2019年1月30日水曜日

偏愛メモ 『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士 P282-367(随時更新)

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2.5 カリガリ博士とマブゼ博士 P282-367
ロスチャイルド家はヨーロッパの産業を掌中におさめ、莫大な富によって城を構えた。ロスチャイルド家はヨーロッパの王室と貴族を動かし、ロスチャイルド家の財宝は芸術家を愛した。ロスチャイルド家はヨーロッパ全土を支配した。

ところがこの物語は、一八世紀末に序曲が奏でられ、やがて一九世紀に突入すると華麗なワルツを踊りながら、二十世紀に至るまでには様相を転じはじめた。

アメリカの石油王ロックフェラー、ドイツの鉄鋼王クルップ、フランスの実業家ラフィット、ドレッセル、銀行家ペリエ、イギリスの保険王ロイズ、オーストリアの金融王シナなど、百人の両手の指を折るほどもライバルがロスチャイルド家の前に立ち現れた。そして逆に、ロスチャイルドを倒すための具体的な、最大規模の行動が起こされた。

第二次世界大戦は、人類史上の最大規模の愚行であり、比類のない悲劇であった。数限りない記録に接し、その当時の人間を描いた映画などを見てきたわれわれは、アウシュヴィッツやアジア全土で展開されたドイツ人と日本人の吐き気をもよおす行為が、一体どこから生まれたかについて、本心から納得できる答えをまだ聞いていない。

これまでの結論は、ごく簡潔にものごとを言い当てようとするため、ヒットラーに代表される一部のファシストにその責任を集約しようとしてきた。この独裁者の個性があまりにも特異であったため、現在の問題を語るときでも、口をついて出る言葉は直ちに“ヒットラー”となり、絵に描く時には必ず“ヒットラーの口髭”が鼻の下に付けられる。

しかし言うまでもなく、ひとりの人間が世界を動かせるはずはない。一歩踏み込んだ議論では、ヒットラー本人より、その取り巻きであったゲーリングやゲッペルスをはじめとする夥しい数のナチスや大日本帝国の領袖が動いたことは、誰もが知る事実である。

しかしそれですべてなのであろうか。本書に見てきた通り、われわれの予感としては、“財閥”のあいだでの経済的な支配戦争が背後に大きく横たわっていたはずである。

P283同時に、工業化が激しく進む時代の流れのなかで、兵器の殺人能力が急速に高まったことが、戦争を地獄図とした要因である。その責任者は誰であったのか。

ヨーロッパに目を向ければ、この悲劇の軸となったのが、「ユダヤ王」ロスチャイルドと、アウシュヴィッツの「ユダヤ人」虐殺であったはずだ。ところが不思議なことに、この両者を結びつけて第二次大戦を解析したものを、まだ目にしたことがない。

それは独立した現象なのか、それとも世界大戦を誘発した最大の原因であったのか、この疑問に対する答えを探るために、おそらく従来はほとんど語られてこなかったある史実を探ってみたい。

第二次世界大戦がいかにして仕組まれたか、という謎を解き明かすことになるかも知れない。少なくとも、その鍵を与えてくれるだろう。第二次大戦でドイツとイギリスとフランスが、今世紀初頭の新技術や文化の交流のなかで渾然一体となって生きていた状況を考えると、この戦争の動機は、“反ユダヤ主義”や“帝国主義”、“ファシズム”、“ヒットラー”といった単純な言葉では、決して表現できないはずである。

これから、歴史年表の記録を無感情に追ってみる。そこに何が起こったかを、冷たい記録として脳裡に焼きつけてみる。ポーが『モルグ街の殺人事件』や『黄金虫』で見せたように、緻密な事実の集積から、全体像をひとつの流れのなかに収斂してゆき、最後には思いもかけなかった世界に光を当てることが可能になるかも知れない。

二百年にわたってロスチャイルド家が支配した歴史のなかで、“赤い盾”が文字通り赤い血に染まる大敗北を喫した第二次世界大戦。しかしそこから這いあがって世界的に反撃を試みたロスチャイルド一族の底力。

ロスチャイルドの失敗、それは一九一九年一月十八日、パリのヴェルサイユ宮殿においてはじまった。

南アの“ミルナー幼稚園”としておそれられたライオネル・カーティス、フィリップ・カー、ロバート・ブランド、“アラビアのロレンス”ことT・E・ロレンス、“死の商人”ベージル・ザハロフ、“インド総督”ジョージ・カーゾン…これらのイギリス代表者が続々とヴェルサイユ宮殿に到着した。

いずれも3C政策の現地第一線でムチをふるい、莫大な利権を獲得しようと禿鷹のように獰猛な欲望をあらわにした大英帝国の男たちであった。

パリ和平会議、あるいはヴェルサイユ講和会議と、もっともらしい名前で呼ばれているが、この集まりは、敗戦国ドイツを叩いてさらに深くアジア・アフリカを侵略するのがイギリス財閥の目的だった(tw)。

第一次世界大戦の戦勝国が開いたその国際会議で、イギリス・フランスの代表者は、公式にはロイド・ジョージ首相とクレマンソー首相だったが、そのような“飾られた物語”はもうよい。「ミルナー幼稚園

(P284-)

P284 とアラビアのロレンスと死の商人とインド総督」が揃えば、この会議で何が議論されたかは歴然としていた。ことにミルナー幼稚園のカーは、ロイド⁼ジョージの個人秘書をつとめ、インド総督カーゾンはこのとき外相という最も重要なポストを握っていたのである。以上の六人だけではない。

ロイド⁼ジョージ首相の随員として、影のように寄り添う七番目の男があった。後年、イギリス新聞協会の会長としてジャーナリズムの世界にトップとして君臨し、“デイリー・メール”紙のオーナーとして世論を動かしたエズモンド・ハームズワースである。早く言えば、系図25の“女王陛下の007”で星印★の男、つまりイアン・フレミングと妻を分け合った人物が、イギリス首相に対する進言役をつとめていた。

一時はボーア戦争や軍需産業の拡大に猛烈な反対をとなえた“平和の使者”ロイド=ジョージが、掌を返すように豹変し、世界大戦では軍需大臣と首相として戦いに熱中するのを見て驚いたイギリス国民だったが、その秘密は、ザハロフだけが知っていた。ロイド=ジョージが政治家として台頭してきた頃、すでにひとつの目的をもってこの人物について身許を洗っていたある日、ザハロフ自身が雷に打たれた態でロイド=ジョージの急所を見抜いてしまった。

それは系図を書くまでもない話だったが、ザハロフは若い頃にロンドンで建築家ジョン・バウロスの娘エミリーと結婚し、詐欺同然にこの女性を見捨てたという暗い過去を持っていた。ところがエミリーがその後、あろうことかロイド=ジョージと関係を結んでいたのである。

しかも今世紀に入る前に、彼女は親からも勘当され、一介の料理女として薄倖の人生の幕を閉じていた。天上のエミリーという一女性の目から見れば、愛した男はひとりが死の商人の元祖ザハロフ、もうひとりが大英帝国首相ロイド=ジョージだったことになる。

第一次世界大戦がここから起こったという結論に飛躍してはならないが、一千万人の死者とエミリー・バウロスの関係を点から線へ結んでゆくと、それが決して謎めいた想像ではないことが分かってくる。

つまりザハロフとロイド=ジョージの隆盛が西暦一九〇〇年前後になぜ並行して起こったかを考えると、ふたりの男の相互作用がその最大の動力になった可能性が高いのである。

ヴェルサイユ宮殿に敷きつめられた大理石の床のうえで、あの輝くばかりの“鏡の間”で、パリ平和会議が今度は新しい歴史を描きはじめた。さきほど見たザハロフの写真は、イギリス王室からナイトの称号を与えられた誉れ高い死の商人の記録だが、この称号を授けたのがロイド=ジョージであった。

この会議は翌年八月のセーヴル条約を締結するまで延々と続けられたが、平和会議の名に恥じることなく、主役を演じたアメリカのウィルソン大統領、フランスのクレマンソー首相、イギリスのロイド・ジョージ首相の三巨頭が、いずれも兵器メーカーを強く批判して幕を閉じた。

その間、一九二〇年一月十日には、世界友好のための国際連盟という画期的なP285機構がつくられた。ところがこの三人の行状と履歴は、世界を動かした人間として、これまで語られなかった事実を調査結果に示している。

ロイド=ジョージはザハロフと旧縁で結ばれていただけでなく、無数の系図を描くことができる。ここでは一例として、インド総督を経てネイサン・ロスチャイルドに至る道を示しておく(系図27)。ここに登場する総督ブルースはすでに全インド総督の系図18(12)にも現れたが、それとは別の妻の系図になる。

ロイド=ジョージだけがジキル博士だったのではない。第一次世界大戦のためヨーロッパ全土は痛ましい災害をこうむったが、途中から参戦したアメリカは軍需景気に沸き返り、なかでも世界最大の鉄鋼会社「USスチール」を設立した金融王J・P・モルガンは、ヨーロッパに莫大な戦争資金を貸し付けて、この戦争によって天文学的な利益を懐にした(相互参照)。

公式にその作業を取り仕切ったのは、勿論ホワイトハウスのウィルソン大統領を動かした金庫番、ウィリアム・マッカドゥー財務長官であった。マッカドゥー本人は、わが国の日本銀行総裁に相当する「連邦準備会議」の初代議長ばかりか、自ら海運業界で「アメリカン・プレジデンシャル・ライン」(大統領汽船)という船会社の会長ポストに坐った大実業家である。

何よりも、「J・P・モルガン商会」の"特権者"という肩書がすべてを物語る、戦争の利権代表者だった。しかしこの男、第一次世界大戦の開戦に先立つほんの二カ月半ほど前に、ホワイトハウスで結婚式を挙げていた。

一九一四年五月七日、マッカドゥー財務長官の花嫁はエレノアは、幸せな笑顔を父親のほうに向けた。花嫁の父も静かな微笑を娘に返した。この父親こそ、第二十八代大統領、ヴェルサイユ会議のウッドロー・ウィルソンその人だったのである。

これを、アメリカン・プレジデンシャル血統と言うのであろう。父親の娘ムコが取り仕切った黒幕であるなら、ヴェルサイユ会議に臨んだウィルソンの歴史に残る平和演説には、大きな疑問符をつけることになる。

第三の男、地元フランスの首相クレマンソーは、いまや"時の人"としてヴェルサイユ宮殿の会議場を支配し、一番大きな声で喋った人物として最も有名である。ドイツの戦争責任に対する賠償を強く要求し、それが実って厳しい字句で定められたヴェルサイユ条約が調印されたあと、遂にクレマンソーは「ここに平和が達成された」と世紀の宣言をおこなった。

この声に応えて、祝砲が放たれ、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』が歓喜のなかに歌われはじめると、宮殿をとり囲んでいた大群衆から一斉に「フランス万歳」の大合唱が沸き起こり、「クレマンソー!」という熱狂的な叫び声がパリを覆いつくした。

だが、クレマンソーとは何者であったのか。この人物の履歴を第一次世界大戦のなかに追ってゆくと、終戦P286直前の一九一八年三月十六日付けで、フランス語によって書かれた不思議な書簡にぶつかる。(tw)
---クレマンソー殿
西部戦線におけるわが連合軍の戦力を統合するため、イギリスとフランスの両政府がフォッシュ将軍を最高司令官に任命することになりました。彼は、指揮に当たっている各地の将軍と共にその意味を理解しておりますので、必要な情報はすべてフォッシュ将軍に集約されます---
名画『西部戦線異状なし』が描いた通り、この第一次世界大戦のなかで最大の悲劇を招いた殺し合い戦場、西部戦線はこうして英仏軍によるフォッシュ将軍の戦力統合によって局面を一変し、帝国ドイツの敗北という結果を導いたのである。

この書簡の発信人は、ただ"ミルナー"とだけ署名されていた。南アのミルナー幼稚園を率いたアルフレッド・ミルナーその人であった。彼はボーア戦争から転じて、この時には第一次世界大戦の前線政府首脳として将軍たちを任命する陰の支配者となっていた。

侵略の戦術を日夜研究したミルナーは、南アでもエジプトでも、実戦にかけては当時有数の腕を披露し、J・P・モルガンはは喉から手の出るほどこの男を欲しがっていた。クレマンソーはかなり前からミルナーと親しく交わり、フランスのロスチャイルド家の力によって首相の座を射止めたP287男であった。

"ユダヤ人の冤罪"としてフランスを揺るがせたドレフュス事件ではユダヤ人弁護のために積極的に運動をおこないながら、鉱山でストライキが起こると軍隊を派遣して労働者を弾圧するという、ロスチャイルド家の執事として忠実そのものに立ち働いたクレマンソー、この人物がヴェルサイユ会議の議長をつとめた。

(略)

P288 問題は、このヴェルサイユ三巨頭(参照)の頭にわれわれが付けた疑問符の答えである。三人は果たして、モルガンやロスチャイルドの意向通りに動いたのだろうか。

この三人のほかに、戦勝国として会議に参加したはずの日本とイタリア代表は、まったく無視されて条約に黙って署名したにすぎなかった。後年この二ヵ国がファシズムに突っ走って誰と手を組んだかを思い起こせば、条約の意味は重大であった(tw,tw)。

敗戦国ドイツは、誰もが知るように一九一九年六月二十八日のヴェルサイユ条約によって、すべての植民地の権利を放棄することが求められたのは当然だったろう。しかしドイツ自身の領土がフランス、デンマーク、ベルギー、ポーランド、チェコスロバキアなどにかなりむしり取られ、何よりクルップたちドイツの大資本家の不満を買ったことに、軍備が厳しく制限されたのである。

また、支払い不能の賠償金二百億マルクを二年も経たずに完済せよ、という条項が、ドイツの銀行家たちの肩に重くのしかかってきた。それは、全ドイツの民衆に「死ね」と言うのも同じだった。もはやこの時、ヴェルサイユ宮殿に陣取ったクレマンソーたちロスチャイルドの代理人は、一介の政治家に戻って国民の歓心を買うことに酔い、パトロンであるロスチャイルドの手を離れてひとり歩きしていたのであろうか。

政治家の末路は、ほとんどその"ひとり歩き"からはじまる。モルガン家の借金取りとして出席したウィルソン大統領が、クレマンソーたちの賠償の条件に反対したのは、「支払い不能の賠償金を要求するのは、貸し倒れのおそれがある」と読んだためであったかもしれない。

ドイツ国内では、"赤い盾"のマーチャント・バンカー、「ワーバーグ銀行」がこの条約に烈しい怒りの言葉を投げつけた。ロンドンのロスチャイルド銀行でパートナーとなり、ニューヨークのクーン・レーブ商会でも怪人シフと共にパートナとなって全世界を股にかけてきたマックス・ワーバーグは、姪の夫がウォルター・ネイサン・ロスチャイルドであった。

系図8(参照)のタイタニック号沈没の系図に、日露戦争で日本に融資した眼光鋭いこの銀行家を書き加えるとよいだろう。

ゴールドシュミットと共にドイツ金融界のトップにあったワーバーグまで断崖に追い詰めてしまったパリ会議の経過をみれば、ロスチャイルドがヴェルサイユ会議で有利になったという結論は崩れてくる。しかしさらに大きな戦略として、会議の演出があったのかもしれない。

なぜなら会議の成果は、戦争が終わって平和のはじまりどころか、"軍需産業"のカルテルにとって格好の爆弾がドイツ、日本イタリアに投げつけられ、この三ヵ国が反撃する誘因を生み出したからである

この兵器カルテルは、すでに一九○一年に明確な一集団として世界的に始動していた。それは「ユナイテッド・ハーヴェイ・スチール」と名乗る国際シンジケートとして組織されていた。表面上は、新素材として硬い鋼鉄を開発したニューヨークの工業家、ヘイワード・ハヴェイの特許をすべての国が利用できるための会社、という触れ込みのようだったが、当のハーヴェイが死亡して八年後にその名前を組み込んだこの秘密組織が狙ったのは、言うまでもなく硬化鋼の用途として最大のマーケットを持つ大砲など、近代兵器の製造であった。

出資者は、イギリスのヴィッカース社とアームストロング社、フランスのシュネーデル社、ドイツのクルップ社、アメリカのカーネギー財閥であった。いずれもその国の兵器独占企業として君臨していたが、カーネギー財閥は、同年に鉄鋼王カーネギーがすべてをJ・P・モルガンに売り渡して大金を得ていたので、実質的に出資者はモルガン財閥のUSスチールであった。

この四ヵ国が第一次世界大戦を戦い、実はそれによって巨万の富を蓄えた各社であるから、今後も戦火を交えて何の不都合もないはずであった。ドイツのクルップは、第一次世界大戦に敗れても、ドイツのなかで最大の利益をあげることができた。

次の見開きに当時の"ヨーロッパの兵器カルテル"を地図に示す(参照)。濃い目のアミをかけてあるのが第一次世界大戦の枢軸国、P294白い部分が連合国を示している。まずその敵対関係をじっと眺めていただきたい。薄いアミのスエーデン、スイスなどは中立国である。

ここに示した矢印が、各国の巨大な兵器メーカーの投資・技術協力・兵器の大量販売を、大戦前の資料にもとづいて書き込んだものである。彼らは戦争前から結び合っていたのである。軍需産業が"悪"であるという感覚を離れて、経済的にこの状況を分析してみると、さらに分かりやすい。"次の戦争"の必然性が浮かびあがってくるからである。  

いかに欲深い実業家にとっても、利益以上に重大な関心事があるという。それは、不況による社員の首切りと、それに続く倒産である。クルップたちが誠実な死の商人であればあるほど、戦争によって急激に膨張した自分の会社が、終戦と共に一転して激しい不況に見舞われる結果を見なければならなかった。

工場が遊んでしまったからである。これは戦勝国のヴィッカースやシュネーデルでも同じだった。戦火による利益が大きければ大きいほど、兵器メーカーの工場では終戦による打撃が深いものとなった。このような職業は、ほかにないだろう。

世界有数の衣料品メーカーも、ほとんどが軍服などの大量生産によって大企業となってきた。商社も、そのほかの工業界も、ほとんどがこの例に洩れない。それでも軍需産業は、少なくとも兵器工場が即座にはほかの平和産業に移れないという点で特異な存在である。一旦大きなメーカーが誕生すれば、労働者が生き続けるためには必ず次の戦争を引き起こす必要が出てくる。

こうして国際的な兵器カルテルが結成されたのは、戦争が国際的であるという自明の理から、自然な因果関係であった。敵国同士が仲良くカルテルを結んで、初めて意味が出てきたのである。これが大戦争を挑発する源流として、今日でも地球上に奔流している。

一九九○年に、イラクのクウェート侵攻と中東の戦争が米ソの冷戦の終結と同時に起こったことを最近の例として引き合いに出すまでもなく、軍需産業がある限り、人類はまだ戦争をする必要がある。少なくとも、戦争準備を進めなければならない。そのための口実は、どこからでも生み出すことができる。

パリ和平会議は、そのために開かれたパリ戦争準備会議であった。ワーバーグが火をつけた怒りに目を向けると、ドイツ国内には、すでに不穏な動きが出はじめていた。ところがそれは、ワーバーグとはまったく関係のない出来事だった。

この会議に先立つほんの二週間ほど前、ミュンヘンにドイツ労働党という奇妙な政党が結成され、やがてその党員第七号のメンバーとして、二十九歳の青年が登録された。その名を、アドルフ・ヒットラーといった。

それから二ヵ月ほど経って、今度はイタリアでファシスト党が結成された。こちらは新聞記者あがりのベニト・ムッソリーニという男が、退役軍人や戦争愛好者などを集めて組織P205したものであった。

これに対してイギリスではすでに、前年に航空大臣のポストにウィリアム・ウィアーが就任していた。さらにヒットラーとムッソリーニが出現したこの年には、軍需大臣のポストにアンドリュー・ウィアーが就任していたのである。航空・軍需の大臣がいずれもウィアーという名前だが、われわれはこの一族についてほとんど知らない。

アンドリュー・ウィアーは、"大英帝国のカーネギーかメロン"と呼ばれた人物で、造船業界から穀物まで動かし、マルコーニ社の国際海軍部門で№1の座に就いた男だった。系図28(参照)に見られるように、ウィアー家と結婚したソーニークロフト家は、海軍造船研究所の副所長を代々にわたって生み出した軍需産業一族だが、同時に有名な彫刻家と詩人を誕生させた芸術一家でもある。

その芸術というのが、彫刻家ハモ・ソーニークロフトの作品が南アのキンバリーにつくられた"ダイヤ王セシル・ローズの騎馬像"であったり、ヴェルサイユ会議に乗り込んできた"インド総督"カーゾン卿を讃えるカルカッタの大記念館であった。

また、詩人のほうはジークフリード・サッスーン---しかしサッスーンの名からアヘン王と造船業を想像する時代は過ぎ去り、この時には航空機の時代を迎えていた。アヘン王から数えて四代目のフィリップ・サッスーンがロンドンで空軍の№2のポストに就任したのが、パリ会議から五年後、一九ニ四年の出来事であった。

わが一族が次々と戦争指揮官のポストについていた。これから起ころうとしている第二次世界大戦に向けて、ドイツとイタリアのファシズムだけでなく、背後には、国際的な軍需カルテルが大きな網を張りはじめていた。

空軍はすでに全世界が軍事的に注目する最大の攻撃力とみなされ、その三年後の一九二七年、チャールズ・リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行によって、いよいよ本格的な空中戦を描く時代に突入した。この空軍次官サッスーンは、系図16(参照)の右下にも星印★★で示した男、つまりアリーン・ロスチャイルドのの息子であった。このような一族の代表者、アンドリュー・ウィアーが軍需大臣に就任していたのである。

もうひとりのウィアー、航空大臣のウィリアム・ウィアーは、早くもドイツ爆撃を準備しはじめ、秘密の軍需工場の計画に取りかかっていた。やがてICIの事業に没頭するこの男は、タイタニック号の沈没によって会社そのものが沈没しかかったホワイトスター汽船を、一九三四年にライバル会社のキュナード汽船と合併させた男でもあった。

さらにヴェルサイユ会議の時代には、第一次大戦のユトランド沖の海戦で武勲を立てたイギリス海軍の誇るビューティー提督と手を組んで、大々的な軍事協力を進めていたのである。そのビューティー提督もまた、ただ者ではなかった。

系図29(参照)を一見して分かる通り、ネイサン・ロスチャイルドが左に立っているのは当然としても、イギリス海軍提督がシカP296ゴのマーシャルフィールド一世の娘と結婚していたのである。

レーガン~ゴルバチョフなど歴代の米ソ首脳会談を実現させた二十世紀の怪物ドクター・ハマーがアメリカで財を成す第一歩となったのは、ロシア生まれのハマーがロマノフ王朝の財宝をどこからかかき集め、アメリカへ持ち込んでシカゴのデパート「マーシャル・フィールド」で販売したのがはじまりであった。

アメリカの中心都市は、一時期アンタッチャブルのシカゴにあって、シカゴ・ジャズが生まれ、アル・カポネのごときマフィアが育てられた。その大都会シカゴの最盛期、今世紀初頭に世界最大のデパートが、「マーシャル・フィールド」であった。このデパート創業者である大富豪の娘と結婚したのが、イギリス海軍のビーティー提督になる(その孫娘は、やがてグレンフェル家と結ばれる)。

今世紀アメリカ最大のデパートが、ロスチャイルドの資本で動かされていたことは疑いようもない事実である。創業者マーシャル・フィールドがこれを大店舗に育てるまで、店名は「フィールド・リーター商会」と呼ばれていた。

手を組んだパートナーが、リーヴァイ・リーターであったからだ。これがシカゴ商業クラブの初代会長として、全市に君臨していた。シカゴ・ギャングの成り立ちを調べてみれば、必ずこの男が登場してくるはずだ。ビーティー提督の系図の下に、この章で二度も登場したインド総督カーゾン卿の関係を添えておこう。

P297 インド総督第系図18(12)で、一番下のグループに見える人物、そしてヴェルサイユ会議のイギリス外相である。

タイタニック号と共に冷たい海に呑まれたデパート王シュトラウス家が東海岸のニューヨークを牛耳り、中西部シカゴではマーシャル・フィールドが一大勢力を張って、アーマンド・ハマーの財宝ばかりでなく、数々の金銀ダイヤなどの宝飾品をロスチャイルド家の一流デパートが売りさばいていた。勿論、貴金属の最大のマーケットはアメリカである。

この家系には、現代の読者の食卓に直結するもうひとつの大きな物語がある。今世紀初頭に"ユダヤ系"穀物商社がアメリカで台頭したと述べたが、そのときアメリカ中西部の穀倉地帯で小麦を買い集め、彼らに供給したのがこのリーター家であったのである。

当時、世界一の小麦の所有者が、インド総督と義兄弟にあたるジョゼフ・リーターであった。世界第二位の穀物商社「コンチネンタル・グレイン」が台頭したのは、一九ニニ年にシカゴで開業してからのことであり、この系図の資金力でぐんぐんと成長できたのである。

世界最大の穀物取引所、一九九○年代の現在もシカゴである。レーガン政権の"通商代表"からブッシュ政権の"農務長官"となったクレイトン・ヤイターは、その小麦畑から生まれたシカゴ商業取引所の会頭だった人物だが、日米コメ戦争の主役、そして一九九一年から共和党の全国委員長となったヤイターである。

怪物ドクター・ハマーのオクシデンタル石油が、P300一九八六年の全米食品売上げで第一位の座を占めたという奇怪な関係も、ハマーの飼う肉牛をシカゴやセントルイス経由でわが国が大量に買い求め、同じ商人たちの懐を温めてきたからだ。これで問題がなければよい。

しかし日本の農業は、このために荒廃の一歩手前まで差し迫った危機に直面している。わずかに残された農地に最後の大工業化の波が押し寄せた時には、日本人が生きる糧としてきた植物をあたりに見ることもできず、手遅れとなるであろう。

もうひとつの"ユダヤ系"穀物商社「ブンゲ」も、十九世紀にオランダで創業した業者、つまりこのシカゴの小麦商リーター家がオランダ人であったことから、アメリカへの進出を果たすことができたのである。

こうして航空大臣ウィアーひとりを見ただけで、ICI、ホワイトスター汽船(タイタニック号)、キュナード汽船(クイーン・エリザベス二世号)、海軍提督、インド総督、シカゴのデパート王、小麦支配者、ドクター・ハマー、ヤイター農務長官がオモづる式に転がり出てくる。それがみな、世界一やヨーロッパ最大、全米最大の肩書きに彩られているのは、どう考えても尋常じゃない。

そこにネイサン・ロスチャイルドの姿が見えなければ、大戦後のヨーロッパでも大した問題とはならなかったであろう。ところが本書のはじまりからここまで、さまざまな世界で、それぞれの分野を支配する者の系図という系図、ことごとくにネイサン・ロスチャイルドが立っていたわけである。

ヴェルサイユ条約が調印された直後のドイツ人は、これを黙って観察していたのではなかった。ドイツの軍備は大幅に制限されながら、イギリスとフランスはこれらの両ウィアー家に代表されるように、軍需大臣、航空大臣、空軍次官、海軍提督を続々と輩出し、それが"ユダヤ王ロスチャイルド"の力によることは、今日こうして調べるより当時のほうが歴然としていた。

航空大臣ウィリアム・ウィアーがドイツへの爆撃準備まで進め、ますますイギリスの軍事力を高め、アジアとアフリカへの侵略に乗り出してゆく姿を海の向こうに見ながら、黙々と働いて賠償金を支払えという。イギリスとフランスが平和に向けて歩み出していたなら、話はまったく違う。ところが相手は、「ドイツ人など二千万人でも多すぎる」と軽蔑の言葉を投げかけ、挑発してきたのである。

やがてウィリアム・ウィアーは第二次大戦中、戦車の量産に係わるタンク会議の議長となる運命にあった。こちらのウィアー本人の素性を紹介し忘れたが、今日、その孫が会長をつとめる「ウィアー・グループ」という大手機械メーカーがイギリスに君臨している。

大株主が原子力の「リオ・チント・ジンク社」である。この会長ウィアーは、「ロスチャイルド・ホールディングス」の副会長でもある。当時、大変な一族がイギリスの軍需産業を動かしていた。

P301 おそらく多くの歴史家を含めてわれわれが見過してきたのは、ヒットラーやムッソリーニがなぜあれほど愚かな論法で大衆を巧みに操作できたか、という疑問の追跡であろう。"宣伝の天才、総統ヒットラーと宣伝相ゲッベルス"という言葉だけで説明がつき、納得してきたとすれば、アウシュヴィッツのガス室のなかで虐殺されたユダヤ人に対して、冒瀆のほか何ものでもない。

実はナチスに参加したドイツ人の多くが、党の幹部から大資本家、大衆に至るまで、無念の思いをこめて次のような意味の言葉を語っている。「ヒットラーは言葉巧みにわれわれを扇動した。しかしあいつが喋る言葉のなかに、いくつかの事実があったから、誰もがとびついてしまったのだ」

たとえば後年、ヒットラーと手を組んでナチスの財政を緻密に編みあげたドイツの大銀行家ヤルマール・シャハトは、第二次世界大戦がはじまる前のニューヨークでの講演会に臨んで、「私はナチス党員ではない。しかしナチスの基本的な考え方には、かなりの真理が含まれている」と、アメリカの実業家に向かって喋っていた。

この大物シャハトが語った”真理”が何であるかは分からない。もはや過去の人間の言葉など何事も信用する気にはなれない。一体、真理があったとすればそれは何であったのか、あるいは、シャハトの感じていたものが果たして真理であったのかどうか、それは大変な疑問である。

シャハトは数々の書物が指摘しているように、ヒットラーのようなファシストではなく"平和論的な考え方を持った帝国主義者"であったという。しかし帝国主義が平和に結びつくという説明自体が理解できないばかりか、シャハトはヒットラーの経済相となったのであるから、それが平和論者であったはずはない。それほど歴史の記述には矛盾が満ちあふれている。

実はこの検証作業を進めているわれわれ自身が、本書の主人公である。歴史がわれわれを試しているのだ。ヴェルサイユ会議が終わった一九二〇年も暮れると、二一年には革命後のソ連で"ネップ"と呼ばれる新経済政策(相互参照)がレーニンの手で打ち出された。

しかしながら、ウクライナの大飢饉によって新生ソヴィエト連邦は断崖に追い詰められていた。一方ドイツでは、それ以上の問題が進行していた。早くもヒットラーがナチス党の党首に選ばれ、ファシズムを実行に移すための突撃隊SAが正式に発足したのである。

あからさまなユダヤ人攻撃がはじまり、遂に翌二二年六月二十四日、ドイツ産業界を土台から揺るがすラーテナウ外相の暗殺事件が発生した。クルップ・ジーメンスの"反ユダヤ主義"連合にとって、"ユダヤ人"ラーテナウが創業したAEGの存在は、電力というエネルギーの支配力をめぐって我慢のならないものになっていた。

そのAEG社長のヴァルター・ラーテナウが外務大臣に就任すると、資本家にとって最大の脅威であるソ連と友好を深めるという行動に出たため、全世界の目が注がれた矢先の出来事だった。ラーテナウが共産主義のソ連を初めて正式の承認し、資本家の怒りを買ってまで債務の返済を相殺したことは、全世界に驚きをもって迎えられた。共産主義者は泥棒同然に財産を国有化した憎むべき敵だ、というのが資本家の考え方であった。当然である。

たとえばこの前年に、バクー油田が遂にソ連の支配下に置かれ、ヨーロッパとアメリカの利権者は莫大な資産を失っていたのである。しかしよく調べてみる必要がある。われらのロスチャイルド家が、みすみす財産を失うほど愚かな手を指すだろうか。

ラーテナウがドイツ=ソ連友好条約を結んだのは、表向きのバクー油田国有化を進行させ、その背後でソ連と裏取引をおこなうための重大な事業契約であった。ラーテナウが足繁く通っていたのがバクーであり、新生ソ連がこの油田を金に換えるには、西側の石油化学技術と販売ルートが必要なことも、レーニンたちには分かっていた。

事実、ラーテナウ暗殺から三ヵ月後に西ヨーロッパ諸国とアメリカはソ連石油のボイコットを公言してレーニンを追い詰めたが、それからわずか半年後、一九二三年三月、苦境の国家元首レーニンに救いの手を差しのべる者が出てきた。

「お困りなら、ソ連の石油を買い取りましょう」ほかならぬロスチャイルドと因縁浅からぬシェル石油の幹部が、こう言いながら西ヨーロッパとアメリカの不買協定を破って裏切り、先駆けしたのである。呆然とする諸国の大資本家を尻目に、"赤い盾"の鉄則はどこまでも、ビジネスはビジネス、である。

これが今日まで続く、東ヨーロッパの実情だ。この石油業界については、のちにくわしく解説するが、そのバクーにいたのがスターリンという男であった。

ラーテナウはファシストによって射殺されたが、血を血で洗う時代が訪れていることにロスチャイルド本家は気づいていなかった。当時ロスチャイルドの本家は、ロンドンとパリとウィーンの三家族になっていた。フランクフルト家はすでに述べたようにゴールドシュミット家に変り、イタリアのナポリ家は、それよりはるか以前、一八六○年に革命のため命を狙われ、閉鎖していた。

こうして残った三つの本家では、依然として貴族の生活を送り、宏壮な庭園を眺めながら暮らしていたのである。この構造は、かなり明確に当時の状況を映し出している。ヴェルサイユ会議で虫ケラのごとく扱われたドイツと無視されたイタリア。そしてロスチャイルド本家がなくなったドイツとイタリア。

そこからヒットラーとムッソリーニのファシズムが誕生したのである。優雅な本家が不穏な世情に気づくことは想像するほど簡単ではなかった。

その一方で、相変わらず多くのユダヤ人は社会から排斥されていた。ロスチャイルド家が途方もない利益を帳簿に計上するたびに、実業界からその噂が巷に流れて、ドイツとイタリアP303では民衆の怒りが身近なユダヤ人に向かっていったのである。

ユダヤ人の多くは、事業のうえでロスチャイルド家と非常に深い関係を持っていたが、ほとんどは一介の市民かそれ以下の貧困に喘ぐロスチャイルドの使用人にすぎなかった。それが一身に、ユダヤ王の責任を負わされる運命に置かれていた。

ロスチャイルド家が自ら、"呪われた名前ロスチャイルド"と口にするほど、世界じゅうの不満が一族に向かっていたのである。ドイツの民衆を見てみよう。

ラーテナウの暗殺前のことだった。一月にドイツで戦争賠償のための大増税案が発表されていた。すでに著しいい速度で進行するインフレのため、生活を投げ出したいほどの苦しみを味わっていた民衆の家に、絶望を突きつける増税の計画が爆弾を投げ込んだ。

しかしこのインフレは、ある人間集団に利益を与えた。ドイツのマルク紙幣がみるみる価値を下げるなかで、相対的に、人の心は物々交換の原理に惹かれていった。賃金労働者は、給料がまったく意味のないものになってゆくのを見なければならなかったが、逆に、物、資源、金銀などを所有している人間は、途方もない利益を手にしていった。

つまり商店と大資本家や工業家が、この当時のインフレによってますます勢力を拡大したのである。不幸にしてユダヤ人は"利益を得る集団"とみなされ、ラーテナウ暗殺後に全ドイツを襲ったマルクの崩壊によって、憎悪の対象にあげられた。

先ほど眼光鋭い写真を見たマックス・ワーバーグは、ラーテナウに続いて"暗殺の対象"とされ、ドイツのそちこちで「ワーバーグを殺せ」の声が叫ばれた。彼はドイツ国立銀行「ライヒスバンク」で顧問をつとめ、ドイツの戦争賠償に関する戦勝国との交渉で、いまや重大な役割を果たしていたからである。

ロスチャイルド本家なきあと、ワーバーグはドイツのユダヤ人社会に最も影響力を持つ男と目されていた。しかし彼は身の危険を感じながら、ドイツから逃げようとはしなかった。

ソ連でもポーランドでも、不況の波が襲いかかり、ユダヤ人に対する攻撃がはじまった。ワーバーグはそのような窮地に追い詰められたユダヤ人を国外に移住させるため、ドイツに踏みとどまったのである。一九二二年十月二十八日、ムッソリーニが遂に軍隊をローマに進め、首都を占領した。

それに呼応して、まだ小さい党ながら、ナチスの声もドイツに深く滲透しはじめた。これを観察していたのが、ユダヤ人の映画監督フリッツ・ラングだった。この年、『ドクトル・マブゼ』を発表したのである。

二年前、ラングはほかの映画の製作にかかっていなければ、『カリガリ博士』の監督になっているはずだった。それは精神病院の院長カリガリ博士と夢遊病者の物語で、作者のユダヤ人カール・マイヤーは、この作品のなかで独裁者の狂気じみた姿を描き、パリで大成功をおさめた。

早くも総統ヒットラーのP304出現を予言していたのである。一方、映像の魔術師と言われたフリッツ・ラングは、今度こそ妻の脚本家テア・フォン・ハルバウに新しい人物像としてマブゼ博士のシナリオを書かせていた。

ただの犯罪者ではなく、千の顔を持つ殺人鬼マブゼ博士は、精神力によって他人を支配する奇怪な人物だった。『ドクトル・マブゼ』はこうして完成し、『カリガリ博士』と共に、ユダヤ人側からの反撃がはじまったのである。やがて世界は、ナチスの宣伝相ゲッベルス博士と、このフリッツ・ラングの『マブゼ博士』が対決する姿を見た。

実物のカリガリ博士とマブゼ博士たちは、一九二三年から、本格的に世間の耳目を集める行動に出た。突撃隊に続いて、後世に名高いナチスの親衛隊SSが創設されたのである。そして十一月八日には、第一次大戦でドイツの猛将として名を馳せたルーデンドルフ将軍とヒットラーが、遂にミュンヘン一揆を起こした。

この一揆は、ヒットラーの個人史のなかでは、"失敗譚"として語られてきた。とらえられたヒットラーは牢獄にぶち込まれ、その獄中でユダヤ人絶滅を唱える悪魔の書『わが闘争』を書く運命にあった。しかしドイツy国民ばかりか、世界じゅうの資本家がこの一揆に衝撃を受け、ナチスの存在、ナチスの動きに、これまでになく注意を払うようになった。

ユダヤ人側でも反ユダヤ主義者側でも、世界がミュンヘン一揆に振り向いたのは、あのルーデンドルフ将軍がナチスと行動を共にしたからであった。もはやナチスは、たかがファシストと言って見過ごせない力を持ってきたのか、という驚きがドイツを襲った。

ユダヤ人のあいだには、本心から恐怖が湧き起こった。それはクルップのような反ユダヤ主義の資本家たちが、深い関心を持ってナチスの一挙手一投足に目を注ぐようになったからである。なぜならルーデンドルフ将軍は、ただの軍人ではなく、ドイツ銀行と深い関係を取り結んでいた。

ロスチャイルドの金融勢力と闘いながら、ジーメンスのドイツ銀行は第一次大戦で莫大な国外利権を失ってしまい、どん底から反攻に出る機会を狙っていた。ラーテナウががナチスに殺されるのと並行して、この銀行は自らの母体となった電機会社「ジーメンス社」だけでなく、製鉄業界では「マンネスマン製鋼」を育てるのに特に熱を入れていた。

"鉄は兵器"である。この鉄鋼会社はジーメンスを会長に据えて、ドイツ銀行の資本によって一八九○年に設立されたものであった。この集団は、すべての産業分野に新しい活気を求めていたが、すでに第一次大戦中から、ドイツ軍の独裁者と目されるまでににのしあがってきたルーデンドルフ将軍に目をつけていた。

その時はまだドイツ軍優勢のなかで、一九一七年十一月、頭取のエミール・シュタウスが「映画会社を作らないか」と持ちかけていたのである。映画はこのドイツに限らず、あらゆる国で過去・現在を通じて無数の政治的キャンペーンP305に利用されてきた。

軍隊にも悪用されてきた。イギリスとフランスの映画物語をひとつづつ紹介しておこう。一九六三年にイギリスでセックス・スキャンダルが発覚し、時の首相マクミランが辞任するという事件にまで発展した。こともあろうに陸軍大臣のプロヒューもが、魅惑的な若いコールガールのクリスティーン・キーラーと逢引きを重ね、しかもその娼婦が片方ではソ連の武官とも寝台を共にしながら、二重スパイを演じていた事件である。

しかも国家の存亡を左右する核兵器や原子力の機密にかかわると見られていた。このプロヒューモ事件は、つい先年『スキャンダル』という題で映画化されたが、名優ヘンリー・フォンダの孫娘ブリジットがキーラー嬢の仲間となる娼婦で好演していた。

この映画が色事を観客動員のための題材にしたため、内容は期待外れだったが、実はこの作品、本書を読まれたあとにご覧になれば、冒頭から暴かれる事実に度肝を抜かれる。そのキーラー嬢の色事というのが、ほかでもないタイタニック号の一族、アスター男爵の別荘を舞台に展開しはじめるのである。

映画化が決定した直後、「映画化を断念しろ」という電話が実物のキーラーと映画製作会社に入り、キーラー役の主演女優にも脅迫状が届くという緊迫した状況で撮影が開始された。映画の主人公は娼婦キーラーだったかも知れぬが、ここで取りあげる主人公はそのプロヒューモ陸軍大臣の本物の妻である。

この女性については映画でも史実としてもほとんど語られないが、映画女優ヴァレリー・ホブソンだった。

彼女の出演作の題名が、いま思えば実に意味深いものばかりだ。『フランケンシュタインの花嫁』、『この男はニュースだ』、『暗躍のスパイ』、『未発表の物語』・・・ここに未発表の事実を付け加えると、プロヒューモは大臣を辞任したあと、ロスチャイルド系の保険会社で重役室に迎えられた。

このように、軍人と映画は密着している。イギリスばかりでなく、フランスにも次のような物語がある。

ヴェルサイユ会議の議長をつとめたクレマンソー首相のひ孫ジョルジュはは、現代われわれの世界で写真家として活躍してきた。この人物の祖先として、四代前に女優サラ・ベルナールが登場してくるのである。つまり雑誌"ヴォーグ"などの幹部である現代人ジョルジュ・クレマンソーには、"ヴェルサイユ会議の議長"と"世紀の大女優"という変わった取り合わせの血が流れている。

サラ・ベルナールが活躍したのは十九世紀後半から今世紀初頭にかけて、文字通りその美声と美貌で一世を風靡したが、ことに世界じゅうの役者という役者が"演じたい役"の筆頭にあげたエドモン・ロスタン原作の『シラノ・ド・ベルジュラック』では、ロクサーヌ役で大当たりを取り、空前の記録を打ち立てた。

これは実に西暦一九○○年という昔の出来事、舞台女優としてのサラ・ベルナールだが、彼女こそわれらの時代のハリウッド映画全盛期を築いた女神であった。また劇作家P306エドモン・ロスタンのデビュー作『ロマネスク』という傑作な恋の物語は、ロミオとジュリエットとは逆に両隣の親が子供同士を結婚させようとして画策するテーマで、一九九○年の現代に甦った。

ギネス・ブックの記録を塗り替えたロングランのミュージカル『ファンタスティックス』がそれである。ロスタンの子孫は、いまロスチャイルド銀行の幹部だが、サラ・ベルナールはどうだろう。彼女は父親についてほとんど何も分からないという謎の世界に生まれついたが、母親はオランダのユダヤ人で、サラは二十歳の時にフランスのアンリ王子とのあいだに私生児として男の子を出産していた。

こうした波瀾万丈の生涯のなかで一九一二年、すでに映画の時代を迎えていた頃だが、主演作の『エリザベス女王』が全米で大ヒットとなり、当時の金額で八万ドルという興行収入を稼ぎ出した。かの東インド会社とイギリス情報機関を生み出した女王陛下の物語だ。

一九九○年の金価格で計算し直すと、今日のおよそ三億円に達するが、まだハリウッドが誕生する十年も前の出来事であるから、これまた当時は空前の記録を、今度は映画のスクリーンによって塗り替えたのである。続いてハリウッドの構図を総括すると、次のような人材を挙げることができる。

サラ・ベルナールの『エリザベス女王』によって大金を手にした興行主のアドルフ・ズーカーが、のちのハリウッド最大の映画会社『パラマウント』を設立し、そのパートナーでしかも同族関係にあるマーカス・ロウが「メトロ」(のちのMGMメトロゴールドウィンメイヤー)を設立したのだから、サラ・ベルナールとクレマンソーの一族は、"ハリウッド映画界の父母"でもあった。このアドルフ・ズーカーとマーカス・ロウは、いずれもユダヤ人。

サテコノマーカス・ロウと手を組んだのが、サミュエル・ゴールドウィンとルイス・B・メイヤーつまりMGMのGとMが新たに加わったのだが、このふたりもユダヤ人だった。ここまで見てくると、いったいこのユダヤ人たちは本当にユダヤ人なのか、それともロスチャイルド人なのか、という疑問が生まれる。

ビヴァリー・ヒルズのの伝説によれば、彼ら映画界の大立て者と呼ばれる人間は、商人であったり貧しい移民であったり、くわしいことが分からない。ただし、「ユニヴァーサル」の設立者カール・レムルと「コロンビア」の設立者ジャック・コーンはパートナーで、これもユダヤ人。

そしてそのコロンビア映画は、すでに述べた通り、背びれ四枚のジェームズ・ゴールドスミスに身売り話が持ち込まれていた。またユダヤ人のワーナー四兄弟が設立した「ワーナー・ブラザース」は、長男のハリー・ワーナーがヴィクター・ロスチャイルドと共に、慈善病院モンテフィオーレ・ホームで理事をつとめていた。

なるほど、ワーナー・ブラザースの作品に、フランスの小説家を描いた『ゾラの生涯』がある。一九三七年のアカデミー作品賞に輝いたこの映画は、"ドレフュス事件"でクレマンソーと作家エミール・ゾラがユダヤ人ドレフュス大尉の冤罪を晴らしてゆく物語だ。

さてMGMのルイス・B・メイヤーには、もう少し驚く話がある。メイヤーの娘ムコとなったのが、ヴィヴィアン・リーの『風と共に去りぬ』、オーソン・ウェルズの『第三の男』、ジェニファー・ジョーンズの『終着駅』などを世に送リ出した大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックだが、のちに『慕情』で再び全世界を泣かせた当のジェニファー・ジョーンズと結婚した男でもある。

・・・この人物とぴったり寄り添うように全米のメディア業界を支配してきたのが、やはりテレビ王---タイタニック号のSOS無線を傍受したデヴィッド・サーノフと双璧を成す、全米テレビ・ネットワークの王と言われたウィリアム・ペイリーだった。このテレビ王は、両人ともロシア系ユダヤ人になる。

映画界のセルズニックと、CBC放送を設立したペイリーは、"女"のことでもビジネスでも断ち切りがたい仲だったという。この背後に、わがマーチャント・バンカー、「ラザール・フレール」の支配者フェリックス・ロハティンが隠れていた。資金の提供者である。

ペイリーについては、放送業界外ではあまり知られていないが、つい先年、一九八六年にCBC会長に返り咲き、九○年にこの世を去った現代人で、雑誌"フォーブス"の億万長者リストの常連であった。この巨人が、何とテレビ王ならぬ新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと奇妙な関係を持っていた
---ハーストの悪行をオーソン・ウェルズが『市民ケーン』のなかで暴いたのは第二次世界大戦中だったが、ハーストの孫とこのテレビ王が、ドロシー・ハートという女性を共有していたのである---
不思議な一族ではあるが、ハースト家が莫大な価値のある美術品を売り出さなければならなかった時、その販売を請負ったのが、やはりロシア系ユダヤ人ドクター・ハマーであった
---実のところ、ハースト家が一財産を作ったのは、ネバダ州の銀山でひと山当て、グッゲンハイムと同じようにモルガン財閥に売り込んで成功したためであった---。
アメリカのメディアはユダヤ人に握られているとよく言われるが、以上の名前を図解(参照)してみると、"貧しいユダヤ移民"を資金面で支援したヒルシュ男爵財団、つまりゴールドシュミット商会を中心に置いてみれば、ハリウッド映画会社と三大放送ネットワークの出発点が、一点に絞られてくる。これはユダヤ人ではなく、やはり、"赤い盾"の世界だったのである

映画は、こうして誕生し、その背後から資金の網の目が張りめぐらされていた。スクリーンのうえに流れるスターやプロデューサーの名前のうしろには、穀物商人とまったく同様に、"ユダヤ人"と呼ばれるタイクーンでなく、われらのマーチャント・バンカーが激しくうごめいていたのが第一次大戦の頃であった。

P309 このようなアメリカの状況が、ドイツ銀行とヨーロッパ映画界に敵意をもって反映され、ルーデンドルフ将軍が映画会社を設立するという、一見すると奇異に感じられる行動が取られたのである。いまハリウッドの大物たちをユダヤ人と紹介したが、その頭に・・・系とつけるこちが重要だろう。

ロシア系ユダヤ人、ハンガリー系ユダヤ人、ポーランド系ユダヤ人、ドイツ系ユダヤ人、すなわち彼らはヨーロッパ人であった。

クルップのような反ユダヤ主義が焦りを覚えたのは、アメリカ映画界があっと言う間に成長しはじめ、芸人や劇場を取り込んでゆくかと見れば、そこに大衆と呼ばれる集団を味方につけてゆく巧みな技術と才能であった。山高帽のチャップリンひとりを見れば分かるが、夫を失った赤貧の母から芸を学んだこの"ユダヤ移民"に勝てる天才芸人は、永遠に映画界に登場しないだろう。

しかもチャップリンの自伝を読むと、『街の灯』のプレミア・ショーでロンドンを訪れた時に、タイタニック一族のアスター卿夫人や、前述のロスチャイルド直系空軍次官フィリップ・サッスーンたちが次々と登場してくる。ドイツ人にはその実力と人気が妬ましくてならなかった。



(P316)

P316 ヴァネッサ・レッドグレーヴとジェーン・フォンダが主演した映画『ジュリア』が描いたのは、ちょうどこの時代のヨーロッパであった。この映画には、原作者リリアン・ヘルマン女史が実際に体験した出来事が、一九三四年のウィーンにおける恐怖のユダヤ人狩りから描き出された。そこにフリッツ・ラングの影が見えるのである。

ナチスとそれに抵抗する市民の市街戦があり、ジュリアは重傷を負ってしまった。友人のヘルマンは作家として成功を収めながら、ジュリアからの頼みで、危険なベルリン経由で解放運動のため五万ドルの大金を秘かに運ぶ役目を引き受けることになった。

その場面である。帽子入れのケースと菓子箱を使って大金を運ぶ列車内のサスペンスは、フリッツ・ラングが『恐怖者』に描いた場面を再現し、観る者が現実と映画のあいだを往復する不思議な世界に連れ込む。

ラングこそ、P317ジュリアと同時代のドイツにいた映画人だったからである。恐怖者ゲッベルスの動きは、映画人のあいだに恐怖を巻き起こした。(略)

(P318-)

(P322-)

P322 一八五五年六月二十五日にワグナーはベルリオーズと会って語りながら、野心を見透かされて冷淡にされ、後年も新聞紙上の討論で"ワグナーの闘志"にベルリオーズが辟易するほどであった。

ロッシーニの場合は、ワグナーがこの巨匠に近づこうとしながら相手にうるさがられ、それが転じて愛憎の逆転に至ってしまった。一八七一年には鉄血宰相ビスマルク公爵とベルリンで会う機会を得たが、そのビスマルクでさえワグナーの自尊心には驚愕していた。

ベルリオーズに冷たく扱われた一八五五年、ロンドンのコンサートでワグナーは奇妙な振舞に及んだ。指揮者ワグナーは、子山羊の手袋をはめてタクトを振ったのである。かつてドイツ南部からスイスに至る地方などでは、ユダヤ人の多くが家畜商しか許されない時代があったので、"ユダヤ人は羊飼い"という意味であろう。

憎悪の気持ちを込めて、ユダヤ人メンデルスゾーンの『イタリア』を指揮した時だったが、そこからウェーバーの序曲『オイリュアンテ』も曲目が移った瞬間、その手袋を脱ぎ捨ててみせた。

ワグナーの狂気はほとんど手のつけられないほどに昂じ、アーリア人種とユダヤ人種の血の交わりを痛烈に批判しはじめ、すでに発表してきた自筆のエッセイ『音楽におけるユダヤ人』以上に激しい口調でユダヤ人攻撃をはじめた。

ヒトラーがワグナーの存在に気づいたのは、まだ若い頃、リンツで『ローエングリン』が上演された時で、ヒットラーはこの作曲家に夢中になり、ワグナーが書いた文章の虜になった。ナチスはヒットラーの狂気の所産と言われてきたが、そうではなかった。

ヒットラーの天才的な演出が、バイロイト音楽祭で利用されたかのように言われてきたが、これも史実関係が逆であった。ワグナーのバイロイト音楽祭が、ナチスを生み落としたのだ

この系譜は、フランスの反ユダヤ主義哲学者ゴビノー(参照)の弟子ヒューストン・チェンバレンが、ワグナーの娘エヴァと結婚して"ある種の思想"をワグナーに吹き込んだことに大きな一因があった。

このチェンバレンの名を記憶されたい。ドイツ軍人クラウゼヴィッツの思想やシラーの力の哲学が大きな影響を与えたのも事実だ。さまざまな要素が働き、まだ世に出ていなかったヒットラーの野心よりはるか以前に、ワグナーの野心が強烈な力でドイツの反ユダヤ主義を生み出していた。

ワグナーはコジマと恋愛し、大作曲家リストの娘を射止めた。それが運命の悪戯か、歴史を軍隊で動かす関係に発展していった。ワグナーと妻コジマの間に生まれた息子ジークフリートは、四十六歳で花嫁を迎えた。

この女性はまだ十八歳のヴィニフレート・ウィリアムズだったが、その養父クリンドヴォルトが音楽家であったため、ピアノ製造業者の富豪ベヒシュタインに面倒を見て貰いながら育てられた。

ところがベヒシュタインの妻ヘレーネには、まだ名もない一青年アドP323ルフ・ヒットラーという親友がいた。こうしてワグナーの息子の結婚相手ヴィニフレートは、はじめからヒットラーときわめて近い位置に置かれていた。

その若きヒットラーが、やがて大作曲家ワグナーに夢中になっていった。そして後年、ヴィニフレートが一時は夫を放り出して総統ヒットラーと結婚するのではないかという噂が立つほどの深い仲になり、公然たる愛人関係をとり結ぶ運命にあったのである。

と言うのは、ヒットラーがナチスを率いてようやく政界に乗り込もうとした頃、ピアノ製造業者ベヒシュタインの邸宅がヒットラーの滞在場所と変わり、今度は彼らが、ヒットラーを育てはじめたからであった。時代は『カリガリ博士』公開の年にあたる。

初期にヒットラーを育て、若い頭のなかに無数の思想を吹き込みながら誘導したのが、ほかならぬ音楽界であった。何も知らない大衆が煽動される姿を見れば、これは現代にも起こっている出来事である。

ヒットラーの挫折となった一九二三年十一月八日のミュンヘン一揆における敗北は、この関係を一層深く、緊密なものにした。

ルーデンドルフ将軍とヒットラーが大胆にも一揆を起こしたあと、オーストリアのインスブルックに逃げ込んだゲーリングの病床を見舞い、力づけたのが、ワグナーの息子夫妻すなわちジークフリートとヴィニフレートであった。ヴィニフレートは獄中のヒットラーに差し入れをはじめた

後年のナチスの象徴は何であっただろうか。ヒットラーが古代の魔的シンボルから考案した鉤十字ハーケンクロイツの旗を思い浮かべる。それは力強く、優れたデザインであった。

これと共にヒットラーが必ず用いたのが、鷲のマークであった。ナチスの鉄兜にも使われ、ゲーリングが支配した国立歌劇場の貴賓席にも、その前面に鷲の雄姿が描かれた。

総統の官邸に建つ三百メートル近い塔のうえでは、巨大な鷲の彫像が、ハーケンクロイツを爪でつかんでいた。鷲はかつてドイツ・プロシャ帝国のシンボルだったが、この像を自分の家紋にしようと、ニーチェにそのデザインを頼んだ男がいた。それが"バイロイトの王者"ワグナーであった。

ヒットラーが鷲をナチスのシンボルとし、鷲十字章を最高の勲章として授与したのもワグナーに学んでのことであった。こうして前世紀末、一八八三年n二月十三日に息を引き取ったリヒャルト・ワグナーの亡霊が、彼の投げた黄金の指輪をめぐって世界支配を争う狂気の世界を創り出した。

これこそ一九九〇年代に異常な人気を集めるバイロイト音楽祭の本質であり、今日でも変わっていない。

P323 時に人びとは、音楽と政治とは別のものだと言う。それは過去の非を認めた上での話である。大指揮者カラヤンは、その非を認めなかった。一九三三年一月三十日にヒットラーが首相に就任し、三月P324十三日、ゲッベルスが宣伝相に任ぜられ、四月一日からユダヤ人に対する迫害の直接行動が組織的におこなわれるようになった。

ヘルベルト・フォン・カラヤンが党員番号一六〇七五二五と登録され、ナチスに入党したのはちょうど一週間後、四月八日のことであった。当時二十五歳である。党員番号が百六十万を超える数字に達していたのは、それだけでも目を見張るべき出来事だった。

すでに時代は移り、このとき音楽界に君臨していたのは、ワグナーの息子ジークフリートのほか、グスタフ・マーラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、リヒャルト・シュトラウス、ルドルフ・ゼルキン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・ベームたちであった。

トスカニーニは、イタリアでムッソリーニのファシズムに対決する姿勢をどこまでも変えず、なお頑張ってミラノのスカラ座の指揮者をつとめていた。皮肉なことに、トスカニーニが名声を博したのは一八九八年十二月、ワグナーの『マイスタージンガー』を指揮したときであったが、この曲は後年、多くのユダヤ人がガス室に送られる時に収容所のなかで使われ、悪夢の作品となった。

トスカニーニは、一九三○年と三一年には問題のバイロイト音楽祭に招かれ、超一流の指揮者として押しも押されもせぬ存在となっていた。しかしその罠を使ってトスカニーニを葬ろうとしたのが、ヒットラーの愛人---『マイスタージンガー』の作曲者の娘---ヴィニフレート・ワグナーだった。

すでにイタリアのボローニャでは、ファシストの要求を蹴ってファシスト賛歌『ジオヴィネッツァ』の演奏を拒否し、暴漢に襲われたトスカニーニだったが、またしてもバイロイトという場違いの劇場に招待されたのである。

すでにこの大指揮者は、身の危険を感じてイタリアから脱出していたが、バイロイトで彼を迎えたのはイタリアのファシスト党でなく、もう一つのファシスト---ナチスであった。

音楽について何も知らないヴィニフレート・ワグナーが楽屋裏を取り仕切るようになったバイロイトでは、罠を仕掛けるように、トスカニーニを招きながらトスカニーニにドイツ音楽を演奏させない、というプログラムが用意されていた。

しかも恥をかかせるため、ドイツ音楽の指揮者は、フルトヴェングラーと発表されたのである。トスカニーニがそのような音楽祭を受け入れるはずもなかった。以後トスカニーニは、戦後一九五七年にニューヨークで死ぬまで、二度と再びバイロイトに帰ることがなかった。

今世紀の近代オーケストラにあって最高峰の指揮者と言われるアルトゥーロ・トスカニーニを失いかけ、ヒットラーが電報を打って説得に努めたが、総統が受け取った返事は激しい拒否と侮蔑の文面であった。

ドイツは大芸術家を失った。一方、その玉座をワグナー一族から政治的に与えられたフルトヴェングラーは、今日もなおナチスの代理人として語らP325れことがある。正式名グスタフ・ハインリッヒ・エルンスト・マルティン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという長い名前を持つこの人物は、きわめて複雑である。

あまりに音楽の才能が豊かで、社会的には無知であったためナチスに利用され、最後にようやく気づいて抵抗を試みた。しかもその抵抗は激しかったが、ユダヤ人虐殺が実行に移された時期という点ではあまりに遅すぎた。

こうした理由から、フルトヴェングラーに対する判定を、第三者が論評することはできない。殺された人間たちがどのように思うか、あるいはナチス・ドイツのもとで彼の生命を賭けた抵抗がどのように受け止められたか、それを知るほかない。

フルトヴェングラーは出遅れたが、正義のために立ち上がった、しかも最も危険な時期にヒットラーとゲーリングとゲッベルスに公然と手袋を投げつけた男、として評価する声がある。少なくともリーフェンシュタールやカラヤンと同列にはいなかった。

この天才は、すでにナチス時代に入ったときドイツ音楽局の副総裁の職にあり、ヒットラー政権スタートから六ヶ月後、一九三三年七月にはゲーリングから枢密顧問官に任命された。

翌八月にはヒットラーと会談し、さらにイタリアのムッソリーニと会談するという、公式の記録上はファシズムに順応する人間として行動しながら、第三帝国の女王レニ・リーフェンシュタールとの共演を拒んだ。

それはほぼ一年後、一九三四年九月五日のことであった。ヒットラーがニュールンベルクに飛んで眼下の群衆の熱狂に応えた巨大なスペクタクル、ナチス記念日の祭典『意志の勝利』の日にフルトヴェングラーが指揮を拒否した事件であった。

そのままのタイトルを冠したレニ・リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利』は、翌年に公開されたが、開幕シーンから鷲とハーケンクロイツが交互にそれもたびたびスクリーンに映し出される威圧的なもので、「わが指導者、ハイル・ヒットラー!」の歓呼の声が湧きあがり、数十万人という空前の観衆を呑み込んだドラマが演出された。

しかし大指揮者の姿は、その偉大なセレモニーの席になかった。拒否したのである。

宣伝相のゲッベルスを怒らせたフルトヴェングラーは、翌十月にさらに積極的な行動に出た。ヒンデミット事件の主役を演じたのだ。ワグナーを嘲笑した闘志の作曲家パウル・ヒンデミットの作品『画家マチス』が、掃蕩ヒットラーの許可なしには演奏できない反ナチス的なオペラであったにもかかわらず、その交響詩をフルトヴェングラーが、ベルリン・フィルハーモニーで初演したのである。

聴衆は狂喜し、ナチスが憤激した。フルトヴェングラーは豪胆にも反論し、ドイツ音楽局の副総裁と枢密顧問官の辞任を公表した。

これに対して同じ音楽局で総裁のポストにあったリヒャルト・シュトラウスは、ナチスの胸のなかで軽蔑し、息子の嫁にユダヤ人を迎えながら、逆にナチスに媚びへつらってしまった。

この男を最初に認めたのはハンス・フォン・ビューロP326ー、つまりリストの娘コジマの初婚相手であったから、シュトラウスには最初から難しい問題があった。とくに有名なのが、ブルーノ・ワルター事件である。

一九三三年三月二十日、ユダヤ人の指揮者ワルターは、ベルリン・フィルで指揮することになっていた。ところがその一週間前に、ゲッベルスが宣伝相に就任していたのである。その時期に、ユダヤ人がドイツを代表する劇場で指揮することは起こり得なかった。

このとき代わってタクトを振ったのが、"けがらわしいワルター"という意味の言葉さえ口にしたシュトラウスであった。以来、卑屈な音楽家として知られるようになったリヒャルト・シュトラウスだが、彼もまた最後にはゲシュタポに切り捨てられ、音楽局総裁を聝にされて惨めな末路を迎えたのである。

なお、ワルツの王ヨハン・シュトラウス家は、一九三九年にナチスにウィーンの全財産を没収された不運な"非アーリア人の家系"で、このリヒャルト・シュトラウスとは無縁と言われている。

(略、ワルターに襲いかかったさまざまな悲劇)

その当時、ナチスの党員証を携帯し、すべての記念式典で指揮棒を振り続けたヘルベルト・フォン・カラヤンがいた。すでにドイツで何が起こっているかを、カラヤンは知っていた。音楽に打ち込んでいたため何も知らなかった、というのではない。

まずこの怪人物は、手続き上の失敗から二度もナチスに入党するという念の入れようで、一九三五年には、リヒャルト・シュトラウスの音楽局総裁辞任によって漁夫の利を占めた。

自分のボスであったペーター・ラべが総裁に昇進し、カラヤン自身がそのポストを受けて出世を遂げる道へと進んでいったのである。ヒットラーの誕生日にも、ナチスの数々の祝典にも、ありとあらゆる儀式で指揮棒を振り、やがてブルーノ・ワルターのウィーン国立歌劇場に乗り込んで行ったのが、一九三七年六月。

ナチスがオーストリアに侵攻し、『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ一家逃亡、そしてワルターもウィーンを去ったのは、それからわずか九ヶ月後のことであった。

P327 この年、一九三八年九月三十日には、ベルリン国立劇場でデビューし、フルトヴェングラーの追い落としを計るナチスと手を結んだ。カラヤンは、ウルム市のオペラハウスに指揮者として雇われていたが、第一指揮者シュールマンがユダヤ人で、この追放後に自らそのポストを手にした。

ゲーリングはカラヤンの悪魔的な性格に触れ、ますます支援の力を強めた。

およそ一ヶ月後の十一月九日には、ゲッベルスの手によって組織された恐怖の虐殺"水晶の夜(相互参照)"がドイツ全土に展開された。ユダヤ人商店の破壊されたガラスの破片は、あたかも水晶のように夜を輝かせ、松明の灯りのなかで連行されてゆくユダヤ人の地獄の行列が延々と続いた。

それからわずか半年足らずで、カラヤンはヒットラーからドイツ帝国の国家指揮者に任命された。総裁の誕生日、一九三九年四月二十日のことであった。

一九八一年のインタビューで、カラヤンはこう言った。ナチスの党員であったことを何も悲しいとは思わない。同じ状況に置かれれば、今でも私は同じ行動を取るだろう。したいことをするためには、人殺しでもするのだ、と。

この人物を"帝王"と呼んで平然とコンサートを開いてきた今日の音楽会。カラヤンだけではなかった。ヒットラーの『我が闘争』が戦後一九六○年に映画化され、そのなかにリーフェンシュタールの『意志の勝利』のカットが使用された時、何とこの女はその使用料を請求して訴訟を起こしたのである。

ナチスに協力した者としては、ピアニストのワルター・ギーゼキング、ヴィルヘルム・バックハウス、オーストリアの指揮者カール・ベームなども挙げられる。

今日このような汚名を挙げなければならないのは、クラシック音楽の神髄がそこにあるからだ。クラシック音楽は、和音とリズムと旋律だけで成り立っているのではなく、主題を持ち、とくに民族の歴史と戦いを描く作品がきわめて多い。

これに通暁していれば何倍か興味深く聴くことができるのではなく、それがヨーロッパの本質---ヨーロッパに誕生したクラシック音楽そのものである。多くの人はこれまで、「哲学がなくともメロディーは生まれる。それこそ音楽の魅力だ」こう考えようとしてきた。

ところが史実を知れば、どのように礼装で着飾り、多少の音感を体得しようと、意味もないことが分かってくる。

次のような事実を考えてみればよい。ウィーン・フィルのコンサート・マスターとして名声を博していたアルノルト・ロゼーには、愛する娘アルマがあった。この女性もやがてヴァイオリニストとして腕をあげていった。しかし彼女は、アウシュヴィッツの強制収容所に送られ、帰らぬ人となったのである。

このアルマ・ロゼーの母こそ、ユスティーネ・マラー、すなわち『もう会えない』、『塔のなかの囚人の歌』などを作曲したグスタフ・マーラーの妹であった。曲名が表P330わそうとしたものが、作曲家マーラーの悲痛な声であった。

ヨーロッパ音楽界にあって最高の地位、ウィーン宮廷歌劇場の総監督となったマーラーは、ブルーノ・ワルターの師でもあった。アルマ・ロゼーは、ナチスの幹部のなかでも"ヒットラーの裏切り者"とされているゲシュタポ長官ハインリッヒ・ヒムラーを前にして、アウシュヴィッツの第二収容所で指揮棒を振ったことがあった。

仲間の密告のためオランダで逮捕されるという悲運に耐え、アウシュヴィッツの四つの収容所のなかでも特に"絶滅収容所"と呼ばれたガス室のあるキャンプに送り込まれた。

そのあと身元を知った収容所が、そこの音楽隊の指揮を命じたのである。しかし最後には、青酸ガスではなく、毒殺されるという運命をたどった。マーラーの悲劇は、姪のアルマだけでなく、従弟のアルトゥール・フィリップもアウシュヴィッツで殺され、両手で顔をおおうほどのものとなった。

「人を殺しても音楽を演奏したい」というカラヤンの言葉は、このような意味を持っていた。ベルリン・フィル・オーケストラ・アカデミーを創設したカラヤンだが、このベルリン・フィルにおけるマーラーの作品の演奏回数は、ヒットラーが政権を取るまで百回以上を数え、それ以後七年間は一度もなかった。

それがカラヤンの大出世時代にあたっていた。一九九〇年の東西ドイツ統一の直前にこの世を去ったカラヤンは、八十一歳の長寿を全うした。ブルーノ・ワルターは語った。
「寛容であることだけがすべてを解決する。しかし相手が不寛容なる場合にだけは、寛容であってはならない」
娘が殺された時の父親ワルターの感情が、そこにあった。

"赤い盾"に守られたメンデルスゾーンの作品は、すべて演奏中止となった。しかし一度は一九三四年に、ヒットラーが首相に就任してゐながらフルトヴェングラーによって『真夏の夜の夢』が演奏され、一度はそれから十年後、アウシュヴィッツのなかでアルマ・ロゼーによって『ヴァイオリン協奏曲』が演奏されたことがある。

ライプツィッヒ音楽院の前にあったメンデルスゾーンの大きな立像は、一九三七年にナチスの手で引き倒され、溶かされた金属が兵器に姿を変えたのである。

おそらく多くの読者は、ここまでの物語を"歴史のなかの映画と音楽に関するエピソード"あるいは、"歴史の陰にあった音楽秘話"として読まれたことであろう。しかしそのような音楽史の解説をすることが本書の目的ではない。

さきほど描いた"ナチス時代の音楽家"のには、一方にネイサン・ロスチャイルドが立ち、一方にはハーケンクロイツの旗がはためいていた。頁を遡って、音楽史の一端を知った今この図をもう一度見ていただきたい。ヨーロッパの王者P331ロスチャイルド家は、この図に登場する"ある人物"の作業によって壊滅するのである。

ヒットラーの愛人ヴィニフレート・ワグナーの息子ヴィーラントとヴォルフガング(同図の★印)は、大戦後の一九五一年から兄弟でバイロイト音楽祭の新しい演出法を考え出し、事実を隠すことによってワグナーを甦らせる方法を思いついた。

兄ヴィーラントは六六年にこの世を去ったが、弟ヴォルフガングは八九年に来日し、こう語った。
「ワグナー(祖父)は決してドイツ的なところに本質があるのではない。問題になるのは、ナチスが一体どこまでワグナーを理解していたのか、ということだ。兄は、"ヒットラーによってワグナーは不幸にされた"と語っていた。母はヒットラーの友人だったが、バイロイトはナチスに加担していなかった」
つまり飽くまでバイロイトは利用されたにすぎない、というわけだが、"ワグナーの楽劇はヒット商品だから儲けを逃がすわけにはゆかない"のである。好意的に見れば、ドイツ文化の保存である。実際、ヴォルフガング一家は日本で大儲けをして帰っていった。

一九九〇年、『ニーベルングの指輪』の製作費はおよそ二億円にもなり、それでも成立する大変な興行にまで復活し、一九七三年に設立されたリヒャルト・ワグナー財団には、一族四人のほか(西)ドイツの国家も参加してきた。

法外な値段のチケット収入のため年間予算は入二億円を超え、チケットを買う人の待ち期間は五年である。別の主題で楽劇を演じようというなら、才能によって別の楽劇を創作すればよいはずだが、あくまで祖父ワグナーの亡霊にしがみつく。

ナチス色を払拭した新バイロイト様式を創り出し、光と影を大袈裟に駆使する抽象的な現代神話につくり変えた。一九九〇年には、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で、『ニーベルングの指輪』が一月末に十回の目の講演を終えたと報道された。

ここでは軍服が登場し、最後には舞台一面に死体が転がっているシーンを迎え、聴衆から「ブーブー」という非難と「ブラボー」の称賛が乱れ飛んだ。「軍服はナチスではない。チェルノブイリ、ナチス、公害の時代を表すのだ。

ナチス・アレルギーがあるのでは、こうした問題を取り扱えなくなる」と演出家は憤慨した。しかしアレルギーであろうか。現代のワグナー家で何が起こっているのか。舞台は確かに荘厳である。“現代神話”という宣伝文句が乱れ飛び、ワグナー自身のト書きを外して現代人が別のト書きを付けたワグナーの楽劇。

ト書きというのは、舞台の演者がその場面で何を演ずるかを書いた説明文のことだから、墓の下のワグナーも、これでは自分が何を創作したのか分からず、理解に苦しんでいるであろう。ワグナーの楽劇が訴えたかったものは、”正当な反ユダヤ主義”であった。

ヒットラーが現代人よりずっと深くワグナーを理解していたのである。ナチスという死体にたっぷりP332死化粧をほどこしてサーチライトを当てた不気味な活劇に、聴衆が金を払っているかに見えるが、ナチスは死んではいない。

ワグナー家には、このヴィーランドとヴォルフガング兄弟のほか、フリーデリントという長女がいた。彼女は父親と共にヒットラーを嫌い、ナチスの時代にパリに逃れてバイロイトの実態を暴くことまでやってのけた。

フリーデリントを養女として温かく迎えたのが、ワグナー家に侮辱されたトスカニーニであった。フリーデリントが目にしたのは、父親を無視して独裁者ヒットラーに近づく母親ヴィニフレートの姿であった。しかも父親はなぜか急死してしまったのだ。

この母親ヴィニフレートは戦後に無罪放免となり、いかがわしい邸宅にはゲーリングの娘をはじめとして数々のナチスの関係者が出入りし、大戦当時のユダヤ人狩りの実態を明らかにしはじめたのである。

ある日、ロスチャイルド家の権勢を土台から覆す男が、この屋敷を訪れていた。その人物の名は、サーの称号を持つイギリス人オズワルド・モズレー(相互参照(12))だった。「イギリス・ファシスト連合」の幹部をつとめ、ドイツとイタリアでなく、イギリスで第二次大戦前からユダヤ人狩りをはじめた男である。

ヴィニフレート・ワグナーは、老婆となってもヒットラーを絶賛し続けた。一九八〇年三月にようやく息を引きとるまでに育てた反ユダヤ主義の数は、夥しい数に達した。オズワルド・モズレー卿もまた、ヴィニフレートが死んで九か月後にようやく天寿を全うした。

ダニエル・バレンボイムの指揮するイスラエル・フィルハーモニーが、一九九一年にワグナーの曲を初めて演奏する時代を迎えた。最近のファシズムを”ネオ・ナチズム”つまり新しいナチスの台頭と呼ぶが、それは表現の誤りで、大戦中にヨーロッパが体験したそのままの形で今日も生き続けている。

ロスチャイルド家は、モズレー卿のために、一挙に破滅への道へと突き進んだのである。この人物がおこなった“イギリスと敵国ドイツ”を結ぶ作業を見てから、彼の意外な正体を暴いてみよう。ヒットラーよりはるかに危険な男モズレーは、ロスチャイルドの弱点を握っていた。

船乗りや鉱山労働者たちが貧困にあえぐロンドン東部イースト・エンドなどで、モズレーの言葉には説得力があった。第一次大戦直後の一九二〇年にシンシアという女性と結婚したモズレーは、彼女の祖父がシカゴの百万長者であったため、イギリス上流階級で優雅な暮らしを送っていたが、妻の父親もまた、政界に強い力を持っていた。

そのバックがあって、自らも政界に乗り込んだモズレーは、何を思ったのか、国内の貧民を顧みずに軍需産業ヴィッカースや南ア、インドなどの外国侵略に大金を投ずる政府に対して、激しい攻撃を仕掛けはじめた。モズレーは正しかったのである。

第一次大戦で疲れ切った国民が、イギリス史上で初めてマクドナルドの労働党内閣を誕生させたのが一九二四年のことで、P333モズレーは直ちに労働党のもとへ走った。鉱山労働者のストライキには強い支持政策を打ち出し、妻シンシアも労働党の下院議員に当選した二九年にば、夫婦そろって失業問題に立ち向かった。

ところが一九三二年、イタリアを訪れてムッソリーニの活動に感銘を受けると、「イギリス・ファシスト運動」という国民的な活動を起こしたのである。ファシズムという言葉は、第二次大戦を経験した現在ではヒットラーとムッソリーニの活動の証左として語られるが、本来はローマ時代の司法官が権威の象徴として持った木の束“ファッショ”に由来するもので、横暴な支配者や資本家を倒す正義、これがファシズムの本意であった。

しかしムッソリーニがローマを占領した時には、すでに意味が取り違えられ、“権威は独裁”と解釈されるよう語源がねじ曲げられた。以来われわれは、仮面をかぶった独裁者をファシストと呼ぶ慣わしになっている。

モズレーは議会に業を煮やし、その年の十月一日に「イギリス・ファシスト連合」を創設すると、正義の独裁政治だけが下層民の経済問題を解決できることを主張しはじめた。

世界的な恐慌が襲いかかって大量の失業者が生み出される時代に突入していた。こうしてドイツとイタリアだけでなく、イギリスの国内でもファシスト運動が大いなる成果を挙げてゆき、ロスチャイルドたち上流社会の人間は追い詰められていった。

ところがドイツではナチズムの暴力が猛威をふるいはじめ、その実態がイギリスに伝わってくると、国民のあいだからモズレーの活動に対して疑いの目が向けられ、多くの党員が離れてゆこうとしたため、彼はユダヤ資本家への明らさまな攻撃に転じていった。

それまでの上流社会批判からユダヤ財閥批判に目標を絞ってゆき、国内に亀裂をもたらそうと考えたのである。しかもモズレー自身が、イギリスの上流階級の代表者であったため、資本家同士の利権争いのなかに反ユダヤ主義の言葉が投げ込まれると、ロスチャイルド家の権勢を快く思わない人間たちのあいだで、内部が動揺しはじめた。

それでも政治的な権力を握ることができなかったため、イギリス・ファシスト連合は最後の手段に走った。本家ドイツと手を組み、三六年に「イギリス・ファシスト・ナチス連合」と名を変えると、モズレーが正体を現わした。

三年前に妻シンシアがこの世を去っていたため、その三六年、モズレーは総裁ヒットラー立会いのもとで第二の妻ダイアナと結婚式を挙げたのである。それはロンドンでなく、ベルリンでの出来事だった。

勿論そこには、ヴィニフレート・ワグナーたちが群がっていた。ファシズムはドイツとイタリアと日本だけの専売特許ではなかった。オズワルド・モズレーの存在は、ロスチャイルド家の人びとの胸に大きな衝撃を与えた。

ロスチャイルド家がイギリス国内で築きあげた権勢は、ほとんど非ユダヤ人の上流社会、貴族、王室との閨閥によるものだったからである。こともあろうに、P336モズレーは初婚でシンシア、再婚でダイアナと、この上流社会のど真ん中に風穴をあけるように、大英帝国の王室や政界の中枢に位置する女性を妻としていた。

ここに示す系図31は、ロスチャイルド家そのものであった。ところがそこにユダヤ人絶滅を叫ぶモズレーが立ちあがって、貧しい大衆を味方に動きはめたのである。この系図の重大な意味を、歴史のなかに読み取ると、次のようになる。

ロスチャイルド財閥が資金を蓄えることができた大財源のなかでも、特に南アの貴金属と、インド~香港を中心に交易したアヘンと、アメリカ中西部の穀物は、金の卵を生む三羽のガチョウと言ってよかった。

この総元締めとして動いたのは、南アで帝王セシル・ローズを動かしたソールズベリー首相一族--インドでは総督となり、ヴェルサイユ会議で外相のポストについて世界を動かしたカーゾン卿--アメリカではそのカーゾン卿の義父にあたる世界一の小麦オーナーとなったリーター一族であった。

系図の一番下に示されるように、ファシスト、モズレー卿の第一の妻シンシアは、外相カーゾン卿の娘であった。第二の妻ダイアナの姉妹は、ソールズベリー首相のひ孫と結婚していた。

つまりモズレーがファシズム煽動に使い、鉱山労働者のストライキに投じた金は、ロスチャイルド財閥が鉱山などでかせぎ出した巨万の富だったのである。

実を言えば、この系図は、説明をすれば果てしなくなるため、これでもひどく省略した形のものにしてある。ヒットラー立会いのもとに結婚したダイアナの周囲には、本書で示してきたほとんどすべての家族が結集するヨーロッパ上流社会のエキスが見られ、絢爛豪華たる絵巻がくり広げられる。その身近なシンボルとして、エリザベス女王とケネディー大統領を示したものである。

ところがここに、ロスチャイルド家にとってはそれだけではすまされない話があった。ヒットラーの前で愛を誓ったダイアナの叔父は、マリー・アン・フリートレンダー=フルドという女性と結婚していた。

この女性と同姓同名の人間が、この世に存在した。しかもその夫は、ロドルフ・ゴールドシュミット=ロスチャイルド、言うまでもなくドイツのロスチャイルド本家が消滅するとともに誕生した、"赤い盾"の直系であった。

系図の右上に示したように、ドイツでは"ルドルフ"と呼ばれ、フランスで"ロドルフ"と呼ばれていたため、その同定には苦労を伴ったが、高祖父が金融王ネイサンであり、同一人物であることを確認できた。

(略)

P337ファシスト連合のモズレー卿は、ロスチャイルド一族そのものの内部から"ユダヤ人絶滅"の声をあげ、ロスチャイルド財閥の金を一手に集める姻戚関係のなかで、上流社会に大きな波紋を投げかけたのである。

その調査の過程で、別の重大な事実に行き当たった。これは信じがたい話だが…

ベルリンのフリートレンダー家は、音楽家メンデスゾーンの祖父モーゼスから指導を受け、ユダヤ教の律法学者(ラビ)の世界で一大権威を築きあげたファミリーとして名高い。

またその一族から、メンデルスゾーン家と同じように数々のユダヤ人実業家が生まれ、ロスチャイルド家と結ばれた。メンデルスゾーン家が銀行家として出発したのは、フルド家(フールとも発音される一族)と手を組んだからであったが、こうしてメンデルスゾーンを中心に置いて、フリートレンダー=フルド家が誕生したのであった。

次のように推理してみよう。そのような実業家のひとりフリートレンダーが一女性と結婚し、彼女の連れ子のマクダを養女として可愛がっていた。ユダヤ人実業家フリートレンダーとマクダは大の仲良しになった。ところが一九三一年に、おそろしいことが起こった。養女のマクダがナチスの最高幹部と結婚式を挙げたのである。

相手の名は、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスといった。

系図30をもう一度見ていただきたい。★印の位置にこの人物がいる。そこに述べたフリートレンダーとマクダの物語の最後の部分は、クルト・リースの著書『ゲッベルス』に書かれた実話である。

われわれが調査したファシスト連合モズレー卿の系図と、宣伝相ゲッベルスの系図が、ベルリンのフリートレンダー家によって一枚の図につながるのであろうか。果たして、マクダの黒焦げとなった悲惨な死体は、なにを意味していたのだろうか。

おぞましくも、ロスチャイルド家とゲッベルスが複雑な婚姻関係によって繋縛し合った奇怪な世界、これが当時のヨーロッパ上流社会だとすれば、そこにこそナチズムを金で支える土壌があったに違いない。

これらの婚姻の中心には、いずれも莫大な資産があった。この隠れた史実は、なぜナチスがあれほど大きな力を持ち、ドイツ全土を掌握できたかという謎に答えている。

王者ロスチャイルドがなぜ不覚をとったかという大きな理由の一つに数えてもよいだろう。現代の東西ドイツ統合が安易におこなわれてはならない、という議論が激しくたたかわされた理由がここにある。

P338どう見ても、ユダヤ人虐殺の素地が今日も生き続けている。一九三六年のモズレー卿第二の結婚--それから二年後にドイツ全土に展開したユダヤ人恐怖の"水晶の夜"--さらに翌三九年、第二次世界大戦の勃発--

そこに至る過程の重大事件を選び、年表によって追跡してみれば、アウシュヴィッツへの軌跡は一目瞭然となる。日常、年表を読み取るの骨が折れるが、全体像が頭に入った今では、これほど夥しい事実を提示してくれる興味深い資料はほかにない。

まず、ヨーロッパ最大企業IGファルベンとICIが設立された一九二五年、二六年までをここに整理しておく。そこからユダヤ人狩りの真相について理解を深めるため、改めてこの年表を一覧しておきたい。年表1P338年表2P340

P340 一九二五年四月二六日、イギリスでは、第一次世界大戦前に通貨一ポンドが四・八六ドルの価値を持っていたが、暴落したため、金本位制に戻し、金価格を必要以上に大きくする交換レートを海外に要求した。南アの金塊を握るロスチャイルド財閥は、この機会に世界的に富を膨張させた。
(略)
P341 こうして地球は、簡単な一次方程式では決して解けない、無数の危険な力がそれぞれ勝手に強大になってゆく時代に突入して行った。ナチスとファシスト党だけでなく、ノーベル、クルップ、シュネーデル、ヴィッカース、合同製鋼、IGファルベン、ICI、スターリン、石油産業、航空機産業などが、いずれも人類史上かつてない力を蓄え、そのひとつとして武力を否定するものがなかった。

アメリカの二大財閥ロックフェラー家とモルガン家がこれまた史上例のない富の集中を果たし、軍需産業を育てていた。しかも死の商人ザハロフが、このときまだ生きていたのである。

来るべきものは、彼らの目の前まで静かに近づいていた。ニ七年にリンドバーグの大西洋無着陸横断がパリを狂喜させると、翌二八年にナチスの親衛隊SSが遂に全国組織が完成し、イギリスでは二大兵器会社のヴィッカースとアームストロングが合併、ヴィッカースは航空機のスーパーマリーン社も吸収して、後年"ドイツのメッサーシュミットvsイギリスのスピットファイア"という第二次大戦の空の決戦を演ずる工場を握ってしまった。

ところが二九年十月二十四日、ウォール街を襲った暗黒の木曜日---大暴落によって失業者の波が全米を覆いつくすと、今度は世界経済の崩壊が一夜にして地球を呑み込みはじめた。

ロスチャイルド家がこの年に失ったものは、ドイツ資本を託したディスコント銀行であった。これがドイツ銀行に合併されてしまったのである。さらに進みつつある世界恐慌の波は、三○年の選挙でナチスの大躍進をもたらし、ドイツの金融界を背負って立とうとするシャハトがヒットラーと会見するところまで事態は進んだ。このあとロスチャイルド家が窮地に陥った物語は、金融界の語り草となる。

オーストリア最大の銀行クレディタンシュタルトが取り付け騒ぎにあって三一年に崩壊し、これが全ヨーロッパの銀行に波及して真の恐怖が到来した。そのときクレディタンシュタルトの当主は五代目のルイス・ロスチャイルドであり、直ちに余波を受けて崩壊したドイツのダルムシュタット銀行は、頭取がヤコブ・ゴールドシュミットであった。

実は、第一次大戦によってロスチャイルド銀行そのものは手ひどい打撃を受け、自分が育てたアメリカのモルガンの力を借りて王者の地位を回復したというのが金庫の事情だった。ここにイギリスの金本位制も崩壊してしまうと、ロスチャイルド家は絶体絶命の危機に立たされた。

金融の王者ロスチャイルド、という見地からの解説は、ほぼ以上のような内容が通説となっている。しかしそれは事実であったろうか。

このシナリオは、奇妙に聞こえる。ロスチャイルド家はすでに金融資本家ではなく、とうの昔、一九世紀初頭に世界最大の産業資本家に脱皮していた。ほかの銀行家が世界恐慌のために壊滅してゆくなかで、物を握る工業界が代わって世界の銀行を支配し、莫大な利益をあげていたはずだ。

(P342)

P342 ICIは…ヴィッカースは…デビアスは…アングロ・アメリカンは…リオ・チントは…全世界の植民地と油田は…

具体的に兵器メーカーのヴィッカースの例に取れば、ファシスト連合のモズレーが非難したように、この会社はイギリスの軍事費増大によって莫大な利益を計上し、大恐慌のなかでヴィッカース社に不況の嵐が襲いかかった時でも、その苦境を切り抜けるためにおこなったことと言えば、従業員の首切りであった。会社の幹部が懐にした大金には変わりがなかった。

こうした事態を、歴史の記述では財閥の痛手として記録する風潮があるのは、大きな過ちである

オーストリアで崩壊して世界恐慌の発端となった"伝説のクレディタンシュタルト銀行"は、イギリスとフランスのロスチャイルド家が金貨三千万シリングを送って直ちに復活させ、当主ルイス・ロスチャイルドは相変わらずオーストリアで群を抜く最大の富豪の地位を保っていたのである。

そしてほかの銀行は無数のものが余波を受けて崩壊し、そちらは永遠の崩壊となってしまった。相対的に、この大不況のなかでどれほどロスチャイルド財閥が独占的に頭を持ち上げたか、測り知れないものがあった。

ただしドイツで起こりつつある出来事は、もはや金融と産業の現象ではなかった。ナチス党の機関紙"フェルキッシャー・ベオバハター"すなわち"ドイツ民族の監視人"と称する新聞は、この不況がすべて国際ユダヤ資本の陰謀だとする社説を掲げて、ことあるごとにロスチャイルドをその首謀者として攻撃した。

陰謀説は、ロスチャイルドにとって迷惑千万なものであった。彼らにとって予測もできない社会変化が起こり、そのとき自然に大儲けする仕組みになっていただけだ、と反論したかったわけである。

それに非ユダヤ人で最上流社会の閨閥を持つファシスト、モズレー卿の存在自身が逆証明しているように、ロスチャイルド財閥の系図を編みあげてきた支配階級は、事業の創業者を除けばほとんどが非ユダヤ人であった。

ロスチャイルドが巨大財閥としてのメカニズムを保ってきた秘密こそ、そこにあったからである。権力者に限っての分配、という法則だ。ヨーロッパには大きな問題がある。その問題は、ユダヤ人問題ではない。ユダヤ人と非ユダヤ人とを問わず、上部の階層が一般市民とかけ離れた優雅な生活を送り、その財源がアジア、中東、アフリカ、南米などの侵略地帯から誕生しているということである

しかしヒットラーたちは、そんな面倒な話には触れずに一刀両断、ロスチャイルドに斬りかかってきた。

"ドイツ"対"ロスチャイルドの権勢が大きいイギリス・フランス"という形で植民地の広さを比較すれば、第一次世界大戦はドイツが0ゼロになってしまったので、0ぜロ対無限大となって話にならない。第一次世界大戦前の数字で示すと、イギリス+フランスでドイツの十五倍を超える植民地を支配していた。

"優秀なアーリア民族"がこれではならぬとばかり、日本人と同様、イギリス・フランスへ挑戦をはじめたのである。

(略)

(P344-)

P345 シュレーダー男爵邸の秘密会談(→『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』P34)は、ヒットラーを首相に、パーペンを副首相にするという政治取引を成立させ、会談から二十六日後、ついにヒットラーが念願の首相に座についたのである。シュレーダー男爵の名は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック(tw)』に登場したので多くの読者もご存じのはずだ(tw)。

オーストリアがナチスに併合されながら、その国旗を否定するトラップ大佐が、許嫁の男爵夫人との結婚より、子供たちの家庭教師マリアを選んでスイスのアルプス越えをした第二次世界大戦の実話である。大佐が避けP349た女性とは、ほかならぬシュレーダー男爵夫人であった。

そこに映画以上の物語があったはずだが、マリアは多くを語らぬまま一九八七年にこの世を去っていった。

(P348-         系図32)

P349 一九三三年--映画『怪人マブセ博士』上映禁止
  • 一月三〇日 ヒットラーが首相就任--この首相就任を工業界に呼びかけたヤルマール・シャハトが国立銀行総裁と蔵相に就任し、ナチスの活動の財源を確保
  •  
  • 三月一二日 ハーケンクロイツが国旗として採用される
  • 三月一三日 宣伝省が設立され、ゲッベルスが大臣就任
  • 三月一七日 SSの特別衛兵隊創設される(ゲーリングによるゲシュタポ創設も同年)
  • 三月ニ一日 ドイツ第三帝国の記念日にフルトヴェングラーが国立オペラ座の指揮を引き受ける
  • 三月 IGファルベンのボッシュ社長がヒットラーと会談し、ユダヤ人か学者の追放を行わないよう申し入れたため、ボッシュは社内で権力を失いはじめる
  • 四月一日 ドイツ全土でゲッベルスによる組織的なユダヤ人迫害がはじまる(七日にユダヤ人とユダヤ混血者を公職から追放)
  • 四月八日 カラヤンがナチス入党
  • 五月一〇日 メンデルスゾーンの楽譜などの焚書がはじまる
  • 七月十四日 ナチスが唯一の政党と宣言され、独裁政治が確立
   →『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』P35-(参照)
   →『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』P55-(参照)


一九三四年---映画『ジュリア』の時代
  • 二月六日 フランスでもファシズム扇動でもが起こる
  • 六月十四日 ヒットラーとムッソリーニが初めて会見
  • 六月三〇日 ゲシュタポとSSが大々的な行動を開始し、幹部の血の粛清事件に至る
  • 七月二五日 オーストリアでドルフス首相がナチスに暗殺される
  • 八月二日 ヒンデンブルク大統領が死亡し、"ヒットラー総統"誕生
  • 一〇月二四日 ナチス労働戦線が結成され、ドイツの再軍備が本格化---クルップなどの兵器工場が莫大な利益を計上し、ナチス党の資金も膨張の一途
  • 一一月 イギリス国防部会がドイツとの戦争準備に突入
P350 初めははヒットラーに惚れたドイツ重工業会の指導者たちが、自分たちの誤りに気づいたときはすでに手遅れであった。野獣を野放しにしたため、あらゆる暴力が合法化され、無限の権力を与えられた親衛隊SSの保安防諜部SDは、密告者を町じゅうに走らせ、全国民をスパイ化していった。

ナチスによるユダヤ人迫害について、誰もが異常者に気づいたのである。ナチスが党として結成された初期の段階で、七人の幹部の意見が分かれた。ユダヤ人を排除すべきかどうか評決したところ、四対三のわずか一票差で、ユダヤ人排斥の方針が決定された。

ゲッベルスは、きわめて冷静であった。二十五歳の時にドレスナー(ドレスデン)銀行とケルン株式取引所に勤務していたことがあった。このような金融界をわずかの期間ながらも経験したことが、早くも四年後にはヒットラーとの交流を経て、銀行家の攻撃をはじめたゲッベルスの体質にあった。ゲッベルスが特に激しく攻撃したのは、ダルムシュタット銀行のゴールドシュミットであった。

縁戚関係にあるハイネが指摘した通り、ロスチャイルド家は大金持ちであったため、貧しいものから憎まれていた。その貧しい者のなかに、ゲットーに押し込められたユダヤ人がかなり含まれていた。しかし傑出した金融王として頭角を現したロスチャイルド家をユダヤ人の代表に仕立てあげ、その勢いでユダヤ全体を非難しようとする空気がヨーロッパにみなぎっていた。

ゲッベルスが利用したのは、そのような大衆とロスチャイルドの関係であった。彼の鋭い目は、自ら実行しているユダヤ人迫害に根拠がないことさえ見抜いていたのである。宣伝相は、次のように語っていた。
ロンドン・シティーの金融街を動かすユダヤ人と、ニューヨークのウォール街を動かすユダヤ人と、ロシアのクレムリンに坐っているユダヤ人が、同じ利害のもとに行動するなどあり得ないのだ。それはわれわれの宣伝にすぎないのであって、誰もそんなことを本気で信じてはいまい。
ゲッベルスは、カリガリ博士ヒットラーの催眠術の種を見透かしていながら、同じロスチャイルド家がシティーとウォール街とクレムリンを動かしている関係には気づかず、次々に第三帝国の独裁体制を演出していった。

もうひとつの手でユダヤ人虐殺を指令し、ユダヤ人の財産を没収して私腹を肥やすことが目的であった。ヒットラーの政権確立後、ヴァンゼー湖にある"白鳥の島"と呼ばれる豪華な別荘を自分のものにしたが、本来の所有者はユダヤ人の富豪であった。宣伝のためウーファ映画社を買収したが、この映画界の支配も実は、女優との肉欲につながるものであった。

このような数々の目的を達成するため、興味深い行動に出た。アメリカから特殊な才能を持った男を招いたが、その名をP351アイヴィー・レッドベター・リーと言った。世界の石油王ジョン・D・ロックフェラーの慈善事業などを担当し、PR係としてロックフェラーの悪名をたちまち情愛深い億万長者に変えた宣伝の天才である。しかし流石のリーも、このナチスの行動には大衆の反発を買う要素が強すぎと見て、手を引くこととなった。

ナチスが利用した演出法のなかでも最大の効果を挙げたのが、夜の闇に差し込む光であった。松明の行進、サーチライト、といった道具を巧みに使って、大衆を興奮させたのである。

一九三五年---ジュリア殺される
  • 三月一六日 ドイツがヴェルサイユ条約の軍縮に関する条項を一方的に破棄
  • 六月一八日 イギリスがドイツと海軍協定を結び、ドイツの海軍力をイギリスの三五パーセントにすることを承認(イギリスの譲歩)
  • 九月一五日 ニュールンベルク諸法が発布され、ユダヤ人および"四分の一混血者"の市民権を剥奪、アーリア人との結婚禁止
  • 一〇月三日 イタリアがエチオピアの侵略開始--絶望の時代が到来
ロスチャイルドがこれを静観したわけではなかった。ヒットラーが首相に就任一九三三年の十月十日には、ドイツに住むユダヤ人の婦女子を救済するための財団がイギリス・ロスチャイルド家によって設立され、ユダヤ人の財産を糾合して莫大な資金が集められた。

この具体的な行動として、ロスチャイルド家の美術品を収集するワッズドン館が、ドイツからのユダヤ難民を収容する施設として開放され、子供たちはそこから学校に通うようになった。オーストリアのロスチャイルド家は、財産をスイスとフランスに移しはじめた。

なかでも最大の動きは、死の商人ザハロフの手で進められた。ドイツ実業界への説得をはじめたザハロフは、ついにナチス最大の財源となっていたテュッセンを口説き落とし、ナチスの将来がそれほど明るくないことを理解させた。これが最後の活動となって、死の商人ベージル・ザハロフのもとに死が訪れ、一九三六年十一月二十九日、モンテカルロのホテルで息を引き取った。

テュッセンがスイスへ逃亡したのはそれから三年後、ナチスに捕らえられて強制収容所にぶち込まれたのがさらにそれから二年後、すでに大戦中の一九四一年のことであった。テュッセンの逃亡がドイツ実業界に与えた衝撃は測り知れなかった。ザハロフは、死んでも一個師団の働きをしていたのである。

現代のテュッセン男爵が、ナチス時代の汚名にもかかわらず堂々と美術品のコレクションをしていられるには、なんらかの正当な理由がなければならない。果たしてその答えは、(略)

(P354、アリ=カーン)

P354 アリ=カーンはただのプレイボーイで片付けられる男ではなかった。ボリビアの鉱山王パティーニョと深い関係にあった上流社会の花形エルザ・マックスウェル女史によれば、アリの愛人は何千人もいるため数えられず、それがことごとく

P355 上流社会の婦人や芸能界の花形だったという。シャンソン歌手ジュリエット・グレコによれば、アリと寝なかった女がいるかしら、との話。スポーツカーを駆って世界中を走りまわり、国連大使をつとめた桁違いの大富豪、女にとってこの男に惚れなければ不思議という物語だったが、本人によれば、「なに、連中が俺のことを黒人と呼んで馬鹿にしたから、あいつらの女を全部ものにしたまでよ。これで借りを返したわけだ」

(P356-、1936ドイツ侵攻開始、3月7日ロカルノ条約を無視、ライン河右岸のラインラントに侵攻)

P357 一九三六年---ドイツ進攻開始
  • 一月二〇日 エドワード八世が即位し、世紀の恋が進行
  • 三月七日 ドイツがロカルノ条約を無視してライン河右岸のラインラントに侵攻し、フランス攻撃の準備完了
  • 六月十七日 フランスがこれに対抗して、軍需工場を国有化
  • 七月十七日 スペインでフランコの反乱がはじまる
  • 八月一日 ベルリン・オリンピック開催
  • 八月二六日 イギリスがスエズ運河を軍事支配し、北アフリカが緊迫(アルフレッド・ミルナーP358による侵略作戦)
  • 一〇月六日 イギリス・ファシスト連合のモズレーがヒットラー立ち合いのもとに再婚
  • 一〇月一九日 ナチスの「戦争準備四ヵ年計画」が発表され、投資総額の三分の二をIGファルベンに割り当て---IGファルベンのナチス化なる
  • 一一月二九日 死の商人ザハロフ死去
  • 一二月一〇日 イギリス国王エドワード八世が王位を放棄し、シンプソン夫人と結婚する決意を発表
一九三七年---世界的不況
  • 四月一日 イギリスがインド統治法を実施し、弾圧を強化(すでにラザーズ・ブラザース一族のインド総督がガンジー以下数千人の指導者を逮捕)
  • 七月七日 大日本帝国が盧溝橋事件を仕組み、日華事変(日中戦争)を起こす
  • 九月二五日 ムッソリーニがドイツ訪問、大歓呼に迎えられる
  • 一一月六日 日本・ドイツ・イタリア防共協定が調印され、ファシズム三国の枢軸体制を確立
  •   →1937.11.19 ヒトラー・ハリファックス会談参照
  • 十二月一三日 日本軍による南京大虐殺起こる
一九三八年---世界大戦前夜・水晶の夜
  • 二月四日 ヒットラーが全軍を掌握し、ナチス政権内部の完全独裁を果たす
  • 三月一三日 ドイツ軍が侵入してオーストリアを併合、第一次大戦前のドイツ・オーストリア帝国復活
  • 八月三日 イタリアでユダヤ人迫害の政策が打ち出される(九月二日からユダヤ人に国外退去命令)
  • 九月二九日 ミュンヘン会談が開かれ、チェコスロバキア北部の山岳地帯ズデーデン地方へのドイツ軍の進駐・占領をイギリス・フランスが認める(これによって同国の鉱山利権をドイツが握る可能性を招く)
  • 一一月九日 水晶の夜---ゲッベルスによるドイツ全土でユダヤ人迫害・虐殺が組織的におこなわれる---裕福なユダヤ人およそ三万人を強制収容所へ送る
  • 一一月一二日 ナチスがユダヤ人の財産没収とゲットー収容を決定[ユダヤ人迫害からユダヤ人絶滅へ]
  • 一一月一六日 クルト・ワルトハイム(後年の国連事務総長)がナチスの突撃隊SAに入隊
(略)

(P360)

P361 一か月以上も過ぎてから、ルイスの身柄がウィーンのメトロポール・ホテルに移され、ゲーリングの使いから丁重な申し入れがなされた。チェコスロバキアにロスチャイルド家が所有するヴィトコヴィッツ製鉄所を提供すれば、身柄を直ちに釈放してあげようという取引であった。一九八九年に起こった東ヨーロッパの激動のなかでは、東ドイツとルーマニア、ポーランドのドラマの陰に隠れて、わが国ではそれほど注目されてないが、西ヨーロッパが特に注目する企業は、たとえばハンガリーの電機メーカー「トゥングストラム」や、チェコスロバキアの重機械メーカー「スコダ」である。

前者はかつてアメリカのGE、オランダのフィリップスに次ぐ世界第三位のメーカーであり、後者は一八五九年に設立された名門企業で、クルップ、シュネーデル、ヴィッカースと共に世界的な兵器メーカーであった。(略)

ゲシュタボに捕らえられたルイスは、妻が名門のアウエルスペルク家、弟オイゲンの妻もすでに図解したように名門の元シェーンボルン男爵夫人であり、ウィーン・ロスチャイルド家はハプスブルク王朝時代に属国「チェコ」の大きな利権を握っていた。しかし兵器メーカーのスコダには、ドイツのクルップもかなりの資本を投入し、さらに悪いことに、スコダの一重役がナチスの財政支援者に名を連ねていた。第一次世界大戦直前には、スコダ・グループとダイムラーが合併して戦争に突入したという苦い経験もあった。

次に起こる戦争はユダヤ人絶滅戦争になるのだから、それ以上に深刻な状況が予測された。このうえヴィトコヴィッツ製鉄所をナチスに接収されれば、中央ヨーロッパ最大の鉄と石炭の産地をユダヤ人の敵に渡すことになる。捕らわれの身でありながら、ロスチャイルドはゲーリングの申し出を受け入れなかった。(略)

(P362-、チェンバレンとは、1939.09.01 ドイツポーランド侵攻)(相互参照)

P363 ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。実際には、ドイツ、イタリア、日本は、これよりはるかに前から戦争に踏み切っていた。"一九三九年九月一日"が世界大戦開始の日付けとされるのは、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味していた。

言い換えれば、"ロスチャイルド本家がただ二か所だけ残っているイギリスとフランス"が反撃の行動に移った、それが世界大戦であった。

ドイツとソ連によるポーランドの分割占領がおこなわれ、さらにソ連はフィンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェーを占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、どうもおかしい。変なのである。

開戦したはずのドイツとイギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦争をしないまま八ヵ月もの歳月が過ぎ去っていたのである。後年われわれが強い印象を受けてきた“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツと国境付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景(相互参照)まで報告され、「開戦の初期の段階では、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。

では、どこから両軍が激戦に転じたかと言えば、イギリスの首相がチェンバレンからチャーチルに交代したようやく一九四〇年五月のことであった。ここからが真の世界大戦になる。ナチスに追い詰められたユダヤ人の立場で考えれば、そこまでの“奇妙な疑似戦争”とも言うべき優柔不断な状態を演出したチェンバレン首相は、宣戦布告しながら戦わない意気地なしであったという。

これが今日まで歴史書に記されている内容で、ほとんどの資料が一致して指摘していることだ。一般にあまり認識されていないが、これは新たな光を当てるべき重大な事実である。

つまりヒットラーの手助けをしたのが、イギリスとフランスの首脳であったかもしれないからだ。(略)P364 宣戦布告と休戦状態が両立してよいはずはなかった。この奇々怪々なチェンバレンの言動が、今日まで"ドイツとの宥和政策"として記録されている。

果たして、チェンバレンとは何者だったか…それは宥和政策だったのか…まだ謎である。しかし次のような事実がある。

通称ネヴィル・チェンバレンと呼ばれた首相の正式名は、アーサー・ネヴィル・チェンバレンであった。なぜネヴィルと略したかを考えると、一族に同名の英雄がいたと推測できる。一族が似たような命名をするイギリス人だからである。そこでこれと同姓同名の人物を捜すと、思いがけなくも「東インド会社」の軍隊を指揮したネヴィル・チェンバレンという軍人が、首相の親の代に実在した。しかもこのネヴィル兄弟の四人が揃って東インド会社の傭兵兵士で、うちのひとりは、南アの女性を妻にしていた。

インドから南アへと渡り歩く侵略一族の典型的な例であった。一方、チェンバレン首相のほうも、父親が植民大臣で、かのミルナーを南アに派遣した当人であった。こちらのチェンバレン家は、祖父の代ですでに創業百二十年を誇る商家であったから、ネイサン・ロスチャイルドがイギリスに渡った頃にはすでに老舗となっていた。それは東インド会社を抜きにしては考えられない。

P365 そしてただ、"意外なことに"ではすまされない事実が発見されるのである。インドを荒らしたこのネヴィル・チェンバレンの甥が、有名な反ユダヤ主義者であった。なぜ有名かと言えば、実はもうすでに本書に登場しているが、フランスの代表的な反ユダヤ主義哲学者ゴビノーの弟子として、その人物ヒューストン・チェンバレンの名が重要な閨閥に記されている。アウシュヴィッツで姪が毒殺された音楽家マーラーの伝記『マーラーとヒットラー』(桜井健二書、二見書房)にくわしいが、他の資料でも一致して"問題の男"とされている。

イギリス人でありながらリヒャルト・ワグナーに傾倒し、やがて一九〇八年にバイロイトに移り住みと、そこでワグナーの一人娘エヴァと結婚、自らアーリア人を名乗り、ドイツに帰化したほどの筋金入り反ユダヤ主義者で、かなりの理論かであった。多くのヨーロッパ人がその影響を受けてきた。(略)チェンバレンの一族は、イギリス首相としてはきわめて不自然なことに、植民大臣の息子が首相となり、その兄はノーベル平和賞を受けていながら、兄弟ともに爵位が与えられていない。P366 ロスチャイルド家より古くからイギリスに存在した商家、それがチェンバレン家だったのである。

かれらはヒットラーとの宥和政策を利用して、ヨーロッパ大陸で新興ロスチャイルドのユダヤ人勢力を叩きつぶしたかった。宥和に名を借りたユダヤ人絶滅作戦である。これは一つの仮説である。しかし系譜学者に尋ねれば、そうではない可能性を一パーセントでも見つけることができるであろうか。むしろ逆に、チェンバレンの二家族を一本の実線で結んでくれるであろう。第二次大戦が、八ヵ月間も休戦に近い状態を続けた理由が、これでかなり説明されるからである。当時、ドイツが軍事的に時間をかせぎたかった状況が、その可能性を裏付けている。フランスはどうであったろうか。(略)

シュネーデル社のオーナーは、往時からシュネーデル家・ヴァンデル家(de Wendel--ドヴァンデル、ドワンデルとも発音される一族)は、二つの集団が連動する形でヨーロッパ大陸の兵器ビジネスを巧みに動かしてきた。ノーベル・トラストがそれぞれの国に子会社を作ったのと同じ手法である。ひとつがフランス、しかしひとつがその敵国ドイツ、これが死の商人ヴァンデル・ファミリーの本拠地であった。しかも一族の半数がドイツに住み、なかでも最大の工業地帯ルールが一族の根城となっていた。

ルールの主は、昔も今もクルップとテュッセンであることに変わりはない。こうしてフランスのシュネーデルが特にドイツのテュッセン・グループの一員に加わって兵器を生産していた。当時の両国が、モーパッサンの小説に描かれた時代から長い歳月にわたって敵対し、殺し合ってきた関係を考えれば、信じ難いことであった。なお悪いことに、戦争が避けられないと見たヨーロッパの上流社会は、多くの人間が兵器会社シュネーデルに投資していた。かつて死の商人ザハロフがシュネーデルに莫大な取引をもたらし、フランス政府から勲章を授かった過去が、こうして惡の華を開かせたのである。

宣戦布告をした直後のフランス政府は、国境からわずか百五十キロの距離にあるドイツの工業中枢ルールに全面的な爆撃を仕掛ければ、ナチスを壊滅させることが可能であった。ところが、フランスの工場が報復爆撃されるのをおそれ、同盟国イギリスの空軍に敵国ドイツを爆撃しないよう強く要請したのである。

ただし それは報復をおそれたのでなく、ルール工業地帯への攻撃が、フランスのシュネーデル社にとって自殺行為となるため、不可能だったというのが真相である。その作戦を実施するフランス軍隊の幹部は、軍需産業のなかではあまりに有名な話だが、兵器メーカー「シュネーデル」自身が人選する"当然の権利"を持っていた。

このような状況のもとで、フランス軍はルール地帯のシュネーデル工場を守るため、攻撃を差し控え、ドイツ~フランス国境で両軍がなごやかに語り合う風景が見られることになった。一方はテュッセンやクルップの代表、一方はシュネーデルの代表、それが流れ作業のなかで兵器を生産し、談合しながら軍隊の幹部を育ててきた。そこへ開戦である。

われわれまで、フランスが"人権の国"だという標語に欺かれる必要はない。

宣戦布告とは、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相のジェスチャーであったkもしれない。あるいは、クルップやシュネーデルなどの軍需産業の要請であったかも知れない。それとも本気であ戦うつもりでいた多くの閣僚たちからの圧力を受けて、両首相が追い詰められた可能性もある。これは謎として残しておく。

しかしロスチャイルド家は震えあがっていた。いざユダヤ人問題に火が付くと、それまで利権を真ん中に置いて繭を育てるごとくやわらかくフクラマセテきた上流社会の財閥のメカニズムに鋭い亀裂が走り、ガラスのように砕け散った。一瞬にして、無数の敵が身内から飛び出してくる姿を目にしなければならなかった。ロスチャイルド商会創業以来の事態を迎えたのである。反撃をはじめなければならなかった。チェンバレンを辞任させ、急ぎウィンストンチャーチルの首相就任から。

 →参照 2.6 ロスチャイルド家の反撃 P368-415
 →参照『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』

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