2022年5月25日水曜日

偏愛メモ 『オードリー―リアル・ストーリー』随時更新


プロローグ 子供時代への序奏 P17-20

第一章 家族の秘密 P21-41

第二章 死と隣り合わせの日々 P42-54

第三章 踊るリトル・レディ P55-70

(P50-)

(P60-)

P61一九四七年、オードリーとエラ(相互残照)がイギリスにやってきたとき、P62二人はスーツケース一個と三十五ポンドしか持っていなかった。(略)結局オードリーはマリー・ランバートが身元引受人になってくれたので無事ロンドンに着き、コーチの自宅の一室を借りることになった。(略)

オードリーのバレエのレッスン料を払ったのは、エラ・ファン・ヘームストラの昔からの友人であり彼女を崇拝してやまない人物、ポール・ライケンズ(Paul Rykens)(相互参照)だった。

彼はオランダ人で、オランダの巨大な英国系多国籍企業ユニリーバの総帥を戦前より務め、愛国心が強く、女王が国を脱出したときはそれを追ってイギリスへ付き従い、自分の管理下ににあるビジネス帝国のあらゆる設備・施設をイギリス軍とその連合国軍が自由に利用できるように提供した人物だった。

ポール・ライケンズ(Paul Rykens)は勇気とエネルギーの塊のような男で、子供の頃ポリオにかかって身体に障害が残ったもののそれを乗り越え、今ではエラの後援者になっていた。

そしてオードリーは彼の言うことをよく聞いた。もしオードリーの人生のこの時期、父親代わりがいるとしたら、それはこのポール・ライケンズ(Paul Rykens)だろう。

P63それに彼はエラの住まいがあるロンドン中心部の同じ地区のバークリー・スクエアにアパートメントを持っていたから、それやこれやでロンドンに移って最初の年、オードリーは心丈夫だった。

オードリーは昼も夜も働き詰めだった。十八歳の少女だというのに、ボーイフレンドもいなければパーティーに出かけることもなく、演劇や映画を見に行くこともなかった。

バレエは? もちろんマーゴット・フォンテインたちが歩んだ道に倣ってレッスンを欠かさなかった。しかしこれも仕事だった。彼女はただ「ロンドンにいるだけ」で満足だった。

ロンドンはまだ窮乏生活の真っ只中にあり、食料も衣装も足りず、燃料は配給制、空襲被災地は未だに瓦礫の山だった。戦時下だから耐えねばならぬ、という決意や、数か国もの亡命政府が存在して何となく活気づいていた状況が、まるで電気のスイッチを切るように突然消えてしまったので、前時代的なイギリス人特有のいかめしい空気が疲弊感をともなって街を覆っていた。

しかしオードリーにとってロンドンはチャンスにあふれた街だった。しばらくは新しい平和な世界を探検して失われた幼少期を取り戻そうと決めていた。

このときに思いもよらないことだが、ほんの数年後、彼女はハリウッド映画で、自分自身が一九四〇年代後半にそうであったように世の中のことなどまるで経験のない王女の役を演じることになる。

オードリーがこの数年、ありふれた日常の中で楽しんだことは、王女が首都の街へ出て天真爛漫に小さな冒険をして発見したことと同じだった。(略、私生児を生んだという噂とか…)

P64オードリーはランバート・バレエ・スクールでの授業に全力を注いだが、それでも第二のニネット・ヴァロアやマーゴット・フォンテインにはなれないということは彼女自身にもコーチにもすぐにわかった。

どんな芸術においても、才能があるということと特別なひらめきを授かっているということは、たいした違いではないのだが、致命的だ。熱心に努力するだけではその差を埋めることはできない。

オードリーは、勤勉が必ずしも願いを叶えるとは限らないということを知って落ち込んでしまった。もしスターの素質がないのなら、生涯をかけようとも結局はスターになれずに終わってしまう。

「もしオードリーが諦めないでバレエを続けたいと思ったなら、傑出したバレリーナになったかもしれません」と後にランバート夫人は言っている。相手を傷つけまいとした表現である。「かもしれません」なのである。

オードリーは映画スターになって賞という賞を総なめにしたとき、ほとんどのインタビューでも、自分は「生まれついての」女優ではない、と強調していた。何をするにしても容易ではなかった、死にもの狂いで演じた、と言うのだ。

ランバート・バレエ・スクールに通っていた頃、オードリーの自己批判能力は最も研ぎ澄まされていたが、それはバレエが映画よりもずっと精密な技術を要求する容赦ない芸術だからである。

バレエは「ごまかす」ことができない。

おそらく彼女は当代の一流バレリーナを基準にして自分を量り、自分は頂点に立つことができそうにない、という悲しいけれども現実的な結論に達したのだろう。レッスン料を払う余裕がない、というのはバレエをやめた理由にはならない。

(P64-)

P65ポール・ライケンズ(Paul Rykens)が気前よく援助してくれたはずだからである。オードリーはムーブマンのクラスに出席しながら、別の道を探し始めた。

小売店向けの帽子のカタログでモデルをやった。語学力を生かして旅行会社で事務もやった。それからようやく、ヘイマーケット通りをちょっとそれた所にある、オレンジ通りの粋なナイトクラブ、シロズでダンスの仕事にありつけた。(略)

オードリーはいつも、将来のことなどそんな先まで考えない、と言っていた。これは戦争中の経験から、そうすることが無意味だと学んだからである。

それでもランバート・バレエ・スクールと一緒に研修生の地方巡業に参加するか、ミュージカル・コメディに出演するか、どちらかを選択しなければならなくなったとき、彼女の出した答えは非常な決断だった。永久にバレエとお別れしたのである。

プロデューサーのジャック・ハイルトンは、ブロードウェイのヒットミュージカル『ハイ・バトン・シューズ』をロンドンでプロデュースするために、コーラスラインのオーデションをしていた。

P66オードリーは三千人の応募者から残った十人に入っていた。この優秀な仲間の中にケイ・ケンドールがいたが、後にオードリーはケイの「変人」ぶりを思いだし--当時はこの言い方ではなかったが--

『ティファニーで朝食を(相互参照)』の高級娼婦ホリー・ゴライトリーの役を打診されたとき、最初は躊躇したものの、彼女のおかげで結局は引き受けることにした、と白状している。

「ケイには当時すでに、何か文句を言おうにも絶対言わせないようなすごみがありました」

オードリーもケイも意気軒高、手足が長く、楽しいことが好きでプロ意識も高いので、意外に手の込んだジェローム・ロビンス(参照1234)の振り付けも十分こなした。二人はマック・セネット式に浜辺のテントと休憩所をいつまでもドタバタ出たり入ったりする水着美人として登場しなければならなかった。

コメディの出し物には、バレエと同じ精神的張り、タイミングそして統制が必要だった。出演料は週に八ポンドほどで、新参者には申し分なかった。出演料の一部は発声レッスンの費用に充てた。

オードリー・ヘップバーンが身に付けた英語のアクセントは、つねに論議の的になってきた。彼女の発音は、ヴィヴィアン・リーからデボラ・カーに至るまでのロンドンの舞台女優とは似ても似つかないものだった。

ヴィヴィアン・リーたちのサウス・ケンジントン風のイントネーションは上流中産階級のご婦人方の象徴となり、年齢までわかるものだったのだ(そういう舞台女優も、アメリカ映画に出てイギリス風の上品さ失ってしまうと、映画女優としてずっと映えた)。

オードリーは大陸で育ったので、イギリスの階級制度のどれにも当てはまらない「上質な」イントネーションを身に付けていた。アメリカ人に耳には、どちらかというと、「ちょっと違った」英語を話しているように聞こえたが、声の音質は身分や階級でなく彼女の本質を伝えていた。

この時期、確かに彼女の小さな声は舞台で通用する大きな声に変わらなければならなかった。そこで彼女は、ウェスト・エンド・シアターの俳優の中で最も正確にリズムを刻む発声ができるフェリックス・エイルマーの指導を受けることした。

彼はオードリーの声の魅力を損なうことなく半音上げる指導をした。しかし発声レッスンは、俳優養成学校へ通ったり音域を広げたりするのとは異なる。オードリーは「上達しない」ままだったが、長い間仕事上の支障は生じなかった。

彼女には個性があった。他の人なら技術で補うが、彼女にはその必要はなかった。

『ハイ・バトン・シューズ』が成功のうちに幕を閉じる前に、P67オードリーはミュージカル・レヴュー『ソース・タルタル』で役をもらっていた。

彼女の役は男女六人ずつで構成されるダンスチームの一人で、モイラ・リスター、クロード・ハルバート、そしてロナルド・フランカウといった軽妙なノリのコメディアンが出演する風刺の利いた寸劇をダンス曲でつないでいく、というものだった。

そして出演料は週十ポンド(五十ドル)にまで上がった。

ところでこの役を受けたとこで、これまで当然のように考えられてきた女性の脚線美や胸のふくらみがオードリーにはない、ということが初めて、そしてこのときを最後にして皆の関心を呼んだ。

そこでソックスを使って何とかその場をしのぐことにした。ボールのように丸めたソックスを胸のあたりに入れて、いかにもふくよかに見えるようにしたのだ。後にオードリーはビリー・ワイルダーに、「豊かな胸を誇ることを過去の遺物にしてしまう女の子」とぶっきらぼうに言わせることになる。好意的な表現だった。

『ソース・タルタル』をプロデュースしていた興行師セシル・ランドーは、美人を見つける臭覚を持っていた。彼はソックスがあってもなくてもオードリーが気に入ったのだが、オードリーにしてみるとこれは心配の種だった。

彼女はこのとき十九歳ぐらいで、このプロダクションから降りることはないにしても、セシル・ランドーがオードリーの機嫌をとろうと寄ってくるのを何とかしなければならなかったのだ。

彼女は粋に決めた派手な興行師は好きでなかったが、現実を考えると、自分さえしっかりしていればショーの世界に身を置くことの方が楽だとわかっていた。リハーサル中、ランドーは口やかましく女の子たちを指導し、街へ出ると仲間でよく飲み騒いだ。

「いろんなところへ顔を出せよ」。彼はオードリーに指図したが、それはランドーがオードリーにと一緒にそこらへ出かける、ということだった。

そうして二人はアイビーやサボイホテルで一緒に昼食をとったりもしたが、そういうショー・ビジネス風に顔を売って歩くのはオードリーの好みではなかった。もちろん彼の側に自惚れもずいぶんあったが、後見してくれたからこそ、周囲の客からも注目されたし、実際、仕事の面でも業界の関心を引くことができた。

ランドーは社交界を専門に撮る写真家アントニー・ポーシャンのもとにオードリーを送り込み、「タトラー」誌と「バイスタンダー」誌の二誌に彼女の写真を掲載させた。これは役に立ったが、ランドーが次に打った手はさらに効果があった。

一九四年五月に『ソース・タルタル』が幕を開けると、シュールレアリズムの写真で評判になったアンガス・マクビーンがオードリーの可能性に目をつけた。

P68ランドーは待ってましたとばかりに彼女がモデルになることに同意した。仕事は「お肌の元気」を促すラクト・カラマイン保湿クリームの宣伝用モデルだった。

ランドーには二十五ポンド(七十ドル)が支払われ、オードリーは半日の仕事で四ポンド(十一ドル二〇セント)を受けとった。
「私は何を着るのかしら?」オードリーはマクビーンに尋ねた。

「何も」それを聞いたオードリーは後ずさりした。

「私、脱がないわ」

「そこで僕は彼女を砂の中に立たせることにしました」
出来上がった作品では、肩だけ素肌を見せるように砂を回りに盛ってうまく薄い胸を隠し、前髪を長く垂らしたオードリーがこちらをじっと見ていた。大きくて穏やかな表情の目、くっきりした眉、そして頬骨の高い顔など、すでに未来のスターの顔つきである。

そして砂に埋もれる彼女の近くにはオベリスクが二つ立って遠近感を歪め、まるでオードリーが完璧な保存状態のスフィンクスになったかのような中近東の雰囲気をほのかに漂わせた作品となった。

ランドーは『ソース・タルタル』の興行中もオードリーを遊ばせていなかった。オードリーの話によると、「ある日ランドーが、もっと稼ぎたいならキャバレー・ショーがあるぞ、と言いました。

それで夜の十一時半頃に『ソース・タルタル』が終わると、夜中にまたシロズに戻ってメーキャップをして、ショーを二つこなしました。全部ダンスです。最初のショーで十一ポンド(三十一ドル)、次のショーで二十ポンド(五十六ドル)を稼ぎました。

つまり週に十のショーをこなして百五十ポンド(四百二十ドル)以上稼いでいたというわけです。完全にどうかしていましたね」。

しかし彼のおかげで経済的な余裕も生まれた。

クリスマスになると、ランドーは子供用のショーを始めることにした。

「私がシロズから戻るのが午前二時、それから眠って、起きたら十時のリハーサルに向かいます。あの時はやる気満々だったので、チャンスはひとつも逃さないようにしていました。勉強もしたかったし、人前にも立ちたかったです」。

クリスマス・ショーは、妖精役のオードリーが魔法のスティックを振って幕が開くもので、マチネーも週に八回あった。「私の声はピッチがとても高くなったので、まるで空へ飛び上がってしまいそうに聞こえるよ、と母は言っていました」。この状態は、一九五〇年の新年が明けるまで五週間も続いた。

この頃オードリーは、少なくともランドーと出かけるときには、ちょっと魅力はあるがおばかさんでどうしようもない女、P69というケイ・ケンドールに似た雰囲気を出すようになっていたようである。おそらく雇い主ランドーとこれ以上深い関係にならないように気をつけていたのだろう。

『ソース・タルタル』の続編『ソース・ピカント』は、一九五〇年の半ばに幕を開けた。共演者にコメディアンのボブ・モンクハウスがいた。彼はオードリーについて、取り立ててダンスが上手いわけではない、という印象を持ったという。

いまにもオードリーらしいが、自分の才能について彼女は自嘲気味にそれを認めている。「私はただ腕を振り上げて笑うだけ。けれどもどういうわけか新聞で取り上げられました。他の人にしてみればずいぶん不公平な話でした」。

新聞の批評欄に取り上げられたおかげで、オードリーは生意気なフランス人ウェイトレスの役をもらい、寸劇に出ることになった。そしてケイ・ケンドールのように、彼女の個性は観客に受けた。

「イヴニング・スタンダード」紙の演劇評論家ミルトン・シャルマンにしてみると、「オードリーは自分で楽しんでいるように見える」のだと言う。それに人に楽しませてもらっているのだとも言う。職業意識が出てくるまでにはしばらく時間がかかるだろう。当面は個性だけで十分だった

オードリーは恋もした。ランドーではなく、ショーで知り合った若いフランス人歌手マルセル・ル・ボンである。この恋はオードリーに新しい自信が芽生えた証拠だが、軽はずみだったと言ってもいい。

ランドーは腹を立て、契約時に「結婚禁止」の条項が入っていたんだぞ、ダンサーの女の子たちに言い立てた。このときショーは夏の熱波の影響で苦境にあり、オードリーには商品価値があるので、彼女なしではショーは成り立たなかった。

しかしランドーのオードリーに対する態度はがらりと変わってしまった。十四年ほどたってから、ハリウッドのコラムニストであるヘッダ・ホッパーがモンテレーのジャック・オルファントという人から手紙を受け取った。
「『ソース・ピカント』というロンドンの落ち目のショー」にアメリカの「けばけばしさ」を少しばかり吹き込むためにロンドンに連れて行かれた、という。

彼の説明からはオードリーと興行主の突然の不和が読み取れる。その手紙は次のような内容だった。 私が劇場に着いたのはリハーサルの最中で、ラインガールたちがセシル・ランドーの批判的な視線と言葉にさらされて、お決まりのステップをおさらいしているときでした。私は特に目を引く美しい人に気づきました。

そしてその貴族の雰囲気をもつお嬢さんに視線をおいたまま、私はプロデューサーに声をかけました。「あの、左から三番目の子、いくつかお高くとまった雑誌の表紙で見たかも--あれは彼女だよ!」

ところがセシルは冷めていました。私の方に身体を寄せてきて首を横に振り、あっさりと言いました。「そうだな、かわいいよ。でもおつむが足りない」。それがオードリー・ヘップバーンだったのです。
しかしもうこの頃になると、オードリーはセシル・ランドーの後見を必要としなくなっていた。彼女は第二幕、映画の世界に足を踏み入れようとしていた。

第四章 世界で一番大切なアドバイス P71-84

P71その配役は目立たないものだった。批評家が問題にもしない程度の映画だったから、彼女の後のキャリアを考えると、それでよかったのかもしれない。『若気のいたり』は、オードリーが初めてイギリスで出演した映画であり、その最後のひとつになるものだった。

イギリスの映画ファンはずっとオードリーをイギリスのスターだと思ってきた。しかし一九五〇年の『若気のいたり』に始まり、『天国の笑い声』、『若妻物語』と続き、一九五二年の『秘密の人々』(邦題『初恋』)に至るまでの二年で、彼女のイギリス映画界でのキャリアは自然消滅した。

彼女は二度とイギリスの仕事をせず、イギリスに住まなかった。そして市民権を保証するパスポートを持っていたにもかかわらず、自分を「イギリス人」だとはまったく思っていなかった。というよりも、特定の国籍にこだわっていなかった。

失敗する運命にあった『ソース・ピカント』に出ているときに、オードリーはボブ・モンクハウスにほんの一言漏らしたことがあった。国籍をどう考えているのか--自分はイギリス人ではない、と言っているようなものだった。

「私は半分アイルランド人で半分はオランダ人、それでベルギー生まれなの。犬にたとえれば、とんでもない雑種よ」

「半分アイルランド人」とは父親の母国を匂わせた言い方だった。一八八〇年代、ジョゼフ・ペップバーン=ラストン(相互参照)が生まれた頃、アイルランドはアイルランド共和国として独立しておらず、まだ、イギリスの一部だった。

戦争中オードリーの父親が耐えてきたイギリス当局の厳しい扱いについては、もうオードリーも知っていたはずだが、それを考えると、オードリーが自分をイギリス人ではなくアイルランド人だと言い、父親の側に立っているのもうなずける。

ヘップバーン=ラストンはイギリスでの抑留生活を終えると、すぐにアイルランド共和国へ移住している。そこで何をしたか、どのように過ごしたか、そもそもどこに住んでいたかなど、オードリーはこのとき何も知らなかったはずである。

彼は、自分の名前の少なくとも半分を有名にしてくれる娘と連絡をとろうとしているが、それについては後ほどお話ししよう。オードリーが父親のことをいろいろと知るようになる日はやがて訪れるが、P72それはまだまだ当分先のことだった。

そうこうしている間、彼女は様々な映画で端役をもらった。舞台の仕事は安定していなかったので、端役でも嬉しかった。

やはり半分オランダ人でジョン・マカラムの妻、すでに女優としての確かな地位を固めていたグーギー・ウィザーズが『ソース・ピカント』を観ていて、リネット・アンド・ダンフィーという一流の劇場エージェントにオードリーを推薦したのだった。

これをきっかけにオードリーは『若気のいたり』でホテルのフロント係の役をもらうことができたのだが、はにかんだ「やんちゃ風の」顔が、とりすましたイギリスの映像検閲官の目に恥じらいのない表情に映ったらしい。

オードリーのシーンはすでに十分短いものだったが、検閲でいい加減な道徳観を押し付けられてカットされ、さらに短くなってしまった(clipfull)。

彼女に関心を持ったのはジョン・レドウェイだった。彼はジョン・アンド・ロイ・ボルティングの配役担当責任者で、『Fame is the Spur』や『ブライトン・ロック』などのような映画で、戦後の映画界を再構築しようとしていた。

後にジョン・ボルティングは残念がってこう言った。「私たちはオードリーをテストしましたが、どの角度から撮ってもどうもカメラ写りがよくない。顔の造りが問題でした。大きすぎる目、横に広がりすぎる口、小さすぎる鼻。

レドウェイはひどく落ち込みました。彼にも言ったのですが、彼女はとんでもない変わり種のようでした」(ボルディング兄弟が後悔したことは言うまでもない。レドウェイは何年か後、ピーター・セラーズというもう一人の「掘り出し物」を連れて来た。このときには二人とも慎重にテストしたという)。

オードリーは舞台への足がかりを放棄したわけではなかった。セシル・ランドーは『ソース・ピカント』での損失を埋め合わせようと躍起になり、寸劇などの出し物を準備して、一九五〇年の夏の終わりに「キャバレー・ショー」の巡業を始めようと計画していた。

そしてその投資を無駄にしないために、オードリーの恋人マルセル・ル・ボンを新しい興行の片腕として繋ぎとめることにも甘んじたのである。ル・ボンとオードリーは恋愛関係にあり、二人が一緒に巡業に出る見通しが立つと、オードリーは新しい映画でもっと重要な役を打診されたにもかかわらず、断ってしまった。

それは『天国の笑い声』の主役だった。ここでまた過去との奇妙なつながりに気付く。この映画の英国系イタリア人監督マリオ・ザンピは、ヘップバーン=ラストンと同じくマン島に収容されていたのである。

もっとも二人が顔を合わせたという証拠はない。P73(略)さてランドーの巡業は御破算になった。マルセル・ル・ボンはパリに戻り、オードリーはザンピのもとへ戻って、断ってしまった役をまたやらせてもらえるかどうか聞いてみた。

監督はびっくりした。彼は『ソース・ピカント』に出ていたオードリーを見て、遺言で相続人になった面々が遺産を手にする条件を満たそうと四苦八苦するという自分のコメディーには、可笑しさを表すスマートなセンスのある役者にぴったりだ、と思っていたのだ。

それなのに…もう遅い。主役はすでに決まっていた。そこでふとザンピは思いついた。オードリーにやらせてもいい役がもうひとつある。大きい役ではないが、オードリーはお気に入りだ。

スクリーンタイムを倍にしよう。それはタバコ売りの娘で、出番はたっぷり二十秒あった(clipfull)。オードリーについては何の批評もなかったが、最後に笑ったのはザンピだった。

「彼女はいつか大物すたーになるだろう」。一九五一年一月号の映画週刊誌「シネマ」に、そう語ったと掲載されている。

こうして不運なスタートを切ったオードリーの次の作品は『若妻物語』だった。これは冗談にもならない出来の悪いコメディで、戦後のイギリスの住宅難を扱ったものだった。

オードリーは下宿屋に住む独身の女の子の役だが、この下宿屋には二組の夫婦がいて、これがまたすぐに相手の夫婦の邪魔をしたり、それぞれの寝室に隙あらばもぐりこもうとしたりという、とんでもない輩だった。

オードリーが有名になってからこの『若妻物語』がアメリカで公開されたことがあったが、さぞや穴があったら入りたいと思ったことだろう。しかし批評家は「あのかわいいオードリー・ヘップバーンが」としか言わず、親切にもそれ以上は論評しなかった(clipfull)。

幸いにもオードリーが手にしそこなった役もあった。その中には『レディ・ゴダイヴァふたたび馬に乗る』のタイトル・ロールがあった。美人コンテストで優勝、チャームスクールでスターの卵、それから最後にはストリップの女王--オードリー・ヘップバーンにうってつけの役と言っていいものかどうか。

また、MGMがローマで製作していた『クォ・ヴァディス』のオーデションでは、かつて発声指導を受けたフェリックス・エイルマーが責任をもってオードリーを合格させるはずだったのだが、これはデボラ・カーに決まった。

後にマーヴィン・ルロイ監督は、どうしてオードリー・ヘップバーンを不採用にしたかを、P74うんざりするほど何度も説明することになる。「当時オードリーには経験が不足していたから」。これは言い訳だった。

これに対しウィリアム・ワイラーはかつて次のように応じている。「『ローマの休日(tw)』を撮ったときにも、彼女はたいした経験はなかったが」

少なくとも配役を決める側は彼女の才能に十分気づいていた。足りなかったのは運だけだった。一九五一年の年明けには一日だけの仕事で『ラヴェンダー・ヒル一味』に出演している。

ここでもタバコ売りの役で、外国の枠なレストランで誘惑するようにアレック・ギネス(相互参照)に近づき(タバコはいかが?」)、サービスの見返りにそっとチップを渡される、という役である(clipfull)。

映画の最後になって初めて、金塊泥棒のギネスが逮捕されているということ、「レストラン」だと思われたところが実は空港のラウンジで、ここで国外追放の瞬間を待っているということがわかる。

このイーリング・スタジオ製作のコメディをプロデュースしたマイケル・バルコンは「セクシーに見える女の子」を探していた。その子がギネスに色目を使うシーンを見れば、おとなしくて小柄なスーツ姿の堅物サラリーマンが大金を盗むことでどれほど変わってしまったかがわかる、と思ったのだ。

そうしてオードリーの「鹿のような細身」がバルコンの目に留まった、というわけである。後にバルコンもオードリーと映画の契約を結ばなかったことを恥ずかしげもなく後悔することになる。しかしすでに鋭い眼目の持ち主が契約に向けて動き出していた。

アソシエーテッド・ブリティッシュ映画社の配役担当責任者ローバート・レナードである。アソシエーテッド・ブリティッシュ映画社はイギリスの大手映画製作会社で、親会社は映画を配給し、上映する映画館も経営している。

レナードはシロズと『ソース・ピカント』に出ていたオードリーにすでに目をつけていた。最後はスタジオの映写室で『ラヴェンダー・ヒル一味』のラッシュを見て、そこで彼女が恐る恐る歩く様子を見てから、英仏共同製作の『われらはモンテカルロへ行く(clipfromyoutubeclipfromyoutube)』の出演契約を結んだ。

これはその夏にモナコとコート・ダジュールで製作に入ることになっていたが、オードリーが流暢にフランス語を話すので、英語とフランス語二つのバージョンを同時に撮影するの都合がよい、と考えたのだろう。オードリーは、というと、配給制ではない食料と日光という言語以外の魅力に釣られた。

次にレナードは長期契約という賭けに出た。彼はアソシエーテッド・ブリティッシュを説得し、最初は週十二ポンド(三十三ドル六十セント)、年に一本の出演を保証、P75さらに舞台の仕事も続けてよい、という条件でオードリーと三年の契約を結んだ。

当時のスターの卵としては標準的な条件だったが、これは失敗だった。オードリー・ヘップバーンにとってはこれ以上ないほど高くつく契約になった。

レナードがその時期にオードリーと契約した理由は、彼女の才能は当然のことながら、会社が一流プロダクションとして製作にかかろうとしていた映画にすぐにでも使いたかったからである。

『秘密の人々』はさかのぼること四年前の一九四七年頃に、ソロルド・ディキンソン監督と、彼の共同脚本家でイギリスの小説家ジョイス・ケアリーの手によって、すでに企画ができていた。

この作品は戦後のイギリスを舞台にヨーロッパの亡命者を扱った政治色の濃いスリラーで、この亡命者がバルカン半島のある国の独裁者を暗殺する陰謀に巻き込まれる、というストーリーだった。

ディキンソンとプロデューサーのシドニー・コールは、ロンドンの夕刊紙でプレスエージェントが出したオードリーの写真を見てから、『ソース・ピカント』に出ている彼女を実際に見に行き、それ以来オードリーを陰謀の首謀者と恋に落ちて破滅させられる女性の妹役にしたいと思っていた。

ところが最後の最後になって、会社は経営する臆病でケチでおまけに狭量なスコットランド人の重役たちが、この作品は興行的に失敗する、政治色が濃いし、小難しい、異質だ、と企画の取りやめを決定してしまったのである。

このときオードリーは、一度はまった罠に気づいてもよかったはずである。彼女を契約で縛った側はスター養成どころか、用心深いカネの亡者にすぎなかった。他人に危険を冒させてそこから利益を得るだけである。

この先何年か、アソシエーテッド・ブリティッシュにとってオードリーは、たなぼたの金の卵となり、彼女の獲得のために指一本動かすことなく、会社のバランスシートを黒字にしていくことになる。

望まれぬ孤児となった『秘密の人々(参照)』は、マイケル・バルコンが自分のイーリング・スタジオに受け入れて初めて軌道に乗り始めた。イーリング・スタジオから生み出されるコメディは、どちらかというと代わり映えせず、つまらないものになってきていた。

彼はこの作品の持つ「深刻な」テーマが新しい血となって活力をもたらすかもしれない、と期待したのである。撮影開始は一九五一年春の予定だった。一九五〇年十月三十日、ソロルド・ディキンソンは亡命者の妹ノラ役としてオードリーの面接をしたが、オードリーはすでにこの役を知っていた。

『秘密の人々』の製作現場は彼女がほんの少し顔を見せた『ラヴェンダー・ヒル一味』のセットの隣にあり、P76彼女はバルコンのスタッフに「私の出番はないかしら」と探りを入れていたのである。

リンゼイ・アンダーソンの記憶では「彼女はやる気満々だった」。彼は『孤独の報酬』や『もしも…』などの映画を撮ることになる未来の監督で、このときは『秘密の人々』の製作過程を記録した本を執筆していた。

まさかオードリーがここまで成功の二文字に魅せられて突っ走っているとは想像できまい。かつてバレエの練習に長い年月をかけさせた強い意志が、今度は女優としてのキャリアの原動力となっていた。

オードリーは何よりもまず成功したかった

「オードリーは『女優』として人の記憶に留まるところまでいってなかった」とアンダーソンは書いている。

「このときまでに彼女がもらっていた役は端役なので、彼女の計り知れない才能はその片鱗さえも見えなかった。とにかく、ソロルドが欲しかったのは彼女のダンサーとしての才能であり、それが彼女の『活力』だと言っていた」。

問題はオードリーの身長だった。ディキンソンは、オードリーの背が高すぎてノラと姉が上手く釣り合わない、と感じていた。姉の配役はイタリア人の女優レア・バドヴァーニの予定だった。

面接でまず最初に、オードリーを製作室の壁に立たせて身長を計った。確かに高い。ところが十二月を前にバドヴァーニが契約上の衝突から降板してしまった。オードリーの余計な数インチは、一九五一年二月初旬に契約したヴァレンティナ・コルテーゼとならまだ何とかなりそうだった。

(二十五年後、オードリーはイーリング・スタジオを訪れたとき、製作室の壁に自分の身長を計った鉛筆書きの跡を見つける。そこは彼女が面接で身長を計ったときから、一度も塗りなおしていなかったのだ。まさにバルコンの気質とこの映画の予算にぴったちの倹約の精神である)。

一九五一年二月十五日、ノラ役のカメラテストがイーリング・スタジオともう一人の女優がその役を巡って競うことになった。課題はダンスとセリフのシーンである。ダンスシーンの責任者はランバート夫人の元同僚で、これはオードリーにとって有利に思われた。

ところがこの女性は、かつての教え子が役を勝ち取るのを見たい一心で手を出しすぎてしまう。セリフのテストの最中に手で「合図を出したり」オードリーの「応援をしてまわったり」。つには第一助監督のスパイク・プリゲンが黙っていられず、全権を握る映画組合に、この女性は、「次にはランプで合図するだろう」と、厳しい報告をするに至った。オードリーの出来は散々だった。

判定でオードリーに軍配が上がったのは、将来最強の武器となる彼女の魅力のおかげだった。ライバルの演技は「上手」だが、P77アンダーソンが当時つけていた日記によると、「どうしてだろう、その子の目は出しゃばった感じがする。経験があります、と言わんばかりだ」。

オードリーの目はそれとは対照的に、是非その役をやりたい、と思っているような無垢の光があった。

二月二十三日、彼女は再びスタジオに呼ばれた。まだ確実にノラ役に決まったわけではなく、もう一人のプロのダンサーでもある女優と再びダンスおよびセリフののテストを受けた。

今回は運が味方した。オードリーについてかなり熱心なやりとりががあったのだろう、ヴァレンティナ・コルテーゼはその夜、映画の撮影に入る前にちょっとイタリアへ帰国しようと思っていたのだが、わざわざオードリーとそのシーンを演じることにした。

この細かくて活力にあふれる女の子を見た瞬間、コルテーゼは言った。「とっくにあなたに決めていてもよかったのにね」「背が高すぎたからなのです」とオードリーは答えた。

「ばかばかしい!靴を脱いでごらんなさい。私が爪先立ちになって撮ればいいでしょ」

短いテストシーンがはじまった。興奮したノラが飛び込んできて、ガーデンパーティで踊ることになったのよ、と姉に話す。そして、オーデションを受けなければいけないの、とさらにセリフが続く。ガーデンパーティは独裁者暗殺計画が実行される場所、という設定である。

オードリーがテストでそっくり味わったスリルや緊張感は、彼女がこの重要なシーンで感じたこととぴったり合っていた。「…通し稽古のあと、みんな互いに目配せをしていた。オードリーには申し分のない才能がある。もう一回リハーサルをしたが、これ以上のテストは時間の無駄のようだ」とアンダーソンは書いている。

シドニー・コールも同様の証言をしている。「ソロルドは『テストの必要があるのか?もうわかったじゃないか』と言ってきました」。三日後、すべてが決まった。「ノラ役にオードリー・ヘップバーン」。一九五一年二月二十六日、撮影業務日誌にアンダーソンはこう記入した。

オードリーのキャリアの始まりである。

オードリーがスクリーン・テストで踊ったのはバレエのほんの触りで、たいしたことはなかった。誰の目にも、相手役の男性よりも上手に映った。ところが三月十五日に予定されていた本番の前に、彼女は映画で実際の相手役になるダンサーに会った。

ジョン・フィールドというそのダンサーはオードリーよりも数ランク上だった。振付師が私を限界まで試そうとしている、とオードリーはようやく気づいた。カメラマンの要求に応じて繰り返し踊らされるオードリーはあっという間に疲れてしまった。

(略、『秘密の人々』撮影の話)

P81オードリーにとって初めての大事な映画は、つぎ込んだ資金に見合わず、まったく期待はずれに終わった。製作にじっくり手間をかけ、戦後のイギリス国民の生活や街の様子を細部まで描写して、価値のある作品に仕上がったにもかかわらず、『秘密の人々』は欠点の目立つ出来の悪い映画となった。

ヴァレンティナ・コルテーゼが検察側に寝返って密告者になり、爆弾テロの計画に彼女を引き入れた愛国主義者を裏切ったとたんに、観客の共感を得ることができなくなったのである。

これは致命的だった。道徳観が強く、明確な意識をもった平和主義者であるディキンソンにも失敗の責任があった。この映画が発するメッセージはおそらく「独裁者への抵抗は神への服従」であるが、服従も自分の恋人や友人を売るようになると、ドラマにおける道徳観が台無しになってしまうのである。

そしてコルテーゼの役が観客の共感を失うと、オードリーが演ずるノラも信用できなくなった。姉の死に責任があると思われる人たちがなおも自分をその陰謀に巻き込んでいくのを甘受するノラが、ただの無知で無垢なお嬢さんにしか見えないのだ。

ノラに政治意識を強く持たせるきっかけとなる場面は描かれなかった。気の毒な話である。もしそういう場面があったらオードリーがその場面をどのように演じたか、実に興味深い。

そういう事情があったが、コルテーゼやレジャンニのような熟練の経験豊かなスタート比較されるので、オードリーにとっては得るものが多かった。当時ヨーロッパの映画界で流行し、やがて衰退するロマン主義の手法で二人が演じる一方、オードリーは荒削りで新鮮、ずっと自然な演技を見せた。

P82オードリーは後にマスコミ嫌いになるが、この当時マスコミはすでに彼女に注目していた。ソロルド・ディキンソンはバルコンを説得して、彼女をアソシエーテッド・ブリティッシュ映画社の契約から買い取らせようとしていた。

ところがバルコンはスター女優の卵に関する限り、手際が悪かった。イーリング・スタジオで製作したコメディとバルコンがプロデュースした他のほとんどの映画は、実質的にはすべて男っぽい勇ましい作品に偏っているが、それは契約を結んでいる男優の方が安心して任せられると思っていたからだ。

しかしオードリーには、撮影が終わらないうちからインタビューや写真撮影の予約を入れていた。発行部数の多い週刊誌「イラストレイテッド」はオードリーをさっさとサウスダウンズの田園地方へ連れて行き、彼女が村の池でアヒルに餌をやったり、海で泳いだり、大空に向かって大きく伸びをしたりする様子を写真に撮った。

彼女はこういうのが嫌いだった。「映画とどういう関係があるのというの?」しかしこれも仕事だった。

オードリーはまだこの世界に入ったばかりだったが、不安を抱いていた。しかしそれは自分がどんな風に映るだろうか、照明が上手く当たるだろうか、はたまたおもったように、など、スター街道を歩き始めた者が抱く当たり前の不安ではなかった。

そういうものは自然と後からついてくるものだからだ。オードリーが気にしていたことはまったく別のことだった。自分は本当に世間の注目を得たのだろうか?「[世間に]堂々と見せられるものが手に入るまで待たせてほしいのです。

私が初めて映画で演じたものをようやく見てくれたはいいけれども、そうしたら期待はずれだった、と思われるようでは嫌だわ」と彼女はディキンソンに言ったという。

このような仕事に対する過剰な懸念、そして前評判が高すぎて実力が過大評価されたら「世間は私に飽きてしまうかもしれない」という恐れは、これから先ずっと繰り返し彼女を悩ませることになる。

「私のことまで『様』付けして呼んだ」とある日刊紙の記者がコラムで書いている。修行中とはいえスターが誰かを名指しするときにそのように呼ぶのは、一般にはないことである。しかしオードリーの育ちを考えれば当然のことだった。

マスコミはどうしてもオードリーの「プライベートな」生活を探りたいと思っていた。そしてオードリーの側にはすでに人には話したくないことがあった。ボーイフレンドである。

街で彼女をエスコートしているハンサムな若い男性を見かけたが、彼女とはどういう関係なのだろう?マスコミは知りたがった。

彼の名はジェイムズまたはジミー。未来のハンソン卿となる彼はまもなく三十歳になる上品で洗練された男性で、トラック運送業で財を成したイングランド北部の財閥の息子であり後継者だった(相参1相参2)。

風貌は当時大人気のマイケル・ワイルディングに似て、仕立ての良い服を着、顔は細長くてイギリス人らしく、洗練されたマナーで、おっとりした笑顔を振りまいていた。

出自は確かで、戦時中は射撃連隊の士官、野外スポーツの愛好者、ナイトクラブには頻繁に出入りし、カメラマンのレンズを捕らえて離さないような美人をエスコートする。その美人も最近は互いに引き立て役といった感じだった。

ハンソンはすでにジーン・シモンズをエスコートしているところを写真に撮られていたが、ジーンとは婚約していない、と否定しなければならないときもあった。

彼がオードリーとあったのは、シロズで踊っているオードリーを見た後のパーティーの席上だった。ハンソン・トラストの資産家社長の元同僚によると、「ジミー・ハンソンは一方で堅物のビジネスマンでした。

しかし当時はショービジネスに惹かれていました。家族はそろって結婚を奨め、落ち着いて家庭を築き、北アメリカへ運送業を拡大展開するのがいい、と考えていました。ジミーは遅咲きです。オードリーに会うまでは落ち着こうなどというそぶりすら見せませんでした」

二人の出会いがもう少し早ければ、オードリーがアソシエーテッド・ブリティッシュ映画社と契約を結ぶ前だったら、彼女の生活がまるっきり変わってしまった可能性は高い。

何作か映画に出演して、将来が有望だと思われて、それから財産と貴族階級のどちらか、または両方かもしれないが、結婚してそれを手に入れる、そんな「映画界出身の一人」としてのハンソン夫人、つまり後のハンソン卿夫人になったかもしれない。

そうしたら実業界または議会で活躍する夫を助け、慈善活動にいそしみ、日刊紙のゴシップ欄をにぎわせ、地方の領地とロンドンのベルグレービアまたはニューヨークのアッパーイーストサイドにある邸宅かアパートメント、そして南フランスまたはニューイングランドの領地にある三軒目の屋敷との間を行ったり来たりする忙しい生活を送ったかもしれない。それから夫のすること、行くところ、常に花を添えて、笑顔を振りまいた李したかもしれない。子供も生まれるだろう。夫がビジネスで失敗したらそれを支えるだろうし、夫がばかなまねをしてよその女性に手を出しても毅然とした態度でそれを許すだろう。

P84しかし、オードリーの人生はそのいずれにも当てはまらなかった。彼女もジミー・ハンソンも気づかなかったが、二人が結ばれるタイミングはとっくに過ぎてしまっていた。

オードリー・ヘップバーンのもとへは、やがて国際的なスターという形の新しい求婚者が訪れることになる。このライバルと互角に戦える男など、まず現われまい。

第五章 「見て、私のジジよ!」(tw) P85-96

(P84-)

P85一九五一年五月三十一日、『秘密の人々』の撮影が終わった翌日、オードリーは母エラを伴って南フランスへ、新しい映画の撮影に出発した。途中二人はパリに立ち寄り、オードリーが役で着ることになるディオールのドレスを下見した。

彼女の役は映画スターで、アメリカ人のバンドリーダー、レイ・ヴァンチュラとその仲間が面倒を見ることになる身元の分からない赤ん坊を巡る騒動に巻き込まれる、という役どころだった。

ヴァンチュラはこの映画のプロデューサーでもあった。気を許せる相手ではなかったが、オードリーは撮影が済めばディオールのドレスが自分のものになるので、それで満足だった。他には特に得るものはなさそうだ。

『われらはモンテカルロへ行く』はアメリカでは『モンテ・カルロ・ベイビー』と改題された。(「ベイビー」は何も「赤ん坊」を指しているわけではない。大人の女性を「かわい子ちゃん」と呼んでいるだけである)。

この撮影は実際にはオードリーが思っていた以上にきつい仕事だった。フランス語版の脚本家兼監督であるジャン・ボワイエはカットごとに騒ぎ立て、じきにオードリーは英語版フランス語版別々に、それぞれの言語で改めて感情を込めるのに疲れてしまった。

撮影のスケジュールはフランス時間に合わせて組まれたので、撮影開始は昼食後。それは助かったが、撮影終了は夜分遅かった。これは辛かった。午前中しか事由にモナコを散策することができなかったからだ。

いつまでも語り継がれる逸話がある。フランス人の小説家コレットは、レーニエ公に招待されてオテル・ド・パリに滞在していたのだが、そこで撮影中のオードリーを初めて見かけ、自分の小説『ジジ』に出てくる、ませた少女の役をやらせたい、と思ったのだという。

実はオードリーもずいぶん前から、歳は七十代で車椅子の世話になっている具合の悪そうなお年寄り、身体は弱そうながら気は強そうな老婦人の熱い視線を感じていた。

コレットは夫で作家のモーリス・グドケに車椅子を押してもらって海辺に出ていたとき、やせっぽちの女の子を見かけた。その子は黒のワンピース型の水着を着ているので、胸のふくらみがない体型が目について、よけい中性的に見えた。

けれども生き生きとはしゃいでいて、生意気にも見えるがおもしろいことに無邪気にも見えた。「見て、わたしのジジよ!」コレットはグドケに声をかけた。「ああ、そうだね」。夫の返事にはうんざりした響きがあった。

P86この老夫婦にはここ数か月、パリの公園で、街の通りで、デパートで、大勢のジジを見てきた。アメリカ人の脚本家アニタ・ルースがコレットの小説を舞台用に脚色してから、コレットはジジ探しをしないではいられなかったのだ。

かつて高級売春婦だった祖母やおばに適齢期の若い金持ちの引っ掛け方を仕込まれたにもかかわらず、率直ないい性格が勝って、男にがつがつしない女の子--そういう女の子はどこにでもいた。問題はどの子もプロの女優ではないということだった。コレットは皮肉をこめて当時を振り返ったものである。

世の中には様々な職業があるが、よりによってこの俳優業からはどうして高級売春婦の役ができる理想的な女優が出てこないのか、まったくおかしな話だ、と。

この本の上演権をを買っていたニューヨークの興行師ギルバート・ミラーは早く舞台にかけたくても、もしコレットが配役を決められないのなら、選択権を行使して自分で配役を決める、と脅していた。(略)

そう思ったコレットが目に手をかざした、そのとき、いた!確かに「わたしのジジ」がまた現れたのだ。車椅子が動くのを視線の端に捕らえたオードリーは、撮影中にもかかわらず一瞬気をそらされ、セリフをとちってしまった。「カーット!」ジャン・ボワイエの声が響いた。

彼はオードリーが視線を移す方向に目を向けた。侵入者がいた。数分後、ボワイエはこの小さくて背中を丸めた好奇心旺盛なご婦人に、自分の映画についてべらべらと言葉を並べていた。

この頬に紅を差した赤毛のご婦人は、横暴な貴族社会を風刺したドーミエの漫画のように見えた。彼女はボワイエの話など聞いていなかった。目はまだオードリーを追っていたのである。

その場に有名なフランスの性格俳優マルセル・ダリオがいた。彼は「本人」役でほんの少し映画に出て欲しいと説得されて来ていた。P87彼が出ることで映画の製作に箔をつけようというのだろう。

ダリオはコレットの知り合いだったので、彼女をオードリーに紹介した。こうしてほどなく二人はフランス語で会話を交わすようになった。後にジャン・ボワイエは、今撮っているシーンに「本人」役でちょっと顔を出してもらえないか、とコレットに頼むだけの度胸が自分にあればよかったのだが、と悔やんだ。

気持ちが高ぶってどうしてもオードリーを手に入れたくなったコレットは、ようやくその場を離れた。画廊で一枚の絵を見て、それを手元に置くのは自分だけだ(誰かがその代金を払おうとしているのならなおさら)、と考える絵画の収集家のように、コレットはこの目の前にいるジジはどうしても手元に置きたい、と思ったのだ。

彼女が次にしたことはオードリーの母親に会うことだった。二人はホテルのロビーで初めて会い、そして相談がまとまった。コレットからオードリーへ、ジジ役の招待状が勅命のように手渡された。

オードリーは直感的に素直な反応を示した。「わたし、できません。演技をしたことがないのです。踊ることはできますが、舞台でセリフを言ったことがありません」。

演技だって?そんなものは教わればいい。もっとずっと怪しげなワザを教え込まれたジジはコレットをモデルにしているが、そのジジを生み出した老婦人がオードリーに自信を持って言ったことは「一流の宝石になるまで我慢、理想を持ち続けること」だった。

遠くニューヨークにいたギルバート・ミラーとアニタ・ルースは、まだジジの配役を決めないでほしい、という電報を受け取った。まもなくコレットが手紙で唯一可能性のある候補者を指名してきた。

しかしその候補者は二人が聞いたこともない女の子で、しかもちゃんとしたプロダクションでの舞台経験がなかった。手紙には、オードリーは七月の初めには映画の撮影が終わるのでロンドンにいる、ブロードウェイで舞台に立ちたいと強く希望している、と書いてあった。

これは多少事実を曲げていた。オードリーは、この舞台は自分の能力を超えた途方もない挑戦だと思い、未だに腰が引けていたのである。それにできるだけ早くジミー・ハンソンと結婚したいと思っていた。

しかし事を決めるのはアソシエーテッド・ブリティッシュ映画社との契約だった。この契約では、向こう三年間オードリーはアソシエーテッド・ブリティッシュ映画社の映画に出演する義務があり、どの舞台に出るにしても会社の了解が必要だった。

もしオードリーの次の役がすでに決まっているとしたら、それはブロードウェイの劇場ではなく、エルストリーの防音スタジオでだった。P88オードリーはコレットの申し出に有頂天になってもよかったはずだったが、中途半端に困惑し、落ち込んでいた。自分の人生を決める権利を剥奪されたい気分だった。

こんな状態のオードリーは、年配の男性の助言を求めた。父親のような人物、五十一歳のマルセル・ダリオである。彼には将来頻繁に相談するようになる。このときも、現実の人生が芸術である映画の先を進んでいた。

ジジにも結婚や人生について慰めてもらったり相談に乗ってもらったりする人がいた。歳の割りにはじけている道楽者で敬意を表して「おじさん」と呼びたくなるオノレだった。

ダリオの助言は必ずしも具体的な方向を示したわけではないが、オードリーに再び自信を持たせるものだった。「人生相談の回答者アゴニー・アンクル」となったダリオは、オードリーに即興でこう助言した。

本能に従いなさい。正しいと思ったらそれは正しいのだ」。しかし契約を破棄して訴えられてしまったら、何の役にも立たない。それでもこの言葉はオードリーの意識に刷り込まれて、いつまでも決して忘れなかった。

それから、その後何年もインタビューで質問があまりにきわどく勘に障るようだと、くどいように繰り返したのが「そういう人生観ですから」という言い方だった。

いかにも高尚に聞こえて、実にうまいごまかしの手だった。ダリオの助言は彼女にもうひとつ影響を及ぼした。彼女もそのつもりになったのだ。

しかしオードリーは、フランスから戻ってすぐにサヴォイ・ホテルのスイート・ルームにギルバート・ミラーを訪ねたとき、まだ迷っていた。彼女の代理人はその間忙しく働いていた。

オードリーがどんなに躊躇していても、ブロードウェイの主役を射止めた顧客を擁するということは、他人の投資で利益を得るようなものである。こういうことは演劇の世界では代理人にとっての夢物語。

そこでオードリーを送り込むことにしたのである。すべてを決する面接に乗り込んだオードリーは、すでにジジの役を下稽古しているのではないかと訝しく思われるような衣装を身につけていた。

何サイズか大きめの男物のシャツを着ているのでよけいに細身に見え、足首までの白いソックスは女子学生っぽく足の長さを強調していた。またヒールの低い靴をはいてできるだけ身長を感じさせないようにしていた。彼女は二十三歳だったが、この奇抜な格好で十歳若い少女、しかもおてんば娘の印象を与えた。

感傷に左右されないビジネスマンの感性でコレットの推薦した候補者を見極めてやろうと心に決めていたものの、P89ギルバート・ミラーはすっかり魅了されてしまった。

彼は世界中を歩き回りニューヨークのアパートメントの壁を飾るようなものから舞台で創造するものまで、美術・芸術に目が利いた。また自分の事業で得た富に加えて、妻キティが相続した財産も所有していた。

つまり、ギルバート・ミラーは一目見れば「上質」かどうかわかる男なのである。ほどなく彼はオードリーに付き添ってアニタ・ルースのスイート・ルームへ向かった。そこでは脚本家が、女優でチャールズ・チャップリンの前妻のポーレット・ゴダードとともに二人を待っていた。

アニタ・ルースとポーレット・ゴダードは前の週にロンドンに到着、ヴィクトリア駅でミラーが絶大なる信頼を寄せているお抱え運転手グリンの出迎えを受けた。グリンはその場で二人に写真を収めた大きなファイルを手渡して言った。(略)

後にアニタ・ルースが表現したところによると、オードリー・ヘップバーンは「女性の特性として必要なものをすべて」持っているのだという。一方ポーレット・ゴダードはこう言った。「この子には何か根本的に問題があるに違いないわ。問題がなければ十歳で有名になていたはず」

さて、この勘の鋭い二人の女性は、自分たちがこれまで世話をしたり悪口を言ったり(短期間とはいえ)結婚したりした相手が才能にあふれる人たちだったので、そういう才能には飽きるほど付き合ってきていた。

その二人がすわってオードリーをじっくり観察した。第一印象は、「新鮮」だった。「彼女は自分と周りとの間に一線を引いています。子供でも一人っ子はそうしますね。彼女は何をしても目立つ存在でした」とアニタ・ルースは言う。

ギルバート・ミラーはドアを開けてオードリーを送り出した。それから、わかりきったことなのに、どうしてわからなかったんだろう、とため息をつき、ま、いいか、彼女たちのおかげではっきりしたのだから、と思いながら、「まずグリンの言う通りにしておけばよかった」とひとりごちた。

テストが始まった。正確に言うと二種類あった。最初にオードリーはジジの最もドラマチックな場面の台本を読まされた。ここは自分のために選ばれた金持ちとの結婚することにジジの心が反発するところである。

P90最悪の出来だった。セリフをとちり、感情移入もできなかった。振り返ってみると、彼女はジジどころではなく、求婚者で自分に結婚を迫っているジミー・ハンソンを待たせなければならないことに悩んでいた。

ジジを演じるとなると、ジミー・ハンソンから自分の気持ちが遠ざかるかもしれなかった。彼女はロンドンのある劇場の音響設備を背景にして声のテストも受けたが、それも結果に大差がなかった。

すでにポーカーフェイスが特徴のジジの祖母役に決まっているキャスリン・ネズビットが、客席の最前列でオードリーの細く緊張した声を聞いていたが、ほとんど聞き取ることができなかった。

演劇学校に行っていれば救われたかもしれないが、オードリーは声を遠くに届かせるためのレッスンを受けたこともない。徹底的な指導を受けなければならないことは明白だった。

まったく信じられないような事態である。やがてスターになると思われているにもかかわらず、オードリーにはまるっきりの初心者以上の演技力もなかった。報酬が何であろうとも、彼女はとんでもないものを背負ったのだ。

子供の頃のオードリーは、両親の仲が悪くなって気持ちが不安定になると、決まって軽い喘息の発作を起こした。その発作が今再び起こるようになっていた。何もかもあまりに目まぐるしい。彼女は疎外感を覚え、傷つきやすくなっていた。

驚いたことに、母親のエラはオードリーが舞台と映画と結婚の中でどれを優先するかを決めるに当たって、ほとんど口を出さなかったようである。彼女は物事がおのずと決まるに任せれば吉と出ることを信じていた。

おそらくそれが最大級の応援だったのだろう。早くから女優になりたいという大志を自ら抱いていたにもかかわらず、エラは「ステージママ」の対極にあった

これが今後何年もこの母娘の関係の基本になる。物事を決定しその責任を負うのはオードリーである。彼女は自分の本能を信じ、母親に相談することもなかった。

キャスリン・ネズビットはニューヨークに着くと、精神的に参ってしまったオードリーのコーチをさっそく引き受けた。これで腹が決まったギルバート・ミラーは、オードリーを『ジジ』の主役に「貸し出し」てほしいと、正式にアソシエーテッド・ブリティッシュ映画社と交渉を始めた。

誰かがリスクを冒し、そこから莫大な利益を得る、という考えはアソシエーテッド・ブリティッシュにとっては魅力だった。ところが事態は突然複雑な様相を呈するようになる。

アソシエーテッド・ブリティッシュの貧弱な経営陣にはスター養成などできない、となれば、パラマウント・ピクチャーズのハリウッド・スタジオで日常的に引き受けようという理由から、一週間後オードリーのもとへ映画出演の依頼が届いた。

P91一九五一年七月のことだった。オードリーが実質的に演じたのはただひとつだけ、そしてその出演映画『秘密の人々』がまだ上演されていなかったのに、である。

オードリーはブロードウェイに足を踏み入れる前に、パラマウントが配役を進めている映画『ローマの休日』への出演を依頼されたのだった。息をする間もない、とオードリーが感じるのも無理はなかった。

ウィリアム・ワイラー監督はすでにヨーロッパにいて、王室の一員としての束縛から抜け出してアメリカ人の新聞記者とローマの街を歩き回る若い王女の役を誰に充てようかと調整していた。

「フランス人女優コレット・リペールはどうだろうか?」パラマウントの在ロンドン製作部長リチャード・ミーランドは、ニューヨークから電報を受け取った。ワイラーからの問い合わせがあったことは明白だった。

七月九日、ミーランドはニューヨークの事務所に返事を送った。「『ローマの休日』の候補者が一人いる。『天国の笑い声』(clipfull)で演じたのは端役だが、とても印象的な演技だった」。

するとニューヨークから「詳細と写真を送るように」と依頼がきた。当時を振り返ると、オードリー・ヘップバーンはこの役にまさにぴったりで、彼女以外に候補に挙がる者もいなかったようである。

幸運が彼女の選択に果たした役割、そして危うく一生で最高のチャンスを逃すところだったということは、記憶に留めておきたいものである。

『ローマの休日は』は決してできたての新しい企画ではなかった。台本はダルトン・トランボとイアン・マクラレン・ハンターがずっと以前、一九四〇年代半ばにすでに書き上げていた。

そしてフランク・キャプラ監督が映画化する予定だったが、配役に難渋して埃をかぶったまま放っておかれたのか、他の監督連中に回されていたのか、日の目を見なかった。ワイラーがこの台本を読んだのは、結局は期待外れに終わったローレンス・オリヴィエとジェニファー・ジョーンズの『キャリー』を撮り終え、カーク・ダグラスの『探偵物語』の公開を待っていたときだった。

これは興行的に絶対当たる、と直感したパラマウントは、ワイラーが『ローマの休日』を次に撮ること、そしてローマに行ってロケ地を探すことを認めた。しかしワイラーはキャプラと同じ悩みにぶつかってしまった。

王女役は誰が、という問題である。女優がはまらなければストーリーは進まない。「アメリカ訛りのない女の子を探していました。王女になるために育てられたと思わず信じてしまうような子を」。

P92彼はイギリス生まれのエリザベス・テイラーがいい、と思っていた。彼女の新しい映画『陽の当たる場所』はパラマウントがMGMから彼女を借り受けて撮った映画だが、その中のエリザベス・テイラーは豊満な姿でありながら繊細さを感じさせる美人で、さらに優しさや脆さもあわせて持っているので、ワイラーの目には最適と映っていたのだ。

ところがMGMは「自分たちの」スターがパラマウントの利益に貢献することに同意しようとはしなかった。ワイラーはエリザベス・テイラーを諦めざるを得なかった。

リチャード・ミーランドのオードリーについての報告は手応えがあった。
「歳は二十二歳、身長は五フィート五半インチ[原文ママ](一六七センチ)、髪は濃い褐色…かなり瘦せ型…しかし魅力たっぷり。才能に問題なし、ダンスは上々。声は明朗で若々しく、発音に極端な癖がない。イギリス的というより大陸的」
それに対する返答は「ヘップバーンに興味あり。大至急テストフィルムを送られたし」。追って「キャサリン・ヘップバーンとの混同を避けるために姓を変える件、打診されたし」と電報が届いた。

当時ハリウッドではこのような要求は珍しくなく、一般的にはさっそくそれに応じたものである。しかしオードリーは初めから気概を示した。「わたしが必要でしたら、名前も何もすべてを受け取ってください」

ハリウッドの映画の話は、ブロードウェイでコレットの芝居の主役を演じることになっていた時期と同時に進行していた。ジジかアン王女のどちらかの申し出があったとしたら、神様は私に特別なお心をかけてくださったのだと初心者には思えただろう。

しかしふたつの役を実質的に同時に突きつけたのだから、神様はオードリー・ヘップバーンに首ったけとしか言いようがない。

パラマウントはオードリーに興味を持ったが、テストフィルムを見るまでは決定的な判断を下そうとはしなかった。ロンドンからニューヨークの事務所へは次のような連絡が入った。

「一九五一年九月十八日、パインウッド・スタジオでテスト(tw)。監督はソロルド・ディキンソン。他にライオネル・マートンとキャスリン・ネズビット。撮影は『ローマの休日』の台本から二つのシーンとインタビュー」。

このつまらない連絡でまずわかることは、オードリーにいかに気を使っているか、ということである。ソロルド・ディキンソンは『秘密の人々』で彼女との仕事を終えたばかりだったが、彼女を気に入っていたし、彼女もディキンソンと一緒ならば自信を持てた。

P93カナダ人俳優ライオネル・マートンは『われらはモンテカルロへ行く』で共演している間、オードリーの面倒を見ていた。すでに『ジジ』で役をもらっているキャスリン・ネズビットはオードリーの演技指導をしている。つまり、『ローマの休日』のテストでも指導をしていたということは当然考えられることだった。

どれをとっても、テストする側がオードリーとその代理人の肩を持つことにミーランドが同意していたことを示している。ワイラー自身はまだローマにいて、その場に立ち会えなかった。

彼は、そのようなテストでは信用できない。女優を実物以上によく見せる絵ができてしまうだろうし、そうでないにしても彼女があがってしまって、十分その持ち味を発揮させることができないだろう、と思っていた。

あの連絡の文言ではわからない事実もあった。それはワイラーがディキンソンと代理人ポール・スタインと内々打ち合わせをしていたことである。

ワイラーは二人にテストシーンが終わってもカメラを回しておくようにと指示していた。これはオードリーに内緒で、彼女が意識して演技をしているときではない、ありのままの姿を見てみたい、と思ったからだった。

テストは淡々と続いた。ミーランドの報告と対照的に、そこには驚くほどぽっちゃりしたオードリー・ヘップバーンがいた。おそらく最近コート・ダジュールで撮影したときのフランス料理のせいだろう。

さてオードリーはアメリカ人新聞記者のベッドで目を覚まし(もちろん彼女一人)、嬉しそうに子猫のように伸びをし、このすばらしい普通の民衆の世界に初めてやって来たものだから無邪気にはつらつと初々しく両腕を伸ばして、それから新聞記者(ここではライオネル・マートン)との会話を楽しみ、バレエのレッスンで身につけたゆったりした優雅な身のこなしでドアまで行き、ドアを開けると振り向いて腕白小僧のようにウィンクをする。

「それでいい」とポール・スタインの声が聞こえる。オードリーはほんの少しためらいカメラの方をまっすぐ向く。すると自分を試しているワナに気づいてそれを面白がる表情が顔一杯に広がる。

ワナなどどうでもいいことなのだ。「『カット』と言えるのは一人だけです」オードリーはソロルド・ディキンソンの方を見てはっきりと言う。「監督がそう言うまでわたしは動きません」。

カメラはなおもオードリーを追いかけ続ける。突然彼女は身体を折り曲げんばかりに笑い転げる。まさに好奇心をそそるありのままの反応である。「誰が何と言おうとも魅力的だ」とローマでテストフィルムを見たワイラーは言った。

ニューヨークからも同じ意見の電報が届いた。「おめでとう。P94ヘップバーンテスト了解。こちら全員歓迎」

二、三日後、ニューヨークから正式な手紙が届いた。赤字でアンダーラインを引いた「オードリー・ヘップバーン」の文字の下には、こう書かれていた。
「彼女に関するオプションを行使して下さい。今回のテストはこれまでハリウッド、ニューヨーク、ロンドンで行われたテストと比べても最高の出来…心からお祝いします…バーニー、フランク、ドンからも、おめでとう、とのことです」。
バーニー・バラバン、フランク・フリーマン、ドン・ハートマンの三人はパラマウントの最高執行責任者で、これ以上のお墨付きを得た祝辞はなかっただろう。しかしたった一人、この興奮に加わらない者がいた。

パラマウントのファイルには、リチャード・ミーランドに宛てたオードリー・ヘップバーンの私信が今でもそのまま残っている。それは子供っぽい丸みを帯びた書体で書かれていて、「皆さんの期待に添えるように、どうか神様、お助けください」と結ばれている。

『ジジ』の舞台と『ローマの休日』の映画の両方に出るとなると仕事を整理しなければならなかった。そのためにギルバート・ミラーとパラマウント・ピクチャーズは、手を替え品を替えてオードリーをおだてたり、言いたいこともぐっと呑みこんで先の利益を考えたり、など苦労が多かったに違いない。

抱えている女優の価値が労することなく計り知れないほど膨れ上がったことに気づいたアソシエーテッド・ブリティッシュは、ただほくそえんで見ていればよかった。

『ローマの休日』側としてパラマウントは、オードリーをアソシエーテッド・ブリティッシュとの契約から買い上げるつもりだった。この未知数の女の子をスターにするという冒険をするのだから、そこから利益を得る権利がある、と考えるのも当然だろう。

そこでパラマウントはアソシエーテッド・ブリティッシュに十万ポンド--当時のお金で五十万ドル、現在では五百万ポンドに相当する‐-を提示した。取引は成立。

ブリティッシュ側はオードリーが以前契約した仕事については、少なくともあと二本作品にでてもらわなければ、と主張して継続を要求し、一方でパラマウントには、年に一本の割合で七本分の契約をオードリーと結ぶことを認めた。

その際、パラマウントで撮ってもよいし他社にオードリーを貸し出して撮ってもよい、という。またテレビや舞台での仕事はオードリーの自由に任せた。

アソシエーテッド・ブリティッシュには、パラマウントの契約下でオードリーが一本出演するたびに報酬が支払われるか、その映画のイギリスでの配給権を得る、という条件もあった。配給権の方がずっと儲けになると思われた。

P95オードリーの報酬は二千五百ポンド(七千ドル)で、この当時の彼女にしてみれば一財産と言ってもよい。しかしこの契約があまりに割のあわないものだということをオードリーは認識していなかった。

第六章 殿下 P97-110(参照)

第七章 人生を彩る男たち P111-121(参照)

第八章 愛と憎しみ P122-134(参照)

第九章 夫と妻 P135-151(参照)

第十章 山上での会談 P152-166(参照)

第十一章 プリティ・フェイス P167-175(参照)

第十二章 ファニー・フェイス(パリの恋人)P176-193(tw)


P179『パリの恋人』(訳注・原題はFunny Face)はもともとレナード・ガーシュが『Wedding Day(結婚する日)』というタイトルで舞台にかけようとしていた作品から始まった。


これはグリニッチ・ヴィレッジの本屋の店員が、ファッション雑誌の撮影を仕事にしている一流カメラマンに見いだされてモデルになり、パリに連れて行かれて夢のようなファッションで雑誌のページを飾るようになる、という話である。

「磨かれて」見違えるほどになった『ピグマリオン』のイライザ・ドゥーリトルのように、その娘は自分を見いだしたカメラマンに女として認められていないと感じ、一方カメラマンは彼女に触発されて芽生えたプロらしくない感情が実は愛なのに、それに気づかない。

ガーシュは雰囲気も場面構成も完全に現代風にして、オリジナルのスコアを使ったミュージカル仕立ての舞台を制作するつもりだった。

そこでヴァーノン・デュークにスコアを依頼してリブレットを書いたのだが、これがMGMのアーサー・フリードの製作班の中でもミュージカルに関しては逸材のアレンジャー兼プロデューサー、ロジャー・イーデンスの目に留まり、そしてイーデンスの熱意に、かつて一緒に『踊る大紐育』を製作した監督のスタンリー・ドーネンが引き込まれた。

この『踊る大紐育』はミュージカルとしては草分け的な一九四九年の作品で、マンハッタンの街をそのまま歌と踊りの「セット」に使い、移り変わる現実の景色を背景にミュージカルナンバーを流し、まったく違和感のない作品に仕上がっていた。

「レナードは私にシナリオを読んで聞かせてくれました」とドーネンは言う。「やがてグリニッジ・ヴィレッジの垢抜けない娘を撮ったネガを現像する暗室の場面に差し掛かりました。

…カメラマンがまだ濡れて滴っている写真を吊るしてその娘に見せる。すると彼女がこう言う。『あら、いやだ。これじゃ、モデルになんかなれない。変な顔ね』(参照28分過ぎ、twtw)。

ガーシュが続ける。「スタンリーと私は目が合いました。と同時にスタンリーが『ここだ、あの歌が使える、ちょうどいい』と大声をあげました。私も『ガーシュイン!』と思わず叫んでしまいました。

さっそく仕事を中断して、一九二七年のブロードウェイ・ミュージカルP180『ファニー・フェイス』のために書かれた、ジョージとアイラのガーシュイン兄弟のスコアから歌を探しました」。

ドーネンが続ける。「ガーシュインの歌は、ひっとしたらわれわれが設定した新しい場面に合うように初めからできていたのではないか、と思えるほどのものでした。

How long has this been going on?(いつの頃からか)》など、本屋の娘が一人きりで落ち込んだときにぴったりの歌でした。山の手から来た世間擦れした連中に店を占拠されて大騒ぎになり、その嵐が去ったあとにこの歌を歌って、山の手の連中の魅力的な世界に憧れる自分に気づく、そういう場面です(参照14分過ぎ~)」。

ガーシュが付け加えた。「《Let's kiss and makeup》は口喧嘩の場面にぴったり合いました(参照49分過ぎ~)。おそらく一番の嬉しい発見は、恋人たちが《S'Wonderful》(ス・ワンダフル)を歌うと、ストーリー全体がゾクッとするほど感傷的にまとまるということでした(参照1h40m~)」。

つまりこの歌のおかげで、なにが起こるかわからないワクワクするような状況に登場人物を置きながら、脚本では説明的な会話を省くことができたのである。企画に手が入り、イーデンスとドーネンによって戦後の革新的なハリウッド・ミュージカルの中でも最高級の作品がその形を見せ始めた。

ところが今度は配役に問題が生じた。プロデューサーたちはあれやこれや苦戦していたが、その間二人の知らぬところでいたずら好きな神様がオードリーをキープしていた。

最初シド・チゃリシーがヒロイン役の候補に挙がっていた。MGMの製作部長ドーレ・シャリーが強く推していたのだが、ロジャー・イーデンスが同じように強く反対した。

ダンスや歌の実力がない、という理由ではなく、信頼性の問題だった。「シドがバーナード[・カレッジ]を卒業したばかりの若い人だと観客が信じるとは思えないし、世の中の動きについても無知なのではないかと思う」と、イーデンスはシャリーに手紙を書いた。

つまり『パリの恋人』のヒロインは十八歳くらいでオードリーの実年齢よりも十歳も若いのだが、この役に必要なオードリー・ヘップバーンのような無邪気さが、彼女よりも若いシドには欠けているというのだ。この時点でのオードリーの仕事ぶりを考えると、年齢は問題にならない。

彼女は実際の自分よりも若い役を演じることに何の不安も感じていなかった。「クリスチャン・サイエンス・モニター」誌のインタビュアー、ヴォルニ・ハードはオードリーが無意識のうちに年齢を忘れさせる方法について、ロジャー・イーデンスを前にして鋭く分析している。

「彼女が肉体的に存在していることをすっかり忘れていますよね。P181観客が注目するのは表に姿を見せている彼女の考え方…オードリーはまるで透明人間です」。

イーデンスとドーネンはオードリーをパラマウントから借り受けることを強く要求した。「《戦争と平和》のあとで何か変化がほしいというのなら、これ、楽しいミュージカルだと思いました」とドーネンは当時を振り返った。

「オードリーも同じように思ったはずです。こちらから台本を送って三日後、承諾の返事をもらいました」。契約交渉は延々と続いた。最初パラマウントはライバル会社にオードリーを貸し出すことに難色を示した。

そこでドーネンは『パリの恋人』をオードリーがまだアソシエーテッド・ブリティッシュに法的に縛られている三本の映画の一本にすればいい、と考えた。しかしこれもうまくいかない。と、ドーネンとイーデンスはある方法を思いついた。

スターがこちらへ来られないなら、自分たちがスターに近づいたらどうだろう?こうして、MGMミュージカルのひとつはパラマウント作品として製作されることになった。

ところがひとつの大きな問題が残った。それはオードリー側の代理人から申し立てられたもので、『パリの恋人』がパリで撮影されるかどうかどうかによってオードリーがこの話に同意するかどうかが決まる、というのだ。

税金が理由だろうか?いや、全然。メルがルノワールのコメディ『恋多き女』の撮影をしている間、同じ街にいたいというだけの理由だった。実はビリー・ワイルダーの作品『昼下がりの情事(tw)』は、メルがルノワールの作品に出ている間に撮影に入る予定だったのだが、まだ準備ができていなかった。

結局一九五六年に入ってすぐ撮影を始める予定だったルノワールの映画は、『パリの恋人』のロケをパリで行う準備ができるまで予定を遅らされ、そうしてメルとオードリーの別居を回避した。

それこそが二人の結婚生活、オードリーのために便宜を図りたいというパラマウントの希望、そして映画会社の強い影響力について多くを物語る。夫婦が一組のチームとして遠慮なく堂々と条件を示すようになるのは、エリザベス・テーラーとリチャード・バートンが一九六二年の『クレオパトラ』の製作中に、作品を盾に要求してからのことである。

オードリーがこれまで出演したアメリカ映画はどれも例外なく、ペック、ホールデン、ボガード、フォンダといった有名スターが相手役を務めている。しかし彼らのスター性がオードリーに影響を与えることはなかった。

いったんカメラの前に立つとその瞬間から彼女は大スターたちと遜色なく、ときには大スター以上の輝きを放ったからだ。P182それはまるでマジシャンが突然オードリーを帽子から出すようなものだった。

ところが『パリの恋人』では、相手役に自分から合わせなければならなかった。フレッド・アステア、大スター以上の存在、伝説のである。「私、一生の夢が実現します。フレッド・アステアとミュージカルをやるんです」とオードリーはルエラ・パーソンズにパリから電話をかけた。

一九五六年二月半ばにハリウッドに出向いて、リハーサルと歌のレコーディングを行うことになっていたオードリーは、パリでダンススタジオに通って、調子を整えていた。

「オードリーは認めませんでしたが、実は怖がっていました」とドーネンは言う。

フレッドと踊ることになって興奮していたオードリーも、一時の熱が冷めると警戒心が芽生えた。「オードリーが怖がるのも無理はありません。アステアは二十世紀最高のダンサーだと振付家のバランシン(参照12)やジェローム・ロビンス(参照1234)が認めた人です。さらに時代が下ればバリシニコフもそう認めたでしょう。

ダンスについて少しでも知識のある人なら、そう聞いて怖がるはずです」。オードリーは知らなかったのだが、アステアもオードリーと共演することに同じように神経をぴりぴりさせていたのだという。

ドーネンはそれを知っていた。「アステアはオードリーの初期の作品を何作か見て目を見張ったと言います。しかし彼はそのとき五十七歳、オードリーよりも三十歳も年上でした。自分では年が上すぎる、と思っていたのです」。

作品を見ればわかることだが、二人の心配は根拠のないことだった。若い娘を年配の教育係が秘蔵っ子に育てていくという二人の関係は、ロマンチックだが性的ないやらしさはない。

互いの魅力は間違いなく後見する者と後見される者の関係にあって、誘惑する者とされる者の関係にはないからだ

写真家リチャード・アヴェドン(tw)(何と米国海兵隊ではレナード・ガーシュの同僚だったという)に敬意を表してその名をもらったアステア演ずるリチャード・エイヴァリーは口八丁手八丁である。

暗室で手先の早業を披露するかと思うと、次はダンスでオードリーをリードする足技の妙を披露する。一方、互いを慈しむ場面ではオードリーの役が年配のリチャードをリードし、アステアの振り付けとは違うが見劣りしない魅力的なダンスを躍らせた。

二十五年後、八十二歳になったアステアはアメリカ映画協会のライフ・アチーブメント・アウォード(功労賞)を受賞した。オードリーがプレゼンテーターになって、パラマウントのリハーサルで初めて会った時のことを紹介した。

あの時のアステアは、いつもの颯爽とした姿P183で彼女の前に登場した。彼は上品で軽やかな足の運びにぴったり合う軽やかな装いをしていた。黄色のシャツ、グレーのスラックス、ベルト代わりの赤いスカーフ、ピンクのソックス、そして靴は今にも「踊り出しそう」にぴかぴかに光るモカシン。

「私はコチコチの鉛の塊になった気分でした。気後れもしていたし、足はがくがくで、とても踊れそうにありませんでした。突然腰に人の手を感じました。フレッドが彼ならではの手際で優雅に軽やかに文字通り私の脚をすくったのです。

私は女性なら一生に一度は夢に見るスリルを味わいました。フレッド・アステアと一度でいいから一緒に踊りたい、という夢がかなったのです」。

二人が撮影前にリハーサルをしたり、十四に分かれた歌のシーケンスをレコーディングしたりする時間は、わずか五週間しかなかった。これはオードリーがパリで『パリの恋人』のロケを終わらせ次第、『昼下がりの情事(tw)』に取り掛かる契約になっていたからだった。『パリの恋人』に費やせる時間は限られていた。

オードリーは毎朝ロジャー・イーデンスのオフィスに出向き、ピアノの伴奏で歌のリハーサルをしてから撮影現場に向かった。現場ではスタンリー・ドーネンがその曲に合わせてカメラ位置を決め、そのあとオードリーはリハーサル室へ移動してダンスのステップに取り掛かった。

歌のレコーディングに費やした時間は一週間だが、複雑なアレンジを考えると驚くほど短時間であり、ドーネンとイーデンスを中心とするチームが立てた詳細な計画がいかに綿密なものだったかを証明している。

最初の曲《Bonjour Paris(ボンジュール・パリ)》のシーケンスは見かけ以上に難しかった。オードリーとアステアと、「ヴォーグ風」ファッション雑誌の辛辣な編集者を演じるケイ・トムソンが空港に降り立ち、一人一人フランスの首都パリをワクワクしながら探検し始める。

それぞれパリを「代表する」名所を背景に、ときには一人一人カットを変えてカメラに収まり、ときには一カットを三つに分けて同じ画面に並ぶ。そうしてやがて三人は、こんな「観光客だらけ」の場所になど絶対行かない、と口を揃えて言っていたエッフェル塔の展望台に思いがけなく顔を揃えることになる。

歌はきっかり五分間、五線譜の数で五百十八行にも及び、パリの名所三十八か所分が場面転換した。

これらはすべて五十人以上で構成されるフル・オーケストラに合わせてハリウッドでリハーサル、そして録音し、パリのロケではそれを再生して実際には歌わずに動きだけの撮影を行わなければならなかった。

ロジャー・イーデンスはひどく神経質になっていた。P184「熟練した音楽家でも、全部のテークを録音し、必要な録音し直すというのは、神経をすり減らす仕事です。オードリーがそれに耐えられるかどうか心配でした」。

ドーネンには若干異なる理由で心配があった。「フレッドは優秀なダンサーです。しかしジョージ・ガーシュインやアーヴィング・バーリン、コール・ポーターも言ってましたが、フレッドはひょっとしたらダンスよりも歌の方がうまい、と当然のように言う人がいました。

私はひとり言を言ってしまいました。『それは困った!オードリーはうまく合わせられるだろうか?』と。オードリーは神経質になっていました。フレッドもそれに気づいていたと思います。

彼女は最初の三テーク、四テークで頻繁に音程をはずしたので、録音は止めては進め、また止めては進めの状態。これではプロの歌手でも神経がおかしくなります。オードリーはテークを重ねるたびにますます焦っていきました。

フレッドにもわかったでしょう。次のテークでオードリーがまたトチリました。フレッドは歌を止めず、自分もすぐに音程をわざとはずしました。そして言ったのです。『悪い、ちょっと待って…僕がトチった!オードリー、ごめん』。

すぐばれるつまらない作戦で、オードリーも絶対見抜いていました。それでも功を奏して彼女の緊張がほぐれました。誰だってミスをするということがわかったのでしょう。それ以後は撮影が順調に、100パーセントでは亡いけれども順調に進みました」。

パラマウントの屋内セットで撮影が始まる前、オードリーがまだ誰にも明かしたことのない話をドーネンに打ち明けたことがあった。

ドーネンは自分が信頼されていると実感したのだが、それを思い出して、オードリーに「演技はただ真実を伝えるに過ぎない。そのフリができるならたいしたものだ」というジョージ・バーンズの古い警句引用して聞かせた。

するとオードリーは「できない」と答えた。「彼女はカメラに向かって演技する前に、自分も同じ感情を持たなければならない、と思っていました。

これは精神的にけっこう負担になるので、彼女が満足する演技は一度だけ、一度しか演技できません。何度も何度も真実の感情を呼び起こすのは不可能です、とか何とか言っていました。テークを重ねれば重ねるだけ出来は悪くなりました」。

監督というものは慣例としてまずシーン全体を撮る。これが「マスター」である。次に必要ならミディアムショットまたはクローズアップを撮る。「オードリーはその逆はできないだろうか、と訊いてきました。そうすればクローズアップを撮るときに今までよりもいい顔で撮れる、と言うのです。これは難しい問題でした。

P185つまり細かいところまで演技を詰めてから、マスターショット用にカメラマンの配置を決め、それから全部元通りにして、オードリーのクローズアップ用に照明を替えなければならないことになります。

でもそれでオードリーがうまくできるというのなら、と思って受け入れました」。

オードリーが心配事を素直に話してくれたことに感激したドーネンはますます彼女を高く評価するようになった。彼の経験上、たいていのスターはそういう欠点になるようなことを、実際欠点であればなおのこと、生涯隠し通したものだからである。

もうひとつ心配の種があった。(略、眩暈を起こしやすいことについて、本屋のシーン、可動式の背の高い梯子のシーンでのこと)

リチャード・アヴェドン(tw)は映画のカラー・コンサルタントを務めた。彼はすばらしいアイディアをいろいろ出したが、その中に、オードリーが最初に登場するシーンをおとぎ話のオーラで包んだものがあった。

ドーネンが喜んで採用するほどの最高の出来だったのは、撮影を終えたアステア一行が本屋に忘れていった帽子を飾るベールである。ふわふわと長く尾を引くベール。誰もいなくなってから帽子を手に取るオードリー。

帽子を胸に一人うっとりとダンスに興じるとき、ひらひらと舞うベールは、今自分に起きていることを信じられないながらも受け入れているオードリーの気持ちを象徴する。ここが映画の中で一番純真でかわいいらしいシーンである

ドーネンの記憶によると、ひとつだけオードリーと意見が大きく異なったことがあった。オードリーも監督と同じように細かいところまで見えてしまうために起きた、「珍しい摩擦の瞬間」だった。

オードリーはどういうわけか「ダメ」に見えるものがあると、そこまでする必要がないのに悪い方へ、悪い方へ考えてしまう傾向があった。「ダンス曲の中に、全身真っ黒な衣装を着るものがありました。

P186セーターもスラックスも靴も真っ黒。黒というのは、映画の中で『共感主義者』と呼ばれる気取り屋グループがいて、そういう流行のパリジャンを漠然と指しています。

当時流行していた『実存主義者』のパロディのようなものです。それでオードリーはkの真っ黒ないでたちで白のソックスをはいてもらいたい、そうすればダンスシーンでは足元に見る人の目を集められる、と考えました。

ところがオードリーはそれを聞こうとしない。もう、いやになってしまう、と言うのです。せっかく黒で統一しているのに、気が散るでしょ。完璧なはずのダンス曲に傷をつけてしまうかもしれないわ、それに、どうするの?映画全体の出来に響いたら…どれもこれも白が一点入るせいよ!と」

(要約、白黒両方のケースをテスト撮影した結果、オードリー案は却下、落ち込むオードリーであったが、何もなかったように撮影、編集映像を見た後、オードリーは監督にメモを渡す)

『ソックスの件、監督のおっしゃる通りでした』。それだけでした。オードリーは尊敬できる女優です。あくまでも女優としての面子を守る覚悟がありました。やっとの思いで手に入れた地位ですから。ただ、執拗なくらいにメンツにこだわるということはありませんでした。」

「相手が自分の才能を認めてくれ、自分の商品価値をできるだけ高めるように力を貸してくれることがわかると、オードリーなら本当に最高級になりますが、そうすると彼女は彼女は自分をすべて相手に預けます。確かにそれはその相手の利益にもなるのですが」。

『パリの恋人』の屋内撮影の間ずっと、オードリーはアナトール・リトヴァク監督から借りた家でメルと暮らしていた。P187リトヴァクはロシア生まれだが、ドイツで名を挙げてからハリウッドへ移住し、それからヨーロッパから移住してきた監督の仲間入りを果たした。

やがてフレッド・ジンネマンもこの仲間に入ることになる。さてこの移住組とオードリー・ヘップバーンは仕事柄特別な絆で結ばれ、ハリウッドの中でひとつの役割を果たすのだが、その一方で彼らはヨーロッパという共通の文化を理由にハリウッドとは一線を画していた。

もともとハリウッドは国際色豊かな都市だったが、戦後何年かたつうちに次第にアメリカ色を強く出すようになってきた。この移住組との協力関係があるからといって、オードリーの仕事がヨーロッパ的色彩の濃いものだったとは言えない。

というのも、オードリーが移住組の監督のもとで出演した映画は、当然資金提供をする大手映画会社の要望に沿うものでなければならないし、アメリカ社会が親しむ内容やアメリカ社会の共感をを得られる範囲の内容でなければならないからだ。

たとえばディートリッヒ。彼女は興行成績が下がる一方だったので、ついに『砂塵』では「ラスト・チャンス・サロン」という酒場の女主人を演じて自分をアメリカンタイプにつくり変えてしまった。

これなどヨーロッパから移入してきたものが直面する危険を如実に表している。オードリーもヨーロッパからの移住組の一人に過ぎない。ガルボは銀幕からすっかり引退することでこの問題を解決した。

ところが『ローマの休日』や『麗しのサブリナ』、そして『パリの恋人』を見ると、製作者が吹き込んだと思われる洗練された趣味が感じられる。スタンリー・ドーネンはサウス・カロライナ出身でコーラス・ラインに出たことがあるほどの生粋のアメリカ人だが、様々な文化に興味を持ち、かなりのヨーロッパ贔屓だったのである。

やがて一九六〇年代に入ると、彼はイギリスに移住してそこで映画製作に関わるようになった。

オードリーの才能はハリウッドの伝統にのっとって育てたようなものではなく、ヨーロッパ大陸では当たり前の才能だった。彼女はデビュー当初、ヨーロッパ人の(またはヨーロッパ人的な)監督の前に出ると落ち着くのだろうか、気負わずのびのびと演じていた。

監督たちも手の内にあるオードリーという素材の特徴を理解し、彼女が自分たちの文化的背景に共鳴することを知って、できるうちはオードリーを最大限生かそうとした。

しかしハリウッドは変わりつつあった。十代の若者たちは同世代のアイドルを求めるようになった。ブランド、短命だったジェームズ・ディーン、モンロー、エリザベス・テイラー、そしてシナトラである。



そして新世代の独立系プロデューサーは、P188映画館に通うことを習慣にしていた人たちをテレビにとられて危機感を抱き、やがて昔から「現実逃避主義」だった映画会社がこれまで必要性を認めてこなかった方法で、現実のアメリカ社会を反映した映画を作るようになる。

オードリーはおそらくこうした変化に気づいていなかっただろう。彼女は映画の最盛期のしんがりとして登場し、年配の監督の才能で生かされてきた。そういう監督連中は彼女を喜んで掴んで離さず、まったくハリウッド的でなく、また必ずしもアメリカ的ではない作品の扱いにいかに長けているかを示そうとしていた。そういう作品もだんだん珍しい部類になっていった。

『パリの恋人』の製作メンバー一行は、一九五七年四月、パリに移動した。メインとなるロケ撮影である。オードリーとメルはホテル・ラファエルにチェックイン。ここは向こう数ヵ月の間、二人の自宅になる。

そしてメルは数日のうちにジャン・ルノワールの映画にとりかかることになっていた。

ヘンリー・ロジャースは、オードリーのインタヴューにフリーの記者であるマーガレット・ガードナーを指名し、「書けるだけ書いてほしい、オードリーは一誌しか映画雑誌を受付けようとはしないから」と伝えたという。

(略、取材の話、マーガレット・ガードナーが見たオードリーの私生活)

一九五六年の春、パリは季節はずれの寒さで異常に雨が多かった。そんな気候にふさわしく冷たい笑みを浮かべたスタンリー・ドーネンは、消防士に頼んでチュイルリー庭園にホースで水を撒いてもらった。

これは雨を模したもので、これから撮ろうとするシーンが前日撮った場面の続きになるからだった。「あのときは珍しく雨の降らない日にあたりました。P190とにかく屋外での撮影にかけた十四日間のうち十二日間が雨だったのですから」

(撮影の様子、略)

『パリの恋人』で一番印象的なシーケンスは、どれも静止画で終わる一連のカメラ回しで、オードリーが鉄道の駅や花市場、ルーブル宮などパリの様々な風景の中でジヴァンシーの衣装を身にまとってポーズし、それをアステアがリチャード・アヴェドン(tw)を手本に一流カメラマン然として撮影していくものだった。

こうしたオードリーの静止画は動きの中でとらえたもので、実にうっとりするできである。ルーブル美術館の大階段には最上段に翼のある勝利の女神像「サモトラケのニケ」が展示されている。

このカメラ回しの最後の場面は、オードリーがその女神像の後ろから出てきて、まるで彼女自身が神話の世界に入りこんで、翼を授かったかのように赤いベールをなびかせて階段を小走りに降りる、というものだった。

オードリーはすっかり「モデル業」が板についていたので、この場面ではカメラを振り向かせるのも、アステアにシャッターチャンスを教えるのも、彼女自身だった。

「私は首の骨を折るのではないかと心配で、ひどくびくびくしていました」とオードリーは後に語っている。P191「ハイヒールをはいて、あの階段ですから何段もあるし、背丈一杯あるジヴァンシーのガウンドレスを着て…助かりました、フレッドが一回で撮ってくれて…あら、アヴェドンだったかしら?それともスタンリー・ドーネン?どうしましょう誰だったかしら?」

こうしてパリの現実の風景と映画の虚構の世界、これがオードリーの前でひとつになってスクリーン一杯に繰り広げられた(参照57分過ぎ~)。

さて、アステアはオードリーと共演する以前に、もっと若い女優との共演に挑戦している。前年彼は『足ながおじさん』に出ていた。小さな孤児の女の子が、経済的な援助をしてくれた人、憧れていた人が実はおじいさんと呼んでもいいほどの年配者だったことに気づく話である。偶然にもこのとき共演したスターがレスリー・キャロンで、事実上オードリーの分身のような存在だった。

しかし『足ながおじさん』と『パリの恋人』を比べると、アステアが自分をさらけ出しているのは、オードリーの方だ、ということに気づく。アステアはキャロンに対しては機嫌を取るような慈善的な口調で話し、すこし庇護者然としたところに魅力を見せていた。

ところがオードリーとの間ではもっと血の通ったいたずらっぽい話し方をして、互いに惹き付けあっている。肉体的恋愛はもちろん論外だが、恋愛感情がそれに近づくこともあるだろう。

たとえば互いに感情を投影しあうという「共感主義」の考え方について二人で論じる場面では、オードリーは真剣にしゃべり、アステアは懐疑的に茶化しながら話を聞く。

突然アステアがオードリーの頬にキスして、いたずらっぽくこう説明する。「きみの立場に立って考えてみた。キスして欲しいと思っている、と感じたんだ」。 それだけの話だが、それでも何かを予感させる束の間の関係である(参照14分過ぎ~)。

同様にオードリーがアステアに好意を寄せていることは、様式化というフィルターを通して間接的に表現されている。

二人が抱き合ってくるくると回りながら踊るシーンでは、オードリーが《S'Wonderful(ス・ワンダフル)》の一節《You've made my life so glamorous/You can't blame me for feeling amorous(あなたがいたから私の人生はバラ色/あなたのせいでこんなに恋しい)》を口ずさみ、歌がすべてを語り、年齢差を忘れさせる(参照1h40m~)。

また映画のポスターに使ったオードリーの写真はアヴェドンが撮ったものだが、暗室で彼の分身エイヴァリーつまりアステアがその複製を作るシーンがある。

このシーンではアステアが印画紙に写ったオードリーを見せるときだけ電灯をつけて赤外線の光を遮るのだが、現実より美化したオードリーの目や鼻、唇にだけ赤外線の光が当たる。実はこの映画は最高に優雅で最高の技巧を尽くした魅惑的な写真の競演でもあった(参照26分過ぎ~)。

撮影に苦労はつきものである。もちろんめったに表には出さない。ところが一番見せたい恋の場面の撮影にはスタッフも役者も悩まされてしまった。フレッドとオードリーが一緒に踊りながら画面から消えていくシーンを撮る段になって、問題が発生したのである。

ロケ地は何か月も前から選定され、シャンティ近くの草原にある小さな猟小屋は、田舎のチャペルに見えるようにうまく化粧が施されていた。春先に特別に温室で栽培された草がこのおとぎ話の舞台に敷き詰められ、小川もあるし野の花や白鳥のつがいもいた。(略)

スタッフは照明やカメラのセットを終えた。と、機材が沈み始めた。最近の雨で草原が水浸しになっていたのである。また、ふと気が付くとオードリーとアステアが剝き出しの土の上でワルツを踊ることも多かった。

そういう時は緑のペンキを使ったり、少しカメラのレンズに霞をかけたりしてカモフラージュした。当然じっと見ればすぐにばれる代物である。「これじゃ、ダンスも苦行だな」とアステアが言った。

たいして難しくもない夢のシーケンスのはずだった場面ですべったり転んだりしているうちに、オードリーが思わず吹き出してしまった。「二十年目にしてやっとフレッド・アステアとダンスができたと思ったら、何なの、これ?泥だらけじゃないの、オードリー万歳ね!」

もうひとつ、あろうことか、オードリーの下着に事件がおきた。彼女がフレッドと「芝生」でワルツを踊るシーンでは、ジヴァンシーのデザインになる短い丈の白いウェディングドレスがふわふわと優雅に揺れるのだが、ピンクのパンティが見えてしまったのだ。

ドーネンはカメラを止めた。細部にまでこだわって調和を図っているクライマックスの場面で色彩の統一を乱したくない…。

助手がシャンティの街中まで八マイルをものすごい勢いで車を飛ばして一軒のチェーンストアに乗りつけ、駆け込んで子供サイズの白いパンツを二枚一組、スターのために買ってきた。

こうしてオードリーはフェードアウト用に何千ドルもするジヴァンシーのドレスを着て、その下にはわずか九十八セントのパンティを身に付けていたのだった(参照1h02m~)。

バロネス・ファン・ヘームストラはこの頃パリに住んでいた。母娘は別に仲が悪いわけではなく、ただ互いに干渉しないだけだった。バロネスはオードリーがハリウッドスターの中でも伝説的な俳優と共演していてもめったに見に来なかった。

P193あるときバロネスはモンマルトルのシーンを見学していたのだが、娘の名声よりも健康状態がとても気になった。オードリーは午後の寒空の下で震えている撮影記録係の女の子を見て、ジヴァンシーの薄手の服の上に引っ掛けていた羊皮のジャケットを衝動的に脱いで、その女の子の肩にかけてあげたのだ。バロネスはオランダ語で咎めるようなことを言ったが、オードリーは笑っただけだった。

しかしバロネスが出かけてきたことは、母親として娘を心配する以上の意味があった。無分別に政治活動をしていた過去を葬った口の堅い女性がインタビューに応じるという、珍しい機会を提供したのである。

おそらくリポーターはバロネス自身が精神的な拠り所にしている一般向け雑誌「クリスチャン・サイエンス・モニター」誌の人間で、そのせいかバロネスはさきの大戦に対する自身の姿勢について、これまでになく素直に告白した。

彼女はレジスタンスの首謀者だったのではないか、とこれまで政治記者が書き、娘の伝記作家が後にそのように決めつけた話をあっさり覆した。

「クリスチャン・サイエンス・モニター」誌のヴォルニ・ハードはバロネスのことを次のように表現している。「魅力的で堂々とした女性である。白髪とはいえ元気そうで、オードリー・ヘップバーンの黒い目とびっくりするほど対照的に澄んだ青い目をしている…貴婦人のお手本である」。

さらにハードは続ける。「私たち戦争の時代について話しをした。『本当に驚くほど無事に切り抜けられました。戦争中だからと恐ろしがってばかりいないで、戦争なんてなかったし今も戦争ではない、という当たり前の態度でいつも過ごしました。きっと驚かれますよ、この前向きの考え方でどんなに呪縛から解放されか。結局、まったく思わぬところから都合のよいときに幸運が私たちのところへやってきました』とバロネスは語った」。

ハードが意見を述べている。「ミセス・ヘップバーン[原文ママ]の目は笑っているが鋭かった。この目を見ただけで人生とは精神の問題である、天から降ってくる出来事がどんなに厳しいものでも人生の調和を乱すようなことは許されない、そういう力が人間にはある、と言おうとしている、と思った」。

これはバロネスの戦時下の言動を思えば完全に修正主義的な考え方で、戦前名を連ねていたファシスト志向を忘却の彼方へ葬り去るのとほぼ同じだった。確かにここから意志の強さという考え方が生まれる。そしてオードリーもこの意志の強さに支えられていた。

第十三章 過労とストレス P194-207


P194『パリの恋人(参照)』の撮影は一九五六年七月の第一週に終了した。しかしオードリーには楽しみに待つような休暇はなかった。ビリー・ワイルダーの『昼下がりの情事(tw)』がすぐにでも撮影に入ることになっていたのだ。

彼女に許されたのはごく短い息継ぎで、ビュルゲンシュトックで少し長めの週末を過ごし、ロンドンへ友人に会いに行くことしかできなかった。まもなく折り返しパリへ出向く日がやってきた。

この頃、オードリーが近々スイスの市民権を得て、イギリスの税を逃れようとするらしいという噂がたった。イギリスの税制度はヨーロッパのどの国に比べても厳しく、そのうちにオードリーのような高額所得者から九八パーセントを徴収するだろうと言われるほどだった。

彼女はそのような噂を笑い飛ばし、「私はイギリスのパスポートを持っていて本当によかったおもっているのですよ」と言っていた。この発言は真実とは少し異なっていた。

彼女は決してイギリス国籍を放棄しなかったが、このときにはスイスを法的な居住地にする手続きを終えていた。これにはノエル・カワードの影響があった。一九五六年の初めカワードは、所得にかかる天文学的数字の税金を払うくらいなら、と不承不承ながらイギリス国籍を放棄してバミューダに居を構えたのである。

「僕と同じようにしなかったら、馬鹿もいいところだよ」とカワードはオードリーに話をしていた。寒冷気候が性に合っていたオードリーはカリブ海よりもスイスアルプスを選んだのだが、結局はカワードもオードリーの近所に引っ越してきた。

(略)

P195『昼下がりの情事(tw)』の撮影初日を明日に控えたその日、ホテル・ラファエルに滞在していたオードリーのもとへ一通の電報が配達された。「あなたのような娘が本当にいたら、どんなに自慢しただろうか、どんなに大切に可愛がっただろうか---モーリス」。

当時六十八歳のモーリス・シュヴァリエはオードリーの父親役だった。私立探偵でアメリカ人の大金持ちのプレイボーイを監視する仕事を引きうけたが、そのプレイボーイが口説いている謎の女性が自分の十代の娘だとは気づかない役どころである。

後にオードリーは「本当のところは、ゲイリー・クーパーが父親役でシュヴァリエが恋人役だったら、ずっとわかりやすかったのですが」と語った。これはずいぶんと勇ましい発言である。

ワイルダーでさえこのフランス人の目の色気を見て少し心配になったほどだからだ。話の筋では父親らしい穏やかな目の色しか求められていないのに、である。

一方のゲイリー・クーパーは五十六歳で、実際よりも老けて見えた。クーパーはぶっきらぼうで有名だが、かなりの女たらしで、しわだらけで現に頬のこけた顔を見ると、この老いに向かう歳で女性を追いかけ回すのは肉体的に苦痛なのではないかと思えた。

彼は西部劇や一九三〇年代の『オペラ・ハット』のような庶民派コメディを通じて、力強く物静かな良心的な男というイメージを作ってきたが、それは戯れの恋の隠れ蓑だったようである。

セクシーなゲイリー・クーパー---ルビッチにとっては申し分のないキャラクターだが、ビリー・ワイルダーは、クーパーとオードリーの年の差には最大限の注意を払わなければならないだろう、最近出版された小説『ロリータ』の例もあるが、と思っていた。

しかし妙案があった。もし自分とI・A・L・ダイヤモンドが一九三六年にルビッチのために書いた脚本を、大筋はそのままで、もう一度二人で書き直せば、真顔で演じながらどことなく抜けているコメディができる。

それをクーパーが演じれば、彼の才能が評価されるかもしれない、と彼は気づいたのだ。一九三六年の作品では、クーパーは七回の結婚歴があるアメリカ人の金持ちを演じて、クローデット・コルベールに付きまとってた。

『昼下がりの情事(tw)』でも同じで、オードリーは女たらしを振り回してまっとうな男に変身させる役柄である。

(略)

(P196-)

第十四章 金のベール P208-219

第十五章 向こう見ずな挑戦 P220-232

第十六章 朝食にやってきた娘 P233-253

第十七章 百万ドル・レディー P254-271

第十八章 ファッションと恋と P272-290

第十九章 旅の終わり P291-304

P304(スイスの邸宅の写真)

第二十章 ドクターの妻 P305-319

第二十一章 安らぎをもたらすもの P320-334

第二十二章 人生の良き伴侶 P335-351

P335ロバート・ウォルダースはすらっと背が高く、堀の深い顔に髭を蓄えていた(tw)。その髭ゆえに年齢以上に実直な人に見えた。オードリーと同じく生まれながらのオランダ人で、航空会社の重役の子息だった。

彼はある時期アメリカで育ち教育を受けたが、学生のとき将来の夢を訊ねられて、「女性を大事にする人になりたい」と真面目に答えたという。

(随時更新)

第二十三章 親善大使物語 P352-365

第二十四章 「人生で最高のクリスマス」 P366-378

エピローグ フェア・レディ、天に召される P379-385(スイス邸宅写真→売りに出される(tw))

P378/ 380/ 382/ 384

補遺 アイルランドの継母 P386-403



訳者あとがき 404-406

P404著者のウォーカー氏は、彼女の偉大さは、自分のために生きたのではなくて、他人のために、困窮の人々のために生き、そして死んだこと、と言っています。彼女の死を知った人々も口をそろえてそう言っています。

「ハリウッドにあんな人はいない。他人のことばかり一生懸命で、自分のことは後回しなのだから」(ロジャー・ムーア)。

彼女の死の直前には、カルカッタのマザー・テレサが「『私の大切な尊敬すべき同士オードリー・ヘップバーン』に二十四時間の徹夜の祈りを捧げましょう」と全世界に呼びかけました。あのマザーテレサがこういう呼びかけをした--オードリーの全てを語っているような気がします。

資料 P408-434(tw,tw)

出演作品

【映画】 [オランダ時代]
七日間のオランダ語 Dutch in 7 Lessons 1948年、オランダ、監督シャルル・ファン・デル・リンデン、オードリーはKLMのスチュワーデス

[イギリス時代]
若気のいたり One Wild Oat 1951年、監督チャールズ・ソンダーズ、オードリーは脇役

若妻物語 Young Wives'Tale 1952年、監督ヘンリー・キャス、オードリーは若い夫婦と同じ家に間借りしている娘

天国の笑い声 Laughter in Paradise 1951年、監督マリオ・ザンピ、オードリーはタバコ売り娘

ラヴェンダー・ヒル一味 The Lavender Hill Mob 1951年、監督チャールズ・クライトン、オードリーはタバコ売り娘

秘密の人々(初恋) The Secret People 1952年、監督ソロルド・ディキンソン、オードリーはバレリーナで、暗殺計画に巻き込まれる

我らモンテカルロへ行く(モンテカルロ・ベイビー) We Go to Monte Carlo (Monte Carlo Baby) 1952年、監督ジャン・ボワイエ、ジャン・レラルド、オードリーは映画スター

[アメリカ時代]
ローマの休日 Roman Holiday 1953年、監督ウィリアム・ワイラー、共演グレゴリー・ペック、オードリーはローマ滞在中に逃げ出す王女

麗しのサブリナ Sabrina 1954年(tw)、監督ビリー・ワイルダー。共演ハンフリー・ボガード、ウィリアム・ホールデン、オードリーは大富豪の運転手の娘

戦争と平和 War and Peace 1956年(tw)、イタリアとの合作、監督キング・ヴィダー、競演ヘンリー・フォンダ、メル・ファラー、オードリーはナターシャ

パリの恋人 Funny Face 1957年、監督スタンリー・ドーネン、共演フレッド・アステア、オードリーは書店員で、カメラマンと知り合いファッションモデルになる

昼下がりの情事 Love in the Afternoon 1957年、監督ビリー・ワイルダー、共演ゲイリー・クーパー、オードリーは私立探偵の娘で大金持ちと恋に落ちる(tw)

緑の館 Green Mansions 1959年、監督メル・ファラー、共演アンソニー・パーキンス、オードリーは密林にいる妖精

尼僧物語 The Nun's Story 1959年、監督フレッド・ジンネマン、共演ピーター・フィンチ、オードリーはコンゴで看護にあたっていた尼僧

許されざる者 The Unforgiven 1960年、監督ジョン・ヒューストン、共演バート・ランカスター、オードリーはインディアンの孤児で白人一家に養われている

ティファニーで朝食を Breakfast at Tiffany 1961年、監督ブレイク・エドワーズ、共演ジョージ・ペパード、オードリーはコールガール、ホリー・ゴライトリー

噂の二人 The Children's Hour(The Loudest Whisper) 1962年、監督ウィリアム・ワイラー、共演シャーリー・マクレーン、オードリーは女学校の経営者で同性愛の噂をたてられる

シャレード Charade 1963年(tw)、監督スタンリー・ドーネン、共演ケイリー・グラント、オードリーは国際的犯罪に巻き込まれる未亡人

パリで一緒に Paris When It Sizzles 1964年、監督リチャード・クワイン、共演ウィリアム・ホールデン、オードリーはシナリオ作家の助手

マイ・フェア・レディ My Fair Lady 1964年、監督ジョージ・キューカー、共演レックス・ハリスン、オードリーは花売り娘、イライザ・ドゥーリトル

おしゃれ泥棒 How to Steal a Million 1966年、監督ウィリアム・ワイラー、共演ピーター・オトゥール、オードリーは贋作屋の娘

いつも二人で Two for the Road 1967年、監督スタンリー・ドーネン、共演アルバート・フィニー、オードリーは建築家の娘

暗くなるまで待って Wait Until Dark 1968年、監督テレンス・ヤング、共演アラン・アーキン、オードリーは麻薬の売人に襲われる盲目の女性

ロビンとマリアン Robin and Marian 1976年、監督リチャード・レスター、共演ショーン・コネリー、オードリーはロビン・フッドの恋人、マリアン

華麗なる相続人 Sidney Sheldon's Bloodline 1979年、監督テレンス・ヤング、共演ベン・ギャザラ、オードリーは製薬会社社長の相続人

ニューヨークの恋人たち They All Laughed 1982年、監督ピーター・ボグダノヴィチ、共演ベン・ギャザラ、オードリーは私立探偵と恋に落ちる人妻

オールウェイズ Always 1989年、監督スティーヴン・スピルバーグ、共演リチャード・ドレイファス、オードリーは天使

【舞台】
ジジ Gigi 1951年、演出レイモン・ルーロー、共演キャスリーン・ネスビット、オードリーはコケティッシュなパリ娘

オンディーヌ Ondine 1954年、演出アルフレッド・ラント、共演メル・ファラー、オードリーは水の妖精

【テレビ】
マイヤー・リング Myyerling 1957年、演出アナトール・リトヴァク、共演メル・ファラー、オードリーはハプスブルク帝国皇太子の愛人

おしゃれ泥棒2 Love Among Thieves 1987年、演出ロジャー・ヤング、共演ロバート・ワグナー、オードリーはピアニストで宝石泥棒

【テレビコマーシャル】
1971年、日本のかつらメーカーのためのCM

関連リンク
・オードリー・ヘプバーン(参照) by映画ありき ~クラシック映画に魅せられて~ - Films -
・偏愛メモ (2019-05-16)オードリー・ヘプバーンを抜擢した女性作家の半生「コレット」5/17公開 - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)(tw)