2019年8月19日月曜日

偏愛メモ 『村田良平回想録(下)』

第十三章 後に続く世代への願い P267-326

P266/ 268/ 270
P272 しかし留意すべきは、敗戦直後から丁度この時までが冷戦の時期であったことだ。一九九〇年頃までは、日本は防衛力自体は漸進的に強化しつつも、防衛体制という見地から言えば米国に完全に従属し所要の法令すら整備していなかった。

政治問題についても、ODAの拡大等には独自色を出すよう努め途上国の評価を高めたものの、基本的には米国の意向に従うことを原則とした。しかしこのことは、八〇年代の終わりまでは他国の日本の過少評価を招きはしなかった。

世界の大部分の国々は、日本に好意なり敬意を抱いてくれた。八〇年代始め頃から種々歴史問題を根拠とする日本批判が現れたが、つきつめれば中国と韓国の二国のみとの間の問題であったと言ってもよい。

しかし、中国も韓国も戦後日本の成し遂げたこと自体は心中評価していたのだ。日本と資本と技術がなければ、中国韓国の経済的発展がなかったことは明瞭だった。それだけに、かえって日本バッシングへ走ったという面すらある。

冷戦の終了と日本の地位の低下
この日本の地位が劇的に低下し、多くの国々の軽蔑さえ招いたのが、丁度ドイツ統一が実現するのと同時に起こった湾岸危機においてであった。国力が低下したのではなく、日本という国への評価が低下したのだ。

日本の国際社会への貢献は専ら金銭中心の物的なものであり、他の犠牲を払う用意は制度的に心理的にもないという醜態が露呈した。それ以降、日本経済の浮沈はあったが、日本の国際的地位は再び旧に戻らなかった。

日本経済は他のとの比較においては一九八九年当時と比べれば九三年頃から下がりつづけて、おそらく底は一九九七、八年頃だったと思う。

P273新世紀に入って、漸く二○○三年頃から低いながらも日本経済は成長を続けるようになり、時には日本の総理による評価すべきイニシアティブもとられはした。しかし国際社会の対日評価自体が顕著に向上することはも早なかった。

かつ、前述のとおり七〇年代末まではなかった「歴史評価をめぐる諸問題」が八〇年度後半以来増えて、これらへの対応を歴代の政府がほぼ悉く誤ったため、戦後三世代の年月を閲しながら、現在日本政府は、実に六〇年以上前に終わった戦争を未だに引きずる醜態を露呈している。

その原因の根本は日本の政治家の見識と信念の不足であるが、この種の問題で政治家を補佐すべき外務省の対応も往々誤っていた。外務省の場合には、私は時の次官以下幹部の勇気が不足していたことが多かった。

冷戦終了後ほぼ二〇年、一時的に唯一の超大国となったやに見えた米国の単独支配という現象は根を下ろすことなくすぐ消え去り、九〇年代後半から世界の力関係は新しい構造を示しつつある。

米国の世界最強の軍事力の保有は何ら変わらないが、その行使には人的制約(多くの戦死者を出すことが内政上できなくなったこと、志願兵の数の不足と質の低下等)、及びハイテク兵器自体のもつ限界をはじめとして、様々の国内国外の制約があることは明らとなった。

EUは内部に問題を抱えつつも二十七か国に拡大し、人口と一定の経済分野の力で米国を上廻り、ユーロは国際性を更に高めた。中国、インド、ブラジル等が、経済をもとより、軍事的にも無視できないパワーとして登場し、リシアも、プーチン時代に入って、強権的な特殊な国として、国際舞台へ再登場を果たした。

P274 日本は、G8のメンバーではあるが、総合的には、最早世界の最有力国の一つではなくなってしまっている。しかし、大東亜戦争の敗北と共に、大国たる要件を完全に失った日本は、敗北がなくともそもそも大国を指向することに無理があった。

日本という国の個別分野の力の強弱は問題ではあるが、それは決定的なことではない。東アジア、西太平洋における日本という特色のある国の存在が、全世界にとり不可欠であるという認識--それは政治、経済、技術、文化等多面的であるが--を世界が持ち、そのことに日本人が誇りを持てれば十分なのである。

一番重要なのは、日本の外交政策も国益のためではあるが、その国益が単に利益追求のみでなく、その根底に「道義」という確たる信念が貫かれていることが諸外国に感得されることだ。

すでに経済におけるものづくり、アニメにすら見られる日本独特の文化、芸術には他国は敬意を持っている。テロを含む脅威に対しては自力及び国際協力によって毅然と対処し、他方天災、貧困等の問題を持つ国々へ、日本独特の「」をもって接し、助けの手をさしのべること、

そして地球温暖化等全人類の問題には、他国に利用されず必要な条件闘争は行うが、日本自身の必要とする立場から取り組むことにより、日本は国としての「生き甲斐」を見出せるはずだ。

そうあってのみ、日本国民は独立心と自尊心を持つことができる。

私は在職時代から、幹部はもとより比較的若い課長や事務官と好んで意見を交換して来た。在外においても同様であった。退官後も可能な範囲で、この慣行を続けている。

たとえば谷内前事務次官とは、年に二、三回二人だけで会った。情勢判断、日本のとるべき政策について、八割以上谷内前次官と毎回同意できたことは嬉しく感じた。

P275私の印象にすぎないが、私より一五歳位年下の人まで、外務省でいえば昭和四三年頃までに入省した人々とは、もとより思想、思考法の異なる点はなかった訳ではないが、十分対話が成立した。

それ以降の人々となると、個人差はあるが、前述の谷内前次官のように、すべてのテーマに平仄が合う会話手もいれば、お互いに、合点の合わない侭の対話に終わる人もいる。

外交官の心がけ
一つは「平和主義」というものがあると信じる人が外務省にすらいることだ。私は、平和とは一つの状態であり、それ自体に特別の価値はなく、一般論としてはその反対概念たる戦争よりのぞましいとおもうだけである。

日本憲法が定めていると称される平和主義は、私に言わせれば、一つは現実からの逃避である。そして、もう一つは、まったく恥ずかしい話なのだが、種々の事態において、日本人、とくに自衛隊員の死傷を出さないための手段である。

日本はもっともらしい口実として「平和主義を定めた憲法九条の制約」を持ち出して、危険から逃避を続けたのである。これは極めて不誠実な行為であること、いざという時は国家や社会のため、自衛隊員のみならずすべての国民は生命も犠牲とせざるをえないことは当然であることを肝に念じてほしい。

第二は日本という国の独自性をよりしっかり認識してほしいことである。ある国に少なくとも一泊したことをその国を訪問したことと定義すると、私は約百ヶ国を訪問した(勤務した国は四ヶ国と少なかった)

ほぼ世界の全地域の国を訪れて、さらに、歴史書を読み、私なりに限度はあったが

P276 各国の文学、音楽、絵画その他の造型美術に接し、また主として相手国の外交官と同僚として接して得た結論は、私の祖国日本は世界で最も独特の国の一つであるということだった。

これ自体はさしたる卓見ではないだろう。ハンチントンは『文明の衝突』においても日本文明を独自のものと定義している。私が外務省の若い世代に力説したいのは、「日本はアジアの国ですらない」という点だ。

中国大陸や朝鮮半島の交流で、道教、儒教や、漢字や、中国式美術、朝鮮式陶芸術等が入ったことは事実だが、これらすべては日本化されている。漢字一つをとっても、現代中国の用いている語彙の多くは--哲学、社会、共産主義、原子力等々--日本から逆輸入したものである。

徳川末期以降精力的に欧米文化をとり入れた日本であるが、主として欧米の真似の域を最も最後まで脱しなかったのは、人文系、それも政治思想、法律、経済学等であって、今や自然科学、工学、アニメに至る芸術等の広汎な分野で、極めて日本的なものが生まれている。

とりわけ、日本語を用いる芸術、即ち詩、歌、俳句、小説等、すべてその洗練度において世界に冠たるものである。外交においても、日本の独自性を常に念頭に置くべきだ。

第三点は日米関係が最重要であるという思い込みが先立ってしまうことは誤りだという点である。

大東亜戦争での敗北、米国による占領という経緯、安全保障条約の存在、米国の世界に持つ影響力、さらには商品及び金融市場としての米国の巨大さから言って、戦後日米関係が最重要な関係であったことに異論の余地はない。

ただ、重要なのは、だからといって日本の国益と米国の国益が類似あるいは同一である必然性は何らないということである。むしろ、日米関係が最重要であるだけに、個別の問題については、常にこのテーゼに一度疑問を投げてみることが必要なのだ。

P277歴史的に回顧すれば、安全を米国の手に委ねて、経済力を強化するという「吉田ドクトリン」すら、その発足当時はともかく、その後五〇年以上を経た今日から見れば、このドクトリンが妥当だった時期は、当初の二〇年程度であったと言わざるをえない。

吉田首相自身『回想十年』では、再軍備を拒否した政策は正しかったとしながらも、一九六七年の逝去のすこし前の数年間は、「独立国としては軍備を持つことが必要だ」として反省しているのである。

なおアメリカに関しては、私の参事官として住んだ米国はなお輝ける国であったが、大使として接した米国は最早往年の光芒の多くを失っていた。現在の米国は、ハイテク中心で人的損害をミニマムに留めるための軍事力は、今後も他国の追随を許さないが、その他の分野では国力自体も相対的に低下している。

数年前のエンロン、ワールドコム事件、二〇〇七年夏からのサブ・プライムローンの問題に端を発して改めて露呈した米国経済の包含する非道徳性、これが結果としてもたらした米国の威信の低下は目を覆いたくなる。

また米国は、世界の多くの地域で、徐々に不人気の度を加えているが、この理由の根本は、米国人の「唯我独尊」病というほぼ治療不可能の病を持つ国民性と制度(たとえば米国議会という組織を学べばすぐ判る極端な独自性)によるもので、個別政策に由来するものではない。

よって米国への不信や敵意は、今後も久しく続くであろう。

第四点は外務省員はいかに首脳を補佐するかに心をもっとくだいてもらいたいということだ。日本は欧米諸国と比べ首脳外交が一ケタ少ない。これは日本が遠いからではない。はっきりいって、全員とは言わないが、日本の首相と話しても得るところが少ないからだ。

ユーモアがない、決断しないといった点は首脳の素質によるわけだが、補佐する外務省や官邸の要員が無難な発言要領をつくることも一因だ。

P278ロン、ヤスと言ったファースト・ネーム関係になること自体は悪くないが、さして重要なことではない。

総理大臣が哲学と決断力を含む人間的魅力を持っていることが肝心だ。といっても、どの総理も、経歴も異なれば、思想も、人柄も異なる。よって事務方は、総理の「強いところ」を出し、「弱いところ」はかくすという工夫がもっとあってよいのである。

以上私は四つの点を挙げて見た。これらについては、私より二〇歳以上年少の人々との意見の差は比較的大きかった。私が誤っているかもしれず、世代間の思想の差というのはあるのが当然であろう。

(P278-284 憲法について、tw)
P 280/ 282/ 284
(私見)憲法成立過程について、GHQが七日間で起草したことになっているが、実際は、その前段階で日本側では七つのグループが草案を作成している(『日本近現代史入門』P408~参照)。しかし、鈴木安蔵草案をベースにしたとはいえ、GHQが七日間で仕上げた草案である。なので、それを翻訳してできた日本国憲法はGHQに押し付けられた憲法であることに変わりない。

また、第九条二項の戦争放棄条項は幣原首相が提案したものだが、その後の世界を見れば、世界に向けて発信した幣原喜重郎の意図は全く伝わっていない。というか、当時の状況を考えれば、この件は、マッカーサーと幣原喜重郎の芝居だったのかもしれない。村田良平氏は「真相は何人も知らないままとなったが…P282」としている。
『日本近現代史入門』P420~参照
最近になって注目されているのが、「憲法第九条の発案者は誰であったか」という史実の発掘である。「戦争放棄の条項を発案したのはマッカーサーだった。アメリカの押しつけ憲法である」と吹聴する人間が多いが、実は「首相の幣原喜重郎が、憲法に戦争放棄の条項を入れたいと言った」と、一九五一年五月五日にアメリカ上院外交委員会でマッカーサーが述べた証言記録がある。また一九四五年一〇月九日から一九四六年五月二二日まで総理大臣をつとめていた幣原本人が、一九四六年一月二四日の幣原・マッカーサー対談について、一九五一年に秘書・平野三郎(のちの衆議院議員)に語った内容が、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」と題した文書として一九六四年に内閣の憲法調査会に提出されていた。

それによれば、幣原は、P421原子爆弾ができた地球は集団自殺に向かっているので、だれかが自発的に武器を捨てる必要があり、「その歴史的使命を日本が果たす」ために、マッカーサーに戦争放棄条項を進言し、その時、日本人の発案とせず、アメリカの発案とするよう頼んだと書かれていた。そして一九五八年に憲法調査会の高柳賢三会長が渡米して、憲法の成立過程を調査して帰国した。

その年、一二月五日に、マッカーサーが高柳会長に宛てて、「(憲法第九条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう」との手紙を送った。そこで同年一二月一〇日に、高柳会長がマッカーサーに宛てて、「幣原首相は、新憲法起草の際に、戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるよう提案しましたか。それとも貴下(マッカーサー)が憲法に入れるよう勧告されたのか」という質問の手紙を送った。

それに対して、一二月一五日付けでマッカーサーから返信があり、次のように明記されていた。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原首相がおこなったのです。首相は、私(マッカーサー)の職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対して私がどのような態度をとるか不安だったので、憲法に関しておそるおそるわたしに会見の申し込みをしたと言っておられました。私は、首相の提案に驚きましたが、私も心から賛成であると言うと、首相は明らかに安堵の表情を示され、私を感動させました」。
(P285-298 日米安保)
日米安保体制への抵抗
私の感じた第二の葛藤は、退官した現在までも続いている。それは日米安全保障体制と呼ばれる仕組み、ないしその基礎をなしていると考えられる日米安保条約についてである。

一九五二年四月発効の所謂旧安保条約は、平和条約七条を根拠として、日本を占領している米軍が、

P286 敗戦と共に占領目的で抑えていた日本国内の諸基地(占領中新新設、拡大されたものも含む)のうちこれはというものを、そのまま保持することを合法化する目的でのみ締結されたものであるといえる。

しかし、一九五二年四月の日本の自衛力は実質上皆無と同様であったから、吉田首相の「旧安保も日本の安全保障のため」という理由づけは是認できた。一九六〇年の現行安保条約は、いくら何でも旧安保の内容はひどすぎるとして改訂を求めた日本側の当然の要求に基づいた交渉で、米国が最低限の歩み寄りを行なった結果である。

私はこの条約交渉のため岸信介総理大臣、藤山愛一郎大臣以下が払われた努力に敬意を表するが、実体といえば、この条約と同日に発効した地位協定(相互参照)とを併せ読めば、この条約もその本質において、米国が日本国の一定の土地と施設を占領時代同様無制限に貸與され、自由に使用できることを骨格としていることは何人も否定できないところである。

米国の日本防衛義務は、条約の主眼ではないし、事前協議、日米安全保障協議委員会等の規定は、日本の主権を一応尊重するとの体裁を整えた内容の空虚なものにすぎない。

しかも、当時は、小笠原と琉球列島、ことに沖縄には、米軍が日本本土への攻撃(tw)、及び東アジア、西太平洋の制空制海一般を握るために巨大な基地を建設し、これらの島々自体米国の施政権下に入っていた。

これらの基地の主目的は、もとより日本の防衛にあったのではなかった。

日本本土の米軍の地上兵力(陸軍)は、確かに朝鮮戦争も停戦となって激減し、在日米軍地上軍の日本からの撤退は五八年二月に完了したといえる。日本とドイツの異なる所以である。

しかし、沖縄には

P287海外で唯一海兵隊師団が駐留する基地が存続し続けた。当初は、米軍制服組から強い反対のあった沖縄施政権の日本への返還は、米側のモートン・ハルペリン、ディック・シュナイダー等の先見性、さらにはアレクシス・ジョンソン国務次官の説得努力、公的交渉及び(若泉敬氏相互参照による)秘密交渉の結果、ニクソン大統領の決断を得て実現した。

しかし返還と同時に廃止、または縮小された基地は、日本側が本来期待した程大きくはなかった。

日米安保条約は、国際情勢は著しく変わったのに、一度も改訂されず、締結時から既に四八年も経っている。一体何時までこの形を続けるのか。

日米同盟の本質
同盟とは騎士と馬から成るとの明言を残したのはビスマルクとされる。事実、ビスマルクのドイツ帝国も騎士であって、同盟国をもっぱら馬として利用したし、日独伊三国同盟でも、ヒトラーはドイツは騎士で、日本とイタリアを馬として利用したかっただけだ。

日米同盟もこの点では基本的には全く同様なのである。騎士たる米国に、日本の領土にある基地も、自衛隊も、いいように利用され続けている。

ただ、昭和三〇年頃以降に生まれた日本人には、この状態が常態となっていたから、自国の領土の重要部分を外国人、それもかつての戦争で日本人を原爆投下までして殺戮したアメリカ人がわがもの顔で自由に使っていることに、割り切れない感情を--おそらく「基地公害」の被害者と沖縄県民を除いて--持たなくなってしまっているのだ(tw)。

しかし私のかかる日米安保体制との間の心理的葛藤は、当初大きいものではなかった。それは、当時は冷戦の時期であり、かつ七〇年代までは米国はソ連のみでなく、中国とも軍事的に対立していたからだ。

P288 八〇年代までは、在日米軍のもつ抑止力は、日本領土に核兵器がおかれているか否かにかかわらず有効であり、第五条に基づく米国の日本防衛義務も信用できるものであった。

また朝鮮戦争が停戦となった後も、かなりの期間は厳しい緊張があり、台湾海峡も不安定だった(金門、馬祖をめぐる紛争など)。

日本の海上自衛隊と航空自衛隊は、ソ連潜水艦の活動を看視し、重要海峡へのソ連による機雷敷設をも防ぐ力を備えていた。七八年に始まった米軍に対する「思いやり予算」も、八〇年代の円高、ドル安の状況で、別途日本商品の米国市場への殺到が政治問題化していた以上、米国議会への対策としても避け得ないところだった。

私は駐米大使時代、多くの講演で日米安保体制の重要性を説く講演も行ったが、その際、常に日本の自衛力による貢献と、「思いやり予算」による米軍への財政的支援に言及した。

それは、正に終わらんとしつつあったがなお冷戦時代であり、ソ連崩壊以後についても確かな見通しがなかったからである。しかし「やむを得ないもの」ではあるが「本来望ましくないもの」という当初からの安保条約との心理的葛藤はずっと続いていた。

本来変わるべき日米同盟の内容
冷戦終了と共に、日本占領中からソ連(時には共産中国、北朝鮮)を主たる敵と見做し、また一時的にもせよ基地の一部がヴィエトナムへの米国の軍事介入に用いられた日米安保体制は、本来条約自体、及びそれの具体化としての在日米軍及び日本の自衛隊の態様と任務は正式に日米両国政府間で見直されるべきであった。

一九九二年六月に成立したPKO協力法のニュースを私はドイツで聞いて、民社、公明両党も妥協したためとはいえ、

P289やっと日本が初めて自己の判断で自衛以外の目的に自衛隊を活用できるようになったことを心から喜んだ。

冷戦後といえども日米同盟の存続は必要であり、また、この同盟において程度の差こそあれ、米国が騎士であり、日本が馬であることもやむを得ない。しかし、日米の完全な平等はありえないとしても、より日本側の発言力が増大して当然であるというのが当時の私の考えだった。丁度その二年後私は退官することとなった。

クリントン時代米国財政が黒字となった時点で、景気対策その他の理由から巨大な債務をかかえるに至った日本政府は、「思いやり予算」を減額し、さらには段階的に廃止して当然であった。

日米の経済力の相対的変化を、駐留軍経費負担に反映させること自体、安保体制の本来あるべき姿からいえば邪道であったのだ。にもかかわらずNATOの類似の同盟の実態の変化は--極東の軍事情勢が欧州のそれと同じはなかったにしても--起こらなかった。

ここに至って私の日米安保体制への心理的葛藤は、俄然高まった。岡崎久彦君は「思いやり予算は米政府内で、知日派が日本を庇うときに使う最大の武器だ」として同予算の継続を説いている。

確かに米国軍人の高官が議会等で、同予算を「most generous」と称賛する証言は続いている。しかし、その口頭の称賛に比例する日本への心からの謝意は、もはや感じられない。単に当然視しているのみというの私の観察だ。

もとより私は九〇年以降橋本・クリントン間合意、二プラス二会合の米側代表の格上げ等々、実質的に冷戦時代と比べ、現在の日米安保体制は既にかなり異なった実態と使命を持つようになったことは知っている。

しかし、二一世紀に入って行われつつある所謂米軍の再編は、米国が九月一一日事件

P290 とイラク戦争をも経験し、米国独自の国益のために推進しているものである。沖縄では本来米国は米国自身の(日本攻撃を含む)目的のための基地をつくり、海兵隊員を駐留させた。

米側の都合で海兵隊員がグアムへ移動することは、当然日本の土地であるものが返還されるだけのことだ。沖縄の人々がそれを熱望したにしても、日本国として感謝すべきことではないし、移転先の米軍宿舎建設すらふくむ経費を部分的にもせよ日本が持つこと自体が理に敵わないことなのである。

小泉政権時代、部内者には私にわからない苦労が多々あったろうことを察しはする。しかし、私の考え方が普通かつ自然なのだ。〇七年一一月ゲイツ国務長官が来日した際開口一番「思いやり予算が極めて重要だ」と述べたとの記事を読んで、私は「この男は一体何を考えているのだ」との憤りを覚えた。

日本が長年にわたり米側の増額要求に唯々諾々と応じ、流石に耐え切れなくなって減額交渉を行なうようになっても、万事にわたり甘やかされた米軍は、日本の譲歩を当然視し、日本の当然の要求への理解を示さなくなってしまった。

こうなってしまったのは、日本側にも自主性が欠けすぎて米軍を甘やかしていたからで、むしろ日本の責任といえよう。

思いやり予算及び基地の見直しの必要性
そもそも思いやり予算が七八年に発足した際は、日本製品の米国市場への進出と心理的に深くかかわってはいたが、日本の義務の片務性は何ら問題とされていなかった。この問題の根源は、日本政府の「安保上米国に依存している」との一方的思いこみにより、その後無方針にずるずると増額して来たことにある。

米国は日本の国土を利用させてもらっており、いわばその片手間に日本の防衛も手伝うというのが安保条約の真の姿である以上、日本が世界最高額の米軍経費を持たねばならない義務など本来ない。

P291もはや「米国が守ってやる」といった米側の発想は日本は受け付けるべきではないのだ。外務省は三年後の交渉では、地位協定全体の大幅な見直しを要求すべきである。

やや古い数字だが〇二年の日本の米軍駐留経費負担率は実に七五%、四四億ドルで、ドイツの三三%、一五億六〇〇〇万ドル、韓国の四〇%、八億四〇〇〇万ドルに比べて飛び抜けて高い。

ドイツ、韓国も地位協定の改正交渉を行ない、米軍向け経費負担の削減を求めているようだが、日本も思い切った削減(せめてドイツ並み)を求めるべきだろう。

アフガニスタン対策としてのインド洋への海上自衛隊官邸の派遣、イラクへの陸上及び航空自衛隊の派遣は、すべて基本的には米国の意向や希望を容れて行われた。しかし、米国はその後の北朝鮮の核問題のハンドリング一つを見ても、北朝鮮と直接交渉を行なって、実質的に日本を裏切った。

日本には高価にしてかつ有効度の不明なミサイル防衛体制の導入を求めている。日本自体の核抑止力保持についてはNPTという古証文及び中国、ロシアとの談合の結果として、絶対に認めないとの方針を米国は変える気はないのである。

冷戦時と異り、核拡散は止まることはなく、また米国の「核の傘」なるものの有効度も、知的レベルが高い日本人ほど「もはや限られた有効度しかなく、いずれは消滅する」と考えているだろう。

それが正しい判断なのだ。もしそうなら、何故に沖縄をも含む日本における米軍の基地についても、もっと日本の本当の要求を出さないのか。首都圏の空域管制を米軍の横田基地が過去六〇年以上続けて来たという国辱的異常事態が、なぜ放置され、どの内閣も最近までこれを問題視しなかったのか。

P292 横田は、米国の軍人のみでなく、時には議員や一般公務員も出入国に利用して来た。地位協定は、本来かかる人々に入国の際の特権も認める目的のものではないはずだ。

日本最長の四〇〇〇メートルの滑走路を持つ横田基地が首都圏のすぐ傍ということ自体、正に六〇年前の占領の遺物だが、小泉・ブッシュ会談において平時における共同使用について原則の合意はあったのに、本稿執筆時なお完全に合意を見ていない。

「既存の権利は太平洋戦争の米国の勝利の結果だからつべこべ言うな」との時代遅れの心理が、米側に残っているからであろう。冷戦終了時に、これら安保体制をめぐる諸制度は、日本として、もはや敗戦国ではなく同盟国であるとして、進んでレヴューを求めるべきであったろう。

そして米軍の特権、免除は、完全にNATO並とすべきではなかったろうか。

「日米安保はビンの蓋」説
私が駐米大使に任命された際の沖縄の米軍司令官だったスタックポールという少将はのべた。「日米安保条約は、日本が再び軍国主義大国の途を歩まないための“ビンの蓋だ”(相互参照)」。

七〇年代までならそれでやむをえない。しかし八〇年代以降日本は、安保上NATO以上に米国にとり欠くことのできない同盟国となっていた。しかも沖縄は返還後再び完全に正規な日本の領土であり、そこに在日米軍の専用基地の七五%が置かれているのは、戦争以来の経緯と日本の力関係上「止むを得ない」ところではあったが、もはや「当然のこと」では決してない。

日本政府の好意と、沖縄住民の理解によって基地を置かせて貰っているというのが、二一世紀の現実だ。加えて、最早日本が再び軍事大国になどなるはずはない。少なくともスエズ以東では、最も範とすべき民主主義国は日本であり、

P293しかも、この日本の民主主義はマッカーサーなどに教えて貰うまでもなく、大正という良き時代には、既に日本人自らが持っていた政治制度だ。そして大東亜戦争で、日本は平和の価値を十二分に学んだ。「スタックポールよ、馬鹿も休み休み言え」というのが私の気持ちだった。

その間にあって、かつてSFXに関しては、大騒ぎの結果米国は一旦は合意したところを撤回して、自国の希望を通すわがままを敢えてした。ところで、現在日本が期待していたF22は、高度の機密性の故に譲渡できないので、F15の改修で対処する由だ。

(随時更新)

P 294/ 296/ 298/ 300/ 302/ 304/ 306

P308次章においてより詳細に論じるが、六〇年余前の占領軍は日本人を洗脳し、去勢しようと計った。洗脳は、そのうちに一種の催眠術となった感がある。

もとより、米側の思惑どおり洗脳されなかった人々も、占領中や主権回復後一〇年位の日本にはなお多くいたが、その後教育関係者の多く(文部省、日教組、全教、多くの地方自治体の教育委員達)とマスメディアの一部が催眠術にかかるに至った。これらと同じ意味ではないが、少なからぬ外務省職員も、今や洗脳されていて、かつそのことを意識しなくなっているのではないか(tw,tw,tw)。

P 310/ 312
第六節 核問題(tw,tw,tw)
核兵器拡散は不可避
P314 核兵器不拡散条約(NPT)という不平等条約がそもそも締結された際は、7割方の目的は日本とドイツの二国の核武装の途を閉ざすことにあった。その後同条約は無期限の条約とすらならなかったが、核五大国の軍縮は殆ど進まず

(米ソ間の核兵器や弾頭の破壊の合意は、それが両国にとり好都合であったからにすぎない)、他方核保有国は、イスラエル、インド、パキスタンに加え、NPT調印国たる北朝鮮に拡がり、いずれはイランも核保有国となろう。すでにNPTは半分崩壊している。
1)2010.11.26 04:35~村田良平(NHKスぺ「「“核”を求めた日本」」)眼前百事 核議論を!三島由紀夫と村田良平の遺言 チャンネル桜 H22/11/26nico
2)2023.09.21 20:15~村田良平(NHKスぺ「「“核”を求めた日本」」)日本が50年前に核保有を検討していた話【核武装の現実性】 youtube
日本が非核保有国として、例外的に再処理、濃縮を始めるとする広汎な活動を認められて来たことは事実であるが、こと安全保障に関しては何の信頼するに足る保証もないままである。

中川昭一氏や麻生太郎氏が、日本の核武装の可能性に単に言及しただけで、ライス国務長官は日本へ飛んで来たが、米国の核の傘は、明文の形で日本に保証されたわけでもないし(tw)、米国には少なくとも、ロシア、中国と事をかまえる場合、日本にかかる保証を与える用意は、そもそも持っていないことは明らかだ。
2024.02.08 1h32m~核保有に関して安倍と中川【討論】グローバリズムの現在 2024 youtube
北朝鮮及び一定の中国の弾道ミサイル防衛のためとして、日本自身の核武装に代わるものとしてオファーされた「ミサイル防衛」は、高価であって、かつ現状ではないよりはある方がよいというにすぎず、日本防衛の見地からいえばおよそ不完全なものに思える。

勿論私は防衛ミサイルの精度の向上は必要であるし、

P316 かつ日本のミサイル防衛は米国のそれと一体でなければ意味をなさないと考えている。集団的自衛権の行使は当然の前提である。ただ、それだけで充分という確信はどうしても持てない。

私はシュルツ、ペリー、キッシンジャー、ナンの各氏が連名で行った究極の核兵器の廃絶に関する提案を読んだ。目標が崇高なことは認めるが、実現の可能性はゼロであると思う。

タブーのない核議論の必要性
不幸なことに、日本では核が「唯一の被爆国」として感情的な問題となり、冷静な核戦略に関する議論ができなくなって今日に至ってしまった。しかし、今や政府は、勇気をもって、いかなるタブーもない核論議を推進する時期に到達したと認識すべきである。

幸いにして、早くも一九五七年に時の岸総理大臣は、現憲法下ででも自衛のための核兵器保有は許されると答弁したし、この立場は現在も生きている。岸氏は政策論としては核兵器を持たないとしたのである。

第一の論点は「非核三原則」の第三原則がナンセンスであることだ。ことにこの第三原則が、日本の領海を無害通航する外国軍艦にも適用されるという建前は不誠実ですらあることは既に指摘したとおりだ。

一九七九年一二月のNATO理事会の所謂「二重決定」当時、私は、シュミット、コール、さらにはサッチャーを国内の反対を抑えた偉大な政治家だと感じ敬意を新たにしたものだ。

まず「持ち込ませない」との原則は、直ちに廃止すべきだ。国民を欺いているものだからだ。

次に極めて秀れた日本の総理と米国の大統領の合意なくしては不可能だが、米国を説得して、日本も一定の極めて限定的な核戦力(あくまで報復力たる抑止力)を保持する途が探求されるべきだ。

P317日本の核保有は非現実的だという議論は、私は耳にタコができる程聴いた。NPTやIAEA追加議定書の締結国であること、NPTを脱退すれば孤立すること、核燃料サイクルは停止せしめられようこと、各種制裁を浴びる惧れあること、核保有のコスト、実験場の問題等々だ。

しかし、四国ほどの大きさしかないイスラエルは、NPTに加入せず、四〇年以上前からフランスの協力を得て核保有国となったて、米国の最重要な同盟国である。ものごとはまず既存の前提を一度ないことにして第一歩から考えてみることが肝心だ。

核保有国となったインドに対する米国の原子力協力のオファーも、まとまらない公算もあるとはいえ、甚だ興味深いものだ。

例えば、すでに一九六〇年代のNATOにおいて開始された「核シェアリング」(「二重の鍵アレンジメント」とも俗称される)と類似の合意が日米間で可能か否かは研究の価値があるのではないか。

この企画に参加していたのは独、伊、蘭、ベルギー及びトルコだが、主たる眼目はソ連の巨大な通常戦力の陸上での攻撃に対応する西ドイツとトルコであった。しかもNATOの連帯性の見地から伊、蘭、ベルギーにも認められたものだ。

戦術核兵器(砲、ミサイル、航空機の爆弾の三種)は米国が保有しているが、ソ連による攻撃で防衛上どうしても核なくしては防げないとの判断の場合には一定数(ドイツの場合一五〇発)の核弾頭が米国から譲渡され、その後はドイツならドイツが、自国防衛のため自らの判断のみでこの爆弾を使用できるとの約束である。

NATOにおいては、ソ連の通常兵力の優越に加え、核兵器を含む攻撃が欧州大陸の中央において現実のものとなりうるとの観点から、既にキューバ危機時代から内部において核を使用する戦術について、

P318 使用の場合の想定、訓練、情報の共有も行われてきたし、右記の「核シェアリング」もかかる欧州状勢の反映であって、戦略的状況が異なる太平洋に位置する日本との間には、この種のことは全く行われないまま今日に至った。

因みに「核シェアリング」はNPT条約上は不問に付されている。しかし、そもそも対象が一定の戦術核兵器に限定されていたから日本にとって十分意味のある先例とはならない。

日本核シェアリングの可能性
当時の欧州と現在の東アジアでは、その戦略的条件は全く異なっている。むしろ日本の現状は、ソ連がSS20を配備した当時の欧州に似ている。中国の核ミサイルが現実の脅威であることに加え、北朝鮮の核ミサイルも脅威となりうるからだ。

しかしこれに対応する米国のパーシングⅡと巡航ミサイルは日本に配備されていないというわけだ。私は、かねてから、日米間において、核に関し、最終決定権は米国が保持しつつも、何らかの「引き金の共通化(co-triggering)の方式がありえないかと考えてきた。

理論的に考えられるスキームとしては、核ミサイル装備の潜水艦で、米海軍と海上自衛隊の要員がともに乗員となっていて、某国から日本に対し核攻撃が行われた際には(米国が同意を与え、かつ必要なら米国乗務員は安全のため退艦の上)、日本の要員が米国製の核ミサイルを報復として発射するというシステムである。

考え方はNATOのドイツへの核シェアリングと若干似多扱いを日本にも認めるというものだが、目的はもとより、日本に最低限の核の「抑止力」を持たせるという点にあるし、その際用いるべき核兵器の少なくとも一部は、戦略核の威力を持つものでなければ抑止力として不十分だ。

P319米国がNPTを考案した際には、第二次世界大戦の戦勝国が核をも支配するという国連安保理常任理事の権威と似た考えがあり、また米中国交回復時においても、過去の日本の行動に鑑み、日本に自主的防衛政策は保持させないとの米中間の了解があったことも事実だが、今や当時から三十数年を経て中国は核大国となった。

もし先々朝鮮が統一された国として核保有国となれば、東アジアでは四つの核保有国と非核の日本が並立するという状況が生まれる。この場合さなきだに減少しつつある米国の核抑止力に対する日本の信頼は、何らかの新しい手を打たない限り、最早維持できないできなくなるであろう。

いずれにせよ最小限憲法前文と九条二項を改正しない限り、核についての真面目な議論は行えない。何故なら憲法自体があまりに大きいタブーだからだ。日本の防衛について、真剣な議論を始めるためにも、本書ですでに各所でのべている私見のくり返しであるが、憲法の改正は必要であり、一日でも早い方がよい。

譲って、もし核の一種の共有についても米国間の合意が生まれれば、そもそも日本国土内に占領以来六十年以上、治外法権の土地、建物等を保持し、日本の国民感情からいって傍若無人に振舞って来た旧敵国というイメージは完全に消えて、米軍は。日本駐留であろうと、海上やグワム、ハワイに駐留しようと、日本の安全を強い関心をもって守ってくれる同盟国将兵という認識が生まれて来るだろう。

米国が日本の核武装を懼れる根拠なし
かつて米国が日本の核武装に特別に神経質であったのは、公言こそしないが、日本は広島、長崎への核攻撃を受けたので、大戦末期の特攻のごとく、犠牲覚悟で闇雲の報復攻撃をしかねない国だとの、全く根拠のない危惧があったものと思われるが、そも、かかる危惧は馬鹿げている。

P320 私は、日本が英国あるいはフランスと類似の、潜水艦により極めて限られた自前の核抑止力を保有するのが最も正しい途であり、米国の核の傘への信頼は、北朝鮮問題の処理によってすでに地落ちている以上、独自の核抑止力を持つとの日本の要請を米国も拒否できない日が、それ程遠くない将来到来すると思っている。

極言すれば、米国がこれをあくまで拒否するのなら、在日米軍基地の全廃を求め、併せて全く日本の独力によって通常兵器による抑止力に加え、フランスの如く限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというのが論理的な帰結であろう。

私は何も極端な筋書きを唱える意図はない。むしろ当面の障害は、日本国内にある情緒的な反核感情と、これを煽るマスコミ、学者の勢力であるから、日米間で腹蔵のない話合いが核についても必要な時代が到来したという平凡な事実を指摘したいのが、本書で核問題をとり上げた主眼である。

第七節 情報収集と状勢判断力の必要性
P 322/ 324/ 326

第十四章 日本人よ、恥を知り、矜持をもて P327-398

14.7 自虐史観について P368-380
歴史をいかに評価すべきか
P368靖国問題もその一つと言えるが、相手国の一部、及び日本国内部に存する歴史認識が生んだ一連の問題もある。往々その際東京裁判の判決が引用されもする。東京裁判を行った当の本人たるマッカーサーが「日本の戦争目的は、主として自衛のためであった」と述べたにもかかわらずである。

歴史をいかに評価するかは、どの国によってもデリケートな問題であるのみならず、多くの場合は、国粋主義や他国排除へ傾きがちであるが、二つ以上の国の歴史観はその関係が複雑であればあるだけ合意を見ることは、まずありえない。換言すれば、政府間で扱って解決を見る問題ではそもそもない。

もし日本人の全てが東京裁判は単なる復讐兼ショーの茶番劇だったという正しい認識さえ持てば、そもそも自虐史観なるものが生まれるはずはなかった。しかし東京裁判の亡霊はなお生き残っている。従ってとるべき指針は次の三つであろう。

明確な事実のみ認めよう
第一は、事実認識については、明確な場合にのみ、そのことは認めるということである。所謂、従軍慰安婦問題については、日本軍が強制的に日本人であろうと韓国人(当時は日本人)であろうと、慰安婦として連行した事実がなかったことは確立している。

よって、九三年八月に出された河野官房長官(当時)の談話は誤りであり、河野氏は、恥を知る人なら、今からでもおそくないから、日本国にかくもいわれのない恥辱を与えた重大な責任をとり、一日も早く議長P369の席はもとより国会を立ち去っていただきたい。

故人を責めるのは私の本意ではないが、当時の宮澤総理の責任も重大だった。私は安倍前総理が昨年強制連行はなかったと述べられたことを評価する。しかし強制性の議論に入ることなどせず、「かかる事実はなかった(ghoti記録はすべて燃やしましたから、東京裁判で提出された証拠は?Tw)」と明確にのべられるのみの方がより日本の立場を明確にしたであろうと思うし、ブッシュ・ジュニアに詫びともとれる発言(Tw)をされたのも如何かと思う。

いずれにせよ、ホンダ議員の決議案のみならず同様の決議が、米国以外の若干の欧州諸国の議会でも採択され、日本政府の謝罪を求めたので、いくら法的拘束力なき決議といえども放置すべきではないと思う。聞けば河野氏の談話の発出前に韓国側から、「強制性さえ認めてくれれば、以後本件につき補償は求めない」との裏約束があったというが、韓国がこの種の約束を守り、本件を閉じるはずはない。

よって私は、少なくとも河野氏は「根拠なきまま事態を丸く納めんとして、事実を確認せず軽率な談話を出したことを遺憾とする、強制連行した事実はなかった」と声明を出してもらうことを求める。河野氏が面子にこだわるなり、勇気を持たないためかかる声明を出さないなら、総理、または外相が河野氏に代わり公式にかかる談話を改めて出すべきである。(略、教科書の問題)

現在の世代に責任はない
P370 第二は、歴史問題に責任を持たない世代に対し相手国が責任を問う形で批判、非難を行った場合は、断乎として、かかる批判を否定すべしという点である。シナ事変や大東亜戦争をめぐって種々の問題があったが、六〇年前のことで、現在の日本国民の大部分は、これらと何の関係もない。

南京事件について、昭和一二年一二月当時の諸状況(当時の人口、前線から逃れて南京に入った中国将兵の概数等々)は相当深く研究が進み、今や所謂南京事件の全貌の大よそは明らかにとなっている。南京占領によって戦争も終ると考えた兵士の一部に遺憾な行為があったし、松井石根P371司令官も残念に思ったところである。

しかしそれは常軌を大きく逸脱するような組織的虐殺といったものではなく、散発的な行為だった。証拠写真とされたものはすべて捏造であったこと、犠牲者の数は、中国側の首長と二ケタ異なる僅かなものにすぎないことも各種資料や証言の結果明らかとなっている(tw,tw)。

加えてその際の中国人の犠牲者の数をいくら想定しようとも、この私ですら七歳の子供であったのであって、現在の日本国民にその責は問えないのである。江沢民は南京の記念館も改めて拡張し、誇大な犠牲者数を挙げた(tw)。日中いずれが正しいかは、いずれ中国という国がいかなる国かが全世界に明らかになるにつれて公正な審判が下るであろう。

参考までにフランスの大統領は、「フランスは過去の植民地政策は大きい過ちであったと考えている。しかし過去の世代の犯した犯罪の償いを現在の世代に要請することはできない」と述べている。

平和条約の締結によって過去はあがなわれた

(随時更新)