、撮影のためにニューヨークに飛んだ。

ニューヨークの五番街では、ホリーが蜂の巣型のヘア・スタイルと、ジヴァンシーのガウンとイヴニング・グラブ姿で、紙コップのコーヒーを飲み、デーニッシュを食べて(tw参照冒頭字幕解説版相互参照)、全世界のファンの心をかきむしった*。
*ヘップバーンはデーニッシュが嫌いで、ティファニーの前の伝説的なシーンはやっと一口食べただけだった。監督のブレイク・エドワーズに、デーニッシュの代わりにアイスクリームをなめるのはどうかとたずねたが、答えはノーだった。

ティファニーの店内で撮影されたのはわずか一シーンだけで、撮影は定休日の日曜日に行われた。何百万ドル相当の宝石類に手が届くところにいるエキストラや技師たちを、二十人の警備員が厳重に監視した。盗難は一件も報告されなかった。
監督のブレイク・エドワーズによる最大のミス・キャストは、ホリーの隣人の日本人、ミスター・ユニヨシ役のミッキー・ルーニーだった--出っ歯まで日本人に似せて、第二次大戦中の人種的偏見にみちた最悪のステレオタイプに匹敵する日本人像だった。

しかしジョージ・ペパードはホリーを恋をする小説家志望の青年ポールとして魅力的だったし、パトリシア・ニールもポールの「パトロネス」およびホリーのライヴァルとしてすばらしかった。ニールはこの映画の思い出を生き生きと語っている。

P361オードリーとのからみは一シーンしかなかったが、彼女はたいそう人なつこくて、自宅へ夕食に招いてくれたことさえあった。メルは撮影中はとてもきびしかったので、その日もお酒は一杯だけ、あとは軽い食事で終わりだった。わたしが家へ帰ったときはまだ日が暮れていなかったと思う。

そんな早い夕食は一度も経験がなかった。でも彼女が美しさを保っていられるわけがそれで納得できた。

わたしはアクターズ・ステューディオで[ペパードと]共演したことがあって、とても仲がよかった--彼はわたしに惚れこんでいた。だから、彼と一緒にこの映画をやれるのはうれしかった。

ところが、彼はひどく大物ぶるようになっていた。わたしの役は2-E、つまり小説家のために借りてやっているアパートの部屋番号だけで呼ばれる上流の中年女だった。

原作ではわたしが彼を支配しているのだが、彼はそう見られるのいやだった。彼とブレイクはほとんど殴り合い寸前までいった。残念なことに、わたしが「話し合いで解決しましょうよ」と提案したために、ブレイクが折れて、撮影はジョージの希望どおりに進められた。

余計な口出しをしたことが悔やまれる。わたしのすばらしい台詞はジョージを立てるために削られてしまった。ブレイクがあとへ引かなかったから、この映画はもっとましなものになっていたのにという気がしてならない。

オードリーもまた、当時ジェームズ・ディーンの二代目と目されていたペパードとやりにくさを感じていた。P362 リー・ストラスバーグ版の「スタニスラフスキー理論」を金科玉条とするペパードの演技は、ヘップバーンのテクニック--すなわち理論によらない演技--の対極だったからである(tw)。

だが結局のところ、ペパードの存在は取るに足らなかった。はるかに大きなインパクトを与えたのは、その年のオスカーを獲得し、以後九十七回のレコーディングに火をつけることになった、ジョニー・マーサーとヘンリー・マンシーニ作の曲だった(tw)。

「オードリーなくしては『ムーン・リヴァー』も存在しなかっただろう」と、マンシーニはドキュメンタリー作家のジーン・フェルドマンに語っている(tw)。
42分過ぎムーン・リヴァー 字幕解説版      字幕解説版clip
「これはわたしが今までに書かなければならなかった曲のなかで、いちばん苦労した曲のひとつだった。

なぜならこの女性が非常階段でどんな歌を歌うのか見当がつかなかったからである。ポップ・ソングか?それともブルース調か?その答えを見つけるのに一か月近くかかった。・・・

オードリーなくしては“ハックルベリー・フレンド”はなかっただろう。彼女はあの歌を忠実に、歌詞に心をこめて歌った。彼女は自分が何をしているのか、歌詞がどういうものかを知っていた」
ムーン・リヴァー」は、ホリーが夢を抱いた田舎娘にすぎないことを説明するために書かれた、とマンシーニは語っている。

「ある晩夕食のあとで、ふと、この曲は極度にシンプルでなければならないことに気づいた。このメロディーは白鍵だけで演奏できる。黒鍵をいっさい使わなくても弾けるのだ。わたしは自分でもそのことに気づかなかった--要するに自然とそうなったのだ」

マンシーニの妻ジニーは、彼が「あのシーンとホリーのキャラクターにふさわしい曲にしようとして、長い間苦しんだ」ことを覚えている。

P363「だから考えつくまでに一か月かかったけれど、いったん方向が定まると、あとはせいぜい二十分しかかからなかった。彼は『パリの恋人(参照)17:30分過ぎ』で彼女が歌った『How Long Has This Been Going On 』を何度もくりかえし聴いて、その範囲なら彼女に歌えると確信した」

あとになってこの曲のすさまじい人気に驚いているかと質問されて、マンシーニはつぎのように答えている。

「この曲は最初から[成功]が保証されているようなものだったが、ジョニー・マーサーはそうは思わなかった。レコーディングに入って、オードリーがギターの伴奏でこの曲を歌ったとき、ジョニーがいった。『なかなかいいじゃないか。しかし、誰かひと儲けできそうな歌手を探すとしよう』」

最初のレコーディングを行ったのは黒人歌手のジェリー・バトラーだった。「アンディ・ウイリアムズがそれを横取りしたのは、彼がその年のアカデミー賞授与式の司会をやることになったからだった」と、マンシーニは語っている。

「コロンビア・レコードは曲も映画もヒットしそうなことを知って、アルバムのタイトルを『ムーン・リヴァー』にした。火曜日[月曜日のオスカーの翌日]には、この曲は全国に知れわたり、わずか数週間でナンバー・ワンにのぼりつめた」

映画音楽で比類のない実績を持つマンシーニの曲のなかでも、「ムーン・リヴァー」は最大のヒットとなった--「真のフォーク・ソングとして歴史に残る曲」と、彼の妻はいっている。

それは世界中の人々の心をとらえた。あの忘れがたいメロディとジョニー・マーサーの歌詞--とくにあの“ハックルベリー・フレンド”というフレーズが」。P364しかし、驚くべきことに、「ムーン・リヴァー」はあやうくカッティングルームで捨てられてしまうところだった。

「われわれはサンフランシスコでプレヴューを行って、観客の申し分のない反応について話しあうために近くのホテルへ行った」と、マンシーニは回想している。

「全員がパラマウントの新社長に敬意を表した。社長は葉巻をくわえて部屋のなかをあるきまわりながら、開口一番こういった。『ひとつだけ注文がある。あの歌はカットしたまえ』と。

するとオードリーがさっと立ちあがっていった。『わたしが生きているうちは絶対にそんなことをさせないわ!』メルが彼女の腕をつかんで引きとめなくてはならなかった。彼女が自制心を失いかけるのを見たのはそのときだけだった」

『パリの恋人』と同じように、『ティファニーで朝食を』でもヘップバーンの歌声は親しみがあって、人の心を動かす力を持っている。彼女のデリケートで声量のとぼしい声の質は、技術的にいえば終始彼女を悩ますことになる欠点だったけれども、このバラードにはぴったりだった。

彼女はこれで、「ムーン・リヴァー」という曲と、ホリー・ゴライトリーという役によって、何百万という人々にハックルベリー・フレンドとして記憶されることになる。

もちろん異議を唱える人々もいる。「これはオードリー・ヘップバーン映画の原型ではあるが」と、フランク・トムソンはいっている。「彼女のベストの作品にはほど遠い」。

批評家のハーバード・ファインスタインは、当時ヘップバーンの最新作を大胆にもブリジット・バルドーの最新作『真実』と比較している。

続き→P365~
(P364-)


出演作品

【映画】 [オランダ時代]
七日間のオランダ語 Dutch in 7 Lessons 1948年、オランダ、監督シャルル・ファン・デル・リンデン、オードリーはKLMのスチュワーデス

[イギリス時代]
若気のいたり One Wild Oat 1951年、監督チャールズ・ソンダーズ、オードリーは脇役

若妻物語 Young Wives'Tale 1952年、監督ヘンリー・キャス、オードリーは若い夫婦と同じ家に間借りしている娘

天国の笑い声 Laughter in Paradise 1951年、監督マリオ・ザンピ、オードリーはタバコ売り娘

ラヴェンダー・ヒル一味 The Lavender Hill Mob 1951年、監督チャールズ・クライトン、オードリーはタバコ売り娘

秘密の人々(初恋) The Secret People 1952年、監督ソロルド・ディキンソン、オードリーはバレリーナで、暗殺計画に巻き込まれる

我らモンテカルロへ行く(モンテカルロ・ベイビー) We Go to Monte Carlo (Monte Carlo Baby) 1952年、監督ジャン・ボワイエ、ジャン・レラルド、オードリーは映画スター

[アメリカ時代]
ローマの休日 Roman Holiday 1953年、監督ウィリアム・ワイラー、共演グレゴリー・ペック、オードリーはローマ滞在中に逃げ出す王女

麗しのサブリナ Sabrina 1954年、監督ビリー・ワイルダー。共演ハンフリー・ボガード、ウィリアム・ホールデン、オードリーは大富豪の運転手の娘

戦争と平和 War and Peace 1956年、イタリアとの合作、監督キング・ヴィダー、競演ヘンリー・フォンダ、メル・ファラー、オードリーはナターシャ

パリの恋人 Funny Face 1957年、監督スタンリー・ドーネン、共演フレッド・アステア、オードリーは書店員で、カメラマンと知り合いファッションモデルになる

昼下がりの情事 Love in the Afternoon 1957年、監督ビリー・ワイルダー、共演ゲイリー・クーパー、オードリーは私立探偵の娘で大金持ちと恋に落ちる

緑の館 Green Mansions 1959年、監督メル・ファラー、共演アンソニー・パーキンス、オードリーは密林にいる妖精

尼僧物語 The Nun's Story 1959年、監督フレッド・ジンネマン、共演ピーター・フィンチ、オードリーはコンゴで看護にあたっていた尼僧

許されざる者 The Unforgiven 1960年、監督ジョン・ヒューストン、共演バート・ランカスター、オードリーはインディアンの孤児で白人一家に養われている

ティファニーで朝食を Breakfast at Tiffany 1961年、監督ブレイク・エドワーズ、共演ジョージ・ペパード、オードリーはコールガール、ホリー・ゴライトリー

噂の二人 The Children's Hour(The Loudest Whisper) 1962年、監督ウィリアム・ワイラー、共演シャーリー・マクレーン、オードリーは女学校の経営者で同性愛の噂をたてられる

シャレード Charade 1963年、監督スタンリー・ドーネン、共演ケイリー・グラント、オードリーは国際的犯罪に巻き込まれる未亡人

パリで一緒に Paris When It Sizzles 1964年、監督リチャード・クワイン、共演ウィリアム・ホールデン、オードリーはシナリオ作家の助手

マイ・フェア・レディ My Fair Lady 1964年、監督ジョージ・キューカー、共演レックス・ハリスン、オードリーは花売り娘、イライザ・ドゥーリトル

おしゃれ泥棒 How to Steal a Million 1966年、監督ウィリアム・ワイラー、共演ピーター・オトゥール、オードリーは贋作屋の娘

いつも二人で Two for the Road 1967年、監督スタンリー・ドーネン、共演アルバート・フィニー、オードリーは建築家の娘

暗くなるまで待って Wait Until Dark 1968年、監督テレンス・ヤング、共演アラン・アーキン、オードリーは麻薬の売人に襲われる盲目の女性

ロビンとマリアン Robin and Marian 1976年、監督リチャード・レスター、共演ショーン・コネリー、オードリーはロビン・フッドの恋人、マリアン

華麗なる相続人 Sidney Sheldon's Bloodline 1979年、監督テレンス・ヤング、共演ベン・ギャザラ、オードリーは製薬会社社長の相続人

ニューヨークの恋人たち They All Laughed 1982年、監督ピーター・ボグダノヴィチ、共演ベン・ギャザラ、オードリーは私立探偵と恋に落ちる人妻

オールウェイズ Always 1989年、監督スティーヴン・スピルバーグ、共演リチャード・ドレイファス、オードリーは天使

【舞台】
ジジ Gigi 1951年、演出レイモン・ルーロー、共演キャスリーン・ネスビット、オードリーはコケティッシュなパリ娘

オンディーヌ Ondine 1954年、演出アルフレッド・ラント、共演メル・ファラー、オードリーは水の妖精

【テレビ】
マイヤー・リング Myyerling 1957年、演出アナトール・リトヴァク、共演メル・ファラー、オードリーはハプスブルク帝国皇太子の愛人

おしゃれ泥棒2 Love Among Thieves 1987年、演出ロジャー・ヤング、共演ロバート・ワグナー、オードリーはピアニストで宝石泥棒

【テレビコマーシャル】
1971年、日本のかつらメーカーのためのCM