2019年8月26日月曜日

偏愛メモ 伊藤博文暗殺の黒幕はロシアかドイツか?、『激動の日本近現代史』

第四章 ルーズベルトが仕掛けた日米開戦 P162-220

4.1 伊藤博文暗殺の黒幕はロシアかドイツか? P186-193
(P186-)

P186 (渡辺)それはハリマンは(桂・ハリマン協定破棄に)そうとう怒るのですが、彼は死ぬ間際までその計画をあきらめないんですね。ところで伊藤博文がハルビンで安重根に暗殺されますが、じつはそれにハリマンが関わっているんです。

(宮崎)伊藤博文暗殺は、最近の研究では、ロシアの謀略説が濃厚ですね。

(渡辺)いえ、私はロシア説ではなく、推測も混じってますが黒幕はドイツではないかと思います。

(宮崎)あ、ドイツね。張作霖爆殺は日本軍ではなくロシアの諜報機関だったことは最近、加藤康夫さんらの研究で明らかになりました。張作霖爆殺は関東軍ではなくソ連の謀略だったにもかかわらず、なぜ日本関東軍の謀略だと歴史は片付けてきたのかという疑問に挑んだ福井義高教授の『日本人が知らない最先端の「世界史」2』(祥伝社)によりますと、ながらく河本大佐の仕業とされたし、河本自身が、そう証言してきた要素があります。

ところが、近年研究で、ソ連の謀略だったことが実証的に暴露され、特にユン・チアンの『マオ(毛沢東)』(講談社)は、ソ連時代の秘密文書を読みこなし、加藤康夫氏は英国のアーカイブに通って、秘密P187書類の束から、確定的な証拠書類を発見し『謎解き「張作霖爆発事件』(PHP新書)を書かれた。

ソ連の謀略の過程は繰り返しませんが、福井義高氏の次の指摘には思わず膝を打ったのですよ。
河本大佐がその計画や実行を『吹聴』していた背景には、ソ連の例と似た戦前の日本の状況があった。当時は今日と違い、大陸での謀略活動にプラスの価値が与えられていた。支援を受けながら関東軍の言いなりにならない張作霖を謀殺ることは、非難に値するどころか称賛されるべき『』だった」のですね。
ところでドイツの関与説とは?

(渡辺)少し複雑なので説明します。まずロシアが東清鉄道の売却を検討しているという情報が、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフからハリマンにもたらされます。東清鉄道のグレードアップ(複線化)および維持にはコストがかかりすぎるためで、これはハリマンが予測していたことでした。

ハリマンの狙いとしては当初の計画どおり、南満州鉄道の買収交渉を再開し、東清鉄道との連結運用を実現したい。そこでシフは親交が深い渋沢栄一にコンタクトを取ります。ロシアは東清鉄道を売りたがっている、ついては、われわれグループへの南満州鉄道売却を日本政府に前向きに検討親交えもらえないかと。

しかし渋沢の回答はネガティブなものでした。シフは高橋是清にも打診しましたP188が本件についてはあきらめるようにとの回答です。そこでハリマンは一計を案じます。ロシアは蔵相のウラジーミル・ココトォフまで売却に乗り気である。

したがって、ロシアと日本政府を直接交渉させる。日本政府との交渉はココツォフが当たる。日本のカウンターパートナーとしてはトップ級の人物を招く。日本側の考え方を変えさえるには渋沢や高橋以上に腕力のある政治家でなければならない---それが伊藤博文です。

(宮崎)考えてみれば足軽あがりの伊藤はイギリス渡航以来、ドイツにも研修に行ったり、実に外国経験の豊かな政治家でした。

(渡辺)交渉の材料は錦州-璦琿ルート新線計画をバーターすることでした。この新線は南満州鉄道の一六〇キロメートルを並行して走ることになります。鉄道計画を熟知していたハリマンやシフは、鉄道経営のもっとも打撃となるのは、競合会社による並行路線の建設であることを理解していました。

この錦州-璦琿ルートの撤回を条件にした南満州鉄道の買収あるいは経営参加を日本政府に求めようとしたのです。ストレイトはこの頃は民間人となってハリマンに仕えており、この新線計画をまず清朝との間で詰めるよう指示され、実際に交渉に入っていました。

その過程でハリマンは病気で亡くなってしまいますが、ロシア政府高官と日本政府のトップ交渉についてはそのまま継続していました。P189だから伊藤博文はハルビンに出かけて行ったのです。

もしハリマンの構想がうまくいくと、ハリマングループの統一マネージメントの下で、ロシア中央に東からくるロジスティクスルートができ上ります。それはウラジオでも旅順でもいいのですが、まさに第二次世界大戦のときにウラジオからロシアにアメリカの軍事支援物質が届けられたのと同様の状況になってしまう。

そうなるといちばん困るのはロシアとライバル関係にあるドイツです。

(宮崎)ドイツが金を出してエージェントを雇ってということですか?犯人はいまだに謎ですが、プラットフォームに伊藤博文がロシア代表といて、安重根は地下のコンコースから上がってきて、プラットフォームで狙撃しています。

じつは二回、私はハルビン駅の現場を見に行っております。今は新幹線が開通し新築されたので当時の面影はありません。プラットフォームの後方、駅舎の二階にフランス食堂があって、そこからも何者かが撃っている。解剖の結果、撃たれた弾道が上から下へとなっているものが伊藤博文の致命傷となっていることがわかりました。

安重根が撃った弾は伊藤から外れていて、隣の大使に当たっていたのです。ただその状況から考えると、あの場にいられたのはロシアの兵隊以外なかった。だからロシア説というのはずっとあるのです。

P190(渡辺)ただ、なぜその会議がハルビンで開かれたのかという状況を見ると、売却したかったのはロシアのほうです。当然、交渉そのものはロシアは潰したくなかったはずです。そうなるとロシアが伊藤博文を指名して呼んだ重大な会議に、殺すロジックが見当たりません。

わざわざ皇帝の右腕でもあったココツォフ蔵相まで出しているのです。たとえば、体制内に反対派がいたのかもしれませんが、そうだとしてもそのロジックがわからないんです。

(宮崎)つまり、革命派の先駆者がいたわけだ。ロシア革命の(笑)。

(渡辺)だいたい伊藤博文を殺してロシアが得をすることはないと思うんです。伊藤博文自身は大の新露家です。そう考えると反体制派よりも、売却が成功することにより、ロジスティクスルートが完成されては困る勢力---それがドイツではないのか、と。大胆な推測ですが、合理的ではないでしょうか?

(宮崎)まぁ、ドイツ系ロシア人とか、バルト三国に行ったら多いですからね。リトアニアなどはほとんどドイツ系です。

(渡辺)あの辺はドイツがずっと東へ開拓して行ったところですからね。

(宮崎)もう一人、重大要素があります。日本国内の政争、伊藤を政敵としていたグループがあります。それにしても韓国の歴史観が完全に狂っているのは、テロリストを英雄にしているのみならず、安重根が最初から最後まで仕組んだとううことになっている。これもおかしな話で、

安重根はあのとき、ウラジオストックに亡命していて、つまりロシアの監視下にあるわけです。伊藤博文の予定もロシアがそれとなく伝えていなければわかるはずがない。それではその軍資金はだれが出したとか、いわば情報の連絡はだれがしたのか、というところは全然わかっていない。 このような精度の高い情報を、安重根一人ではもちろん集められませんから。

(渡辺)だから、新露家の伊藤博文をロシアが殺すはずがないと思うのです。

(宮崎)そういう意味でいうと、逆に安重根が伊藤博文を殺める理由は山のようにあります。まず、伊藤博文が来て、日本が手をつけた李氏朝鮮の旧体制改革で最P192大の問題は両班をなくしたこと。その結果、李朝でいちばん威張っていた貴族たち、というより支配階級が一掃された。安重根は両班ですから、したがって、その恨みがものすごくあります。

これは余談ですが、安重根は書に優れていた。

(渡辺)それで思い出しましたが、世田谷に徳富蘆花公園があって、記念館に入っていったら安重根の揮毫の書が入口正面に飾ってあった。何で日本でこんな犯罪者のものを飾るのかとおもいましたね。

(宮崎)日本でも安重根ファンはけっこう多い。まず、看守がそうなんです。彼がたくさん書いた書を隠していて、それを五〇年から六〇年後に出した。今それをもとにソウルの安重根記念館に遺墨の石碑をたくさん建てています。まるで石碑公園のようになっている。あれ、毛沢東の詩林をまねたのかもしれません。

(渡辺)安重根の伊藤博文暗殺ドイツ説はこの対談で初めて披露しましたが、南満州鉄道がハリマンの構想の下で、東清鉄道、シベリア鉄道と一体運用され、かつシベリア鉄道の複線化が実現してしまえば輸送能力が格段に強化されます。ドイツの安全保障にとってこれは大きな脅威ですから、この推移は、少なくとも検討に値する仮設ではないかと勝手に自負しています。

(宮崎)そうかもしれませんね。

(渡辺)これは後日談ですが、ハリマンと伊藤の死後、アメリカ国務省はきわめて稚拙な行動をP193とっています。ハリマンとは対極にあるやり方と言っていい。何の根回しもないまま、清国と列強数ヵ国による南満州鉄道の共同管理---中立化案を提案しました(国務省のメディアへの発表は一九一〇年一月六日)。ハリマンのようにロシアの理解を得ることもなく、日本に交換条件を用意することもない、当時の世界常識からも外れた提案でした。

アメリカはイギリスが同調するだろうと甘い期待を持っていましたが、果たせません。イギリスは極東での日本との協力関係は崩さないというのが方針でした。中立化案はむろん、ロシアからも日本からも一蹴されてしまいます。タフトの進めたダラー外交の典型的な失敗例です。理不尽な中立化案は日本とロシアのアメリカへの不快感、そして警戒感を高めただけで終わりました。

両国は第二次日露協約(一九一〇年七月四日調印)を結ぶことにより、タフト政権の中立構想をはっきりと拒絶する。タフトの中立化案にはルーズベルト前大統領も憤っています。タフト外交はルーズベルト政権とは違う青臭い外交です。

『日米衝突の萌芽』1898-1918

8章 大戦前夜:ドイツ情報工作とタフト外交 P310-382

8.14 ドイツ外交の巻き返し その一 P364-368
(P364-)

P364 ハリマンと伊藤の死にドイツが安堵していたことは間違いありません。南満州鉄道がハリマンの構想の下で、東清鉄道、シベリア鉄道と一体運用され、かつシベリア鉄道の複線化が実現してしまえば輸送能力が格段に強化されます。そうなってしまってはドイツの安全保障上大きな脅威になるのです。万一ロシアとの間に紛争が起こった場合、ロシアの必要とする軍需物資は容易に極東から運び込まれることになってしまいます。二人の死でその可能性は消えたのです。

二人が亡くなった一九〇九年ドイツ外交にとって反転攻勢の年でした。事を構えることが確実な宿敵イギリスと日本の強固な関係に、風穴をあけるために米日関係を悪化させる。その狙いが実現できる可能性が大きく高まったのがこの年でした。この前年の「ルート・高平協定」の成立でその夢は絶たれたかに見えたものの、年が明けタフト外交が始まると、タフト政権は日本よりも支那を大事にする外交にシフトしました。

タフトが政権についた一九〇九年三月から、アメリカの動きが日本を刺激する方向に動き始めたことを、独駐ワシントン大使のヨハン・フォン・ベルンストルフは敏感に感じ取っていました。

「ベルンストルフは、ドイツとアメリカの友好関係の構築によりイギリスと対抗すべきという外交思想を信奉していた。ルーズベルトの後継者タフトはラテン・アメリカよりも東アジアを重視した。ベルンストルフは支那を巻き込んでの独米友好関係が構築できるチャンスが到来したと考えた」

「タフトの態度がドイツに友好的なものになってきていることは明白であり、政治的にも実に好ましいことである。このままでいけばアメリカと日本の対立は激化し、それはイギリスとの関係までも悪化P365させることになろう」

ベルンストルフの分析にヴィルヘルム二世も同調しています。「ドイツ、アメリカそして支那は今こそ立ちあがり、英露日三国の挑発的な協商関係を打破しなければならない」

一九〇九年にはドイツのこのような分析を後押しする出来事がアメリカ国内でも頻発していました。この年にはカリフォルニア州での反日本人運動が再び活性化しています。同州の農業従事者のうちで日本人移民の割合が四十一・九パーセントにまでなったのもこの年でした。

ホーマー・リーが日米開戦の不可避性を訴えた『無知の結城(邦訳『日米戦争』)』が出版され、「ウィリアム・ハースト系のメディアがこの主張に飛びつ」いて反日本人運動に都合よく利用したのもこの年です。

ドイツが小躍りするようなニュースが続いたのです。

アメリカの外交方針の変化のきっかけを作ったのが、愛娘アリスのお気に入りでもあったストレイトだったのは皮肉なことでした。ストレイトの考え方は明らかにドイツに知られていました。ドイツとしては、彼の日本を刺激する外交方針は大歓迎でした。

ドイツは支那に投資機会を探っているアメリカ金融グループに対しても融和的な態度を示しています。タフト政権の歓心を買おうとしたのです。アメリカ金融界を牛耳る投資会社にも、ドイツの態度を評価させるために日本嫌いのストレイトに花を持たせることにしたのです。

ハリマンと伊藤の死を受けて錦州-璦琿新線プロジェクトより、はるかにスケールの大きい、うまみのあるものでP366した。この支那南部の鉄道投資案件はすでにイギリス、フランス、ドイツの投資グループの間で、融資条件やその割合について折り合いがついていたプロジェクトでした。

タフト政権発足後、そこにアメリカの投資グループが強引に割り込んできたのです。そのグループの代表がストレイトでした。これまでのドイツがサモアやベネズエラで見せた外交姿勢であれば、アメリカの横暴に反発する可能性の高いものでした。しかしドイツはアメリカの要望を前向きに聞き入れます。

「(一九〇九年)七月五日から七日にロンドンで行われたアメリカ金融グループとの交渉結果が報告された。アメリカの要望である四分の一の参加は、『漢口-成都』鉄道の湖北部分のみならず、同鉄道の延長部分、四川省の省都、成都へも及んでいた」

これが、ストレイトがオーストリアに向かう前のロンドンで英仏独のグループと交渉した内容だったのです。遅れてやってきたアメリカのごり押しでした。ドイツの融和的態度に助けられて、この交渉が最終的にまとまったのは一九一一年五月二十日のことでした(湖口帝国政府鉄道・最終協定)。

セオドア・ルーズベルトは大統領職を去るとすぐさま念願のアフリカ・ツアーに旅立っていきました(一九〇九年四月二十一日から一九一○年三月十四日)。彼の耳に入ってくるタフトのアジア外交は我慢のならないものでした。あきれ返ったという表現が相応しいほどでした。

特に外交常識を無視した、満州を走る鉄道の中立化案に憤っています。ルーズベルトがあれほど気を遣った対日外交を台無しにしてしまうやり方は、とても許せるものではありませんでした。パナマ運河はいまだに完成していません。日本の海軍力には十分に配慮しなければならないことにはいささかも変化はないのです。

P367 ルーズベルトは、アフリカの旅を終えるとヨーロッパ各国からの招待を受けています。一民間人となったルーズベルトですが、アメリカ国内では絶大な人気を誇る前大統領を、各国が国賓待遇で迎えたのです。ドイツもルーズベルトを歓迎しています。英語を流暢にあやつるヴィルヘルム二世にとって、ルーズベルトを親ドイツに誘導するには絶好の機会でした。

ルーズベルトはベルリン大学で講演しています(一九一○年五月十二日)。そこでの彼のスピーチはヴィルヘルム二世を失望させるものでした。ルーズベルトは日本を褒め称えたのです

「世界のそこかしこで西洋文明の影響が現れている。その好例が日本である。過去半世紀に見せた日本の変化と成長は、歴史的に見ても驚異的な現象であるといえる。日本は、強烈なまでにその伝統に誇りを持つ一方で、旧弊から自らを解き放った。その結果、世界をリードする文化国家の一員に変貌を遂げたのである」

ドイツの煽る黄禍論への真っ向からの挑戦でした。ヴィルヘルム二世も、米日離反政策がいかに難しいかを改めて悟ったに違いありません。ドイツの新聞がこのスピーチを取り上げることはほとんどありませんでした。ルーズベルトはおそらくこのスピーチがドイツでは無視されることは承知していたでしょう。しかし彼はこれが本国に伝わることはわかっていたはずです。タフト政権に対しての不満の表明になることを期待していたのです。

ベルリンにはウィラード・ストレイトがルーズベルトを待っていました。ストレイトは暗礁に乗り上げた錦州-璦琿新線案件を進捗させるための最後の賭けに出ていました。アメリカの不躾な外交に態度を硬化させたロシアへの直接交渉に向かう旅の途次でした。五月五日にはベリリンに入っていたストレイトは、タフト外交への憤懣をルーズベルトにぶつけた後がいないのです。

サンクトペテルブルクP368では首相、蔵相、外相、陸軍大臣など主だった首脳すべてと会談しています(六月二十日から二十五日)。ストレイトは、ロシアが錦州-璦琿新線を認めることはまずないと諦め、交渉を打ち切っています。

(関連)
時代背景
→『赤い盾』2.4ジェームズ・ボンド『女王陛下の007』(url