第01章 黄土の空の夜明け
第02章 山東の空の嵐
第03章 軍閥の翼
第04章 零細の空軍
第05章 上海の空は燃えた
P068 P079それは東北の空から始まった1931年9月18日午後10時30分、満州事変の幕開け。この時刻に奉天市郊外、柳条溝(当時はそう呼ばれていた)の鉄道で原因不明の爆発が起こり、それをきっかけとして日中両軍の衝突が起こった。
爆破の責任は日中両国でなすりあい、いまだに真相ははっきりしないが、その直後に見せた日本陸軍の間髪入れぬ速攻と、前もって用意した兵力の運用、張学良軍にの初期の無抵抗や混乱などから判断して、状況証拠からは日本陸軍の策謀以外は考えにくいといわれている。
この時関東軍が、ひそかに搬入していた巨砲は、張学良の拠点と飛行場を砲撃、続いてたいした抵抗もなく瀋陽城や瀋陽飛行場を占領した。これによって、一時は広東空軍と張り合うほどの勢力を振るった小空軍の残存機は、全機、日本軍に鹵獲された。
こうして東北三省の上空には、もはや中国の軍閥の翼はなく、かわって侵攻してきた日本陸軍機が飛ぶようになった。さすがにこのころになると周水子を経由して、はるばる遠征してくるのは、もはやサルムソンではなく、この2年前に採用になった新鋭機八八式偵察機であり、のちに少数の九一式戦闘機が加わった。
東北の空に現れた6機の八八式偵察機は、瀋陽占領後に東北三省の張学良軍残存部隊やゲリラの偵察、周辺小都市の攻略に役だった。
P070 中でも抗日の主勢力、馬占山軍は私設空軍を持たず、騎兵と歩兵の軍勢だから、要塞にたてこもったときなどは軽爆の襲撃がものをいう。対空火器はないので返り討ちになる恐れはまずないし、エンストして中国軍側に不時着しないかぎり、やられる恐れはなかった。帰投したら、対空砲火の弾痕でなく、下翼に矢が刺さっていたという話も、このころ伝えられた。
瀋陽を足場として周辺に侵攻する日本軍には、実は爆撃機がなかった。周水子経由で飛来した八八式偵察機はほんとうの純粋な偵察機で、爆弾架がなかったのである。そこで、鹵獲した東北空軍の5機のポテー25軽爆が使用され、八八偵にも大急ぎで応急の爆弾架をとりつける作業が現地で行われた。
日本陸軍は、一般に海軍に比べて科学性、合理性が乏しかったから、現地では戦線が錦州城攻略(相互参照)におよぶころから航空機の不足に悩み、とうとう民間機まで現地の物を徴用するにいたった。(tw)
このころ瀋陽飛行場に来ていた日本航空大連支社のフォッカー・スーパーユニヴァーサルは、複葉複座の八八偵やポテー軽爆に比べると、すばらしい輸送能力を持っていた。関東軍がこの機体の徴用を決定したとき、日航はもちろん拒絶したが、当時の軍の意向で結局は徴用され、軍用輸送に用いられた。
金日成の襲撃
(略)P072/ 074/ 076/ 078/ 080/ 082/ 084
第06章 杭州迎撃戦
第07章 天と地の内戦
第08章 新しい翼
第09章 真説 八・一四の空戦
壮行の宴 P163-165出動 P165-167
九六陸攻、展開完了 P167-168
その前夜 P169-171
朝 P171-174
昼 P175-177
難航 P177-180
着陸即離陸 P180-181
夕刻の勝利--六比零? P181-184
空の弾倉 P184-186
8月14日の総決算 P186-189
幻の大戦果 P189-191
第10章 攻撃機の命日
雲の迷路 P192-194攻撃隊発艦 P194-195
大災難 P195-196
軽爆対軽爆 P196-199
大隊長入院 P199-202
暁の強襲 P202-204
夜空の曳光弾 P204-205
追撃戦 P205-209
「新ホーク」戦闘機との対面 P209-212
第11章 天空からの襲撃
艦船襲撃 P213-214撃ちつ撃たれつ P214-215
張狂の襲撃 P216-219
誘爆 P220-221
名人の戦死 P222-224
まず当たるまい P224-226
百戦危うからず P226-228
体当たり第一号 P228-230
夢枕 P230-233
きみも上海上空に留まれ P233-234
時すでに遅し P234-235
第12章 揺々翅膀、大纏闘
新しい敵 P236-238太湖上空の空戦 P238/ 240-242
死角 P242-243
進出 P244-245
一三空の出撃
P245 1937年9月19日早朝、午前7時55分に60キロ爆弾2発づつを抱えた日本の九六艦爆18機は、和田少佐の指揮で上海の公大基地を離陸した。途中、二中隊2番機がエンジン不調で引き返したが、残る17機は低空で編隊を組み、貴腰湾上空で九五水偵12機の直掩を受けると、そのまま南京上空に向かって進撃した。
一方、一三空の九六戦は、二中隊が山下七郎大尉を長として6機、三中隊が横山保中尉の6機、計12機が離陸を開始した。三中隊と四中隊の各1番機は悪い滑走路のために離陸に失敗、横山中尉は予備機に乗り換えて編隊のあとを追ったが、入れ替わりに三中隊2番機がエンジン不調で引き返したので南京に向かった九六戦は10機になった。
この第一次航空撃滅戦の出撃命令は9月15日に出ている。
- 爆撃隊と水偵機は上海上空で集合、高度3000メートルから4000メートルで基本航行隊形で進撃、敵に機影を顕示しつつゆくこと。
- 一方、戦闘機隊は極力その所在を秘匿して進撃、上空で待つべき中国機を補足すること。
- 九五水偵は直掩だから、追撃に熱中してはいけない。 P246
- 爆撃は目標に直撃させなくてよろしい。ただ人心に恐怖をひきおこすことが目的なので、登弾点は高く、2000メートルから3000メートルで投下し、1航過で爆撃を完了すること。
- 九六戦の空戦時間は15分くらいなので、その後は爆撃機の援護は水偵が行うこと。
大纏闘
10時ちょうどに、九六戦の主力部隊は、南京上空で迎撃してきた別の中国戦闘機隊と遭遇した。
山下七郎大隊長の2番機である原田二空曹は、右後下方1000メートルのところに現れた複葉複座戦闘機(おそらくヴォート「コルセア」)を見つけて小隊から分離した。(略)
P248/ 250-251
蛇足を切る P251-252
精鋭対精鋭 P253-254
P254(略)
大隊長機撃墜(tw、後述1、後述2)
1937年9月26日午前10時13分、中国空軍の羅英徳は、新ホーク2404号機に乗り、列機の張韜良を伴って南京飛機場を離陸した。これは9月中旬まで、戦闘機小隊が世界共通の3機編隊であったものを、九六戦の出現以来、2機編隊に改めたものであった。
彼らは第五、第七大隊から抽出された10機の中の1隊で、この日4番目のパトロール部隊であった。
P255羅は張に、自分が北へ向かうときは右側に、南に向かうときは左側に、30メートル高く位置して飛ぶように指示して、とくに紫金山、棲霞山の方向を油断なく見張りながらパトロールについた。
離陸17分後、突然紫金山方向の上空でなにか白い金属めいたものが光った。ここを飛ぶ金属色の戦闘機ならば、まず九六戦に間違いあるまい。雲は多く、雲底は約1000メートルで、よく見ると九六戦は東の方、上海方面に向かって飛び、右翼を下げて地上を偵察している様子。
羅英徳はすぐに上昇倒転をうって急降下し、九六戦の後方についた。無修正で一連射の銃弾を送ると、射弾に気づいた九六戦は垂直上昇して雲の中に入ってしまう。しかし命中弾を与えた確信のある羅は考えた。
傷ついた九六戦は雲上には出ないで、また雲の下に出てくるに相違ない。案の定銀色の戦闘機は、宝華山の南で雲から出てきて東へ飛ぶ。撃つにはもう遠すぎたが、羅は九六戦から一筋の燃料の霧が尾を引いているのに気づいた。羅は九六戦より150メートル高く高度をとって、追って行く。
毘山上空に来た時、九六戦の燃料タンクから漏れていたガソリンの霧が突然なくなった。と同時にエンジンの止まった九六戦は高度を下げ、嘉定の東の田んぼに不時着し、泥に固定脚を採られてひっくり返り、背面になった。
P256 羅は30メートル低空で25分間その上を旋回していたが、やがて中国陸軍の兵隊が来てひっくり返った九六戦をもとに戻すのを見た。彼らは九六戦のパイロットを担ぎ出して担架に乗せる。それを見て羅と張は南京に戻った。着陸は12時13分であった。
その後中国陸軍第三○二団長から電話が来て、味方の新ホーク2404号機が墜とした相手は、日本海軍戦闘機隊の山下七郎大尉で、九六戦の転覆時に失神して、左腕も腫れているが、担架に縛って担ぎ出すと気づき、その後また意識が薄れている、との知らせが来た。石邦藩総站長は人々を派遣して、この九六戦を領収させた。
2日後の9月28日、捕虜になった日本軍の航空隊員が3人、中央体育場に連れてこられたと聞いて、羅英徳、石邦藩らはトラックに乗って会いに行った。捕虜収容所は中央体育館の観覧席の下にあって、普段ならば体育祭の時には指令センターとして使われるところであった。
中国陸軍の大尉と6人の兵士、1人の日本語通訳が彼らと一緒に捕虜の入っている二つの部屋に入った。最初の一人は8月15日午前に曹娥で撃墜された九五水偵の観測員で右腕を負傷しており、全身から臭気を漂わせていた。
羅が包帯を巻いた右腕を指すと、彼は「イテーヨ」というような声を出して失神した。この少尉は杭州で包帯をされていたが、その後包帯交換していないために腕は腐爛し、毎日「痛い、痛い」と叫んでいたという。ここには医官はいないので、手当はしてやりようがなかったのである。
もう一人は水上機母艦「能登呂」所属の飛行軍曹で、2週間前に靖江ほとりの沼沢地に撃墜され、不時着時に水偵の偵察員は死亡した。大腿骨骨折のため手術を受け、この時はいまだギブスに包まれていた。
地下の別室に山下七郎大尉は収容されていた。第七大隊長王天祥の親類にあたる王少康という隊員がここの収容所にはいて、日本語ができるため、彼が通訳を務めた。
彼によると、山下大尉がひっくり返った九六戦から担ぎ出された後ずっと昏睡状態で、南京まで来たとき、漸く意識が戻ったのであった。水を一杯飲み干すと、パンには手をつけず再び昏睡になり、南京に来るとき大雨にあって、山下大尉の衣類はびしょ濡れで、負傷した右腕も腫れたままであった。
石邦藩はすぐに医官2人に馬で来るように電話し、また中国服6着と綿衣3着を買いに人を派遣した。3人の日本海軍航空隊員が包帯や切開排膿などの処置を受け、乾いた清潔な衣類に着替えると、羅英徳の一行は基地に帰った。
山下大尉は回復するとパン1個を食べ、「自分は敗軍の将だから手当をしてくれるな」といった。羅英徳が、「腕の傷の手当てをしないでいたら、あなたはもう死んでいたろう」と言うと、山下大尉は恥じて、また感謝した。
羅英徳が、「我々は共に軍人であり、国家のために本分をつくして戦ったのである。しかし我々同志は互いに仇敵なわけではない。あなたも一生懸命戦って墜とされたのだから、日本国民に対して恥じることはなにもない」といった(tw、tw、後述)。
P257山下大尉は、「私には21才の妻と、1才8ヵ月になる子供があるが、もう彼らには会えないと思うと残念でならない」と言った。3人の捕虜には、いずれ香港を経由して日本に帰れるだろう、と話したところ、3人ともそうすると家人に迷惑が及ぶから、そうしないでくれ、と申し入れてきた。日本軍の規律では、どんな理由があろうとも、捕虜になることを厳禁していたからである。(略)
12月7日に羅英徳は蒋介石総統が首都南京から漢口に飛ぶのを護衛した(血戦長空23参照)。そして彼自身も12月11日に漢口飛機場に移動した。この間中国空軍から傷の手当を受け、虐待もされなかった山下大尉ともう1名の日本人捕虜は、段々恩義を感じて、日本に帰れば処罰が自身がおろか、家族にも及ぶ事情から、次の三つの条件がかなえられれば、中国空軍に協力してもいい、ということになった。その条件とは、
- 彼らが捕虜になっていることを公表せず、中国空軍の記録上彼らは捕らわれたあと、傷のために死亡したと記すこと。
- 完全に自由の身にすること。
- 以上の件を彼らの死亡以前には公表しないこと。
1977年に筆者が台北で劉毅夫(劉興亜)氏や台湾空軍に取材した時、高志航が山下大尉を撃墜し、その後山下大尉は日本軍の爆撃で死亡した、と教えられたのは上記の事情によるらしい。
羅英徳は1986年に台湾の空軍雑誌に、遺書のような思い出話“戦場以外之記憶”を3回にわたって連載したので、この章で述べたエピソードが初めて明らかになった。したがって以前『エアワールド』誌に連載した時の隆氏の談話はここで訂正させていただく。
羅英徳は40年経ったら公表する約束をして、その言葉通り1937年9月26日に彼が山下大尉を撃墜したこと、及び8月15日の曹娥における水偵の捕虜の件を消去した。王少康が提唱して、彼ら2名にはもう帰る家がないのだから、といって中国における結婚を取りはからった。
1938年1月15日に2人は紹介された中国の婦人と結婚し、
P258 正式に中国空軍の監察大隊の人員になった。その後も羅英徳は日本海軍後宮隊と度々交戦し、潮田良平大尉と南郷茂章大尉を撃墜した。結局撃墜機数は3機ながら、3名とも日本海軍航空機隊の大隊長という驚嘆すべき記録があった。
これを知った山下七郎大尉は、「あなたは私を墜とし、私と同期生の潮田を墜とし、そして2期下の南郷まで墜としたのか!」と言ってびっくりしたという。
後年中華人民共和国になったとき、羅英徳は台湾に渡ったが、日本の軍隊の非情な法律の故に、別の中国人として人生をリセットせざるを得なかった山下七郎大尉は、以後2人の子供に恵まれて、蘭州の学校で数学の先生になったともいわれる。
しかし公式記録から消されたために、1981年に筆者が北京で新中国空軍の関係者に山下大尉のその後を誰か知らないか尋ねたときも情報はまったくなくて、上記蘭州の噂を聞いたのみであった(参考tw)。
【参考】生きているのに靖国に祀られ…捕虜となった凄腕零戦パイロットの葛藤(神立 尚紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
9月26日の南京空襲では、指揮官として出撃した山下七郎大尉が敵地に不時着、重傷を負って中国軍の捕虜になり、中島さんは衝撃を受けたという。
「山下大尉は、そりゃあもう、大和魂の権化のような人で、非常に気性のはげしい人じゃった。それが捕虜になって、こりゃ全然わからんもんだわい、と思ってびっくりしました。あとになって、本人が上半身裸で体操をする写真が送られてきたりもしました。奥さんは福岡の自宅のまわりに竹囲い(蟄居謹慎をあらわす)をして、気の毒な生活をしておられたそうです」
山下大尉は成都監獄で終戦を迎え、終戦後の昭和21(1946)年2月7日、中国軍によって処刑された。
第13章 風寒く、壮士還らず
北方の戦場 P259-260大同の空戦 P260-261
加藤部隊きたる P261/262-263
エース、北方に飛ぶ P264-265
高楼に散る P265-266
飛機は西北から P266/ 268/ 270 -272
蹦々跳々 P272/ 274-275
雪の山獄 P275/276-277
南苑発、周家口行 P277-278
めぐりあい P278-280
開車!かからない! P280/ 282-283
投弾 P283-284
高隊長は機外にほうりだされ、凄絶な姿で右右翼の上に倒れ、戦死していた(後述)。おそらく高隊長の胸中には、あの雪の山獄で失った6機のI-16と、それを償う約束にしていた九六陸攻の編隊が上空に来ていたことがあって、好機のがすべからずと思い、それが彼に無理な迎撃を強行させようとしたのだ、といわれている。
毛瀛初の奮戦からみて、明暗は最初の開車にあった。エンジンがかからなかったために、あるいは彼の好餌となったかも知れない菅久少佐とその列機の中攻は、高志航の頭上に殺到し、この中国空軍の至宝を仕止めてしまったのである。
高志航こそは中国空軍の牽引車であり、劉粹剛同様、日本の航空隊に対して対等以上にわたりあうことのできた希望の星であった。その巨星は今や落ち、悲報は周家口から中国の各空軍基地に非常な衝撃をもって伝えられた。
第14章 薄幸の翼
外人部隊 P285-286奇跡のフィルム P286-289
奇しきベランカの物語 P289-290
挑戦 P290-292
戦場へ P292-293
そして幻の翼へ P293-296
馬丁重爆の出撃 P296-299
遅れる者は死すべし P299-302
国際飛行隊出撃す P302-304
反撃 P304-305
外人知るべからず P305-308
熊本上空十数分 P308-309
第15章 中ソ連合航空隊
20世紀の呉越同舟 P310-311大茅山 P311-313
山あいの急襲 P313-315
双方、隊長を失う P315-317
2代目は乱暴者 P317-320
無音の爆弾投下 P320-321
たった一人の戦闘 P321-322
加藤部隊対ソ連空軍 P322-325
墓標の上の書道 P325-330
鬼王誕生日の空戦 P330-332
命を賭けた黒旗 P332-336
第16章 山谷の防空戦
南昌、漢口撤退 P337-340山谷の墓地 P340-344
出師の表 P344-347
2種の重爆の出現 P347-349
燃える重爆 P349-350
みかど一号 P350-352
絨繵爆撃 P352-254
出川と入川 P354-355
日中の新戦闘機 P355-357
炎の重慶 P357/ 358(略)
P359中国空軍が仕入れた9機の新鋭、一八中隊の「ホーク」75Mは、たちまち消耗し、大編隊の連日の迎撃で第四大隊員も、その使用機も極度にガタがきていた。
開戦以来のヴェテランである王遠波は、被弾の修理なった1機のI-16を試飛行したところ、修理が完全でなかったとみえてI-16は墜落、機は破壊し、王遠波も死亡した。
鄭小愚大隊長も病に倒れ、黄山空軍病院に入院した。彼は董明徳のあとをついで大隊長になってからは、四川省の出身らしく地の利を生かして老獪に立ちまわり、中攻には損害を与えたが、8月以来、侵攻するようになった零戦は避けていた。
その鄭小愚の入院後に運命の1940年9月13日はきたのである(tw、後述)。
大隊長の欠落した第四大隊は、いつものように重慶地区への大空襲の知らせで離陸、彼らは西へ飛んで零戦を避けた。そこまではいつもと同じであった。
「零戦が行くと、彼らはいつも空戦を避けた。そして私たちが漢口へ引き揚げたあと、彼らは重慶上空を誇らしげに飛びまわり、中国の放送は今日も日本機を駆逐した、というのです。と横山保氏は回顧している。
零戦隊はそれですっかり頭にきて、なんとかこの日は彼らをつかまえてやろうと思い、一計を案じていたのです」
そしてこの日は36機(中国側観測)の中攻が広陽壩を爆撃してから、白色に輝く13機の新戦闘機も東へ去っていったが、それから少したったころ、黄山病院の鄭小愚に電話がかかってきた。
「四大隊と敵機、樫山上空で空戦しました」
白市駅飛機場を飛び立った20数機の第四大隊は、I-152、I-16の他に修理の完了した3機の「新ホーク」も含んでいたが、鄭小愚の用心深さを欠いた彼らは西に向かって高度をとると、高度3000メートルで重慶に戻ってきて、そこに再びとって返してきた零戦隊とぶつかってしまったのだ。
樫山上空で出会った彼らは、ただちに6機がその場で墜とされ、ついで歌楽山、白市駅、大中壩、江津などで戦ったが、速度、運動性、武装などが段違いで、いかんともし難く、ほとんど全滅に近い憂き目にあった。
「次の夜、司令部は戦死した杜桃華、余抜峯らのために16個の棺を買った。病床の鄭大隊長は、泣いて口惜しがり、これからは血をもって血に換え、命をもって命に換え、必ずや彼らの仇を報ぜずにはおかないと、云った」と鄭氏戦記には書いてある。
その後、頼遜岩が第四大隊長、曾達池が第五大隊長になって、飛機はソ連から引込脚の新鋭、I-153が補充されてきたが、
P360
零戦は成都にも攻撃をかけて猛威をふるったので、中国空軍としては、もうほとんどなすすべがなくなってきた。
廃墟と化した重慶に対しては、例のタブー地域に中国政府の中枢部があって、為政者に対する爆撃効果はなく、中攻は市街の残存部になおも時々猛爆を加えた。
1941年6月5日の夜間攻撃では、3万人の市民が避難した大防空壕が酸素欠乏になり、ほとんど全員が死亡した。重慶政府は市民の動揺を恐れて、死亡8000人と公表し、以後また1万2000人死んだと追加公表していったが、実際にこのときは一挙に3万人が死亡したのである(tw、後述)。 「
私たち何人かのアメリカ人パイロットが本気で日本の爆撃機と戦う気になったのは、この凄まじい重慶市街の徹底的破壊と一般市民の大量死を目のあたりに見てからです」と、このあと、飛虎隊に参加し、戦後30年間「フライング・タイガース(後述)」の事務局長を務めたウィリアムズ氏は言う。
「それは相手の戦闘力を奪う戦いではなく、一大都市、そしておびたたしい民間人に対する抹殺攻撃でした。日本の双発爆撃機は携行爆弾量は少なくても、来襲機数、回数が多く、爆撃計画が精密で効率が大だったのです。私は今でも数千人が一挙に焼死した日の空爆を思い起こすと、決して許せない気分になるのです」そう言って筆者を見るウィリアムズ氏の青い目は、初対面のときとはうって変わってきつい目となり、その表情は硬ばっていた。
P362 そして、このころ、炎の重慶を自分たちの目で見たアメリカ人たちが核になって、完全に打ちのめされた中国空軍のピンチヒッターとして、臨時の青天白日マークの新しい航空隊を作りつつあった。(下巻へつづく)
血战长空 メモ
高云天(高志航)、劉長嶺(劉粹剛+羅英徳)、毛将軍(毛邦初)、周将軍(周至柔)、何部長(何応欽)、長谷青川(長谷川清)、森川俊雄(戸塚道太郎or冢原二四三)、山下七郎(本人+羽切松雄)演員表02 1402陳納徳シェンノート(相互参照)
03 2801盧溝橋卢沟桥1937.7.7(相互参照)
04 1917広安門事件2035平津作戦1937.7.28-30(tw)
05 2725情深深雨蒙蒙
06 1937.8.10~12 1933大山中尉?他一名中国空軍飛行場のバリケード破る4149不得进攻
07 第二次上海事変(淞滬会戦)勃発1937.8.13(tw,tw,相互参照) 2632誤爆
02 03 04 06 07
08 3000鹿屋海軍航空隊大敗
09 2500南京空爆1937.8.15
10 夜間爆撃
11 訓練
12 0805沈崇誨体当たり
13 上海占領日本兵の残虐PR宋美齢1001杜月笙(セリフに登場)3311上海上空中戦九六式新型機に中国空軍敗れる3500空中戦山下七郎
14 山下七郎に撃墜された妻の悲しみ0601岗田芳子(岡田嘉子)3851、九一八事変を忘れない
15 1445南京大空襲1937.9.19
17 2100山下七郎一騎打ち(vs劉長嶺(原型劉粹剛+羅英徳))3000不時着1937.9.26(前述)
18 2100劉長嶺が馬昕藍に子ども扱い2620南京空爆1937.9.25 3000宋美齢、共産軍平型関大勝利を受けて、一道彩虹。1937.10共産軍、新四軍成立
19 0232列宁格勒レニングラード0338八路軍115師支援劉長嶺落下傘1937.10。1247宋美齢ラジオ放送PR2348 1937.11兰州机場I-15、I-16。3736第十軍船団、第四艦隊護衛(南雲中将)、杭州湾へ
20 1530苏俄的飞机ロシアの飛行機2300加藤建夫大佐2718苏联3913明知不可为而为之
21 ソ連軍の空爆で森川俊雄負傷。宋美齢負傷2831松井石根大将2906上伐制兵攻心为上
22 2620~山下七郎脱走
23 0558中国航空隊出動(1937.12.7蒋介石悄然離開南京(tw)0932南京陥落(大虐殺記録映像ナレ)1400山下七郎南京基地に帰還、戦死したとされ別名で戦線復帰(tw、前述)
24 加藤建夫大佐3023山下七郎許嫁と母親が訪ねるも人違いだとして追い返される(前述)
25 0230許嫁が山下七郎を尋ねるも会えず、ハンカチを渡す1400母親と再会、事情を伝える(tw、前述、後述)
17 22 23 24 25
26 遺族夫人の手紙2752ソ連空軍志願隊台湾爆撃1938.2.23
27 徳川好敏
28 2725熊本上空に侵入反戦ビラ1938.5.19
29 黄河の堤防破壊による洪水(1938.6)(tw、tw)
30
31 重慶無差別爆撃開始
32 ドイツポーランド侵攻1939.9.1
33 堀越二郎、ゼロ戦
34 2000黄山官邸爆撃1941.8.30 ゼロ戦(tw、参照)
35 0413零戦のデビュー戦1940.9.13対ポリカルポフE-15、E-16(前述)
36 1800ゼロ戦成都空軍基地攻撃強行着陸敵旗奪取1940.10.4(山下七郎(原型羽切松雄)、史実)高云天(原型高志航前述)(tw)
37 シェンノート、ワシントンでパイロットリクルート2322防空壕で~数千~一万人窒息死1941.6.5(六五大トンネル事件前述)、宋子文P-40購入2833朝日新聞重慶トンネル内窒息死の記事3330山下七郎(前述)自害
38 フライングタイガース(前述)
39 真珠湾、フライングタイガース(前述)
40
34 35 36 37 39