追記2020.08.06 ロシア文化の大サロン(参照)
追記2019.08.14 ケネディ暗殺とマフィア(参照)
追記2017.12.27 アメリカ建国の裏面史(参照)
・ピョートル大帝がペテルブルクと名づけた理由(tw) ※画像クリックでオリジナル画像表示

しかしロシアの大王であるならピョートルグラードと呼ぶべきところを、ドイツ語に言い換えてペテルブルクと名づけた大帝のヨーロッパ心酔癖は、保守的なロシア人にとっては情けないやら恥ずかしいやら、無数の批判も飛び交った。それでもこの貿易都市のおかげで新しいものに触れることができたロシア人の喜びのほうがはるかに大きかったことは、明治維新の日本人と変わらない。
ロシアがワインで有名になったことはない。国民がウォッカばかり飲んでいるというイメージが強い。だが実際のところ、ロシアのワイン生産には豊かな歴史があり、また国がワイン産業発展の原動力であったことから、歴史的なできごととも関係が深い。 https://t.co/jyPwYfshfT
— ロシアNOW (@roshiaNOW) 2017年11月13日
・カリフォルニア・ワインは18世紀、ロシアから持ち込まれた。※画像クリックでオリジナル画像表示
第一部 ロマノフ家の大貴族フルシチョフ P3-151(参照)
第二部 ヴィソツキーの歌が聞こえる P155-261
2.1 ウールワースとグルジア王国 P155-1572.2 新生ロシアと帝政ロシア P158-162
2.3 ロシア貴族子孫連合の旗あげ P163-166
2.4 "双頭の鷲"の復活 P166-171
2.5 帰ってきたウラジーミル大公の悲劇 P171-173
2.6 アメリカの有名ロシア移民 P174-181
P181 (略)
2.7 オペラ『ボリス・コドゥノフ』とイワン雷帝
これからのロシア文化復活のシンボルとなっているのが、オペラ『ボリス・コドゥノフ』である。音楽好きの人も、これまではロシア・オペラに無関心だった人も、次のような物語を頭の片すみに入れておかれると、きっと人生が面白くなる。
いま筆者の手元にある『ロシア年代記』は、半世紀前の第二次世界大戦中に日本で発行された訳書だが、この伝説の物語によれば、ロシア民族の祖先は大洪水時代のノアに発していた。ノアの三人息子セム、ハム、ヤペテ
P182 のうち、ヤペテの種族から出たのがスラブ人であるという。
この伝説は物語として面白いだけでなく、考古学的にもなるほどと思わせる論理性がある。医学用語では、白人のことをホワイトとは言わず、コーカシアン(Caucasian)と書き表すからだ。コーカシアンとは、バクー油田のところで登場したコーカサス人つまりカフカス人のことだから、どうやらバクーは石油だけでなく、その支配者まで生み出す“白人の原産地”であったらしい。
旧約聖書の大洪水時代の物語を読むと、ヨーロッパ最高峰のコーカサス山脈のすぐ南、アトラス山にノアの方舟がたどり着いて生物が生き残ったというから、この聖書物語が考古学的にも矛盾のない説明となるように、医学界が、この地方を白人の起源としたのかもしれない。いずれにしろ、本書の主人公たちは、ずいぶん昔から地球を荒らしていたようだ。
やがて何千年かの歴史を経て、ここでは話を急ぐが、成吉思汗(ジンギス・カンまたはチンギス・ハン)とその子孫が支配するモンゴル大帝国がこの大陸に出現した。モンゴルは、文化においても軍事力においても西欧を圧倒して、いつまでたっても白人が権力を取り戻すことはできなかった。ところが十五世紀末になって、モンゴル大帝国のキプチャク汗国に内紛が起こると、それまで二百年以上にわたってモンゴル人による“タタールの軛”から逃れられなかったモスクワ川周辺の諸侯のうち、最も強大な盟主イワン三世が、とうとうモンゴルの絆をひきちぎった。イワン三世は、諸侯の中でも有名なアレクサンドル・ネフスキーより数えて七代あとの子孫であった。
この一家がリューリック家と呼ばれるロシア王朝であり、レーニンの姉アンナの結婚相手がその末裔一族になる。
この一四八〇年のモスクワ革命によって悲劇の独立を果たしたロシアは、そこに迎えた新しい支配者イワン三世のもとに国づくりをはじめたが、このイワンは馬鹿ではなかった。彼の娶った妻こそ、オスマン・トルコに征服されたばかりのヴィザンチン帝国、つまり東ローマ帝国の皇帝の姪であった。この結婚によって
P183ローマから流れてくるロシア正教の権力が成長し、やがてロシア全土の多くの家で、今日イコンと呼ばれる聖像画を飾る風土が政治的にも確立していった。したがってイコンは神の代理人であると同時に、ロシア民族にとって独立のシンボルであると言ってもよい。
当のイワン三世は、この結婚によって野望をおさえることができなくなっていった。寝室の妻をクレオパトラに見立てると、いまや滅び去ったと言われる東ローマ帝国を自らの手で復活しよう、うまくゆけば皇帝の地位を継承しよう、おのれこそが始祖ジュリアス・シーザーを名乗ってロシアに一大帝国を建設しよう、という考えにとりつかれていった。やがてイワンは、国の外へ出るたびに、「余はシーザーなり」と言い続け、その孫イワン四世に至って、とうとうシーザーが正式の称号として採用されたのである。
わずか三歳の幼児で即位したイワン四世が、のちの青年になった時、ジュリアス・シーザー(Caesar)の名に因んでツァーリ(tsar)と名乗り、これがロシア皇帝の代名詞となった。そしてこの一五四七年が、わがロシア帝国の起源である(tw)。
しかし実際の物語はそれほど美しくない。皇帝というからには、その称号にはギリシャ正教会の認知が必要なので、教会幹部に賄賂を贈り続けた末のツァーリ誕生であった。イワン四世と言うより“雷帝”の名で知られるようになったこの君主は、争乱があれば直ちに忠臣でも友人でも人前で首をはね、血しぶきを浴びながら一切動じなかったというから、後年のスターリンが尊師と仰いだだけの不気味な性格を秘めていた。雷帝の選んだ妻がアナスタシア・ロマノヴナであったから、この時すでに、わがロマノフ王朝の夜明けも迎えていた。首都はモスクワである。
モスクワ大公国は、イワン雷帝の力によって初めてジンギス・カンの遺産を実質的にロシア人にもたらし、東西南北での貿易ルートを掌握することが可能になった。実にバルト海からウクライナ=ウラルに至るまでツァーリの雷鳴は響きわたり、ロシア帝国と呼べる領土の礎が築かれていった。
ところが財産が増えると欲望がつのるのは人間の性、イワン雷帝は自分の次男イワンに手をかけて殺してしまい、
P184 やがてその後悔と罪の念におののきながらこの世を去る。その時代を描いたのが、ロシア・オペラの最高峰と言われるプーシキン原作、ムソルグスキー作曲、シャリアピンのバスが劇場をふるわせた当り役、悲劇の『ボリス・コドゥノフ』であった。
イワン雷帝の系図18を示してから、登場人物を説明してみよう。
ロシアの権力者が交代するたびに、オペラのドラマに都合のよい手が加えられる。というのはどこの国でも変わらない。このオペラもたびたび創られてきたので、どのシナリオが歴史を正確に記録していると決められるものではないが、実在のボリス。コドゥノフ(★③)は系図のように、イワン雷帝(★②)の息子に嫁いだイリーナ・コドゥノフの兄であった。つまりモスクワ大公国のツァーリとして君臨した“リューリック家のイワン雷帝”には、残忍さと好色が同居していたため、実際に子供が何人あったかということなど誰にも分からない。美女をずらりと並ばせておいて、そこから好みの女を選んで妻にするという具合だから、その数は七人とも百人とも定め難い。
それでも正式の妻として記録されることになったのが、アナスタシア・ロマノヴナ(★①)というロマノフ家の娘であった。実に一千人の花嫁候補者をモスクワに呼び集め、まるでハリウッド大作映画の主役応募者の中から将来の大スターを選び出すといった風情で、イワンが選んだのが偶然にも、貴族ロマノフ家の娘だったことになる。
この嫁選びの話は、ロマノフ王朝などと気取ってみせる王家が、実はほかの誰でもよかったはずの運命を暗示して興味深い。王室を権威づけるため、戴冠式だ結婚式だと言って騒ぐのは、もともとどこの国も王様という位階などないから、愚集を欺く方便にすぎなかった。たとえば一九九〇年代に、一体誰がクウェートのジャビルを国王と権威づけているかといえば、これは一九三七年にイギリス王室が勝手に認知した制度であって、クウェート民衆とは無関係の王位である。全世界の王室と皇室がみな同じである。
P185 ロマノフ家はこうして偶然の幸運によって、ロシア支配者リューリック家に取り入った。そして皇后となったアナスタシアの産んだ息子は、長男のドミトリーは数ヵ月で死亡、次男のイワンが立派に育って皇帝を継ぐかと思われたある日、“息子が自分を帝位から追いおとす反逆者”と勘違いしたイワン雷帝が、これを棍棒で殴り殺してしまったのである。
賢い忠臣ボリス・コドゥノフが見ている前での出来事だった。こうしてロマノフの血を引く息子はただひとり、三男のフョードルだけが残ったが、これは何の能力もない男で、雷帝も誰も彼もがそれを知っていた。雷帝はその対策として、ボリス・コドゥノフたち五人の忠臣による“ツァーリ底上げ委員会”ごときものをつくってから、相変わらずの淫乱と、多少の悲嘆のうちに世を去っていった。
2.8 プーシキン、シャリアピン、ムソルグスキー
(略)P189
2.9 ゼロックス社のゴリツィン公爵 P190-197
2.10 ピョートル大帝を育てたボリス・ゴリツィン P197-200
2.11 塩の大王ストロガノフ P200-207
2.12 ストロガノフ家の財産 P207-210
2.13 女帝エカテリーナの愛人たち P210-217
2.14 デミドフ家の偉業 P217-226
2.15 ペテルブルクとモスクワのトップ・マーチャント P226-228
2.16 ゴーリキーの友人サッヴァ・モロゾフ P228-234
2.17 モスクワの大富豪 P235-237
2.18 スティーグリッツ男爵の鉄道 P237-241
2.19 ペテルブルクのジーメンス・ハルスケ商会 P241-244
(P244-)
2.20 ロシア文化の大サロン P244-254
ここには筆者が口を挟む余地のない美麗なロシア芸術の舞台がある。また雪深いモスクワの裏通りに暗く古びたアパートがたたずみ、その戸口から表に出た老婆の姿を目にした者でなければ想像できない、ロシア文学と哲学がある。
P245 ハリウッドで西部劇の主題歌を作曲したロシア移民のディミトリー・ティオムキンが語ったように、彼がウェスタンを作曲できたのは、広大な高原のコサック音楽を知っていたからであろう。あまりに多彩な人びとの作品や芸術を、この狭い紙面のなかにまとめて語ることは手控えたい。
「これがロシア芸術だ」と言うのは、冒瀆になる。
系図26(1/2、2/2)「メイエルホリド激情の悲劇とロックフェラー」については、芸術をめぐるすさまじい弾圧と惨殺の歴史があるので、少し説明を加えよう。
この人間関係は、アメリカの生んだ天才ダンサー、そして一世紀も前に"フリー・ラブ"を実践して、数々の男たちのために身ごもったイサドラ・ダンカンから、モスクワ芸術座の天才演出家フセヴォロド・メイエルホリドにたどりつく。
一九九一年に来日したモスクワ室内オペラのポクロフスキー劇団の生みの親が、系図の右上方に描かれているロシア演劇界の巨人メイエルホリド、あの収容所へ送られて帰らぬ人となったモスクワ芸術座の舞台監督であった(★⑨) 。
その悲劇のいきさつは、恐怖政治のなかを生き延びた作曲家の遺書として問題となった『ショスタコーヴィチの証言』にくわしく説明されているが、それをもとに、現在明らかになった史実と突き合わせると次のようになる。
第二次世界大戦に突入する二ヵ月ほど前、それはソ連外相モロトフとヒットラー総統のリッベントロップ外相が独ソ不可侵条約を結んで共産主義者がナチスと結託する素地のできあがっていた頃、一九三九年六月二十日のことだが、ユダヤ人メイエルホリドは突然に逮捕され、妻のジナイーダ・ライフ(女優)は、その直後に全身十七ヵ所にナイフを突き刺され、眼も刺されて悲鳴をあげながら殺されたのであった。
実は、こうしてメイエルホリド激情が閉鎖される前のことだったが、その激情にかかっている芝居を観に来たひとりの共産党有力者があった。その男は、名前をラーザリ・カガノヴィッチといい、メイエルホリドの芝居を観ているうちに、途中で席を立ってしまった。
カガノヴィッチが鑑賞中に席を立てば、そのあとに何が起こるかを誰もが知っていた。メイエルホリドは真っ青になってカガノヴィッチのあとを追ったが、P250なす術もなかった。そして収容所へ送られたのである。
ショスタコヴィッチは、次のように書いている。
---党の指導者たちは深く考えることなく、権力を濫用していた。とりわけ、彼らの繊細で隠微な趣味が侮辱されたと感じたときには。逮捕されたメイエルホリドは、翌年一月に友人に宛てた鉛筆書きの葉書をもって、最後の消息が断たれ、その消印からシベリアの収容所にいたと推測されているが、ソ連崩壊後の今日も、その生死は確認されていない。
指導者の肖像をうまく似せて描かなかった一人の画家が永久に姿を消した。「粗野な言葉」を用いた作家も同じ運命をたどった。芸術論争など起こらなかった。弁明の場も与えられなかった。深夜に誰かがやって来る。それですべてである---
彼が初めに俳優として演出したのは、系図でその左下にいるコンスタンティン・スタニスラフスキー(★⑥)の創立したモスクワ芸術座の舞台であった。スタニスラフスキーはロシアの演劇界だけでなく、彼から演劇理論について個人教授を受けたステラ・アドラーという女優がアメリカで実験劇場"グループ・シアター"に参加し、その門下からハリウッドの大スター、マーロン・ブランド、ロバート・デニーロ、キャンディス・バーゲンを輩出したのである。
デニーロ主演の醜悪なベトナム戦争映画『ディア・ハンター』では、冒頭に延々とアメリカのロシア移民の物語が描かれ、そのあともロシアン・ルーレットが小道具として使われていた。
「演劇というものは、指導してはいけない。ただ、演技を刺激するのだ(tw)」
こうした演劇論の生みの親となったスタニスラフスキーだが、その本名はアレクセーエフで、一家はモスクワ市長を生み出し、証券取引所から鉄道、工場までを動かす最大級のモスクワ特権階級ファミリーであった。
たとえば一族アレクサンドラの嫁いだのがチェトヴェリコフ家で、彼らはみなさきほどの系図24(1/2、2/2)「モスクワ商人ファミリー」に登場している。しかしここで示すのは、今度は全員が巧みな演技をこらし、P251まさか特権階級だとは分からないような衣装と肩書を変えて登場した華やかなステージ---「芸術一族の檜舞台」である。
ニ十世紀末の行方を知るため、十九世紀末のモスクワ芸術座に入ってみよう。スタニスラフスキーが、大作家チェーホフの影響を受けたネミロヴィッチ=ダンチェンコ(★⑳)とともにモスクワ芸術座を創立したのが、一八九八年のことであった。
チェーホフは、その四年前に"ロシア報知"という新聞に好短編『ロスチャイルドのバイオリン』を発表していた。わが国でも『棺桶屋』の題で翻訳され、明治時代に愛読された小説だが、ロシアの農村におけるユダヤ人問題を裏側から語って、これ以上はないという作品であった。
この物語がオペラ化されたとき、、音楽はショスタコヴィッチの弟子フレイシュマンによって作曲された。その物語は、喜劇でなくて悲劇でない。まことに偉大なのはアントン・チェーホフである。
チェーホフの妻オリガ・クニッペルは、収容所に送られたメイエルホリドとともに、ネミロヴィッチ=ダンチェンコの弟子として育てられた女優だったが、モスクワ芸術座の旗揚げ公演はアレクセイ・トルストイ原作の『皇帝フョードル』となり、彼女はイリーナ皇后役を演じた。
このトルストイは、「カチンの森」事件の偽レポートを書いた人物とは同姓同名の異人である(★⑤)。一方、メイエルホリドが後に新設したメイエルホリド劇場で活動をはじめ、その天才が世界映画界を揺るがした人物こそ、名画『戦艦ポチョムキン』のエイゼンシテイン監督であった。
またその当時、メイエルホリド劇場のピアノ弾をしていたのが、プーシキン(★⑮)原作の『ボリス・コドゥノフ』を編曲したショスタコヴィッチであり、原作はムソルグスキー(★⑰)が作曲し、のちにリムスキー・コルサコフ(★⑯)などが編曲を手がけた。
すでに系図18でも描いたように、プーシキンやムソルグスキーと共に、ここに世紀のオペラ歌手シャリアピンが登場するのである(★⑬)。このプーシキンの『エフゲニー・オネイギン』を作曲したのがチャイコフスキー(★①)であり、この初演で指揮棒を振ったのが親友ニコライ・ルービンシュタイン(★⑱)であった。
P252その兄アントン(★⑲)は、ロシアが生んだ最初の世界的な名ピアニストとして知らぬ人がいない。ルービンシュタイン一族も、銀行家としてロマノフ王朝に深く取り入っていたが、最後の皇帝ニコライの妃アレクサンドラ・フョードロヴナを動かした怪僧ラスプーチン(関連『赤い盾』)ときわめて親しかったのが、その一族、銀行家ドミトリー・ルービンシュタインであった。
彼は「ロシア・フランス銀行」の頭取で、当時ロシア最大の新聞"ノーヴォエ・ヴレーミヤ"の大株主として報道界を支配していたのである。
なお、『OK牧場の決闘』のディミトリー・ティオムキンと、ゴーゴリの名作『鼻』をオペラ化した作曲家ショスタコヴィッチの両人は、おなじ師のもとから誕生した音楽家である。つまりこの西部劇とオペラの生みの親を育てたのは、前世紀後半にペテルブルクで前述のリムスキー=コルサコフに師事したアレクサンドル・グラズノフであった。
もう少し歴史を遡れば、女帝エカテリーナの愛人のひとりがその一族のリムスキー=コルサコフであったから、このベッドの下あたりから、フランキー・レインの熱唱♪OK牧場♪が出てきたことになる。
このような深く温かい歴史的関係を、ロシア人はとりわけ大切にする。そのためウェスタン作曲家ティオムキンは、ソ連映画『チャイコフスキー』を企画し、自ら音楽総監督として、ボリショイ劇場やレニングラード・フィルの一流音楽家を駆使しながら、このクラシックの作品を完成したのである。
悲劇に襲われたメイエルホリドには、もうひとつの物語があった。
今世紀初頭のこと、裸足で踊るアメリカの天才バレリーナ、"踊るヴィーナス"と呼ばれるイサドラ・ダンカン(★⑩)がペテルブルクにやってきた。一九〇四年十二月のことだったが、イサドラは貴族を前にしてショパンのポロネーズを自由奔放に踊ってみせ、熱狂的な拍手の嵐に包まれた。
ニコライ二世の愛人だったバレリーナ、クシェシンスカヤ(★21)も心から賛辞を贈ったが、年が明けて翌月には"血の日曜日"、ロシア革命の第一波がこの大都市を覆いつくした。この"イサドラ・ダンカンの夫となった詩人エセーニンの最初の妻だったライフの二番目の夫"が、悲劇のメイエルホリドだったのである。
P253 その混乱と芸術革命時代のなかで、のちに全世界を魅了するバレエ団を創立する貴族ディアギレフ(参照)(★⑫)が興行師に身を転じ、一九○八年にはシャリアピンの『ボリス・コドゥノフ』をパリ・オペラ座での成功に導いた。
ディアギレフは翌年にロシア・バレエ団(バレエ・リュス---★⑭)を創立し、アンナ・パヴロワとニジンスキーという二大花形スターを擁して、「踊るというより空中を舞い、とうもろこし一本曲げずにとうもろこし畑の上を歩く」と言われたこの男女のコンビによって、空前の世界的な大成功を収めた。
そのディアギレフのバレエ団を彼の死後に再興したのが、南米生まれのバレエ団主宰者デ・クエヴァス公爵(参照)(★⑪)だったが、
モンテカルロ・バレエの歴史(参照)この公爵が石油王ジョン・D・ロックフェラー(★④)の孫娘と結婚していたのである。
1929年にディアギレフは急死し、《バレエ・リュス》は解散したが、3年後、モンテカルロ歌劇場の後援のもと、ルネ・ブリュムとワシーリイ・ド・バジル大佐を団長に戴いて、《バレエ・リュス・ド・モンテカルロ》として再結成された。
(略、その後、紆余曲折を経て)
1947年、マルキ・ド・クエヴァスがその一座を《グラン・バレエ・ド・モンテカルロ》と改名し、3年後には自分の名を冠して独立して活動するようになり、モナコ公国との関係は終わった。
また、この系譜に登場するサッヴァ・マモントフ(★⑦)とサッヴァ・モロゾフ(★⑧)のように、以上に述べたほとんどの芸術家のパトロンとなり、十九世紀末から今世紀にかけてモスクワを支配した百万長者の集団を描いたのが、さきほどの系図24(1/2、2/2)「モスクワ商人ファミリー」だったことになる。
そしてまた、系図25「ペテルブルクのトップ・マーチャント」に登場したチャイコフスキーのパトロン、フォン・メック夫人もこの系図26(1/2、2/2)にいる(★②)。
一体、ここまで紹介した何人が、ロマノフ王朝と商人一族の系図に登場したのだろうか。オペラの題材となった歴史上の実在の人間から、小説や戯曲の原作者、作曲者、編曲者、俳優、演出家、劇場主、演奏家、パトロンに至るまでが、そっくり一族の系図として描かれてしまった。
しかもロシア全土からその劇場へ押しかけた人びとが乗る鉄道まで、この一族が敷設したものであった。これがロマノフ商人たちの素顔---今日まで恐怖時代を生き延びた集団の力であった。
こうして十九世紀末に花開いたモスクワ芸術座とモスクワ証券取引所---それとまったく同じとは言えないが、一九九一年には、独裁者スターリンを諷刺するモスクワ室内オペラが来日公演し、モスクワ証券取引所が開設されたのである。
P254これが芸術の復活史であるなら、すでに、ロマノフ王朝の商人たちが旗あげに成功したとみなしてよいだろう。ロシア国民も、レニングラードよりロマノフ時代のペテルブルクという名前に対して「ダー(yes)」という答えを出したのだ。
しかしそれは、悲痛な叫び声であった。
現在私たちは、これらの歴史を多くの資料に読みとり、ショスタコヴィッチの証言などから当時の悲劇をうかがい知ることができる。しかしその時代にその場所に生きた人びとにとっては、それが歴史でなく、今夜にでも現実に起こる悪夢であった。
公刊された資料もほとんどなく、新聞は堂々と嘘を伝えるばかりで、ただ恐怖心と猜疑心があふれかえる世界世界だったに違いない。
その人びとの一歩先をまっしぐらに進んでゆき、恐怖をわしづかみにして引きちぎり、吠えるような歌声で一九六○年代から七○年代のソ連に光を投げかけた男がいた。タガンカ劇場をステージとして、ペレストロイカの旗手となった若きバラード歌手、ウラジーミル・ヴィソツキーである。
2.21 ウラジーミル・ヴィソツキーの宿命 P254-261
(略)
第三部 モスクワ・マフィアの暗躍 P265-371
3.5 ケネディ暗殺とマフィア(相互参照) P284-286(tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw,tw)P284 一九二七年の正確な日付は記されていないが、禁酒法時代のある日、トラックの一団がアイルランドから運ばれてきた酒を積んで、カナダからアメリカに入ってきた。ところがその時、ボストン郊外で何者かが待ち伏せしてトラックに襲いかかったため、犯罪者同士の銃撃戦となり、十一人以上が死亡する凄惨な結果を招いた。
当時アメリカでは、酒を港から直接密輸すると目立ちやすいので、大西洋を越えてヨーロッパからウィスキーが運ばれると、まずカナダに陸揚げされたのである。その胴元となったのは、酒造業者として現在世界一、アイルランド・ダブリンに発したギネスなどのように、誰もが知る著名なメーカーであった。
これを、カナダ南部のモントリオールを中心に活動する酒造業者が引き受けて、トラックで警備の手薄なアメリカ国境を越え、最北部の都市ボストンなどへ密かに運びこむルートが、最高の収益をあげることができた。
ショーン・コネリーとケヴィン・コスナーが主演した映画『アンタッチャブル』で、カナダ国境越えの銃撃戦を展開するシーンに登場したのは、一方が密輸団のギャング、一方がカナダ警察とアメリカFBIであった。映画では密輸団がつかまったが、実際にこのような取締りで摘発することができたのは、密輸入されるウィスキーのわずか五%にしか達しなかった。九五%が国境越えに成功して、マフィアの巨大な財源となったのである。
しかも一九二七年のカナダ国境銃撃戦事件では、一方が酒の密輸業者で、一方が酒を強奪しようとしたギャングだったのである。名前を具体的に記せば、ギャング団はマイヤー・ランスキーの組織であり、密輸入した業者はジョセフ・パトリック・ケネディーのファミリーであった。後年の大統領JFKの父親である。
P285 アイルランド移民一族のジョセフ・ケネディーは、先代から受け継いだボストンの酒造業によって、この禁酒法の時代に莫大な富を築いてきた。ところがランスキーは、そのアイリッシュ・ウィスキーの密輸業者がケネディーだということを知らなかった。
ケネディー家などはまだ、誰もその名を知らないチンピラにすぎなかったからである。ランスキーも同じく二十代の若僧だった。しかし一九六○年代に入って、三十年以上前のその事件がケネディ一家との銃撃戦だったことを、ランスキーは知ることになった。この時は一方がホワイトハウスの大統領なら、一方は暗黒街の大統領になっていたのだ。
ケネディ大統領のもとで司法長官になった弟ロバート・ケネディは、それまでFBI長官エドガー・フーヴァーのもとで巧みに育てられてきた犯罪組織に、不敵な挑戦を開始し、大掛かりな摘発に乗り出した。それは一九二七年に大量の死者を出した銃撃戦の"借りを返す"ものだったという。
ケネディー大統領が一九六三年に、続いて弟ロバートが五年後の一九六八年にいずれも暗殺された現在、ロバート本人の胸中にあったものが何であったのかを知る術はない。しかしロバートがランスキーの犯罪組織摘発に乗り出したのは事実であり、以上のような史実があったこともはっきりしている。
本来なら深く調査され、分析され、議論され、そのうえで結論を下すべきだと誰もが考える。
では、誰がその調査をするべきかとなれば、手を挙げる者はいないだろう。ランスキーは、一九八三年にこの世を去ったが、マフィアのシンジケートは今日も生きているからだ。
ともにロシアからアメリカに移住した一族のドクター・ハマーとマイヤー・ランスキーが、世界銀行総裁ユージン・マイヤーの一族を介してつながっていた。そして三者とも酒造業が大きな財源になっていた。ハマーがふたつの顔を持っていたなら、ランスキーもギャングのほかに"赤狩り"の顔を持っていた。
ランスキーはハマーと違って共産党嫌いで、一九四○年代から五〇年代にかけてハリウッドを中心に吹き荒れた赤狩り旋風とマッカーシズムで、重要な役割を果たした。ところが誰もが知るように、赤狩りの実態は、共産党批判に名を借りたユダヤ人狩りと平和愛好者狩りの性格がきわめて強く、映画『ジュリア』
P286の原作者リリアン・ヘルマンや喜劇王チャップリンのような多くのユダヤ人が、根も葉もない攻撃の犠牲者となっていった。
そのような意味でも、ランスキーについて語ることは、大きなタブーだったのである。カガノヴィッチの犯罪がほとんど知られなかった世界と非常によく似ていた。
ロシアを知るには、このように現在ではロシア人でないロシア関係者を調べるのが一番である。というのは、これまでのロシアの悲劇、そしてこれからのロシア最大の深刻な問題が、その外国人との関係に秘められているからだ。ロシア移民一族のハマーとランスキーを紹介したが、アメリカのロシア関係者として興味深いのは、彼らのような移民一族だけではなかった。
3.6 対ソ蓮貿易のカルテット P286-289
(略)P288
P289 新大陸に上陸した百一人のイギリス人は、のちに続々とやってくる移民の指導者として、アメリカをインドと同じように支配して略奪する道をへ踏み出していった。そこで、先住民を"インディアン"と呼びながら戦いを交え、銃を持っていたため次第に白人の領土を、東海岸から大陸の奥深くへ広げていった。
こうした侵略者の一団は、ほぼ三種類に分けられ、第一が指導者となった軍人グループ、第二がその軍人に率いられて肉弾となり、実際に戦いながら開拓を進めた農民グループ、第三が彼らに兵器や日用品を売りながら、一方ではアフリカの黒人奴隷を供給した貿易商人であった。
3.7 アメリカ建国の裏面史 P289-296
最大の役割をになったのが、この貿易商人である。白人にとっての新大陸には、勿論、物を販売する市場がなく、
P290当時はまだ、収奪した資源や農地からの収穫物を売る先は、ヨーロッパ大陸であった。ここに描いた「アメリカ建国史」の系図31(1、2)がその答えである。
まず、図の全体に目を広げていただきたい。系図には、メイフラワー号の子孫たち、初代大統領ワシントン(★⑤)、独立宣言に署名をした重要人物、南北戦争で戦火を交えた北軍のグラント将軍(★⑱)と南軍のリー将軍(★⑩)らの指導者がずらりと並んでいる。
不思議なことに、戦火を交えた北軍の将軍と南軍の将軍が、一族として描かれるのだ。しかしそこに閨閥をつくっていたのは、アメリカで最初の銀行として設立された北米銀行の「創立者」と「頭取」であり、往時のアメリカで最大の船舶オーナーであったグリネル=ミンターン一族であり(Grinnell, Minturn & Co)、そして何より、イギリス本家で東インド会社を支配したベアリング兄弟のような貿易商人であった。
バクー油田に登場したベアリング・ファミリーを思い出していたただきたい。ロマノフ家のロシアと同じように、新大陸の国家はひと握りの人脈によって形づくられてきた。
その系図に、ロマノフ王朝最後のの皇帝ニコライ二世(★25)の姿があり、フーヴァー大統領(★⑳)、ニクソン大統領(★24)、シベリア総督スぺランスキー(★⑮)らの要人が登場するのは、次のような理由からであった。
アメリカがどれほど民主的であると強調しても、国民がこのような系図を目にしたことは一度もない。ヨーロッパから光を当ててみよう。
ドイツからイギリスにやって来たベアリング一族(★⑧)は、金融業者としてロンドンに君臨し、ロマノフ家の商人たちととも交易をおこなっていた。ロンドンの金融集団は、一八世紀後半には世界で並ぶもののないセンターとして発展し、貿易商は全世界からイギリスに商品を運び込んだ。
それは産業革命と呼ばれる機械化の波がもたらした成果だったが、大量の成金貴族を生み出し、彼らがそれまでの保守的な領土貴族の力を凌ぐ勢力となっていた。こうした姿が、すでにメイフラワー号でアメリカに渡った移民集団(★①)にとって、苦々しい存在となったのも当然である。
P291多くは農民であり、彼らにしてみれば、
「インディアンと戦いながら命がけで開拓した土地の収穫物を、ロンドンの成金紳士たちどもが遊びながら、もうけの種にしている」と目に映った。
メイフラワー号からほぼ百五十年後、すでに新大陸で五世代も経た一七七三年には、白人がイギリス人ではなく"アメリカ人"に入れ替わっていた。東インド会社が茶の専売権を持っていることに怒ったこのアメリカ人たちは、サミュエル・アダムスの演説に扇動されてイギリス船を襲い、茶を海に投げ込んでしまった。
そのアダムスというのが食わせ者で、自分も成金だったが破産したため、この有名なボストン茶会事件をひき起したのである。彼の従弟が大統領となり、またモルガン財閥を生み出したボストンの大家族であった。
しかもこの事件が引き金となって、二年後からイギリス成金に対してアメリカ成金が立ち向かう独立戦争に突入していった。
ここに駆けつけたのが、"アーマンド・ハマーの最初の妻オリガの先祖"コシューシコだったことになる。
この戦争の総司令官として現地の民兵を指揮したのがジョージ・ワシントン(★⑤)で、その曾祖父ジョン・ワシントン(★②)は百年前の"インデアン狩り"で名を挙げ、ニ四平方キロという広大な土地を手に入れた軍人であった、
軍人にとって先住民討伐とは、実にこのミヤゲ物を貰うための方便であり、後年の偉人リンカーンの指揮する軍隊は、とうもろこしを栽培するためミシシッピー川を渡ってきた千人の"インディアン"を虐殺したのである。
正直者ワシントンの一族は、のちの南北戦争で南軍の敗戦将軍となるリー(★⑩)一族と度々結婚をくり返したが、独立した時の十三州のなかで最も軍人勢力が強く支配的なヴァージニア州に君臨し、そこは"リーシルヴェニア"、つまりリー一族の財産とも呼ばれるほどであった。
ジョージ・ワシントンはその閨閥にあって、富豪の未亡人を妻としていたが、何十人もの黒人奴隷を酷使する大農園主となった。系図に何人ものヴァージニア総督と知事を描いているが(★③など)、アメリカ大統領十二代目までのうち七人がヴァージニア出身であるから、この一族が当時の全米の支配者であった。
P292系図31-1アメリカ建国史1/ 294系図31-2
P296 総司令官ワシントンは、一七七五年の独立戦争で、開戦から苦戦を強いられたが、三年後から戦局を少しずつ有利に変えはじめた。ロマノフ家とフランス王室を味方につけ、イギリスを攻撃する同盟を結んだからである。
時のフランス・ブルボン王朝ルイ十六世の妃は、マリー・アントワネットであった。ご存知、王子を出産後この王妃、下層民を愚弄して奢侈を重ねる大の政治好きだったが、アメリカ人はこのフランス王室の協力によって、最後にはイギリス軍を敗北させ、一七七六年に十三州が独立を宣言したのである。
系図には、その独立宣言の署名者が何人も顔をそろえている。クリントンの大統領就任式の翌日、一九九三年一月二十一日は、そのルイ十六世がギロチンにかけられてから二百年後の記念日にあたり、パリのコンコルド広場に多くのブルボン王朝復活を望む人間が集まってきた。
これはロシアでのロマノフ王朝復活に呼応する動きと同じだが、その会場にクリントン大統領が派遣したフランス大使ウォルター・カーリーが現れたので、ジャーナリストたちがびっくりした。そのときカーリー大使は、落ち着いてこう答えた。
「知らないのですか。アメリカは、ルイ十六世のお陰で独立戦争に勝つことができたのですよ」
アメリカ人は現在でも、当時のことを忘れないどころか、クリントン大統領は、この系図に描かれる「独立宣言の起草者ジェファーソン(★⑨)を高く評価し、大統領就任式には、ジェファーソン大統領の邸宅からバスを連ねてワシントン入りし、大行進するというセレモニーをおこなったほどである。
しかし当時は、アメリカ独立から十三年後にフランス革命の時代に突入し、やがてルイ十六世とマリー・アントワネットが断頭台の露と消える姿を目にすると、ナポレオンの台頭に震えあがったロマノフ王朝のロシアとハプスブルク王朝のオーストリア、そして大英帝国が次々と不可思議な駆け引きをし、同盟を結びはじめた。
しかしその裏で動いたのは、またしても貿易商の実力者たちであった。フランス革命の年に東インド会社の幹部となり、三年後には会長となって全権を握った前述の金融業者フランシス・ベアリング(★⑧)は、このとき世界最大のマーチャント・バンカーとなっていた。
3.8 ロシア・アメリカ会社 P297-298
3.9 フーヴァー大統領のロシア利権 P298/300/302
3.10 怪人ロイチョーク P302/304-306
P306 ロックフェラーの育てた最大の石油会社エクソンが、前述の穀物会社アーチャー・ダニエルズ・ミッドランドと協力して、九〇年からソ連への支援に大きく動き出した背景には、このようにメイフラワー号にはじまる巨大な系図があり、語りつくせないほどの深い歴史が横たわっていた。ここに示す構造図の通りである(図5参照)
3.11 ロックフェラー家の系譜 P306-311
さて、何でもロックフェラー、ロックフェラーというが、その一族の家系図はどのようになっているのだろうか。系図32に、これまでの観念にない「ロシア系ロックフェラー・ファミリー」の系譜を描いてみた。本書では、この大財閥は「メイエルホリド劇場の悲劇とロックフェラー」系図26(1/2、2/2)で、ロシア・バレエの世界に顔を見せていた。初代石油王ジョン・D・ロックフェラーの孫娘が、バレエ団のクエヴァス侯爵P307に嫁いだ物語である。
一九九三年一月にこの世を去った天才バレエ・ダンサー、タタール人の血が入ったルドルフ・ヌレーエフが六一年のパリ公演中に亡命してフルシチョフを激怒させた時、亡命先として飛び込んだバレエ団(Grand Ballet du Marquis de Cuevas)の主宰者、それがこのクエヴァス侯爵であった。そして、いま示した「新ロシア・アメリカ物語」でも、ロックフェラー家はロシアの石油と穀物貿易に大きな力を発揮して、エリティン大統領のロビイストにまで自分の息のかかった人物を送りこんだ。
ドクター・ハマーとの関係で言えば、系図28(★⑤)に示したように、世界銀行ユージン・マイヤーはチェサピーク・オハイオ鉄道の大株主だったが、マイヤーがその株を売却した相手は、初代石油王ロックフェラーであった。この鉄道を支配していたのが、ロックフェラーのパートナーで"ソ連貿易のパイオニア"、サイラス・イートンだったからである。金融界の裏でも、モスクワは常にロックフェラーと深い関係を持ってきた。(略)
ロシア革命から三年近く経った一九二〇年五月、ロックフェラーのスタンダード石油は、すでにレーニンの持ち物になっていた「ロシアのノーベル社」を一一五〇万ドルで買収し、それが永遠に戻らない
P308系図32ロシア系ロックフェラー・ファミリー
(P310-)
P310 一一五〇万ドルになるという失敗を犯したことがあった。結果的にはダイナマイト屋のノーベルに一杯食わされたのだが、それでもチェース・マンハッタン銀行のデヴィッド・ロックフェラーは、一九五〇年代に入るとミコヤンに会い、六十四年には、ペテルブルクのネヴァ川に因んでネヴァと名付けた娘を連れてソ連を訪れ、フルシチョフと会談した。これは世界史上の象徴的事件であった。ヒットラーとロスチャイルドが仲良く会談したような出来事だったからだ。
系図32が雄弁に語るように、ロックフェラー家はロマノフ家(★⑨)やトルストイ(★②)のきわめて近い親戚であり、また、ロシア革命前のシベリア開拓者として名高い男トラクストン・ビール(★③)もロックフェラー一族にいたのである。ロマノフ家をあいだに挟んで、フルシチョフの系図6と合わせてご覧になるとよくお分かりになるはずだ。ニキタ・フルシチョフとデヴィッド・ロックフェラーは、それほど遠い血筋ではなかった。しかし六四年におこなわれた資本主義者と共産主義者のトップ会談も、ロマノフ家との血縁関係を抜きにしては結びつかないことになる。
系図32には、これまでのロックフェラー物語に登場した人物が、全員一族としてそろっている。ロックフェラー財団の理事長ヴァンス(★⑧)は、勿論ファミリーである。また天才ダンサーのイサドラ・ダンカン(★⑦)も系図26(1/2、2/2)の「メイエルホリド劇場の悲劇とロックフェラー」では踊り子とパトロンの関係だったが、ここではバレエ界の大御所クエヴァス侯爵のロックフェラー・ファミリーとして、華やかなステージにあがってくる。
しかしこの系図にまたしても現れてきたのが、帝政ロシア時代にニコライ二世が派遣したアメリカ大使ユーリー(ゲオルギー)・パフメチョフ(★④)であった。ロックフェラー・ファミリーは、シベリア開拓者の義兄弟として、ロシア人の大使まで身内にしていたのだ。なんという手の早い一家であろう。先ほどの「アメリカ建国史」の系図31(1、2)で、トルストイ財団に資金を出した"ノン・ソヴィエト大使"パフメチョフという面白い男を紹介したが、彼は一九一七年からアメリカ大使になっていた人物であり、
こちらのP311ロックフェラー家のパフメチョフがちょうどその前の一九一七年までアメリカ大使だったという、まぎらわしい話である。勿論、外交官一家というものはどこの国でも、こうして代々にわたって外国で暮らしているうちに、いつの間にか赴任先の国で血縁関係ができてしまい、自分の国がどこだか分らなくなる。(略)
ロックフェラーたちは、あり余る大金を使って各国の外交官をポカチンコの豪邸に招いて歓待し、一方、同じロックフェラーが寄進した土地のうえに建てられたニューヨークの国連ビルの内部では、その外交官が寄り合って国際会議というものを開いてきた。そのような外交官の巣窟、国連が軍事問題を議論するので、世界中の紛争がなくならないのだ。
ロシア貿易のカルテットのうち、第一の人物ドクター・ハマー、第二の人物サイラス・イートン、第三の人物ロックフェラー・ファミリーを紹介してきた。では、第四の人物ドナルド・ケンドールとは何者だろうか。フルシチョフがペプシ・コーラをうまそうに飲んだのは、どのような理由があってのことか。
3.12 ウォッカとコーラの取引 P311-318
ペプシコの重役ロバート・ストラウスが、一九九一年にモスクワ大使に任命される二ヵ月前のことであった。四月九日、まだ寒いモスクワに姿を現したのが、ペプシコの代表、第四の人物ドナルド・ケンドールで、そのとき、アメリカの企業がソ連と結んだ貿易協定として史上最大額の契約に署名がおこなわれ、コーラとウォッカのバーター取引が成立した。
かねてから"アーマンド・ハマーの後継者"として知られていたケンドールだが、この協定の重要なポイントは、米ソが共同でソ連の商船十隻を建造し、その利益をピザ・チェーン店の建設に充てるという条項にあった。
モスクワ市民の生活にかなり踏み込んだ、具体的な経済再建のプログラムであった。すでに二十年近くソ連でペプシ・コーラを売ってきた実績は、モスクワに開店するなり大騒ぎとなったハンバーガーのマクドナルドなど足許にも及ばないほど、ロシア人のあいだでは大きな存在であった。
この契約の二ヵ月後に、ペプシコの重役ロバート・ストラウスが、モスクワ大使に任命されたのである。そしてさらにその二ヵ月後に、三日天下のクーデター事件が勃発し、ストラウスはモスクワに着任した大使として、非常に作業のしやすい雰囲気のなかで精力的な活動を展開しはじめた。ペプシコ重役大使の任務は、きわめて重要であった。
かつてペプシコの代理人として立ち働いていた弁護士の名をリチャード・ニクソン(相互参照)といい、ニクソンに大金を提供して彼を大統領にした会社としても、ペプシコはよく知られている。ニクソンがフルシチョフにコーラを飲ませたひと幕は、ケンドールが仕組んだ芝居だったのである(参照1、参照2、参照3)。
こうした深い関係から、ニクソンは米ソ共存論者に豹変してしまい、一時は、ペプシコ・インターナショナルの会長にならないかと誘われたほど、ケンドールと親しい仲にあった。ここで、ケンドール会長の系図33「ペプシコのウォッカ・コーラ・バレエ財団」を描いて、モスクワ・マフィアが何者によって動かされてきたかを想像してみるのは重要なことだろう。
鍵はウォッカとコーラだ。ケンドールの家系は興味深い。
系図24(1/2、2/2)の「モスクワ商人ファミリー」で、モロゾフ家と並んで重要な役割を果たしたマモントフ家を描いておいた。マモントフの名は、酒税徴収人として鳴り響いていたが、その一家の重鎮サッヴァ・マモントフは、自らマモントフ劇場を創立し、スタニスラフスキーのモスクワ芸術家のパトロンとして大活躍した男だ。
つまり近代ロシア芸術のパトロンとして、双璧は、サッヴァ・モロゾフとサッヴァ・マモントフであった。ネヴァ金属工業社の筆頭株主として、鉄道王として、モスクワ証券取引協会の幹部として大財閥を生み出したそのマモントフ(★①)が、このペプシコ会長ケンドール(★⑨)の系図に現れてくるのである。
勿論ケンドールからマモントフに達するまでの系譜は、かなり長くたどらなければならないが、その途中に通過する数々の人物は、ここに説明を省いているだけで、いずれもその係累に深いいわれのある強大なファミリーであった。
P313 銀行家やリヴォフ、ゴリツィンなどの貴族が次々と現れてくる。そうでなければ系譜資料が残らず、こうして時代を遡ってルーツをたどることがまったく不可能になる。この調査原理は、これまで描いてきた系図すべてに言えることである。
こうしてケンドールのペプシコとフルシチョフ(★④)が系図でつながるとは、ニクソンも気づかなかっただろう。ドナルド・ケンドールは、ソ連消滅寸前の一九九一年十一月に、ブッシュ大統領を激しく非難した。
「ドイツやイギリス、日本はソ連への投資を開放して、エネルギッシュに事業を進めているが、アメリカはただ指をくわえて見ているだけだ」
ペプシコがこれまでソ連を育てあげてきた友情と利権、そして利権と友情を考えれば、ケンドールが苛立ったのも無理はなかった。彼自身はソ連でコーラだけを売ってきたのではなかった。この好漢ケンドールの知られざる肩書は、「アメリカン・バレエ・シアター財団」の会長であった。
一方、ロシア・バレエの華ディアギレフ・バレエ団の創立者はセルゲイ・ディアギレフだが、彼の祖父はウォッカの専売で巨大な財産を築いた。演劇界のメイエルホリドの父親も同じである。そして彼らもこの系図33に姿を見せてくる(★③、⑤、⑦)。アメリカとロシア---酒とバレエ交流の図だ。
ロシア・バレエの最高峰と言うべき『白鳥の湖』の作曲家チャイコフスキーにも、この図に参加してもらうことになった(★②)。
帝政末期のロシア人は、バレエを観ながらウォッカを飲まされてきたが、最近はケンドールのおかげで、バレエを観ながらペプシ・コーラを飲むようになるまで成長したのだ。ロシア人は大人になったものだ。こう思っていたが、そこに新しい動きが出てきた。
ソ連消滅後に帝政ロシア時代の商人が復活した動きのなかで、最も象徴的だったのが、この酒、つまりウォッカの販売業者として名乗りをあげたスミルノフである。
ロマノフ王朝のウォッカ御用商人だったピョートル・スミルノフの直系子孫ボリス・スミルノフが、一九九三年一月にウォッカの販売を開始して、P317モスクワにウォッカ戦争がはじまったのである。
(略)一体こうした世界が、おそろしい本物のマフィアと関係があるのかと考えれば、一見するとどこにもないように感じられる。酒が人間を悪くするのではなく、悪い人間が酒を悪くするだけだ。しかしこの系図には、カナダのシーグラム帝国を支配するエドガー・ブロンフマン(相互参照)がいる点に注意しなければならないだろう(★⑧)。
ロシア系ユダヤ人移民としてカナダに移り住んだブロンフマン家が、最大の利益率を記録したのは禁酒法の時代であった。一九九二年現在、世界ユダヤ人会議の会長の座にあるエドガー・ブロンフマンだが、一家が禁酒法の時代にかせいだのは、カナダ・アメリカ国境の密貿易であった(tw,前述参照)。
そしてこのときのアメリカ側のパートナーが、マフィアとして成長しはじめた男、ほかならぬ後年全米を恐怖におとしいれた前述のマイヤー・ランスキーであった。
(P318-)
3.13 ランスキーとブロンフマン家 P318-324
P318 シーグラム帝国には、このロシア移民の歴史が深く係わっていた。ロシア移民のランスキーはとロシア移民のブロンフマンの直接取引きが生み出したウィスキーの密売である。エドガー・ブロンフマンの祖父エキエル(★⑪)は、ドニエステル河畔のウクライナ南部、ベッサラビアに住んでいたが、そこはルーマニア国境の近く、黒海のオデッサに至る穀倉地帯だった。
次代のサミュエルが、カガノヴィッチ一族と同じようにポグロムを逃れ、前世紀末の一八八九年にカナダに移住し、今度はケネディ家と同じようにギネスの酒を売りながら次第に工場を拡大し、やがてシーグラムを買収したのである。ケネディーとランスキーの関係は、大統領暗殺事件を考えれば、絶えずコインの裏表の関係にある。
ただしブロンフマン家が、世界最大の化学会社デュポンを買収するほどに巨財を成すまでには、帝政ロシア時代の貴族グンツブルグ男爵がそこに寄与していた。エドガーの姉ミンダ・ブロンフマンは、ペテルブルクの鉄道王一族アラン・グンツブルグ男爵と結婚し(★⑥、★⑩)、その閨閥がロスチャイルド家からカガノヴィッチ・ファミリーにまで達していたからである(系図9「スターリン」参照)。
また、ブロンフマン家と結婚したアラン・グンツブルグは、自らシーグラムの重役室に入ってブロンフマンの良きパートナーをつとめてきた。
これまで故意に首都ペテルブルクのグンツブルグ男爵の物語を省いてきたのは、ここに一族の系図34(1、2)を描き、体系的にファミリーを示すためである。
語尾が---ブルクと---ブルグで矛盾するのは、ピョートル大帝の名づけた首都がドイツ名であるのに対して、グンツブルグ家はロシア革命後に亡命して、現在主に国際人として一般にこう呼ばれているからである。
一家は十五世紀の古い時代まで家系をたどることができるが、本書で重要なのは、ホレス・グンツブルグ(★②)である。P319 一八三三年にキエフ地方のユダヤ人家庭に生まれたホレスは、七一年に男爵位を授けられた。その三年後に、ロシアの鉄道融資に多大の貢献をしたその父親ヨーゼフ(★①)にも男爵位が与えられ、順序は親子で逆になる珍しい例だが、以後アレクサンドル二世によって一家には代々この爵位が認められるようになった。
ペテルブルクに設立されたグンツブルグ銀行が、ロシア全土の金融中枢として機能し、鉄道ばかりでなくウラル、アルタイ、シベリアにおよぶ金鉱開発の総本山となっていった。非常に不思議なことに、ロシア史のなかでこの金融ファミリーについて記述されているものは、ほとんど皆無と言ってよい。
ところがユダヤ史のなかでは、逆にきわめて詳細に記述され、"ロシアのロスチャイルド"として最高度の評価を得てきた。これはどう考えてもユダヤ史の記述のほうが正確であり、グンツブルグ家を論じない従来のロシア近代史は、革命史の本質からほど遠いものと感じられる。
一九世紀の帝政ロシアは、モロゾフやマモントフなどの新興ブルジョアジーを大きく成長させたが、その商法の根底を動かしたのが金であり、大部分がヨーロッパから流入した資本であった。そしてその流れを自在に方向づける首都の銀行家として、ロシアにありながらユダヤ人として男爵意を授けられたことは、その力がどれほど巨大であったかを物語っていた。
ポグロムの時代を生き延びることができた実力のあるユダヤ人は、一九世紀末には数が少なく、グンツブルグ家はその中でも群を抜いていた。この系図には、アメリカの鉄道王ヴァンダービルトやロシアの鉄道王ウィッテのほかに、『カール・マルクス伝』を書いたザヤ・バーリンがいるだけでなく、世界的な麻薬王サッスーンの一族も結婚し合っている(★③、④、⑤、⑥)。
その一族が、現代の酒造業界をギネスやブロンフマン(★⑦)と共に世界的に動かしている。ロシアを評価するのに、ロシア国内の人間だけを見たのでは、将来の行くへを占うことはほとんどできないと思われる理由がここにある。
これだけ多くの系図を読者に見ていただくのは、今日まで一般に与えられてきたロシア人やソ連国民という概念が、すでにロマノフ王朝復活や帝政時代の商人の旗揚げによって、完全に崩れ去る日が訪れたからである。
P323 それは、新生ロシアが内部から崩すのでなく、亡命ロシア人とその広大な刑罰がロシアの外部から崩してゆく激動になる。
ロシア革命からわずか七十年余りでソ連は消滅したと言われるが、それはわずかな期間でなく、すでに三世代もの新しい欧米ロシア閨閥が編みあげられてきたことを意味していた。帝政時代とは比較にならないほど欧米化されたロシア人が、一族を連れて世界最大の資源国に帰還しはじめただけでなく、その系譜には、本物のマフィアが含まれていたことになる(tw)。
彼らは、やがてロックフェラビッチかロスチャイルドロフと名乗って、大型のマフィアに変貌するだろう。モルガンスキー公爵や、ハマーギレフ男爵、それにケンドールキン伯爵にウソツキーという人気歌手が出てくるかもしれない。これからのロシア人の名前には、よほど注意が必要である。
一九九〇年代のアラスカで、有力な上院議員がマコースキーであり、彼は、八九年にゴールドマン・サックスと来日したので、日本でもよく知られている。同じく現代カナダのマルルーニー政権の大蔵大臣が、マザンコウスキーであった。ピョートル大帝の時代から、アラスカやカナダにはこのような名前の要人が多く、現代を動かしてきた。
レーニンの本名はウリヤノフ、トロツキーの本名はブロンシュタイン、スターリンの本名はジュガシヴィリだったが、フルシチョフは正統派の貴族として名前を変えなかった。そのフルシチョフの自尊心のおかげで、ロマノフ家の真実に相当近づくことができたようだ。
マフィアの最後の物語、ロシアの軍需産業に目を転じてみよう。フルシチョフ時代に起こった人類破滅の危機--「キューバ危機」がソ連側ではどのような事件であったかを知るため、これまでの資料もとに新たな解釈を試み、マフィアの総本山を訪れてみよう。
核兵器産業とKGB、CIA、MI6のスパイたちが暗躍し、栄光を謳歌した舞台である。この危機は、ロシアのとアメリカの核産業が消滅しない限り、これからも消えることはない。一九九三年一月に両国首脳P234が核兵器削減の条約に署名したが、それは地球上の全人類を一万回殺すことができた核兵器を、わずか五千回しか殺せなくなったという、素晴らしく希望に満ちた物語なのだ。
(P324-)
3.14 キューバ危機 P324-330
マフィアのひとつの道具は、酒である。
もうひとつの大きな道具が、軍需産業である。
酒のほうには"高級コールガール組織"と呼ばれる政治目的の国際シンジケートが含まれ、そこに、農村から都市までむしばむ"麻薬シンジケート"が連動して、世界最大級の銀行がこれらの資金をほとんど調達してきた。信じたくないことだが、全世界の犯罪の半分は、これら政財界の紳士の資金をもとに実行に移されてきた。
軍需産業はさらに大掛かりである。世界各地で起こっている紛争の問題は、血が流された戦場に目を向けるとき、市民にはほとんど手に届かないようなあきらめの感情を覚えさせるが、現実の状況をはっきり見きわめてゆくと、そのあきらめが間違いであると分かってくる。ほんのわずか一発の銃弾から、殺人がはじまるのである。
問題は、ミサイルや原水爆のような途方もない大量殺人兵器にあるのでなく、その第一歩を許すピストルの思想にある。人類史のなかで、いきなり大量殺人兵器が生産されたのではなく、ロシアでもアメリカでも、ピストルの思想によって人間を洗脳する作業から、ミサイルや原水爆を誕生させてきた。その作業を進めるための扇動者がいたのである。
軍需産業には、兵器そのものを製造する人間のほかに、諜報・情報機関が加わって、紛争や戦争を拡大する大きな力として作用してきた。どのような紛争でも、それが報道された時には一般市民の手の届かないような状況が展開しているのが通例である。ニュースを耳にしたときには、すでに軍隊が兵器を携帯して乗りこみ、戦火を交えている。とりわけアメリカとロシア・ソ連は、自分の国内で戦争をするのでなく、
P325 外国に出かけていっては、軍事介入を繰り返してきた。事情をよく知らずにその結果だけを見れば、市民は、一にも二にも紛争を鎮めなければならないと思う。そして、あたかも必要な軍事介入であるかのような印象を受けることもある。ところが実際には、その戦いをるつぼで焼いて戦場を燃えあがらせる前に、十分練りあげられた粘土の素地がある。
この原土をこしらえる陶工は、主に外交官とジャーナリズムである。系図5に示した世界的諜報機関の指導者スチュワート・メンジスと、その一族がつくりあげた外交官のネットワークがよい現実のサンプルだ。彼らが通信社や新聞社を通じて流すニュースは、市民が選んだ覚えもない得体の知れない解説者によって解説され、一方的にそれが、"世論"だと断じられてきた。
世界的マフィアがひき起こした歴史上の大事件のなかでも、キューバ危機は、米ソの核ミサイルのボタンに手がかかるほど一触即発の事態を迎え、人類に地獄の淵をのぞかせるところまで危険が迫った。その大事件は次のような経過をたどった・・・
一九五九年一月一日、キューバの独裁者バティスタがドミニカに亡命すると、それまでこの独裁者を育ててきた全米の企業家とマフィアは、莫大な利権を失うことになった。翌日には首都ハバナが反乱軍によって占領され、二月十六日にはついに革命家カストロが首相に就任して、アメリカの富がこの島から消滅してしまった。キューバはカリブ海で最大のアメリカの金融基地であり、同時にマフィアがカジノや競馬場などありとあらゆる種類の娯楽場をつくって、富豪を招く天国であった。
多くの企業家は、ここを貿易基地として利用するためかなりの投資をおこなったが、とりわけ砂糖から得られる収益は莫大なものであった。コロンブス以来のスペイン人の侵略によって原住民が絶滅したキューバは、黒人奴隷とスペイン人によって作られた植民地であった。砂糖の生産は、一八六〇年に世界の第一位を記録し、八六年の奴隷解放までおそろしい地獄の労働が強いられていた。
そして前世紀末からスペインに取って代わったアメリカが、キューバを植民地として全産業を支配し、同時にその事業を円滑にP326 進めるため、独裁者バティスタに対して支援をおこない、公式の軍隊派遣から、マフィア進出による民間暴力にまで軍事行動が及んでいたのである。
大統領セオドア・ルーズヴェルトから死の商人デュポン、鉄道王ヴァンダービルト、小説家ヘミングウェイ、そして殺し屋マイヤー・ランスキーに至るまで、全米の著名人と企業家とマフィアが共存して、キューバ人を近代的な奴隷として扱ってきた。
そのアメリカの天国が革命によって崩壊した時、アメリカ本土で諜報工作機関CIAの長官をつとめていたのが、国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟、アレン・ウェルシュ・ダレスであった。まずこの歴史上に悪名高いダレス兄弟の一族を、系図35に描いてから話を進めよう。CIA長官アレン・ダレスは、自分の母方の家系と妻の家族が、いずれも「ロマノフ家」につながる奇妙な姻戚関係を持っていた。
左端にいるCIA長官(★⑥)の「妻の家系」を上方向に追ってゆけば分かるが、そこにロマノフ皇帝ニコライ一世(★①)が登場し、一方、「母の家系」を下方向にたどってゆくと、そこに同じ皇帝ニコライ一世(★②)が登場するのだ。歴史は女でつくられた!
しかもその母方の家系を見ると、彼はジョン・フォスター国務長官(★③)の孫にあたり、ロバート・ランシング国務長官(★④)の甥にあたり、さらにジョン・ダレス国務長官(★⑦)の弟にあたっていた。三代にわたってアメリカの国務長官(=外務大臣)をつとめるという、情報界でこれ以上は望めない一族をかかえていたのである。このダレスCIA長官がイギリスのMI6長官スチュワート・メンジス(系図5)と組んで、世界諜報ネットワークを完成し、両人が欧米でそれぞれ"スパイマスター"と呼ばれたのは当然である。
ソ連の国内事情についての情報は、旧ロマノフ王朝に忠誠を誓う無数のロシア人からの連絡によって、ヨーロッパを経由して、アメリカの国務省とCIAに流れてきた。またイギリスの海外工作機関MI6から、直接CIAに情報がもたらされた。
ダレス兄弟は、もともとサリヴァン・クロムウェルという法律事務所を舞台にして、全米トップの大企業P327の代理人として活動してきた政商でであり、ダレス兄がロックフェラー財団の理事長であったばかりか、兄弟とも自ら無数の投資会社や外国の石油・金属会社の重役をつとめる闇世界の帝王であった。
その系図は、しかし不思議な命脈をもってロシアにおよんでいた。いま示したダレスの妻の系譜では、ロシア人とアメリカ人が結婚しているのが、一九二一年、パリでの出来事である。これは、ロシア革命から四年後に、パリに亡命していた"皇帝ニコライ一世の曾孫クセモア王女"が、ダレス一族のアメリカ人ウィリアム・リーズと挙げた結婚式(★⑤)であり、そのパリには、のちにロシア貴族系譜協会を旗あげするロシア人が大量に集まっていた。
キューバに起こったカストロの革命は、ヨーロッパに広がったマルクス・レーニン主義とはほとんど無縁のもので、植民地解放という現代の第三世界にしばしば見られる蜂起であった。キューバ革命の翌年にあたる一九六〇年二月、フルシチョフはこのキューバに手をさしのべ、貿易援助協定が締結された。
この時から、キューバはカリブ海の貿易基地として存在するのではなく、アメリカを目の前に現れた"共産主義ソ連の前進基地"としての性格を突然に持たされるようになった。アメリカにとっては重大事であった。
ダレス長官はキューバの利権と軍事支配力を取り戻すため、強力な反共軍事作戦を実行に移すよう命じた。そしてスパイ用U2型機をソ連の軍需産業総本山に飛ばして、空からの偵察に踏み切ったのだが、六〇年五月五日、フルシチョフは「わが国の領空を侵犯したアメリカの偵察機を撃墜した」と発表して、ダレスと全世界に衝撃を与えた。すでに米ソ両国の核兵器増強ゲームは、誰の目にも狂気のように見えていたが、フルシチョフの怒りの発言は、いよいよその人類の最終兵器を使用するところまで進んできたかと思わせるほど激しいものであった。
時はまさに、大統領選挙に火がつき、ケネディーとニクソンの一騎打ちへと突入する頃だった。前年にモスクワでフルシチョフにペプシ・コーラを飲ませたニクソンと、禁酒法時代の酒の密輸で巨財を築いたP330一家のケネディーである。(略)すでにたびたびキューバのカストロを暗殺しようと試みたダレス兄弟だったが、ケネディーの大統領就任直前、一九六一年一月三日に、アイゼンハワー大統領はキューバとの断交を発表した。
アイゼンハワーの孫の結婚相手が、ニクソン大統領の娘ジュリーである。かつてロシアにボリシェヴィキが現れた時、ロックフェラーはその政府がすぐ倒れると読んでロシアの油田をノーベル財閥から買い取り、いつまで経ってもソ連が消えない国家であることを思い知ったが、キューバにカストロ政府が出現した事件は目の前に起こった出来事であっただけに、世界の警察を自認するアメリカの軍部とCIAは、自分の手で髭のカストロをつぶさなければ面子が立たなかったのである。
3.15 裏切り者の二重スパイ、ケンブリッジ・サークル P330-334
一月二十日にケネディーが就任した時には、ホワイトハウスのトップが知らないうちにキューバ侵攻作戦がすべてできあがっていた。四月下旬に、CIAの工作部隊がキューバのピッグス湾侵攻作戦を実行に移した。この作戦はケネディー大統領も認めたものだったが、実際にはダレス軍団が仕組んだ計画であり、新大統領にはその内容が何も分かっていなかった。
この計画は事前にカストロに察知されて大失敗に終り、ケネディは就任早々に大きな恥をかくことになった。しかしこの事件は、次の年にやってくる大事件の予兆にすぎなかった。一九六二年に入ると、二月にはケネディー自身がキューバに対して禁輸政策をとりはじめ、両者の関係はますます悪化していった。ことに九月に入り、フルシチョフがキューバに対して武器を送りこむ協定を結ぶと、アメリカにとっては二重にも危険な国家としてキューバの存在が位置づけられ、"髭のカストロ"がアメリカ最大のにっくきP331敵として全米に宣伝された。
そうした中で、フルシチョフがさらに危険な行動に出た。(略、ソ連と英(米)の二重スパイ、情報戦のことが書かれている)
P334 しかしこれだけの大量の二重スパイが存在した理由を分析してみれば、軽快なスパイ小説が描くように彼らを最初から""と決めつけて考えるのは、どこか無理があった。実は、彼らはいかがわしいスパイ活動をしたのではなかったのである。彼らは、自分友人や信念のためにスパイ活動しようとすれば、必然的に二重スパイになる社会的・歴史的なメカニズムのなかに生きていた。その真相は「資本主義」対「共産主義」という対立軸のほかに、もうひとつ、「ナチズム」対「反ナチズム」という対立軸を置いてみるとあざやかに浮かびあがってくる。
ソ連とアメリカとイギリスは、第二次世界大戦において、ナチスを相手にして戦うために手を組んだ。そのとき、イギリスがソ連に協力するために選んだMI5の情報官が、のちに二重スパイの汚名を着せられたケンブリッジ・サークル、"第四の男"アンソニー・ブラントだったのである。この男にとっては、戦後にはじまった急激な米ソ対立より、第二次世界大戦中に培ったクレムリン内部との友情のほうが、人生においてははるかに重要な位置を占めていた。米ソの核兵器による対立は、むしろ独り歩きしはじめたアメリカの巨大産業から一方的に押しつけられた対立であり、ブラントにとっては不快なものだった。
3.16 ヴィクター・ロスチャイルド P334-340(→相互参照(1、2、3、4))
たとえばこのアンソニー・ブラントと、最初にソ連に亡命したドナルド・マクリーンを系図36に描いてみると、意外な人物たちが現れてくる。これが有名な二重スパイのケンブリッジ・サークルである。この家系に登場するのが、映画俳優のピーター・ユスティノフ(★⑫)である。『クォ・ヴァディス』で暴君ネロの名演技を史上に残したユスティノフは、帝政ロシア時代のウラルの軍需商人デミドフ(★②)ときわめて近い一族であった。
若い人であれば、アガサ・クリスティの『地中海殺人事件』に登場した名探偵ポワロ役でご存じだろうが、彼の出演作には、『ロメオとジュリエット』や『スパイ』という興味深いタイトルのものがある。ユスティノフは、名前の通りロシア系(ロシア読みウスチノフ)である。(参照→『赤い盾』P802-)
P335 この映画俳優の父は、MI6の工作員であると同時に、ロシアとドイツ、イギリスの三軍で働いたことのある陸軍将校で、反ナチスの闘士であった。妻ナディアの一族はフランス系のブノワ家であったが、帝政ロシアの首都ペテルブルクでその名はベヌアとしてよく知られ、ほかならぬディアギレフ・バレエ団の舞台美術家として活躍し、音楽と絵画を融合させた総合芸術の生みの親であった。系図24(1/2、2/2)の「モスクワ商人ファミリー」と系図26(1/2、2/2)の「メイエルホリド劇場」の世界になる。バレエ界にとって、画家アレクサンドル・ベヌア(★③)は、その名を永遠に忘れられないロシア人であった。
そしてケンブリッジ・サークルで最大の人物、ヴィクター・ロスチャイルドを"第五の男"として系図に描いてある(★⑦)。彼はロンドン・ロスチャイルド銀行の創業者である金融王ネイサン・ロスチャイルド(★①)の直系子孫--孫の孫--にあたるが、このヴィクターこそ正式名ナサニエル・マイヤー・ヴィクター・ロスチャイルドこそ、キューバ危機の中心人物であった。
ヴィクターは、ロスチャイルド銀行の会長として世界金融の頂点に立っていただけでなく、イギリスBBC放送の影の総裁として国際的通信ネットワークを支配し、自らはバクー油田が生んだシェル研究所の所長として、西側の核兵器開発の中枢に身を置いていた。
ヴィクターの再従妹の夫、フランス人のベルトラン・ゴールドシュミット(★⑥)は、第二次世界大戦中にアメリカが原爆開発の極秘プロジェクト"マンハッタン計画"を進めた時、その開発リーダーとして活動した最重要人物で、後年IAEA(国際原子力機関)の議長をつとめて一般に知られる以上に、全世界の原子力産業・核兵器産業のなかではウラン・プルトニウムなど原材料部門のシンジケートの総支配人であった。(参照→『億万長者はハリウッドを殺す』P222-)
同じくマンハッタン計画の監督としてイギリスから駆けつけたロスチャイルド一族のチャールズ・ハンブロー(★⑨)は、ロンドン金融界の大物で、ハンブローズ銀行の会長となり、イングランド銀行を動かすバンカーであった。反ナチズムのユダヤ戦線がそこに強力な連合を形成していたのである。
バージェス、マクリーン(★④)、フィルビー、ブラント(★⑩)の"ケンブリッジ・サークル"が次々とP338イギリスから国外に脱出し、彼らと親友であったヴィクター・ロスチャイルドに二重スパイ"第五の男"としての疑惑が高まってくると、八○年代半ばにイギリス国家機密法のもとで公式に捜査がおこなわれ、下院で彼に対する査問が実施されるほど、重大な二重スパイ事件に発展してきた。
ヴィクターは、ケンブリッジでもMI5でもアンソニー・ブラントと行動を共にし、自らも左翼的な発言を隠すことが一切なかった。一方で、戦後のイギリス情報機関は、ヴィクターによって運営されてきたと言ってもよいほど、彼の功績は大きかった。
ここで"第五の男"が誰であったかを断定する必要はない。実際には、MI6幹部のジョン・ケアンクロスが正式な共産党員であったばかりか、MI5長官ロジャー・ホリスも、水爆の開発を命令したマクミラン首相でさえKGBの二重スパイだったと考えられ、きわめて多くの人間が、"第五の男"だったのである。
そして系図が示すように、彼らはグループでなく、ロシア人と血のつながるファミリーであった。今の系図36をもう一度よく見て見よう。
ロンドンでなくパリ・ロスチャイルド銀行を経営するロスチャイルド家の場合は、"ポーランドのピアニスト"アルトゥール・ルービンシュタイン---"ロシアのピアニスト"ヤッシャ・ハイフェッツ---"ロシアのチェリスト"グレゴリー(グレゴール)・ピアティゴルスキーのパトロンとして、ロスチャイルド家が音楽家のサロンとなっていた。
この三人はトリオを組んで世紀の演奏活動を続け、アメリカで"百万ドル・トリオ"と呼ばれたが、このピアティゴルスキー(★⑤)の妻がパリ・ロスチャイルド銀行頭取の娘、ジャクリーヌ・ロスチャイルドであった。ロスチャイルド家は、ロシア人と直接結婚し合っていたのである。
ピアティゴルスキーはボリショイ劇場の首席チェロ奏者だったが、ハイフェッツは帝政時代のペテルブルク音楽院が生んだ天才である。六歳にしてメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトを演奏して神童として知られ、一九一七年十月二十七日、わずか十六歳でニューヨークのカーネギー・ホールの舞台に立ち、世界的なデビューを飾ったが、この十日後にロシア革命が勃発して、アメリカ人として生涯を送ることになった。
ロシアに住むユダヤ人として苦難の道を乗り越えながら世に認められたハイフェッツだったが、イスラエルを訪れたときには、演奏した曲目にナチスの影があると非難され、鉄の棒で殴りかかられたこともあった。
「ハイフェッツにはただひとり、ライバルのバイオリニストがいる。それはヤッシャ・ハイフェッツだ」とまで言われた。筆者は少年期に、来日したその世界一のバイオリニストの演奏を日比谷公会堂で聞き、そのあとハイフェッツのサインを貰ったことがあったが、ロスチャイルド家はサインを貰う必要がなかった。その家に、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、コルトー、ルービンシュタインたちが集まっていたのだ。
ハイフェッツのピアノ伴奏者サミュエル・チョツィノフは、NBC放送の音楽部長となって活躍したが、チョツィノフの妻がポーリーヌ・ハイフェッツ。つまり彼らは義兄弟であった(★⑪)。そしてNBC放送の母体となったRCAの創業者デヴィッド・サーノフはやはりロシア移民であり、ここでは略すが、ケンブリッジ・サークルの図にいるロスチャイルド・ファミリーであった。
テレビ王サーノフがNBCの重役室で右腕としていたのが、ハイフェッツの義兄弟チョツィノフである。
この系図36「二重スパイのケンブリッジ・サークル」が示しているのは、核兵器産業の中枢と放送産業の中枢が、あるファミリーの系図によってクレムリンから西側社会へ、また西側社会からクレムリンへ、いずれも筒抜けになっていたということである。
彼らは二重スパイなどではなかった。アメリカでは、ローゼンバーグ夫妻が原爆の機密をロシアへ売ったスパイとして処刑された。イギリスでは、クローガー夫妻と名乗るコーエン夫妻がキューバ危機の前に逮捕され、モロディー大佐や無数の仲間の存在が知られたが、ソ連の核兵器開発は、本質的にはそのような個人的スパイ事件の次元で進められたのではなかった。
ロスチャイルド家とロマノフ家は、系図では無数の血縁関係によってつながるが、それは利権をあいだに置いた政略結婚や上流社会の交流から生まれた自然の副産物であって、真の愛情や友情をそこに認めることは難しいだろう。
ユダヤ人を迫害したロマノフ家を、ユダヤ王ロスチャイルドが愛することは、前世紀までの歴史のなかからは出てこなかったはずである。
それに対して、デミドフやストロガノフの軍需工業家は、ロスチャイルド財閥に近いロシア成金貴族であった。しかも彼らが切り拓いたウラル山脈一帯での核兵器開発の歴史は、次のようなものであった。
3.17 ウラルの原爆開発 P340-343
(略)(P362-)
3.22 インディアン虐殺史 P362-367
次に示す系図39は、すでに描いたアメリカ建国史(系図31(1、2))を、私たちの時代にまで延長したものである。
そして同時に、ジョージ・ワシントン初代大統領(★②)よりさらに百年以上も昔に遡って、アメリカ大陸に入り込んでインディアン虐殺に奔走した大きな集団を調査してみた。
この集団は、今日のインドネシアをはじめとする東南アジア諸国を植民地としたオランダ人から系譜をはじめるが、そこにイギリスから渡来した人間が結婚し合って、一大勢力を形成していった(★①)。
最初、アメリカ北部にやってきたそのオランダ人は、教理に因んで「ニュー・アムステルダム」という町を建設するが、やがてイギリス人と混血し合って、今度はその町がイギリスの教理に因んで「ニュー・ヨーク」と改名されるようになった。
そこに、シベリアかとアラスカの商人が入り込むようになると、アメリカは急激に膨張しはじめ、世界最大の金融都市ウォール街を生み出し、P363最後にとんでもない産物がぞろぞろと出てくるようになる。
このような四百年以上にわたる支配者の歴史には、どこにも切れ目がない。本書でこれまで述べてきた象徴的な人間を集大成した系図---系図をまとめた系図---がこれである。言わば現代モスクワ・マフィアのボスの特集になる。
時代は大きく四つに分けられ、インディアン虐殺時代---毛皮や捕鯨など商人の台頭---巨大財閥形成期---戦後のCIAと核兵器・国連軍需産業の活動期、である。本書で示した長い世代にかかる系図は、多くがこの系図から生まれた子どもたちである。
初期のオランダ移民が、系図の肩書に示されるように、代々にわたってインディアン大臣やインディアン討伐軍の首領をつとめた歴史はすさまじいものである。そのかたわら、彼らはニューアムステルダムを建設し、そこに捕鯨業者の人脈がからみ合ってロシア・アラスカシベリア貿易が展開していった。
その時、ニューヨークの土地を買い占めてウォール街をつくりはじめたのが、毛皮王ジョン・ジェイコブ・アスター(★③)であった。ウォルドーフ・アストリア・ホテルを建設したホテル王アスター一族が財を成した毛皮の商売は、シベリア・アラスカ開拓の歴史そのものだったが、この系図に見られるように、ロシアの大貴族オボレンスキー・ファミリー(★⑪)との結婚によって、彼らはやがてロマノフ家(★⑨)と同化してきたのである。
さらに、鉄道王ヴァンダービルト(★④)、全米トップの金融業者J・P・モルガン(★⑤)、石油王ロックフェラー(★⑥)、アメリカン・エクスプレス創業者リヴィングストン(★⑦)といった一群の近代財閥が一斉に咲き揃っていった。
しかしそのあとに彼らが生み出したものは何であったろう。この図に登場するロマノフ家、そしてその財宝をエルミタージュからそっくり買い取ったのは誰だったろう。先ほどはCIA長官ダレスの一家を、ロマノフ家との関係だけで系図35に示したが、実はダレス(★⑭)P366の周囲には、すべての軍需産業と工業家がそろっていた。
その系譜の流れは、国連にPKO(平和維持活動)と呼ばれる奇怪な軍事作戦を生み出したブライアン・アークハート(アーカート)にゆきつく(★⑮)。彼はソ連が崩壊した一九九一年、わが国で訳書が出版された『炎と砂の中で』(毎日新聞社)の著者であり、国連で"PKOの生みの親"と呼ばれてきた。
世界最大のマフィアがこの集団である。つまりここには、MI5のヴィクター・ロスチャイルド(★⑫)もいれば、MI6のスチュワート・メンジス(★⑬)もいる。
それでもこの図は、きわめて有名な財閥だけを選び出し、エリート集団として描いたものである。この系図が、本書に示してきたこれまでの系図のほとんどとの人間とつながり、それを一枚に描くと、本当の地球儀が、ロシアを中心に見えてくる。
ロマノフ家が革命後のエルミタージュ宮に置き去りにしてきた財宝は、アンドリュー・メロンの代理人ノードラー・ギャラリーが大量に買い取り、そのほかの逸品をアーマンド・ハマーが持ち去った。両人のうち、これまで説明しなかったアンドリュー・メロンが、この系図には登場してくる(★⑩)。
アンドリュー・メロンは、北部ペンシルバニア州の鉄鋼都市ピッツバーグに生まれ、石炭から鉄、アルミニウムまでを支配する大工業家だったが、今世紀初頭に甥のウィリアムがテキサスで当時世界最大の油田を掘り当て、目の前のメキシコ湾に因んでガルフ石油を創業してから、やがてインディアンの土地に続々と油田を掘り当ててゆき、一躍世界の七大石油メジャー"セブン・シスターズ"に数えられるまでになった。その金でロマノフ家の財宝は買い取られたのである。
アンドリュー・メロン自身は、ピッツバーグの「メロン・ナショナル銀行」の頭取として石油収益を動かし、やがてアメリカ合衆国の財務長官として三人の大統領に仕え、ホワイトハウスを動かす金庫番となった。その三人目の大統領が、シベリアの金鉱などロシアに広大な利権を持つフーヴァー大統領(★⑧)
P367 この関係は、一九五三年になって再び人脈として現われた。三月にスターリンが死亡してから五ヵ月後、アメリカは中東のイランに生まれた革命政権が気に入らなかったため、自ら放ったCIA工作員の手でイラン政府を転覆してしまい、その後は、国務長官ダレスの外交攻勢によって中東の大油田を獲得しようと動きはじめた。
勿論ダレス兄弟の履歴には、アングロ・イアラニアン石油(イギリス・イラン石油の意)の重役という記録があり、目的ははっきりしていた。そのときダレスがイランに派遣したのが、大統領と同姓同名の息子ハーバート・フーヴァーであった。
このフーヴァー二世の努力によってメロン財閥のガルフ石油がイランで手に入れた利権は全体の七%だったが、アメリカが中東に進出する礎石を築き、今日の湾岸戦争の発端をつくったという点で、利権獲得の意義はきわめて大きかった。このメロン財閥が、『ロマノフ家の黄金』を手に入れたのである。
こうした歴史の土台として踏みつけにされ、痛めつけられてきたのが誰であったかを、賢明な読者に説明する必要はないだろう。
3.23 『ロマノフ家の黄金』は再びロマノフ家の手に P367-371
最後の物語になる。アンドリュー・メロンは、かつてアメリカの銀行家としてロマノフ家の財宝を買い占めた。しかし、アンドリュー・メロンの代理人となったノードラー・ギャラリーは、そのオーナーが、ロマノフ家にきわめて近い一族の手で経営されていたという意外な事実が明らかになった。
系図40「ロマノフ家の黄金はどこに」をご覧いただきたい。ミコヤンが窓口となってスターリンが売り出したエルミタージュ宮の『ロマノフ家の黄金』を買ったのは、ロマノフ家だったのである。そしてロマノフ家がお抱えの帝政ロシアの美術館ファミリー---トレチアコフ、モロゾフ、ポートキン、P370シチューキン、レピョーシュキン---たちが、この系図の上部に描かれるように、ノードラー・ギャラリーの一族を取り巻いていた。
(P370)
そこには、トレチアコフ美術館、モロゾフ美術館、ロシア古代美術館、プーシキン美術館、工芸美術館があった。
独裁者スターリンやカガノヴィッチ・ファミリーは、この美術品を外国に売ってひと儲けしたつもりだったが、どこにも流れ出してはいなかったのだ。ボリシェヴィキは、悲しいかな、ロマノフ家の代理人をつとめただけであった。
ノードラー・ギャラリーのオーナーであったローランド・ノードラー(★④)は、一九三二年にこの世を去ったが、彼はアメリカではアメリカ人でありながら、この系図に見られるように、フランスの貴族ダーシー(だルシー)伯爵家・男爵家とたびたびの結婚をくり返してきた実質的なフランス人である。
その活動の本拠地はパリに置かれていた。そのダーシー伯爵家のピエール(★③)が、ロマノフ家の帝政ロシアにおいて、フランス人でありながら"ロシア金属教会"の会長として君臨し、デミドフ・ストロガノフたちがウラルの金属産業を母体にして、ノードラー・ギャラリーが生まれてきた。
この閨閥をつくったのは、系図に見られるようにまたしてもゴリツィン公爵家であった(★①)。こうして金銀ダイヤの採掘後に生まれる美術品の世界が、メロンの代理人になりすましたロシア貴族=ロマノフ家によって動かされていた。ロマノフ家(★②)は、その黄金を決して手放すことはなかったのである。
今そのロマノフ家は、アメリカの銀行家として、一九九〇年代に全世界の前に姿を現わし、双頭の鷲の羽根を大きく広げ、わが王冠の前にひれ伏せとばかりに甦ってきた。アメリカのノーザン・トラスト銀行のロマノフ家だからだ。
アメリカの銀行家ロマノフ家?とんでもない。ノードラー・ギャラリーの背後には、IMF(国際通貨基金)のカムドシュ専務理事がいたのである!
さきほどの、ダーシー男爵家の結婚相手を再び見ていただきたい。世界銀行とともに地球の金融を支配するIMFで、一九九三年現在の専務理事=「総裁」職の座にあるミシェル・カムドシュは、このノードラー・ギャラリーのダーシー男爵家の令嬢ブリジットと結婚して、その座を守ってきたのであった(★⑥)。
よく考えてみよう。ノードラー・ギャラリーが買い取ったロマノフ家の財宝は、アンドリュー・メロンの持ち物になり、そのうちノードラー・ギャラリーはアーマンド・ハマーの持ち物になった。一方、ロマノフ家の財宝は、ワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈された。
しかしナショナル・ギャラリーの理事長は、アンドリュー・メロンの息子ポール・メロンであったから、これは寄贈したというより、親から息子の手に渡っただけであり、メロン家の遺産相続上の脱税対策にすぎなかった。
寄贈後も、財宝の持ち主がメロンであることに、変わりはない。メロン家は、系図40で、女優のエリザベス・テーラーの近くに描かれているはずだ(★⑤)。
九三年に日本で公開され、ヒットしたケヴィン・コスナー、ホイットニー・ヒューストン主演の映画『ボディガード』の実在のモデルは、もとイスラエルの秘密工作員モシェ・アロンという男で、映画に描かれたのとはまるで違う陰気な人物だった。
身辺警護のためそのアロンを雇っていたのが、系図40のアーマンド・ハマーとエリザベス・テーラーであった。
『ロマノフ家の黄金』は、大ロシアが帝政から共産主義に変り、そして現代に再び共産主義から帝政に戻る時代の流れのなかで、まったく不変の"双頭の鷲のファミリー"によって厳重に管理されてきた・・・・巻末に、ロマノフ家の完全な家系図を飾って、モスクワ・マフィアの健闘を祈りたい。
(ロマノフ系の家系図)
(あとがき)