著者はしがきi/ ii/ iv/ vi
原爆とグローブス将軍(解説) viii/ x/ xii
原爆関係年誌、目次 xiv/ xvi/ xviii/ xx
原爆計画の機構及び指揮系統図(1945.5現在)P4
第一部
1.1われわれはそれで戦争に勝てるのだ
P68 また彼らは、ドイツの軍事計画に対する最大の支援を確保するため、ドイツの科学者に加えられる圧力についても明らかに承知していた。だいたいにおいて、アメリカ生まれの科学者は外国生まれの科学者ほど、情勢の危険の評価について敏感ではなかった。
米英両国は原子エネルギーに関する情報の自発的な検問を行なうよう協同で努力した。最初のうちは、フランスのジョリオ・キュリー博士が参加に反対したのでこの取り決めの効果は大したものではなかったが、欧州戦の発生によって実施された政府の厳重な措置の基礎になった。
これと同時に、米国に避難した科学者のグループは、原子物理学が米国に対して持つ危険と将来性について、米国政府の当事者に知らせる中心となった。早くも一九三九年三月、米海軍省の代表者とコロンビア大学のジョージ・B・べグラム博士とエンリコ・フェルミ博士の間で、原子力の開発について討議が行われた。
しかし、この討議のさいフェルミ博士がいくらかの懸念を示したので、米国政府は気乗りうすで、ウォール街の経済学者でルーズベルト大統領の友人であり助言者でもあったアレクサンダー・ザックス(Alexander Sachs)氏(相参1、相参2)が、一九三九年十月に、当時行われていた科学研究に対して大統領の支持を求めるまではこれに大きな関心を示そうとしなかった。
ザックス氏は以前から、原子エネルギー開発の可能性について研究をつづけており、政府はその開発を積極的に援助すべきであると考えていた。彼はこの問題をコロンビア大学の科学者たちとアインシュタイン博士に相談した。
アインシュタイン博士に相談した。アインシュタイン博士はザックス氏が大統領に提出する適当な書簡を用意するならそれに署名してもよいと同意した。こうしてホワイト・ハウスに提出された書簡には、この問題の重大性が強調されていた。
大統領はザックス氏の意見で動かされ、ウラン諮問委員会を設置し、原子力の開発状況を報告させることにした。
原爆生産スタートを切る
P9商務省標準局と陸海軍の代表者で構成されたこの委員会は、しばしば物理や化学の各分野の学者と、原子力と原子兵器の開発について討議した。そして、この討議を基礎として、委員会は陸海軍が研究用材料を購入する経費を準備するよう勧告した。
この委員会の仕事は、一九四〇年四月にベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所がウランなどのぼう大な研究計画に乗り出したことを知ったとき、にわかに活気づいた。
一九四〇年六月にバネバー・ブッシュ博士を委員長とする国防調査委員会(NDRC)が創設されるや、ウラン諮問委員会はその下部機構の一つの分科委員会となり、大がかりな研究計画に着手した。
その仕事は、最初は陸海軍から移管された経費によって、後には国防調査委員会の予算でまかなわれ、大学、民間および公立の研究所と連絡して開始された。そして一九四一年十一月になると、合計約三十万ドルの予算で十六の計画が行われるようになった。
その年の春から夏にかけて、科学と技術の両面から原子核計画の全体が慎重に検討され、計画の軍事的な可能性が強調された。こうした検討のなかで、ブッシュ博士はこの分野に関係した英国の科学者たちの楽観的な見解を指摘したのち、米国は原子エネルギーを軍事利用の面で開発する努力を強化すべきであると結論した。
彼はこの問題を大統領と相談した結果、計画を拡充し機構を改善する承認をとりつけ、特別の経費を手に入れ、英国と情報を交換する許可を得た。そのころ、ルーズベルト大統領は最高政策グループを設けた。
それは大統領をはじめ、ウォーレス副大統領、スチムソン陸軍長官、陸軍参謀総長マーシャル将軍、ブッシュ博士、ジェームズ・B・コナント博士で構成されていた。一九四一年十一月、ウラン計画の重要性が増したので、ブッシュ博士はウラン諮問委員会を国防調査委員会の外におくことに決め、国防調査委員会と対等の立場で科学研究開発庁(OSRD)の直属機関とした。
P10 (略、プルトニウムの軍事利用の可能性について)一方、ほかの大学や民間工場の研究所は、経済と時間の観点から、U-238からU-235を物理的に分離する方法を見いだそうとしていた。
ところで、米国の第二次大戦への参戦によって、原子エネルギーを動力源として開発する目的としたすべての計画を断念し、原爆を生産する努力に拍車がかけられた。
これと同時に、ブッシュ博士や政策立案者たちは、技術と建設の分野の開発が重要な問題であることを認め、こうした問題を処理するためにすでに設置されていた計画会議をさらに強力な機構にする必要があることを明らかにした。
ブッシュ博士たちが、自らの機構の限界を認め、国家の利益という見地に立ってこの問題に処した賢明さと勇気は賞賛されてよい。
特別工兵管区を新設(tw,相互参照(1、2))
そこで最高政策グループはが一九四一年十二月十六日に会議を開いたとき、ブッシュ博士は陸軍工兵隊が建設作業を実施するよう勧告し、有能な陸軍将校がこの計画に精通するよう要請した。
マーシャル将軍はこの任務をW・D・スタイヤー少将に命じた。
P12
P14 “マンハッタン”の由来
P16
1.2原爆計画本部
軍事政策委員会P23九月二十三日、私は准将に進級し、正式に計画の責任者になった。その日の午後、私は陸軍長官の別室で行われた会議に出席した。出席者はスチムソン長官、マーシャル将軍、ブッシュ博士、コナント博士、スタイヤー少将、パーネル海軍少将、ハーベー・バンディ氏と私であった。
第二部
2.19四つの原爆目標P222
対日進攻計画
われわれが日本に対する原爆投下作戦を練っていた間、ずっとアメリカの太平洋戦略は、対日戦を終わらせるためにはぜひともその本土にまで侵攻せねばならぬ、という想定をその基盤としていた。
それは、一九四四年七月に統合幕僚長会議の承認を得た戦略構想のもとに、九州に上陸するのは一九四五年十月一日と予定されており、さらに十二月には東京をめざして関東平野に強襲を加えることになっていた。
この計画は、どんな方法によるソ連の協同作戦もあてにしないものだった。
しかし、一九四五年二月はじめのヤルタ会談後、日本に直接攻撃を加えてこれを打倒するよりも、じわじわと封鎖を強めて立ち往生させて敗北に追いこむほうが賢明ではないのかという論争がむし返された。
ワシントン中央から意見を求められたマッカーサー将軍とミニッツ将軍の二名の最高指揮官は、むしろ直接強襲策に傾いた。この高く敬意を払われる判断の後押しを得て、中央の計画幕僚部は本土進攻戦略に対する以前の選択にふたたび立ちもどり、一九四五年四月に次の案を提出した。
P223あらゆる要素を検討したうえ、われわれは初期の対日進攻戦略を採用すべきであり、その方針は以下のようなものであろう。
- 進攻準備として、日本の戦争遂行能力を低下させ、国民の抗戦意識をなくすために、戦略爆撃および空母機による空襲によって日本に仮借のない常続的な圧力を加えること。
- 空中および海上哨戒、ならびに空襲部隊と海軍軽快部隊の手段による封鎖を強化すること(朝鮮と九州間の諸水路および黄海一帯の航路の封鎖を含む)
- あらかじめ進攻に必要な条件をつくるのに寄与し、かつぜひ必要な作戦にかぎり実施すること。
- 実行可能で最も早い時機に日本本土に進攻すること。
- 日本に無条件降伏を甘受させ、かつ絶対的な軍事的支配を確立するのに必要と認める工業地帯の中心地区を占領すること。
統合幕僚長会議は以上の構想を承認し、五月二十五日をもって九州進攻の指令が、マッカーサー将軍、ニミッツ提督およびアーノルド将軍に出された。今や、九州進攻の目標期日は一九四五年十一月一日であった。
アメリカ代表団が、ポツダム会談に出発する直前の六月十八日、大統領と統合幕僚長会議との会合記録には次のように記されている。
大統領は「私は九州進攻計画は軍事上の見地から結構だと思う。統合幕僚長会議はその線をすすめてよろしい。そこで、まずこの作戦を実施したうえで、最終の作戦行動に関してはいずれ決定のこととしたい」と言明した。こんな情勢下にあっては、いやしくもマンハッタン計画の中で責任のある地位を占めているわれわれとしては、人間としての立場からいえばいかに気の進まない仕事であるにせよ、今こそばく大なアメリカ人の生命を救うことのできる一つの兵器を完成しようと努力しているんだ、と信じないわけにはいかなかった。
P224 とはいえ、そこにはあるひじょうに重大な疑問が起こった。すなわち、米国は、威力の大きな原爆が予定どおりに生産されるだろうという期待のもとに、企図されたどんな軍事行動をも遅延させるべきであろうか?
日本のような手ごわい敵に対して、ひとたび優勢が獲得されたあかつきには、決してどんな猶予も許してはならないことは、老練な軍人ならだれでも百も承知のことだった。
もし、原爆が九州進攻の予定日の数日後---十一月初旬に確実に引き渡せるとすれば、私は上陸日の延期を勧告しただろう。私はこの見解を、スチムソン陸軍長官とハーベイ・バンディ陸軍次官補との会談のさい申しのべた。
しかし、一方、原爆がいくらか待てば準備ができて、その代替品になるだろうと当てにして、適時適切な軍事作戦を延期するようなことがあれば、それはとんでもない失策だと思うことも、彼ら二人およびマーシャル将軍に念を押した。
原爆使用をめぐる論争
日本に対して原爆を使用するという決定については、開戦いらいずっといろいろな議論が続出した。ところで、この種の決定はつねにただ一人の断によって下されねばならないものだ。
そして、この場合には、その重責はトルーマン大統領の双肩にかかった。ところで、その決定たるや一九四三年八月の第一次ケベック会談のさいの取り極めの中の一つの条項によって、チャーチル首相の同意を必要とすることになっていた。
とはいえ、最初の決定とおもな責任はトルーマン大統領が引き受けなければならないものだった。私に関するかぎりでは、彼の決定は容喙の余地のないものの一つであり、基本的には現存する諸計画をくつがえしたり、狂わすようなものではなかった。
P225われわれが最初に原子力の開発に着手したとき、米国は原子兵器を他のどんな国に対しても使用することは決して委任されていなかった。しかし、マンハッタン計画の活発化につれて情勢は変化しはじめた。
巨額の経費の点でも、その後の戦争努力を吸いとった点でも、われわれの作業はきわめて高価なものについた。時がたつにつれ、われわれがその計画にたえず金と努力を惜しみなく注ぎこむにつれ、いきおい、合衆国政府が終局的に原爆の使用を委任されるようになったのは当然の成行きである。
一方、われわれがこの身の毛のよだつような兵器の開発に乗り出したのは、ヒトラーにその完成の先手をとられないようにするためだとよくいわれたが、事実は、その計画に全面的努力を傾けるというもともとの決定は、戦争を終わらせるためにそれを使用するのだということにほかならなかったのだ。
スチムソン長官が簡潔にそのことをのべたように、マンハッタン計画は、“他のどんな条件にもまして、戦争を急速に終結に持ちこみ、かくしてアメリカ人の多数の生命を救うために”存在したのである。
それについて、私の心中には一点の疑念もなかったことは確かであるが、別に私が承知しているかぎりでは、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の気持ちの中にも、われわれは合衆国の敵対者に対して使用されるはずの一つの兵器として開発しつつある、という期待がった。
原爆は使用されないかもしれないという可能性の最初の重大な示唆は、ヨーロッパ戦勝記念日(一九四五・五・八)の後に起こった。当時、パターソン陸軍次官が、欧州方面の戦争の終結つまりドイツの降伏は、爆弾を日本に投下するという米国の計画を変えるようになるのではなかと私に問いかけた。
私は計画が変更される理由を発見できないと即答した。ドイツが降伏しても米国に対する日本の抗戦活動が少しも減らない以上、ルーズベルト大統領がマンハッタン計画に含まれるとほうもない努力を承認したときに下した決定を、
P226 いまさら変更する必要を認めなかったからである。それからまもなく、幾人かの科学者連中が、日本に対する原爆の使用の合理性についての疑問を表明しはじめた。
その連中のうちの若干の人びとは、ナチス体制下における人種的迫害からのがれるために米国に亡命してきたのだった。彼らにとってはヒトラーだけが至上の敵であったが、ひとたびヒトラーの第三帝国がが一掃された後では、同じくらいの熱狂をもって、日本軍事力の破砕に全力を打ちこむことはとてもできないことを痛感したからだった。
やはり同じころであったが、別に、原爆はどんなやり方で使用すべきかについての論争が起こった。われわれは、
まず公開実験によってその威力を世界に示し、しかる後に日本に最後通牒を送るように行動すべきか?さて、私の立場をいえば、この原爆の驚倒的な不意打ちが日本国民および政府に与える効果の重要性を台なしにするような考え方は、まったく正気の沙汰とは思えないしだいだった。
または、いきなり警告なしに原爆を投下するか?
とつぜんに奇襲を加えるために、われわれはあんなにも苦心に苦心を重ねて、機密保持とやっきになって取り組んできたのではないか。
トルーマン大統領は、これらの種々のしかもお互い相容れない意見が入り乱れていることをよく知っていた。彼は最終決定に達する前に、あれやこれやと事の核心の探求に心を痛めたにちがいない。
私の意見によれば、このまま原計画を続行するというトルーマン大統領の決定は、卓絶無比の勇気と賢明さとの行動として長くそびえ立つであろう。
なぜなら、その勇気こそ、合衆国の歴史においてはじめて、陸海軍の総司令官としての大統領のみが直接責任でありと目される主要な軍事的、戦略的、戦術的な作戦のコースを決定したからである。
そして、アメリカ人の生命の価値を思いをいたすかぎり、歴史は彼の賢明な決定が正真正銘、正当であったことを実証しているからである。
P227原爆目標の選定と爆撃実施計画
(略)
228/ 230
P232
原爆の管理はワシントン
原爆の使用についてのいっさいの権限と責任は、目下のところ、ワシントンが直接握っていなければならない
P233という結論にアーノルド将軍と私が達したことを目標委員会が通告されたのは、その第三回会合のときだった。委員会の中の空軍代表の委員の中で、原爆計画の重大性の理解を欠いた連中がいたので、この通告はぜひ必要だった。
原爆といったところで、他の新兵器と同類のものだと彼らは決めてかかっていた。つまり、戦闘用としていったん原爆が準備されたならば、攻撃目標は指定されるにせよ、使用上の権限は現地指揮官に移り、あらゆる点で彼は行動の自由を与えられるはずだというわけだった。
ところで、原爆の場合は、そんなふうに尋常茶飯事として取り扱われるには、あまりに複雑すぎる重大問題だ、と私は感じたが、その点アーノルド将軍も同様だった。
そんなわれわれの感情とは別に、そんな事もなげな用法をスチムソン長官なりマーシャル参謀総長なりが、おいそれといったい承認するかどうかにも大いに疑問があった。
現在までのところ、この肝心かなめの点については、一度もまだ討議されることはなかったのであるが。
原爆による現地作戦は、たぶんマーシャル将軍自信と、その計画に十分の考慮を払うスチムソン長官の承認とを経て、ワシントンからの直接指令によるだろう、ということを私はいつも心にえがいていたのだった。
また、総司令官たる大統領としては、自分でその決定を行うというよりも、むしろ陸軍省のつくった計画を承認するか、または承認しないというやり方で、この直轄事項に責任を果たすだろう、というのが私の期待だった。
ところで、今や、その作戦は異例にも、米統合幕僚長会議または英米連合参謀本部のどちらによっても、正式に考慮のうえ判決を下されないだろうということが明らかになった。
それについての大きな理由の一つは、何といっても完全な機密保持をふいにしないということだった。だが、これとならんだ重要な理由は、統合幕僚長会議議長のレーヒ提督がこの兵器とその予想威力に対して不信の念をいだいていたことをあげねばならない。
たぶんこれが、統合幕僚長会議の積極的な動きを封じたのではなかろうか。
P234 六ヵ月か七ヵ月前に、原爆計画の現状報告を提出するために私が彼を訪ねたとき、レーヒ提督は海軍現役時代の長い爆薬関係の経験をくわしく語り、とても原子力開発作業からは新分野を切り開くようなずば抜けたものの出現はかんがえられないね、といい張ったのである。
ある戦争集に開発されたどんな兵器も、その戦争が終わるまでに決定的な効果を示したものは何一つないことを、レーヒ提督は私に想起させた。それから彼は話を進めて、私にとっては他のふさわしい仕事にまわされるほうがずっとよかっただろうに、海のものとも山のものともつかぬ原子力開発に向けられたとは、たいへんお気の毒のことだ、といい添えた。
彼は、日本の早期降伏は避けがたいものであり、その降伏はかならずや海空より連合作戦によってもたらされるだろうという意見をすでに一九四四年七月に表明しており、この話合いのときの彼の見解もその考えでゆがめられていたことは明らかだ。
いずれにせよ、レーヒ提督は戦後その回想録の中で率直に認めたように、原爆の実用性については当時なんの信頼もいだいていなかった。
とはいえ、レーヒ提督と他の幕僚長たち、および連合参謀本部の英国メンバーの代表者のウィルソン陸軍元帥は、あらゆる細目までは公式には通告されなかったが、原爆作戦が開始される前にはそのだいたいの計画について知っていたことを明らかにしておきたい。
原爆使用の権限が現地に引き渡されそうにもないという私の印象を強めたのは、アーノルド将軍が戦略空軍に対する個人的支配力を握っていたいと強く望んでおり、その参謀長のノースタッド准将をワシントンにとどめて、直接にその活動を監督しようとしているという事実だった。
原爆攻撃の直前に、スパーツ将軍がグァムに出向くまでは、この情況の変化はほとんど感知されなかった。しかし、私の知っているかぎりでは、関係当事者の心中には、原爆投下の実際の権限がワシントンに保留されていることはなんらの疑問もなかった。
京都をめぐる論争
P235目標委員会が最終的に選定し、私もぜんぜん異存なく承認した諸都市は以下のとおりだ。
- 小倉陸軍造兵廠---日本における最大の爆弾工場の一つで、多種多様の武器およびその他防衛資材の製造に従事中。本造兵廠は縦横四千フィート(約千二百メートル)と二千フィート(約六百メートル)の面積を占め、鉄道操車場、機械工場および発電所に隣接していた。
- 広島---日本陸軍の船舶、運輸の中心で大きな乗船港を持ち、かつ、日本海軍の輸送船団の集合地でもあった。市内には約二万五千の兵力を指揮する地方陸軍司令部(訳注、第五九軍司令部のほかに第二総軍司令部があった)が置かれ、市街は四つの地域に集中されていた。鉄道操車場と陸軍補給廠が市の東側に沿って位置を占め、重工業施設の大部は市の中心地区に隣接していた
- 新潟---日本海に臨み、戦争末期にはその重要性が日一日と増しつつあった。その市にはアルミニウム精錬工場、巨大な鉄工所、重要な製油工場があったほか、油送船の終着港となっていた
- 京都---約百万人の人口を持つ工業都市で、日本の昔の首都であり、付近の諸都市が破壊されるにつれ多数の避難民と羅災工業がこの市に流れこみつつあった。そのうえ、京都は原爆から生ずる損害がその都市ならば行きわたらない所はないほどの大きさを持っていたが、これによってわれわれは原爆の破壊威力の余す所のない実証を得る確信があった。
P236 何か他のことでスチムソン陸軍長官に会いに出掛けたとき、この報告は私の事務所にまだそのままになっていた。話が進んでいるうちに彼は目標の選定は終わったかどうかを私にたずねた。
私は、選定はすでに終わり、マーシャル将軍に提出するばかりだと答えたうえ、次の朝将軍に会いに行くつもりだと付け加えた。
スチムソン長官は私の返事が気にくわなかったらしく、その報告を自分に見せろ、といいだした。私としては、この件は軍事作戦に属する事項だから、マーシャル将軍とまず検討したうえでなければ、長官にお見せしたくないと突張った。
すると、長官は次のように言った。
「それは私自身で決めようとしている問題だ。その決定をするのはマーシャルではない」それから彼は、私にその報告をもってくるように命じたが、私はいくらか時間がかかるということを口実にして引き延ばそうとねばった。スチムソン長官は、午前中はずっと事務所でひまがあるから、このの電話を使って、すぐにその報告を取り寄せるようにとたたみかけてきた。
報告の到着を待っている間、スチムソン長官は目標のことをいろいろ私にたずた。私が前記の目標をならべ立てると、彼はそくざに京都の選定に反対し、その目標を承認しないだろうときっぱりいった。
「京都についての記述と、それは好適の目標だと考えられる理由をお読みになったら、あなたの気持ちは変わるかもしれません」と私は口をはさんだが、彼の答えは断じて変心するすることはないというものだった。
京都は日本の古代の首都であり、歴史的な由緒のある都市であり、かつ日本人にとっては偉大な宗教的な重要性を持った心の故郷である、というのが陸軍長官の反対の理由だった。
彼はかつてフィリピン総督時代に京都を訪れたことがあり、その古代文化にひどく心を打たれたことがあったのである。
私は、まず、京都が人口百万人以上の大都市であることを指摘した。それでどのくらいの日本の大都市は、たとえ工場はほとんどないにしても、巨大な戦時作業量に寄与していると考えねばならぬことを強調したが、それはだいたい、日本経済は小工場に大きく依存しており、戦時にはこれらの小工場群はとほうもない量の軍事資材を生産するんですぞ、と説明を加えた。
そして、自分の主張を強めるため、私は事務所に着いたばかりの報告の中から、京都の分を抜いて声を大にして読み上げた。
(略、工場群の具体的数字が記述される)
それでも、陸軍長官は納得しなかったが、その場ではもうそれ以上とやかくいわず、マーシャル将軍の事務所に歩を運んでドアをたたいた。彼はマーシャル将軍に対し、その報告書を私から手に入れたことは触れずに、私のあげた目標のうちの京都には同意しないとのべ、その理由を説明した。
マーシャル将軍は報告の中の四つの選定目標の記述に目を通したが、陸軍長官の意見に反対を唱えるわけでもなく、さりとて別に進んで積極的に意見を表明することもしなかった。
どちらにせよ、その問題は大局的にはあまり重大な影響はないとマーシャル将軍が見てとった、というのが私の受けた印象だ。
マーシャル将軍は、彼が何も知らない前に目標問題にいきなり巻きこまれるようになった理由を知る由もなかった。だが、彼はそれについての不快の念を決して私に漏らさなかったが、私にしてみれば、彼がぞの問題を思いめぐらしてみたかどうかの疑問が残ったしだいであった。
もし、マーシャル将軍が考えてみたとしたら、たぶん彼はその間に何かあったか推察しただろう。私個人としては、その問題について釈然とせず、明らかに参謀総長の考慮事項について、彼をさしおいて事を運んだと考えられはしないかという恐れに内心深く悩んだのだった。
P238 長官と私との間にやりとりがあったあげく、その間にマーシャル将軍を経由しないで長官と直談判をせざるをえない羽目に、いかにして陥ったかを将軍にそれとなく慎重に知らせるいとまはなかったが、長官は頑強にその決意を固執して動かなかった。
われわれ両名の話が進むにつれて、スチムソン長官は、目標の決定は合衆国が戦後占める歴史的地位によって左右されるべきだ、という見解をおもむろに表面に出した。
どんな手段にせよ、この地位に不利を招くようなものは極力避けるべきである、と長官はひじょうにつよく感じていたようである。
一方、私はとくに目標としての京都に執着を覚えたのだが、それは既述のように、われわれが原爆諸侯かの完全な知識を入手するためにはまたとない広さを持っていたからである。
この点、広島のほうはそれほど理想的とはいえなかった。目標委員会の全員が、京都こそは日本の最も重要な軍事目標の一つだときめていたように、私もまたそれをきわめて強く感じていた。
したがって、その後も機会あるごとに私は京都を目標に包含するよう力説してやまなかったが、スチムソン長官は頑として受け付けなかった。七月はじめ、陸軍長官がポツダムに着いた後でさえ、京都が目標として選定されるべきだ、と私が感じているという電報を、ハリソン氏(訳注・暫定委員会議長代理)は彼に送ったほどである。
返電はあいかわらず不承認の一語だったが、次の日さらに別の返電がとどいた。その電文は、スチムソン長官が目標についてトルーマン大統領と討議を重ねたが、大統領は彼の決定に同意を与えたというものだった。
それ以後というものは、京都は決して人の口にのぼったことはなかった。
次の挿話ぐらいスチムソン長官と私との関係を雄弁に物語るものはあるまい。京都を目標リストの中に復活させるべきだという再三再四のわたしの勧告について、スチムソン長官はただの一回さえ不快の念や怒りの気持ちを示したことはない。
そのような重要さを持つ事柄について、ひとたび私が長官の諸見解を示されるや、私が沈黙を守っておるべきだと彼が望んでいたことを私はぜんぜん感じなかったほどである。
P239本件は他の高級将校たちに対する彼のりっぱな態度の中でも典型的なものだったと私は信じている。
結果はたしかにスチムソン長官の決定の賢明さを実証した。とはいえ、彼がきわめて慎重に回避しようとした批判の多くが、思いがけなくアメリカ市民から起ころうとは、さすがの彼も予想していなかったようだ。
戦争がとつぜん終わりを告げた後、私は自分の意見がスチムソン長官に一蹴され、その賢明な考慮によって日本人の死傷者の数をぐんと減ったことを、私はしみじみうれしく感じた。
われわれがはじめ攻撃目標都市を選定したとき、陸軍省の特別承認を受けずにその都市を攻撃してはならないという指令が、グァムの戦略航空部隊に出された。スチムソン長官が京都の承認を拒否してから六週間後、私は、とつぜん、航空部隊が京都を攻撃禁止都市のリストからはずしてしまう危険を認めた。
私はアーノルド将軍にそのことを話したので、彼はすぐさま京都を禁止リストに残しておくように手を打ち、同時に沖縄の航空部隊司令部もそのむね通告された。
もし、われわれが京都を原爆目標として勧告していなかったならば、それはむろん残しておかれるようなことにはならず、戦争が終わるまでには、全滅しないまでもかならずや、さんざんな損害を受けていただろうということはいえるだろう。
・フランケンシュタインの誘惑E+ #2「原爆誕生 科学者たちの罪と罰」
25:00~日本に原爆を使うべきなのかの議論「核兵器の即時使用に関する科学顧問団の勧告一九四五年六月十六日(参照)」
・「原爆投下 知られざる作戦を追う」NHKスぺシャル2017.01.24
【関連リンク】
ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕(下)』
P130第二部 ハリー・S・トルーマン大統領
P1641945.6.6スティムソンの日記
(2020年8月21日ロイター)アメリカの日本への原爆投下は「必要なかった」との考えが増加【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】 https://reut.rs/3j3hFE6
2020年8月6日、ロサンゼルス・タイム誌は、戦後75周年の「広島平和記念日」にあわせ、歴史家ガー・アルペロビッツ氏とジョージ・メイソン大学のマーティン・シャーウィン教授の「アメリカの指導者たちは、戦争に勝つために日本に原爆を落とさなくてもいいことを知っていた。いずれにしても実行してしまった」という論考を掲載した。
(2020.08.03)被爆から75年 アメリカ人約7割「核兵器は必要ない」 | 注目の発言集 | NHK政治マガジン https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/42800.html
岡井敏『原爆は日本人に使っていいな』への疑問 http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2010/08/post-9105.html
なぜわが国にだけ原爆が落とされたのか~~米国排日10 - 大摩邇(おおまに) http://genkimaru1.livedoor.blog/archives/1747148.html