2019年3月10日日曜日

偏愛メモ『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(随時更新)

序章 独裁者を支えたアメリカのエリートたち P9-11
アメリカに中央情報機関が置かれ、世界の隅々にまでスパイのネットワークが張りめぐらされる以前、そのスパイたちの役割を肩代わりしていたのは、民間の石油企業や投資銀行、それに法律事務所などのエリートたちであった(tw)。

アメリカは真珠湾で日本軍による攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦するわずか半年前に、中央情報局(CIA)の原型にあたる情報調整局(COI)を設置したが、それまではスタンダード石油やブラウン・ブラザース・ハリマン商会、それにサリバン&クロムウェル法律事務所などの役員を務めるエリートたちが、国際政治の舞台裏で暗躍し、アメリカの対外政策に大きな影響を及ぼしてい

こうした財界のエリートたちは、政界、官界の上層部に広範な人脈を築き、アメリP10カ政府の政策に影響を与えるうるいくつものチャンネルを持っていた。彼らはこうしたチャンネルを通じて国務省やホワイトハウスに働きかけ、時に外交官に成り代わって秘密外交を展開した。そしてこうしたアメリカの支配者層、超エリート集団の中から合衆国の国務長官や大統領が生まれていったのである。(略)

これはそのようなエスタブリッシュメントの中で、第二次世界大戦期にナチス・ドイツと異常なまでに親密な関係を築いたあるエリート集団の物語である。アメリカには、共産主義の台頭に尋常ならざる危機感を抱き、この「赤」の脅威に対抗するために、ヨーロッパ大陸で生まれつつあったファシズムに共鳴する一群のエリートが存在した。

このエリート集団の存在は、アメリカ合衆国の対欧州政策に大きな影響を与え、ナチス・ドイツという強力なファシズム国家の誕生を可能にした。このファシズム国家はヨーロッパ大陸を戦争へと導くが、アメリカのエリート集団はこの戦争が終わると、今度はソ連という共産主義国家の脅威を煽り、冷戦という特殊な状況を作り出していった。

この冷戦時代にアメリカのエリートたちは、世界各地でさまざまな反ソ秘密活動を行い、そのたびP11に国際社会に大きな歪みと矛盾を生み出していった。本書はそんなアメリカの政治・経済・諜報のエリートたちを主役にした、アメリカ外交の裏面史である。

アメリカは第一次世界大戦後なぜドイツの復興を助けたのか?アメリカ企業はどのようにしてナチス・ドイツの再軍備に協力したのか?アメリカはなぜドイツとの戦争を望まなかったのか?イギリスはいかにしてアメリカを第二次世界大戦に引き込んだのか?大戦後、アメリカはなぜ再びドイツの復興を支援したのか?

アメリカのエリートたちはなぜナチスの科学者や元高官たちを自国に連れていったのか?アメリカはいかにして世界中で秘密工作を行い、冷戦を激化させたのか?アメリカはなぜ過激派や麻薬マフィアと手を結んだのか?イスラム過激派はなぜアメリカにテロを行うようになったのか?

これらの問いに対する答えは、国際政治の舞台裏で暗躍し、アメリカの対外政策に大きな影響を与えてきたエリートたちの思想と行動の中に隠されている。以下の各章が、そのエリートたちの知られざる歴史に光を当てる。

第一章 ドイツを軍事大国にしたアメリカ企業 P12-54
アドルフ・ヒトラーが政権の座に就いてからすでに三年半という歳月が過ぎた一九三六年十月十九日、当時駐独アメリカ大使を務めていたウィリアム・ドットからルーズベルト大統領に宛てて、一通の書簡が送られている。
「現在百社を超えるアメリカ企業がここに子会社を構え、ドイツと友好的な関係を築いています。デュポン社はドイツに三社の提携企業がありますが、この三社はいずれもドイツの兵器ビジネスに携わっています。

その筆頭はIGファルベン社で、このドイツ政府の一端を担う企業は、年間二十万マルクもの資金を、アメリカの世論を操作するためのプロパガンダ会社に注ぎ込んでいます・・・。スタンダード石油(ニューヨーク)は一九三三年十二月に二百万ドルをドイツに送金し、ドイツが戦争のために必P13要とするガス生産のために年間五十万ドルの支援をしています・・・。

インターナショナル・ハーベスター社の社長は私に彼らの売り上げが年間に三十三パーセントも上昇している、と語りましたが、私はそれが兵器生産によるものだと信じております・・・。ゼネラル・モーターズ社とフォード社はドイツ子会社を通じて莫大な事業を展開しています・・・。私がこれらの事実について触れているのは、これらのアメリカ企業が事を複雑にし、戦争の危険を増大させていると考えるからであります」
実際どっと大使のこの懸念は数年後に現実のものとなり、世界は大戦争の波に飲み込まれた。この第二次世界大戦に関しては、これまで膨大な量の論文や本が出版され、ドキュメンタリーや映画が製作されてきた。が、ドット大使がこの書簡で伝えたエッセンス、「アメリカ企業が戦争の危機を増大させている」という指摘は、十分に検証されることなく今日にいたっている。この戦争の責任はもっぱらヒトラーやナチス指導部にのみ帰せられ、「ドイツの兵器ビジネスに携わり」、「戦争の危険な増大」させたアメリカ企業の実態について、包括的な研究がなされることはなかった。

このドイツ大使の指摘が事実だとすると、ヒトラーの再軍備の背景には、歴史の表面には現れない何かもっと大きく複雑なからくりがあったにちがいない。アメリカは本当にヒトラーを支援したのだろうか。だとすると、なぜ、いかなる目的でドイツP14を支援し、ヒトラーの再軍備計画に関わっていったのだろうか。この知られざる米独関係の深層を見極めるために、われわれは一九二○年代まで歴史をさかのぼらなければならない。この時代にあの戦争の種がまかれていたからである。

第二次世界大戦にいたる欧米の歴史をひもといてみると、一つの素朴な疑問に突き当たる。第一次世界大戦で完膚無きまでに敗れ、破滅的な打撃を受けたはずのドイツが、なぜわずか数十年の間にヨーロッパを席巻するほどの軍事大国になりえたのか、という疑問である。

第一次世界大戦は人類史上未曽有の惨禍をもたらし、物的・人的資源の損害はすさまじいものであった。とりわけ敗戦国ドイツはの状況は惨憺たるもので、戦争による物理的損害に加え、ヴェルサイユ条約という「ドイツを二度と立ち上がれないようにするための」条約に調印することを余儀なくされ、その結果ドイツは、人口の十パーセントを失い、戦前の領地の十三・五パーセントとすべての植民地を取り上げられた。

また農耕地の十五パーセントと鉄鉱石の鉱床の実に七十五パーセントを失った。ドイツの銑鉄生産能力は戦前の四十四パーセント、鉄鋼生産に関しては、戦前の三十八パーセントのレベルにまで落ち込み、インフレは途方もないレベルに達した。当時ドイツ人たちは、たった一塊のパンを買うために、平価を切り下げられたマルク紙幣を一P15輪車にいっぱいつめて運んだという。

さらにドイツは、およそ三百三十億ドルという敗戦国としてはとうてい負担しえないほど巨額の賠償金を、フランスやイギリス等の戦勝国に支払うことを義務付けられたのである。このようなドイツが、いったいどのようにして経済復興を成し遂げ、再軍備を達成することができたのだろうか?(tw)

1.1 アメリカ主導のドイツ復興プロジェクト P15-20
第一次世界大戦により打撃を受けたドイツ経済の再生を、まるでわがことのように考える国が、ドイツの他にもう一国存在した。他ならぬアメリカ合衆国である。アメリカはもともとドイツに対して過酷な賠償負担を強いて、ヨーロッパの中心に位置するこの大国を弱体化させることに反対だった。ドイツが政治的・経済的に不安定になることで、世界の政治や経済の安定が脅かされることを懸念したためである。

第一次世界大戦中、アメリカはその資本、産業、余剰農作物の大部分をヨーロッパ大陸に輸出していた。ヨーロッパ市場は成長いちじるしい新興国家アメリカにとって大事なお客さんだった。しかし第一次世界大戦後にヨーロッパを襲ったインフレの波は、アメリカの輸出を脅かし、とりわけドイツの不況がヨーロッパ経済全体の足を引っ張P16り、間接的にアメリカ経済にも影響を及ぼすようになっていた。

当時アメリカ最大の銀行だったJ・P・モルガン商会の共同経営者トマス・ラモントは、
「アメリカはヨーロッパの復興に乗り出さなくてはならない。ヨーロッパはアメリカ最大のお客さんであり、アメリカ産の穀物、綿花、銅やその他の一次産品を購入してくれる最大の顧客なのだ。われわれが自国の産業と商業活動を回復させ、かつての繁栄を取り戻そうとするならば、ヨーロッパの復興のために力を注がなければならない」
と述べ、当時のアメリカ政財界エスタブリッシュメントの意見を代弁している。ヨーロッパは世界経済の中心であり、そのヨーロッパの中心がドイツであった。そこでアメリカのエリートたちは、ドイツ経済の安定を取り戻すことがアメリカの国益に見合うものと考えたのである。

また共産主義の脅威も、アメリカのドイツ政策に影響を与えた一因であった。ロシアを共産化したボルシェビズムの猛威は、第一世界大戦後社会的に荒廃したドイツに吹き荒れていた。共産主義のヨーロッパへの拡大を、アメリカの政財界のエリートたちが望まなかったのは言うまでもない。アメリカはヨーロッパを共産主義の脅威から救うためにも、ドイツを経済的・社会的困窮から救わなければならなかったのである。

つまりアメリカは理想主義的な考えからではなく、「自国の国益のため」にヨーロP17ッパ、とりわけドイツの安定を望んだのである。しかしそのドイツは、戦勝国から課された天文学的数字の賠償金に押しつぶされ、瀕死の状況に陥っていた。そこでこの賠償金問題をどう解決するかが、ヨーロッパ経済全体、ひいてはアメリカ経済にとって死活問題となっていたのである。

このドイツ賠償金問題の解決に乗り出したのは、アメリカの民間の銀行家たちだった。一九ニ四年はじめ、アメリカはドイツ復興のための会議開催を世界に呼びかけ、各国金融問題のエキスパートを集めた国際会議を開催した。シカゴの銀行家チャールズ・ドーズが議長を務めたことから、この会議は「ドーズ会議」と呼ばれるようになる。

ドーズは名高い銀行家であり、第一次世界大戦中は陸軍大将を務め、この国際会議が開催された当時はイギリス駐在のアメリカ大使であった。そしてこの会議を成功させてノーベル平和賞を受賞し、アメリカ合衆国の副大統領にまで昇りつめた多才の人である。

ドーズ会議のアメリカ代表は、ドーズの他は、ゼネラル・エレクトリック社の会長オーウェン・ヤングやロスアンゼルスの銀行家ヘンリー・ロビンソンなどアメリカ財界の大物ばかりであった。国家間の関係を決める重要な会議を、民間の銀行家がとりしきっている点が興味深い。

アメリカの国益を民間の銀行家が代表しているのである。ドーズは会議に出発する前、クーリッジ大統領に何か指示があるかP18どうかたずねたという。すると大統領はたった一言、「そうだなぁ、自分がアメリカ人であることを忘れないことだな」と語ったという。(略)

ドイツ経済は早い話、アメリカ金融資本を中心とする大国の管理下に置かれたのである。この状況は後に、ヒトラーに絶好の攻撃材料を与えることになる。ドイツにドーズ案を受け入れさせた決定的な要素は、一九二三年にフランスとベルギーに占領されていたドイツ最大の鉄・石炭の産地ルールを返還する約束が得られたP19ことと、ニューヨークとヨーロッパ各国で大規模な公債発行の見通しがついたことであった。

一九二四年四月、ドイツ政府はドーズ案の受け入れに合意し、同時にJ・P・モルガンが主幹事となって、ニューヨーク、ロンドンをはじめヨーロッパ各国の首都でドイツ債が発行された。総額一億一千万ドルのニューヨーク引き受け分は熱狂的に受け入れられ、申し込みは募集額を上回るほどであった。

ドーズ案は、ドイツ経済にある程度の安定をもたらし、翌年一月にドイツは関税自主権も取り戻した。外国の管理下に入り、巨額の賠償負担を抱えつつも、とりあえずは国際経済への復帰を果たした。だがこの安定を持続させ、賠償支払いも継続させ、さらにドイツ経済を回復させるには、さらなる資本の投下が必要であった。

クーリッジ大統領は、ドーズ会議の成功を称賛し、アメリカの投資家に対し、必要な融資に積極的に参加するよう呼びかけた。「この投資は、われわれの貿易と商業にとって有益だ。とりわけ、われわれの農業製品に広大なマーケットを提供してくれる」と大統領みずからドイツへの投資の必要性を説いて回った。

大統領が太鼓判を押したとあって、アメリカの銀行家たちはドイツ融資に夢中になり、空前のドイツ債ブームがやってきた。二〇年代のアメリカは、「ジャズエイジ」と呼ばれる好景気の中にあって、ひたすら新しい投資先を求めていた。元来勤勉な国P20民性のドイツは、そんなアメリカの投資家にとり絶好の投資先でだった。

こうしてドイツ中のあらゆる企業、自治体がアメリカの銀行のターゲットとなり、短期融資がわんさか流れ込んできたのである。

1.2 戦争の「種」をまいたウォール街の「仕掛人」たち P20-23
この二〇年代の対独投資ブームはでは、ごくごく少数のウォール街の投資銀行や法律事務所のエリートたちが、米独間の多岐にわたるビジネス関係をとりまとめ、莫大な利益をものにした。こうしたいわばウォール街の「仕掛人」たちが、ドイツ経済の復興を助け、ドイツ産業界を甦らせ、そしてヒトラーの再軍備に間接的に協力していったのである(tw)。

戦争の「種」をまいたともいえるこうしたウォール街の「仕掛人」の一人が、ジョン・フォスター・ダレスである。ダレスはウォール街の名門法律事務所サリバン&クロムウェルの共同経営者で、第一次世界大戦後のパリ講和会議にアメリカ代表団の法律顧問として参加したのがきっかけで、数多くのドイツ政財界のエリートたちと懇意になり、アメリカきってのドイツ通の一人になった。

ダレスはドーズ会議にも特別法P21律顧問として参加し、ドーズ案の作成にも深く関わった。ダレスは同じくサリバン&クロムウェルの共同経営者である実弟アレンと共に、欧州市場で金融取引を行うアメリカの銀行を法律面でサポートしたが、彼らが二〇年代にもっとも活動的だった分野が米独間の金融取引だった。

ジョン・フォスターは、一九二四年から三一年にかけて、実に十億ドルを超える対独金融取引をまとめたと記録されている。ジョン・フォスターとアレンは後にそれぞれアメリカ合衆国の国務長官とCIA長官に就任する。

またウォール街の投資銀行ディロン・リード商会は、会社ぐるみで対独投資に邁進した。同社は一九二○年代初頭からドイツ市場にに目をつけ、アメリカの銀行の中でもっともドイツ・ビジネスに積極的な銀行になった。

ドイツ政府の公債やドイツ大手企業の株を手がけ、一九二七年までに一億六千万ドルものドイツ債や株を商い、これによりディロンは有価証券発行業務に関しては、J・P・モルガン商会、ナショナル・シティ銀行についで全米ナンバー3の銀行にのしあがった。

この二〇年代から三〇年代初頭にディロン・リードの共同経営者として同社のドイツ・ビジネスに深く関わった経営陣の中には、ジェームズ・フォレスタル(のちの国防長官)、ウィリアム・ドレイパー(後のアメリカのドイツ占領軍政府経済長官)、そしてポール・ニッツェ(著名な外交官で安全保障問題の専門家)がいた。

P22 もう一つ、当時の米独ビジネス関係を語るのに欠かせない投資銀行が、ブラウン・ブラザース・ハリマン商会である。

同社は一九三一年にアメリカの投資銀行W・A・ハリマン商会と英米資本の投資会社ブラウン・ブラザース商会が合併してできた会社だが、W・A・ハリマン商会、ブラウン・ブラザースは共に二〇年代を通じて大規模にドイツ債を商い大儲けした銀行であった。W・A・ハリマンは一九二二年にアヴェレル・ハリマンとローランド・ハリマンによってニューヨークに設立された銀行で、このハリマン兄弟の父親は一九世紀のアメリカ鉄道王E・H・ハリマンである。

日本と南満州鉄道の共同経営を提案し、歴史の教科書にも登場するあのハリマンである。ローランド・ハリマンは当時ユニオン・パシフィック鉄道の会長、有力紙『ニューズウィーク』の発行人で、ロックフェラーと並ぶ米財界エスタブリッシュメントの一人であった。

この。W・A・ハリマン商会で活発にドイツ債を商ったのが、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の祖父プレスコット・ブッシュであった。プレスコットはローランド・ハリマンのエール大学時代の学友で、一九二六年五月にW・A・ハリマンの副社長として迎え入れられた。プレスコット・ブッシュはブラウン・ブラザース・ハリマン商会では執行役員になり、同社の経営に大きな影響力を持つようになった。

P23 こうしたウォール街の超エリートたちは、ドイツ・ビジネスを通じてドイツ政財界に広範な人脈を築き、こうしたネットワークを通じて得た膨大な知識と情報をもって、以降数十年間にわたり、アメリカ政府の対独政策に大きな影響力を与えていくのである。


1.3 アメリカン・マネーが可能にしたドイツの巨大企業連合 P23-25
ウォール街の「仕掛人」たちの働きによって莫大なアメリカン・マネーがドイツに流れ込んだ結果、ドイツ産業界はいっせいに企業合併に乗り出し、途方もなく巨大なトラストやカルテルが誕生していった。一九二六年三月、ドイツの四大鉄鋼会社が合併し、合同製鋼株式会社が誕生した。この巨大企業連合は、資本金が八億ドイツ・マルク、従業員は十七万三千人で、ドイツ国内の鉄鋼生産の四十パーセントから五十パーセントをコントロールし、世界的に見てもアメリカのUSスチールにつぐ世界第二位の鉄鋼会社になった。

この巨大企業連合の誕生を可能にしたのは、ウォール街の「仕掛人」たちで、合同製鋼の七千万ドルの社債発行を引き受けたのは、ディロン・リード商会だった。この金融取引を通じP24てディロン・リードは合同製鋼の取締役会に代表者を送り込み、このドイツ産業界の中核企業の経営に直接影響を及ぼすようになる。

一方、ドイツの化学業界でもすさまじい寡占化が進んだ。一九二五年十二月、ドイツの八大化学会社が合併してIGファルベン社が誕生した。これによりIGは、ドイツ化学工業全体の生産及び売上の三十パーセント以上、輸出及び投下資本の五十パーセント、そして就業者の実に三十パーセントを占めるマンモス企業となった。

従業員数は十万人に達し、世界の大企業の中でもアメリカのゼネラル・モーターズ社、USスチール社、スタンダード石油(ニュージャージー)社につぐ四番目、化学会社としては世界最大の企業にのしあがった。この企業の軍事上の重要性は、同社が火薬、ダイナマイト、毒ガス、そしてさまざまな化学兵器の原料を独占的に生産していた点にあった。

ナチス強制収容所のガス室で使用されたとされる毒ガス、ツィクロン-BはこのIGファルベンが開発したもので、アウシュヴィッツにあった同社の工場では、囚人たちが死ぬまでこき使われたことで有名である。このためIGファルベンは後に、「ヒトラーのもっとも重要な財産」の一つと言われるようになる。

このIGファルベンと親密な関係を築いたアメリカの銀行が、ナショナル・シティ銀行であった。ナショナル・シティはIGの三千万ドルの社債発行を引き受け、P25このドイツ最大の化学会社の誕生を可能にした。ナショナル・シティは世界最大の石油会社スタンダード石油を支配するロックフェラー家の銀行であり、こうした背景からロックフェラー・グループ、特にスタンダード石油(ニュージャージー)は後に、IGファルベンと全面的な提携関係に入り、ドイツの再軍備を側面支援することになる。

一九二○年代の対独投資ブームは、アメリカの銀行に莫大な富をもたらし、ドイツはカナダを除けばアメリカン・マネーの最大の受け入れ国になった。一九二五年から一九三〇年の間に、アメリカの民間銀行はドイツに対し三十億ドル近い資金を貸し付けたが、この金額は第二次世界大戦後のマーシャル・プランでドイツが受けとった額十三億ドルの、実に二倍を超える莫大な金額であった。

こうしてアメリカから資金を得たドイツの産業界は、前例のないほど強力な企業連合を生み出し、それが後にヒトラーの重要な財産となっていくのである。


1.4 ヒトラーを支援した大物財界人フリッツ・テュッセン P25-29
こうしてアメリカン・マネーによって誕生したドイツの巨大企業は、アドルフ・ヒP26トラーといかなる関係を結んだのだろうか?一九二○年代のはじめ、ヒトラーが政権を掌握するはるか以前から、この過激なドイツの政治家を財政的に支援していた大物財界人がいた。当時ドイツ工業界きっての金持ちの一人だったフリッツ・テュッセンである。

フリッツ・テュッセンは一九二六年に、父のアウグスト・テュッセンを継いテュッセン鉄鋼帝国の社長に就いていた。偶然にもこの年、ドイツ鉄鋼業界の大再編が起き、世界第二位の鉄鋼会社、合同製鋼が誕生していた。前述したようにこの合同製鋼は、アメリカの投資銀行ディロン・リード商会の力を借りて誕生し、ディロンの役員を取締役会に受け入れていた。テュッセン社の株がこの企業連合の主力を占めたため、フリッツ・テュッセンはこの合同製鋼の監査役の会長に選ばれ、以降一九三六年までその地位にいた。

このドイツ最大の鉄鋼会社合同製鋼のフリッツ・テュッセンが、あろうことかヒトラーの大ファンになり、ナチズム運動初期の最大のスポンサーになったのである。テュッセンのヒトラーへの共鳴は、彼の個人的な体験にもとづいた強烈な反共主義思想によるものだった。

一九一八年から一九一九年の一年間、ドイツでは共産主義革命運動が吹き荒れ、ドP27イツ国内はほとんど無政府状態に陥っていた。新聞や雑誌では、連日のようにボルシェビキによりロシアの上流階級が残酷に殺害されていく様子が報じられ、実際それと同様に恐ろしい事件が、ドイツ国内でも起きはじめてた(tw)。

一九一八年の十二月七日、ライフルと拳銃で武装した一群が、フリッツ・テュッセンの別荘に何の前触れもなくやってきた。彼らはフリッツと彼の七十六歳になる父親を逮捕し、列車でベルリンまで連行するためにやってきたのだ。他の四人の工業家と共に、テュッセン父子は三等車につめこまれ、ベルリンに移送された。

彼らは、過激な共産主義者として知られたベルリン警察の署長エミール・アイヒホルンの命令で逮捕されたのだった。この急進左派の警察署長は、当時多数の政敵や旧政治体制下の官僚を逮捕し、裁判を行わずに警察本部内で処刑したと噂されていた。

アイヒホルンはフリッツと他の工業家たちに対し、「貴様らは、反逆罪と反革命運動のかどで有罪だ。社会主義革命を妨害するために、「フランスの占領軍に介入を要請した人民の敵だ」と言い放った。彼らの中で一人としてフランスの占領軍と接触のあったものはいなかったため、フリッツたちは抗議し、その容疑を全否定した。

しかしこうした抗議もむなしく、彼らは全員それから四日間、死の恐怖と隣り合わせで刑務所に入れられた。

P280「この日々の記憶が、私をナチスへの援助という行動に駆りたてたのだろう。私はナチスこそ、ドイツという偉大な工業国が直面していた危機を、まったく新しいやり方で解決してくれると信じたのだ」と後に語るように、共産主義者の横暴に苦しめられたこの体験が、フリッツ・テュッセンを強硬な《反共の闘士》に変え、ヒトラーの支援へと駆りたてたのだった。

一九二三年十月、テュッセンは、はじめての政治献金をナチスに納めた。この年、社会秩序は大いに乱れ、まるでドイツで共産主義革命が起こったかの様相を呈していた。テュッセンは十万マルクをナチスと別の極右勢力に与えている。

また、一九二八年の秋、ヒトラーが新しい本部「褐色の館」を購入するための資金不足を嘆いていたとき、ヒトラーの右腕ルドルフ・ヘスが、テュッセンに援助を頼んでいる。ヘスの要求に応じてテュッセンは、オランダのロッテルダムにある貿易海運銀行を通じて、約百二十五万マルクを送金した。

この後、テュッセンとヒトラーの関係は以前にもまして親密になった。ヒトラーとヘスは、週末にテュッセンのラインラント城に招待されるようになり、テュッセンがミュンヘンを訪れるときにはいつでも、ヒトラーと昼食やディナーを共にするようになった。テュッセンがヘルマン・ゲーリングと親交を結んだのも、ちょうどこの時期P29であった。

テュッセンは頻繁にゲーリングのベルリンの自宅を訪問し、政治活動のためだけでなく、日常生活に必要な資金まで面倒をみたという。このようにしてテュッセンは、ナチス運動の初期の支援者となった。が、彼の寄付はそれでも、一九二九年まではきわめて限られたものであった。


1.5 ヒトラーの権力奪取とドイツの大企業 P29-35
一九二九年は、ナチスの財政状況に目覚ましい変化を与えた重要な年であった。この年、ドーズ会議では決められなかった、ドイツの賠償総額と支払い期限を決めるため、新たな国際金融会議が開催された。同会議の議長は、ドーズ会議でも中心的な役割を果たしたモルガン財閥の銀行家でゼネラル・エレクトリック社の会長オーウェン・ヤングであった。

会議ではヤング案が採択され、賠償金の年間支払い額は二十五億マルクから二十億五千万マルクへと、ドーズ案に比べてはるかに減額された。

また賠償問題から政治色を取り除くため、戦勝国による監督総代表とその事務所を解散することにし、そのかわりに新たに国際的な賠償銀行、国際決済銀行(BIS)が設立されることになった。これ以降、ドイツに対する賠償請求のこの業務はこの賠償銀行P30に委託し、資金を徴収したBISが債権国の中央銀行に支払うシステムに変更されることになった。

BISは三億ドルの「ヤング債」を発行し、そこで得た資金を債権国への支払いにあて、「ヤング公債」を買った民間投資家にはドイツの中央銀行が償還日を保証した。このような金融操作により、ドイツの賠償債務を民間人が自由に売買できる債券に変更して、賠償問題を政治と切り離すことを意図したのである。

しかしヤング案は、賠償金の支払いをさらに五十九年間、つまり一九八八年まで継続することを義務付けたため、とりわけドイツの愛国者たちを憤激させ、ヒトラーに絶好の攻撃材料を与えることになった。ヒトラーは「外国の資本主義者が今後二世代にわたってドイツ国家の生存を脅かす陰謀をくわだてている。彼らはドイツを『ヤング植民地』にするつもりだ」と騒ぎたて、「ヤング案とはドイツ国家の奴隷化を意味する」として、大々的な反ヤング案キャンペーンを展開したのである。

ヤング案はまた、フリッツ・テュッセンにも強烈なインパクトを与えた。テュッセンは、「私はドイツ経済の完全な崩壊を防ぐには、ヤング案と戦うことが不可欠であると確信するにいたった。私がナチスに傾倒していったのは、そう確信してからのことである」と書き残している。このヤング案によってテュッセンとヒトラーの関係はいっそう強まったのであった。

P31 この一九二九年は、二十世紀の金融史上でもっとも衝撃的な事件が起きた年でもあった。この年の十月、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、それが引き金となってわずか数か月の間に、世界は大不況の大波に飲み込まれていった。世界大恐慌である。欧米の先進諸国の中で、ドイツほどこの大恐慌で打撃を被った国は他になかった。

同国の工業生産高は実に半分にまで落ち込んだが、英米仏いずれの国でもこれほどまでに急激な落ち込みを見せたところはなかった。ドイツでは記録されている失業者の数だけでも、一九二九年九月の百三十二万人から一九三二年九月には五百十万人に急増した。そして失業者の数が増えるにしたがって、ヒトラーの支持率も急上昇していったのである。

一九三〇年九月に行われた国会選挙では、ナチスが十九パーセントの票を獲得し、一気にドイツで二番目の政党にのしあがった。大不況による低迷と社会的混乱の続く中、独裁政治の足音が刻一刻と迫ってきたのである。

天下取りが現実味を帯びてくる中で、ヒトラーはドイツ財界ととのパイプ作りを本格化させる。権力奪取を実現するには、テュッセンの支援だけではなく、もっと幅広く財界からのバックアップが必要であることを心得ていたからである。

一九三一年十二月、ヒトラーは経済顧問のヴィルヘルム・ケプラーに対し、「権力を握ったときに役に立つ財界大物たちの組織化に着手」するよう指示を出している。ケプラーは以前かP32らナチスの同調者として知られていたケルンの個人銀行、J・H・シュタイン銀行の共同経営者クルト・フォン・シュレーダー男爵の助けを借りて有力な財界人に呼びかけアルバート・フェーグラー(合同製鋼取締役会長)、エヴァルト・ヘッカー(イルゼデ製鉄監査役会長)、ルドルフ・ビンゲル(ジーメンス・シュッケルト取締役)、オットー・シュタインブリンク(シャルロッテ製鐵副社長)等の工業界の大物、銀行界からは重鎮のヒャルマー・シャハトやシュレーダーのほか、ヴィット・ヘーフト(コメルツ銀行監査役会長)、エミール・H・マイヤー(ドレスデン銀行信用組合局長)、さらに商業界や農業界からもビックネームを集め、ケプラー・クライス(サークル)を発足させた。

このケプラー・クライスを通じて、ヒトラーは財界、とりわけルール重工業首脳と恒久的なパイプを持つことに成功したのである。一九三二年七月に行われた国会総選挙で、ナチスは帝国議会の計六百八議席中二百三十議席を獲得する大勝利を収め、ドイツの立法機関の中でもっとも強力な政党となった。

この時点でそれまではナチスと距離を置いてきたIGファルベン社が、ヒトラーとのチャンネル作りに動き出している。IGのカール・ボッシュ取締役会長は十一月六日に予定されている国会総選挙を前にして、IGの人造石油プロジェクトの現場責任者をヒトラーのもとへ送っている。

IGはヒトラーが政権を握ったとしても、P33現政権に引き続き同社の人造石油プロジェクトを支援する考えがあるのかどうかを確認したかったのである。十一月始めに行われたヒトラーとIGの密使との会談の冒頭でヒトラーは、「あなたが自分の考えを述べる前に、すべての問題に関する私の立場を知っていただきたい。

今日、政治的な独立を保ちたいと願っているわが国にとって、石油なしの経済など想像することもできない。ドイツの動力燃料は、たとえ犠牲をともなったとしても現実のものにしなければならない。つまり、水素添加による石炭液化プロジェクトは、緊急に進める必要がある」と語り、IG社の人造石油事業に関する理解を示した。

当初予定されていた三十分の会談は二時間半に及び、ヒトラーの人造石油に関する知識は、IGの密使を驚かせるほどだったという。

ヒトラーがこの技術がいかに国家の戦略上重要であるかを十分に心得ていた。この会談でヒトラーは、ナチスが政権をとった際には、IGの人造石油プロジェクトを継続支援していくことを約束した。そしてこの会談の後、IGはナチスに約三万マルクの資金援助を行なっている。

続く一九三二年の十一月六日に行われた国会総選挙で、ナチスは恐慌以来続けてきた快進撃に土をつけ、初の敗北を喫した。ナチスはなお第一党を維持できたもののP34三十四議席を失い、代わりに共産党が躍進して十一議席増やした。特に首都ベルリンの選挙では共産党がナチスをはるかに上回り第一党になった。

危機感をつのらせたケプラー・クライスは、広く財界の重鎮たちに呼びかけて、ヒトラーを首相に任命するよう大統領に請願する署名運動を展開した。ケプラーやシュレーダーは計四十二名の有力な財界人に署名を求めたが、応じたのはその半数にも満たない二十名に過ぎず、この試みは失敗に終わった。

しかしケプラーやシュレーダーはあきらめずにヒトラーを政権の座に就けるための方策を練った。そんな中で十二月十六日に行われたシュレーダーとフォン・パーペン元首相の会談はとりわけ大きな意味を持っていた。

当時ヒンデンブルク大統領のもっとも有力なアドバイザーと言われたパーペンは、シュレーダーに対し「ヒトラーが首相になることを全面的に支持する」と語り、ヒトラーとの秘密会談を望んだのである。ただちにシュレーダーは財界重鎮、とりわけ重工業界の首脳たちに「ヒトラー・パーペン秘密会談」について根回しをし、財界首脳の意向を確かめたうえで、一九三三年一月四日、ケルンの自宅にヒトラーとパーペンを招いて秘密会談を実現した。

この会談でパーペンとヒトラーは今後お互いに協力しあっていくことで原則的に合意した。またシュレーダー男爵は、ナチスに莫大な資金援助を確約し、破産寸前にあったP35ナチスの党財政を立て直すことを申し出ている。

この後ヒンデンブルク大統領の、「ヒトラーを首相に任命する」との決断に、何が決定的な影響を与えたのかは定かではない。しかし、フリッツ・テュッセンやクルト・フォン・シュレーダー男爵、そして彼の背後に控えていたドイツ重工業界の首脳が、共産主義の脅威からドイツを救うためにヒトラー政権の誕生を望み、そのためにさまざまな画策を行っていたのは確かである。こうして1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が誕生した。

 →『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士P348-(参照)


1.6 ヒトラー政権とアメリカ財界の危険な関係 P35-38
P35 ヒトラー政権が誕生して半年以上が経過した一九三三年八月四日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、ヒトラー新首相がはじめてアメリカの企業家代表団をベルヒテスガーデンに招待した、というニュースを小さなべた記事で報じた。

ヒトラーに接見したこの代表団は、アメリカの大手通信会社、国際電話電信会社ITTの創設者ソスシーンズ・ベーン社長とそのドイツにおけるエージェント、ヘンリー・マンであった。ITTはすでに一九三〇年にスタンダード・エレクトリツィテーツ・ゲゼルシャフトSEG社P36とロレンツ社という二つの会社を買収してドイツ市場に参入していたが、新しいナチス政府に接近することでさらにビジネスを拡大させようとしていたのである。

ベーン社長はヒトラーの経済顧問ヴィルヘルム・ケプラーに、ITTのドイツ子会社の取締役候補としてふさわしい人物、つまりナチスと折り合いの良いドイツの財界人を紹介してくれるよう依頼し、ケプラーはすぐにケプラー・クライスの同僚シュレーダー男爵を推薦した。

こうしてシュレーダーはITTの子会社SEG社の取締役に就任し、ドイツにおけるITTの事業発展に貢献することになった。シュレーダーを通してITTを拡大した事業は、ほかならぬ兵器ビジネスだった。ITTはもともと通信という軍事的に重要な分野に関わっていたが、三〇年代後半にはさらにダイレクトに兵器ビジネスに参入をはじめた。

一九三八年、ITTのドイツ子会社の一つロレンツ社が、ドイツの軍用航空機メーカー、フォッケ・ヴルフ社の株式二十八パーセントを買収したのである。そして同社は一九三八年から一九三九年を通じて、ナチス・ドイツの陸・海・空軍と無数の契約を結び、航空機からレーダー装置や砲弾の導火線にいたるまで、さまざまな兵器や兵器の周辺機器を生産し、ドイツの再軍備に貢献したのである。

P37 このITTの例が示すように、アメリカ財界はヒトラーの政権掌握後も対独ビジネスに関する姿勢をほとんど変えていない。一九二二年から一九二五年まで駐独アメリカ大使を務めたアランソン・B・ホートンは、「赤の国よりは独裁国家を望む」とはっきり発言していたが、ドイツ財界が「共産主義の拡大を抑えるためにヒトラー政権を望んだ」ように、アメリカ財界も安定したドイツを求め、強力な指導者を歓迎したのである。

一九三二年五月、ヒトラーが首相に任命される八ヶ月も前に、ウォール街の仕掛人の一人アレン・ダレスが、「プロシア議会選挙の様子から察するに、ヒトラーの分子のプロシア政府や帝国政府への参加の問題が再燃するでしょう。個人的に私はヒトラーたちの政府への参加が実現することを望んでいます」という手紙を、兄ジョン・フォスター・ダレスにに書き送っていた。

また、ジョン・フォレスター・ダレスも当時『フォーリン・アフェアーズ』誌などへ盛んに寄稿し、「ヨーロッパにおける独裁者の台頭は、圧迫されているヨーロッパの新興国家が、国家的帝国主義諸国に対して、不均衡の是正を求めるうえで避けることのできない潮流なのだ」との見解を示し、ファシズムを擁護する発言を繰り返していた。

つまり当時のアメリカ財界のエスタブリッシュメントは、ヒトラーを危険視するどころかむしろ歓迎していたのである。

P38 彼らウォール街の「仕掛人」たちにとって、ナチズムや極右の潮流はなんら恐れるべきものではなかった。もちろん当時はヒトラーのユダヤ人弾圧などの実態が正確に伝わっていなかった事情もあったのかもしれない。否、知らされていたとしても、反ユダヤ主義が蔓延していた当時のアメリカのエリート社会では、それはとりたてて問題にすらならなかったのかもしれない。

彼らにとってナチズムより何倍も恐ろしかったのは共産主義であり、この「赤の脅威」に対抗するためには、強いドイツ、安定したドイツの存在が望ましかったのである。

実際アメリカ資本による対独投資は、ヒトラーが政権に就いて以降、不況にもかかわらず急増している。一九二九年から一九四○年までのアメリカの対独投資は、他のヨーロッパ諸国への投資が軒並み減少しているにもかかわらず、実に四十八・五パーセントも上昇した。ちなみに同時期のアメリカによる対英投資はわずかに二・六パーセント増えただけだった。

(ナチスのユダヤ人迫害について)
 →『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』P55-(参照)
 →『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士P348-(参照tw)
(WASPのユダヤ人嫌い)  →『モルガン家』P412-(参照)


1.7 ジョン・フォスター・ダレスの親独国際カルテル P38-43
1.8 IGファルベンと手を組んだロックフェラー・グループ P44-48
1.9 ヒトラーのチェコ侵攻を側面支援したスタンダード石油 P48-51
1.10 独裁国家を望んだアメリカ P52-54


 (略)

第五章 冷戦を「演出」した反響の闘士たち 175-184


P174 第二次世界大戦末期から、アメリカ政府内では、戦後の対独政策をめぐって激しい権力闘争が起きていた。戦前からアメリカ政財界エスタブリッシュメントの中には、「ドイツ経済の復興が資本主義世界の安定に重要だ」として、ドイツを政治的・経済的に支援してきた《親独派》のエリート集団が存在した。(中略)

一方、同じアメリカの支配層の中には、ヒトラー政権誕生後のドイツを危険視し、とりわけ大戦勃発以降は、ナチス・ドイツの徹底的な破壊を求める勢力も存在した。この《反ナチス派》勢力の頂点に立つのはルーズベルト大統領で、大統領はアメリカ参戦以前から、ナチスドイツと戦うイギリスに同情的で、「アメリカを戦争に引き込もう」と暗躍したチャーチルのスパイ「イントレピッド」にも、さまざまな支援を提供していた。

P175 この勢力はいわば「弱いドイツ」を求めたわけだが、大戦が終わりに近づくにつれて、戦後の対独政策をめぐり、「強いドイツ」を求める《親独派》と「弱いドイツ」を求める《反ナチス派》の対立が、ますます激しく、そして顕著になっていった。

前者の「強いドイツ」論は、1920年代から対独投資を行いドイツ財界と親密な関係を築いたアメリカ財界エリートたちの支援を受けて、主に国務省や陸軍省の対独政策に大きな影響を与えていた。(中略)「ソ連を封じ込めるために強いドイツを再構築する」という共通の認識があった。(中略)

P176 これに対抗する「弱いドイツ論」は、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア財務長官を中心とする財務省に広く浸透していた。(中略)P177 1944年末までに、ルーズベル政権内で影響力を高めていたのは、この「弱いドイツ」論を主張するモーゲンソー財務長官たちのグループだった。(中略)

P179 ところが1944年四月にルーズベルト大統領が急死すると、風向きが大きく変わり始め、(中略)モーゲンソーを中心とする《反ナチス派》が急速に力を失い、代わって陸軍省や国務省の《反共の闘士たち》が力を増してゆくのである。(中略)

P180 こうして《親独派》の経済エリートたちが、1945年夏までに政府に「引っ越し」てきて、政権内の支配的な地位に就いていた。このため、モーゲンソー派は急速に閑職に追いやられ、ポツダム会談の前夜には、遂にモーゲンソー自身も財務長官辞任を余儀なくされた。(中略)

P181 こうしてモーゲンソー派が作った「JCS1067」を葬る態勢が整った。このアメリカ対独政策の大転換という離れ業を成し遂げたのは、前述した元ディロンリード商会のウィリアム・ドレイパーだった。(略)

P183 マーチンはさらに続けて語る。「拡大する経済権力に直面する政府の無力さというテーマは、もちろん、新しいものではない。二つの世界大戦の間、世界経済におけるもっとも重要な出来事は、領土や市場がイギリス、ドイツ、アメリカの巨大企業の間の私的な協定によって分割されたことであった。この協定には小規模ながらフランス、イタリア、そして日本の企業も参加していた。こうした巨大勢力が世界情勢を決めていったのに対して、各国の政府はただ傍観しているのみだったのだ」

この言葉が明確に物語るように、マーチンは「ドイツ産業界の解体を食いとめ、強P184いドイツを復活させる」というアメリカ財界の強力な意志によって止められたのだった。「強いドイツ」を求めた反共派=《親独派》は、現場における実権を握り、モーゲンソーの作った「JCS1067」を事実上棚上げにした。紙に書かれた政策と、実際の履行とは別のものだったのである。

うして《親独派》は、ドイツ経済の解体を食いとめ、再びドイツの復興のために邁進していったのである。ちなみにドレイパー(前述相参1)はこの後一九四八年一月に、「ドイツの財閥解体を食いとめた」実績を買われて、今度は日本の財閥解体を有名無実化するために東京行きを命じられている。