2019年3月3日日曜日

偏愛メモ 第一次世界大戦が終わった頃(随時更新)

『日本近現代史入門』

第四章 満鉄を設立して大々的なアジア侵略に踏み出す P157-256
4.8 軍事費膨張と全国の労働争議 P195-202

P196 この空前の好景気のなかで、奢れる日本に対して、朝鮮で"三・一独立運動"が起こったのは、第一次世界大戦が終わった翌年であった。一九一九年三月一日、京城や平壌などで「朝鮮独立宣言」が発表され、日本の植民地に抵抗する激烈な民衆運動が朝鮮全土に拡大した。

それが激しければ激しいほど、日本の憲兵隊による弾圧の虐殺もまた激しかった。長州藩の支藩・岩国出身の朝鮮総督・長谷川好道のもとで、朝鮮人七五○○人が殺され、逮捕者が五万人近くに達したのである。

なぜこれほどの蛮行が、日本の一般民衆に見えなかったのか、不思議である。この年のパリ講和会議で六月二八日にヴェルサイユ条約が調印され、第一次世界大戦の戦後処理が決定されたが、この大戦を通じて日本はアメリカ・イギリスに次ぐ第三の強国として認められた驕りからだろうか。

そして終戦前に太平洋のミクロネシアの主要な島々を占領して、戦勝国の一員となった日本は、翌一九二〇年にマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などミクロネシアの統治を委任され、日本海軍の太平洋出撃拠点とすべく、事実上の植民地として確保した。

強国となれば、ますます軍備の充実を図らねばならない。そこから、国家予算の半分以上を軍事費に注ぐ狂気の時代に突入していったのだ。

『幣原喜重郎とその時代』

第七章 パリ講和会議 P198-225
7.1 一等国日本の最初の晴れ舞台 P198-200

P198 全権代表の西園寺公望、牧野伸顕以下、随員はのちに外務大臣となる人だけを拾っても、松岡洋右、有田八郎、重光葵、吉田茂などの錚々たる陣容であり、のちの総理大臣近衛文麿の名もあった。(略)日清、日露の戦争にやっと勝ったばかりの日本は、まだまだ世界の田舎者であって、外交の国際舞台で活躍する実力は備わっていなかった。(略)

事実、講和会議の一番大事な交渉では、同盟国英国の老練な外交の力を借りてやっと破局を避けたというのが実情であった。会議の概要は帰朝した西園寺が天皇に上奏した報告のとおりであるが、そのなかでP199西園寺は、三つの主要案件について、最善の努力は尽くしたが日本の希望をすべて貫徹するわけにはいかなかったのが遺憾だった、と述べている。

その三件とは、まず第一に、南洋諸島については単純明快に日本の領土とならずアメリカの強い主張により国際連盟の委任統治地域となったこと、第二に、人種差別撤廃の提案について英国植民地諸国の執拗な反対があって大勢いかんともし難かったこと、第三に、山東問題についてはシナの反対とアメリカ側の一部のシナに対する同情と相まって難航し、ようやく連合国の支持を得たが、シナ側は最後まで条約に調印しなかったことである、と述べている。(略)

7.2 アメリカ外交の建前と本音 P200-202

P200 南洋諸島の帰属については、結果としては、日本は思うとおりのものを手に入れている。問題はアメリカの主張する建前と本音をどう妥協させるかだけの問題だった。ウィルソン大統領は一九一八年一月、上下院両院合同会議における演説で、いわゆる十四ヶ条の綱領を提案した。これが、十九世紀末以来のアメリカの帝国主義外交に区切りをつけ、いまに至るまでウィルソン主義の名で知られているアメリカの理想主義外交の出発点である。

その第五項では、植民地処分に触れ、植民地処分は公平に行われるべきであるとしたうえで、同時に、植民地住民の利益をも尊重すべきことを提唱した。ついで二月の上下両院合同会議における演説で、ウィルソンは人民や国土は、物のように、あるいは将棋の駒のようにやりとりすべきものではないと述べ、

さらに七月四日の独立記念日の演説では、問題が主権であろうと、政治、経済問題であろうと、これを解決する基礎は民族自決によるべきであり、他国の国家民族が、P201自分の国威国勢を張るためにこれに容喙して実利実益を主張するのを許さないと述べて、こうした過程でアメリカの民族自決の原則は固まっていった。

それはたしかにアメリカの国民向けには格好のよい姿勢ではあった。しかしアメリカの参戦の前に、すでに日英間にアジア・太平洋の領土の戦後処理については密約があり、また旧トルコ領などの分割についても、ヨーロッパ諸国間で密約が成立していた。

委任統治制度というのは、こうした後進諸地域が、まだ民度が低く自立できない場合には自立できるまで国際連盟が面倒を見る建前をとり、ただし、その実際の施政はそれぞれの先進諸国が連盟の委任を受けて行うこととするという制度である。しかし、その実質においては、第二次世界大戦後これらの諸国が独立するまでは、それぞれの先進国の直轄の植民地となんら変わるところはなかった。

ここにもアメリカ政治のひとつの特徴がある。理想主義的な目標は掲げるが、それが現実とぶつかって実現不可能な場合はなんとか格好さえつけば、--もっと端的にいえば、議会と新聞の批判に対して何とか答えることさえできれば、それでよいというところがある。(略)

7.3 人種差別撤廃の提案 P202-205

P202 人種差別撤廃問題では、日本代表はつねにイニシアティブをとった。その背景には、日露戦争前後において、アメリカにおける移民問題も含めて執拗な黄禍論に悩まされた日本の経験があった。第一次世界大戦中の日本では、いまは白人国同士の戦いであるが、それが終わると今度は白人国が連合して黄色人種に向かってくるという危惧さえもたれていた。

P203 一九一八年(大正七)十二月、日本代表団の横浜出港の前日、代表団に手渡された訓令のなかの国際連盟に関する項目は次のようになっている。「国際間の人種偏見がいまだに除去されていない現状を顧みると、連盟の目的を達するための方法いかんによっては、日本のために事実上重大な不利を醸し出すおそれがないとはいえない。しかし、もし連盟ができてしまうのならば日本は連盟外に孤立するわけにはいかない。その場合は人種的偏見から生じるべき日本の不利を排除するために、事情の許すかぎり適当な保障の方法を論じるように務むべし」
(略)

P204 当時日本が最も苦しんだのは、アメリカにおける日本人移民への人種差別であったが、それ以前の問題として豪州、ニュージーランド、カナダ、南アフリカなどの豊かな未開発の土地からは日本人の移民は実質上締め出されていた。この問題に一石を投じるのが日本の代表団の意図であった。(略)

ただし日本の議論は、国際連盟に加盟するほどの責任ある国については人種平等であるべきだということであり、すべての人種平等を主張したわけではなかった。ちなみに、反対する英植民地の首相たちの当初の反応は「日本の主張は理解できるが、日本人だけに限らず、シナ人、インド人をも平等に扱わざるをえないのが問題だ」という態度であった。たしかに中国が連盟に加入してくるとなると、そういう問題も生じる。



7.4 激昂する日本の世論 P205-207


7.5 激動の中国大陸 P208-209
7.6 西原借款 P209-212

P211 何らかの効果があったとすれば、その間、段政権は日本とよく協力し、シベリア出兵の際の日華軍事協定などを受け容れていることぐらいであろう。

7.7 石井・ランシング協定の成立 P213-216


7.8 協定成立の背後 P216-219


7.9 再び同盟国英国に救われる P219-223


7.10 二十世紀の二つの新たな潮流 P223-225




『日中戦争はドイツが仕組んだ』(url)

第一章 中国に軍事顧問団を派遣したドイツ P17-52

P19 ドイツ軍の後始末を命ぜられたときゼークトは五十四歳、能力と序列からいって順当であり、陸軍省と参謀本部が廃止された今、ドイツ参謀本部の精神と機能を持った国軍をいかにして次の世代に引き継ぐか、それがゼークトの使命となった。(略)

一九一九年十月一日、ワイマール共和国が誕生し、文民が務める国防大臣が新設されると、ゼークトは国防大臣のもとに陸軍統帥部長官を設け、その下に四つの局を作った。陸軍統帥部長官には最高司令官の役目を持たせ、陰のドイツ軍総司令官とした。(略)

P21 革命が起こって連合国から離脱したロシアは、第一次世界大戦末期の一九一八年三月三日、ブレスト・リトフスク条約を結んでドイツと講和した。このためソ連は戦後のヴェルサイユ体制で中途半端な立場に置かれたが、重工業の建設が急がれるようになると、ドイツの機械工業に目をつけ、ドイツに協力を求めた。対してドイツは、ソ連を支援する代わり、禁止されている砲弾や化学兵器の製造をソ連国内で行い、ドイツ将校が飛行機や戦車の訓練をソ連国内で受けられるよう求めた。

お互い、拒む理由はなかった。秘密裡に交渉が進められ、一九二二年、ドイツとソ連の間でラパロ条約が結ばれた。翌年には秘密軍事協定が結ばれ、ドイツはソ連の重工業を支援し、将校もソ連の将校を教育する代わり、ソ連がドイツの砲弾を製造し、飛行機と戦車の訓練場を提供することに決まった。

こうして、ゼークトはヴェルサイユ講和条約によって課せられた様々な足かせを克服するのだが、ソ連とのこのやり取りはほかの国へと広がっていった。歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将はトルコに渡ってトルコ軍の訓練をした。ボリビアに渡ったハンス・フォン・クントは、ボリビア軍を訓練して、パラグアイとチャコ戦争を指揮するようになった。ゼークトがこういった使命に邁進している最中の一九二〇年三月、カップ一揆が起こり、ベルリンが占領された。

ドイツ軍が十万に縮小されたことに将校を中心に復員した義勇兵や海兵P22旅団の憤懣が爆発したのである。(略)カップ一揆は失敗し、(略)ゼークトは、陸軍統帥部長官に就任することとなった。一九二三年一月になると、ルール地方がフランスに占領され、ドイツ経済の混乱は拍車をかけた。エーベルト大統領が非常事態を宣言したため、ドイツの行政権は陸軍統帥部長官に就任していたゼークトに移った。すると復員軍人たちの反逆やヒトラーのミュンヘン一揆が起こった。

カップ一揆に中立の立場を取ったゼークトであったが、今度は鎮圧に動き、その対処によってワイマール共和国は崩壊をまぬがれる。(略)やがてゼークトは、名実兼ねそなえて大統領の座を狙うようになるが、エーベルト大統領が急死したため、思いもかけず大統領選挙が早まり、一九二五年四月の選挙でパウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領に当選する。ヒンデンブルクは第一次世界大戦中に参謀総長を務め、ゼークト以上の経歴と国民的人気を持っていた。(略)

こうしてゼークトは権力の中枢から去ることになるけれど、敗戦からの八年間、ドイツ参謀本部の精神と機能を持続させ、新しいドイツ軍を作り上げたのはゼークトだった。
(略)
P24 孫文は第二次、第三次と革命を起こすが失敗して次第に疎外されていく。大正五(一九一六)年六月、袁世凱はなくなるが、袁世凱の持っていた権力を手にしたのは、段祺瑞、馮国璋、曹錕、呉佩孚といった軍閥だった。孫文は南の広州で北京の様子を窺うしかなす術はなかった。

大正八(一九一九)年七月、ソ連の外務人民委員(外務大臣)代理のカラハンがやってきて孫文と会った。ソ連と中華民国がまだロシアと清であった時代、中国に不利な条約が取りかわされていたのだが、革命直後のソ連はこれらの条約の破棄を声明した。

大正十年に世界の革命を指導したマーリンがコミンテルンを代表して、また大正十一年には駐独大使を務めてドイツ革命を指導したヨッフェが中国にやってくる。そのころの孫文は、広州に国民政府を建てて大総統を名乗ったものの内部から反乱が起こり、大正十二年二月、再び広州に軍政府を作っていた。北京を目指す孫文にとってソ連はこの上ない味方となった。

さらなる支援をソ連から得るには共産主義者と手を組まなければならず、大正十三年一月、孫文は中国共産党員が国民党に入るのを認める。国民党と共産党の第一次合作がなると、世界で革命を指導してきたボロディンが孫文の政治顧問となり、中華民国の憲法や国民党綱領の草案作成にまでかかわりだす。六月、赤軍にならって黄埔軍官学校が広州に設立された。校長には蒋介石が就いたが、軍事教練はソ連の教官団が行い、顧問団長にはブリッヘル将軍が就任した。ソ連は国民党の中に入り、強い影響力を持つようになった。

もともと孫文の革命勢力を支援してきたのは日本である。孫文が中国革命同盟会の結盟式を行ったのは東京であり、それ以来、宮崎滔天や頭山満ら多くの民間人が支援の手を差しのべてきた。P25ところが日本が袁世凱政権に二十一か条の要求をすると、ソ連が援助の手を差しのべ、革命をなし遂げたソ連に対する畏敬もあって、孫文は日本よりソ連に頼るようになっていった。

中国では、清の時代から、省ごとに民政と軍政を扱う責任者が任命され、やがて軍政を握る者が民政も支配し、地方の独自性が高まっていった。袁世凱が亡くなると、各地で様々な軍閥が跋扈しはじめる。軍閥は税金を徴収し、税金で兵隊を養い、それが軍閥の地位を高めていった。袁世凱亡き後の北京政府は軍閥の合従連衡で、大正十年代は五十余りの軍閥が中国で跋扈していた。

軍閥には様々な外国人が顧問としてかかわっていた。袁世凱を支援したのはイギリスとアメリカで、アメリカは孫伝芳も応援した。ソ連は馮玉祥を応援し、日本は張作霖を支援した。大正十四(一九二五)年三月十二日、孫文が死ぬ。孫文が悲願としていた北伐のため、翌年二月、蒋介石が国民革命軍の総司令官に着いた。軍閥同様、軍政を握っている者こそ指導権を握る。(略)

大正十五年三月、蒋介石は広東で反共クーデターを起こし共産党と対決する姿勢を明らかにした。北伐を進めて南京を首都とした後、昭和二年四月には上海のゼネストを弾圧し、共産党を排除した。P26七月、国共合作は終わりとなり、六十名に及ぶソ連の顧問団は国民党から去っていった。(略)

P27 清朝末期、ドイツの軍人が招かれ、ドイツ式の訓練を行ったことがある。日清戦争で日本と戦った北洋艦隊の旗艦定遠や鎮遠はドイツ製で、旅順の要塞建設もドイツが関わっていた。こうしたことから孫文は、第一次世界大戦後、軍の近代化のため、ドイツの軍人を招こうとした。

蒋介石は大正二(一九一三)年六月にドイツに留学しようとして孫文に止められたことがある。昭和二年八月、国民革命軍総司令を辞任した蒋介石は、九月末になって日本に向かい、しばらく日本に止まって上海に戻ったが、日本に行った後はドイツで軍事学を学ぼうとした。ドイツから軍事顧問を受け入れることは蒋介石にとって自然な選択肢である。

そんな時、ぴったりの人間と蒋介石は会った。国民党の招きで広州にやってきたマックス・バウアー大佐である。マックス・バウアー大佐は、中国の産業界を視察するよう朱家驊から要請されて広州にやって来たところで、招いた朱家驊はドイツ留学の経験を持ち、帰国すると北京大学教授となり、五・四運動(相互参照)を指導していた。そのころは広東の中山大学の教授を務め、後に交通部長(部長は日本の大臣にあたる)や組織部長を務める。蒋介石に近く、国民政府内の代表的なドイツ派というべき人物である。(略、バウアーはカップ一揆の中心人物)

P28 退役したバウアーはソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで中国にやってきたところであった。(略)一九二八年秋、いったんドイツに戻ったマックスバウアーは、改めて三十人弱の将校とともに中華民国を訪れ、軍事顧問団を形成する。このとき、早速ドイツの新しい武器が中国にもたらされた。(略)

P30 やがて、中国共産党に対する蒋介石の戦いが始まり、昭和六年六月の第三次掃共戦で蒋介石が直接指揮を執ることになると、軍事顧問団も蒋介石とともに南昌に赴いた。顧問団は共産党との戦いにもかかわりだしたのである。昭和七(一九三二)年一月に第一次上海事変が起こり、軍事顧問団の訓練した第八十七師と第八十八師が参戦した。そのときの二つの師(日本の師団とほぼ同じ編制、一個師団は約一万人)の活躍から、ドイツ軍事顧問団はがぜん注目されるようになった。

その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城をはさんで中国軍との戦いになったとき、ヴェッツェル中将は中国軍の指揮を執った。第五次掃共戦が行われることになると、ヴェッツェル中将はトーチカ建設による包囲作戦を蒋介石に進言し、一九三三年十月十六日、これまでとは様相を一変した第五次掃共戦が始まる。(略)

ヴェッツェルが団長についたころ四十人ほどだった顧問団は、多いときには八十人近くにまで増えた。軍事顧問団は国民党内の軍閥や共産党だけでなく、日本軍との戦いにもかかわるようになった。P31まだ第五次掃共戦が検討されていた同年五月に、ヴェッツェル中将はフォン・ゼークト大将に手紙を書いた。(略)手紙を貰ったフォン・ゼークト大将は、とりあえず中国を訪れることにし、八月に帰国するまでの三か月間、北支の実地踏査を行い、蒋介石に対して意見書を提出した。

「ドイツ製の武器で武装した近代的軍隊の建設をすべき」「近代的な軍隊は権限を集中しなければならず、いったん(部下に)権限を委譲した場合すべての権限を与えなければならないが、中国の軍隊にはそれが欠けている」このように指摘した。また、このとき、「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策を取ること」ともすすめていた。