4章 南北戦争 P96-132
下関事件と米艦船の威力 P96-101(P96)
P97 一八六三年六月二十四日(文久三年五月九日)、横浜で荷を積んだアメリカ商船「ペンブローク」号は瀬戸内海から下関海峡に向かっていました。長崎を経由して上海に向かうのです。潮目が変わるとまるで激しい川の流れのような潮流となるこの荒々しい海峡を前にして、「ペンブローク」号はこの日の下関海峡通過を諦め、その東側で夜を過ごすことにしています。翌朝朝、碇を下ろした無警戒の「ペンブローク」号に長州藩の帆走艦船、「庚申丸」と「癸亥丸」が突如砲撃を加えたのです。
陸上の砲台からも砲弾が飛来します。ペリー提督の一回目の浦賀入り(一八五三年)に危機感をつとめた安倍正弘は大船建造の禁を解いています。それを受けて各藩は大型船による海軍力の充実をはかっていました。長州藩も積極的に軍艦を購入しています。「庚申丸」も「癸亥丸」もそうした艦船の一部でした。庚申丸には同藩攘夷過激派の久坂玄瑞が乗り込んでいました。虚をつかれた「ペンブローク」号はほうほうの態で豊後水道方面へ逃れています。
心の将軍帝と世俗の将軍(大君)の二つの権威が並立する奇妙な日本の政体は、日本開国を仕掛けたアメリカや、それを注意深く見守るイギリスの研究で欧米列強の間では早くから理解されていました。香港貿易監督官であったジョン・デーヴィスはこのことをはっきり指摘しています。(略)
(P98)
P99 朝廷は上洛した家持に圧力をかけ、幕府に文久三年五月十日(一八六三年六月二十五日)をもって攘夷決行を約束させてしまっています。天皇の意向に沿った攘夷を率先して進めたのが長州藩でした。一八六三年六月の長州藩による「ペンブローク」号への攻撃はその攘夷行動の始まりを告げるものでした。横浜でこの知らせを受けた「同国の軍艦」は「ワイオミング」号、「亜国の船将」はデビッド・マクデューガルでした。
「ワイオミング」号は一八五九年に竣工した、スクリューを推進力とする千四百五十トンの新型蒸気戦艦です。遺米使節がワシントン海軍工廠で試射を視察したダールグレン砲や、大型の弾丸を六キロメートリ以上先まで飛ばすことのできるパロット砲を装備したアメリカ海軍の動く要塞でした。一八六一年四月十二日、南部連合によるサムター要塞(サウスカロライナ州チャールストン)砲撃で南北戦争が始まりました。その頃、サンフランシスコ周辺で任務についていた「ワイオミング」号はそのままカリフォルニアに留まり、郵船業務を担っているパシフィック・メール蒸気船会社の船舶防衛を命令されています。
この「ワイオミング」号に一八六二年六月十二日付で極東海域配備命令が届きます。南部連合がイギリスから密かに調達した新鋭船「アラバマ」号がアジアの海域でアメリカ商船を攻撃し、多大な損害が発生していたのです。「ワイオミング」号は急ぎ極東に向かい「アラバマ」号の捕獲を目指しましたが、ついに発見できませんでした。
(P100)
P100一八六三年五月には「ワイオミング」号は横浜に寄港しています。この港に居留する西洋人は「ワイオミング」号の掲げる星条旗を歓迎しています。(略)しかしまもなく幕府は、これに背く事件の発生で苦境に立たされます。(略)
下関でのアメリカ商船への砲撃に、ハリスの後任ロバート・ブルイン米公使は幕府に激しく抗議します。それでもまず事実確認を優先しようとする公使でしたが、「ワイオミング」艦長マクデューガルは迷うことなく報復を決断します。七月十三日に知らせを受けると、その二日後には下関周辺海域に到着しています。(略)
七月十六日朝十一時十五分から始まった交戦はおよそ一時間続きました。(略)海上から「ワイオミング」号を襲ったP101「壬戊丸」と「庚申丸」は撃沈され、「癸亥丸」は大破しています。
「一八六三年という年は南北戦争の帰趨を左右する重要な年であった。遠い島国に轟いた『ワイオミング』号の砲声は、ゲティスバーグで交わされた両軍の激しい戦いの記憶にかき消されてしまったようだ。セオドア・ルーズベルトは、この戦いが南北戦争の最中に起きていなかったなら、わが海軍の名声は世界に響き渡っていたに違いないと述べている。今ではわが国が日本と戦い、この国にお灸をすえた事実を覚えているアメリカ人はほとんどいない。しかし、日本人はこの事件を決して忘れることはないだろう」
七十一万人の内戦犠牲者 P101-104
(P102-)
P101 行方の杳として知れなかった「アラバマ」号がフランス北部の軍港シェルブールに修理に入っているのを発見したのは、合衆国海軍蒸気戦艦「キアサージ」号でした。一八六四年六月十四日のことでした。(略)
(P104-)
P105 奴隷解放宣言の真意 P105-109
アメリカの奴隷制度を巡る駆引きは常に妥協の連続でした。人道主義的な動機で奴隷解放を強く主張する人々の声は時代を追うごとに増えていきました。それでも政治的には奴隷制度を認める州(奴隷州)とそうでない州(自由州)の駆引きを通じて常に落としどころが探られてきました。
領土が拡大するたびに新領土がどちらの陣営に属するかがワシントン政界の重大事でした。奴隷州はプランテーション経営による農業を基盤とする経済、自由州はまだ幼稚なP106段階ながらも諸工業をベースとする経済でしたから、連邦政府のとる施策は必ずどちらかに有利なものになります。
新しい領土がどちらの陣営につくかでワシントンでのパワーバランスがシフトします。連邦政府の政策が一方の勢力に有利にならないように、自由州と奴隷州がワシントンに送りだす議員数は均衡するように工夫されていました。
こうした状況の中で、新領土での制度決定を、将来そこに移り住む州民の意思に任せようと主張する者が出てきても不思議ではありません。一八四七年に「住民主権(Popular Sovereignty)」とでも訳せそうな考え方を提示したのは、ミシガン州上院議員ルイス・カスでした。
後にブキャナン政権の国務長官として、日本からの"プリンス"をホワイトハウスに迎えた人物です。メキシコから奪い取ることが確実な新領土における奴隷制度をどう扱うかが喫緊の課題になっていた時期でした。
数々の妥協を続けてきた奴隷制度と新領土をめぐる両陣営の対立が臨界点に達したのはネブラスカ・テリトリーをめぐる議論でした。この地域は一ハ二〇年に妥協を見た奴隷制度容認の境界線となる北緯三十六度三十分(ミズーリ協定)の北を含んでいました。
自由州と決まったこの地に住民主権の考え方を導入しようとしたのが、イリノイ州選出の民主党上院議員スティーブン・ダグラスでした。
南部諸州はこの考えを支持します。ダグラスは本音のところではこの地域は奴隷制をベースにしたプランテーション農業には適さないと確信していました。ですから住民の意思に任せても必ず自由州になると見ていました。
したがって、一見南部に譲歩したように見える彼の主張を、反奴隷制を主張する北部諸州の人々も理解するはずだと考えたのです。ピアス大統領を説得し、一ハ五四年五月三十日にこの法案はカンザス・ネブラスカ法案として議会を通過しています。
ところが彼の思惑は外れてしまいます。法案通過までの激しい議論の過程で、北部諸州の民主党支P107持者の中にこの法案に強く反対する声が広がるのです。ダグラスの高等戦術は、法案が奴隷制度の拡大につながると憤る人々には理解できませんでした。
この法案の成立を契機に全国政党であった民主党は南部諸州の支持に偏った地域政党へと後退していきました。ダグラスが一般聴衆に向けて行った数々の演説会で決まって反対の論陣を張ったのが共和党のアブラハム・リンカーンでした。
彼はイリノイ州スプリングフィールドに事務所を持ち、鉄道資本家のクライアントを中心に法務を見ていた弁護士です。法案は成立してしまったものの、その論争の過程で演説の天才と言われた同州選出の人気政治家ダグラスに堂々と渡り合ったリンカーン。
二人の論争は多くの新聞に掲載されましたから、リンカーンの名は反奴隷制のシンボルとして全国に広がったのです。
その後党勢を増した共和党(一ハ五四年結党)が彼を一ハ六○年の大統領候補に選出したのは、この年の五月のことでした。これがホワイトハウスで将軍の使節を迎えていた民主党ブキャナン大統領の頭痛の種だったのです。
反奴隷制のシンボルであるかのようなリンカーンも、そして所属する共和党も現実の政治の中では決して急激な奴隷制度の廃止を主張してはいませんでした。また白人も黒人が平等であるなどととは決して思ってはいませんでした。
「リンカーンは確かに自由や人権についての重要性を語ってはいたが、その考えの実現にあたっては決して性急なあるいは法を無視したやり方をとらないと有権者にはっきりと説明している。『現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない』としており、この問題を時間をかけて解決しようとしていた」
「リンカーンは一八五八年には次のようにも語っている。『これまで私は黒人(negroes)が投票権P108をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない』」
「奴隷解放の父」と言われるリンカーンですが、南北戦争以前の彼の言葉を知ると、そのイメージとはかなり違う彼の実像が浮かんできます。リンカーンは奴隷制度に反対の立場をとりながらも、白人優位であることを繰り返し明言しているのです。
もともとリンカーンの支持基盤である北部諸州において、奴隷制度の即時撤廃を標榜する過激派の数は二十万程度です。これはこの地域の成人人口のわずか二パーセントなのです。こうした勢力は、奴隷制度を即時撤廃させるような強い政治圧力には未だなっていないのです。
少なくとも短期的にはリンカーンの採る奴隷問題に関わる政策は穏健なものになるはずでした。それにもかかわらず、サウスカロライナ州は一八六〇年十一月、リンカーンが大統領選挙に勝利した時点で連邦からの脱退を決めています。
フロリダ、テキサス、ジョージアなどの南部(Deep South)六州が脱退を決めたのは一八六一年の一月から二月のことです。リンカーンが大統領として執務するのはこの年の三月からです。こうして南部の性急とも思われる連邦離脱の背景には、奴隷制問題とは違う何らかの思惑があったことを窺わせます。
南部連合の代表は既に開戦前から何度もリンカーン政権と和平交渉を試みています。ところがリンカーンは妥協の道をきっぱりと拒否しています。そして一八六二年九月二十二日には世に知られる奴隷解放宣言を発するのです。(略)
P109 連邦派(共和党)と州権派(民主党) P109-111
この戦争で北軍は三十六万の犠牲者を出したことはすでに述べました。奴隷解放のためだけに、これだけの人が命を捧げることができるでのでしょうか。北部に住む人々の黒人に対する意識は、リンカーンのそれとさほどの乖離はなかったのです。
大きな犠牲を払った南北戦争後にも、各地で引き続き激しい人種差別が続きます。差別は南で継続したのはよく知られていますが、北の諸州でもその実体は変わりません。P110イリノイ州スプリングフィールドと言えばアメリカ人のほとんどがリンカーンを連想する町です。
一八〇九年に彼が生まれたのはよく知られているようにケンタッキー州ホッジェンビルの山間部の小さな丸太小屋でしたが、彼が弁護士として修業を積み、さらに政治家として必要な弁舌の技を磨いたのはスプリングフィールドの町でした。
リンカーン博物館はこの町にあります。ですからスプリングフィールドは奴隷解放と同義語のようなものなのです。ところが奴隷解放宣言から四十六年も経た一九〇八年八月にこの町で、白人が黒人を襲う激しい暴動がありました。リンカーンが住んでいた家のわずか数ブロック先で発生した惨劇です。
「黒人男性が白人女性を強姦したという誤った容疑をかけられた事件が発端となり、黒人を襲う暴動が発生した。この暴動で七人が死亡し、何千人ものアフリカ系米国人がスプリングフィールドの町からの逃亡を余儀なくされた」
奴隷解放の象徴の町スプリングフィールド。そこで発生した数千人規模の黒人のエクソダス。北軍で死んでいった兵士三十六万人の血は、もしかしたら何か他の大事なもののために流されたのではないかという疑いを惹起させる事件です。
この問題を考えるヒントは、画家マネの描いたシェルブールの海の決闘が「フィラデルフィア」の美術館に所蔵されている事実にありそうです。海の南北戦争で北軍の勝利を決定づけたシェルブール沖の海戦(キアサージ号とアラバマ号の海戦)。その場面を描いたマネの名画がなぜこの街にあるのでしょうか。
十九世紀前半フィラデルフィアはアメリカ政治経済学の拠点でした。アメリカ学派と呼ばれるグループが活発に意見を交わしていました。アメリカの政治家あるいは政治経済学者の思想は旧宗主国英国にどう対峙するか、その立場によって大きく二分されています。
英国に匹敵する国力を持つ強い国P111家づくりを目指すべきと考えるグループと、英国の強い王権を嫌った祖先の伝統を重視し、緩い政治的集合体としてのアメリカを理想とするグループです。
前者は連邦派と呼ばれていて、その主張の中軸をなしたのは初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンでした。彼は連邦に中央集権的なパワーをもたせ、世界覇権を握る英国に対抗すべきだと考えていました。
ハミルトンの結成したフェデラリスト党(連邦党)の思想は、一八〇四年に彼が決闘に破れて世を去った後は、ホイッグ党に、そして同党解体後は共和党に受け継がれていきます。
一方、強い王権を嫌う伝統を重んじるグループは、連邦政府に権限を集中させることに根強い警戒感を持っていました。アメリカが、祖先が逃れてきた自由を圧殺する国イギリスと同じような強権的な国に変質するのを恐れています。
ですから合衆国は独立した州の自発的集合体であるという歴史的な経緯を重んじ、連邦の権限はできるだけ弱くし、州が多くの権限を保持し続けるべきだとの考えを持っています。この考え方は第三代大統領トマス・ジェファーソンらが主張し民主共和党が設立されています。
民主党はこの民主共和党の流れを汲んだ政党でした。フィラデルフィアの政治経済学者は強い連邦、強い合衆国を標榜する共和党の経済政策立案の理論的支柱となっていたのです。
P111 英米経済学戦争---自由貿易か保護貿易か P111-116
「戦後、植民地主義が終わり、グローバルな自由貿易が可能となったために、戦争の必要性が大きく低下した」P112これは二〇〇八年に発表されたある論文のまえがきの一節です。読者のほとんどが何の疑念も持たない当たり前の主張です。
自由貿易の理論的正当性つまり関税など斧政府干渉の少ない自由な交易が貿易国双方にとって遍く有利となることを主張したのは『経済学および課税の原理』(一八一七年)を書き上げたイギリスの政治経済学者デヴィッド・リカードでした。
リカードの議論は国際分業の優位性を数字で示したものですから強い説得力を持っていました。現代の大学の経済学部でも自由貿易の重要性は講義の一環として必ずレクチャーされています。今ではリカードの主張はさらに数学的に精緻化されたヘクシャー・オリーンの定理として説明されています。
リカードの比較優位の考え方は単純なモデルで理解することができます。(略)
P114 リカードの論文が発表された時期は、イギリスがまさに世界最高の工業力をつけた時期に当たります。リカードは自らの主張に自信を溢れさせていました。
「比較優位の理論を通じて、リカードはイギリスが世界の工場となって現れることを見越していたのだった。そして彼は議会を前に、『我が国は世界中でもっとも幸福な国であり、もし二つの大悪弊--国債と穀物法--を除くことができれば、想像を超えた力で繁栄のうちに進歩するであろう』と、ご機嫌で宣言したのだった」イギリスは自由貿易主義を声高に叫ぶ国に変身していきます。リカードが右記で述べたイギリスの悪弊の一つ、国内農業を保護する穀物法は一ハ四八年に廃止されました。国家が過度に貿易に関与することの象徴でもあった英東インド会社も徐々にその独占貿易権を剥奪されていきます。一八三三年には支那貿易に関わる独占貿易権が剥奪されています。自由貿易思想はイギリスの国是と化したのです。
アメリカ南部諸州の奴隷プランテーションをベースとした経済は、イギリスの標榜する自由貿易主義に基づく経済システムにリンクして確かな利潤を上げていました。(略)P115上の表にアメリカの綿花の生産量と輸出量を示してあります。綿花がキング・コットンと呼ばれた理由が一目瞭然でわかる数字です。
アメリカ南部諸州のプランテーションは、イギリスが世界の工場として君臨するために必要な原料を確実に供給する世界交易システムにがっちりと組み込まれていたのです。ですから、連邦政府がイギリスの標榜する自由貿易主義に基づかない保護貿易政策をとることに、南部諸州はきわめて警戒的でした。
イギリスから入ってくる製品に連邦政府が高関税をかければ、イギリスが報復関税をかけるのではないかとひどく恐れたのです。
南部諸州にとって幸いなことに、一八五〇年代は南部に理解のある民主党の大統領が続きました。一ハ五二年にフランクリン・ピアスが、一八五六年にはジェームズ・ブキャナンが選出されたのです。しかし一ハ六○年の選挙では民主党は敗れました。
リンカーン政権では連邦政府権限を強化し、強いアメリカを目指す政治経済学者グループが台頭しています。イギリスの経済学者の説く自由貿易主義は学問ではない、イギリス以外の国を農業や軽工業でしか立国できない後進国に封じ込める政治プロパガンダに過ぎないと主張するグループです。
P116 保護貿易主義者、カレイとリスト P116-118
(略)
P118 アメリカン・システムとは何か P118-119
(略)
P119 英仏介入の危機 P119-123
リンカーンは、大蛇がじわじわと獲物を締め上げ死に至らしめるように、南部諸州の港湾を海上封鎖していきます。「アナコンダ作戦」と呼ばれる戦略です。これではイギリスが必要とする原料が途絶えてしまいます。ですからイギリスが南部連合に同情したのは当然です。フランスも同じように南部連合に同情的でした。
フランスの知識人は、アダム・スミスやリカードの主張にまんまと乗っています。自由貿易主義を是と判断したのです。これは一八六○年に英仏通商条約(コブデン条約)として明確になっています。この合意によって両国間に存在する関税障壁を減らしていくことを確認しています。
つまりフランスはイギリスとともに南部連合を支持する自由貿易陣営に属していたのです。ですから「アラバマ」号はフランスのシェルブール港を利用し、イギリスは沈みゆく「アラバマ」号の士官を瞬く間に救出したのです。
リンカーン政権は、南部連合との物理的戦争だけでなく、南部連合を支援する英仏両国に南部連合を国家として承認させないこと、そしてこの戦いに両国を決して参戦させないための外交戦争をも戦っていました。外交経験のないリンカーンに代わって政権の外交を担っていたのは国務長官ウィリアム・スワードでした。
スワードはニューヨーク州知事、上院議員を歴任し、リンカーンをはるかに凌ぐ政治経歴を持ってP120いました。スワードは自ら大統領になることを目指していました。一八六〇年の共和党候補を決める第一回指名選挙では百七十三票を取り、リンカーンの百二票を大きく上回っての第一位でした。
しかし過半数を制するのに必要な二百九十三票を取れなかったために、最終的にリンカーンに破れたのでした。
この強力なライバルをリンカーンは政権内部に抱え込み、デリケートな戦時外交交渉を任せました。ライバルをチームに引き入れるリンカーンの手法は後代にも引き継がれています。オバマ大統領が最後までその職を争ったヒラリー・クリントンを国務長官に起用し、外交を任せたのはリンカーンの手法に倣ったものでした。
スワードはもともと奴隷制度には反対でしたが、国の分裂を何とか避けようと南部との妥協の道を探っていました。一八六一年初頭には上院の特別委員会(Committee Thirteen)でジェファーソン・デーヴィスらと交渉を続けています。
しかしその努力は実りませんでした。リンカーン政権が一ハ六一年三月に発足すると、国務長官に就任します。大統領の南部連合への妥協を許さない強硬姿勢が明確になると、スワードは英仏両国に南部連合を承認させないための外交交渉に邁進します。(略)
P123 一八六二年はアメリカ内政への干渉の動機が英仏でシンクロナイズした年でした。「一八六二年十一月の初めがアメリカ政府が(南北戦争期間中で)最も危機的な時期であった」この年の九月二十二日に出された奴隷解放宣言は、実はアメリカがひどく追い詰められていたことを示すものでした。
ヨーロッパの知識人の誰もが嫌悪する奴隷制度。その根絶を錦の御旗として合衆国(北軍)が高々と掲げることで、英仏両国の南部連合への肩入れが簡単にはできないように仕掛けた、リンカーンとスワード国務長官のしたたかな奇策でした。
「奴隷解放宣言は基本的には軍事戦略の一環に過ぎなかった」のです。この宣言がリンカーン政権に残された最後のカードだったと断言する歴史家もいるほどです。
懸命に外交工作を続けるリンカーン政権ですが、そこに思いがけない助っ人が現れます。ロシア艦隊がニューヨークとサンフランシスコに忽然と姿を現したのです。
P123 「神風」を吹かせたロシア艦隊 P123-127
(略)
P127 リンカーンの暗殺 P127-131
(略)
15章 白い艦隊 468-568
15.12 ルーズベルトの「皇室外交」--プリンセス・アリスの日本訪問 P515-518P515 一九〇五年七月八日、アリスを含めた総勢七十五人の使節を乗せた「マンチュリア」号はサンフランシスコを出港していきました。使節のリーダーはタフト陸軍長官でした。(略、使節団の構成)ルーズベルトはこの使節に三つの使命を課しています。
日本の政治家たちとの直接の会見により、ロシアとの交渉に向けた日本側の考え方を確認すること(fact finding)、日米友好親善(good will)、及び、アメリカの軍事力を日本側にちらつかせながら武力衝突の芽を摘むこと(sable rattling)の三点でした。
(略)
「プリンセス・アリス」の「皇室外交」が繰り広げられる中で、日米関係の将来を左右する重大な交渉がタフト陸軍長官と桂太郎首相との間で行われています。天皇接見のあった翌日、七月二十七日に、P516タフトは桂首相に、アメリカは日本が朝鮮において指導的立場をとることを容認する旨を伝えたのです。もちろんその見返りは、タフトが最も気にしていたフィリピンの安全保障でした。日本がフィリピンに野心のないことを確約させることが目的でした。
タフト長官がこの交渉のイニシアチブをとっていましたが、ルーズベルトはタフトの交渉を全面的にバックアップしています。「桂首相に、君が話したことを私が全面的に了承していることを伝えてほしい」と電信でタフトに指示しています。ルーズベルトには朝鮮に対して道義的な罪悪感はありませんでした。日本が朝鮮を管理する方が、アジアの安定とフィリピンの安全保障に繋がることを信じていたのです。
「彼(ルーズベルト)は常々、文明国と非文明国をはっきり区別していた。彼の考えが正しいとか誤っているとかの議論は別にして、朝鮮は自国を治める能力のない国であると彼は確信していたのだ」
タフトがフィリピンと朝鮮をバーターした協定(桂・タフト協定(相参1、相参2))は、アメリカでは公式には発表されませんでした。これが外交史家タイラー・デネットによって明らかにされるのは二十年後のことです。ルーズベルトはロシアや支那の植民地になるより、日本の植民地になった方がよほどいいと考えていました。
日露戦争後、朝鮮が日本によって工業化し発展することになれば、労働力は確実に不足します。アメリカに向かう日本人移民の波は朝鮮半島にその行き先を変えていくでしょう。そうなればカリフォルニアを目指す日本人移民の数は減少するはずなのです。カリフォルニア問題の解決にもつながるのです。
アリスは東京での日程を終えると京都を訪問し、マニラに旅立っています。アリスがさらに北京、ソウル(漢城)と周り、ふたたび日本に戻ったのは十月一日のことでした。十三日間にわたって改めて観光P518を楽しんでいます。
しかし二度目の旅では、二ヵ月前にはあれだけ溢れていた万歳の声はどこからも聞こえませんでした。
むしろ日本中にアンチ・アメリカ、アンチ・ルーズベルトの感情が満ちていたのです。「万歳の声はどこにもなかった。歓迎ムードはひとかけらもなくなり、(私たちへの)態度はひどく冷たいものに変わっていた。警護についていた私服警官は、どこの国から来たと問われたら、イギリスからだと答えるようにアドバイスするほどだった」
このムードの激変は九月五日に結ばれたポーツマス条約が原因でした。(略)あてにしていた賠償金もなく、日本国民にとっては屈辱的なものでした。そんな条約を結ばされたのは、ルーズベルト大統領が日本に冷たかったからだと疑ったのです。
→『日本近現代史』P130-(参照)
ポーツマス講和仲介・日本の戦争債を引き受けたユダヤ人 P518-521
ルーズベルトはロシア外交に悩まされてきました。悩みの種の一つはロシアのユダヤ人虐待問題でした。これによって大量のユダヤ人移民がアメリカに流れ込んでいたのです。ロシアの激しいユダヤ人弾圧の始まりは、アレクサンドル二世の暗殺(相互参照)に多くのユダヤ人が関与していたことからでした。皇帝は一八八一年三月十三日にテロリスト・グループ「人民の意志(Narodnaya Volya)」に爆弾を投げ込まれて死亡しています。
(略、ユダヤ人虐殺(pogrom)により移民が問題化)
P519 一八九三年7、グレシャム国務長官がはっきりとロシアに対してユダヤ人虐待の政策を改めるよう要請しています。おそらくこれが南北戦争以来、友好関係を保っていた両国の関係がギクシャクする始まりだったのかもしれません。
P528鉄道王ハリマンの夢
一九〇五年十月二十三日、アリスはパシフィック・メール蒸気船会社の「シベリア」号でサンフランシスコに戻りました。「シベリア」号は横浜出港から十日と十時間二十八分で太平洋を横断したのです。
これはそれまでの同型の僚船「コリア」号が持っていた太平洋横断の最速記録を三十七分短縮するものでした。「シベリア」号にはパシフィック・メール蒸気船会社の経営権を握るエドワード・ハリマンも乗船していました。
アリスの極東の旅のリーダーだったタフト長官は、九月五日に上海から一足早く帰国していました。しかし、「シベリア」号にはアリスの友人であるハリマンの娘メリーが家族とともに旅をしていましたから、アリスにとっては退屈とはほど遠い船旅でした。
ハリマンはユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道の経営権を持つ鉄道王でした。日本が握ることになる南満州鉄道への経営参画を目指し、アリスの旅と時期を同じくして日本や朝鮮をめぐっていたのです。
ハリマンには大きな夢がありました。北半球の交通インフラを自らの手でコントロールするというものです。アメリカの大陸横断鉄道と太平洋航路を握る船会社はすでに傘下に収めました。
ハリマンはニューヨークからロシアへ直行する航路を開設し、それをシベリア鉄道と有機的に結び、最終的に自らの保有する鉄道や海運網に接続させるとの構想を持っていました。
彼はロシアとの交渉はそれほど難しいとは考えていなかったはずです。
そもそもロシアの鉄道建設にはアメリカが早くから関わっていたのです。サンクトペテルブルクとモスクワ間を結ぶロシア初の鉄道の技術指導は、アメリカ人技術者ジョージ・ウィスラーとボルチモアの投資家が関与しています。
P529日露開戦と同時期に開通したシベリア鉄道は、ほぼすべてがアメリカの技術で作られたものでした。
レール用鉄鋼はカーネギー・スチールとメリーランド・スチールが、機関車はボールドウィン機関車製造が、客車はプレスド・スチール車両製造が、エアブレーキはウエスティング・ハウスが、橋梁はスパロウ・ポイント(メリーランド州)の各メーカーが供給していたのです。
労働力以外はすべてアメリカの製品と言っても過言ではありません。
イギリスはロシアと各地で利害を衝突させていましたから、シベリア鉄道建設にイギリスが参画することはありませんでした。そもそもアレクサンドル三世がシベリア鉄道建設の決断を下したのは、一八八五年に英領カナダの大利横断鉄道が太平洋岸バンクーバーまで開通したことが契機でした。
この路線の開通で、イギリスは極東までの距離を五週間半に縮めました。従来の東回りに比べて、十五日もの短縮を実現したのです。これによってイギリスは。有事になればロシアよりも早く極東への軍事展開が可能になったのです。
強い危機感を抱いた皇帝は一八八五年六月にトランスカスピアン鉄道の延長を命じています。
ロシアはそのファイナンスにフランスを利用したものの、現実にはアメリカのプロジェクトの体をなしていました。工作機械もメインテナンス部品もすべてアメリカ製でした。
ですから、将来にわたってアメリカはシベリア鉄道に関わり続けるパートナーだったのです。シベリア鉄道推進の実質的責任者はウィッテでした。彼は蔵相就任前に交通大臣を務めています。
一八九一年に、アレクサンドル三世の後継者だった皇太子時代のニコライ二世をシベリア鉄道建設委員会の長に推したのもウィッテでした。シベリア鉄道は実質的にロシアとアメリカの共同プロジェクトだったのです。
一八九一年の太平洋側ウラジオストクでの起工式にニコライが出席したのは、自らが責任者だったからでした。
P530その日程に合わせた日本訪問で暗殺未遂事件(大津事件)に遭遇し、殺されかけています。その日本との戦いに敗れることになったニコライは、支那貿易(太平洋貿易)のターミナルとなるはずだった旅順港をも失いました。
シベリア鉄道に深く関わったニコライとウィッテにとって、ポーツマス条約は痛恨の極みだったのです。
いずれにしても、シベリア鉄道はアメリカをパートナーとしたロシアの国家プロジェクトでした。ハリマンはこのシベリア鉄道が突貫工事の代物で、将来、複線化されなければならないこともわかっていました。
これからもアメリカとの関係は続くのです。ニコライ二世が、ハリマンに代表されるアメリカの資本が南満州鉄道の有機的結合に、アメリカ資本が入ることに難色を示すことは考えにくいのです。
将来必ず必要になってくるシベリア鉄道と南満州鉄道の有機的結合に、アメリカ資本が入っているほうが何かと都合がよさそうでした。そうなれば二つの鉄道を、彼の理想とする統一的マネージメントの下で運用することは、それほど難しいことではなかったはずなのです。
いがみ合う日露両国の間に中立の立場をとるアメリカからの資本参加が、対立の緩衝材になることは十分に予想されました。
ハリマンの南満州鉄道の経営参画の願いに対して日本政府が好意的に受け止めてくれるかどうかについてはハリマンも自信はありませんでした。しかし経営に参画できなければ二つの鉄道のリンクは切れたままになってしまいます。
それでは世界交通ネットワークはじつげんできません。なんとしても日本政府との交渉を成功させなければなりませんでした。もちろん交渉は簡単にはいかないだろうと覚悟していました。
しかしハリマンの心配は完全に杞憂に終わります。八月三十一日の夕刻に横浜に入った「シベリア」号に、日本銀行と三井の代表が待ちかねたように乗船し、ハリマンを迎えています。
P531案内された横浜グランドホテルには横浜正金銀行の頭取と副頭取、日本興業銀行の頭取、さらに井上馨伯爵の顔もありました。翌日からも連日レセプションが用意され、伏見宮、桂首相、岩崎久弥男爵、渋沢栄一男爵などの歓迎が続いています。
九月四日、グリスコム公使はアメリカ公使館に、日本政府要人や実業界のリーダーを招待して晩餐会を催しています。ハリマンはそこで自らの夢を語っています。
「貴国が今次の戦争において大躍進を遂げたことは素晴らしいことです。さらに未来の繁栄に向けて目を開いてください。(中略)ニューヨークから太平洋岸の港まで、さらにそこから日本までの総距離はおよそ一万マイルに及びます。
この間の鉄道と海運は実質的に一つのマネージメントの下に運用されています。無駄のない経営で、旅行者には快適な旅を、そして荷主には統一された管理によるサービスを実現しています。(中略)
私は日本とアメリカの実業界が、それぞれ追求する利益は同じであることを理解し、よりいっそう緊密な関係が構築できれば嬉しく思います」
ハリマンが、旅順、北京、天津、ソウル(漢城)、釜山、長崎などを回り、東京に戻ったのは十月八日でした。東京を留守にしている間、グリスコム公使の努力でハリマンの構想は日本側に十分すぎるほど伝わっていました。
南満州鉄道は明らかに路線の改修が必要で、戦費で資金の枯渇している折、アメリカ資本の導入には大きな魅力がありました。「この機会を逃してしまうようなことになれば、それrは日本にとっては実に愚かなことだ」と井上伯爵自身が語るまでになっていたのです。
十月十二日、ハリマンは南満州鉄道を日本との共同経営で実施する旨の覚書(桂・ハリマン協定)を交わしています。この覚書は正に満州市場のドアがオープンであることを示すものでもありました。
グリスコム公使は、ハリマンとのプロジェクトが成功すれば、日米の関係はより密接になり、新しく生まれるビジネス上の利益はロシアからの賠償金の何倍かの価値がある、という考えを伝えていました。
P532日本政府も実業界も、冷静にこのロジックを理解して同意したのです。
ハリマンがサンフランシスコに到着すると、サンフランシスコの日本領事館が桂首相からの至急のメッセージを伝えてきました。それは十二日に結んだ覚書を正式にすることは当面延期するというものでした。
もう少し調べたいことがあるというのです。ハリマンは日本での歓迎ぶりから、このメッセージをそれほど気にかけていなかったようです。
ハリマンはサンフランシスコに向かう「シベリア」号の船上で、旅に同行していたニューヨークの不動産王で銀行家でもある友人ロバート・ゴエレットとちょっとした賭けをし、旅路を急いでいました。
横浜-ニューヨーク間の最短記録を作れるかどうかが賭けの対象でした。そのためハリマンは、サンフランシスコで次のように語ると、一泊もせずに対岸のオークランドに待たせてあった特別列車にアリスらとともに乗り込みました。
大統領令嬢を乗せた新記録への挑戦は、最高の宣伝効果が期待できるのです。
「日本は今、自らの運命を切り開こうとしている。日本の指導者はみな知性的で国益をしっかりと考えている。清国はいま眼を開きつつある。過去六、七年にわたって建設された鉄道がこの国を目覚めさせたのだ。
朝鮮はいまだに問題がある。朝鮮の将来は日本からの援助(by the aid of Japan)にかかっている。私の個人的な考えだが、日本は東洋で支配的な力になっていくことはもはや疑う余地がない」
・カリフォルニアの馬鹿野郎●日露戦争、日本勝利の衝撃
(略、東部エリートたちからは日本人は北方ゲルマン人種に準じた人種であると認められたが、カリフォルニアでは労働問題から日本人は不当な扱いを受けた)P534
・カリフォルニアの馬鹿野郎●日本人学童隔離と黒人隔離
P536 サンフランシスコの日本人学童隔離事件は、ルーズベルト大統領にとっては由々しき問題でした。ポーツマス会議成功のために少々荒っぽく日本に圧力をかけました。そのことが日本の世論を悪化させました。
アリスからもそのことは聞いています。しかし日本政府のリーダー層はルーズベルトの考えをよく理解しているはずなのです。桂・タフト協定は懸案であったフィリピンの安全保障を約束するものでした。
北部支那・満州の市場がオープンであるべきことは日本も十分理解しています。日米関係は十分に安定したのです。
サンフランシスコの差別政策がこの関係を損なうことのないよう、大統領は急ぎ対応策をとっています。連邦政府からカリフォルニア州及びサンフランシスコ市にはっきりとした圧力をかけるのです。
ルーズベルトは、カリフォルニア州出身の商務労働長官ビクター・メトカーフを調査に向かわせています。同時にワシントンの議会に対して、日本人に市民権を与えることの是非の検討を要請しています。
メトカーフ長官からの報告書(The Metcalf Report 一九〇六年十二月十八日付)には、サンフランシスコでこれまで発生した十九件の日本人への傷害事件が報告されていました。同市教育委員会の政策は、アメリカ議会に日本人排斥法案を成立させようとする政治運動の一環だと結論づけています。
そうした事件はみながみな、日本人を挑発する性格を帯びていたこと、『船員ジャーナル』紙は、反日本人運動は日本人排斥を目標とした政治運動であることを明言しています。メトカーフ・レポートにより、日本人学童の隔離はこうした運動とリンクした事件だと報告されました。
P537一九〇七年一月十七日、ルーズベルト政権は、カリフォルニアの“馬鹿野郎”政治家の企んだ隔離政策を禁ずるよう求め、カリフォルニアで司法手続きをとっています。しかしルーズベルトの期待に反して、州裁判所は、すでに南部黒人の隔離政策の合意性をめぐって示されていた合衆国最高裁判所の判例を根拠にして、連邦政府の訴えそのものを受け付けませんでした。
人種隔離政策は、隔離された施設において白人と同様の便益を受けられる限り憲法に違反するものではない、との解釈でした。
カリフォルニアの日本人排斥を目指す者にとって、裁判所の判断は大いに勇気づけられるものでした。彼らをさらに喜ばせたのは、南部諸州の政治家が続々とカリフォルニアの応援に回ったことでした。
南北戦争の敗北で奴隷は解放されました。しかし黒人を白人から隔離する政策は南部諸州では綿々と続いているのです。カリフォルニアのアジア人種隔離政策は州固有の当然の権限なのです。その政策が連邦政府の圧力で変えられるようなことになれば、次のターゲットは南部諸州の黒人隔離政策になるのは火を見るより明らかでした。ミシシッピー州出身の議員は議会で次のように演説しています。
「私はカリフォルニア州の、人種を混ざり合わせないという方針を断固支持する(拍手)。この国は白人種で同質化した国民で形成されるべきだ、というカリフォルニアの考えに賛成だ(拍手)」下院移民・帰化問題委員会(the Committee on Immigrantion and Naturalization)委員長ジョン・バーネット議員(アラバマ州)は「我々はもう十分に人種問題に苦しんできたではないか」とカリフォルニアに同情的でした。
バーネット議員に次々と南部出身議員が同調していきました。オーガスタス・ベーコン上院議員(ジョージア州)、ベンジャミン・ティルマン上院議員(サウスカロライナ州)、オスカー・アンダーウッド下院議員(アラバマ州)、ジョージ・バーゲス下院議員(テキサス州)。
P538すべてルーズベルトに敵対する民主党の議員でした。
南部諸州がカリフォルニア州の日本人隔離政策支持に回ったことで、反日本人の政策はカリフォルニア州だけに特異な、ローカルな問題であるというルーズベルト政権の主張が崩れてしまいます。
日本政府への説明の根拠が失われるのです。南部諸州の民主党は、南北戦争敗北前の白人の利益を擁護する政策で政治力の復活を図ってきていました。「結束する南部(Solid South)」政策では黒人隔離は当たり前の方針でした。
黒人の諸権利を制限する。それを可能にする政策を推進し、白人世論の支持を受けてきた民主党にとって、差別の対象は違うとはいえ、カリフォルニア州が南部同様のアジア人隔離政策を推進することは願ってもないことでした。
南部民主党の、日本人隔離問題への参入でルーズベルト大統領は窮地に立たされます。一九〇四年の大統領選挙は南部諸州では惨敗でした。一九〇八年には大統領選挙が控えています。再選に野心のあるルーズベルト大統領にとって、南部諸州のこうした動きは不気味でした。
南部政治家の同情を追い風にしたカリフォルニア州に対して、ルーズベルト大統領は強権的な姿勢で臨むことが難しくなったのです。しかし、隔離問題を野放しにて日本との関係悪化を加速させるわけにはいきません。大統領が考えたのはsんフランシスコ市長と直接接触し、市の方針を変更させることでした。
サンフランシスコでは起訴されたシュミッツ市長が「私が起訴されたのは反日本人政策をとったことが原因である」と、単純な収賄事件を政治事件化することにやっきになっていました。「必要なら日本との戦争に私は命を投げ出す覚悟である」と主張する市長の叫びは、白人世論の同情を誘っています。
シュミッツ市長起訴の翌月はカリフォルニア州議会選挙が控えていました。市長とともに同市の組合運動をリードしてきたP・H・マッカーシー(後のサンフランシスコ市長。任期:一九一〇~一二年)も、
P539反日意識を利用した情緒的な演説を繰り返していました。
「ロッキー山脈の西の諸州(カリフォルニア、オレゴン、ワシントン)が団結すれば日本など、すぐにでも潰せる。(the States west of the Rockies could whip Japan at a moment notice)」
ルーズベルト大統領が、教育委員会幹部とシュミッツ市長をワシントンに招いたのは一九〇七年初頭のことでした。一週間の検討の末、二月、ワシントン行きを決視した市長は、あたかも英雄になったかのように旅立っていきました。
同行する市教育関係者はいずれも市長の側近でした。教育委員会委員長アーロン・アルトマンはエイブ・ルーフの義理の兄弟、市学校監督官のアルフレッド・ロンコヴィエリは音楽家組合の幹部でトロンボーン奏者でした。
汚職の嫌疑を受けた市長が側近を引き連れ大統領に招待されたかのようにワシントンに向かうさまは異様でした。『ニューヨーク・ワールド』紙(一九〇七年二月十四日付)は次のように論評しています。
「一介の市長と教育委員会関係者がホワイトハウスに呼び出され、大統領と国務長官から、アメリカ政府が日本に要求しようとする政策について承諾を求められる。それはあたかも独立国がアメリカ外交政策に物申すようなものである」ワシントンに向かうサンフランシスコ市長一行を援護する動きは各地で起こっています。カリフォルニア州議会は反日本人政策を次々に上程しています。大統領は ギレット知事に、ワシントンでの市長との交渉が終わるまでそうした政策を実行しないよう懇請せざるを得ないありさまでした。
ワシントン議会でも応援団が活動しています。海軍准将であったアラバマ州下院議員リッチモンド・ホブソン(民主党)が反日を煽っています。
「カリフォルニアの日本人は(単なる移民ではなく)兵士であると考えなくてはいけない。しっかり燃え上がる反日運動を鎮火させるために大統領が用意したプランは、日本政府にアメリカへの移民を自主規制させる、というものでした。ワシントンで、あたかも独立国カリフォルニア共和国の外交使節であるかのように振る舞ったシュミッツ市長は、この提案を了承します。サンフランシスコ市教育委員会が、日本人児童隔離政策の棚上げを決定したのは一九〇七年三月十七日のことでした。
P540編成された軍隊なのである」
・日本を威嚇する白い艦隊●仮想敵国日本
駐サンフランシスコ領事上野季三郎は、外務大臣林薫子爵に、同市の反日運動の成り行きを詳細に知らせていました。明治四十年(一九〇七年)三月十一日付公電(公信第五九号)には「州会ニ於ケル日本人問題其後ノ成り行きニ関スル件」、「大統領ノ電報ニヨリ州会カ排日法案討議ヲ止メタル件」との標題が付され、ルーズベルト大統領がカリフォルニア州議会に自制を求めたとの報告を行っています。
日本政府は、アメリカ国内で常軌を逸した反日運動が起き、対日戦争やむなしとの議論が燃え盛っていることを十分に認識し、その危険な火を大統領が懸命に抑えようと尽力していることを知っていました。
ですから、大統領の移民自主規制の要請に応じています。一九〇七年にはハワイからアメリカ本土への流転を規制し、一九〇八年には日本から米国本土への直接渡航も制限しています。
こうした一連の日米紳士協定により、日本人移民問題は一応の鎮静化を見せたのです。ルーズベルト大統領はカリフォルニアの反日運動を確かに忌々しく感じ、それが日米関係を損なうと危惧していました。
P541しかしその反面、日本がロシアとの戦いに勝利して以来、妙な自信をつけたことを見逃しませんでした。
その兆しは早くも一九〇六年一月に表面化しています。日本興業銀行総裁添田壽一がハリマン宛に、桂・ハリマン協定破棄を連絡してくるのです(一月十五日付)。その理由は、アメリカとの共同経営について清国の同意が得られないというものでした。
確かにポーツマス条約第六条の規定からすれば、アメリカの経営参画については清国の承認が条件です。理屈としては通っているのです。
しかし問題は、日本政府がアメリカの立場に配慮した態度を見せていたか否かでした。それによってアメリカの受ける印象は変化します。ところが、どうも日本政府、特に小村外務大臣がアメリカの排除を指向しているようなのです。
この年の春、日本の戦争債を引き受けたジェイコブ・シフが来日し、友人ハリマンの意向を受けて日本政府に善処を促しています。しかし日本政府がその決定を変えることはありませんでした。
アメリカの意向に抵抗の意思を見せ始めた日本に対して、ルーズベルトは、日本がアメリカのアキレス腱となったフィリピンに対して、いつの日にか横槍を入れてくるのではないかとの疑念を持つのです。
日本にはその前科がありました。一八九九年七月、日本を訪れていたアギナルドの使者に、中村弥六(林政学者、当時衆議院議員)、犬養毅らが武器手配の協力をしているのです。
アメリカにとって幸いだったのは、武器を搭載した「布引丸」が時化のため寧波沖で七月二十一日に沈没したことです。この「布引丸事件」は、日本とフィリピンの距離がいかに近いものであるか、そして日本の民族主義者たちの支援がアメリカのフィリピン統治をどれほど危うくするかを知らしめています。
日本政府自体はフィリピン問題には無関心を装っています。しかし日本のマニラ領事館とフィリピン民族派は明らかにコンタクトを持っています。
P542民族派の戦いが劣勢になると、リーダーたちが逃げ込んだ先は日本でした。
「一九〇四年、(タフトの後継となった)ルーク・ライト民政長官は関税調査官F・S・ケアンズを日本に送り、同国内で活動するフィリピン民族派の動向を調査させている」
日露戦争における日本の勝利は、アメリカに根強く抵抗する民族派を大いに勇気づけています。そうした心情の存在は、フィリピンで発行されていた新聞の記事からも確認することができます。
「仮に日米両国が戦うことになれば、日本は開戦後わずか四日で我が国に上陸が可能である。日本陸軍は時間をかけることなくフィリピンの占領を完成させるこちができるだろう。あの旅順港にいたロシア艦隊攻撃に見せた日本の輝かしいい戦果を、再びこの国で見ることができるかもしれない」(『エル・レナシミエント』紙。一九〇八年三月五日付)
フィリピンの安全保障を委ねられた民政長官や軍幹部にとって、その障害となるものは民族派の抵抗そのものではもはやありません。彼らを支えることのできる能力のある日本でした。
日本の対露戦の勝利の報を受けて、日本との連係を夢見て独立を諦めない民族派の動きは、ワシントンの政治家にも伝わっています。フィリピンで日本との本格的な紛争が起これば、アメリカがこの島を防御できないことは明らかでした。
フィリピンでの戦いはたちまちハワイへ、そしてアメリカ本土に飛び火することは想像に難くありませんでした。フィリピン民族派の過激分子は日米が戦うことを望んでいるのです。
日本政府中枢部はフィリピン問題についてはあくまでも無関心の立場を取り続けてはいます。しかし、この態度もカリフォルニアの日本人排斥運動が高まれば変わってしまう恐れは十分にあるのです。小村の冷たい態度はその前兆かもしれないのです。
P543『彼ら(カリフォルニア州の政治家)は対日戦争を引き起こす不安材料になっている。ただちにそうした事態になるとは思わないが、将来については不安である。日本人は誇り高く、感受性も強い。戦争を恐れない性格で、(日露戦争の)勝利の栄光に酔っている。一九〇七年十二月十六日月曜日、早朝からノーフォーク港沖のハンプトンロード水道上空を雲が覆っていました。しかし雲間からはときおり陽が射し込み、週末からぐずついていた天候も回復の兆しを見せています。
彼らは太平洋のパワーゲームに参加しようとしている。日本の危険性は我々が感じている以上に高いのかも知れない。だからこそ私はずっと海軍増強を訴えてきたのだ。(中略)
仮に戦争となり、我々の艦隊が旅順港のロシア艦隊のような運命を辿ることになれば、日本は簡単に二十五万人規模の兵力を太平洋岸に上陸させることができる。そうなれば、それを駆逐するのに数年の歳月がかかり、それに加えて、とんでもないコストがかかるだろう。
日本人(THe Japaneas)はロシアに勝ってから自惚れている(very cocky)。しかしこちらが大艦隊を持ってさえいれば、奴らだってそう簡単には手出しはできない』(ユージン・ヘイル上院議員に宛てた、一九〇六年十月二十七日付のルーズベルト私信)
この港町では海岸を会場にして四月二十六日からジェームスタウン万国博が開催されていましたが、十二月一日に終了したばかりでした。ルーズベルト大統領は、大統領専用ヨット「メイフラワー」号でこの港に現れました。この日行われる大西洋艦隊の観艦式出席のためでした。
この日、大西洋艦隊がここから世界一周の親善航海に出発していくのです。友好親善の航海の旅と称し、世界各国の港を訪問することになっていました。しかし、本当の目的地はフィリピンのマニラと横浜でした。
この隠されたミッションの成功を祈念しようと、大統領自ら壮行のセレモニーに臨んだのです。五十五年前、一八五二年十一月二十四日、ペリー提督はタールで真黒に塗られた蒸気船「ミシシッピー」号ただ一隻で、日本開国の使命を帯び、この港を東に旅立って行きました。
P544しかし今回、同じ港から日本に派遣される艦隊は十六隻、そのすべてが米海軍の主力戦艦で、船体は見事なほどまぶしい純白に塗装されていました。その白い船体ゆえに「偉大なる白い艦隊(the Great White Fleet)」と称される大艦隊です。
(略、船の名と仕様、セレモニーの様子など)
P546
日本を威嚇する白い艦隊●国際親善という名の演習
P548
(略、演習とマニラ入港までの航海の様子)
日本を威嚇する白い艦隊●ガラス細工の対日外交
P549危険な南米航路運航の訓練やロジスティックスの研究を終えたアメリカ艦隊は、十月十日、いよいよ最重要訪問地の横浜に向けてマニラ湾を出港しました。途中、台湾沖でこれまで一度も経験したことのない激しい暴風雨に巻き込まれました。
それでも、十月十八日早朝には何事もなかったかのように白い艦隊は横浜港に姿を現わします。横浜沖では「三笠を旗艦とする接伴艦隊十六隻などが整然と待機」していました。
アメリカ海軍の主要戦艦すべてに対し、ぴたりとマークするように艦船を配置できる日本海軍の規模と操船能力。白い艦隊の将官は身震いしたに違いありません。
港には新聞社の記者や見物客を乗せた船がひしめきあい、埠頭は艦隊を一目見ようとする見物客で溢れかえっていました。港内に艦隊が入ったのは午前九時過ぎのことでした。
午後二時前、旗艦「コネチカット」から、体調不良のエバンス准将に代わって指揮を執ってきたスペリー提督が、特別に敷設された桟橋を利用して上陸してきました。
スペリー提督はグラント将軍の訪日時の随行艦に乗り組んでいましたから二度目の横浜訪問です。
P550日本はグラント将軍を迎えたときと同様に万端の準備を整えていました。周布公平神奈川県知事へのスペリー提督の表敬訪問を皮切りに、公式行事が目白押しに用意されています。
この日だけでも、知事訪問に続いて三橋信方・横浜市長主催の歓迎園遊会、夜にはグランドホテルででの市長晩餐会。それに引き続いて知事公邸の夜会までが準備されていたのです。
翌十九日には提督一行は横浜から新橋に移動し、皇居での明治天皇謁見に臨んでいます。
「日本の歓迎ぶりは尋常ではなかった。すべての将官クラスは皇居内に招かれた。館長には帝国ホテルのスイートルームが用意されていた。下士官クラスには鉄道のフリー乗車パスが配られた。(中略)
日本には一週間の滞在だったが歓迎式典の連続だった。東郷(平八郎)提督は園遊会を、桂首相は舞踏会を催してくれた。提灯行列には五万人の市民が参加した」
両国の緊張関係を固唾をのんで見つめていた欧州諸国が拍子抜けするような日本の歓待が続いたのでした。十月二十五日、白い艦隊は次の寄港地、厦門に向けて碇をあげました。
艦隊がすべての日程を終了しノーフォークに帰還したのは、年も明けた一九〇九年二月二十二日のことでした。十四ヵ月の航海で白い船体は黒ずみを見せ、乗組員は旅の疲れを隠せませんでした。
しかしこの日、ルーズベルト大統領は十四ヵ月前と同じように満面の笑みを浮かべ、「メイフラワー」号で一行を迎えました。大統領の任期は残りわずかになっていました。
任期期中に艦隊が帰還するよう海軍省に指示していたのは大統領でした。「私が大統領として世界平和に貢献したとすれば、この航海の成功がその象徴である」。任期中に艦隊の勇姿を見ることのできたルーズベルトはその喜びを身体全体で表現していました。
ルーズベルトにとって、白い艦隊の日本派遣は大きな政治的な博打でした。艦隊の派遣には不測の事態の発生も十分考えられました。
P551アメリカ海軍の水兵の素行は芳しくなく寄港地で脱艦者も相次いでいました。横浜でもそうした乗組員が出ないともかぎらず、そこで彼らが何をしでかすかしれません。
横浜港内であの「メイン」号のような事件が発生してしまえば、アメリカ国内のメディアの餌食になってしまいます。また、横浜入港後に浦賀水道を封鎖されてしまえばアメリカ海軍は壊滅します。
「大統領職を退任したルーズベルトは、ドイツ海軍大臣から米艦隊の世界周航時に日本から攻撃を受ける可能性を考慮しなかったのかを尋ねられた際、十のうち九までは攻撃を加えられるとは思わなかったが、残りの一はその可能性があった旨を語っている」
ルーズベルトの喜びは、最悪の事態を読み込んだ上で外交的なギャンブルに挑んだ政治家にしか味わうことのできないものだったに違いないないのです。
P552白い艦隊は仮想敵国日本との戦いの予行演習を無事終えました。同時にその敵国であるはずの日本では気味が悪いほどの歓迎を受けました。ポーツマス条約後に吹き荒れた反米の嵐、カリフォルニアの日本人差別に対する反感。
そうした感情はどこに消えてしまったのか。この不思議な、アンビバレントな感覚を最も敏感に感じたのは艦隊を率いたスペリー准将以下の海軍将官だったに違いありません。彼らも東京湾で海戦が勃発する可能性に一抹の危惧を抱いていたのです。
ルーズベルトが築き上げてきた日本との危うい親睦は、政治家ルーズベルトがおよそ八年の任期で完成させたガラス細工の傑作でした。艦隊旗艦の二週間後、この見事なそして悲しいほどに脆い作品は次期大統領ウィリアム・タフトに引き継がれます。
日米戦争試論
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