(上巻)
第一章 一冊目の本『ハリウッド映画史』P15-25
第二章 二冊目の本『機密漏洩事件』P27-37
第三章 モルガン家の伝説『大列車強盗』P39-55
第四章 ロックフェラー家の伝説『ジャイアンツ』P57-78
第五章 二十世紀の歴代大統領とゴールドフィンガー P79-87
第六章 億万長者の異常な愛情 P89-142(参照)
(略)P104 ユダヤ人の頭脳
(略)
P106(抜粋)エジソン・イーストマン/モルガン・ロックフェラー
1911年、最高裁判所がスタンダード石油のトラストに解体を命じてロックフェラーを危機に陥れる一方、USスチールのトラスト解体訴訟が起こされ、モルガンも社会的な窮地に立っていた。機を見るに敏なるイーストマンがエジソン・トラストから手を引き、ロール・フィルムを自由販売に切り換えた。このお陰でハリウッドに反トラストの映画人が集まりはじめ、みるみる発展をとげていった。
P108(抜粋tw)
- ユニヴァーサル初代社長カール・レルムはドイツ系ユダヤ人
- フォックスの社長ウィリアム・フォックスはハンガリー系ユダヤ人
- パラマウント社長アドルフ・ズーカーはハンガリー系ユダヤ人
- ユナイテッド・アーティスツの設立者のひとりチャールズ・チャップリンはフランス系ユダヤ人
- ワーナー・ブラザーズを設立したワーナー四兄弟はポーランド系ユダヤ人
- コロンビア社長ハリー・コーンはドイツ系ユダヤ人
- MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の最初の頭文字メトロ映画の所有者マーカス・ロウはオーストリー系ユダヤ人、二番目の頭文字サミュエル・ゴールドウィンはポーランド系ユダヤ人、三番目の頭文字のルイス・B・メイヤーはロシア系ユダヤ人
チャップリンが1914年にデビューしてから移籍した映画会社を「エッセネ映画社」というが、このエッセネとは、聖書を開くと登場するユダヤ人社会の主流サドカイ派とパリサイ派に対して、静かな禁欲生活を求めた"エッセネ派"に由来している。
どのような社会でも常に保守派と革新派が力を争い、それに対してまったく独自の思考を求める人たちが出現する。権威を嫌い、死海のほとりのクムランの洞窟で修道院生活を送ってた人びとである。
この宗派のなかからイエス・キリストが生まれたと考えられている。その名を冠した映画会社であるから、ある種の孤高の宗教心を持っていたとも考えられるが、実際にはエジソン・トラストに支配されていた。
一九一〇年代から二〇年代にかけて反旗を翻したユダヤ系のの映画人リストは、スコットランド系やアイルランド系のイギリス人がそれぞれ内部にさまざまな性格の人間をかかえていたように、ユダヤ教の宗派もまた非常に複雑で、ユダヤ人とひと言で呼ぶことは乱暴すぎた。
重要なことは、彼らのほとんどがユダヤ人貧民窟の出身者であったため、エジソン=イーストマン・トラストの貴族的独占にあくまで抵抗し、本物の芸人を集めたゲリラ戦術によって横暴な城を陥落させた点にあった。
しかし優性思想を持つ人間の目から見れば、この現象は明らかにこれまでの彼らの流儀に合わない出来事だった。そのような異教徒の自由を許したことは、一度たりともないのだ。 モルガンはこれを“ユダヤ人種”の問題として受け止めた。ロックフェラーは“ユダヤ金融機関”の問題と受け止めた。しかし両家の行動は、同じ旗のもとで一丸となって進められよう。
P111両家とも世間から痛烈に批判され、新聞社を買い占めながら、大々的な広報活動の反撃に入ったばかりだった。映画はそのなかで、これから新しい役割を果たすに違いなかった。それが今はユダヤ人の手に握られているのだ。
映画界は、自分の部屋に戻っていた。そこでの楽しみは、目もさめるような映画をつくることだ。
しかし彼らの背後では、すでに一九〇八年から別の力が動きはじめていた。カリフォルニアの太陽を求めて東部からやって来た映画人がハリウッドを発見した一九〇八年、そこに仮のスタジオを設営すると、まず撮影しはじめたのが、セオドア・ルーズヴェルト大統領の大好きなアフリカの猛獣狩りの映画だった。
この映画でルーズヴェルト役を演じたのが、ウェスタンで一世を風靡したトム・ミックスだった。トムは派手な曲乗りと早射ちで大いに受けたが、彼は実際にルーズヴェルトの部下だったので、猛獣狩り映画は実感のこもった作品に仕 上がり、大成功を収めた。
ルーズヴェルトがその勢いでトラストに襲いかかっていた頃でもあったため、モルガン・ライオンを仕止める図、と読み取る映画ファンもかなり居た。
「アフリカのライオンが本来の義務を果たすよう期待する」とモルガンがおぼえたのは、ルーズヴェルトが稀に見る誠実な人間で、のちにノーベル平和賞を受賞するほど勤勉な精神で立ち向かったからだ。
オリンピックの第一回功労賞も、セオドア・ルーズヴェルトの頭上に輝いた。
P112このルーズヴェルトの正体は、ユニオン・パシフィック鉄道でロックフェラーとパートナーとなったエドワード・ハリマンから五万ドル、ジョン・D・ロックフェラーから十二万五千ドル、ジョン・ピアポント・モルガンから十五万ドルを受け取り、さらに業界が一丸となって総計二百万ドル、今日の百億円という大金を得て大統領に就任した人物であった。
この噂が広まったとき、ルーズヴェルトは選挙参謀に「各社に金を返すように」と文書で指示を与えたが、文書と行動は別である。二百万ドルのうち一ドルも返却されず、逆に十万ドルの追加を請求する欲深さを示したのが、ルーズヴェルトだった。その前身は、ニューヨーク警視総監である。
ルーズヴェルトという大統領が二十世紀に二人登場するので、こちらを“ライオン・ルーズヴェルト”と呼び、のちに第二次世界大戦で登場して原爆を製造させるフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトを“アトミック・ルーズヴェルト”と呼び分けてみよう。
すでにライオン・ルーズヴェルトの前任者のマッキンレー大統領が、独占解体のための“シャーマン反トラスト法”を成立させていたが、このシャーマンとは国務長官ジョン・シャーマンのことだった。
ジョン・D・ロックフェラーの高校時代のからの親友マーク・ハンナの部下である。ロックフェラーが世間から激しい攻撃を受けているとき、ロックフェラーがわざわざ内閣に送りこんだ地元の仲間が、どうして彼に不利な法律を定めよう。
「マーク・ハンナの好き放題になるではないか」
当時のアメリカで、このようにシャーマンの就任に対して怒声が飛び交った、と大統領史に記録されている。P113彼の後任ウィリアム・デイも同じくマーク・ハンナの僚友で、オハイオ州出身である。アメリカ人は知っていたのだ。
このマッキンレーを継いだライオン・ルーズヴェルト大統領は、トラスト解体を司法長官に命じておきながら、彼が司法長官に任命した人物は、アンドリュー・カーネギーの弁護士フィランダー・ノックスであるから、USスティールが解体されるはずはなかった。
むしろ、この時代に財務長官を動かして、モルガン商会が「エレクトリック債券株券」を設立しながら百万の富を稼ぐのを支援し、ウォール街の制度には指一本触れようとしなかった。
ルーズヴェルトの猛獣狩り映画が製作された年に、歴史を動かすひとつの組織が誕生した。大統領が、司法省のなかに「捜査機関」を設立するよう命じたのである。
モルガン=ロックフェラーの独占財閥が、アプトン・シンクレアの告発書『ジャングル』をはじめとする世論の激しい攻撃にさらされ、エジソン=イーストマンの横暴に映画界が怒り、ユダヤ人の一匹狼がそちこちで動きはじめた時代だった。捜査の目的は何か。
ライオン・ルーズヴェルトは、その秋には主人のモルガンとロックフェラーから肩を叩かれ、「議会の反対を押し切って、捜査機関をつくってくれたのは御苦労だった」と言葉をかけられながら、“激しい選挙戦”という最後のステージを見事に演じつつホワイトハウスを去って行った。
新しく大統領に就任したのは、ロックフェラーの根城オハイオ州から呼び出されたウィリアム・ハワード・タフトだった。この内閣もまた、国務長官がカーネギーの弁護士、財務長官は甥がUSスチールの弁護士、戦争長官がモルガン鉄道の弁護士、商務長官がベル電話の重役…といった面々で埋められていた。
(P114)
P114ホワイトハウスに入ってわずか一週間後の一九〇九年三月十二日に、タフト大統領は正式に「捜査局」を創設した。ライオン・ルーズヴェルトがまいた種をたちまち育てあげ、これに大きな司法権力を与えたのである。
タフトの父親は、オハイオ州でロックフェラーの違法なリベートを弁護し続けてきた高等裁判所の判事からスタートして、戦争長官にのしあがった人物だから素性は知れている。
これらの歴史から誕生した捜査局は、特異な目的を持っていた。他人の笑い声を耳にすると、そこに自分が加わっていないという理由だけで我慢ならない感情を抱く人間が、この世には存在するのである。
ロックフェラー二世が社長に就任して一九一三年から発足した慈善財団は、もはや金庫に詰めきれなくなって溢れ出した札束を拾いあげると、大金をバラマキはじめた。
この年から、大統領は史上稀に見る誠実なウッドロー・ウィルソンに代り、その三月三十一日にわがジョン・ピアポント・モルガンがこの世を去って行った。“ラドローの虐殺”が起こったのは、その翌年の出来事である。
慈善事業スタートと同時に、ロックフェラーの「コロラド燃料製鉄」では、一九一四年のラドロー工場、ついに労働者のテント村が会社側の手で焼き打ちされ、婦女子を虐殺する事件となったのである。
ロックフェラーの支配会社には、このような無数の暴力事件が発生していた。エジソンのメンロー・パークを抱え、P115ニューヨークに隣接するのがニュージャージー州である。
ここは、ニューヨーク市を包む地理から見ても、ニューヨーク州よりニューヨークらしく、ウォール街は目の前にあった。そのニュージャージー州の「スタンダード石油」で二年後の一九一六年、会社の守衛隊が労働者に銃弾を射ちまくり、数十人の死傷者を記録した。“ベイヨーンの虐殺”である。
、ロックフェラーはエジソンの映画トラストを見放して解散させながら、すでにもう一方の手で、別の映画会社を設立するのに秘かな資金提供を申し出ていた。
このふたつの虐殺事件はに挟まれた一九一五年には、ロックフェラーはエジソンの映画トラストを見放して解散させながら、すでにもう一方の手で、別の映画会社を設立するのに密かに資金提供を申し出ていた。
そこに西部劇の王者ウィリアム・S・ハート、チャンバラ王フェアバンクスに加えてマック・セネットというドタバタ喜劇役者を招いたが、セネットこそチャップリン、ロイド、キートンの三人を生み出した喜劇の父だった。
そしてもう一人の重要人物は、黒人を犬のように扱いながら民主主義を謳い上げ、各地で上映禁止の激しい抵抗を受けながら爆発的人気を得た映画『国民の創生』(tw)のD・W・グリフィス、当時アメリカ一の人気監督、である。
捜査局、続いて虐殺、さらに映画進出の意味は何か?
ロックフェラーにとって、これほど好都合の作品はなかった。グリフィスは白人のための民族主義者として殺人集団KKKを英雄として描きあげ、映画として見ればその劇的な演出は人を興奮させずにはおかなかった。
この作品のなかで、牧師が次のように訴えていた。
「南部の人たちよ。いまや行動する時が来たのだ。クー・クックス・クランはこの黒人を処刑し、死体を黒人知事の門前に置くであろう」
(P116-)
P116KKKの歴史は次のようなものだった。
KKKは一八七〇年に組織され、今世紀に入ってから一九一五年まで活動をやめていたが、『国民の創生』が公開されたこの年から、牧師ウィリアム・J・シモンズをリーダーとして再び大々的に活動をはじめた。
『国民の創生』において恐ろしい言葉を語った牧師の名前をトマス・ディクソンと言うが、この映画の原作者である。黒人を処刑せよ、という言葉が、牧師の口から発せられたのだった。
そのディクソンの仕事仲間にハリー・M・ドハーティーという男がいた。その人物が、ロックフェラーの根城に住んで当時政界を腐敗させ、“オハイオ・ギャング”と呼ばれた一団の頭目であった。KKKとロックフェラーは密着していたのである。
アメリカの政界では、取り巻きの人間が大統領の出身地と深いつながりを持っている時、このような呼び方をする。タフト大統領とハーディング大統領のときには“オハイオ・ギャング”、トルーマン大統領では“ミズーリ・ギャング”、カーター大統領では“ジョージア・マフィア”が、それぞれホワイトハウスを乗っ取ったと言われる。
KKKの本拠地は南部で、ロックフェラー=モルガンの本拠地は北部である。しかしKKKは北部でも、白い三角頭巾をかぶり、烈しく活動していた。オハイオ州に隣接するミシガン州では特に力が強く、チャールズ・スペアーという首領のもとで殺人テロを繰り返し、北部一帯にタイマツの行進が見られた。
このKKKに出資した人間のなかに、自動車王ヘンリー・フォードとジョン・J・ラスコブの名があった。
P117フォードはウォール街と闘ったと言われるが、実は、噓だ。
フォード財団の理事長ジョン・J・マクロイ(相互参照)がロックフェラーのチェース・マンハッタン銀行総裁、あるいはヘンリー・フォード・JrがモルガンのGE重役、といった関係から明らかなように、フォード自動車は、ロックフェラーとモルガンの連合会社である。
このフォードの自動車工場は、本拠地ミシガン州デトロイトに置き、KKKの首領スペアーを雇っていたのである。自動車の町デトロイトの地理をわかりやすく言えば、五大湖のひとつエリー湖をはさんで、この町の対岸にオハイオ州クリーヴランドがたたずんでいた。
もうひとりの重要な支援者ジョン・J・ラスコブは、デュポンの副社長で、ゼネラル・モーターズの重役である。ウォール街ではジャック・モルガンの第一の友人でもあった彼は、北部の自動車も握っていた。
こうしてKKKは育てられたのである。
『国民の創生』のグリフィス監督を中心に、豪華な映画人S・ハート・フェアバンクス、セネットらのメンバーを招いて新しい映画会社「トライアングル」を設立しようとしたのは、実はユダヤ金融機関「クーン・レーブ社」だったが、「スタンダード石油」はそこに仮面をつけて侵入することに成功していた。
スタンダード石油会社は当時どのような状態にあったのか。
世間の目から見れば、五年前に最高裁判所から「石油トラストを解散せよ」との命令を受け、大蛇の支配もそれまで、と信じられた。
P118ところがスタンダード石油が三十数社に分割されると同時に、ウォール街で売り出されたこれらの新会社の株券は、わずか三ヵ月間のうちに、百ドル分が百三十ドルに値上がりするというすさまじい人気を得てしまった。
皮肉にも、トラスト裁判の暴き出したスタンダード石油の王国ぶりが、人びとの投機心を大いに刺激したのである。“ベイヨーンの虐殺”を起こしたニュージャージー州の会社は、この新しい三十数社のなかで最大企業、今日の“エクソン”だった。
ロックフェラーはこうして世間から非難され、仕方なく言われた通りに行動してみたところ、スタンダード石油をいくつに細かく切り分けても、たとえそれが千の会社に別れても、株券をロックフェラーが握っている限りトラスト解体には何の意味もなかった。
むしろ黙っていても金庫の札束が三十パーセント増える不思議な現象を目撃した。そのうち彼が慈善事業に取り分けたのは、総額わずか五パーセントでもすむ額だった。
その金額は人びとが想像できないほど大きく、素晴らしい贈り物に感じられたが、彼にしてみれば“もともと不条理な原因で増えた部分を少しだけ削っても、決して他人に利益を与えたことにはならない”とおもわれたのである。
このスタンダード石油トラストの解体に関しては、歴史家の気づいていない実に奇怪な物語が発見される。この訴訟の検察官がフランク・B・ケロッグという人物だが、のちにクーリッジ政権の国務長官をつとめ、ノーベル平和賞まで受賞する。
ところが、彼が経営していた法律事務所の扉を開くと、パートナーが「USスチール」の顧問弁護士ジョージ・モルガンである。もうひとりのパートナーであるコーデニオ・セヴェランスは、「カーネギー国際平和基金」の管財人で、彼の妻はロックフェラーが買収した鉄道王ハリマン家のメアリー・フランセスである。
P119しかもこのような仲間に囲まれたノーベル賞受賞者のケロッグ検察官は、スタンダード石油訴訟ばかりか、当の「ハリマン鉄道」の不正調査委員会のメンバーとなっている。
不思議な法律事務所だが、このオフィスはモルガンが支配する「ファースト・ナショナル銀行」の建物のなかにあるのだ。人名辞典がさり気なく教えている。
ロックフェラー家は代々、世界一の慈善家であり、至るところに美しいバラの大輪を咲かせた。メトロポリタン美術館の分館として、一九三八年にはクロイスターズ美術館を建造している。
この美術館の名前「クロイスター」とは修道院のことで、建物自体が中世ヨーロッパの修道院の遺跡を集めて建てられ、まことに目を見張るばかりの壮大な芸術作品を生み出している。
モルガンと同じように敬虔なクリスチャンで知られるロックフェラーが、このように佳麗な芸術を愛したところに、多くの人は感動するだろう。
「シカゴ大学」の建設はほとんどロックフェラーの私財によって成し遂げられ、「コロンビア大学」のリンカーン・スクールも同じである。「ジョンズ・ホプキンズ大学」への寄付は莫大なものに及び、「カリフォルニア工科大学」への研究協力も知らぬ者がいない。
こうした慈善事業をおこなうロックフェラー財団(tw,tw,tw)の理事を調べてみると、たとえばクラーク・カーは「カリフォルニア大学」のの総長に就任し、ロバート・ゴーヒンが「プリンストン大学」の総長に就任するという具合で、これらの名門校が“ロックフェラーの揺りかご”として多くの学者を輩出してきたことが分る。
このうち「コロンビア大学」の敷地を持っていたロックフェラー二世が、壮大な科学センターとして「ロックフェラー・センター」をそこに建造している。
また、バレエ、芝居、オペラ、コンサートのための総合的な舞台芸術センターをつくろういう考えに対し、ロックフェラーは一千万ドルを超える建築費を寄付して、「リンカーン・センター」の完成に最大の貢献を成したという記録もある。
このセンターの会長にジョン・D・ロックフェラー三世の名が見られることでも、その貢献度が理解されよう。
このほかにも、「メモリアル病院」、「ロックフェラー医療研究所」、「ロックフェラー衛生委員会」をはじめとする医療への寄付は、数え切れない点数にのぼっている。
しかしこの素晴らしい贈り物の数々は、“ユダの接吻”と呼ばれ、アメリカ人に用心深く見られてきた。『ゲルニカ』で反骨精神を示したスペインの天才画家パブロ・ピカソは、ロックフェラー・センターの壁画を頼まれたとき、なぜその仕事を激しく拒絶したのか。
・『西部戦線異状なし』
→つづき
第七章 ハリウッド危機一髪 P143-201(参照)
第八章 ジキル博士とハイド氏 P203-268
■紳士が軍服に着換える時 P204-220P206これが第二次世界大戦の実相だった。「経済開発委員会」は別名"戦争準備委員会"と呼ばれた。創設者が「フォード財団」のポール・ホフマン、会長が「イーストマン・コダック」の重役マリオン・フォルサムである。
これは、軍人による戦争ではなかった。ウォール街が指示を与えたのではなく、投機業者がいの一番に自ら軍服を着て、作戦指令室を占拠してしまった。作戦本部すなわち証券取引所、という姿が見えない限り、第二次世界大戦の真相も見えない。
ジャック・モルガンとロックフェラー家が軍需産業を自在に動かす世界のなかで、史上最大の作戦が動きはじめた。
開戦から二ヵ月後の十一月三日には、アメリカの武器輸出が認められ、モルガン、ロックフェラー、デュポンの工場は轟然たる音を立ててフル回転しはじめた。全産業の七割近くを握っていた彼らの工場である。
ハリウッドのユダヤ人たちは、ようやく問題の本質に気づきはじめた。大金を手に入れるため、ヘイズ・オフィスに身売りすることは一向に構わない。しかしそれがヨーロッパで、ユダヤ人たちにとんでもない悲劇を起こしはじめている。
チャップリンの『独裁者』が封切られた一九四〇年には、P207ハリウッドから続々とナチズムを批判する映画が生み出されてゆき、ナチスのパリ入城が伝えられると、怒りが燃えあがった。
開戦の翌年には、ドイツがスカンジナビア半島のノルウェーを陥落させ、次いでベネルクス三国のベルギー、オランダ、ルクセンブルグへ侵攻し、その火勢はとどまるところを知らず、アフリカ大陸へ軍隊を進めると、さらに海を越えてイギリス本土への攻撃をはじめていた。
三年目に入った一九四一年には、ソ連への侵攻に踏み切り、ユーゴスラヴィアへも兵を進めた。
モルガンとロックフェラーは、こうしてナチスの大戦争がヨーロッパ全域に燃えひろがってゆくまで、すべて計算通りのスケジュールを組んでいた。火薬、鉄砲、爆弾、軍艦、軍用機、タンク、ジープなど軍需品生産額は、この年の武器貸与法(相参,相参)の成立によってますます好調に伸びていた。
これを仕切ったのが、ホワイトハウスの二階にある"リンカーンの間”に泊まりこんでいた、モルガン=ロックフェラーの代理人ハリー・ホプキンスで、彼は武器貸与調整官としてロンドンに兵器を送り続けた。
そのロンドンには、大陸横断ユニオン・パシフィック鉄道の会長W・アヴェレル・ハリマンが派遣され、これまたロックフェラーの盟友として大戦を鼓舞し続けた。だがここに、モルガン=ロックフェラー連合にとって思いがけない誤算が生じたのである。
ルーズヴェルト大統領はモルガン商会のラモントを顧問とし、USスチールでFBI設立の策を練った典型的なモルガン代表者だった。危険で狡猾な性格を秘め、自ら設立したFBIを、私的な検閲に利用しはじめた人物でもあった。
ところがルーズヴェルトは、ユダヤ人を迫害する運動には猛烈に反対する、という態度を表明したのである。
P208この一点をもって、ルーズヴェルトはアメリカ大統領史に輝く正義の代表者として、今日まで語り継がれている。
彼が大統領になるための私財は、どこから生まれたのだろう。それは隣家に住んで長らくルーズヴェルトの投棄を取り仕切ったヘンリー・モルゲンソー・Jrからもたらされたものだった。
モルゲンソー・Jrの父は、モルガンからロックフェラーに支配権が移った巨大会社で、のちに「チェース・マンハッタン銀行」の母体となる「エキタブル生命」の重役をつとめ、トルコ大使、メキシコ大使を歴任した。
祖母もまた、「モルガン商会」と共同で鉱山事業を営むグッゲンハイム・トラスト一族の娘だった。グッゲンハイムは、ベルギー領コンゴと南アフリカからローデシア一帯に入り込む金属採掘業者である。
大統領を目指したルーズヴェルトにとって、このような両親を持つヘンリー・モルゲンソー・Jrが親友だったことは、どれほど心強かったことか。
ところが彼にとって最愛の友人、このモルゲンソーが、ユダヤ人だったのである。モルガン一派の読み違いが、ここにあった。
ヒットラーが首相に就任すると、モルゲンソーはただちに友人ルーズヴェルトと相談を重ね、自ら財務長官の座についてしまった。こうしてアメリカの金庫を握ったユダヤ人の反撃がはじまり、ルーズヴェルト内閣は内部で投機業者と投機業者が闘争する矛盾をかかえたまま、世界大戦の時代に突入していたのである。
開戦から月日が流れるにつれて、アメリカ国内では"ファシスト・ヒットラーを打ち倒せ”の世論が高まり、ヨーロッパへの参戦に民衆の意気が昂揚していったが、この参戦を食い止めるP209大きな力がルーズヴェルト内閣のうえに作用していた。
ヒットラー=ムッソリーニ(相互参照)と大連合を組むロックフェラー=モルガンの力である。彼らは「アメリカ・ファースト委員会(America First Committee)」という、またしてもその資金源をただちに連想させる名称の新しいファシスト宣伝体を結成すると、そこにヒットラー十字功労章のチャールズ・リンドバーグとヘンリー・フォードを招き、さらに豪華なメンバーを加えた(tw)。
(『新・映像の世紀』03時代は独裁者を求めた。金鉱採掘師としてロシアを憎み、三代の大統領を支配したハーバート・フーヴァー前大統領が、巨体をゆさぶりながら馳せ参じた。また、"オハイオ・ギャング”としてホワイトハウスを占領したウィリアム・タフト大統領の息子ロバート・タフトは、ファースト委員会の重要メンバーとして幹部の座を占めた。こうして、今世紀の大統領の人脈をほとんど糾合してしまったのである(相互参照『鮎川義介と経済的国際主義』P228、『第二次大戦に勝者なし(WEDEMEYER REPORTS!』P31、P36リンドバーグ演説)。
45:45~新ナチ団体集会/リンドバーグ反戦演説1940.8.4シカゴ/ウォール街、企業フォードやIBMなどドイツに投資/勲章を授与されるフォード1938.7.30(tw)。 53分過ぎ、ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」ファシズムは単にナチズムを意味するのではありません。この音楽は恐怖・屈辱・魂の束縛を語っているのです。交響曲第七番はナチズムだけでなく今のソビエトの体制を含むファシズムを描いたのです。53:49真珠湾~反戦→参戦プロパガンダ~アウシュビッツ~原爆開発~ファシズム陣営崩壊、ノルマンディー1944.6.6~ヒトラー暗殺未遂事件裁判~パリ解放1944.8.25ナチス協力者へのリンチ~ソ連クラスノダール解放後ナチス協力者(反スターリン)の処刑~ベルリン攻防1945.5~6~ヒトラー最期の言葉「~100年後には新たなナチズムが誕生するだろう」~ドイツ降伏1945.5.7~原爆投下~WW2終結1945.9.2~ヒトラーの遺産、米ソはドイツのV2ロケット技術を科学者とともに獲得、冷戦へ~ブーヘンヴァルト強制収容所、見学させられるドイツ人たち)
この委員会を組織司令本部は、もちろんニューヨークのサリヴァン=クロムウェル法律事務所で、財務委員をつとめた人物がジョン・ダレスだった。会の帳簿にダレス夫妻から莫大な資金が収入として記載されているのは、彼らがポケット・マネーをはたいたからではない。彼はロックフェラー財団の理事長だった。
この「ファースト委員会」の活動は、リンドバーグ、フーヴァーのような"スター”を使って、ナチス党のジョージ・ヴィエレックから配布される宣伝文をラジオ放送に乗せ、大量のパンフレットをばらまき、新聞に全面広告を掲載する、という精力的なものだった。これが反戦運動だった、という点が重要である。ナチスの反戦運動…
「ファースト・ナショナル銀行」系列にあるこの「アメリカ・ファースト委員会」が攻撃した相手こそ、マルクスとエンゲルスが創始した「ファースト・インターナショナル」だったのは皮肉である。両者が第一位を争った。
「ファースト委員会」が活動に入る五ヵ月前に、ひとりの謎の人物がドイツからアメリカにやって来た。その名をゲルハルト・ヴェストリッヒ博士といい、ユダヤ人の女性を売買したIGファルベンの顧問弁護士であると同時に、イーストマン・コダック社のドイツ会社で顧問をつとめていた。
正式の肩書は「スタンダード電機技術」の社長だったが、この親会社の「国際電話電信ITT」の重役アーサー・アンダーソンとラッセル・レフィングウェルは、ふたりともモルガン商会の重役である。
ナチスから派遣されたこのヴェストリッヒ博士が、ヘンリー・フォードと会い、あるいはモルガンの「テキサコ」や「ゼネラル・モーターズ」のトップと秘密会談を重ねていることが世間に知れ渡ると、大きな非難の声が沸きあがった。
この一九四〇年四月には、すでにヨーロッパでの戦火は激しく燃えあがり、ドイツに対する評判がひどく悪くなっていた。こうして謎の博士は早々とアメリカを去ったが、このあとに「ファースト委員会」が設立されたばかりか、そのときの博士の行き先は、なぜか日本だったという。
これは世界史の謎である。今もって動機は分からないが、敢えて記しておこう。
「ファースト委員会」は、ロックフェラーの牙城オハイオでフランク・バーチという人物によって運営されていたが、彼はヒットラー政府から一万ドルを受け取り、のちに有罪となを宣告されている。
逆にドイツでは、シュレーダー男爵の手先となってナチス"友の会”を結成したハインツ・クネーベルが、P211「フォード自動車」からサラリーを貰ってるという複雑な関係があった。
正社員として雇われていたのだ。謎のヴェストリッヒ博士は、ドイツのケルンにある「フォード自動車」の重役である。資金を与えるスポンサーが存在しなければ、これだけの世界的なファシズムは起こり得なかった。
こうして盟友ヒットラーに対するアメリカ人の攻撃を食い止めるのに成功したモルガン=ロックフェラー連合は、その代表者ジョン・フォスター・ダレスが次のように語った。
「枢軸国のドイツ、イタリー、日本がアメリカに仕掛けると考えるのは、まさにヒステリックな妄想なのだ」ドイツの巨大産業はアメリカにも進出して支店や工場を構えていたが、没収される危険があったため、その会社の株をダレスに信託するかたちで巧みに隠れているという事情が裏にあった。
その頭上に、誰も予想しない出来事が落下してきた。わが日本軍が、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカの艦船を大量に破壊した!一九四一年十二月八日のことである。これは、ウォール街のビジネスをまったく理解しない人間の作業である(相互参照、tw)。
謎の人物ヴェストリッヒ博士は、日本に立ち寄ってアメリカとドイツの裏話を語り、日本がアメリカを攻撃すればヒットラーのビジネスに矛盾が生ずることを指導したのか。
われわれファシストは、P212世間から見えないところで深く結び合っているのだ、と…しかし日本人には、その計算がうまくできなかったのか。
真珠湾攻撃のニュースに驚いたのは、誰よりもヒットラーとムッソリーニだったのである。しかし政治家は、自己矛盾が生じたとき選択の決断を示さなければならない。
ウォール街二十三番地のアメリカを選ぶべきか、ファシスト仲間の日本を選ぶべきか。ヒットラーとムッソリーニが丸二日間も考え続けたあと、ようやく苦悩の果てに出した結論は、三国による世界制覇の野望と変り、三日目にアメリカへの宣戦を布告したのである。
これで、歴史の矛盾は一切消え去ってしまった。喜んだのはルーズヴェルトである。投機屋モルゲンソーと投機屋モルガンと板挟みとなって、「この戦争はいかに馬鹿げているか」と演説してきた大統領だったが、日本という愚か者が攻撃を仕掛けてくれ、ドイツとイタリーが対米宣戦布告に追い込まれたため、盟友関係にあったアドルフ・ヒットラーとジャック・モルガンが敵味方に別れてしまったからである。
この日をこそ、ルーズヴェルトは待ち望んでいたのだった。"真珠湾攻撃”の予報は、すでに暗号文が解読されて、分かっていた。それでも"奇襲”されるまで待ったのは、このような事情があったからである。
その証言者として、イギリス首相ウィンストン・チャーチルを挙げておきたい。彼の著書『大同盟』には次のような記述が読まれる(tw,tw)。
---ルーズヴェルトは、この中立を守っているアメリカを戦争に介入させるよう強く望んでいた。P213しかし彼はその方法を知らなかった。そのため日本軍の真珠湾攻撃は、アメリカ国民全体を一致団結させ、ルーズヴェルトの戦争介入の責任を大きく軽減させたのである---また、アメリカ陸軍参謀本部のウェデマイヤー将軍は、『ウェデマイヤーは報告する!』のなかで次の事実を明らかにしている(相互参照)。
---真珠湾攻撃の前日、日本の暗号文を解読した結果、ルーズヴェルトは奇襲を事前に知っていた。大統領顧問が予防措置をとるよう進言したが、ルーズヴェルトはその必要なしと答え、「民主主義のためには、立派な記録を残せるよう事態の進展を待たなければならない」と語った---その事態の進展とは、一体何だったか。
奇襲四日前の"シカゴ・デイリー・トリビューン”には、一面トップに「ルーズヴェルトの戦争計画」がスクープされ、大統領がいかに戦争を待ち望んでいるかが報道されていた(参照)。
その罠に落ちるかのように、奇襲が起こったのである。
モルガン=ロックフェラー連合は、この驚愕の事態にどのような手を打とうとしたか。日本の真珠湾攻撃と、ドイツのアメリカ宣戦布告の日から、事情は一変した。リンドバーグの偶像が音を立てて崩れ落ちたのは、この瞬間である。
モルガン商会とチェース・ナショナル銀行は大急ぎで反ヒットラー主義に思想を切り換え、ハリウッドに指令を出した。
「戦意を昂揚する映画を大量に作れ」
P214(略)銀行家たちが態度を豹変したこの真珠湾攻撃を境にして、外から見ると驚くほど鮮明に、アカデミー賞の選択基準を切り換えた。ヒットラーがポーランドに侵攻した開戦後の受賞作は、まだアメリカが参戦しない段階では、次のようなものだった。
戦争という面でみれば南北戦争に敗れる南部側を描いた『風と共に去りぬ』、新妻を戦争で失う悲劇を描いた『チップス先生さようなら』と、戦意を低下させる作品が受賞した。
あとはすべて戦争に無関係の『駅馬車』、『レベッカ』、『フィラデルフィア物語』、『恋愛手帳』、『西部の男』と、エンターテインメントばかりが並ぶ。一本だけ社会派の作品『怒りの葡萄』が監督賞と助演女優賞を受けているが、この映画はモルガンの宿敵「アメリカ銀行」のジャンニーニに対する"民衆の怒り”が特別に描かれた作品なのである。
ハリウッド一の演技派ヘンリー・フォンダがアカデミー賞にノミネートされたのは、死の直前に『黄昏』で勲章を与えられるまでは、この作品一本だけだったという謎も、これで氷解するだろう。
真珠湾攻撃後のオスカー受賞作は、ガラリと変わった。戦争さなかの悲しみ溢れるイギリスに同情を催さずにはいられない『ミニヴァー夫人』、ナチスに抵抗する主題のほかには何の魅力もない凡作だったが、連合軍のカサブランカ上陸と同時に公開されて名作のラベルを貼られた『カサブランカ』(tw)と『ラインの監視』、
P215まったく的を射ないながらフランスを美しく描こうと務めた『聖処女』、男は信ずるもののために闘うのだ、と玉砕を訴える『誰が為に鐘は鳴る』、自由を守るために戦争が必要だと叫ぶ実在人物の英雄譚『ヨーク軍曹』という具合だった。
このうち『ミニヴァー夫人』は、ルーズヴェルト大統領夫人の音頭で公開を急がせるという、用意周到な作戦が実行されていた。『誰が為に鐘は鳴る』は、スペインのファシスト、フランコに抵抗するゲリラ作戦を描いた映画だったが、ヘミングウェイ原作のこの作品は、実際にかなりの効果をあげた。
ゲイリー・クーパーが正義のために線上で美しく散ってゆく。実は他愛もない戦闘ものだが、アメリカの若者たちの士気を巧みに昂揚させた。この作品が軍隊で絶えず上映され、同じファシストのヒットラーを倒すために、突如アメリカ人を立ちあがらせた。
そのほかの受賞作も、これほど露骨ではないが興味深い。わが国に輸入されなかった三作品輸入されなかったという理由だけで内容が察せられるが、輸入作の『偉大な噓』は、死んだはずの夫が帰って来たため嘘をつく女の困惑を描くことによって、戦地へ向かう兵士の世帯にあらかじめの警告を与えていた。
珍しく二本だけが、戦争とは無関係だった。ヒッチコックのサスペンス『断崖』と、ジョン・フォードが貧しい炭坑夫の世界を描いた『わが谷は緑なりき』が受賞の栄誉にあずかった。
『断崖』は、投機屋が悪人らしく殺人を犯す瞬間に近づいてゆくスリルに満ちた物語だが、ドンデン返しが待っていた。一見悪人面をした投機屋は善人だった…『わが谷は緑なりき』は下層民の苦しみを描き出し、モルガン家がよくこの作品をオスカーに認可したものだと驚くが、
P216登場する貧しき主人公の家族の姓は、ヒッチコックをしのぐドンデン返しか、炭坑夫モルガンである。貧しいモルガン家…
(略)
P218 アメリカの戦費総額二千四百五十億ドル、今日の五百兆円に達した。二次大戦前の五十年間にアメリカ政府が使用した国家予算の総額を超えてしまったのである。半世紀分を一気に呑み込んだこの総支出の七割近くが、モルガン商会とチェース・ナショナル銀行の総売り上げだったと見てよい。つまり、モルガンとロックフェラーが両手に握った金塊は、この世界戦争のために地球上で使われた支出総額のうち、実に七分の一を占めるものであった。
開戦の責任は、すべてがヒットラーとムッソリーニと大日本帝国だけに帰せられている。その結論は、悪夢を完璧に表現しているのか。このなかで、ホワイトハウスに集まる証券取引所のメンバーたちは、戦場の兵士が知れば我慢ならない新作戦に取りかかっていたのである。
スイスの首都ベルンに、OSSと呼ばれる戦略局の諜報機関がオフィスを開いた。(略)P219「ベルンの諜報機関でひと働きしてくれ」サリヴァン=クロムウェル法律事務所のアレン・ダレスがこう言われたのは、"パール・ハーバー"から間もない頃だった。(略)バーゼルの街がある。ここは、スイスとドイツとフランスの三国が接し、戦略上はピラミッドの頂点を成す重要拠点だった。
この三角基地バーゼルに、「国際決済銀行」があった。第一次世界大戦のドイツ賠償金を取り仕切る、という名目で1930年、リンドバーグの義父ドワイト・モローが国際軍縮会議に臨んだ年、ジャック・モルガンが設立させた特異な銀行である。この銀行は、銀行家のあいだでは"バーゼル・クラブ"と呼ばれ、完全な秘密主義を守り抜く異様な社交場となっている。1989年現在でも、バーゼル・クラブをしのぐ組織はこの地球上に存在しない(tw)。
全世界の財閥が秘密の預金口座を持つスイスのなかでも、バーゼル・クラブは富豪のなかの富豪のための銀行である。クレムリン、ホワイトハウス、国連、世界銀行といったすべての最高機関に指令を出し、"007"に登場するスペクターのような存在となっていることは、金融界の人間なら知らぬ者はない。この銀行には、次のように三つの際立った特質がある(tw)。
P220 第一に、資本が紙幣ではなく、今日でも金塊ですべてを決済するゴールドフィンガーであることだ。したがって、いかなる経済的混乱にも耐え抜く実力を持っている。また、国際的にも最大の信用を誇っている。
第二に、地球上で完全な治外法権を保ち、いかなる司法権力もこの銀行には介入できないという独裁的立場を握っている。これは、「ドイツの賠償問題解決」という口実のもとに設立されたため、ヴェルサイユ会議の脈流に乗った国際法が、この治外法権を認めてしまったからである。スイスの国家そのものが銀行で成り立ち、預金者の秘密を守ることで名高いが、バーゼル・クラブはそのスイス連邦法さえも無視して自由に活動している。
第三に、わずか五人の職権理事が「人事」と「株主投票権の分配」を決定する独裁権を与えられているため、いかなる大富豪でもバーゼル・クラブを乗っ取ることが不可能である。この職権理事のなかに、スペクターが潜んでいるのである。彼がすべての役員を選び出す。表向きは世界各国の銀行界のトップを総裁に招いているが、実力者はひとりしか存在しない。
1930年に設立された当時は、この独裁円卓会議の議長をつとめたのがジャクソン・レイノルズで、彼はモルガンが所有する「ファースト・ナショナル銀行」の頭取だった。また、バーゼル・クラブそのものの所有者は、「モルガン商会」と「ファースト・ナショナル銀行」である。後者は、ニューヨークとシカゴに分けられるが、ニューヨークはモルガン家とトマス・ラモントの支配下にあり、シカゴはロックフェラー家とメルヴィン・トレーラーとエドワード・スーベルトによって支配されてきた。
P221 ラモントは「モルガン商会」、トレーラーは「ゼネラル・エレクトリック」と「RCA」、スーベルトは「スタンダード石油」の代表者であるから、バーゼル・クラブのスペクターは歴然としている。このバーゼル・クラブの経済顧問として、創立当初からスペクターの指令を実行してきたのが、スウェーデン人のベル・ヤコブソンである。またダレスがベルンの諜報機関に派遣された当時、バーゼル・クラブの総裁だったのが、アメリカ人のトマス・マッキトリック(Thomas H. McKittrick後述)である。この人物は何者か。(略)
このバーゼル・クラブで、奇妙な事件が発生した。大戦の半年前のことだったが、ナチスの一派がチェコのプラハ国立銀行にやってくると、バーゼル・クラブに保有されているチェコの金塊をドイツのライヒス銀行に送れ、という脅迫をおこない、金塊を強奪してしまった。バーゼル・クラブからナチスに金塊が渡り、その半年後に大戦の幕が切って落とされたのだ。
アメリカが参戦してからのちも、この銀行は不思議な作業を続けた。1943年5月19日といえば真珠湾攻撃から一年半後で、すでにアメリカ・フランス・イギリスの「連合国」と、ドイツ・イタリー・日本の「枢軸国」は四つに渡り合い、兵士たちは上官の指令を受け、戦場で血みどろの格闘を続けていた。全世界の人間が爆撃機の急襲におびえる日々を送っていたが、この日の "ニューヨーク・タイムズ"には、次のような一文が読まれた(tw,tw,tw)。
P222「スイスのバーゼルにある国際決済銀行では、連合国のスイス、スウェーデン、アメリカと、枢軸国のドイツ、イタリーの銀行家たちが、机を並べて仕事をしている。この戦争のなかで敵味方が共同事業をおこなっているのは筋の通らぬことではないか。一体どのような暗黙の協定があるのか」
この記事にもうひとつ国名を加えれば、日本の銀行家も仲間に入っていたという驚くべき事実は、どのように説明されようか。死者一千六百八十三万人と公表されている二次大戦で、この人々の命は爆弾で粉砕され、原爆で焼きつくされながら、その司令部では敵味方が共同で仕事をしていた。"司令部"と呼ぶ理由を理解するため、その前にひとつの出来事を説明しておかねばならない(tw)。
『「スイス諜報網」の終戦工作』第四章一九四四年までのインテリジェンス・ネットワーク形成P 72/ 74/ 76/ 78終戦工作ネットワーク図(1943年以前)国際決済銀行・吉村侃、北村孝治郎(44.7出向)~/ 80/ 82/ 84/ 86/ 88/ 90/ 92終戦工作ネットワーク図(1944年)国際決済銀行・吉村侃、北村孝治郎
・吉村侃 戦時下、アメリカ人の上司の下で働いた銀行家(tw、参照)モルガン商会とチェースナショナル銀行の戦争帳簿を、実はまだ完全に説明し終わっていない。1943年3月12日、この戦争真っ盛りのなかで、わがジャック・モルガンが息を引き取っていた。父ジョン・ピアポント・モルガンは、第一次世界大戦を準備しながら、自分はその結末と無縁であるかのように、開戦直前にこの世から消えてしまった。その父と同じように、息子のジャックは第二次世界大戦を準備しながら、途中でふと掻き消すように姿が見えなくなってしまった。
「吉村は真珠湾攻撃に始まる日米開戦後も引き続き、米国人の上司から職務上の指示を受け、これに従っていた唯一の日本人だったと思われる。スイスに駐在する日本および米国の大使は、BIS内での二人の奇妙な協力関係を知りながらこれを黙認していたのである。」(『国際決済銀行の戦争責任』より)という特殊な役割を吉村は務めた。米国人の上司とは国際決済銀行総裁のトーマス・H・マキットリク(Thomas H. McKittrick前述、後述)である。
しかし彼の頭には、P223 いまちょうど計画中の、最も重大なプロジェクトが一つ残っていた。その代価は、アウシュヴィッツのユダヤ人ではなく、今度は別の人種が支払うべき予定のプランとして、三代目のジュニアス・スペンサー・モルガンの手で実行されようとしていた。ジュニアスは、すでに二十年前からゼネラル・モーターズの取締役、USスチールの取締役を経て、そのあと海軍士官に転じてからモルガン商会に籍を置いていた。ビジネスに関しては、誰よりも有能な頭取として腕を発揮すると見られていた。
三代目モルガンは、ペンを黒インクに浸すと、帳簿にいま手に入れたばかりの映画会社の名前を収入方の欄に三文字で記してから、支払い方の欄に別の名前を墨くろぐろと記入し終えた。それも三文字だった。それぞれ収入方がRKO、支払い方にはJAP、と書き込まれた。原爆製造の準備が、着々と進められていた・・・
■マンハッタン・スキャンダル 222-238(tw,相互参照(1,2))
(P230)
P230 プリンストン大学...所在地はニュージャージー州で、早くから地元の慈善事業家から大きな寄付を受けてきたが、同地最大の企業は、"ベイヨーンの虐殺"を起こしたロックフェラー家最大の「ニュージャージー・スタンダード石油」だった。この大学の総長には、「ロックフェラー財団」の理事ロバート・ゴーヒンが就任し、管財人には「ロックフェラー財団」の理事長ジョン・フォスター・ダレスの弟で、のちのCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスの名がある。
コロンビア大学...このプロジェクトの二十年以上前に、"ゼネラル・モーターズをデュポンか支配した時と同額"の五千万ドルをロックフェラーがこの大学に寄付していた。この大学では当時、ノーベル賞遺伝学者トマス・モルガンも権威を誇っていた。大学の理事会はロックフェラーの「チェース・ナショナル銀行」とロックフェラー・モルガン連合の「ナショナル・シティー銀行」の重役が大部分を占め、総額一億三千八百万ドル、今日の三千億円相当におよぶ資産の六割以上が証券や不動産に投資されていた。いま大学の話をしているのだ・・・(略)
P231 シカゴ大学...この大学の創設者はジョン・D・ロックフェラーその人である。彼がこの大学を初めて訪れた時には、(略)
カリフォルニア大学...ハリウッド映画産業が当時カリフォルニア州の最も重要な産業でP232あったため、この州立大学のスポンサーが「八大メジャー映画会社」という性格を持っていた。したがってモルガンとロックフェラーの支配力には非常に大きなものがあり、この大学の総長は、「ロックフェラー財団」の理事クラーク・カーが就任している。(略)
(P232)
P232 ハーヴァード大学...今日アメリカでは誰ひとり知らない者がないと言われる"ロックフェラー大学"だが、かつてはJ・P・モルガンの莫大な寄付を受けて校舎が建設され、マンハッタン計画の当時は全米巨大企業百社と肩を並べるほどの大きな企業となり、それをハーヴァード・P233コーポレーションが運営していた。同社の管財人ポール・キャボットがモルガン商会の重役である。また、資産の七割近くが株券、債券などに投資され、その投資担当銀行の社長がこのキャボットだった。(略)
マサチューセッツ工科大学...ジョージ・イーストマンからの資金で設立され、当時はロックフェラーの「ニュージャージー・スタンダード石油」およびモルガンとデュポンの「ゼネラル・モーターズ」から援助を受けていた。最大の寄付をしてきた人物は、「モルガン商会」の重役アルフレッド・スローンである。理事長のハワード・ジョンソンもまた、「モルガン・ギャランティー・トラスト」と「デュポン」の重役である。(略)
(P234-)
■バーゼル・クラブ 239-256 関連→『赤い盾』P932-(url)
P239バーゼル・クラブの真相は、あまりに複雑であるため、読者に手際よく説明できるという自信はない。この当時のドイツとアメリカの関係は、イギリス、ベルギー、カナダ、スイス、アフリカを加えた七ヵ所にまたがる陰謀が混然一体となって、利権を追求するシンジケートに支配されているからである。
P240スイスのバーゼル・クラブの経済顧問としてすべての実作業を指揮した謎のスウェーデン人、ベル・ヤコブソンは、郷里スウェーデンの銀行家「ウォレンブルグ兄弟」と密盟を結んでいた。
実はこのウォレンブルグ兄弟は、ダレス兄弟の仲間だった。すでに述べたように、アメリカの進出したドイツの産業は、戦争がはじまって財産が没収されないようジョン・フォスター・ダレスに株を信託することを事前に画策したが、その仲介役をつとめたのがこのスウェーデンの兄弟だった。
したがってユダヤ女を買った「IGファルベン」などドイツ産業の代理人をウォレンブルグ兄弟が、バーゼル・クラブにヤコブソンを送りこんだのである。
さらに、このベル・ヤコブソンの上に立つ指令書としてバーゼル・クラブの総裁をつとめたトマス・マッキトリック(Thomas H. McKittrick前述)は、モルガンが所有するニューヨークの「ファースト・ナショナル銀行」の取締役であった。
バーゼル・クラブの重役陣には、ヒットラーを首相にした「ナチス党員」クルト・シュレーダー男爵と、「IGファルベン」の社長ヘルマン・シュミッツと、チェコの強奪金塊の受け取り先となった「ライヒス銀行」の総裁ヴァルター・フンクが名前を連ねていた。
ライヒス銀行とは、ドイツ語でナショナル銀行の意味だが、当時は“ナチス銀行”の意味を込めてこう呼ばれていた。フンクの前総裁はヤルマール・シャハトだったが、彼はすでにヒットラー政権のなかで経済相の地位を占め、ユダヤ女に値段をつけていた。
このシャハトは、金鉱採掘師のP241ハーバート・フーヴァー大統領、ジョン・フォスター・ダレス、さらにロックフェラーの盟友でユニオン・パシフィック鉄道の会長W・アヴェレル・ハリマンたちと密議のうえ、ドイツ賠償を御破算にした人物である。
(略)
(P252-)
P253この一連のメンバーが鮮やかに示すモルガン=ロックフェラー連合の指向性は、もう一歩進めて調べてみると、さらに明確になるのである。
八月十四日に日本が降伏し、八月十五日が終戦記念日となった。しかしこれは日本人の記念日である。ウォール街二十三番地の投機業者にとって、八月十五日は格別深い意味を持つ日ではなかった。ビジネスは一日も休みなく続くものである。
歴史を“終戦”で区切ると、われわれが目撃している彼らの事業の正体を見失うことになろう。彼らは終戦の一年前に、すでに終戦を知っている。
最初の原爆実験の一年前にあたる一九四四年七月、アメリカ最北部のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに全世界の実業家代表が集まり、戦後の経済開発について会談をおこなった。
P254その二ヵ月前の五月十二日、ドイツの重油工場がアメリカ空軍によって壊滅していたことを考え合わせれば、戦争のあとについて彼らが協議をはじめたのも当然だった。
イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが中心となってこの会議をリードしようとしたが、実際にはチェース・ナショナル銀行の頭取ウィンスロップ・オルドリッチが討議に圧力をかけ、特殊な目的を目指した銀行の設立を認めさせてしまった。
このオルドリッチの姉アビーが、ジョン・D・ロックフェラー二世の妻である。
この会議の地名をとってブレトン・ウッズ協定と呼ばれる約束が結ばれ、ここから誕生したものが、今日知られる「世界銀行」(正式名「国際復興開発銀行)と、その資金源となるIMF(「国際通貨基金」International Monetary Fund)であった。
その目的は、後進国の開発と、戦火のあとのヨーロッパの復興、というの公式の内容である。だが、このとき海の向こうのバーゼル・クラブでは、南アフリカと今後の鉱山が激しい利権争いに揺れ動き、ドイツの工業界が敗戦前の厳しい状況にさらされていたのである。
「IMF」に流れ込む巨額の国際資本が、「世界銀行」を通じてどのような目的に使用されるかは、容易に類推できた。ケインズの理想は高かったが、実際にはロックフェラーとモルガンの顧問弁護士が寄ってたかって目的を変えてしまい、総裁の人事まで彼らに握られてしまった。
「アメリカの新天地をめざしたメイフラワー号には、弁護士しか乗っていなかったのか(参照)」
こう嘆きながら、傷心のケインズが心臓発作に倒れたのは、この会議を終えて帰途につく車中のことだった。
P255「IMF」の初代理事長には、コンゴのウランを握るベルギー人カミーユ・ギュートが選ばれた。この専務理事のなかに、バーゼル・クラブの支配者ベル・ヤコブソンの名前も見られた。
「世界銀行」の総裁には、初代として老銀行家ユージン・マイヤーが選ばれたが、彼は第一次大戦のあとその名も「戦争金融コーポレーション」という融資会社の重役となり、モルガン商会がナチスとムッソリーニへ資金を送る時に手先となった人物だった。
しかし彼は急場の人材として総裁に選ばれたのだろう、ただちにジョン・J・マクロイ(相互参照)にその席を譲った。のちに度々登場するこのマクロイは、チェース・ナショナル銀行の筆頭弁護士から、やがて同行の総裁にのしあがってゆこうとしていた。
「世界銀行」の副総裁には、のちにモルガン商会と合併する「ギャランティー・トラスト」の財務部長ロバート・ガードナーが選ばれ、さらにチェース・ナショナル銀行の副頭取ユージン・ブラックが筆頭理事の座を占めた。ブラックは、モルガンの「国際電話電信(ITT)」の重役だった。彼はのちに世界銀行の総裁に就任する。
このマクロイ、ガードナー、ブラックの三人が秘密会議を重ね、ほかの理事をすべてシャット・アウトしながら世界銀行を動かしはじめた。
判明する限りでは、モルガン商会から分離した投資銀行「モルガン・スタンレー」がこの世界銀行のために起債した金額は、十一億三千五百万ドルにたっしている。バーゼル・クラブに倣ってこれを金塊で換算すると、今日の二兆円を軽く上回る起債になる。さらにこの投資先を調べてみると、
P256先進国の主たるものではオーストラリアとカナダが圧倒的に多い。偶然の一致ではあるが、両国ともアフリカと並んでウランの最大生産国である。いまや原爆を掌中に握り、ゴールドフィンガーとして姿を現したこの連合は、終戦後に何を目論んでいたのか…
(略)
第九章 紳士が法服に着換える時 P269-304
(下巻)
第十章 眠れない時代 P8-72
10.1 マリリン・モンローとモルガン=ロックフェラーの戦い P8-34
(P8-)
(P16-)
P16 一九四五年八月十五日に第二次世界大戦が終わったとき、朝鮮半島の土地六十四パーセントという広大な地域を支配していたのが、わが日本の「東洋拓殖」だったが、同社の社債は戦前にアメリカで売り出され、戦前・戦中・戦後を通じて、この独占支配会社の管財人がモルガンの「ナショナル・シティー銀行」だったのである。
(参考→『ウォール・ストリートと極東』P106、満鉄と東拓の資金調達状況が詳しく書かれている)
戦争中に"枢軸国"日本の企業を"連合国"アメリカの銀行が支配することができた、という奇怪きわまるメカニズムを説明できる答えは、"バーゼル・クラブ"のほかにはない。そこにいたのが謎のヴェストリッヒ博士だった。彼は「フォード自動車」、「アメリカ電話会社」、「テキサコ」などのモルガン会社と密着し、ドイツで「アルベルト=ヴェストリッヒ」という名の法律事務所を経営していた。(中略)この看板の頭にあるほうの名前がハインリッヒ=アルベルトで、この男は第一次世界大戦でスパイ工作団を組織し、危険な細菌を撒布するなどの破壊工作で全世界におそれられた人物である。
このような人間をパートナーにしたヴェストリッヒ博士が、戦争中に日本へ立ち寄った謎の答えは、"戦争中の日米同盟"にあったのではないだろうか。終戦後、トルーマン大統領はただちにハーバード・フーヴァー元大統領をソウルに派遣し、また、特別調査員としてエドウィン・ポーレーに現地調査を命じたと史文書に記されているが、このポーレーの名前はすでにわれわれの頭のなかにある。トルーマンを大統領にした「カリフォルニア市民銀行」創設者で、「スタンダード石油カリフォルニア」と石油利権を分かつ石油王である。
これは大統領命令ではなかった。フーヴァーとポーレーが自ら現地へ飛び、貪欲に利権をあさった状況が目に浮かぶ。P17残念ながら、大油田は発見できなかった。しかし朝鮮最大の金鉱は、アメリカの「オリエンタル・コンソリデーテッド鉱業※」に握られたのである。「チェース・ナショナル銀行」、「USスチール」らが株を支配する会社だった。
※参考→『鮎川義介と経済的国際主義』(P172-朝鮮半島雲山金山と米国経済権益)
やがてこのフーヴァーが、「太平洋に反共の防壁を築かなければならない」と国際政治の舞台で呼びかけ、一九五〇年一月十日、台湾の蒋介石軍勢にタンク二百台、装甲車百台など山のような兵器が売り渡された。翌日の"ニューヨーク・タイムズ"は、次のように報道した。
---これらはオハイオの軍需倉庫からフィラデルフィアへ輸送され、その資金は「中国国際通商」によってまかなわれたが、融資をおこなったのは「チェース・ナショナル銀行」である。トルーマン大統領が、このような兵器輸出をしないと言明してから一週間も経たずに、その言葉は裏切られている---またしてもチェース、である。この十六日後に、アメリカが韓国と軍事協定を調停し、さらにその十五日後に水爆の製造をスタートし、五ヵ月後に攻撃を開始したのである。ロックフェラーが開戦日を知っていたのは、当然のことだった。
(略)
10.2 ローゼンバーグ事件とアルジャー・ヒス事件 P34-56
10.3 マッカーシーの運命 P56-72
(P66-)
P66 同じ残虐な仕事をしながら、一方では抹殺されてゆく人間と、他方では必ず生き残る人間がいることにお気づきだろう。カポネはアルカトラスの牢獄に入れられ、ヒットラーは自殺し、ムッソリーニは銃殺され、ゲーリングとゲッベルスは自殺し、ヘスは絞首台で首を吊られ、オッペンハイマーは解雇され、マッカーシーは追放されてしまった。
彼らは暴力手段を実行に移した者たちである。
P67 しかし彼らを使ったポルシェ、クルップ、シュレーダー、フーヴァー、タフト、デュポン、モルガン、ロックフェラーたちは、ますます肥え続けた。
ファシスト暴力集団は、この投機屋たちによって巧みに利用され、最後には、紙屑のように捨てられるのだ。誤解のないように記しておくと、オッペンハイマーは決して善人などではなかった。原爆の製造と投下にあたっては、残忍な性格が大いに役立った、とさまざまな文書にある。
ファシストは木箱に納められた爆弾で、手を触れると危険である。しかし自分では木箱をあけることができない無生物だ。これを取り出して人びとに投げつける者がいる。投げた者が生き残り、人々は傷つき、そして爆弾は自爆して消えてしまうのだ。ファシストの最期は哀れである。
エリア・カザンも、ウォルト・ディズニー(tw)も、ジョン・ウェインも、彼らに利用されてきた。当時の赤狩りについてわれわれが本を読み、「エリア・カザンは卑劣な裏切り者だった」と非難するのは簡単なことだ。ディズニーが戦意昂揚映画を作ったことも、しばしば攻撃される材料となっている。
原爆実験場では、兵士たちにおそろしい体験を忘れさせるために、ドナルド・ダックたちが活躍した、と今日になってアトミック・ソルジャーが告発している。ジョン・ウェインの猛烈な愛国精神は、長らく笑い物にされてきた。
実際自ら赤狩りの犠牲になったシナリオ・ライターのリリアン・ヘルマン女史は、最近一九七七年の映画『ジュリア』で彼女の生涯が描かれ、自らも筆を執って『悪党の時代』(邦訳『眠れない時代』)を出帆した。ヘルマンは、当時を回顧して、このカザンのような裏切り者たちを人P68間以下に見ている。
しかしエリア・カザンがギリシャ系のユダヤ移民だったことを考えれば、ナチズムがまだ生きていることを彼は直感していただろう。自ら被害者だった人間を加害者に変えるのが、闘争のおそろしい本質である。彼の恐怖がどれほどのものであったかを知ることは難しい。自らも癌に犯されながら死んでゆき、せいぜい小エビの投機で儲けたつもりのジョン・ウェインらは、さらに悲惨だろう。
当時のさまざまな記録を見てみると、共産主義者に対する危険性が百万遍も語られ、それが平和主義と結びつけられ、誰もが"平和論はこわい"という本能を刺激された。確かにそう思わされるようにアメリカ全体ができていた。ニュースも、映画も、書物も、すべての知識がそう教えていた。実際、ソ連のスターリンはおそろしい独裁者だった。
しかしロシア人がアメリカを相手に勝てるはずはなかったのである。それでも、アメリカ人の誰もがロシア人に殺されるかも知れないと思わされ、特殊な愛国者を生み出してしまった。彼らは、強いリリアン・ヘルマンと違って、むしろ弱い人間だからこそ武器を手にしなければ安心できなかったのだ。(略)
「ロシアが攻めてきたらどうするのだ」「赤軍に乗っ取られるぞ」P69「俺たちが貧しいのはみんなユダヤ人のせいだ」こう教える者が彼らの前に現れ、その言葉に乗って戦場へ出掛けてゆき、核実験場で閃光に当たり、友人を裏切り、彼ら自身が最後に泣いたのである。その犯人だけは、まったく見えない独裁者として彼らの上に君臨していた。
彼らは小さな投機を楽しむのではなく、手広くあらゆるものを握り、市民投機家からごっそり金をせしめる。この真犯人は誰だったのあ。それは軍人でもファシストでもない。
マッカーシーが抹殺された一九五四年、ジェームズ・スチュワートの主演作『グレン・ミラー物語』が公開された。そのなかで、グレン・ミラーが演奏から作曲、編曲まで手広くやろうとする場面で、彼はこう言われるのである。「まるでロックフェラー並みだね」
これから三年後、同じジェームズ・スチュワートが、チャールズ・リンドバーグの伝記映画『翼よ!あれが巴里の灯だ』に主演した。アメリカ人はすでに過去のリンドバーグが何者だったかを知っていた。映画館にはさっぱり人が入らず、大失敗となってしまった。その年の十月七日、ネバダの核実験場では、"モルガン"と名づけられた原爆が風船によって砂漠に落とされ、キノコ雲をもくもくと噴き上げていたのである。
実はこの時、ホワイトハウスではすでにアイゼンハワーが一九五三年一月二十日から大統領のP70椅子に坐り、ジョン・フォスター・ダレスが国務長官、アレン・ウェルシュ・ダレスがCIA長官に着任している。この兄弟の就任によって、「サリヴァン=クロムウェル法律事務所」の本社がホワイトハウスに店開きしたことになる。
これまで書いてきた現象のなかから、この兄弟が関係した事件を抜き出し、くどいようだが、あらためて一覧しておきたい。バート・ランカスターが指摘した全体像を、ダレス兄弟が最も鮮やかに抜き出すからである。
サリヴァン=クロムウェル法律事務所は、「USスチール」と「スタンダード石油」の両トラストを成立させ、モルガンとロックフェラーにとって"最高のブレーン"だった。ジョン・フォスター・ダレスは、その法律事務所の筆頭パートナーとして、ファシスト団体「アメリカ・ファースト委員会」の財政を担当し、国内でのファシズム昂揚に尽力した。
海外では、第一次世界大戦のヴェルサイユ会議代表として、財政を担当し、ナチス育成に努めた。アメリカに進出したナチス企業のために、スウェーデンの「ウォレンブルグ兄弟銀行」から株の扱いを依頼されたのである。
こうしたファシズムの力を背景に、カナダのウランを支配する「インターナショナル・ニッケル」の重役をつとめ、同時にアメリカの原爆独占を企む国連代表となって世界を動かし、その国連軍がダレスの指揮によって朝鮮半島へ押し入ったのである。
こうした作業を正しいものと主張するため、彼はすでに「外交問題評議会」(CFR)という政策集団のメンバーとして、同会の「フォーリンアフェアーズ」創刊号に寄稿し、理論的にその行動を説明していた。このアメリカ政界を動かすCFRにとって、最大の資金源は「ロックフェラー財団」だったが、ジョン・フォスター・ダレスは、この財団の理事長であった。彼が国務長官に就いたのである。
弟のアレン・ウェルシュ・ダレスはどうだったか。彼もまた「サリヴァン=クロムウェル法律事務所」のメンバーである。アレンはナチス創生期にドイツの鉄鋼王クルップと銀行家シュレーダーに接触し、アメリカの「シュレーダー銀行」で重役をつとめ、ヒットラー総統の誕生に最大の力を尽くした。
やがて彼は第二次世界大戦中に、スイスのベルン情報網で本部長として姿を現すと、目の前の「バーゼル・クラブ」へ足繁く通いはじめた。
このモルガン=ロックフェラー銀行は、兄の「インターナショナル・ニッケル」が大株主となっているイギリスの「ヘンリー・ガードナー社」が設立した「アマルガメーテッド金属」と取引しながら、南アフリカのダイヤ・貴金属・ウラン事業を結ぶ国際的カルテルを動かしていたが、アレンがその窓口となって活動し、兄の会社とロックフェラー一族にウランを運び続けたのである。
最後に彼は、トルーマン大統領にCIAを創設させてしまった。このアレン・ウェルシュ・ダレスが、CIA長官のポストに就いたのである。アイゼンハワー政権の二期八年間という長い歳月にわたって、世界じゅうの人びとが絶えず原水爆の暗い影につきまとわれ、核実験の死の灰を浴び続けた理由がこれである。
誰もが、ダレス兄弟の引退を祈り続けた。そのなかで一九五九年五月二十四日、兄のジョンが在任中に病死P72すると、翌一九六○年の選挙でジョン=フィッツジェラルド・ケネディが大統領の座を射止め、新時代を迎えたのである(tw)。
ところがこの若き大統領には、一点だけ、これまでの大統領と異なる"重大な問題"があった。それは、モルガン=ロックフェラー連合と呼ぶことのできない性格のもので、これがのちに彼の運命を変える可能性を秘めていたのである。
このケネディーが、いま熱狂的な歓呼の声に迎えられ、ホワイトハウスに入った。だが、彼はなぜこれほどまでに人気を得ることができたのか。彼の前には、いかなる運命が待ち受けてきたのか・・・
第十一章 ケネディーに群がる亡霊 P74-164
11.1 ベトナム戦争のA級戦犯 P74-113P74 ケネディー大統領の父親ジョセフ・P・ケネディーは、映画史のなかでは、"悪漢ジェレミア・P・ケネディー"として登場する。「ジェレミア」が単なる愛称だったのか、改名したのか、またどこで「ジョセフ」に変わったか明らかではない。本人が古い過去に触れられたくないことだけは確かなようで、若き日については多くを語らず世を去った。
彼がロックフェラーに密着した関係は、「ベツレヘム・スチール」の重役という経歴に発見されるが、「ヘイドン・ストーン投資会社」のボストン支店長でもあったことは、ケネディー家が鉱山の投機屋として台頭したことを教えている。
「ヘイドン・ストーン」には、モルガン商会がパートナーを重役会にふたり送り込んでいた。ネバダ、ユタ、ニューメキシコなど西部の鉱山を支配する当時世界第二の銅メーカー「ケネコット製銅」の大株主だった。彼のさらに一代前、ケネディーの祖父パトリックは石炭会社のオーナーだったので、この代からロックフェラーp75家と縁をもったのだろう。
今でこそケネディー家は血筋のよい名門とされているが、金鉱屋のフーヴァー大統領と似ているのである。こうして新生したケネディー家は、一九二○年代に入ってロックフェラーと共にハリウッドの映画界へ乗り出した。トーキー革命を機会に「ラジオ・シティー」に「ラジオ・ケイス・オーフューム社」(RKO)を設立した男こそ、この大統領の父だったのである。
その悪漢"ジェレミア・P・ケネディー"は、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』で世を沸かせた大女優グロリア・スワンソンの自伝にある通り、彼女のすべてについて面倒を見た。この男が一九二九年の大恐慌時代に、モルガン商会の扉を叩いたことがある。彼は金に窮し、頭を下げてジャック・モルガンの融資を仰いだ。
ところがわがジャックは、この男に会おうともせず、門前払いを食らわせたのだ!(参照「モルガン家」P412-)
ケネディーがモルガン家に終生の復讐を誓ったのが、この時である。彼は足をロックフェラー家に向け直し、RKOを設立したという歴史があった。その誓いから三十年の歳月が流れた。いま息子のジョンが大統領に選ばれ、ハリウッドの映画界が英雄として彼を迎えたのである。
就任式がおこなわれるのは一九六一年一月二十日だったが、月の初めから首府ワシントンは連日お祭り騒ぎとなり、かつてRKOのミュージカル・スターだったフランク・シナトラの音頭で、いよいよ十九日の前夜祭には豪華なメンバーが集められた。
ジーン・ケリーの顔が見え、ヘンリー・フォンダも居た。彼は四年前の一九五七年に
P76『十二人の怒れる男』を自ら製作し、魔女狩り裁判に一矢を報いたが、ジーン・ケリーやバート・ランカスターと行動を共にした人間である。
このほか、シャーリー・マックレーン、ハリー・ベラフォンテといった硬骨漢だけでなく、シナトラ一家の大番頭ディーン・マーティンとピーター・ローフォードが駆けつけたことは言うまでもない。ローフォードは大統領の妹パトリシアの夫だ。みな、リベラルな民主党びいきのスターばかりだった。
リベラルな民主党?第一次大戦に参加したウィルソン大統領は民主党だった。第二次大戦に参戦したルーズヴェルト大統領も、朝鮮戦争に突入したトルーマン大統領も、民主党だった。大戦争に突入する前には、必ず民主党のリベラルな大統領が選ばれているのだ。今また、民主党のケネディーが就任したのである。
用心したほうがいい。今日までわれわれは、"民主党"対"共和党"という図式のなかで"ハト派"対"タカ派"のイメージを植えつけられ、とんでもない誤りを犯してきた。ひと皮めくってみれば、そこには民主党と共和党のどちらも支配するモルガンとロックフェラーが潜み、閣僚のメンバーはすべて彼らの手勢で占められていた(関連→tw)。
具体的には、ジョン・D・ロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーが、生粋の"タカ派"共和党人として、このときニューヨーク州知事となっていた。ところが民主党の"ハト派"を支持してきたのは、彼の弟デヴィット・ロックフェラーである。この兄弟は反目するどころか、ロックフェラー家の両輪として固く手を握り合ってきた。
モルガンの代理人である「デュポン」のシャピロ会長と「GE」のジョーンズ会長は、プルトP77ニウムの利権を譲渡し合う仲で、アメリカの戦争挑発の歴史と赤狩りの歴史を見れば、両社が最大の責任を問われる立場にある。彼らもまた"ハト派"の民主党支持者なのである。
エンパイア・ステート・ビルを建設し、KKKを育てあげたジョン・J・ラスコプはデュポンの副社長だったが、同時に"リベラルな民主党"の全国委員会の議長だった。ところが「デュポン」の会社本体は、たとえば共和党"タカ派"の代表者ニクソンに対して今日の一億円近い金をポンと支払い、民主党には一セントも寄付していない。
これは一九六八年の選挙における政治献金だが、さらに複雑なことに、ロックフェラーとモルガンの複合体である「フォード自動車」は、そのとき共和党と民主党にそれぞれ一億一千万円相当を献金した。「GE」のコーディナー社長は、共和党の財政委員長をつとめたことさえある。実はメチャクチャだ。これが答えではないか。
最期に"ハト派"か"タカ派"のスタンプを押し、民主党と共和党に振り分ける。これがモルガン=ロックフェラー連合による巧みな市民コントロール法なのだ。どちらが大統領になっても金の流れはただ一本、最後にはジョウゴの口が彼らの油田や金鉱に向かってまっしぐらに走るようにできている。
たった一度だけ、アトミック・ルーズヴェルとの隣にユダヤ人が親友として住んでいたため彼らは途中で予定が狂い、仲間のクルップやIGファルベンを爆撃する破目に陥ったが、このときでも、戦争そのものによる莫大な利益は、予想をはるかに上回るものとなった。
実はケネディー大統領の登場は、このメカニズムを超えるものを何も持っていなかった。
P78この原則を超えれば、選挙では勝てないように仕組まれていた。それでも、多くのアメリカ人は狂喜して彼を迎えたのである。それはケネディー家が個人的に、モルガンに復讐を果たそうとしていたからだろうか。いや、ほとんどのアメリカ人はそのような実情を知らなかった。
ケネディーが実際に大統領の権力を用いてモルガンに復讐を果たそうとすれば、巨大な企業を攻撃する、という結果になる。また、ロックフェラーよりずっとモルガン寄りの「FBI」とフーヴァー長官に圧力をかけ、彼らの権力を奪取しようとするだろう。
この結末は、結末だけを見れば、アメリカ国民にとってかなりの民主的な成果をもたらすはずだった。こうして彼は、その動機が国民の考えているものとまるで違っていたが、素晴らしく民主的な大統領として熱狂的に迎えられたのである。
いま彼は、父ジョセフの呪いを果たそうとしていた。ジョセフ・ケネディーこそ、赤狩りハンター、ジョセフ・マッカーシーの友人であった。ケネディー大統領本人もかつてマッカーシズムを支援した、という重大事が、いまや水に流されていた。
だが、ここで一つ疑問が残る。ロックフェラーはなぜケネディーを支援したのか。民主的な手法で大企業に攻撃をかければ、ケネディーの首輪を握っていたロックフェラー自身も、この飼い犬に手を噛まれる危険があるだろう。実は、モルガンに対して愛と憎しみを分かち合ってきたロックフェラー家にとっても、これはなかなか面白い見ものだったのである。
プルトニウムをモルガンの「GE」が独占してしまい、ロックフェラーの「ウェスティングハウス」がはじき出されるという事態が、かなり前からAECの利権をめぐって内部で起こっていP79た。そこで敵陣「GE」の株を買い占めにかかった「チェース・マンハッタン銀行」だったが、
自分の足許を見ると、旧スタンダード石油ニューヨークの「モービル石油」では逆に、モルガンの「バンカーズ・トラスト」が大株主となって、ロックフェラーの牙城がおびやかされようとしていた。
ここでケネディーという変わり種を使ってモルガンに圧力をかけられるとすれば、ちょっとした勢力バランスの変化に期待してもよいのだ。肉を切らせて骨を切る、という手もある。ジョン・F・ケネディーは若々しく、"ケインズの経済学"を最大限に活用してアメリカ人に夢を与え、うまくやりそうな男だった。
ヘンリー・フォンダのような世間の良識がこちらを支持してくれる時こそ、絶好のチャンスなのだ。こうしてジョン・F・ケネディーはモルガンの鉄鋼に挑み、司法長官のポストを与えられた弟のロバート・ケネディーは、FBI長官フーヴァーに退陣を予告する、という行動に出はじめた。人種差別に対しても、この兄弟は実に人間的な発言を次々に口に出して人びとを解放しはじめ、それが本当にアメリカ人の胸にあったものに火をつけてしまったのである。
しかしホワイトハウスは、この兄弟が考えたように大統領の持ち物ではなく、ズラリと勢揃いした閣僚と次官と補佐官が、きちんと作業を進めるルールになっている。
大統領就任から三ヶ月後の四月十日、キューバのフィデル・カストロを倒すために、CIAの旅団がニカラグアへ出発し、その一週間後には、いよいよキューバのピッグス湾へ上陸しはじめた。ここであらかじめ手を打っておいた通り事が運ぶかと思いきや、逆に彼らは一網打尽に捕らえられ、四月二十日には見事に失敗のニュースが全世界に伝えられた。
P80 この事件は実に馬鹿バカしいものとして語られ、ケネディーへの失望の一例としてしばしば挙げられてきたが、成功・失敗でなく、誰がキューバ奪回をケネディーにやらせたか、それを解析してみよう。
この作戦の発案者は、CIAの秘密工作副長官リチャード・M・ビセルであった。名門エール大学の出身で、秘密作戦は確実に成功するというレポートを提出した。このレポートを支持したのはアイゼンハワー政権で財務次官から保健長官へと進んだマリオン・B・フォルサムひとりだった。
というのは、このレポートが出されたのはまだアイゼンハワー政権の末期にあたり、ケネディーが大統領選挙で当選を決めたばかりの時期だったからである。
この二人の考えを早速ケネディーに進言したのが、まだCIA長官の座にあったアレン・ダレスである。
「いまこの作戦を実行しなければ、キューバは永遠にロシアの持ち物になる。目の前のチッポケの島国さえ自由にできずに、どうしてアメリカが世界の守護者になれるのか」
一九六○年十一月二十九日にこう激しく説得し、気乗りのしないケネディーに不承不承このプランを認めさせてから、ダレスは翌年にCIAを去って行ったのだ。
後任のCIA新長官ジョン・マコーンは、発案者のビセルをリーダーとして作戦を決行させ、失敗に終わった---というのがこの事件の主な登場人物になる。
肩書を外してみると、リチャード・M・ビセル副長官は、終戦直後に“大量に消費する国家”というレポートを書き、それが商務省で取り上げられて「マーシャル・プラン」の重要な礎石となっていた。
P81このレポートの出所が、「ゼネラル・エレクトリック」である。ビセルはGEメンとしてCIAに出張してきた人物だったのだ。
次にこのレポートを支持したマリオン・B・フォルサム長官は、第二次世界大戦の開始直後にフォード財団が設立した「経済開発委員会」、別名“戦争準備委員会”の会長としてモルガンの指令を実行した、「イーストマン・コダック社」の財務担当重役である。
ダレスについては説明するまでもない。
新任のマコーン長官はロサンゼルスの大富豪で、「ベクテル・マコーン」という会社を経営していたが、このパートナーのステファン・ベクテルは「モルガン・ギャランティ・トラスト」の重役、という関係が成立していた。
さらにマコーン自身は、あの「赤軍が上陸した!」と叫んで発狂したジェームズ・フォレスタル国防長官のよき顧問であり、彼の次官まで務めていた。
フォレスタルがモルガン商会と組んでナチスに融資したことを考えれば、マコーンが「スタンダード石油」の大株主で、大富豪となった裏には相当の物語があるはずだ。AEC委員長として原子力を推進したジョン・マコーンである。
ピッグス湾進攻事件で、これらの人物が激しい活動を展開した目的は?
今は亡き兄のジョン・フォスター・ダレスは世界一のニッケル会社「インターナショナル・ニッケル」の重役だったが、キューバは、ニッケルの埋蔵量が世界一の国である。
侵攻作戦は、これもまた東西対立とは無関係のプライヴェートなビジネスだったことが、はるか昔、二十世紀初代大統領マッキンレーの行動を調べると明らかになる。
P82 マッキンレーは弟が銀行家である。その弟と組んで金の延べ板を大量に買い込むと、金の本位性を打ち出して大金をせしめた。この資金を映画界に投資し、バイオグラフ・ガールに熱をあげた兄弟だが、大統領としては選挙で次のように大演説した。
「われわれはいかなる侵略戦争も望んでいない。ほかの国の領土を攻撃するような誘惑に、決して負けてはならないのである」
マッキンレーは平和主義者だったと本に書かれている。だが、この演説からわずか二年も経ないうちに一八九八年四月十一日、
「キューバの人びとをスペインの圧制から解放するため、わが国の陸軍と海軍を使う時期が来た」と議会でぶち上げ、二週間後にスペインへ宣戦布告したのが同じマッキンレーだったのである。
スペインの横暴さは、当時目に余るものがあった。その伝統が受け継がれ、『誰が為に鐘は鳴る』の、スペイン内乱につながったと考えればファシズム打倒のアメリカの姿は聖なる十字軍に見える。
しかしキューバが生み出す金塊は。昔も今も砂糖である。この半世紀後に革命を成しとげたカストロ政権が「全力を注ぎこめ」と国民に訴えたのが砂糖キビだった。この砂糖はアメリカ⁼スペイン戦争でどうなったか。
マッキンレーのアメリカが、わずか八ヵ月の戦争でスペインを打ち破り、ようやくキューバがファシストの手から解放されたあと、そこに建てられた会社の名を「キューバ・ドミニカ砂糖」といい、重役の名をゴッドフリー・スティルマン・ロックフェラーという。
「キューバ・カンパニー」の重役もパーシー・ロックフェラーである。同社のもうひとりの重役はモルガン商会特権者のウィリアム・ウッディンで、
P83彼は「キューバ鉄道」の重役として砂糖の輸送を支配した。「キューバ甘蔗プロダクツ」の大株主はロックフェラー家、それに次ぐ株主がモルガン家だった。
砂糖と並んで重要な産業は、カストロ首相がくわえている葉巻すなわち「キューバたばこ」だが、この会社の重役V・マンローは、原爆製造に入り込み、アフリカのウラン鉱を支配した「アングロ・アメリカ社」の重役である。
彼は、映画『誰が為に鐘は鳴る』のサムウッド監督が取引きした不動産業者「パーク・ストリート一一七二番地」の重役だったが、モルガン商会の重役でもある。
さらにロックフェラー家の「チェース・ナショナル銀行」の子会社「チェース証券」は、キューバの債券六千万ドルをアメリカ国内で売りに出し、それを自らキューバの事業に注ぎ込んでいた。
キューバの投資会社「キューバ・トラスト」の社長ノーマン・デイヴィスは、国際砂糖会議では公人としてアメリカ代表をつとめたが、モルガン商会特権者名簿にその名が発見される。
そしてピッグス湾湾侵攻作戦を取り仕切ったわがアレン・ダレスの兄の会社「インターナショナル・ニッケル」が、キューバのニッケル利権をおさえていたのである。
キューバとの戦争は、どのような目的をもって、誰が指令したのか。
戦争について調べると、どこにもロックフェラーとモルガンの名は登場しない。これまでに書かれた歴史の書物は、その多くが戦争を“ファシズム”、“人道主義”、“右翼”、“左翼”、“東側”、
P84 “西側”といった用語で対立関係を定義し、紛争の原因をこのような国家的性格のもとに説明してきたが、重役名簿が語る歴史の真相は、戦争ん原因が別のところにある、という事実に一条の光を当てる(tw)。
それを証明するかのように、マッキンレーがスペインへ宣戦を布告した時、スペインはすでにアメリカの要求を呑むことを伝えてきいていた、と歴史文書に記録されている。しかし平和主義者であるはずの大統領が戦争に踏み切り、この直後にモルガンとカーネギーの鉄鋼会社とロックフェラーの石油会社が、史上空前の利益を記録した。デュポンの火薬工場もフル操業に入った。
スペイン戦争は、一八九八年にキューバの砂糖キビとタバコとニッケルをアメリカにもたらし、解放されたはずのキューバは、アメリカとスペインの講和会議からも締め出された。代わって新しい支配者アメリカが、住民を強制労働に狩り出してきたではないか。
その後、書き物とハリウッド映画を通じて、絶えず“スペインのファシズム”だけに世界の目を集めさせることに成功したのである。
ケネディーはピッグス湾侵攻事件についてたびたび後悔の念を漏らしていた。
「あれは自分の本意ではなかった。なぜあんな作戦に同意したのか自分でも分からない」と。しかしその後悔は本心からのものだったか。
ピッグス湾の失敗からまだひと月も経たない一九六一年五月十一日、“リベラルな”民主党の大統領によって、大戦争の幕が秘かにめくり上げられようとしていた。
この日、ケネディーは「CIA」と「特殊部隊」と「南ベトナム要員」からなる軍団をベトナムに派遣するよう、極秘命令を出した。
P85それから十年後、“ニューヨーク・タイムズ”が暴露した「ベトナム秘密報告」いわゆる“ペンタンゴン・パーパーズ”に記されているこの日付けを見ると、大統領の口から発せられた言葉の美しさには驚かされる。それとも、この極秘命令には別の事情があったのか。
ベトナム戦争をはじめたのは、一体誰だったか。
南北戦争がはじまったのは一八六一年、ベトナム戦争がはじまったのはちょうどそれから百年後、一九六一年だった。不思議なことに、この百年を結びつける物語があったのである。なぜなら……
いまここにベトナム大戦争の全貌を記す必要はないだろう。当時雑誌に掲載された一枚の写真を見ると、北ベトナムのゲリラを捕まえたアメリカ兵が、彼らをじっと見つめている。
その視線は、決してベトナム人を軽蔑した目つきではない。故郷のアメリカを思い出すかのように、ゲリラの背中になにごとかを語りかけている。
ベトナム人のゲリラ兵は目を黒い布で覆われ、周囲の物音をひとつでも聞き逃すまいと、首を地面から持ちあげ、彼もまた家族を思い出すかのように考え続けている。
このふたりは無言で、戦争の一休止符に人生を瞑想している。
一九六一年五月十一日に秘密部隊が派遣されてから、その年に米軍の死者十四名、二年目に百九名、三年目に四百八十九名……四年目にトンキン湾事件が発生してアメリカの本格的介入が
P86 はじまったのである。
五年目に北ベトナムへの爆撃が開始され、この時には、もはや人間の思考力が失われ、自分が泥沼にいることさえ気づかない精神状態であった……
六年目に北ベトナムの首都ハノイへの爆撃、
七年目に海兵隊がメコン・デルタへ上陸すると、
八年目にソンミ村の虐殺事件が発生した。
十三年目に米軍が敗北を認めてアメリカへ帰り、その一九七五年四月三十日をもってベトナム戦争が幕をとじたのである。
十五年目に南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、
十四年間にわたる爆撃と殺し合いと拷問を、誰も順序だてて説明することはできない。ペンタゴン・ペーパーズから拾い出した特に重要なアメリカの戦争責任者の氏名を、ブラック・リストとして以下に示す。いまだにかれらがニュールンベルグ裁判や東京裁判のような形で一度も裁かれていない不思議さが、以下のリストを見れば痛感されよう。なぜナチスと大日本帝国が裁かれ、アメリカ人だけがそれを免れるのか。
(略、ベトナム戦争のA級戦犯リスト)88/ 90/ 92/ 94/ 96/ 98
P100 ケネディー大統領がベトナム戦争に突入したとき、その裏に隠れていたのが、これらの人物だったのである。正体不明の人間が、以上ニ十七名のなかに三名含まれる。正体とは、彼らがモルガン⁼ロックフェラー連合の一員としてベトナム戦争によって投機事業の成果をあげると判断できる「民間の役職」である。
しかし二十七名のうち二十四名、八十九パーセントという高い割合でモルガン⁼ロックフェラー連合との因果関係が発見され、しかもその全員がかなり古い時代からこのベトナム戦争のビジネスを画策していた点は、注目に値する。
調査を続ければ、不明の三人についても必ずこの関係は見つかると確信される。なぜなら、この三人は生き残っている。つまりファシストではなく、投機集団に属するからである。
ケネディー大統領本人について、ここで最後に、もうひとつの説明をつけ加えよう。前記のリストに彼の名を連ねて、二十八名としなければならないのである。ケネディーは決して、戦犯ニ十七名に突き動かされただけではなかった。
その妻として名高いジャクリーン夫人は、いったい何者だったか。
P101彼女がジョン・F・ケネディーと結婚する前の名をジャクリーン・ブーヴィエといい、その父親ジョン・ヴァーノウ・ブーヴィエは、ウォール街でその名を知られた投機屋であった。
モルガンと同じように通称“ジャック”と呼ばれた彼には、ジャクリーンのほかにもうひとりキャロライン・リーという娘があった。このジャクリーンの妹には二度の結婚歴がある。
その相手は、ひとりがロンドンで不動産会社を持つスタニスラフ・ラジウィル、実はポーランドの王子である。もうひとりがマイケル・テンプル・キャンフィールドで、この人物は実は「チェース・ナショナル銀行」の総裁ウィンスロップ・オルドリッチの秘書をつとめていた男だった。
オルドリッチは、ジョン・D・ロックフェラー二世の義兄弟だから、ロックフェラー家がジャクリーン・ケネディーの家系にも登場してくるのである。
ケネディー大統領夫妻は、ロックフェラー家によって祝福され、ある目的のもとに結ばれた男女になる。このジャクリーン夫人は、ケネディーと結婚する前に、すでに別のフィアンセがあった。
その相手はジョン・ハステッド・Jr.といい、これもウォール街の仲買人だったが、この男の正体を調べてみると、興味深い事実が発見される。彼は「ドミニク・ドミニク商会」という法律事務所を兼ねた投資銀行の仲買人として、そおのオフィスの重役ジョン・アダムス・モルガン(ジャック・モルガンの孫)に使われ、「モルガン商会」と組んで株の取り引きをおこなっていたのだ。
ジャクリーンは、モルガン系のハステッドとの婚約を破棄して、ロックフェラー系のケネディーを選んだ女性である。父親ジャック・ブーヴィエがそうさせたのかも知れない。息子がいなか
P102 った彼のビジネスを継ぐ人間は、ジャクリーンとキャロラインという二人娘であった。つまり大統領夫人は、ウォール街の仲買人“ジャック”リーン・ブーヴィエだったのである。
ジャーナリストが彼女のプールサイドの裸姿ばかり追いかけていたのでは、歴史が見えなくなる。やがて彼女は、ケネディーが暗殺されたあとに海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシスの許へ飛び、新しい事業をはじめる運命にあった。ジャック・ブーヴィエの妻、つまりジャクリーンの母は、ジャネット・リーである。
ヒッチコック映画『サイコ』に出演した同姓同名の女優とは無関係である。この母の家系を追ってゆくと、何と南北戦争で敗れた南軍のリー将軍が現れる。
十九世紀の南北戦争では、北軍のグラント将軍と南軍のリー将軍が戦って、南部が敗れた。しかし、それから百年後のベトナム戦争では、リー将軍の直系であるジャクリーンの夫ケネディーが大統領をつとめ、グラント将軍の直系であるユリシーズ・S・グラント・シャープが司令長官となって手を取り合い、今度はベトナム南北戦争において南部が敗れたのである。
あたかも一世紀前の亡霊たちが甦ってきた戦いを見るようだが、これは亡霊ではない。重要なことは次の点にある。
百年前の南北戦争のなかで、ジョン・ピアポント・モルガンとジョン・D・ロックフェラーが私腹を肥やした。それから百年間というものアメリカを支配しつづけた彼らの家族が、大挙してベトナムへ押しかけた。
ここでアメリカの国家は敗北したが、またしてもモルガン⁼ロックフェラー連合は大金をせしめたのである。その百年間にわたって彼らが殺し続け人間は、誰にも数えられないほど夥しい数にのぼった。
P103彼らによって、切れ目なく戦争ビジネスのスケジュールが組まれてきたのである。
戦犯の正体をみれば分かるように、彼らは一九六一年を迎えていきなりベトナム戦争をはじめたのではなかった。ペンタゴン・ペーパーズによれば、トルーマン大統領がフランスのベトナム介入を支援したとき(一九五〇年五月八日)から、第一歩を踏み出していた。
大統領にこの勧告を出した重要人物が、戦犯ウィリアム・バンディーの妻の父親ディーン・アチソンで、弾薬メーカー「デュポン」の弁護士だから、まことに計画的な戦争である。
さらに、そのあとアイゼンハワー政権に変わってからフランスに派遣された大使が、具体的にプランを続行した。このフランス大使は「ロックフェラー財団」の理事長という経歴をもつC・ダグラス・ディロン(参照)で、彼はその名の通り、巨大投資銀行「ディロン・リード」の社長である。
この男が、フランスからアメリカへ次のような至急電報を送り、強烈な刺激を与えた。
---いまや対空砲が雲を貫いてフランスの飛行機を撃ち落としている。フランス政府はアメリカ空軍による介入を要請している!---
この電文を受け取った人物が、同じく履歴に「ロックフェラー財団」理事長の肩書を持つダレス国務長官だった。
ロックフェラー家の使用人からロックフェラーの使用人宛に電報が打たれ、それでアメリカ全体が戦争に突入した。なぜこの奇怪さが、これまでベトナム戦争について指摘されなかったのか。
P104 これは興味深い現象ではないか。共和党のアイゼンハワー政権が「ロックフェラー財団」の理事長であるダレス国務長官によって支配され、彼が病死後はロックフェラーの「モービル(旧スタンダード)石油)の重役ハーター国務長官が穴を埋め、そのあとを継いだ民主党のケネディー政権とジョンソン政権が、さきほどの戦犯リストに示した通り、またしても「ロックフェラー財団」の理事長であるラスク国務長官によって支配され、さらにそのあとを継いだ共和党のニクソン政権が、今度も「ロックフェラー兄弟基金」のプロジェクト・リーダーであるキッシンジャーによって支配されてきたのである。
これがベトナム戦争の正体ではないか。
犯人は、世に言われるような“産軍複合体”でもなければ“ウォール街”でも“財閥”でも“死の商人”でも“アメリカ帝国主義”でも“大企業”でも“資本主義”でもない。
このような抽象的な言葉の氾濫が、われわれの頭のなかから犯人の姿を消し去る効果をもたらしてきたのだ。固有名詞を使って言い当てなければならない。ゴールドフィンガーは誰か、と。
この物語は、ベトナム戦争が終わったあとも終わらない。その次につづいたフォード政権が同じキッシンジャーによって支配され、さらに次の民主党のカーター政権が、またしても「ロックフェラー財団」の理事長であるヴァンス国務長官と、ロックフェラー家の顧問弁護士マスキー国務長官によって支配されていたのだ。
ここでようやく、真犯人の像を明確に捕らえられただろう。ダレス、ハーター、ラスク、キッシンジャー、ヴァンス、マスキーの歴代国務長官は、六人とも同じ会社から社命を受けてやって来ている。
その事務所には、民主党も共和党もないことが分かる。
P105これが、われわれの追ってきたスペクターの正体なのだ。
キャビネットの最高位「国務長官」のポストが、戦後四十年のうち三十年近くもロックフェラー首脳の手に握られてきた事実を誰が知ろう。日々の新聞に報道される閣僚の解任劇は、本当に劇にすぎないのだ。
彼らはベトナム戦争が大きくなろうとする時に、首都サイゴンにまず銀行を開設した。ロックフェラーの「チェース・マンハッタン銀行」、ロックフェラー⁼モルガン連合の「ファースト・ナショナル・シティー銀行」、そして「アメリカン・エクスプレス」の支店である。
この三番目の銀行は、重役にのちのニクソン政権で商務長官をつとめるピーター・ピーターソンを迎えていた。彼はロックフェラーの「ゼネラル・フーズ」、モルガンの「ベル電話」など数えきれないほどわが連合企業の重役を兼ねる大物で、特に目を惹くのは「シカゴ・ファースト・ナショナル銀行」の重役という肩書だったが、この銀行はスイスの“バーゼル・クラブ”に所有権を持つ一社である。
このような関係にある「アメリカン・エクスプレス」は、実はその初代社長ヘンリー・ウェルズが、J・P・モルガン家の兄の家系、つまりノーベル賞学者トマス・ハント・モルガンの系列に属するエドウィン・モルガンの事業パートナーなのである。
サイゴンでの金の流れを追ってみると、アメリカ本国から流れ込んだ大量の紙幣は、市内銀行や基地クラブへ集中してゆき、CIAによって監督されているPXシステムなどの収入と共に、香港へ送られて行った。
この大金が、香港の商業銀行でドルに換金され、スイスの銀行へ振り込まれる、というのが流通経路になる。このとき、ロンドンの「モルガン・グレンフェル」銀行が
P106 支配する「香港上海銀行」が利用され、ベトナム大使がこれらの総監督をつとめていたのである。
“富豪モルガンの政治代理人”である銀行家ヘンリー・キャボット・ロッジ・Jr.が、ベトナム大使として長く居座っていた。CIAは「モルガン・ギャランティー」と密着した富豪マコーンが長官であり、スイスには、ジャック・モルガンの設立した「バーゼル・クラブ」銀行があった。
そのサイゴンへ、モルガン⁼ロックフェラーが銀行を開設したのである。
金がなければ絶対に戦争は起こせない。戦争があればその裏では必ず、ゴールドフィンガーが指令を与えている---ゴールドフィンガーはひそかに告げる……
ベトナム戦争三年目の一九六三年に、ひとりの僧侶が焼身自殺を遂げ、燃えあがる炎のなかで激烈な抵抗の意志を全世界に示した(相互参照)。この二ヵ月後の八月ニ十一日に、南ベトナム軍の特殊部隊が仏教寺院を襲撃するという暴挙に出たが、この部隊の資金はCIAによってまかなわれていた。すべてが金であった。
戦犯リストのレムニッツァー大将が、ケネディー大統領に進言した言葉が思い起こされる。
「放っておけば、われわれは全アジアを失うでしょう」
この投機事業を支援したのは、キッシンジャーやディロン、ダレスが入っているCFRだけではなかった。
「太平洋問題調査会」という政策グループは、その名の通りどうすれば、“わがアジア”を失わずにすむかを研究する集団だった。国際的な会だが、そのアメリカ支部が最大のもので、ロックフェラー財団の報告書によれば、
P107「太平洋地域ならびに極東の問題について自主的な研究をおこなう最も重要な独立グループ」と定義されている。極東というからには、われわれ日本人を監視しているグループでもあるので、その正体を知っておく必要がある。
第二次大戦直後の名簿によると、主なメンバーは次の通りである。この会の資金は、半分を「ロックフェラー財団」と「カーネギー財団」が出資し、残りを「スタンダード石油」、「GE」、「国際電話電信ITT」、「チェース・マンハッタン銀行」、「ファースト・ナショナル・シティー銀行」が大部分をまかなっていた。
議長ジェラルド・スウォープ(「GE」会長)
理事ジョージ・マーシャル(モルガン⁼ロックフェラー連合の「パンアメリカン航空」重役)
W・R・へロッド(「GE」重役)
C・K・ギャンブル(「スタンダード石油」重役)
彼らがベトナム戦争を理論的に構築したのである。
このほかにベトナム戦争を鼓舞した組織としては、「アジア平和の会」と「ベトナム友の会」が有名である。
「アジア平和の会」とはよく名づけたものだ。主な会員は、デヴィッド・ロックフェラーと、「チェース・マンハッタン銀行」の頭取ジョン・J・マクロイと、副頭取ユージン・ブラックなどである。
P108 「ベトナム友の会」は、ナチスが作った“友の会”(フロインデス・クライスS)を連想させるが、このインスピレーションは根拠のないものだろうか。この会員のなかに、ウィリアム・J・ドノヴァンの名前がある。
彼はすでに登場したが、ナチスの親衛隊と接触するため、アレン・ダレスをスイスに派遣した高等スパイ団の団長である。彼は自分の法律事務所のパートナーに「インターナショナル銀行」の副頭取を迎えているが、頭取は「チェース」のマクロイで、もうひとりの重要メンバー、マックス・ラーナーは、ナチスを礼讃し続けた「フォード財団」のお抱え教授。そしてこの会にジョン・F・ケネディーが加わり、彼が大統領に就任する六年も前から“友の会”の活動がはじまっていたのである。
ベトナム戦争に対する疑問は、北爆がはじまるとすぐにアメリカ全土に噴出し、反戦運動と黒人抗争が激しく燃えあがった。これを鎮圧するため、ロックフェラーは公共放送によって逆に戦争を鼓舞する必要性を痛切に感じた。
いつでも思いのままにメッセージを伝えられるテレビ局だ。この新計画は、放送界をすでに支配してきたロックフェラーにとって一層魅力あるものに見えた。
公共放送法が成立したのは一九六七年十一月七日である。翌年には理事が任命された。ちょうどこのとき、ベトナムのソンミ村で五百六十七人が虐殺されていたのである。
この理事会は政治的に中立な人間で構成されなければならない、という理由から、ジョンソン大統領によってジョン・D・ロックフェラー三世が理事のひとりに選ばれたのである!
P109公共放送法が成立したプロセスを見ると、モルガン=ロックフェラー連合の「カーネギー財団」が資金を出してプロジェクト委員会をつくり、元大統領の弟ミルトン・アイゼンハワーが全権を掌握し、すべてを決定してきた。
ミルトンは、ロックフェラー大学のひとつ「ジョンズ・ホプキンス大学」の総長として、この学校を戦争研究所につくりあげてきた人物だが、一九六○年代初期のAECのなかには、この大学から四人もの委員が送り込まれていた。
しかしアメリカ人は、バート・ランカスターのようにこの戦争の本質を見抜いて反戦運動をしていたのだろうか。
公共放送法が成立した一九六七年、同じ年の十月十九日に、ワシントンの国務省大ホールに、二百人ほどの人間が集まっていた。モルガンの「ランド社」や「国際電話電信ITT」など、国防産業の精鋭をズラリと前にして、作家のポール・グッドマンが最後に壇上に登ってきた。
「あなたがたは、この世で最も危険な人間の集団である。あなたがたは、昔あった社会を破壊し、あらゆる戦争を煽動してきた。いまやベトナムで、集団虐殺に参加している。ニューアークで起こった黒人暴動の原因は、あなたがたにあるのだ。これからも、“別のベトナム戦争”で数十万人を殺すだろう」
この演説は、聞き手にある種の反応を引き起こした。拍手が湧きあがったのだ。
翌一九六八年、小エビの投機屋ジョン・ウェイン制作の『グリーン・ベレー』と同じころに封切られた映画『猿の惑星』は、特異な作品だった。この物語のなかで、無実の猿ジーラ博士たちを断罪する“赤狩り裁判”が再現されていたのである。
この脚本を書いた人間は、過去を知って
P110 いたために核戦争と赤狩りを結びつけたのか、偶然の一致だったのか。
わが国で『猿の惑星』が公開されたとき、新聞の広告には---原作ピエール・ブール---と書かれていた。これは、ちょうどその十年前にハリウッドで話題になった名前である。
デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』がアカデミー賞を多数受けたなかに、脚本賞ピエール・ブールの名があった。しかし彼がこのシナリオをかける人間でないことは、ハリウッドであまねく知られていた。
実際に脚本を書いたのは、非米活動委員会のブラック・リストに載っていたマイケル・ウィルソンとカール・フォアマンで、彼らがアカデミー賞の候補にあがると“受賞の資格なし”とされ、涙を呑んでいた。
ようやく今日、一九八五年三月になって、二十七年前のアカデミー賞名誉回復という儀式がおこなわれ、このウィルソンとフォアマンの未亡人たちに『戦場にかける橋』のオスカーが授与されたばかりだ。決して古い話ではない。
『猿の惑星』のシナリオ・ライターもまた、ピエール・ブールではなく、この赤狩り体験者のマイケル・ウィルソンだった。彼が赤狩り裁判をシナリオに織り込んだのは、明確な意志表示だったろう。ハリウッドの反撃がはじまっていた。
翌一九六九年には、『真夜中のカーボーイ』や『イージー・ライダー』がヒットを飛ばして文明批判をはじめ、そのなかで、『夕陽に向かって走れ』という孤独なインディアンを描いた秀作が見られた。
この映画には、「捜査局」を創設したタフト大統領が登場した。タフトが地方遊説に出ると、インディアンが暴動を起こし、そこへ白人が襲いかかる、というインディアンにとって悲しい主題である。
P111「この映画は現代そのままだ。半世紀前と何も変わっていない」と監督は自ら語り、ベトナム戦争に出かけるアメリカ人の姿をあざやかにスクリーンのうえに投影してみせた。この人こそ、『悪の暴力』でウォール街の腐敗を描き、モルガンたちにボディー・ブローを食わせながら赤狩りで映画界から追放された、エイブラム・ポロンスキーその人であった。
「この二十年の歳月は、私が老けこむのに充分な時間だった。だが私は、歯を喰いしばって生き抜いてきたのだ」
どこへ消えていたのか。追放されてドン底をさ迷いながら、思えばニ十一年後にポロンスキーの反撃がはじまったのである。彼が指摘した通り、現実のベトナム戦争では、このタフト大統領の四世が同じ悪事を重ねていた。見事なシナリオである。
この一九六九年当時のアメリカで、ほかに誰が犯人を見抜いていただろう。それを推測させる恐怖の事件が、この年にアメリカを襲った。それは、国内の連続爆破事件である。
五ヵ月あまりの期間に、以下の企業が爆破された。
マリン・ミッドランド・グレース・トラスト投資銀行(この一九六九年には、「ファースト・ナショナル・シティー銀行」が長期融資によって支配し、ロックフェラーの傘下にあった)このように、爆破された企業を調べてみると、爆破犯人のテロリストが何らかの意図をもって狙ったとしか考えられないほど、かなり特異的な事件という印象を与える。誤解のないように断わっておかなければならないが、この爆破事件の真相を記すのは、この関係にもとづいてテロリズムを容認するためではない。ポール・グッドマンが国防産業家を前にして、
メイシー・デパート(ローゼンバーグ事件で疑惑のテーブルを売り、支店長が陪審長をつとめたモルガン⁼ロックフェラー・デパート)
ユナイテッド・フルーツ(ただの果物会社ではなく、「アメリカ電話電信」、「アトラス」、「コンソリデーテッド・ヴァルティー航空」、「ファースト・ボストン銀行」などのモルガン⁼ロックフェラー
P112 大連合の重役が顔をそろえ、多数の小国の土地・鉄道・通信・産業を支配する戦略集団で、CIA長官ウォルター・ベデル・スミスを重役に迎えていた)
RCA(モルガンが設立して「GE」、「ウェスティングハウス」の傘下にあったが、ロックフェラーに支配された電機・音響・放送会社で、当時はロックフェラーが「メトロポリタン生命」を通じてRCAの社債二億ドルを押さえていた)
チェース・マンハッタン銀行(ロックフェラー一族の最大の金庫)
ゼネラル・モーターズ(「デュポン」と「モルガン商会」の共有物としてナチス・ドイツの軍用車生産に大きく寄与した。この一九六九年当時の重役室には、「モルガン・ギャランティー・トラスト」の重役二人と、ロックフェラーの盟友「メロン・ナショナル銀行」の重役二人の顔が見えた)
「暴動の原因はあなたがたにあるのだ」と警告発し、そう諫められた当人が思わず拍手してしまった事情を、これによって検証するのが目的である。
ポロンスキー監督はこう語った。
P113「タフト大統領に対するインディアン暴動は、彼らにしてみればただ自分の身を守る本能にすぎなかったのだ。どちらが悪いかということを白人が分かっていなかったのだ」
グッドマンの警告と同じ意味の言葉である。
それ以上にこの爆破事件が今になって興味を惹くのは、アメリカ人がすでにこの時代に、本書で追っているスペクターの姿を具体的に捕えていたことである。そうとも知らず、偶然の一致とすれば、かなり本能的に鼻の利くテロリストだったかも知れない。
実にこの年に封切られた“007”シリーズ第六作『女王陛下の007』(相互参照)では、スペクターの首領がスイスにいることを知ったジェームズ・ボンドが、スキーをはいて本拠地に乗り込む、という物語が展開された。
それは「世界銀行」と「国連」と「ホワイトハウス」を支配するスイスの“バーゼル・クラブ”……
一九七三年に米軍のベトナム撤退が完了すると、彼らは次の新しいプロジェクトをスタートさせなければならなかった。もはやアメリカの国民は、戦争に疲れ果て、憎悪さえ抱いていた。
一体、今度は何に投棄すればよいのか。
この年から、世界は別のかたちで揺れ動きはじめたのである。
11.2 投機夫人ジャクリーン・ブーヴイエの新夫 P114-137
P114 第四次中東戦争がいきなり火花を吹いたのは、一九七三年十月六日のことであった。ベトナム戦争のパリ和平協定が結ばれ、米軍介入が終わった三月ニ十九日から、わずか半年後である。
ベトナム戦争の半年後に、世界はどう動きはじめたか。
中東戦争の発端は、次のようなものだった……
その日、ユダヤ人の国イスラエルが武力によって占領していたシリア領とエジプト領に、アラブ人の軍勢が侵攻をはじめた。北と南からのサンドウィッチ攻撃だ。エジプト軍はスエズ運河を渡ってしまった。
こうして全面戦争に突入したのである。
八日目には、なぜか遠くの国アメリカがイスラエルに本格的に兵器を送りはじめ、十日目には、シナイ半島で双方数百台のタンクが入り乱れ、大激戦を続ける状態となった。
二週間後には、ニクソン大統領が二十二億ドルのイスラエル軍事援助政策を打ち出し、ミサイル、
P115ジェット戦闘機、スマート爆弾、タンクなどを続々と中東へ送り込んだのである。
この戦争がもたらしたものは、無惨な市民の死骸が至るところに散乱するという地獄絵であった。アラブ諸国はイスラエルに対して激しい憎悪を燃やしただけでなく、開戦十一日後には、アメリカがイスラエルに軍事援助をおこなっているという理由から、アメリカ向けの原油輸出をストップしてしまったのである。
また、その協力者と見られる全世界に向かって、制裁を加える態度に出た。「敵には油を売らない」と。
石油を握っていた彼らアラブ人が、その売り値を二倍に吊りあげた。さらに十二月には、中東戦争前の四倍に値上げする決断を下した。こうして全世界は“アラブの油”に震えあがり、このショックが地球をかけめぐった。
イギリス最古の石油会社バーマーが倒産し、ドイツのヘルシュタット銀行が閉鎖された。ヨーロッパだけでなく、日本とアメリカでは石油を輸入する代金が一挙に三百数十億ドルも増え、失業者がどっと街にあふれた。かつての大恐慌が再来するのではないかと不安を抱く人も多かった。
このオイル・ショックのなかで、泰然とした態度を保つ一群の人間がいた。彼らだけは、むしろこの混乱状態を楽しむ風情で、しきりとその門を出入りする人間と密談を交わしている様子だった。
チェース・マンハッタン銀行、シティーバンク、モルガン銀行などの巨大バンカーたちである。その態度は、一見すると“恐慌が起こらないようにするため”の必要作業とも思われたが、
P116 過去の恐慌に比べるとまことに自信に満ち溢れたものだった。
ジャクリーン・ケネディー夫人に、ここまでの説明を求めてみよう。
ケネディ大統領が一九六三年十一月二十二日にダラスで暗殺されると、ジャクリーン未亡人はその喪服を脱いでまだ間もない一九六八年十月二十日に、ギリシャ生まれの海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシスの許へ嫁いで行った。
それまで悲劇の女王のイメージを与え、涙をさそっていただけに、事情を何も知らない人びとは説明に弱り、大いに困惑した。
この大富豪オナシスとは何者だったか。彼は、実はアラブの石油を運ぶタンカーによって七つの海を支配し、それによって一躍名を成した一匹狼だ。
“中東の石油”と言うとき、頭にターバンを巻いたOPEC(石油輸出国機構)のアラブ人を思い浮かべるだろう。この一瞬の連想が曲者である。中東の主な四つの産油国、サウジアラビア、クウェート、イラン、イラク、について検証してみれば分かる。この四ヵ国は、いずれもペルシャ湾を囲んで存在する。
“サウジアラビア”にアメリカが進出したのは、第二次世界大戦中である。イギリスの変わり者の将校がラクダにまたがり、このサウジアラビアとエジプトの国境に位置するアカバの港をめざして砂漠を横断し、最後に目的地にたどりついた『アラビアのロレンス』(tw)の地帯である。
アメリカは中東に石油使節団を派遣し、サウジアラビアの石油を手に入れようと必死に画策していた。この団長となったのが、戦後すぐに原子力エネルギー委員会で“原料委員”をつとめ、原爆のウランあさりをはじめるエヴェレット・ドゴリヤーであった。
P117彼は砂漠の国を訪れると、戦乱にまぎれてイヴン・サウド国王と交渉を重ね、利権に関して多大の成果を持ち帰ってきた。石油の採掘権を「アラムコ」という石油会社が手に入れたのである。バーゼル・クラブ暗躍の時代だった。
この会社の株を持っていたのは次の四社である。
スタンダード石油カリフォルニア 三〇%このうち、「ソコニー・ヴァキューム」とは、かつて「スタンダード石油ニューヨーク」と呼ばれた会社で、現在は「モービル石油」と改名している。英語で書くと分かりやすいが、ソコニーとはSOCONYつまりStandard Oil Company of New Yorkの頭文字である。
スタンダード石油ニュージャージー 三〇%
ソコニー・ヴァキューム 一〇%
テキサコ 三〇%
同じように、今日の「ソーカル」は、Standard Oil Californiaを略してSOCALとなったものである。「エッソ」は、ESSOと書き、語源は“and Standard Oil”→“& SO”→“εSO”→“εSSO”となったもので、外国の会社と組んだときにアメリカ国外で使われる「スタンダード石油」の名称である。
国内では、このSSがXXに置き換えられてEXXOとなり、New JerseyのNを終わりに加えてEXXONすなわち「スタンダード石油ニュージャージー」のことである。
P118 四番目の「テキサコ」は、ソコニー・ヴァキュームと製油所やパイプラインを共有し、重役にはモルガンとロックフェラーのパートナーを多数かかえていた。大部分の株を「モルガン商会」が持ち、残りをモルガンの「ゼネラル・モーターズ」とロックフェラーが所有していた。
このような四社であるから、百パーセントまでロックフェラー⁼モルガン連合の「アラムコ」が、サウジアラビアで石油の利権を手にしたのである。
話しをまとめた使節団のドゴリヤー団長は、勿論政府が派遣した人間だったが、実は「ディロン・リード」投資銀行お抱えの石油技師で、同社のダグラス・ディロンが「ロックフェラー財団」の理事長、ジョージ・ディロンが「フェルプス・ダッジ」の重役であれば、当然の交渉結果だろう。
当時はこの「アラムコ」の石油のうち、ほぼ四割を同社が自分で運び、残り六割をほかの海運会社が運んでいた。
それから十年の歳月が流れ、サウジアラビアに現われたのが謎の人物オナシスだった。この六割分をそっくりまとめて運搬する契約を、ひそかに二代目のイヴン・サウド王と取り交わしてしまったのである。
---「アラムコ」以外の海運会社は、サウジアラビアの石油輸送権を持たない。また、「アラムコ」は新しい輸送船団を組んではならない---
サウド王とオナシスの契約で重大な点は、このように「アラムコ」のタンカーは現在手持ちの船に限って輸送権を持つ、という条項が入っていたことだった。
P119よく読めば、大変な契約である。タンカーが古くなれば、一隻また一隻と輸送権を失ってゆき、最後にはオナシスが全権を握ってしまうだろう。一九五四年一月二十日、アメリカではマッカーシーが陸軍長官に噛みつきはじめた頃だ。
しかしロックフェラーにとってオナシスの登場は、マッカーシーにかまけているよりはるかに深刻な問題だった。輸送権を握れば石油も握ったも同然、このようなことは、十九世紀にジョン・D・ロックフェラーが自ら鉄道をリベートで支配したときに体験ずみである。
さらに興味深いのは、マッカーシーがオナシスを“赤”呼ばわりし、アメリカがこの海運業者を全米の港から締め出した直後に、オナシスが激怒してこの強烈なボディー・ブローを食わせたことである。
ロックフェラーの輸送権は、当時のタンカーの寿命を十五年と計算すれば、一九六九年まで持ちこたえるのが精一杯だったろう。
ファースト・レディーのケネディ未亡人こと、ロックフェラー家のウォール街“女投機師”ジャクリーン・ブーヴィエがオナシスの許へ身を投げ出したのは、一九六八年のことだったのである。
タイム・リミットの前の年にあたる。しかしこれではロックフェラーにとって遅すぎただろう。その前にどのような手を打ったか。
キティー・ケリー女史が書いたジャクリーンの伝記(邦訳『ジャッキーOH』)には、次のような記述がある。
--ケネディー家は、オナシスがほかの造船主とタンカー論争をし、ついに裁判沙汰になったという記事を読んだ---P120 この“ほかの造船主”がロックフェラー系の人間であることは間違いない。ロックフェラーはオナシスと裁判闘争をはじめたのだ。しかしそのあと、次のようにある。
--ケネディーが上院議員だった頃、ジャクリーン夫人は夫とふたりで、南フランスのオナシスの両親を訪ねたのであった。その当時、オナシスの豪華船クリスティナ号はモンテ・カルロに停泊中で、オナシスは若いケネディー家のカップルを船上のカクテル・パーティーに招待し、イギリスの音首相ウィンストン・チャーチルに会わせた。将来の大統領候補と元首相の会見は情熱的なものだった、と報道されたが、実はチャーチルは傲慢で上の空だった--著者のケリー女史は、これをいわゆる上流社会の社交的なトピックとして筆を進めているが、そうではない。ロックフェラーは裁判に見切りをつけると、オナシスの原油輸送権を買収するためケネディーを派遣し、まずその父親から口説こうとしたのだ。
オナシスの父親とは、正しくはオナシスの妻の父親で、ギリシャ船主協会の長老スタヴロス・リヴァノスである。この長老のもうひとりの娘は、やはり海運界の大物スタヴロス・ニアルコスと結婚していた。
オナシスが富豪になることができたのはこの海運界のボスふたりと姻戚関係によるものだったから、ケネディー夫妻はここから陥落しようと目論んだのである。
やがて船上パーティーに招かれたからには、その話が少し進んだことを推測させる。しかしチャーチルの登場である。なぜここにイギリスの巨頭が居合わせなければならなかったか、理由は簡単である。
サウジアラビアの石油採掘権に近づこうとしていたのが、イギリスの石油業界と海運業界の代理人チャーチルだった。
P121彼が首相に就任したのは、親友のフィッシャー海軍提督がイギリス系の「シェル石油」と「アングロ・イラニアン石油(のちのブリティッシュ・ペトロリウム)」を支配していたからである。イギリス首相といっても、構造はアメリカ大統領と同じである。
チャーチルは海賊帝国イギリスの輸送権をオナシスに奪われて怒り狂い、ロックフェラーも同じようにオナシスに怒っていた。だがオナシスは頑として譲らない。この結末はどうなったか。わが連合の「アラムコ」は、何ごとかをうまくやったようである。
ケネディーが大統領に就任した次の年、一九六二年に、オナシスと契約を結んだイヴン・サウド国王が弟のファイサルに追放されてしまった。この新王ファイサルの石油大臣に就任した人物が、シェイク・ザキ・ヤマニである。
彼はこの年から、ロックフェラーの「アラムコ」の取締役にも就任していたのだ。政府転覆の仕掛人は誰だったか。こうなれば、今度はロックフェラーが新王の石油大臣を握ったから、昔の契約書が紙きれに変り、オナシスのほうからロックフェラーに頭を下げなければならないだろう。両者は仲良く和解か。
しばらくして、オナシスはたらしい恋人キャロライン・リーという女性と同棲しはじめた。この魅力的な若い女性リーとは、南北戦争のリー将軍の家系にあたる。実はこれが、ジャクリーン・ケネディーの実の妹だったのである。
彼女の母がいくらふたりの寝室の扉を叩いても返事がなかったと伝えられるから、「アラムコ」の力は偉大である。ジョン・D・ロックフェラー二世の義兄弟であるウィンスロップ・オルドリッチの秘書が、このキャロライン・リーの“実の夫”だった。
ロックフェラーの家系に嫁いだ若い名門女性が、石油輸送権で争う敵方オナシスの寝室に入っていたことになる。
P122 この事実は、オイル・ショックのなかでも最大のショックだろう。
このキャロラインのあとを継いだのが、姉のジャクリーンだった。
一九六八年十月十七日、ジャクリーンの秘書から次のような発表がおこなわれた。
「ヒュー・ダドリー・オーチンクロス夫人からのメッセージを申し上げます。夫人の娘さんのジャクリーン・ケネディー未亡人は、アリストテレス・ソクラテス・オナシス氏と来週結婚することになりました」船舶百隻をかかえ、ギリシャの賢人アリストテレスと哲人ソクラテスの知恵袋を持つオナシスg、深い瞑想に沈んだのち、このような結論を導いたのである。公称六十二歳、パスポートには六十九歳と記されていた。どちらにせよ、三十九歳のジャクリーンより年上だった。
バチカンの法王庁は、カトリックの離婚を認めないためふたりの結婚を非難したが、三日後にはギリシャのスコピオス島で式を挙げたふたりである。
各界から反応があった。 「
ジャッキー、子供たちにおじいちゃんができてよかったわね」とカラスが言った。これは世界一のオペラ歌手マリア・カラスからの痛烈な皮肉だった。マリアこそオナシスが長く愛し続け、世界じゅうを船でまわった女性だ。オナシスはもう歳をとったおじいちゃんよ、という意味だったか。
この結婚発表声明のなかに出てくるオーチンクロス夫人とは、かつてジャック・ブーヴィエ夫人だった女性、つまりファースト・レディーのジャクリーンとキャロラインを産んだ母、旧名ジャネット・リーである。
P123このときには、ウォール街の大物投機屋ブーヴィエと離婚して、オーチンクロス家に乗り替えていた。オーチンクロス家は、モルガンの盟友である鉄道王ヴァンダービルト家の親戚である。モルガンが数々の宝石や貴金属を贈った「ティファニー宝石店」とも姻戚関係を持っていた。
ジャクリーンの母親もまた、ひとすじ縄の女性ではない。
“アラブ人とターバン”のイメージを与えるサウジアラビアの砂漠をひと皮めくってみれば、このようにロックフェラーとモルガンの領土が姿を現わす。個々はアメリカの一州だったのだ。
サウジアラビアを支配していた「アラムコ」のニューヨーク支店は、ユダヤ人をひとりも社員に持たない。これはアラブ人との関係をうまくやるためだけではない。構成会社のひとつ「テキサコ」は、第二次大戦中にヒットラー向けの石油輸出を続け、謎のドイツ人ヴェストリッヒ博士にサラリーを払っていた会社である。
サウジアラビアの事情は、今日でも変わっていない。世界でナンバー・ワンの石油輸出量を誇るこの国の通貨庁は、一次・二次のオイル・ショック後に、一日で六百億円相当が流れ込む状態にある。
この総裁の顧問をつとめていたのが、「モルガン・ギャランティー・トラスト」の社長ジョン・メイヤーだ。オイル・ショックの時点でも、さきほどのアラムコの利権の配分は同じで、社名はソーカル、エクソン、モービルと変ったが、これにテキサコを加えた同じ四社が独占していた。
さて、彼らの手で掘った石油の分け前にあずかるアラブ人は、絶えず戦火に包まれる危険な中東にあって、莫大な収入をどのように保管していたのか、それが問題である。この金はロンドン
P124 とスイスとニューヨークに流れ込んでいた。ニューヨークでは、「チェース・マンハッタン銀行」と「モルガン・ギャランティー・トラスト」が、その窓口となっていたのである。
“クウェート”もサウジアラビアと同じである。
この国では、アメリカとイギリスの資本で百パーセントを占める「クウェート石油」が石油開発を独占していた。このうちメリカの資本は、ロックフェラーの盟友メロンの「ガルフ石油」が百パーセントを占有していた。残り分としてクウェートの国庫に流れ込む金は、ロンドンとニューヨークへ投資され、預金されていたのだ。
ニューヨークでは「チェース・マンハッタン銀行」と「シティー・バンク」へ、ロンドンでも同じく両行の支店へ流れていた。このクウェートのアドバイザーとしては、モルガンのほかに、「チェース・マンハッタン銀行」の副頭取ユージン・ブラックも加わっていた。この体制は、今日まで変わっていない。
“イラク”は、一九二〇年代の初めにアレン・ダレスが国務省の近東課長をつとめていた時に、彼が交渉役となってアメリカの利権をまとめる仕事をした。そのとき公人ダレスがだれのために交渉したかは、結果を見れば明らかになる。
石油独占会社「イラク石油」の株のうち四分の一を「近東開発会社」という投資会社が握ってしまったが、この会社の株の構成は、以下の通りとなった。
スタンダード石油ニュージャージー 五八%
ソコニー・ヴァキューム 二五%
ガルフ石油 一七%
P125「ソコニー・ヴァキューム」が旧スタンダード石油で、「ガルフ石油」はロックフェラーとその盟友メロンの会社である。百パーセントのロックフェラー会社だ。アレン・ダレスという男が、国のサラリーで働きながら一体何をしていたかを物語る歴史ではないか。
「イラク石油」の支配構造は、今日までダレスの決めた通りである。
その隣国“イラン”に入り込んだのも、ダレス兄弟だった。ナチス党員シュレーダー男爵の持つ「シュレーダー銀行」が、イギリスのロイター男爵と結んでイランに「ペルシャ産業銀行」を設立した。
この資金によって「アングロ・イラニアン石油」を動かし、完全に石油を独占したのである。これは一九一二年という昔の話だが、このあと、利権の大部分がイギリスに占められ、残りがドイツのヒットラーへ流れるという第二次大戦前の状態は、その直後の敵味方を思えば不思議な構成となっていた。
ところが戦後一九五一年五月一日、革命児モサデグによってこの会社が国有化されてしまうと、外国が完全に利権を失うという一大事件が発生した。
「シュレーダー銀行」のアメリカ支店は、副社長がエイヴリー・ロックフェラー、重役がアレン・ダレスだったから、このような“国際道徳”に反する行為を見逃せるはずがない。
「アングロ・イラニアン石油」の顧問までつとめていたアレン・ダレスである。同社の“国際道徳”は、
P126 それまで石油収入の一割だけをイランの国庫に収めるという立派なものだったから、九割を失った痛手は大きかった。
しかしCIA長官に就任してすぐにイランへ押し入った彼の手勢が政府を転覆させてしまい、そのあと見事な手並みを示している。
一九五四年十月三十日、新会社の「イラン石油コンソーシアム」が発足してみると、これまでのようなイギリスの独占形態が消え、次のように“国際的な”利権配分となっていた。
ブリティッシュ・ペトロリウム(イギリス) 四〇%
ロイヤル・ダッチ・シェル(イギリス・オランダ)一四%
フランス石油(CFP) 六%
アメリカの石油会社グループ 四〇%
この最後のアメリカ群は、新人ながら四割を握ってしまい、その会社というのが、サウジアラビアと同じ「アラムコ」の再現だったのである。
「スタンダード石油カリフォルニア」、「スタンダード石油ニュージャージー」、「ソコニー・ヴァキューム」、「テキサコ」、「ガルフ石油」の五社で五分の一ずつ分け合うという、百パーセントのロックフェラー⁼モルガン連合だった。
彼らがアメリカ国内で政府を握っているのである。そのことが、このあとの利権の配分に大きな意味を持ってくる。具体的には、これまでオハイオ州をしばしば引き合いに出し、ロックフェラーの根城として描いたが、わが国の北海道をひと回り大きくしたこの広大な州を支配したロックフェラー家が育てたオハイオ出身大統領は、初代ジョン・Dの登場と共に誕生したグラント内閣から数えて、すでに七人にも達する。
P127これに「モービル」のニューヨーク、「エクソン」のニュージャージー、「ソーカル」のカリフォルニア、「ガルフ」と「テキサコ」のテキサス出身大統領八人を加えると、石油時代に入ってから十五人もの大統領を創作した。この事実が石油王国の力を示している。
ダレスの手先となってこの国際的交渉をまとめたのが、元大統領の息子、ハーバート・フーヴァー・Jr.である。
時代が進んでいたため、これがアメリカの独占禁止法に引っかかるという事態を招き、アイゼンハワー大統領は公正な判断を仰ぐため、この問題の裁定を司法長官の手に委ねた。
「これは法律に抵触しない」
それが深く検討した結果の解答だったという。その判断を下した司法長官が、ハーバート・ブラウネル・Jr.、つまりローゼンバーグ夫妻の処刑を急がせた人物で、ロックフェラーの顧問弁護士である。おそるべき政治ではないか。
こうしてイランでは、栄華の座に返り咲いたパーレビ国王とデヴィッド・ロックフェラーが、“親しい仲”を公然と続けるようになった。一九七一年に華々しく催されたペルシャ建国二五○〇年祭の祝典には、「チェース・マンハッタン銀行」の総裁だったジョン・J・マクロイがわざわざ海を渡ってやって来た。
石油が生み出す金は「イラン産業銀行」に流れ込み、この銀行の株を「チェース」が四割近くまで握っていた。実は「ナショナル・イラニアン石油」は、大金を「チェース」へ預金している状態で、
P128 世界一の銀行の総裁がお祝いにやって来るのは、熱い友情のなせる業だ、と彼らは語り合ったのである。
勿論、「モルガン・ギャランティー・トラスト」と「シティ・バンク」は早くから首都テヘランに店を張り、ロックフェラーの独走を許さないように気を配っていた。
サウジアラビア、クウェート、イラク、イランの中東諸国は、このようにアメリカ属州のような支配構造を持っていた。ざっと分かっている表面上の計算だけで、中東の石油の五十~六十パーセントがモルガン=ロックフェラー連合に握られ、オイル・ダラーの大部分が彼らの銀行に預金されていたのだ。そこへ“オイル・ショック”が襲いかかり、全世界が震えあがった。
モルガンとロックフェラーにとって、何をおそれることがあろう。これは、自分の銀行に預けられるアラブの石油収入が、それまでの四倍に増えることを意味するだけではないか。
オイル・ショックがあった一九七三年に、エクソンは世界史上最高の利益二十五億ドルを記録し、ことに後半は前の年の二倍近い利益となった。モービルも、ソーカルも、ガルフも、テキサコも、同じように札束の山で、金庫がしまらなくなるほどだった。
ロックフェラー家はエクソンの株を二パーセントしか所有していないと言うが、この一社の利益だけで同家には“今日の一千億円”がその年に転がり込んだことになる。勿論、ロックフェラー家の証券類は百に余る企業に及んでいる。
(略)P130
P131オイルショックにともなう現象がもうひとつあった。ジャクリーンとオナシスの離婚話が、ゴシップとして流れはじめたのがこの時でる。
アラブが石油の輸出禁止という政策を打ち出したため、海運王オナシスのタンカーは運ぶものがなくなってしまい、廃業寸前まで追い込まれていた。こうなればオナシスも、もはやロックフェラーにとって魅力ある存在ではないだろう。
たちまちジャクリーンは見切りをつけようとしたのか。しかしオナシスの命には先が見え、遺産が引きとめさせたか、離婚話は公式に打ち消された。
実際、この海運王が息を引き取ったのは、オイル・ショックからまだ一年半しか日が経たない一九七五年三月十五日のことであった。その病床を見舞い続けてきたマリア・カラスはショックで立ち直れなくなったが、臨終の枕許にジャクリーンの姿はなく、娘クリスティナだけが父の死を看取った。
P132 ジャクリーンとクリスティナの激しい遺産相続争いが起こったのは、多くの人の知るところである。
以上のようにオイル・ショックを冷たく分析すると、ベトナム戦争が終わって直ちに別の投機事業をスタートしなければならなかった獅子大蛇連合が、「ユダヤ人キッシンジャー」を使用人としてイスラエルに武器を送りこみ、「アラブ人ヤマニ」を使用人として石油値上げを断行させ、この左右の手を使って世界中からオイル・マネーをかき集めた壮大な芝居だったことが分かる。
このときロックフェラーの掌のなかに、オーチンクロス夫人、ジャクリーン、キャロラインの母娘と、オナシスが握られていた。彼ら四人はとも手玉に取られ、最後に捨てられた。自分たちがエジソンと同じ道化役だと知ったのは、遺されたクリスティナ・オナシスである。
「アメリカ人なんて、やはり裏切り者だ」こう叫んだ彼女だが、“アメリカ人”という言葉に固有名詞を当てておく必要がある。
だがオイル・ショックをひき起すには、一九七三年十月の第四次中東戦争が勃発しなければならなかった。この戦争をひき起したのは、モルガンやロックフェラーでなく、アラブの民族主義ではなかったのか?
中東でおこなわれた戦争は、限りなくある。終戦直後の一九四八年イスラエルが建国宣言を出し、トルーマン大統領がその成立を認めてから今日まで、どこかで区切ることのできない戦闘状態が続いてきた。
P133それでもオイル・ショックを導いた第四次中東戦闘と、それから激しくなったレバノン戦争は、アメリカの視点から見ると、ひとつの新しい現象である。
この開戦の翌年(一九七四年)に、アメリカの武器輸出額が一気に八十三億ドルへと二倍の増加を示し、そのうち半分近くがアラブ向けだったのである。
イスラエルへの武器輸出がアラブの怒りを買い、アメリカへの石油禁輸政策からオイル・ショックが起こったことを思えば、実に不思議な現象である。アメリカはイスラエルの味方かアラブの味方か。勿論、いずれでもないのである。
この中東戦争の終わりごろ、一九七三年十月十八日に、アラブ・ゲリラがレバノンの「アメリカ銀行」を襲撃した。
本来は直接のモルガン=ロックフェラー系の銀行でなかったが、「バンク・オブ・アメリカ」(バンアメリカ--BOA)として知られる巨大銀行で、今日の重役名簿をみると、アーマコスト社長が「スタンダード石油カリフォルニア」重役であるのはじめとして、「デュポン」、「GE」など、かつてジョン・ピアポント・モルガンがその顧問をしていた名残りの企業名がズラリと並んでいる。
この襲撃事件は、問題のヒントを与えてくれる。BOAの筋向いに建っていたのは、「ファースト・ナショナル・シティー銀行」だった。レバノンの首都ベイルートは、古くからアラブ人にとって中東でただひとつの金融メッカである。
オイル・ショックによってアラブ産油国に溢れた莫大な金は、なぜ遠いアメリカやイギリスのモルガンとロックフェラーの銀行に吸収されたのか。アラブ人の怒りを考えれば、同胞の街ベイルートの銀行に預金するのが筋道だったろう。
P134 ところが銀行が成り立つための第一条件は、金を預ける人間の気持ちになれば分かるように、“安全な場所”に銀行が建っていることである。戦争のなかで攻撃され、札束や証券が燃えては、泣くに泣けない。
モルガンとロックフェラーが、イスラエルとアラブの双方に武器を大量に輸出し(相互参照)、レバノンの銀行メッカを中心に戦争をはじめれば何が起こるだろう。アラブ人は急いで金を引き出し、仕方なくロンドンかニューヨークの銀行に口座を開かなければならない。
歴史はこの論法通りに経過した。オイル・ショック直後、アラブにオイル・ダラーが溢れたときに一九七五年の内戦が発生し、首都ベイルートの銀行群が完全に崩壊したのである。
ことにアメリカは、ことさら挑発するするようにレバノンへ介入し、これに怒ったアラブ・ゲリラがベイルートのアメリカ大使館へ神風特攻隊式の突入を敢行し、多数の死者を出すというテロ地獄を繰り返した。
これだけ火がつけば、ベイルートは廃墟同然である。あとはアラブとイスラエルの戦争という名目のもとに、アメリカ海兵隊は撤退した。
(略)P136
P137オイル・ショックの発端となった第四次中東戦争は、ユダヤ財閥をモルガン=ロックフェラー連合がアメリカ国内で操り、アラブ民衆を断崖まで追いつめて勃発させた人口戦争だ。戦争は人工的である。
「支配するには仲違いさせよ」という狡猾な諺が、古くローマ時代からある。
イスラエルの挑発家として先頭に立った片眼のダヤン将軍が投機家で、占領地から個人的に財宝をかき集めていたことは知らぬ者がない。イスラエルの首脳の多くは、戦術を学ぶにあたってアメリカで育てられ、たとえばペギン首相はマフィアの一味のなかに入っていた。
これに対するアラブ側は、世界で最も“反アメリカ的”とみられる革命児ムアマール・カダフィーのリビアでさえ、そこで欧米破壊のテロに明け暮れる男たちのなかに、当の被害者CIAが潜入し、アメリカ製の武器を続々と送りこんできた。
ノンフィクション・ライターのジョゼフ・グールデンが一九八四年に出版した『ザ・デス・マーチャント』(死の商人)という分厚い一冊の書物には、CIAスペクターのエドウィン・ウィルソンがリビアで働いた国際テロ活動が克明に記されている。
“作戦一五七”と呼ばれた彼らの活動は、リビアの巨大な油田とロックフェラーの事業を結びつけるものだ。“富豪モルガンの代理人”ことベトナム戦犯ヘンリー・キャボット・ロッジ・jr.は、第二次大戦中に早くもリビアへ介入していた。
この地球上には、不思議な集団が存在している。世界最大の軍隊と銀行を握り、銀行の金庫に金貨を満たすためかなりの程度まで戦闘を誘発できるが、自分が生き延びるためには、兵器工場をフル回転させていなければならない集団である。
オイルショックの最大付録が、もうひとつあった……
11.3 ジェーン・フォンダとメリル・ストリープ P138-164
P138/ 140/ 142
P143 オイル・ショック直後の一九七四年、このカー・マギー社のオクラホマ工場で、謎の事件が発P144生した。プルトニウムを取り扱っていたカレン・シルクウッドという若い女性労働者が、十一月十三日に交通事故で即死した。しかしその死に方には、あまりに不自然なことが多く、世間の耳目を集めた。悪名高いシルクウッド事件である。
いまから原子力時代だ、と大々的に社会の洗脳を始めた矢先に、彼女が原子炉の燃料欠陥が隠されている秘密を発見し、その情報資料を持って“ニューヨーク・タイムズ”の記者に届けにゆこうとしたその夜、彼女が死亡した。
(略、カー・マギー社の社史、結局、モルガン=ロックフェラー連合に取り込まれたことなど)P144/ 146/ 148/ 150
P152 このような状況のなかで、モルガンのGEの社員三人が反旗をひるがえした。P153彼らは技術者として、原子炉災害のおそろしさを告発しようと腹を決めたのである。そこで手を組んだのが、マイケル・ダグラスとジェーン・フォンダだった。
ハリウッドの赤狩り時代にバート・ランカスターと共に抵抗し、気骨あるところを示したカーク・ダグラスとヘンリー・フォンダの、それぞれ息子と娘である。
そのマイケル・ダグラスが製作し、ジェーン・フォンダが主演した『チャイナ・シンドローム』という映画は、原子炉の大事故をGEの技術者がち密に分析して完成された。このシナリオには、シルクウッドを男性に置き換えた“自動車事故殺人事件”も加えられた。
この映画が公開されてわずか二週間後の一九七九年三月二十八日未明に、ペンシルヴァニア州のスリーマイル島原子力発電所で本物の大事故が発生したことは、あまりにも有名である。だがこの事故にまつわるモルガン=ロックフェラー連合との因縁は、大事故を予言したのが「GE」社員で、それを映画化したのが赤狩りレジスタンスの二世、というだけではなかった。
(略、エジソン社にかかわるゴニョゴニョ)
P154
P155 大事故が爆発寸前まで進んだ時点でも、エネルギー長官のシュレシンジャーは、原子力発電は必要だといきまいていた。その態度を見て怒ったジェーン・フォンダは、五月六日のワシントンの原発反対大集会に臨んで、こう演説した。
「ジェームズ・シュレシンジャーが太陽熱開発の責任者であるのは、ドラキュラが血液銀行の総裁になったようなものだ!」ドラキュラに譬えられたこの人物は、トマス・X・モルガンの「ランド社」重役からAECの委員長に就任した男だ。原子力発電が必要だというのは、社会にとって必要なのではなく、モルガン人にとって必要という意味である。彼はかつて、こう発言したこともある。
「核戦争をおこなうことの正しさを多くの人が理性的に認められるよう、それを計算によって明らかにしなければならない」(略)
P156/ 158/ 160/ 162
P163 いまや全世界のなかでわが国だけが、猛烈な勢いで原子力発電に没頭し続けているが、安全PRの状況は、一九五〇年代のアメリカ原爆実験時代におこなわれた安全PRをしのぐものがある。その宣伝文には、三十年前当時の英文を翻訳すれば一字一句変わらないものが日本で使われている異常さを、どのように考えるべきか。
アメリカ人には、この危険性を知っている節がある。スペクターの正体である。
『チャイナ・シンドローム』の映画のなかに、不思議なシーンが挟み込まれていた。それは大事故の危険性が高まるスリリングな物語のなかで、いきなりスカイラウンジのような部屋が映し出され、そこにいる重要人物たちが投資の話をはじめる、という場面だった。
clip full
彼らは美しい夜景を背にして、投機屋に見られるような沈着そのものの態度を見せている。製作者のマイケル・ダグラスは、このシーンで映画ファンに何を示したのか。彼の父カーク・ダグラスは、バート・ランカスターの無二の親友だったが。
一九八四年には、『シルクウッド』という映画が公開された。怪死事件の女性を主人公にしたセミ・ドキュメンタリーの作品だが、この映画公開は、彼女の死をめぐる補償について最高裁判所が判決を出す一月十一日を狙っておこなわれた。
P164その狙い違わず、アメリカでは大ヒットとなった。その日、死亡したカレン・シルクウッドの体はプルトニウムで汚染していたことが認められ、遺族に二十億円相当の賠償をする判決が下されたが、これによって、殺人を暗黙のうちに認めながら、自動車事故を汚染事後にすり換え、殺人罪を不問にする巧妙な判決ではないのか。
この映画の製作者は、サイモン&ガーファンクル時代を確立した『卒業』のマイク・ニコルズで主演したのは、ユダヤ人虐殺を描いたテレビ大作『ホロコースト』でエミー賞を取り、そのあと映画界で認められ、『クレイマー・クレイマー』と『ソフィーの選択』で二度のアカデミー賞に輝いたメリル・ストリープである。
彼女はこの作品への出演にあたって重大な決意をし、すべてを賭けたという。勿論、『チャイナ・シンドローム』のジェーン・フォンダと同様に名演技を示しながら、ふたりともこの種の作品に限っては、アカデミー賞にノミネートさえされなかったのである。(←両作品ともノミネートはされているwiki20200226追記)。
億万長者の力は偉大だ。アメリカの映画人は、原子力の世界を描きながら何を示唆したかったのか…
第十二章 噂の真相 P166-207(相互参照)
P16612.1 大統領の消去法 P168-181 機密文書公開関連ポスト (tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw)。
P168 二十世紀に入ってから、アメリカの大統領はかなり高い確率で、在任中にその座を副大統領に譲っている。マッキンレー大統領が暗殺され、ハーディング大統領が奇怪な蟹中毒で急死し(tw)、アトミック・ルーズヴェルト大統領が急死し、ケネディー大統領が暗殺され、ニクソン大統領がウォーターゲート事件(tw)で失脚した。
(略)P170 今世紀の前半についてはすでに述べたので、ケネディーとニクソンの消去について推理してみよう。
ジョン・F・ケネディーは、父親(上述)が大統領になっていれば暗殺されなかっただろう。
(略)P172 ケネディー家は大統領のポストを手に入れてから、モルガン=ロックフェラー連合と袂を分かってひとり歩きしはじめた。モルガンにとって残された手段は、ひとつしかなかった。
リー・ハーヴェイ・オズワルドに白羽の矢が立てられた。FBIとオズワルドがたびたび接触していたことは、数々の証拠で明らかにされている通りだ。彼がロシア系であることは、憎むべき大統領暗殺者として最適の条件だった。
なぜ一九六三年十一月二十二日が選ばれたのかは明らかではない。この日は、リレー衛星一号による初の太平洋横断テレビ実況中継がおこなわれ、その成功の第一報がケネディー暗殺事件となっている。
この衛星中継をおこなった「コムサット」はその年の二月一日に創立されたばかりで、会長のレオ・D・ウェルチが「スタンダード石油」の会長だった。
その日、CBS放送の社長ジム・オーブリーは、社内に特別命令を出した。
「暗殺の瞬間を繰り返し放送しろ。大衆が見たいのはそれだけだ」
このCBS放送は、一九六〇年代には「チェース・マンハッタン銀行」が最大株主で、完全に支配していた。
P173暗殺は計画的な犯行だから、特別な日を選んでおこなわれる。この日にはもうひとつのスケジュールが組まれ、「ロックフェラー財団」之理事長ディーン・ラスク国務長官が、大統領専用機に乗っていつもケネディーが坐っている席に坐り、日本へ向かっていた。日米閣僚会議に出席するため、この機内で、彼は暗殺の電文を読んだのである。
以後、暗殺事件に関係した証人が数十人も謎の死を遂げ、FBIとCIAは、この件に限って異常なほど捜査能力ゼロの状態を続け、とうとう迷宮入りである。
司法長官は弟ロバートだった。捜査できないはずはない。しかし彼は兄が大統領であるときに長官の力を振るうことができても、ジョンソン大統領のもとでは何もできなかった。
暗殺から一年と少々でロバートは解任され、後任者にモルガンの「IBM」副社長カッツェンバックが送り込まれ、次いで、暗殺現場のテキサス州ダラス出身のラムゼイ・クラークがあとを継いだ。
クラークが司法長官に就任した翌年に、FBIとCIAの内部を知るただひとりの不都合な人間ロバート・ケネディーが、大統領の権力の座に再び近づきつつあった。しかし一九六八年六月五日に、いまだに正体不明の男サーハン・サーハンの手で、ロバートが射殺されたのである。
同姓の一致が、ここでわれわれに考える手掛かりを与えてくれるだろう。時の司法長官ラムゼイ・クラークだったが、、今世紀に入ってからもうひとり、同姓を名乗る司法長官トマス・C・クラークという人物がいた。
すでにたびたび登場したが、在任期間は一九四五年から四九年、終戦直後のハリウッド赤狩り時代をスタートさせ、あの悪夢を取り仕切った人物である。彼の悪辣さは、それにとどまらない。
P174 司法長官から直ちに最高裁判所に移ると、今度は、自らの手で捕らえた“罪人”を自ら裁判長として裁き、牢獄まで面倒を見るというおそるべき人間だった。
再び思い返せば、このトマス・クラークは、「スタンダード石油」との汚職事件で自らテキサス州議会に告発された履歴があったのではなかったか。
同姓を持つふたりのテキサス司法長官について系譜を追えば確信した通り、ラムゼイ・クラークはトマス・クラークの実の息子である。暗殺現場ダラスの汚れた親子の手に、事件の後始末が託されたのだ。
最後に、このケネディー大統領暗殺事件は、「大統領特命調査委員会」が長い期間にわたる検討をおこない、“オズワルドの単独犯行である”という結論を出して集結した。
オズワルドの母親は、そのレポートは嘘だらけである、と怒りながら厳しく批判している。この調査のメンバーガ持つ特異な履歴は次の通りである(tw,tw,tw)。
(略)P175さらにこの調査委員会の法律顧問として選ばれたウィリアム・コールマン・Jr.は、「チェース・マンハッタン銀行」の重役で、のちにフォード=ロックフェラー内閣の運輸長官をつとめる人物である。
ケネディー暗殺が彼らによって仕組まれたと推理させる根拠がある。暗殺の動機として最も大きくクローズ・アップされるのは、「USスチール」と「ベツレヘム・スチール」に対するケネディー兄弟の明らさまな挑戦だろう。
両社の会長以下、重役陣の役職を洗ってみると、「カーネギー・メロン大学」、「GE」、「ファースト・ナショナル銀行」、「チェース・マンハッタン銀行」、「メトロポリタン生命」、「モルガン・ギャランティー・トラスト」、「スタンダード石油」といった名前が果てしく転がり出てくる。
この「USスチール」という怪物の労働組合で労働側の法律顧問をつとめ、ロジャー・ブラウ会長とケネディーのあいだに立って賃上げ交渉の調停をしたのが、さきほど登場したアーサー・ゴールドバーグ労働長官自身である。
彼は、結局のところ賃上げを非常に低い水準におさえ、組合に泣いてもらう形で事態を収拾している。奇怪な弁護士ではないか。労働組合を弾圧した赤狩り“タフト=ハートレー法”に反対した、というゴールドバーグの履歴は本当だろうか。
彼がこのあとで入社した法律事務所のパートナーには、ウィリアム・コールマン・Jr.という名前がある。
P176 ケネディー暗殺調査委員会の法律顧問をつとめた、「チェース・マンハッタン銀行」の重役である。「USスチール」の労働組合は、とんでもない人物を交渉役に選んだものだ。
さらにこのゴールドバーグとコールマン・Jr.の同じオフィスには、もうひとり重要なパートナーが居た。W・ウィラード・ワーツという人物で、彼がゴールドバーグの後任としてまたしても問題の労働長官に就任している。
ケネディー暗殺直前からジョンソン政権の全期間を、このワーツが支配している。労働長官のポストが、二代の大統領にわたってある法律事務所の手に握られ、そこにいた「チェース」の重役が指令を出していたのだ。
問題の「USスチール」に最も近い法律事務所が、ケネディー暗殺調査委員会ダレスの入っている「サリヴァン=クロムウェル」である。そのオフィスには、彼のパートナーとして、ジャクリーンの母が再婚したオーチンクロス家のルイス・スタントン・オーチンクロスがいた。
独立独歩をはじめたために暗殺の不幸に見舞われたケネディー家が危険と見るや、袂を分かって、急いで元の鞘に収まったのでる。母はオーチンクロス家へ、娘はオナシス家へ。しかしその鞘の持ち主は誰だったか。
誰が動かしているかを想像させる一群の集団が浮かびあがってくる。大統領がいとも簡単に殺されるアメリカで、その護衛にあたるシークレット・サービスは、本来が大統領を守るためのものではなかった。
実は財務省の秘密警察であり、そのイニシャルSSは、奇しくもナチスの親衛隊と同じである。
すでに引退していたジョゼフ・ケネディー(上述)が果たそうとしたモルガンへの復讐は、彼自身が二度まで息子の死を知らされ、病床で黙って泣き濡れながら、ロバート暗殺の翌年にこの世を去るという形で終わった。
P177ニクソンお失脚はなぜ起こったか。
(略)P178/ 180
12.2 謎の人物ヘミングウェイ(tw)
P181/ 182/ 184/ 186/ 189
12.3 ノーベル賞とオリンピック P190-200
P190/ 192
P194 第一回オリンピックがアテネで開催されたのは、今世紀の幕を開いたマッキンレー大統領が、選挙中に"金本位制"を口に出した一八九六年のことである。このとき、メダルの授受はまだなかったが、オリンピックの提唱者クーベルタンはそれまでの履歴を一切秘密にしている。
分かっているのは、彼がかつて没落した財閥メディチ家の子孫にあたる大富豪で、男爵というより軍人だったこと、この十年前にフランスからアメリカに渡ってわれらの"名門校"を訪ね歩いたこと、第一次大戦のあとはモルガンの「国際決済銀行」が設立されたスイスに移り住んだこと、ペンシルヴァニア司教の「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉を盗み、またドミニコ教団神父の「より速く、より高く、より強く」という言葉を盗んだこと、である。
その死に場所には疑惑がかけられているが、「より強く」が軍人の口から発せられると、不気味である。ダーウィンが思い出される。
P195 このようなオリンピックには、競技するスポーツ選手だけでなく、主催者に対して「オリンピック功労賞」が贈られてきた。独裁者のIOC会長ブランデージが一九七二年に引退してから廃止されたが、それまでのアメリカ人受賞者のなかに、ふたりの名前がある。
セオドア・ルーズヴェルト(大統領)
チャールズ・リンドバーグ(モルガン商会特権者)
さらにこのふたりの受賞のあいだに、アメリカ・オリンピック委員会のメンバーとして、「レミントン・ランド」の社長ダグラス・マッカーサーの名前がある。リンドバーグが受賞したのは、その二年前の一九三五年、"ヒットラーが強大な軍事力を全世界に誇示するための式典"と言われたベリリン・オリンピックで、ドイツ帝国の皇太子が功労賞を受けた時期と符合していた。
このナチス・オリンピックでは、ドイツ・オリンピック委員会のテオドール・レワルト会長がユダヤ人であったため追放され、ヒットラー、ゲーリング、ゲッベルスらがほとんど毎日スタジアムに現れた。ブランデージ会長のレポートは次の通りである。
「ドイツ組織委員会の活動は、いかなる言葉をもってしても賞賛し足りないほど素晴らしいものであった」
ブランデージ本人は、シカゴの建設会社「エイブリー・ブランデージ」の社長で、この会社がモルガン=ロックフェラーと結びつきを持つという証拠はないが、アリストテレス・ソクラテス・オナシスが
P196ニューヨークに一億ドルという途方もない金をかけて「オリンピック・タワーズ」を建設するプランを持ち出したとき、この五十二階の摩天楼をめぐって裏取引があった、と疑いの目が向けられた人物である。
建設会社はどこだったか。ブランデージは建設会社のほかに数々の企業の重役をつとめ、その投機ビジネスでは悪名高かった。オナシスとブランデージの結びつきは、オリンピック発祥の地ギリシャがオナシスの故国、ということからはじまっている。オナシス海運帝国が、オリンピック競技の支配者だったのである。
アリストテレス・ソクラテス・オナシスの名は、深く考えさせるものがある。ソクラテスの弟子プラトンが"スパルタ教育"を礼讃し、そのプラトンの弟子アリストテレスが"スパルタ教育"を批判し、近代になって彼らを胸に抱くオナシスが"オリンピック"を支配しようとタワーを建設したことになる。
このビジネスを成立させた当時、オナシスの顧問弁護士をつとめていた人物をロイ・コーンというが、彼は、ローゼンバーグ夫妻の事件で検事補佐をつとめた。さらにマッカーシーと組んで赤狩りの先頭に立ち、なぜかマッカーシーは抹殺されたが、このロイ・コーンは生き残っていたのだ。
「オリンピック・タワーズ」は、この人間たちの手で建設されたものである。彼らだけではなく、一九八○年のIOC委員八十六名の正体を見ると、全世界の実業家・銀行家・弁護士・法律屋を合計して四十一名に達する。ほぼ半数が、証券取引所のメンバーである。
P197 そのなかでアメリカ代表者として名を連ねるジュリアン・ルーズヴェルトは、モルガンの「ファースト・ナショナル銀行」に支配される投資銀行「グレース社」の副社長である。同社は、顧問としてロックフェラーの「メトロポリタン生命」会長ジョージ・ジェンキンズを迎えている。
この系列会社が、一九六九年に連続爆破を受けた企業のひとつだった。その前年に開催されたメキシコ・オリンピックで、十月十六日、百メートルに優勝したトミー・スミスと三位のジョン・カルロスが、表彰台のうえでモルガン家に由来する"星条旗よ永遠なれ"の国家に抵抗し、国旗に背を向けたのである。
翌十七日、アメリカ・オリンピック委員会は、このふたりの黒人をオリンピック村から追放する命令を下した。ソンミ村の虐殺から半年後というベトナム戦争の真っただ中で、戦場では黒人が第一線の危険な先頭を歩かされ、国内では黒人の怒りが暴動を生んでいた。キング牧師が暗殺されたのはこの年の四月であった。
オリンピック村の宿舎には、その日、窓から"ブランデージを倒せ"と書いた白い布が垂れ下がっていた。これらの出来事は、決してバラバラに発生したものではなく、また、根拠のないレジスタンスではなかった。しかし事件は次のようにバラバラに報道された。
オリンピック村から選手追放
黒人暴動--また暑い夏
ベトナム戦争激化--米軍にも死者激増
P198キング牧師暗殺される
連続爆破また発生
これに対する側には、ブランデージ、オナシス、リンドバーグ、ベトナム戦犯たちが存在していた。すべてを動かすロックフェラーとモルガンが、これらの事件をまとめて説明してくれるのだ。
見えない力がわれわれの頭上に金色の雲として輝いている。たとえば・・・
これらの栄誉は、受賞者の人格や資質の高さと無関係に出発した。受賞者はそれを知らずに栄誉と感じる。この瞬間、ひとつの世界に自分が入り込んでしまった事実を自覚するだろう。こうしてある種の見えない力が、何も知らない人びとをピンセットでつまみ出し、自分の星座のなかに組み込むことは可能だろう。
12.4 ポルノ解禁とマリリンモンロー P200-207
P200 この調査をスタートしてから、ずっと気掛かりになっていたのが、一九五〇年代からアメリカの性風俗が大きく変わった現象である。
このセックス解放は、ハリウッドの映画界とどのよう関係で進んだのか。
P201ハリウッドでは、エジソンの映画創生時代からエロティシズムを売り物にしてきたが、クララ・ボウとジーン・ハーロウが光り輝く時代を通り抜けて、マリリン・モンローが死ぬまで、その伝統は受け継がれた。
彼女たちは誘惑的だったが、決してそのものズバリのポルノ女優とは性質の違う女神たちである。
バイオグラフ・ガールのスター第一号のフローレンス・ローレンスは、自殺によってその生涯を閉じた。
クララ・ボウはゲイリー・クーパーとジョン・ウェインをいずれも秘密の寝室に招待したと噂され、以後さまざまなスキャンダル暴露のため、ハリウッドで抹殺された。
ジーン・ハーロウは新夫が自殺し、その三日後にはこの新夫の前妻が自殺し、自らも二十六歳の若さでこの世を去った。
マリリン・モンローはジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーと結婚のあと、ケネディー大統領就任の日にミラーと離婚し、その翌年に三十六歳で謎の死を遂げた。
スキャンダルの洪水のなかで殺されていった美女たち、という悲哀のストーリーが通説となっている。スキャンダルがあって初めてダイスターとなった肉体女優の結末は、バイオグラフ・ガールが誕生した時から、運命づけられていたのか、それとも別の理由があったのだろうか。
きわどいスクリーンの検閲は次のようにしておこなわれてきた。
アメリカで最初の検閲法規が制定されたのは、一九〇七年のシカゴ条例だったが、これが実際
P202 に使用されるようになったのは、一九〇九年である。ローレンス嬢がレムルに引き抜かれてスターになった、その前の年に当たる。このころ映画の描写が生々しさを高めたため、各界から検閲の要求が強く出された。
---子供に好色な興味を抱かせてはならない。
それから五年後の一九一四年には、シカゴの条例に手が加えられ、いわゆる“ピンク映画”の指定制度が導入された。映画界は、二十一歳以下の者を締め出せばピンク映画を上映してもよい、という反撃に成功し、これによって先ほどの三人のセックス・シンボルの出現が約束されたのである。
映画の製作者が見抜いたのは、映画ファンがただ裸を見たいのではなく、そのスターを“生身の人間として抱擁したい”という欲望を抱いて劇場に来ていることだった。正体のない人間がどのように魅力的であっても、その興奮は持続しない。
それなら名もないストリップ劇場のダンサーを眺めるのと変わりがない。
しかしもし夢と憧れるスター女優が自分と同じ街を歩き、数々の男とベッドを共にしているとすれば……このような錯覚を映画ファンに抱かせることに成功すれば……
かくしてスクリーン上のセックス・シンボルは、実生活でも男漁りのできる女でなければならない、という原則が映画界に生まれた。あとはそれをゴシップ・ライターが来る日も来る日も書き続け、頃合いを見計らって映画の公開に踏み切ればよいだろう。
こうしてハリウッドは、半世紀にわたるスター時代を持続したが、マリリン・モンローが怪死
P203した一九六ニ年に、スキャンダルそのものの生命が終りを告げた。公表されたモンローの“自殺”は疑わしいものであり、その謎は、陽気なハリウッドのスキャンダルを踏み越えた、忌まわしい事件に聞こえた。
この年に『007は殺しの番号』が封切られ、バイオグラフ・ガールでなくボンド・ガールという新しい集団が登場してきた。特定のセックス・シンボルに対する神話が崩れたからだろうか、映画ファンの目には大スターよりボンド・ガールのほうがはるかに新鮮に見えた。
不特定のピンク集団が映画界を圧倒するようになれば、これは名もないストリッパーを劇場で観るのと同じだった。半世紀前と同じように、倫理規定はすっかり無用となって、取り払われてしまった。
その方法は、Xという分類映画を定める、つまり、“十八歳未満お断り”の看板さえ掲げれば何を映写してもよろしい、というものである。
内容は一九七三年の『ディープ・スロート』で行きつくところまで達してしまい、ピンク映画は性行為だけを記録する世界と変った。これが一瞬で飽きられたのは当然だ。映画界は、自ら失ったものの大きさを嘆き、行きつくところまで達した以上、昔には戻れないことを知っていた。
マリリン・モンローが地下鉄の通風口のうえでスカートをおさえる姿に興奮できた時代を懐かしみ、その最後の佳き時代のポスターが、今でもあちこちに飾られている。
ざっとこのような映画史が通説である。これをモルガン⁼ロックフェラー語で書き替えるとどうなるか。
P204 実はこの映画史に、ひとつの混同がある。ハリウッド映画界はポルノ映画を製作していないのだ。
モルガンとロックフェラーがハリウッドを支配していた時代には、ポルノ映画は主流ではなかった。アメリカ女性協会の会長をつとめていたのが、アンヌ・モルガンすなわちジャック・モルガンの妹である。
一九五〇年前後に赤狩り襲撃に手を染め、そろそろ彼らがハリウッドに見切りをつけはじめた時代から、性風俗に変化が生じはじめた。プレスリーの登場や『暴力教室』がこれと重なって、解放の意気は高まった。
これは誰かによって引き起こされたものではなかったか。
アメリカ国民が大きな意識の変化を持ったキッカケとして第一にあげられるのが、性風俗の実態を報告した「キンゼイ・レポート」である。
第一回赤狩り裁判の翌年(一九四八年)、ハーヴァード大学で博士号を得た生物学者アルフレッド・キンゼイが、“男性の性行為”と題するレポートを提出すると、その書物は二ヵ月でニ十万部を売りつくすベスト・セラーとなった。
次いで第二回赤狩り裁判が終了する年(一九五三年)、今度は“女性の性行為”を出版し、これも大当たりを取った。ふたつのレポートによって、ピューリタン的な道徳観はアメリカ全土でガラガラと音を立てて崩れ落ちて行った。
このキンゼイ博士の研究の資金源が、ロックフェラー財団だったのである。この研究は大戦直前の一九三八年からスタートし、ほぼ結論が明らかになった戦争中の一九四二年に、ロックフェラーの支援がはじまっている。
この結論を支持したロックフェラーの目的は謎に包まれているが、
P205ショッキングな内容を知りながら発表に踏み切らせたからには、明確な目的があったに違いない。
偶然にもハリウッドの赤狩り裁判と並行している。ロックフェラーと一線を画していたマッカーシーはその謎の目的を理解するはずもなく、“キンゼイ・レポート”に嚙みつき、一九五二年にはロックフェラー財団の資金援助を打ち切らせてしまった。
しかしその時までのデータを使って、翌年に、“女性レポート”が出版されたのである。
このレポートについて当時かなり問題になった点を挙げておくと、“ユダヤ人に研究の重点が置置かれすぎている”という指摘だった。
一九五〇年にはじまった朝鮮戦争から、アメリカ兵が本格的に外国へ長期間滞在するようになり、ひとつの大きな産業が胎動しはじめたことも指摘されてよい。切り捨てられたハリウッド映画人の受け皿としてか、闇市場としてのセックス映画が大量に作られはじめたのである。
一九六○年代に入ってハリウッドが影も形もなくなり、ベトナム戦争が大量の兵士を動員するようになると、これが一層エスカレートした。ベトナム現地ではストリッパーの需要が激増し、サイゴンの街は売春宿の魔窟と呼んでもよいほど頽廃した。
ブルー・ハウスと呼ばれる宿では、しみだらけの薄汚いカーテン一枚の仕切りで、大広間を男女の抱擁が埋めつくす光景が展開された。
北爆を開始した二年後、言い換えれば北爆が本格的になった一九六九年、ジョンソン大統領は補佐官ジャック・ヴァレンチを「映画制作者協会」の新しい会長に任命した。彼はこのポストに
P206 つくと、それまでの倫理規程を骨抜きにしてゆき、一九六八年に、さきほど述べたように“x”という分類法を採用して、闇市場のポルノ映画を公然たる産業として世に送リ出したのである。
彼はテキサスの石油業界出身で、ジョンソン大統領の秘書メアリー・ワイリと結婚したが、ロックフェラーの支配下にある「トランスワールド航空」の重役である。
翌年四月七日には、新しいニクソン政権のもとで、最高裁判所が“判事全員一致”の見解として次の判決を下した。
---一般国民がポルノ雑誌や写真を自宅で見ることを禁止する法律は、憲法に違反する。このような一連の動きは、検閲制度がなくなって民主的な状態を生み出す、という点では“ケインズの経済学”に一致し、良識のある人びとから支持を得た。それでも、ロックフェラー、ジョンソン、ニクソンたちがそれをおこなった事実を知れば、ひとつの罠を連想しても不思議ではない。
大衆を享楽に走らせながら社会問題を忘れさせ、その裏でビジネスを大きく進めることができる。第二次大戦に向かって突っ走った一九三○年代に、ターザン、キング・コング、テンプルちゃん、白雪姫と七人の小びとたちがその主役を果たしたように…
マリリン・モンローの死については、読者のほうがよくご存知である(tw)。
ただひとつだけ注意していただきたいのは、彼女についてこれまで出版されてきた四十冊近い書物の大部分は、内容がすべて証言で成り立っているという点である。人間の言葉には、何らかの目的や感情が含まれている。
ローゼンバーグ事件と同じように、なにひとつ確固たる物証がないまま、
P207自殺説やケネディーによるモンロー暗殺説が氾濫しているが、即断は、別の犯人を取り逃がす可能性を暗示している。
マリリン・モンローはアーサー・ミラーと結婚したあと二年間も映画に出演せず、彼女が出演を望んだのは『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェンカ役だけであった。当時のハリウッド支配者にとって好ましくない彼女は、とうとう二十世紀フォックスから解雇された。
エリア・カザンがブラックリストを手渡したスピロス・スクーラス社長の命令である。モンローは当時の赤狩りに、想像する以上に深く係わっていたことが分かる。そこにはFBIがいた。
公正に見て、われわれには“モンローの死”の真相を判断する資料がない(tw)。
物証が出ない限り、その物証を握りつぶしたFBIに最大の嫌疑をかけておくべきである。これが一番単純で、まず最初に注目すべき、探偵作業の基本と言ってよい。
推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーは、ミステリー愛好家たちが一位にランクする『盗まれた手紙』のなかで、“人間が最も犯しやすい失敗はもっとも単純なことを調べないことである”と指摘している。このケースは、一九八九現在、ポーの言葉があてはまる。
第十三章 われらの眠れない時代 P210-234
13.1 血みどろの戦い P210-21713.2 ビッグ・ゲーム P217-234
P232 人種差別の国を友とせよ、と訴えたこの商務長官マルコーム・ボルドリッジもモルガン⁼ロックフェラー連合の総代表者で、彼は直接自分が重役室に収まっている非鉄金属の最大手「アサルコ」のためにこの報告書を出させた。
南アの人種抗争の背景として、これらの固有名詞を知っておく必要がある。白人が悪いのではない。そのなかのひと握りの人間に問題がある。ザイール、ケニア、ガボンなどにおけるわが連合の銀行支配も、おそるべきものがある。
その銀行の正体は、国際組織としての「世界銀行」と「IMF」、アメリカ国内の「連邦準備銀行」、そしてモルガン⁼ロックフェラー直属の「チェース・マンハッタン銀行」、「J・P・モルガン銀行」、「シティー・バンク」である。これらが一体となって、アフリカの貧困国へ金を貸し付ける(tw,tw)。
"絶対に返却できない"という状況を見越して貸し付けるため、最後には借金のカタにその国の利権を支配し、うまくゆかなければ軍隊を派遣する。貸し倒れにならないよう、すでに七十年以上も昔の一九一三年、「連邦準備制度理事会」が設立され、巨大銀行の危機を大衆の資金で救えるようにしてある(tw)。
これはジョン・ピアポント・モルガンの遺志を息子のジャックが結実させて生まれた機関で、初代の「連邦準備銀行」総裁がJ・P・モルガンの設立した「バンカーズ・トラスト」社長ベンジャミン・ストロング、この理事会の初代議長がモルガン商会特権者ウィリアム・マカドゥーという万全の態勢でスタートした。
オイル・ショック後に、モルガン⁼ロックフェラー銀行の不当利益に対するチャーチ委員会P233の追及をかわしたこの銀行のポール・ヴォルカー総裁が、「チェース」の副会長だったのはこのような歴史によるのである。
こうした力を背景に、国防長官を握ったわが連合は、アフリカを荒らしに荒らしてきた。アラブ人がオイル・ショックのなかで、この姿を的確に指摘した。
「チェースは銀行じゃない。あれは軍隊だ」これは名言である。
こうしてヨーロッパ人と手を組んでアフリカを荒らしに荒らした彼らが、ロンドンとフィラデルフィアで"アフリカ飢餓救済ロック・コンサート"を開いた。
♪WE ARE the WORLD♪
笑止ではないか。コンサートで集めた百三十億円など、爆撃機一機の値段にすぎないのである。
「世界銀行」がこの機に乗じて、アフリカ救済プロジェクトを始動させた。その金融機関の窓口としてアメリカの国民から集金するのは、またしてもモルガン⁼ロックフェラー連合なのか。戦乱に明け暮れるアフリカと、飢えるアフリカは表裏一体である。アフリカの食糧事情については、アメリカの人工衛星"ランドサット"がはるか以前からその危機を知っていた。
現在の技術では、九十八パーセントの精度で穀物の収穫量を予測できる。ロシアの小麦の実情を知り、脅迫を続けてきたアメリカ農業である。アフリカの飢餓は、すべてがひとつの力で起こされたものだった。
1)We Are The World The Story Behind The Song(tw) 2)Barbarella(tw)
終章 神秘のなかの謎
モルガン家の隠れ家(tw)236/ 238/ 240/ 242/ 244/ 246
P246その隠れ家を教えてくれたのは、経済学者ケインズ(相互参照)のひと言だった。
「アメリカの新天地を目指したメイフラワー号には弁護士しか載っていなかったのか(参照)」
P247アメリカを動かすのは弁護士だ、という事実を、ケインズの嘆きの言葉が指摘していたのだ。
248/ 250/ 252/ 254
新・映像の世紀「第2集 グレートファミリー 新たな支配者」
0539第一次大戦後のヨーロッパ、アメリカ
0615パリ講和会議、モルガンの独壇場
0759モルガン所有のタイタニック号事件1912.4、モルガン王国(鉄道会社、エジソン電機GE、ベル通信ATT、自動車GM、製鉄USスチール)
1029移民、イタリア、ユダヤ人、五番街、摩天楼(クラースラービル、GMエンパイアステートビル)
1220自動車産業の発展、石油王ジョン・ロックフェラーの誕生
1642労働争議、ヘレン・ケラー、フォードに労働改善を訴える。労働者を虐殺したロックフェラーを非難。
1910移民、イタリア人、ユダヤ人(ポグロム難民、ウクライナ、ロシア、化粧品マックス・ファクター、映画エジソンを逃れハリウッドへ相互参照)
2327カーク・ダグラス
2407フォード工場、移民労働者への教育、禁酒法1920(tw)
2644関東大震災1923モルガン公債に応じる(償還し終えたのは40年後)
2747ロックファラー、自由貿易推進、先兵は財団による慈善事業(朝鮮、中国、アフリカ)
3043大量生産大量消費、デュポン社(レーヨン、セロファン包装紙、ナイロンストッキング、プラスチック製品)、週休二日制、旅行ブーム、華麗なるギャツビー、バレエ・リュス(tw)、リディア・ロポコワ、ケインズと結婚(tw)
3550大恐慌1929、ジョン・ロックフェラーのメッセージ、。JPモルガンJr.は聴聞会に召喚1933.5(相互参照)
3941ケインズ『国家的自給』1933、今我々がそのただ中にいるグローバルでかつ個人主義的な資本主義は成功ではなかった。それは知的でなく美しくなく公正でもなく道徳的でもないそして善をもたらさない。だがそれ以外に何があるのかと思うとき、非常に困惑する(tw)
4012「グレート・ダスト・ストーム」1935.4農民移動「怒りの葡萄」、ソ連の繁栄、ロックフェラーセンター完成だがテナント集まらず。建設で職を得た労働者は感謝した、クリスマスツリーの起源
4410三代目当主デイビッド・ロックフェラー。ワールド・トレード・センター建設計画、1937.5創業者ジョン・ロックフェラー死去(享年97)
4520亡くなる前、見舞ったフォード、「さらばだ、天国で会おう」というジョン・ロックフェラーに対し「あなたが天国に行けるならね」と返す(tw,tw,tw,tw,tw)
4539労働争議、ベルリン、日本、パリ→ファシズムの台頭
4648デュポンとルーズベルト大統領の縁結び1937.6、日本、ドイツ、イタリアを支援していたモルガンは戦争が始まると態度が一変、アメリカの戦時公債引受け
新・映像の世紀「第2集 グレートファミリー 新たな支配者」